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『菅茶山』読書ノート富士川英郎著 1990年5月福武書店刊行 20.7cm 上556p / 下539,1[あとがき],27[索引]p \8500


【ノート1】73p 故事について

富士川英郎氏畢世の大作『菅茶山』をぽつりぽつり読み始めてゐます。

 しかし全文「本漢字」を採用してをりながら、また全文が「新仮名遣ひ」といふスタイルがよくわかりません。解説が本漢字で、訓読が新仮名遣ひだと、 なんだか居心地悪く逆転した文章を読まされてゐる気もします。他の著作でもさうですから、これは著者のスタイルかもしれません。
 そして引用される漢詩文や尺牘に対する解説が、しばしば鴎外張りに省略されてゐて、素養の無い者に故事などがわからないのは困ったことです。例へばこれ は若き日の茶山の文章、重陽の日の想ひ出を書いた「研山に遊ぶ記」(上巻72p)から、

(前略) 靈昌曰く、この遊、設(も)し子雅をして同(とも)にせしなば、將に啻(ただ)に米顛の顛のみにあらざらんとす。目今、誰が家にて菊を采(と)り、 何(いず)れの山にて帽を落すかを知らざるなりと。相い共に踟躊盤桓(ちちゅうばんかん)、良久(ひさしゅう)して乃ち下る。子雅牛渚(ぎゅうしょ)の興果さず、 鶏黍(けいしょ)の約、已に迫る。記をつくりて、これに寄せ、以て嵆生の車を促すと云う。

 と原文が引かれてゐるのですが、それに対する説明が、

「米顛」とは宋の米芾(べいふつ)のことで、彼は文に巧みで、書畫を善くしたが、その言動が奔放不羈であったために米顛と言われたのである。 「子雅」は西山拙齋の字であるが、拙齋には岩石癖とでも言うべきものがあり、石を愛してほとんど狂氣に近かったので、靈昌(茶山の友人)は奇岩の多い山の中で拙齋を思い出して、 このように言ったのだろう。

 と、たったこれだけでは、陶潜の、孟嘉の、李白の、范巨卿の、嵆康[けいこう]の、故事※を知らないひとには何が何だかさっぱり分りません。
 よくしたもので、今やインターネットで意味の通じない文句を検索すれば、奇特な文学サイトから故事についても何らかの緒口を得ることができる、有難い世の中になりました。 しかし刊行当時はさぞやこの本も難解だったに違ひありません。著者はかうした素養を読者の常識として、果たして明確に念頭に置かれてゐたのでせうか。米元章について、 このひとの「奇矯な言動」を以て「顛」を冠せられたと記し、ただ西山拙齋の「岩石癖」を論ったのも、なんだか不親切のやうな気がしたものです。


菊を采り:陶潜の重陽の時の詩句「采菊東籬下、悠然見南山」(「飲酒其五」)
何れの山にて帽を落す:晋の孟嘉が重陽の宴で帽子を落して嘲笑されたが、即座に応酬する名文を属した故事。
牛渚の興:李白が酒に酔って月を捉へようとして跳びこみ溺死したと伝へられる牛渚磯は、五色の石がとれ采石磯とも云はれた。
鶏黍の約:「菊花の約」の原話、「范巨卿鶏黍死生の交り」における、義兄弟が重陽に再会する約束の故事。
嵆生の車:呂安は親友の嵆康のことを思ふと、千里も遠しとせず車を走らせて会ひに来たといふ故事。


【ノート2】 頼山陽との初対面 「馬頭、初めて見る米嚢花」上巻 239p

 やうやく41才の菅茶山と9才の頼山陽が初めて対面する歴史的時日、 天明八年六月十日のことを記した詩篇「広島訪頼千秋分得螢字」(広島に頼千秋を訪ひ「螢」字を分ち得る)までたどり着きました。頼千秋は頼春水。山陽の父で、茶山終生の親友であります。

離居屈手幾秋螢   離居(はなれ家)、手を屈すれば幾(いく)秋螢
夜雨西窓酒滿瓶   夜雨西窓、酒、瓶に満つ 十載趨朝頭未白   十載(十年)、朝(役所)に趨むいて頭いまだ白からず
舉家迎客眼倶青   家を挙げて客を迎ふる眼は倶に青し(青眼)
雲低隣屋木陰邃   雲は隣屋に低(た)れ、木陰は邃(ふか)く
石倚勾欄苔氣馨   石は勾欄に倚りて、苔気は馨(かんば)し
喜見符郎紙筆耽   喜び見る 符郎の紙筆に耽り
童儀不倦侍書櫺   童、儀に(行儀良く)して、倦まず書櫺(≒書斎)に侍るを

