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2010年7-12月 日録掲示板 過去ログ


今年の収穫から。

 投稿者:やす  投稿日:2010年12月30日(木)13時13分47秒
  兼子蘭子『躑躅の丘の少女』平成22年 (堀辰雄に師事した閨秀作家の遺稿集。新刊)
『山中富美子詩集抄』平成21年 (新刊。また同刊行所より『新版左川ちか全詩集』平成22年。)
高島高『北方の詩』昭和13年 (ボン書店末期の刊行書。)
小林正純『温室』昭和16年 (『田舎の食卓』とはほぼ同装釘。)
頼山陽『山陽詩鈔』天保4年 (やうやく購入?)
大沼枕山『詠物詩』天保11年 (処女詩集の再刷、嘉永二年玉山堂梓行。奥付なく見返しに表示の『附 梅癡道人』一冊を欠けるか?)
宵島俊吉『惑星』大正10年 (ひととなりが伝説だった若き日の勝承夫の行跡を示した一冊。)
宮澤賢治『春と修羅』大正10年 (田村書店に格安本をお世話頂きました。)
谷崎昭男編『私の保田與重郎』平成22年 (回想文の集成。新刊)
山崎闇斎『再遊紀行』万治2年 (蔵書最古記録更新。)
村瀬藤城 "岐阜稲葉山" 掛軸 (これは郷土の御宝でせう。)
西川満『媽祖祭』昭和10年 (装釘狂詩人の精華。)
『青騎士 No.3』大正11年 (名古屋モダニズム黎明期の稀覯雑誌。)
良寛禅師座像 昭和2年 桝澤清作、相馬御風箱書 (オークションで思はぬ僥倖。)
曽根崎保太郎『戰場通信』昭和15年 (戦争文学とモダニズムとの実験的融合。)
小山正孝『愛しあふ男女』復刻版 平成22年 (原本は戦後を代表する稀覯詩集。)
金井金洞 "腹有詩書気自華"  (今は和室に掲げゐたり。)
頼山陽 "莫咲先生不解曲" 掛軸 (破格で入手できた真蹟。と思ひこんでゐる。)
小野湖山『湖山樓詩鈔』嘉永3年 (初版らしい。)
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」 (いづれ単行本になる予定も。)
河崎敬軒『驥虻日記』文政3年 (『菅茶山』を読んでたときに手に入れてゐたら…。)

読んでない本が多く著者に申し訳ない。といふか、味読できるやうに早くなりたいといふのが本音ですね。
一番嬉しかったのは勿論『春と修羅』と、それから本ではないですが
良寛禅師座像でした。

みなさま良いお年を。
 


(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2010年12月17日(金)17時14分17秒
   柳居子さま、はじめまして。
 実は山陽翁のお墓へは翌日に思ひ立ち、下調べなしに行ったものですから、牧百峰・藤井竹外先生らが眠っていらっしゃるとは知らず、一束の花を使ひまはして(汗)お祈りさせて頂いた次第です。
 林様の博覧ブログとはちがって極めて守備範囲の狭い偏屈者のサイトですが、今後とも御贔屓に頂けましたら幸甚に存じます。よろしくお願ひ申し上げます。
 

山陽、星巌両先生掃苔記

 投稿者:柳居子  投稿日:2010年12月17日(金)09時50分43秒
  『墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。』

世の中には、同じ事を考えて実行する人がいるのだと、嬉しくなりました。
林哲夫・由美子ご夫妻と昵懇にさせて頂いてます。

http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/


「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」

 投稿者:やす  投稿日:2010年12月13日(月)09時36分50秒
   林哲夫様より、この11月に終刊した文芸リトルマガジン「spin:スピン」1-8<2007.2-2010.11>を、なんと全8冊の揃ひで御恵投に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 各号に連載された「淀野隆三日記を読む」に早速目を通してをりますが、ひとへに林様の資料翻刻に係る労力が偲ばれます。自分もかつて師の創作日記に対し同じい暴露行為(?)に及んだことがあり、林様が47冊ものノートを前にした驚きと、これを活字に起こしつつ実感されたであらう、当にいま文学史的発見に唯ひとり立ち会ってゐるのだといふ感興が、びっしり埋まった誌面からは(自らの楽しかった苦労とともに)伝はってくるやうです。

 ノートの主である淀野隆三については、三好達治や梶井基次郎のパトロン的旧友、京都の商家のボンボンといふ認識しかなかったのですが、どうして、彼らと知り合ふ前の日記が赤裸々で面白い。生真面目な少年がたまさか出会ってしまった文学といふ魔性の人生指針。そのため理性と欲望は折り合ひがつかず、正義感と無力感だけがどんどんつのってゆく文学青年への転落過程が告白体で綴られてゐます。裕福で健康な少年が、花街が身近な環境で女中にかしづかれて育ったら、そりゃ純情であるだけ只では済みますまい。恵まれた者は恵まれた者なりに汚濁や坎穽に遭遇せざるを得ず、又ぬるま湯を自覚しながらそこから抜け出せぬ事情は、ひとり恋愛と性愛の二律背反にとどまらず、大正末期に興った左翼思想についても、(彼が生真面目なだけに)勝者階級に生まれた者として懊悩する己が姿をノートに叩きつけることになるのは、ある意味自然な成り行きだったかもしれません。

 そして「青空」同人からやがてプロレタリア文学〜日本浪曼派の人たちの名前まで入り混じってくる、後半に綴られた興味深い文壇模様。梶井基次郎や三好達治の才能をわがことのやうに喜ぶ友情をはじめ(彼は三好達治の結婚に際しても費用に至るまで細々と世話を焼いてゐます)、反対に 林房雄、今東光、春山行夫、室生犀星、仲町貞子等には歯に衣着せぬ言及と、日記ならではの人物月旦は一番の読ませどころと云へるでせう。当サイト関連でいへば、

「人々は幸福を奪はれて行くその状態に於ける自身の悲しさを指して、そこに唯一のレアリテを見出してゐる様になった(コギトの連中)。何といふことか?」(vol.8:84p)

 と、自ら加担した左翼文壇の潰滅時にデビューしてきた後進世代のデスパレートな心情を評してゐる一節は嬉しかったです。けだし前述の田中克己日記『夜光雲』は重要な時期である昭和 7年前半の一冊を欠いてゐるのですが、この日記群にも、彼が左翼文芸に関った昭和5〜7年当時の日々の出来事を記した日記が(破棄されたのか書かなかったのか)存在しません。いったいに彼の私生活については、父祖との対決に係る記述が全冊にちりばめられてゐるのですが、――文科への進路、芸者との恋愛と、親不幸の度に激怒した父との間にはさらに壮絶な、非合法活動にまつはる骨肉の人情ドラマが繰り広げられてゐた筈です。しかし再び付けられるやうになった日記には、以前の悩み多き青年の面影はなく、思ひがけない逮捕によって晩節を汚すこととなった父との、負ひ目ある者同士の和解が、永訣が、この連載の最後を締めくくることになりました。それによりこの目玉企画に負はされた使命の一半が、不取敢果たされたと慶んでよいものなのかどうか。経済的理由で終刊することになった雑誌を前にして、思ひは複雑です。今後さらに翻刻が続けられるのか、また単行本化やネット公開も念頭にあるのか、遺族の意向もありませうが見守りたいと思ひます。



 まだ走り読みですが、ほかには「四季」「コギト」にも寄稿されたドイツ新即物主義文学の紹介者板倉鞆音を追跡した津田京一郎氏の研究(「板倉鞆音捜索」vol.2:27-43p)に注目しました。その昔、献呈した拙詩集に対し、視力の殆ど失はれたことを一言お詫びのやうに添へて返して下さった礼状を今も大切にしてをりますが、詩人の個人研究は嚆矢にして、抄出や参考文献に至るまでまことに貴重な資料と存じました。

「日常誰もが使うごくありふれた言葉でありながら、かように組み合わされみると、所謂写生でも写実でもなくなって しまっている…(中略)…この西洋史の不思議な描写力(奇蹟)の日本語における再現を徹頭徹尾追求すること、翻訳者の任務はこれ以外にないと考えている。」(vol.2:40p)



