2010.11.08up / 2022.06.29update
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そねざき やすたろう【曽根崎保太郎(鈴木 保)】(1914 〜 1997.4.16)


戦場通信

詩集『戰場通信』

曽根崎保太郎 第一詩集

昭和15年10月15日 レオパアル・クラブ(甲府)刊

18.8×12.9cm 並製  \2.00

限定120部 (翌昭和16年に2版あり)


国立国会図書館所蔵


p3 p2 p1
挿絵/扉/見返し

 
洋上記/出発/題詞

 
戦線/洋上記3洋上記2

 
黒イ喇叭/射手/陣

 
戦場通信2/戦場通信/S渡河戦

 
戦場通信5/戦場通信4/戦場通信3

 
密義/刃/戦場通信6

 
病院船/濠/希望

 
命令/月夜/手入・勝利ノ動脈

 
評判ナ戦区/安穏/前夜

 
ノオト11/ノオト6-10/ノオト1-5

 
花虻/警備通信/秋

 
戦死・修水戦3/修水戦2/修水戦

 
見舞状/聡明ナ種子2/聡明ナ種子

 
鳴子戦術/遺書/小休止

 
戦暇/後日/連勝

p51 
奥付・目次/帰航/訓話

【書誌付記】:初版は昭和15年に「120部限定刊行」と記されてゐるが、国会図書館の所蔵本は、余りにも部数が 少なすぎたために翌昭和16年増刷された二版である。 (『曽根崎保太郎詩集』に収められた<続戦場通信>は拾遺であり別物。)  刊行所レオパアル・クラブは詩誌「豹」(Leopard)に由来。


【コメント】:

むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全 集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、 詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の 『昭和詩大系』シリーズもあったが、 戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁 の)本を見つけるたび、 一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。

曽根崎保太郎詩集

 

なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だった から、といふだけでは当たらない。 詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬 なカタカナ表記の殻を被った代物である。 と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、 詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面 の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、 その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的 言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。 そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての 事であり、 内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ 審判」に於いても、 判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私には推察されるのである。
 この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふ のは、復員後の詩人は、 戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生 業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、 故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機 会はなく、 二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央 詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。

 同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へ と旋回(後退?)していった彼と比べれば、 若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構して みせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、 座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざ るを得なかった詩人の宿命を思ふのである。

 私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に 自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、 「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と 戦後の評価が反転するなど、 戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、 今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。 詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」では さらに、 「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。 同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。

 さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯 本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。 ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へ た。  公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (2010.11.08)

【後日記 2010.11.16】

詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。 山梨県立文学館より御命日御教示いただきました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。


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