 詩の後半は、息子の「符郎」に勉学をすすめた韓愈の詩「符讀書城南」をふまへてゐるらしいのですが、この本では例によってあまり詳しく説明してゐません。 原本詩集にはさらに、

「閲到此詩 馬頭初見米嚢花」

 といふ評言が一言、欄外にぽつりと書いてあって、『黄葉夕陽村舎詩』の無記名の鼇頭評は、先輩詩人六如によるものなのですが、 この「馬頭初めて見る米嚢花」といふ故事がわからない。しらべてみると雍陶(唐)「西帰出斜谷」の詩に

行過險棧出襃斜 険桟を行過ぎて褒斜を出づ (ホウヤ:成都へ通ずる蜀の桟道と呼ばれてゐる難所。)
出盡平川似到家 平川に出尽して家に到る似たり
無限客愁今日散 無限の客愁今日散ず馬頭初見米花。 馬頭、初めて見る米嚢花

 とあって、「馬頭」は馬の上、「米嚢花」はケシの花で故郷の花の謂。つまり遠地から帰って故郷の土地に入ったことを喜ぶ言葉(『大漢和辞典』)であるらしい。 とすれば、『黄葉夕陽村舎詩』をここまで読み到って喜びを記すやうな人とは、頼山陽そのひとではないか、ここは「子成曰く」の文字が頭に抜けてゐるのではないのかとも思ひ、 つまりどうして富士川氏はこれに言及しないのだらう、などと訝しく思ったのでした。
 ただ、よくよく前後の評言を読んでみますと、ここに到るまでの旅行中の詩群に対して、六如は手厳しい不満の言葉を書き連ねてゐて、やはりこれは六如の言葉であって、 「やうやく良い詩に出会った」安堵を、旅が終って広島に着いたことにかけて書いてゐるのだと、合点がゆきました。六如が不満に感じた詩はどれも次に挙げるやうな叙景詩で、 富士川氏も誉め、また山陽も「是もとより実境、新奇をめるにあらず」と弁護してゐますら、もとより私などにその不満の理由がわかる筈もありません。

風外鳴榔響   風外、鳴榔(舷を叩く音)の響
清江七曲濱   清江、七曲の浜
征帆銜島尾   征帆、島尾を銜み
去馬蔽松身   去馬、松身を蔽ふ

鹺戸潮爲圃  鹺戸、潮を圃と為し (塩田のこと)
漁村鷺作隣   漁村、鷺を隣と作す
憶曾過此路   憶ふ曽て此の路を過ぎり
結伴遠尋春   伴を結んで遠く春を尋ねしを

此様句固非儂所好然如此精錬不得激節恨不與賈浪仙同時三年二句一吟涙流而不濺路人之袂
 此様の句、固より儂の好む所にあらず。然らば此の如き精錬は激節(激励)せざるを得ず。賈浪仙に与り「三年二句」時を同じくせざるを恨む。「一吟、涙流」すも、 而るに路人の袂には濺がず。(六如評)」

 「賈浪仙」は唐の「苦吟詩人」賈島で、「両句三年得、一吟双涙流」(詩二句を三年かかって得て、吟ずれば涙が流れた)の故事がある由。 六如がこんな推敲では涙なんか催さない、と不満を漏らしたのはどこを指してゐるのでせうか。漢詩の良し悪しを決する当時の基準が、平仄を弁じない私には全く不明であるのは、 語義、故事の向ふ、さらに険しい「褒斜の桟道」に分け入る話なので仕方ありません。不満が最後のところなら、「結伴」とは亡き先妻のことで、ことさら月並みな表現に拠ったのかな、 とも思ったのですが「黔驢の技」で深読みをするのは止しにします。


【ノート3】 和文解読 『冬の日かけ』『三月庵集』上巻 271p,291p

 『筆のすさび』の著書がある菅茶先生は、和文にも達人ですが、この本で引かれる文章には句読点のみで、解説も何も付してありません。漢字を宛て分りづら いところに語釈して、なほ不明部分を赤字にしてみました。みなさまの御教示をお待ちします次第です。