 そのほか雑誌詳細は「daily-sumus」ブログにてご確認ください。
 ありがたうございました。

『左川ちか全詩集』新版

 投稿者:やす  投稿日:2010年12月12日(日)06時27分53秒
    さて昨年『山中富美子詩集抄』を世に問うて詩壇の話題をさらった森開社から、今年『左川ちか全詩集』の新版が、実に27年ぶりに刊行されました。内容の充実を図る一方で、愛蔵に相応しい旧版に比して軽装とすることで価格を抑へ、また別種の意が注がれてゐるやうです。個人的には贅沢を極めた旧版が今回の改訂を以て無価値にならぬやうな、編集上の配慮を同時に感じることができた点が嬉しかったのですが、久しき絶版に対する愛好家の渇望を癒すべく、限定500冊は不取敢一般書店に並べられることはなく直接購読制で売り捌かれるといふことです。その一方で、図書館員の私としては今度こそ多くの基幹公共図書館には所蔵して頂きたいとも思ってをります。言はずもがなのことですが、この詩人こそ、本を案外買はない人種であるところの書き手としての詩人、特に現代の若い表現者に対して、今なほ古びぬ、スタイリッシュな訴求力をもって迎へられるものと信じるからであります。
 もとより彼女に限らず、モダニズム詩に限って「女流」などといふジャンルは不要でありませう。むしろ戦前の日本に於いては、少々乱暴な物言ひが許されるなら、「モダニズム」といふ概念自体が「ロマン派」と対峙したところの女性的概念のやうにも私は思ってゐます。その最良の感性といふのは、理論など持たぬ優れた若い女性たちの一握りによって、いつも軽々と表現されてきたのだと、そのやうに考へてゐるわけです。これはモダニズムを抒情の方便としか考へられぬ私ならではの偏見で、同様に外国では真逆のこと――「モダニズム」を男性的概念、「ロマン派」を女性的概念と思ひなして面白がってゐるのですが、果たしてそんな自分が彼女の詩をどこまで理解してゐるのか、といふより感じることができてゐるのか、といふ段になると、それは旧版全詩集に収められた「椎の木」追悼録で田中克己先生が書いてる以上に、性差にとらはれた、甚だ心許ない解釈に落ちることを白状せぬわけにはいかないのかもしれません。
 新版刊行に寄せた一言まで。詳しい書誌と購入方法はこちらの「螺旋の器」 ブログにて。

山陽、星巌両先生掃苔記

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月29日(月)22時53分15秒
    さて当日は、朝一番の列車に駆け込み午前中に入洛、宿願だった梁川星巌先生夫妻を南禅寺天授庵に展墓、それから点々とした住居跡をうろつき回り、四季派学会の散会 の後は、古本先輩宅に一泊して、翌日曜日もふたたび長楽寺に頼山陽のお墓を憑弔て帰ってきました。 山陽先生の塋域には頼三樹、牧百峰、藤井竹外、山田翠雨、児玉旗山といった錚々たる後進の墓碑もあり、また天授庵でも星巌先生の墓が簡単には分からず探し回ったお陰で、山中信天翁夫妻のお墓にばったり行きあたり吃驚したことです。といふか、そこら中が知らない「○○先生之墓」だらけなんですから(笑)。『漢文学者総覧』でも持ってゐれば、いくらでも時間つぶしができさうな感じです。最終回を迎へたドラマ「龍馬伝」の人気も重なったか、紅葉シーズンの東山は大変な賑はひだったのですが、維新の道筋に詩の灯火を掲げた文人達のお墓には訪れるひともなく、観光客とは無縁の閑散さが却ってよかったです。

 墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。山陽墓所はわかりやすいですが、星巌翁の奥津城に案内板はありません。新しい顕彰碑が据えられた横井小楠(沼山)の墓の隣にあります。

四季派学会冬季大会 シンポジウム杉山平一を読む

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月29日(月)22時12分58秒
    週末に開催された四季派学会冬季大会、詩人杉山平一の初のシンポジウムに、先生自らが同席されるといふことで、私も万障繰り合はせて推参しました。先生の謦咳に接して大満足のところ、國中治さん舟山逸子さんをはじめ諸先輩とも久闊を叙するを得、実に楽しく有意義な一日を過ごすことができました。
 シンポジウムでの発表は、身に引き寄せた親愛に溢るる読みを披露された桜井節氏の言葉に聞き入り、気鋭の國中教授からは研究の糸口となるやうなキーワードがいくつも提示され、杉山先生御本人を前にしての臆せぬ論旨には衆目の注視が集まりました。
 ただ少なかった参加者が、折角の機会に杉山先生の周りに集まらないのは、恐縮してゐるのか、私は最後にはちゃっかり隣に座り、後悔せぬやう発言までしましたけどね、学会だからでせうか。不思議でした。
 さうしてお持ちした『夜学生』にも署名を頂きました。思へば初めてお会ひした折にサインして頂いた本も『夜学生』でしたが、当時はカバー欠・線引きの並本。この度は失礼のない本で臨みましたが、先生うっかり「昭和」と書きさうになられてわたくし狼狽(笑)。これもまたよい記念となりました。講演ほか当日の様子はいづれ論集に収められることでせう。

 役員の皆様方にはお疲れ様でした。ありがたうございました。
 


「四季派学会会報」 / 「感泣亭秋報」

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月25日(木)22時46分21秒
編集済
   國中治さまより 「四季派学会会報(平成22年冬号)」をお送り頂きました。12pの会報ですが「立原道造特集」を設け、記念館閉館にともなふ残念さ、含むところも感じられる皆さんのコメントを興味深く拝読しました。
「収蔵者が代わるということは、展示場所や展示方法が変わるだけでなく、展示品そのものが替わるということだ。(國中治)」

 また小山正見さまよりは「感泣亭秋報」第5号の寄贈を忝くいたしました。先達てお送り頂いた小山正孝の稀覯詩集『愛しあふ男女』の非売復刻版(152部限定)に寄せて、感度不足の御礼しか申し上げられず気になってをりましたところ、今号巻頭には多くの犀利にして温かい書評がおさめてあるのを拝見し、あらためて勉強させられました。といふか、恋愛詩を勉強しないとわからないやうでは四季派失格であります。傘寿・卒寿を迎へられた先輩方がものされる強記溌溂の文章にも圧倒され、転載された吾が私信のぼんくら加減には、ため息をつくばかり。
 しかも今回『愛しあふ男女』の復刻記念一色の特集号となるかと思ひきや、前号に続く回想の寄稿をはじめ、あたらしく伝記的追跡の連載も二本並んで、今までで一番濃い内容になってゐるのではないでせうか。
 渡辺俊夫氏の「立原道造を偲ぶ会当時のこと(続)」のなかでは、詩人が鈴木亨氏と麦書房の堀内達夫氏とともに尽力したといふことが記され、一方「四季派学会会報」では錦織政晴氏の文章に、記念館の立ち上げについては逆に二者が杉浦明平氏とともに躊躇の側に立ってゐたことが指摘されてゐましたから、立原道造の顕彰をめぐって識者の立場が二様にあったことを初めて知ったのでした。
 後記の最後には、正見様による「小山譚水の「盆景」の、土の部分を(土壌学の権威となった)兄正忠が、空の部分を正孝が引き継いだと言えないこともない」 といふ評言が置かれてゐました。いみじき発想に感じ入ったことです。
 まだ全てに目を通してゐませんが、とりいそぎの御礼をここにても認めます。ありがたうございました。

 さて、四季派学会冬季大会のお知らせ、もしや流れてしまったのかとも危惧してをりましたが以下のとほり、今週末に行はれる由。先日96歳を迎へられた杉山平一先生御当人をお呼びしてのシンポジウム、楽しみです。

平成22年度四季派学会冬季大会
  日時平成22年11月27日(土)13:30
  大谷大学京都本部キャンパス1号館4階1405教室

【講 演】 「杉山平一 近代を現代に繋ぐ」  詩人 安水稔和氏

【シンポジウム 杉山平一を読む】
         司会 愛知大学短期大学部  安 智史氏
《基調報告》
「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握」 「PO」編集長 佐古祐二氏
「『ぜぴゅろす』と一篇の詩「桜」」 自在舎主宰  桜井節氏
「杉山平一の「詩的小説」を読む」 大谷大学 國中 治氏



「感泣亭秋報」(五) 目次 (2010年11月)

