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梁川星巌生前に企図された最後の詞華集

『近世名家詩鈔』 安政五年刊行版

(管理人蔵)

p1 p2  p3

関重弘, 藤田龜同輯 [出版地不明] : [出版者不明]

p4 p5

巻下 末尾  /  巻上 見返し

 江湖の詩宗である星巌はもちろん『巻上』の筆頭に収録。しかしこの本、奥付を欠き、扉の版元も「誰軒蔵梓」なんて名前になってゐます。けだし、 出版計画途中に起きた安政の大獄の報せに狼狽する版元の事情を物語るものでありませう。かの大獄からしばらくは、星巌の名は世に憚られるところとなります。 その名が巻頭を飾ってるこの本、既に出来上がってしまったものは売らなくちゃならない訳で、なかば地下本のやうに売り捌かれたのかもしれません。

 結局、万延二年に後版を刷ることになった際には、何と巻頭の梁川星巌の部分を、詩篇はそっくりそのまま名前だけ弟子の「塩田随齋」に変じて刷ってしまふといふ、 (恐らくは未亡人紅蘭の許諾も得てのことと思はれるのですが、)ものすごい改変をして世に出回ることになります。当然のことながら同様の改変は、池内陶所(大学)と頼三樹三郎にも施されてゐます。 (池内陶所→北脇鴻[淡水]、頼三樹→高橋宗彰[古溪])。二年後の文久三年には『星巌先生遺稿』が刊行され、星巌の名誉は回復してゐるのですから、ともに、 謂はばお上を察すること敏感な世間の動向を徴すべき、貴重な時代の証言資料には違ひありません。汲古書院の『詞華集日本漢詩』第7巻に収められてゐる影印版は万延二年刊の後板を採用してゐるやうですが、 解題にはこの重要な事実に触れてゐないやうです。果たしてどちらの刊行部数(残存数)が多いものでせうか。

 ネット上に公開されてゐる、下の早稲田大学の蔵書には、「塩田随齋」の名の下に手書きで「星嵒なり」と訂正が記されてゐます。いつ書き込まれたものでせう。 当時売られる際には、店頭で申し伝へ位はあったかもしれませんね。 以下に早稲田図書館蔵の万延二年刊行版(右)とならべてみました。 早稲田大学古典籍総合データベースより

p6 p7

安政五年 初版 / 万延二年 再版

p8 p9
初版は「誰軒」なんて刊行元になってゐます。

p10 p11

p12 p13
巻上目録: 梁川星巌→塩田華(随齋)

p14 p15
巻上目録: 池内陶所(大学)→北脇鴻(淡水)、頼三樹→高橋宗彰(古溪)

p16 p17
巻上1丁: 梁川星巌→塩田華(随齋)

p18 p19
巻下8丁: 池内奉時(陶所)→北脇鴻(淡水)

p20 p21
巻下15丁: 頼三樹→高橋宗彰(古溪)

p22 p23
 初版には奥付がありません。

【付記】

その後、某書店でみかけた別版です。店主の許可を得て撮影、以下に異同を示します。
刊行年は文久二年(1862)。安政五年(1858)初版の4年後、万延二年(1861)後版の翌年です。中身はまだ後版を踏襲して、梁川星巌が塩田随齋に書き換へられたままですが、 版元の数が7人から10人に増へてゐます。さうしてをかしなことは、見返しに初版のものが使用されてゐることです。この事情をどう解するべきか。
「安政五年刊行」であることを再びはっきり打ち出してゐるのは、「憚り」が解けかかってゐる証拠かもしれませんし、さうは思ったものの、 何刷も終へた板木本にお金を掛けて新しい見返しを用意するまでもないと考へられたのかもしれません。見返しは色紙ではなく後刷りによくみられる本文紙に刷られてゐました。(2010.08.10update)

p24  p25

p26  p27


序文、凡例、星巌詩鈔、跋文 の鈔出

p28 p29

p30 p31

p32

p33

p34

p35

p36

p37

p38

p39 p40

p41


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