上巻271p『冬の日かけ』「乾」巻「楽」3の1の抄出。

「山里の賎の男、晩生刈り入れ、麦植うる業の忙しきも夜神楽の鼓笛の声に帰るさを忘れ、孤り居の嫗、家に児孫の歓びもなく朝夕の烟心細きも、紡車の謡、 舂臼の相(たすけ?)、しばしの労を慰む。梓人冶工などの子弟、つかの間の暇だに惜しげなる輩も、夕にはゆずる(泔:洗髪して梳ること)して三絃尺八の師家に走り、 市井の吝嗇なるも、比隣の交らひ靠頭主顧(顧客)のあるじぶり(主振り)に托して、花を分け(入り)柳に添ふ、あながちに色に溺るるにしもあらねど、 氤氳(インウン)たる一曲の清歌に夜の更くるを知らず。王侯貴官富豪の商賈はさらなり。かかる貧しく賎しきが中にも、心を暢ばへる業はやむときなし。饑えの食を待ち、 起き居て寝るを思ふも少しの閑の楽しみなれば、楽記に、人たのしみなきに堪へずと見え侍りけるもげにさる事にて、人情の向ふところは古も今も変らざるにや」

上巻291p『三月庵集』跋文。(2011.03.04 update)

「家の大人(うし)、家のこと治め給ふ暇(いとま)には、窓の燈を親しみ、または歌詠み、文つくり、中にも芭蕉のたはやき振り(=たをやか振り=風雅)をなむ、 取り分きてもてはやし給へりき。こしかたの慕はしき種々(くさぐさ)は、事に触れ、物に添ひつつ尽きぬものから(:けれども)、その好み給ひし道なれば、これに過ぎたる忘れ形見やあると、 藤衣(:喪服)脱ぎ捨てし頃より思ひたちて、或るは友達の持たる短冊(たにさく)、消息(せうそこ)の端(うら)、或るは破(や)れたる扇(あふき)、写し絵の片端など探し出つつ、 僅(はつ)かに此の一巻をなせり。もし藻塩草かきも集め給はねば、流れての代々に伝へねと思(おぼ)す本つ心(もとつこころ:本心)にはおはさねど、 このままに秘め置きて紙魚の腹飽かしめたらむは残れる者の罪(の)去り所なければ、つひには同胞(はらから)相謀り、たらちね(:母)の仰せ言をも受けて、 此度(こたみ)梓に上(のぼ)し侍る事とはなりぬ。あはれ世に在(いま)そがりける時は卯花下(くだ)し降りしきる夕、花橘の匂ひの中に肱枕して、雲間の一声を喞ち、 大空に潮(しほ)打(ち)散らす晨には、同じ色なる春を尋ねて垣根伝ひに惑ひ歩き給ひし、その折々にうち出で給ふ言の葉少なからず。時に臨みて問ひ求めつつ記しつけ侍らば、 豈この一巻のみに留まらむや。おのれ志なきにしもあらざりつれど、今日よ明日よと怠り、なほ百年(ももとせ)もおはさんやうに揺蕩(たゆた)ひて(:思ひ惑って)、徒(あだ)に散らせしことなむ、 真葛葉の恨み、今はた遣る方なしや。そもそも掟たまふ事毎につゆ違はじ、求め給ふ物毎に必ず奉らむとすなるは子たる者の朝夕に勉むべき事とは予ねて心得ながら、これを斯くせば良かりけむを、 彼をさ申せしは悪しかりけりなど、今さらに思ひ出ることは、唯此道の一筋のみならず、此集を編めるにつけて、悔の八千度咽び返る涙を仕立ててなむ、奥書の筆を染め侍ることにぞ 晋帥」


【ノート4】寛政六年のお伊勢参り 上巻 314p〜323p

 「菊池五山が茶山と出會ったのも、この日か、その前後のことであったと思われる。」
 とありますが、菊池五山は寛政10年に江戸を追はれ、流浪の後、伊勢四日市に文化3年まで逼塞してゐますから、25歳だった寛政6年当時には、まだ江戸にゐたのではないでせうか。 菅茶山が五山と邂逅したのは文化元年に菅茶山が上京した際の事かもしれません。そして「僕馬、門に俟ちて殊に怱怱」だったのは、菅茶山が五山の家を訪ねていったのではなく、 客舎を出発する朝方にでも、有名詩人の四日市来訪を知った21才年下の五山が訪れていったからではなかったでせうか。

 さて、菅茶先生夫妻の此度の畿内旅行ですが、立ち寄った史跡をみると吉野をはじめ南朝の遺跡が多く、これはお伊勢参りの道中も変りません。ことにも北條仲時敗死の地(米原番場宿)において
「北條累世の積悪、神人共に憤る所、数百年後、仲時自尽の處を経て、その狼狽の状を想ひ見るも亦た以て快とすべし」
 と放言するに至っては、幕府安泰当時の江戸時代において、進取の気性をもった人々がことさら尊王思想を有してゐたことに思ひが及びます。
 しかしそのことについては、富士川氏は余り本の中で触れてゐないやうです。といふか詠史は単なる「歴史好き」(324p)といふことで片付け、せっかく話の緒口にもなりさうな、 宿屋の宴会客が五月蝿くて眠れなかった「松阪の一夜」を過ごしたことまで触れておきながら、本居宣長(当時65才)のことに一言もないのはどういふ訳でせうか。 茶山とは縁も所縁もない大黒屋光太夫のことは紹介してゐるのに、です。ちなみに宣長は茶山が松阪を発った二日後に名古屋の旅から帰還して、路上で出くはすことも不可能でしたし、 茶山がすずのやを訪問した痕も手帳にはなかったのでせう。しかし少なくとも磯部では、的矢牡蠣について茶山が記してゐるのに、そこで勉学に勤しんでゐた北條霞亭少年について一言のコメントも無かったのは、 未だ知る由もなかったとは云へ(当時15才)、少しく不親切の気がします。