詩 愛しあふ男女 アルバム「愛しあふ男女」より 小山正孝2p

恋愛詩のパラドックス 小山正孝第三詩集『愛しあふ男女』を読む 高橋博夫4p
逃走の行方 詩集『愛しあふ男女』のために 渡邊啓史6p
光の輸もとどまつて 西垣脩(再録)18p
小山正孝の詩世界(4) 近藤晴彦22p

感泣亭通信【感泣亭秋報への返信】(到着順) 山崎剛太郎24p 神田重幸24p 木村和24p 中嶋康博25p 組橋俊郎25p 萩原康吉26p 布川鴇26p 岩田[日明]26p 馬場晴世27p 高橋博夫27p 高橋修28p

小山さんが貫いていたもの 伊勢山峻30p

回想の小山正孝
 関東短大時代の小山先生(続) 新井悌介32p
 小山さんの激怒 岩田[日明]33p

デッサン・感泣亭 宮崎豊35p


 黒一色の部屋の中では 大坂宏子36p
 「夕方の渋谷」オマージュ 森永かず子38p
 街 里中智沙40p

「立原道造を偲ぶ会」当時のこと(続) 渡邊俊夫42p
昭和二十年代の小山正孝(1) 小山−杉浦往復書簡から 若杉美智子48p
小山正孝伝記への試み(1) 出生から高校入学まで 南雲政之50p

感泣亭アーカイヴズ便り (小山正見)54p
 

頼山陽の掛軸

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月19日(金)12時42分17秒
編集済
    日本の漢詩のトップスターといへば御存知、山陽頼襄(のぼる)先生。村瀬藤城、太乙、細香、柳溪、松陰、百峰と、主だった美濃漢詩人たちの師でもあります。かつてはその書が頗る珍重され、掛軸一本で「家が一軒建つ」と云はれた時代もあったらしい。ですから当然にせものも多い、といふか多くが贋作だと聞きます。

 もっとも今となっては好事家の代替はりに伴ひ、価値は急落。頼山陽のみならず、日本書画界、特に「書」の値段は地に落ちてしまったといってもいいかもしれません。旧い母屋の取壊しに際して「ざくざく出てくる美術品」の暴落のさまは古本の比ではなく、しかも本とは異なり価値が分からぬまま「真贋いりみだれて」放出されるといふところが恐ろしい。そもそもなに書いてあるか読める人が居らん訳です。「代替はり」とは云ひましたが、それはつまり漢学の素養がある旧家の御隠居のたしなみが孫子(まごこ)に継承されてといふことではなく、二束三文で売り払はれたのちに、縁もゆかりもない私のやうな貧乏人のコレクションに収まるといふことであって、またその条件として、閉鎖的な骨董屋の顧客市場が、豊富にオークション出品されるインターネットの市場へとひらかれ、環境が整備されたことをも意味してゐます。鑑定の権威はオークション上に成立しません。だからこそ「蔵出しのうぶ物」を、己れの責任において落札するワクワク感があるといふこともできるのでせう。

 そんなこんなで夥しく出品されてゐる「頼山陽」でありますが、筆札を鑑定玩味する審美眼は勿論のこと、確(しか)とした印譜も資金も持ちあはせのない私のことですから、落ちたといへどそこそこには競り上がる代物を、画像で判断して買ひ取る勇気がない。テレビの鑑定番組を観てゐると、実に精巧な印刷ものもあるとのことであります。

 山陽の真蹟については、一昨年すでに「自筆の法帖」と いふものを、牧百峰の跋文を信じて購入してゐます。ただ自分勝手に真蹟と思ってゐるだけで、肝心の落款がなかったため競争者も少なかったのでした。或ひはつまらぬ贋物をつかむよりはと、予めそれと銘打ってある素性の明らかな復刻ものを手に入れて喜んでゐた、のが去年の話。

 そんな私が今回色気を出してたうとう「掛軸」に手を出してしまひました。シミも折れもあったためか、敬遠して誰からも入札がなかったところを、「内容から判断して」思ひ切って初値で落札してしまったのですが、けだし贋物作者からすれば「内容から判断されるべく」本物らしく拵へるのは当たり前のことであり、詳しい印譜に照らせば真っ赤な贋作だったのかもしれません。

 で、昨晩届いたこの掛軸ですが、本人いたく喜んでをりますゆゑ、何卒冷水を浴びせるやうな証拠のコメントは御控へ頂きたく(笑)、興味のある方だけご覧ください。

daily-sumus

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月15日(月)13時03分0秒
    リ ンク集に、博覧する好奇心を以て古本情報の日録を更新してをられる林哲夫様の著名なブログ「daily-sumus デイリー・スムース」を追加させて頂きました。江戸時代には抽き書きを以て随筆と呼ぶ慣はしがありましたが、「詩・書・画」の三絶ならぬ「古書・画・装釘」三絶に遊べる古本達人の浩瀚な読書録は、すなはち現代の随筆に相違ありません。ブログを通して感じられるのは、(夙に『ちくま』表紙のお仕事にて思ったことですが)、「本」が写真で撮られたり描かれたりすることによって、著者・装釘家の思惑を越へ、「その一冊が経てきた歴史」に敬意が払はれたオブジェに化してゆくといふ魔法、その過程と意味とをまざまざと目の当たりにしたといふことでした。

 このたびのきっかけとなりました蔵書画像の転載許可も有難く、伏して感謝申し上げます。

 ちなみに以下に拝借したのは、かつて紹介した「我が愛する版型詩集」のルーツであるらしい、フランスはラ・シレーヌ社刊行本の書影。「現代の芸術と批評叢書」はここからヒントを得たんですかね。何の本かわかりませんが検索したら似たやうな当時の書影がヒットしてきたので合せてupします。

腹有詩書氣自華

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月14日(日)22時30分29秒
編集済
   わが 書斎「黄巒書屋」へ詩集気狂ひに相応しい新しい額が到着。揮毫は明治 官界の能筆家として名を馳せた金井金洞、後藤松陰に学を授かった人です。とまれ何とも嬉しい文句ではありませんか。
 もとは治平元年(1064年)蘇軾29歳の冬、地方官見習ひの任期が終はり汴京(べんけい:開封)に帰る途次、長安に立ち寄った時につくられたとされる「和董傳留別」といふ詩の一節で、不遇の旧友の奮起を願った送別の辞なんださうです。ですから「詩書」とはもちろん四書五経のことなんですが、近代詩集の書庫に掲げてもいい感じです(大ばか者です)。原詩を掲げます。


 和董傳留別    董伝の留別する(別れを告げる[詩])に和す

麤r大布裹生涯,粗r(そそう:荒絹)大布[粗末な成り]、生涯を裹(つつ)むも
腹有詩書氣自華。腹に詩書あれば気は自ら華やぐ
厭伴老儒烹瓠葉,老儒[老師]に伴ひ、瓠葉(こよう)を烹る[隠遁雌伏する:詩経]ことに厭(あ)
強隨舉子踏槐花。強いて擧子[科挙の受験生]に随ひ、槐花を踏む[槐が咲く長安へ出て勉強した]
嚢空不辨尋春馬,嚢[財布]空しく、弁ぜず[(靴も買へなかった)虞玩之のやうに買へない]、 春馬を尋ぬるも [孟郊のやうに「春風得意馬蹄疾:]とはゆかず、つまり落第して」
眼亂行看擇婿車。眼は乱して、行くゆく壻を擇ぶ車を看る[合格者の所へ婿入希望の車がおしかけるのを見る目は泳いだことだらう]
得意猶堪誇世俗,[しかし]意を得れば 猶ほ世俗に誇るに堪へん
詔黄新濕字如鴉。詔黄[黄麻紙に詔書を起草すること]新たに濕(うるほ)ひ、字は鴉の如き[黒々と立派]ならん

 
 

曽根崎保太郎詩集『戦場通信』

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月 7日(日)22時07分11秒
編集済
   むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の『昭和詩大系』シリーズもあったが、戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁の)本を見つけるたび、一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。

 なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だったから、といふだけでは当たらない。詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬なカタカナ表記の殻を被った代物である。と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての事であり、内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ審判」に於いても、判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私に
は推察されるのである。

 この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふのは、復員後の詩人は、戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機会はなく、二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。