 ともあれ岐阜県内での貴重な二篇を抄出。あとの「自小越抵關原途中放歌」の方は、本書では紹介されてゐません。

 稲葉路上望白山                              『黄葉夕陽村舎詩』巻4の11丁

越山遥雜夏雲横  越山、遥かに夏雲を雑へて横はり
中有孤峯插大清  中に孤峯の大清を挿むあり
爛銀琢玉四時雪  爛銀、琢玉、四時の雪
不用逢人煩問名  用ゐず、人に逢ふて、煩しく名を問ふに

小越は一宮市起(おこし)のことで、一行は羽島を通って大垣、南宮大社、関ヶ原を歩いたやうであります。

 自小越抵關原途中放歌                     『黄葉夕陽村舎詩』巻4の12丁

小越川西麥牟肥     小越川(木曽川)西、麥牟(大麦)肥え
大垣城南草木滋     大垣城南、草木滋し
大野豁達開氣象     大野豁達、気象開き
遥瞻信越千厂垂山厂豙  遥かに信越の千厂垂山厂豙を瞻る
御嶽跨雲雲飄眇     御嶽は雲に跨り、雲、飄眇たり
白山戴雪雪陸離     白山は雪を戴き、雪、陸離たり
壮観留余不得去     壮観、余を留めて去り得ず
且歩且顧行遅遅     且つ歩き且つ顧み、行は遅遅たり
此遊輿病千里外     此の遊輿、千里の外に病む
行途無梗恣娯嬉     行途は梗(ふさ)ぐことなくして、娯嬉を恣(ほしいまま)にす
行感驩虞恩澤渥     行くゆく感ず、驩虞(歓娯)の恩澤渥きを
想見石郎謀反時     想ひ見る石郎の謀反せし時

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下、詠史長文、故事頗る多き故に省略(苦笑)。


【ノート5】 「自家揉み砕く、砑繚綾」上巻 415p

 終日富士川氏の『菅茶山』読耕。旧友三好達治に触れてあるところで大いに脱線中(「十春詞の穣縟」『三好達治全集』巻七369-383p)。
ちなみに三好達治が執筆当時に解しかねた、頼山陽の田能村竹田の「十春詞」に対する評言は、

「山陽言ふ。元人の、四體人に著して嬌として泣かんと欲す、自家揉碎す砑繚綾、といふもの、これと同調、いはゆる穣縟にすぎるもの。」

 といふのですが、今日ネット検索で、それが元人ではなく晩唐の韓偓「半睡」といふ詩であることが瞬時に知られます。

眉山暗澹向殘燈  眉山暗澹として残灯に向ふ
一半雲鬟墜枕稜  一半の雲鬟、枕稜に墜つ
四體著人嬌欲泣  四体人に著いて、嬌として泣かんと欲す
自家揉碎砑繚綾  自家揉み砕く、砑繚綾

 まあ何といふか「磨かれた綾絹」を自ら揉み碎いて挑発する、詩なんですね(笑)。
 ことのついでに田能村竹田青年の艶詩も晒しときませう。

乍聽鶯兒枕上呼  たちまち聴く、鶯児枕上に呼ぶを
數聲和夢唯模糊  数声、夢に和して唯だ模糊
微香汗凝衾底暖  微香汗は凝りて衾底暖かに
泥得一身骨欲無  一身泥得して骨無からんとす

 また三好達治は同じ文中にあらわれる「信卿」を「晋卿(茶山)」の誤記としてゐますが、「信卿」で正しく、これは茶山の季弟、恥庵のことです。『菅茶山』上巻では、 32才の若さで夭折する、この菅恥庵(1768-1800)についても、平行して事跡を記してゐるのですが、巻末の人名索引をみると、京都で恥庵の親友だった杉岡暾桑の出番がないのは残念でなりません。 『黄葉夕陽村舎詩』付録(恥庵詩草)では「杉岡公曙」の名で、また『蘘荷溪詩集』では「[管]三閘」の名で夫々呼んでゐますから、結びつきにくいかもしれません。 後年、郡上藩に招聘される杉岡暾桑ですが、生年と享年が不詳。しかし恥庵については、「余と善し。」「小蘇の穎才、今いずくにか在る、感慨は大蘇(蘇軾=茶山)を慕ふより深し。」と親近を示し、 暾桑が亡くなったとき(1822年)嫡子がまだ若くして跡目を嗣いでゐる様子から、杉岡暾桑もまた菅恥庵と同年輩の、当時は三十がらみの同業者だったやうな気がするのです。

 ともあれ茶山とは20も年の離れた弟の恥庵ですが、今少し長生き出来たら京都でどんな人物になってゐたでせう。「才気煥発」で「諧謔好き」の好青年。 長崎へのひとり旅の末に病臥してゐた時には、まさに立原道造をイメージしてゐたのに、頼山陽が撰んだ墓誌には

「長じて魁梧、腰大十囲、方面深目にして眉間に竪紋(たて皺)有り、酒を縦にし、剣を撃ち、跅弛(放肆)不羇」 なんださうな(笑)。

 それならそれで大いに文豪頼山陽と絡んで欲しかった人物ですが、斯様な先輩が目の黒いうちは、茶山塾を飛び出した山陽先生も、京都ぢゃ大きな顔が出来なかったかもわかりません。


【ノート5】 『菅茶山』上巻読了。

 ほぼ二百章ある大冊を、機械的に両截製本してゐますが、物語そのものは途中の、茶山先生五十四歳のところ、怙恃なく、子無く、師友も喪ひ、 通常の江戸時代文人ならここらを以て終るあたりが、所謂「分水嶺」のやうであります。

「ところで、寛政はこの年十二年を以て終り、翌年は享和と改元されたが、足かけ十二年にわたった寛政年間は、茶山にとって身邊多事の時期であり、 多くの親族や知友たちがこの世を去っていったのであった。
 先ず寛政三年二月に茶山の父樗平が歿し、同八年二月には母半(はん)が死んだ。そして十二年八月には弟恥庵が京都で客死したのである。また、同僚や先輩のうちでは、 二年十二月に中山子幹が、六年七月に佐々木良齋が死に、そして十年十一月には、茶山が最も畏敬し、親愛した西山拙齋が歿したのである。 五十歳を過ぎた茶山の身邊は次第に寂寥の影を濃くしていたと言ってもよい[・・・]

 が、やがて享和を経て、文化年間に入ると、伊澤蘭軒や、頼山陽や、北條霞亭のような、年齢からいって親子ほども差のある、若い世代の人々が、次第に多く、 茶山の身邊に現われるようになったのであった。」(76章435p)

 静かに消えゆかうとする埋火を、掻き立て、引っ掻き回す役割を演ずる頼山陽をはじめ、「江戸後期の詩人たち」の主役級が次々に登場してくるわけですが、 なんといっても山陽青年の、出奔、捕獲(笑)、謹慎、廃嫡となったその後の動静に沿って話は進みます。ここに至って『伊澤蘭軒』とも接続、何やらこの本も下巻が賑やかさうな気配。

 さて江戸于役道中、ふたたび関ヶ原を越えるのですが、岐阜県内で詠まれた二編が紹介されてゐないのでここに抄出します。

 「美濃」

衝雨過芹驛 停轎問古關 谷通三越路 雲接五畿山
京觀枯桑裡 行宮亂竹間 敗軍多殉節 遺懿枉随刪

雨を衝いて芹駅を過ぐ。 轎を停めて古関を問ふ。 谷は通づ三越の路。 雲は接す五畿の山。
京観、枯桑の裡。 行宮、乱竹の間。 敗軍多く節に殉じ、 遺懿、枉げられ刪に随ふ。

芹駅:関ケ原町大字今須字下芹原の辺か。 三越:越の国(越前・越中・越後)。 京觀:敵の屍体を堆積したものを云ふ。 行宮:大海人皇子の陣。

後編とも不破の関にて壬申の乱を懐古。 「遺懿枉随刪」は、歴史が刪正され賊軍の名に甘んじてゐる、といふ意味でせうか。

 「又」

山河形勝地 林薄戦争塲 村落堤為郭 民居土作牀
兩岐周道坦 千頃堰豬荒 雄長今誰在 青燐夜渺茫

山河形勝の地。 林は薄(せま)る、戦争の場。 村落は堤を郭となし、民居は土を牀と作す。
両岐の周道、坦(たいら)かにして、 千頃、堰豬荒る。 雄長、今、誰か在らん。 青燐、夜、渺茫たり。