 同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へと旋回(後退?)していった彼と比べれば、若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構してみせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざるを得なかった詩人の宿命を思ふのである。


 私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と戦後の評価が反転するなど、戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」ではさらに、「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。

 さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へた。 公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (明日upします。)

【後日記 2010.11.14】
詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。
 

有時文庫

 投稿者:やす  投稿日:2010年11月 4日(木)23時02分42秒
   近所に古くからあった古本屋さんの有時文庫の店舗が、ある日突然あとかたもなく消え去りました…。
 昨今の古書価暴落にあって、仕入本がお店中に積み上がり、終ひにはシャッター外に置き晒しになるやうになったのを見て傍目に心配してはをりましたが、もう一軒ある鯨書房と比べ、戦前資料への目配りやインターネットへの対応が遅れたのかもしれません。尤も近くに学校もあるのに、中高生が古本屋でもじもじするなんて姿も見られなくなりましたしね…。さきにレポートした新刊本屋の古本店進出と云ひ、諸行無常の世の中であります。

   

『愛しあふ男女』復刻版

 投稿者:やす  投稿日:2010年10月29日(金)09時41分45秒
編集済
   小山正見様より予告のありました、小山正孝詩集『愛し合ふ男女』復刻版の御寄贈に与りました。
 詩人にこの一冊のあること、詩集収集家の端くれとしてもちろん知ってゐたものの、私の守備範囲から外れる戦後の著作で、古書価が高額であること、そしてその原因となってゐる、挿画を描いた駒井哲郎の世界が現代美術音痴の私には理解できないこと、を以て、稀覯で著名なこの本を探し回ったことはなかったのでした。(余談ながら彌生書房の選詩集シリーズなど版型も組字も実に好ましい叢書だったので、このひとの手になる戦後民主主義的(?)な意匠には必ず手作りのカバーを被せたものでした 笑)。
 しかしいま改めて手にしてみると、サイズこそ縮小されたものの、歴史的仮名遣ひの字面をそのまま復刻。駒井氏の挿画も、19世紀ロマン派画家が好んで書いたやうな大木の写生であり、安堵したのです(笑)。書肆ユリイカの面目を施す一冊といってよいのでせう。うはさ通りノンブルがなく、1ページに一篇づつタイトルのないソネットが印刷され、おまけに無綴ですから、なるほど一度ばらけてしまへば順番がわからなくなる道理です。
 尤も爺臭くなった最近の自分には、気恥づかしい位のムードが漂ふ詩篇もあり、熱い愛の描写からことさら目をそむけ、さびしい心象描写の部分部分に、戦前の四季派らしい「手触り」を確かめやうとする自分が居て苦笑する次第。原本がもうひとまはり大きな楽譜サイズで刊行されたことを思ひ合はせ、いつしか立原道造のことも念頭にのぼってくるのでした。
 ここにても御礼を申し述べます。寔にありがたうございました。

『愛しあふ男女』復刻版 小山正孝詩 駒井哲郎画 [16枚](図版共) ; 29.7cm \非売

『漢文法基礎』復刊

 投稿者:やす  投稿日:2010年10月16日(土)21時25分26秒
編集済
   序でに漢文関係の話題ですが、かつてZ会から「らしからぬ」受験参考書として刊行され、本屋の店頭に並ぶこともなく語り継がれてきた『漢文法基礎』といふ名著。その後ながらく増刷されず、一時は3万円余の古書価がついてゐた稀覯本でしたが、このたび匿名だった著者の本名を明かし、講談社学術文庫からたうとう復刊されました。出版社を変へての復刊にあたっては、内容も大幅に改訂された由。自分用にも購入しましたが、けだしこの度の再刊は、受験生のためといふより、おそらく私のやうな生涯教育として古典にいそしみたい中高年の需要が多からうと思ふのであります。

「さて、漢文という科目は中国古典を読む学科ではない。ここのところをまちがえないようにしてほしい。あくまでも、過去の日本人が、中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験なのである 42p」

 なるほど、さうなんですね。昨今、日中間の摩擦が問題になってゐますが、つまりは漢文なんかがもっと身近になって、私たちのご先祖知識人がいったいどこからなにを受容し、咀嚼して、この誇るべき繊細な感受性と礼節とを兼ね備へた日本の国民性を培ひ、近代化のお膳立てが成ったのかといふこと、さういふ歴史を忘れ果てた末造に現在の自分たちが傲り立ってゐるといふこと。その自覚から出発しないと、「戦略的互恵関係」なんて小賢しい裏心を以てしては「良き隣人」なんかになれっこない、さう思ふ訳であります(脱線)。

 ことほど左様に、江戸時代の儒者の見解も引いて説明される憂国の参考書ですが(うそ。笑)、本書全体の三分の一強を占める「助字編」の講義には特段の裨益を蒙ってをります。初版とならべて表現改訂の痕を詮索するのも楽しいかもしれませんね。

『漢文法基礎』 講談社学術文庫 2010.10.12刊行
二畳庵主人(加地 伸行)著 : 1,733円 / 603p   ISBN : 978-4-06-292018-6

自由書房「ふるほん書店」

 投稿者:やす  投稿日:2010年10月16日(土)20時11分54秒
   岐阜の大手新刊本屋さん、自由書房の旧本店の店舗2階が、古本部として活用が始まったと聞いて、昨日「ふるほん書店」(そのまんまのネーミング。笑)に行って参りました。

 午前中に行ったのですが、すでに地元古書店主が本を抱へて精算中…。自由書房さんはわが職場図書館の納入業者でもあり、学科や授業関連の本を漁ってきましたが30冊でなんと5000円。所謂「玄い本」は尠かったのですが、ブックオフよりはるかに品揃へは充実してゐて面白い。「あんまり整理しすぎず、本の回転も速くして、“何があるのかわからない感”を大切にしたい」とは、深刻な空洞化に悩める柳ケ瀬の活性化に一肌脱いだ担当氏の弁。

 もちろん自分にも『酔古堂剣掃を読む』といふカセットテープの4本セット(定価\20,000)を\1,300で購入しました♪ おそらくは勝ち組経営者辺りを当て込んだ高額企画ものでせうが、安岡正篤といふ人はこんな声してをられたんですね。
 
 

『桃の会だより』 2号

 投稿者:やす  投稿日:2010年10月 9日(土)20時08分31秒
 

山川京子様主宰の桃 の会より本日『桃の会だより』二号(A411p)をお送り頂きました。末尾の 後藤左右吉氏による岐阜新聞記事(3/8「岐阜文芸」)、 図書館員であるにも拘らず迂闊にも見逃してをりました。

「一生涯、山川姓を貫き、若き日の夫の督励をいちずに守り続けた彼女に、私は戦中戦後を清くたくましく行きぬいた日本女性の一典型を見るようで敬服している」

といふ一節、さうして今号の巻頭に掲げられた十首のうちの一

「身は老いて心をさなくとほき日の面影若き人おもひをり」

といふ歌に感じ入ってをります。

思ふに現役の文学者で私が尊敬申し上げるの は、杉山平一、山川京子のお二人だけとなりました。伝統を新たにする戦前の抒情を、敗戦後に嘗め来った辛酸の痕と共に、両つながら身に帯びられて、今日どんなちょっとした発言にも、おのづからの重みが感じられる懐かしいお人柄…といふのは、もうこの御二方よりほか思ひ浮かばない。これははっきり申し上げて置くのがいいと思ひ、記します。

とりいそぎここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 

『朔』169号・『季』93号

 投稿者:やす  投稿日:2010年10月 7日(木)21時50分1秒
編集済
   四季派学会大会として杉山平一先生のシンポジウムが今秋、大 谷大学で行はれるらしい。先日ちょうど杉山先生にまつはる思ひ出を八戸の同人誌『朔』に寄稿させて頂いたばかりだったので(次号刊行後にupします)、折も折、慶賀に堪へないことと喜んでゐる。

 初めてお会ひしたのは四半世紀ちかく前、先生には既に古稀を越えてをられた計算である。当時歴史的仮名遣ひで詩を書く私のことを老人だと思って吃驚なさったらしい。同人誌の先輩だった舟山逸子さんから、あなたも青年というより少年の印象でしたから、といふ感想を頂き、実年齢以上のギャップがさらにあったこと、まことに狭量だったに違ひない吾が詩的生活の実態を後悔のなかに懐かしんだ。