周道:大通り。 堰豬:いぜき。用水をせき止めた所。 青燐:人魂。


【ノート6】 佐谷恵甫 下巻 39p

 文化六年末から文化八年閏二月まで、一年余にわたった頼山陽の黄葉夕陽村舎在塾中、茶山先生が外出時にいつも山陽と一緒に引き連れてゐた、 九州からやってきた佐谷恵甫といふ未成年の塾生のことが書いてある。「筑前秋月藩医、箕浦東伯の子」といふことしか分らないが、教員格の山陽と同時期に入塾し、 そのまま「悪い先生」に薫陶を受けたこの生徒は、ともに上京を志すやうになった塾生のうちでも筆頭株の俊穎であったらしい。とりわけ目を掛けられてゐたらしい彼の名は、 いつも茶山の日記の中で、山陽と並んで記されてゐて、象徴的なのが、故郷に帰るといふ恵甫を、山陽と、それから茶山の甥で、菅家の跡嗣ぎたる長作が見送る箇所である。

九月七日に佐谷恵甫が豊後に帰ったが、山陽と萬年とがこれを送って横尾に至った。

「士成(子成)と長作、恵甫を送つて、横尾に到る。士成、しばしば、長作に先きに還らんことを勧む。長作、なほ従って行く。既にして手を分つ。 而れども士成復た送りて橋上に至り、留談してときを移す。長作、茶店に在りて、士成の還るを待ち、風寒の冒す所となるに至れりと云ふ」

富士川氏は、

茶山の日記にはこのように記されているが、この行文のうちになんとなく山陽を非難するような口吻が読みとれるのではなかろうか。

 と記されてゐるが、「非難」の内容は、病弱な甥子の健康を気遣ふとともに、彼を「のけもの」にして交はされた内緒話が、恐らくは秘密の上洛計画に関るものであったからに他ならないだらう。 人心掌握の才に長けた頼山陽の人柄は、学芸抜群ながら、茶山からは
「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、二十前後の人の様に候。はやく年寄れかしと奉存候事に候。」と、また母梅颸(ばいし)からは、
「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候。」とも窘められるやうな、まことに今日呼ぶところの無頼にして純真たる「詩人らしさ」に与るところがあったやうである。 田舎暮らしを喞つ上昇志向の青少年たちを根刮ぎ薫染したらうことは想像に難くない。
 そして同時にこの一文からは、対照的に、山陽より七歳も年上だったといふ、長作こと菅萬年といふ男の、孤りぽつねんと取り残された疎外感もまた、ありありと察せられるのである。 萬年は子のなかった茶山の養子となったものの、生来病弱で、天文や暦が好きな、地味な理系の人物だったらしい。さうしてこの翌年、山陽が塾を去った半年後の七月に夭折してしまふ。 遺された未亡人敬は一人息子の菅三を菅家に残し、やがて山陽の代りにやってきた塾の都講、北條霞亭の妻になるのである。

 佐谷恵甫はその後ふたたび塾に戻ったものらしい。萬年の死後早々に、九州秋月に帰るとてあらためて、師茶山より特別長い送別の詞を贈られてゐるからである。 彼は二年後の文化十一年、茶山江戸行きの際には、大阪在住者として移動中の茶山に謁見してゐるのであるから、この度の「再帰郷」の真意については、 茶山も或ひは薄々感づいてゐたのかもしれない。富士川氏はこの詩について言及をされなかったが、一読、おのづから餞別の意に含むところあり、塾の後継者と家の跡取りを失った悔しさ、 悲しみを踏まへて読んでみれば、今また手許から逃げてゆく才気一本槍の少年に対し、切に自重を願ふ老先生の心が惻惻と感じられてならない。

 「送佐谷恵甫歸秋月」(『黄葉夕陽村舎詩』後編、巻三13丁)

士愨而求能 馬服乃求良 今時俊髦士 轎誕事鴟張 其文非不美 其論非不詳 而察其所安 功過不相償 恵甫未弱冠 才氣耀峰鋩 況能履謙順 早已収令望  有素絢可施 有實名可揚 君若逐時調 正路或易方 願能守故歩 勿學狂童狂 平素誡輕佻 動致郷人誚 唯此一片心 有不顧我耄 秋柳挂斜日 蕭蕭倚祖筵  寒獸鳴空谷 旅雁翔遠天 雲海千餘里 對酌更何年 別後能思我 時亦誦斯篇

 「佐谷恵甫の秋月に帰るを送る」

 士は愨(つつし)み而して能(わざ)を求め、馬は服して(車に付してから)すなはち良きを求む※。今時の俊髦の士、轎を誕り(小車を偽り)、 鴟張(フクロウが翼を広げた様にみせる)を事とす。その文、美ならざるに非ず、その論、詳ならざるには非ざる。而るに其の安んずる所を察すれば、功・過あひ償はず。
 恵甫、未だ弱冠ならざるも、才気峰鋩(きっさき)を耀かす。況や能く謙順を履(ふ)み、早や已に令望(立派な声望)を収むるをや。素(そ)有らば絢(あや)に施すべし ※(真白な素地だから絵が描ける)。実あらば名も揚がるべし。君もし時調を逐はば、正しき路も或ひは方(向)を易(か)へん。願くは、能く故歩(今までの堅実)を守り、 狂童の狂を学ぶなかれ。平素、軽佻を誡(いまし)むるも、ややもすれば郷人の誚(そしり)を致す。唯だ此の一片の心、我が耄(この老いぼれ)を顧みざること有り。秋柳は斜日に挂(かか)り、 蕭蕭として祖筵(送別の宴)に倚れり。寒獣(わたし)は空谷に鳴き、旅雁(そなた)は遠天に翔ける。雲海千余里、対酌さらに何れの年ぞ。別後よく我を思はば、時にまた斯の篇を誦せよ。

※弓調而後求勁焉、馬服而後求良焉、士信愨而後求知能焉。士不信愨而有多知能、譬之其犲狼也、不可以身爾也。(『荀子』哀公篇)
※子夏問曰、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以爲絢兮、何謂也」(『論語』八)

「狂童の狂」が、家督を放擲して都で名を馳んとする山陽のことを暗に示してゐるのは、言ふを俟たない。すべての元凶は彼なのである。頭註で当の山陽が、
襄輩當各冩一通以貼座側。(襄輩(わたくしめ)、まさに各一通を写し以て座側に貼るべし。)
と神妙に反省してゐるが、しかしそれ以上何も書かいで良いものを、
平素二句刪去亦似通。(「平素…」二句は刪去、また通ずる似(ごと)し。)と恵甫を庇った上、
而仍作乃似可。(「而」なほ「乃」と作るも可の似(ごと)し。)と、ことさらに詩の上面をなぶったりしてゐる。さうして山陽の父である春水がまた、
有學有識有文采有雅趣。(学あり識あり文采あり雅趣あり。)
などと恵甫を誉めちぎってゐるのも、穿って読めば、針の筵に座らされてゐる父子二人の様子がありあり目に見えるやうで、なんとも可笑しい。

 佐谷恵甫は生没年を詳らかにしない。或は夭折したのか、その後、大成したひとではないやうである。御教示を俟ちたい。

【追記】『江戸風雅』5号(2011.12江戸風雅の会)に「箕浦子信伝 小財陽平著」119-137pの記事があって、佐谷恵甫について知らなかったことがいろいろ書いてあるのを知った。
即ち箕浦子信(佐谷龍山1764-1810)が佐谷恵甫の父であること、生まれは寛政9年(1797)らしいこと、よって山陽より少きこと17歳、丁艱帰郷したのが13歳の時であったことが判明した。【2014.12.30】


【ノート7】 『三原梅見の記』 下巻 92〜102p

「三原梅見の記」の抄出、ここも、和文は分かりやすく漢字や濁点を付すべきだし、漢詩を白文のまま写してゐるのは、従前の本文と格調を異にし、不親切に感じます。

「二十七、陰(くもり)、午後、松永に之(ゆ)き、路に早戸を過(よ)ぎる。三原の梅を看んが為なり。孟昌、桂蔵、左五郎先発す。高橋庸次を訪ふ、翼叔先に在り。宴罷みて、 同じく帰る。淫雨、風波無し。糸崎に泊る」

「三原の梅は、東西ふたつの林おのおの幾千許株(いくちもと)といふ数をしらず。名だたる津の国の岡本山城の伏見の梅谷にもはるかに立ち勝れれば、 春ごとに遊ぶ人多(さは)なり。予も四十余年のむかし一たびい行きにたれば、その匂ひなほ忘られがたくて年ごとにおもひたてども、老いなやめる身は寒さに耐へかねて、 ただ心のみぞ分け入りける。此春は去年よりの寒さいみじうはげしくて、花の咲くこといと遅ければ、二月の末、空あたたかになるまでも猶ほ残りなん。今年こそ行きて遊ぶべき春なれとて、 その里の川口某、歌よみて招かれけるに、生憎(あやにく)に、おのれ風邪に冒されて立ち出づべう(べき)も思ほ得ざれば、