 まもなく御歳96歳の先生には、車椅子を使用されるやうになったと聞くが、出席された会の発表をメモに取り、即座に要旨をまとめて総評を賜ふなど、矍鑠たる面目は今なほ健在の由。思ひ出話を良い気になって書き記したことに冷汗を流してゐる。直接拝謁してお詫び申し上げなくてはならないが、催しの正式な日時と内容が確定してをらず、職場の行事と重なることを心配してゐる。

 圓子様よりお送り頂いた『朔』169号には、他にも、詩人小山正孝を回想する令室常子様の連載が今回も快調である。こちらは私とは反対に、読む人をして驚歎せしむる若々しい心映えと御歳とのギャップに、やっぱり羨望を禁じ得ない。「やっぱり羨望」と云ったのは、言ふまでもない、自分の場合は四季派の殻に閉ぢこもり偏狭一徹で押し通すことができた恐いもの知らずの若さに対して、である。

 また手紙とは別に舟山様からは、現在の『季』(93号)もお送り頂いてゐる。杉山先生の最初の教へ子でいらした備前芳子さんの追悼号として、先生を始めほとんどの同人から、生涯にたった一冊『缺席』といふ名の詩集を遺した詩人の人となりに懐旧の情が寄せられた。詩人冥利・同人冥利を感ずるとともに、さすがアタマ員だけ擁してゐる雑誌の多くとは一線を画す、温雅にして守るところ固い、四季派直系の同人誌の面目と意義に出会った気がして心が洗はれた。

 ともに遅まきながら茲におきましても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』171号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載12回

 投稿者:やす  投稿日:2010年 9月28日(火)19時48分57秒
   手皮小四郎様より『菱』171号をお送り頂きました。詩人荘原照子の伝記は昭和8年3月より始まる『椎の木』同人時代、いよいよモダニズム詩人として面目一新です。 山口から横浜に拠点を移した荘原家の背景と、生活の意義そのものが詩作へと先鋭化してゆく詩人の様子が描かれてゆくのですが、モダニズムといふトップモードにギアチェンジするにあたっては、まるで似つかはしくない自暴自棄と呼んでよいやうな「デスパレートな環境」がいくつか与ってゐたやうです。

 まづは腸結核に侵され、子供たちとも引き離されて、妻でも母でもない一人の孤独な女として、母と二人きりで営むこととなった闘病生活。そしてそれに複雑に絡むこととなる「新しすぎる詩人達」との交流。また四六時中鳴り渡る製氷工場の騒音。・・・騒音なんて外的要因も、言ってしまへばそれまでですが、逃げ隠れできない状況下では神経も異様に研がれて鋭くなってゆくものです。私も田舎から上京して(今なら低周波といふのでせうが)隣や階下のモーター音に悩まされ、人からみたら些細なことですが、詩的人格形成においても無視できない影響を受けたのでとてもよく分かるのですが(笑)、騒音が自分を駆り立てたのか、詩を書くやうになったから過敏になったのかは今思ふと不明です。

 さて、腸結核の「痛み止め」として劇薬を使用せざるを得ぬやうになった彼女のことを「万病の問屋」と呼び、母娘の生活を脅かしていった悪人物といふのが、前回「あるアヘン中毒の詩人」として謎を掛けられた、自らも壮絶な人生の真っ只中にゐた平野威馬雄であったと云ひます。さらに詩人の間では新即物主義の紹介で有名な笹沢美明も、穀潰しの高等遊民として、その立派な新築の洋館は「食い詰め詩人の溜り場」となってゐた由、そして図らずも彼らとの交流の因となったのが、一歳年長の先輩詩人、高柳奈美(後年の乾直恵夫人)であったとのことで、詩人の曰く、

 詩人仲間からも、誰があの放蕩詩人に荘原を引き合わせたかと問題になり、高柳が「荘原さんと笹沢さんが親しくなって噂が立つようになったらいけないと思い、平野さんを紹介した」・・・「責任を取って詩を書くのを止める」と言うので、その必要はないと答えた・・・。

  聞き書きといふ一方的な証言を、手皮さんは「どこがホントで作り話か判然しないことを語って僕を煙に巻いていた。」などと、度々勘ぐったり意地悪く突き放してみせることで、出来る限りの記述の偏りを戒めるべく努めてはゐますが、もう十分ショッキングです。それでも私にすれば、

 後に、本当は『四季』に入りたかった、『四季』からも誘われた、と浮ついた物言いをしたことがあった。

  なんていふ条りには(当然ですが)うれしい驚きが走りました。当時マダムブランシュの同人でもあった田中克己が、『四季』の編集同人となった折にでも、勧誘の打診がなされた可能性は充分あり得たことですから。戦前の詩人の交流証言には驚くことが多いですが、今回の取り合はせは初耳でなんだか新鮮です。

 これまでの叙述の進め方だった、詩篇からメタファーとしての生活の影を炙り出してゆく手法が、ここにきて難しくなってきたのは、韜晦を常とするモダニズム手法の結果として仕方ないことかもしれません。その分、生活の糧を頼った長兄の周辺に対する綿密な調査を行ひ、聞き書きの言ひなりになることを警戒し、絶えず平行して背景が固められゐます。次回も引き続いて『椎の木』同人時代が語られる予定。何卒ご健筆をお祈り申し上げますとともに、ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』171号 2010.10.1発行 500円
問合せ 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会

良寛禅師坐像

 投稿者:やす  投稿日:2010年 9月21日(火)22時17分38秒
   今月は出張で新潟県の出雲崎へ立ち寄ることを得、そのとき良寛堂で伏し拝んだ禅師の座像、これとよく似た小さなブロンズを、なんと偶然にも帰還してから入手するといふ僥倖に与りました。今夕到着、抃舞雀躍。今の私には余りある慰めです。
 けだし近代詩においては宮澤賢治、江戸漢詩においては良寛。この御両人は、大乗と小乗と立場は違へど御仏の所縁深く、地域や政治の垣根を越えて広く民衆に親しまれてゐる点では正に日本を代表する詩人と呼んでもよいかもしれません。今年は、3月に宿願だった『春と修羅』の初版本を手に入れ、守備範囲の狭い詩集コレクターとしては、寔にお粗末ながら「ささやかな頂き」に立った思ひを深くしたのですが、以後身辺もそれに呼応するやうに、収集熱から解き放たれるべく色々の運気が移動してゐる気配がするのは不思議です。
 此度、箱書きもゆかしき良寛禅師の銅像を手に入れることができたのは、格別の御縁と信じるところです。それを肝に銘じ、昔の詩人の素懐を探るべく、さらなる精進に勤しみたい。皆様には長い目でお見守り頂けましたら幸甚です。感謝と合掌。                              宮沢賢治の祥月命日にしるす

『江馬細香―化政期の女流詩人』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 8月31日(火)12時22分10秒
編集済
   先週末の出来事より。私には悪いニュースと良いニュースがいつも一緒に齎される運命があるやうです。

 まづは悪い方から。
●楽しみにしてゐた扶桑書房の「近代詩集特集」の古書目録ですが、「今回は送れない」旨の手紙とともに代金を返されてしまひました。恐ろしいものが届いたと思ひました。  文面によると、旧蔵者と私との関係を知ってゐるので、そして目録についてまだ見ぬうちから古書店の思惑を勝手に忖度してコメントしたことが、ダブルで障ったやうです。(半ばは宣伝にもなればと思って書いたことだったのですが。…だって出る前に宣伝すればライバルが増へるだけですからね。) 手紙通りなら、私は石神井書林に続きこの本屋さんとも縁が切れてしまっても仕方のない愚か者なのに違ひありません。近代文学詩書を殆ど買はなくなったのですから、古書店に対する「いい気なコメント」は今後、ますます自重したいと思ひます。

 次にうれしい(ありがたい)話題を。
○相互リンクの小山正見さまの感泣亭ブログにて拙サイトの御紹介に与りました。ありがたうございました。

○門玲子氏の江馬細香評伝『江馬細香―化政期の女流詩人』、巻頭に吉川幸次郎の感想(書簡)を付して新装再刊されました。(写真は初版、再版、新装再刊)
 戦前すでに、漢文に対する学者の態度が世代で異なってゐることを示す、序跋中の二ヶ所について少しだけ引かせて頂きます。伊藤信先生(明治20年生)より一回り以上若い吉川博士(明治37年生)以降の世代から、斯界の研究は江戸時代以来の訓読と決別し、漢文を中国語として研究する態度がスタンダードになったやうです。けだし修身が義務教育科目だった時代に育ったエリート博士達にとって、訓読に染みついた儒教的精神主義には辟易すると同時に、日本から全くそれが喪はれるなんてことも、予想できなかったことでありませう。今にしてその大切さも見直されてゐますが、門玲子氏は30年前の執筆当時、自らを一介の主婦と謙遜されつつ、本場漢詩研究からも近世文学研究からも忘れられた伝統文学の大切さを、女流文学史の証しを立てるために力説、尽力され、なにより晩年の吉川博士がこれを嘉し、読後感に認め感嘆して下さったことに、万感の想ひを述べてをられます。

『江馬細香』読後(吉川幸次郎)より。
(前略)実は私は日本人の漢詩文は
「紫の朱を奪う(※論語)」ものゆえ純粋の漢語に習わんには妨げなり、初学は一切目にするなという教育を京都大学にて受けました為に本邦儒先の業には一向に不案内。もっとも近ごろはよる年波と共に気が弱くなり伊物二氏(※伊藤仁斎と物徂来)に就きましては柳か述作もしましたが、幕末の諸賢に就ては山陽星巌をも含めて不相変の不勉強。(後略)  ※やす注

跋文(門玲子)より。
(前略)次に私が熟読したのは、伊藤信著『細香と紅蘭』(昭和44年、矢橋龍吉発行)という私家版の一冊です。伊藤信という方は大正・昭和初期に大垣地方で国語・漢文の教師を勤めた人です。中国文学者というより、日本古来の漢学老の流れを汲む儒老というに相応しい存在です。その著書は、江馬細香や梁川星巌・紅蘭夫妻の業績を、郷土の先賢として深い敬意をもって祖述しております。記述は古風ですが、先人の業績・生き方に真正面から誠実に向き合っており、私はこの著書からどんなに多くのことを学んだか測りしれません。こうして私は江馬細香の世界に没入していきました。(後略)


○さて本 日は田中克己先生(明治44年生)の生誕日、来年は愈々百周年です。さういへば東洋史を専攻し李白・杜甫・白楽天・蘇東坡について評伝を書かれた先生にも、江戸時代の儒者について考察した文章は遺されてゐません。お宅へ通ひつめてゐた当時、も少しこんな話をしてみたかったです…。


扶桑書房古書目録(日本古書通信より)

 投稿者:やす  投稿日:2010年 8月20日(金)12時26分0秒
   以前予告のあった「近代詩集特集」。さる蔵書家さんからの一括売り建てが元になってゐるらしい。彼とは過去に貴重な詩集のやりとりをさせて頂いた。
目も眩むやうな書庫も拝見してゐるから、もし売りに出されたとして欲しい本は決まってゐるのだが、買へるだらうか。
目録を手にする時間も、手にしてみるだらう値段も、予想するだに恐ろしい(笑)。
とまれ、まずは注文、目録を。

 また加藤仁様より貴重な地元詩誌『牧人 (1928.1多治見)』『青騎士3号(1922.11名古屋)』をお送り頂きました。ともに戦前の石川県詩人、棚木一良氏旧蔵書とのこと、『青騎士』には彼の詩集『伎藝天女』の表題詩編の草稿と思しき書込みや紙片も残されてをりましたので合はせて公開いたします。
 ここにても謹んで御礼を申し上げます。ありがたうございました。

熱血の詩人−桜岡孝治

 投稿者:やす  投稿日:2010年 8月20日(金)00時47分59秒
編集済
   詩集『東望』は店頭で見つけ中身を読んで買った。覚えをみると22年前のことである。表題の「柳―東望」といふ詩にしびれた。

 柳 ―― 東望

一株の老柳あり
かたはら
土堤に程近き井の傍に立ち
東望のわが目を休ましむ
夏雲湧き立つ日も
吹雪枯枝を鳴らす時も
わが心その柳と共にあり

風に靡き
雨にうたれたり

春日 芽ぐみしその柳を
村人 来りて丁々と斧断せり
以来 東望するわが目は
穂麦の野をさまよひて
とどめあへず
           (昭和十六年四月 河南省彰徳飛行場にて)


 この詩人、只者でないと思ったら、伊東静雄の手紙に出てくるひとであることがわかったが、もとは太宰治に師事、そして山岸外史とは愛憎の深い関係にある後輩小説家であったこと、そして林富士馬・山川弘至とならんで『まほろば叢書』の著者の一人であったことなどは、長らく知らずにゐた。このたび『評伝・山岸外史』の著者、池内規行様より雑誌『北方人』14号をお送り頂き、この桜岡孝治といふ作家詩人の貴重なインタビューテープを起こした証言をもとに、「熱血詩人」のプロフィールや師であった太宰治・山岸外史にまつはる回想に接するを得た。山岸外史との絡みが激しく詳しく書かれてゐるのは、テープがもともと池内氏の山岸外史調査の過程で残されたものだからであらう。その成果は十二分に『評伝・山岸外史』のなかに活かされてゐる。今回、初耳に属することだけでなく、語り口から詩人の人となりまで窺はれる好内容となってゐるのは、肉声テープの威力であるとともに、やはりこの詩人と山岸外史が生半の関係でないからであるのは云ふまでもない。長尺のインタビューは、まさに文学史の裏側をかいま見る逸話に満ちたフィールドワークの賜物と思はれた。

 太宰治が船橋でパピナールに毒され淪落の淵に沈んでゐた頃、文壇の先輩である井伏鱒二が「悪いとりまき連中がゐる」と言ってたいへん生活を心配してゐたといふ。結局精神病院に叩き込まれたり再婚させられたりすることになるのだが、指弾されてゐるのが具体的にいったい誰のことを指すのか、私は井伏のいふ所謂「とりまき連」からの証言を、その後の「鎌瀧時代」に密接だったコギト同人、長尾良が書いた『太宰治』といふ本しか読んだことがないので、よくわからなかった。それが主にこの桜岡孝治をはじめとする、太宰とともに山岸外史をも戴いてゐた後輩文学青年たちを指してのことであるらしい事が、まずこの聞き書きからは察せられるのであった。しかし物事は一方からの描写では(それも片方に圧倒的な発言力がある場合には)わからぬもので、当事者の不良文学青年側からの証言が、いたく真っ当なのを面白く思って聞いた(読んだ)のである。もっとも桜岡孝治といふひとは、礼儀に厳しい伊東静雄に助言を仰いだロマン派詩人でもあり、含羞すれど甘えは嫌ひで、戦争中は模範的軍人として(尤も模範でなくては当時本など刊行できまいが)、また戦後は養鶏事業を興し世俗的成功も収めてゐる。所謂頭でっかちの青二才文士とは範疇を異にする人である。むしろ10歳年長ながら、頭でっかち山岸先輩のド外れた非常識振りに苦言を呈しすぎ、たうとう絶縁破門された人物なのである。山岸夫人の評価も真っ向対立する二人として、連載前回の川添一郎に配するに、まことに好対照の人選とも思はれたことであった。

 今回は、池内氏が『評伝・山岸外史』のなかで披露できなかった山岸外史に関するエピソードが、桜岡氏の口吻を以ってそのまま再現されてをり、貴重、といふか面白いといふか、ここまで書いて大丈夫か、でも事実なのだから仕方がない、といった感じの叙述でふんだんに楽しめる内容となってゐる。「青い花の会」で萩原葉子が髪の毛つかんでぶんなぐられた、ぶんなぐった男が山岸外史の家の玄関にふんぞり返って寝てゐる所をバケツの水浴びせかけてやったら夫人に怒られた、なんていふ武勇伝は、やはり「老いらくの恋」に関することだらうか。桜桃忌で禅林寺の鐘をガンガン突きまくるやうな荒事を敢へてやってのける山岸外史も、こればかりは「元寇」と呼んで記憶に焼きついてゐたのだといふ。桜岡氏はそんな彼について、

「政治性とか人におもねるところがない。書いたもので来いというのが真骨頂、良くいえば純粋、悪くいえば世渡りがへた。あれだけの人だから文学評論など、だれについてでも何についてでも書ける。政治論だって書ける。時流に外れるように外れるように、自分から仕向けていったところが多分にある。18p」
「火のような、空気の希薄な高い山で叫んでいるような、それこそ縄を帯にして荒野に呼ばわる者というところが多分にある20p」


 と分析してゐる。いみじき理解者ならではの言葉だと思った。たしかに彼が政治(共産党)に求めたものは彼の非政治性によって全く裏切られたし、外史氏曰く人物評の面白さもちょっと比類がない。四季派の詩人たちとも関はりは深いが、エピソードから闊達に斬り込んで人物の本質を突いてゆく手法は、敢へて探すなら草野心平と双璧をなすものであらう。しかし縄を帯にして荒野に喚ばふといふことなら、桜岡氏いふところのモーゼやキリストより、むしろ屈原のやうな東洋の欝屈詩人の面影の方が近しい感じもする。
 いったいに、所謂雑誌名としてでない現象としての「日本浪曼派」といふのは、政治的思想的には保田與重郎ひとりを血祭りにあげて象徴に据える一方で、文学論にひっかからないイメージの出所といふのは、多分にこの山岸外史の風貌から態度から、信条に殉じて老残に至るまで、一切駆引きのなかった奇特な人生の、「見栄え」や「居直り」に由るところが大きかったのではないかと私は思ってゐる。さうして若き日の彼から薫陶を受けた後輩たちが、「サムライ(無頼)文士」=「(井伏鱒二から見た)悪いとりまき連」といふイメージを引っ被ったまま、太宰治が雑誌「日本浪曼派」の同人だったことが経歴上、なにか一種の被害者だったやうなイメージを世間に植え付
けるに大いに与ってゐる、不当に与ってゐる、そのやうにも思はれてならないのである。
 桜岡氏が力説し、池内氏が提示してこられた「山岸外史を太宰治から切り離し、試しに彼を中心に眺めた時にひろがる文学史的眺望」から見えてくる景物といふのは、恐らく彼が書く人物評のやうに、書いたもので掛ってこいと云ひつつ人物本位の血のぬくもりを探し求めるやうな、いかにも熱血ロマン的評価に彩られたものとなるのであらう。文学史の裏側といふより、かいなでの文学史のすぐ下に、今は名前も埋もれようとしてゐる、かうした人達が渦巻く評価未定の人脈世界(ネットワーク)があること、それが文学の現場なんだよといふことに、このインタビューは気づかせてくれる。

 「大柄な体格で黒縁めがねに色浅黒く、声高に話すエネルギッシュで情熱的」。盟友林富士馬とも何度か絶交状態になったといふが、ともに市井に隠れたる虎と呼んで差し支へないのだらう。むしろ江戸っ子気質で荒削りの人間味は、彼の上手を行ってゐるかもしれない。脇役たる証言者としてでなく、「東望」「夕陽の中の白い犬」を始めとする優れた戦争詩を書き得たこの詩人について、池内氏が補足して語るところに従って云へば、詩集の背景となった当時の思ひ出に、「毛六」といふやうな陰惨なエピソードが焼きついてゐることを知って、私は驚いた。


「すなわち河南省彰徳飛行場の格納庫の羽目板のトタン泥棒の毛六を捕えた桜岡上等兵は、盗んだトタンの代金のかわりに一カ月間、部隊の炊事場と風呂焚きの労働で放免する約束が中隊長の命令で破られ、銃剣術の刺突訓練の生きた標的として使われることを知り、中隊長に抗議にいくが無視され、毛六は結局殺されてしまう。27-28p」

 戦後になって、一編の小説に書いてわだかまる思ひ出を吐き出した詩人であったが、このエピソード紹介の後に、「兵隊と水牛の仔」といふ愛らしい短い詩を引き、池内氏は今回の稿を擱筆してゐる。余白の関係もあったらうが、詩集中にはなほ「小盗児」のやうな、この事件に脚色を加へたかにみえる詩もあり、「石門をよぎりて」の一節

(前略)

ああ それよりも飛行場の
一隅のかのひともとの木の墓は
朝夕に花捧ぐるひとありやなし
申しおくらざれば草生ひて
見えわかずなるものを

わが心 なほ動かねど
汽車は早や飛び去りて
今とどろ沱河渡りぬ
沿線の棉の花 ほつほつ開き
みのりよき粟の穂は深く垂れ
わがこころまた深く垂れたり
             (昭和16年8月4日京漢線車中にて)


 などは、直裁にその「事件」を踏まへたものなのかもしれないと私は思った。引き続き軍務にあった当事者の表現の限界をいふより、むしろその当時に、こんなにしてでも記さずにはをれなかった詩人の心情を、あらためて詩集を繙きながら憶測を以って各所に認め得た次第である。詩集『東望』カバーの暗い鉄色の意匠(阿部合成装釘)は、そんな詩人の内省的な、孤独に向き合ふ姿を、一羽の鷲に象り映して出色のものと思はれる。サイト内に紹介してあるので一見されたい。

『北方人』14号 2010.8.1北方文学研究会発行 \400 問合せ先 (kozo818kotani[アットマーク]yahoo.co.jp )
  内容:随想/熱血の詩人−桜岡孝治さんのこと― 池内規行(8−28) ほか


【追伸】
 池内様にはこの場にても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。
 また詩人に宛てた伊東静雄や太宰治からの手紙の一部は、幸ひにも現在のところ玉英堂書店サイト内に写真で確認することができるやうです。

『桃の会だより』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 7月23日(金)22時16分57秒
   山川 京子様より、『桃の会だより』一号をお送りいただきました。『桃』終 刊記念の歌会の様子を 伝へる文章を読みながら、なにか終刊といふより、何周年かを記念する仕切り直しのやうにも思はれてならないことでした。懇親会もまた松本健一先生や保田與重郎未亡人典子様の来賓を得て盛会となりました由、お慶び申し上げます。
 体裁を改めての機関紙創刊ともいふべき、このたびの『桃の会だより』ですが、活発な歌会報告を収めた内容に驚いてをります。このうへは、京子様にも御身体なにより御自愛頂いて、引き続き会の中心から目配りのゆきとどいた御指導をして頂かなくてはなりません。同人諸氏の希望を誌面から確と感じました。

 また小山正見様よりも、某個人誌の回送を忝く致しました。連載が一冊にまとまるのが楽しみです。

 ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

詩集『媽祖祭』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 7月18日(日)01時17分29秒
編集済
   ひさ しぶりにドキッとする装釘の詩集が本屋さんから送られてきました。戦 前の台湾詩壇の第一人 者にして、凝りに凝った造本にエキゾチックな己が詩篇を刻んで世に送り続け、コレクター泣かせの詩人とも呼ばれた西川満。その彼が内地詩壇へ放った、実質的な処女詩集といっていい『媽祖祭』(昭和十年)といふ稀覯本です。別刷宣伝文のなかで長文の激賞を寄せてゐるのは、どことなく詩語の畳みかけ方が似てゐる「椎の木」の詩友高祖保。そして詩人のみならず、アオイ書房、野田書房、版画荘などプライベートプレスの主人や、恩地孝四郎、川上澄生といった装幀家からの言葉を珍重してゐるのは、此の人らしいディレッタンチズムの表明でありませう。内容も装釘も台湾趣味をふんだんに盛り込んだ彼の高踏的なスタイルは、早稲田人脈の先輩、日夏耿之介や台北在住の矢野峰人に好意を以て迎へられるところとなり、家産にも支へられた文学活動は、戦後に至って「日本統治下台湾文芸」の功罪そのもののやうに論はれてゐるさうです。
 育ちの良い耽美的な姿勢が非難されるのは、品性を欠く逆恨みによる政治的な復讐にすぎません。外地において地方主義の立場でペンを執り続けた彼のことを「所詮植民地主義に過ぎない」と片づけることが、いかに人情を弁へぬ非文学的態度であるかは、却って彼が、皇国詩人のレッテルを貼られた山川弘至の遺稿詩集『やまかは』のために草した至醇の跋文を読んだら分かるでありませう。軍務の寸暇を惜しんでやってきた後輩詩人を、戦後になって愛しむその人柄に混ぜ物はありますまい。
若き日の田中克己も、学生時代に敢行した台湾旅行を偲ばせる彼の詩集には、おそらく一目置いてゐたと思はれます。名にし負ふ稀覯詩集の眼福に浴したいと念ってゐたところ、このたびあっけなく手に入ってしまひました。「詩集目録index」に書影をupしましたので御覧ください


立原道造記念館の休館に寄す

 投稿者:やす  投稿日:2010年 7月16日(金)08時02分39秒
 

 立原道造記念館が今秋にも休館するさうです。さきに資産家の理事長が亡くなり財政的な後ろ楯を失った後、このたびまた館のシンボルであった堀多恵子氏を喪ったことが、一大痛惜事であったとともに、もはや赤字経営に見切りをつける良い潮時と判断されたのは、一面やむをえぬことのやうに思はれます。

 ここが公の施設でないことは特筆に値すべきことでした。企画から運営まで一手に担ってこられた館長代理、宮本則子氏のボランティア精神に支へられて成り立ってゐた、私立の文学館です。私もそもそも出会ひのはじまりは、古本屋の目録から注文した2冊の詩集を脅かされてとりあげられた「事件」にあったのですが(過去ログ参照)、 この十年余り、たびたび催し物の御案内や図録を頂いたり、展示の裏側も間近に拝見させて頂き、四季派詩人を主題に据える唯一の文学館として信頼もしてをりました。何の手落ちなく購入した詩集を私が古書店に返品したのも、氏が館の名前を出して説得されたからで、開館間もない頃のことでしたが、ここが社会的権威を保証する公器の文学館であることを信じてをりました。

 館の広報サイト上では、掲載画像の解像度を故意に荒くしてゐることを聞きましたが、来館を念頭に置いた措置だったことでありませう。しかしながら経営難〜休館の話を聞けば複雑な気持です。今後は非営利の顕彰趣旨にたちかへり、貴重な資料のアーカイブ画像公開にもひろく協力されることを希望してやみません。さしづめ本サイト関連で申し上げるなら、館報第48号に紹介された「田中克己宛立原道造書簡」などは、この先どんな風に「お蔵入り」してしまふのか心配です。田中先生の教へ子だった方からの寄贈品の由ですが、私は現物の拝見はおろか、寄贈の事実も知らせて頂けませんでした。ホームページをチェックしなかった自分が悪いのですが、先日遅まきながらこの存在を知り、メールで問合せたところ、館報に掲載された封筒の写真さへ著作権を以て拙掲示板での紹介を丁重に断られた次第。けだし管理人の不徳が齎した結果なのでせうが、残念でなりません。

 私設ホームページである本サイトも、扱ふ「ブツ」といっては画像とテキストだけでありますが、多くの人々から頂いた善意の情報の集積は、某かの形で次代に受け渡してゆく必要がありませう。他人事に思はれぬ気もし、今後のなりゆきを注視したいと思ひます。

 


収集本報告など。

 投稿者:やす  投稿日:2010年 7月15日(木)12時02分52秒
   まづは頼山陽の詩集。幕末〜明治にかけて実に夥しく刊行されてゐると思ってゐましたが、調べてみるとほとんどが後藤松陰が校訂した『山陽詩鈔』初版のバリエーションのやうです。注を付して補強したものといっては、

『山陽詩註』燕石陳人註 ; 銕齋漫士増校 耕讀荘藏 明治2年, , 8冊, 19m
『山陽詩解』根津全孝解 ; 杉山鷄兒閲 永尾銀次郎 明治11年, , 3冊, 19cm
『山陽詩鈔集解』頼襄子成著 ; 三宅觀集解 佐々木惣四郎 明治14年, , 4冊, 26cm

 の三種ほどになるらしい。
 このうち「三宅觀」は美濃加納藩の三宅樅台の手になるもので、小原鉄心が序を、森春濤が跋を書いてゐます(書き下し準備中)。また「銕齋漫士」は若き日の富岡鉄齋であり、8冊中前半4冊に関係してゐるやうです。知らない人が多いのか、手の出る値段で求められましたが、もちろん註も漢文。おいそれと中身に手が出ぬことが情けない。

 次に梁川星巌の詩集。といってもこちらはアンソロジー。『[元号]何十何家絶句』などといふ名前で、これまた実に夥しく刊行されてゐますが、今回入手したのは生前最後に企図された『近世名家詩鈔』。刊行された安政5年は、正に大獄の始まった年です。その辺の事情を、早稲田大学図書館所蔵の万延2年刊行「再版」の画像と並べて比較してみました。興味のある方は【濃山群峰 古典郷土詩の窓】梁川星巌の項より御覧ください。


御礼三誌

 投稿者:やす  投稿日:2010年 7月 6日(火)12時25分49秒
編集済
  『朔』168号
 圓子哲雄様より『朔』168号をお送り頂きました。
 小山正孝夫人、常子様の回想エッセイ「人言秋悲春更悲」は、今回なかなか書きづらい消息、大学勤務時代の逸話の数々を明かされてゐて興味深く拝読。いったいに四季派の詩人たちは戦後、女子大や短大に赴任した人が多かったやうですが、皆さん当時は三十代の男盛りだった筈。しかも堀辰雄文学の薫染を蒙った抒情詩人な訳ですから、教養と学歴の向上が謳はれた文学部隆盛の時代、女子学生にもてない道理はございません。わが師でさへ修羅場もあったやに仄聞してをりますし(笑)、全幅の信頼をもって記されるも、当時の奥様にはさうさう心中おだやかな日ばかりではあり得なかったでありませう。
  潮流社にも色紙が懸かってゐました、詩人のお気に入りの言葉「人言秋悲春更悲」。なにかしら堀辰雄が好きだった「一身憔悴対花眠」といふ詩句の一節にもかよふ気がします。さうしてこの「花」の原義が元来妓女を意味するところであったことを思ふと、今回常子様がタイトルに掲げられた「春」も、蘇軾の詩句や詩人の思惑を離れ、また別の趣きの深くも感ぜられるところではないでせうか。


『菱』170号
 手皮小四郎様より『菱』170号をお送り頂きました。連載、モダニズム詩人荘原照子の伝記ですが、このたびは昭和7年から8年、金沢から上京ののち家族が瓦解してゆく足取りを辿ります。当人にとって最もデリケートな思ひ出に属してゐることから、この頃の具体的な「聞き書き」が少なくなるのは仕方ありません。その代はり、詩篇の描写を手掛かりにした手皮様の実地踏査が功を奏した回といってよいでせう。
 新宿「希望社寄宿舎」での生活で体を壊した彼女は、僅か三月ばかりで母親と長兄の住まふ横浜へ引き取られてゆくのですが、夫君峠田頼吉との別居が子供たちとの別れともなった事情、夫婦間のことは分からぬながら、母親失格といふより、やはり手皮様が案ぜられる結核の疑ひなど、子供たちへの配慮もあったのかもしれません。
 佳人の面影を伝へる肖像写真(『詩人時代』昭和8年1月号掲載)も紹介され、最後には「あるアヘン中毒の詩人」が詩人の「落魄の住家」に「足繁く通ふ」との謎の予告を以て終はる今回。次回はいよいよ「『椎の木』のころ」であります。詩中の描写を実生活に当て嵌める推論は、これまでのところまことに鮮やかに成功してゐますが、今回の『詩人時代』寄稿時代を最後に、独り身となった詩人はモダニズムの自由奔放な世界に傾斜してゆきます。韜晦もはげしくなれば、物証なき付会となり困難を極めませう。聞き書きとフィールドワークがものを云ふところ、それらを経糸と緯糸のやうに織り進んでゆく手皮様の手際が俟たれます。


『四季派学会会報』
 あはせて國中治先生よりお送り頂きました『四季派学会会報』。文中の「ほめ殺し」には冷汗が出ました。先生何卒ご勘弁を(笑)。富田晴美様が刊行された『躑躅の丘の少女』に係はり、私は仕事上「四季」掲載ページのコピーをお送りしただけで、尽力したなどとは赧顔の至りです。四季派学会に対しても、抒情詩が学問対象となることに馴染めず、早々に会員の籍を抜いて「院外団」を決め込んでしまった、裏切り者であります。ひとこと訂正まで。


 みなさま、まことにありがたうございます。ここにても厚くお礼を申し上げます。

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