木下に問ひこそ行かね待つ人の深き心や香に匂ふらむ。

と詠みて応へけれど、病だに癒えなばやがて行かましと、下心には誓ひけらし。広島の人都築某、故ありて三原にあり。これも詩つくり誘はれければ

底事春嬉引我狂 應憐背世獨凉々 試論斯意深多少 不啻梅林十里香
(なにごとか春嬉、我が狂を引く。 まさに憐むべし、世に背いて独り凉々たるを。 試みに論ずれば斯の意(こころ)深きこと多少(多し)。 ただに梅林十里の香のみならず。)

十里梅林二月時 奈何伏枕負佳期 花神如解瘳吾病 明日巾車不可知
(十里の梅林、二月の時。 枕に伏して佳期に負(そむ)くをいかんせん。 花神は吾が病ひの瘳(いゆ)るを解するがごとく。 明日の巾車(立派な車=旅出)は知るべからず。)

かく返りごと(返詩)せしに、また雨ふり続きければ、契りおきし梅の遊びも日数ふる雨に盛りの過ぎやしぬらむ。二十七日といふ日は、病おこたりて治って)空さへ晴れにければ、 武蔵の国人大田某、備前の平松某、兵庫の藤田某、おのれ晋帥等四人伴ひてたちいづるに、駅のちまたを離れゆけば先づ一本の真白なるあり」
  川口某:三原の酒造家、川口屋主人川口西洲の弟新七。都筑某:都築蘇門。大田某:太田孟昌、平松某:平松渓、藤田某:藤田(橘)左五郎、以上三者は廉塾の塾生。

「松永より舟路を行かましと、その里なる高橋主をたづねしに、桑田主もその処にありて、これもあるじと同じく伴ひ行かましといふに、折しも雨のふり出でければ、

ふる雨にいよいよ梅や散るらんと苫もおほはず舟出してけり

樓脚停橈不用[同戈] 乘來未省是舟中 須臾捩柁離灣曲 掲起篷窓水接空
(樓脚に橈(かじ)を停む、杙(くい)を用いず。 乗り来っていまだ省みず是の舟中 須臾にして柁(かじ)を捩り湾曲を離る。 篷窓を掲げ起せば水、空に接す。)」     高橋主:高橋景張 桑田主:桑田翼叔

(以降、茶山に代って桑田翼叔が執筆。)

「このあたりは島山多くて海もさながら川瀬のごとくなれば、引汐につれていと早く長居の浦に着きぬ。三原は遠干潟なれば、船寄せがたしとて、ここに碇おろして泊る。 はるかに梶の音して心細く歌ひくる舟もあり。また漁り火の三つ四つふたつ、波間波間に見えかくれつ漕ぎ帰るもあはれなり」

「明くれば二十八日なり。あけぼのに苫を掲げて

そのそこに白くみゆるは梅の花 かくてはさのみ折も違へじ (それほど花期も違へてはゐないだらう。)

汐も、やや満ちにたれば、しばし漕ぎゆきて三原の大城の東なる岸に纜(ともづな)つなぎ、あたりなる家に立寄りて物まいらせ、梳(くしけづ)りなどす。雨なほ降りそひにたれば、 足駄唐傘などとりどりに買ひ求む」

「大人(うし)は老の身に頼り良しとて、藁鞜、蓑笠、調してうち群れて出づ、その様いと怪しげなり。都筑の某、かくと伝へ聞きてやがてその姪なる某をして来迎へられしかば、 同じくその家に至りて酒たうべ(食うべ:飲ませて頂く)などし、鈴木、金丸など云へる人々伴ひて、志すかたに向ふ。城の西方へしばし行けば、堤に梅あまたありて、未だうつろひも果てず。 やや深く分け行けば、梅はただ野山をかけて真白にぞ匂へりける。一筋の川、水清らかなるに影をうつし、そぼ降る雨も香に匂ひ、散り交ふ花の袖にかかれるなど云はんかたなし。 ただ白雪の降り積れるごと見ゆる。中に彼方此方の柴の庵、松、竹などの混じれるも、さながら写し絵の中を行く心地す。やや行きなやみてあづまやの地藏めけるものをならべたるあり。 ここにしばし憩ひて酒くむ」                鈴木:鈴木遜 金丸:金丸邦民

「あづまやの柱に春毎に遊ぶ人々の名をしるせり。その中に大人の友西山博士など五人ばかりの遊び給ふける事見ゆ。是なん四十年前のむかしになりぬとて先生、筆をとりて、

備後の菅晋帥、桑孝[禾或]、高景張、江戸の太田周、備前の平松渓、兵庫の橘之靖、文化癸酉二月二十八日この三原に看梅す。都筑輯叔の姪、金丸邦民の諸子、導をなす。 余かつて西山拙齋諸子と梅を尋ね、ここに憩ふ。今を距つこと四十二年、旧を思ひて感じ、今、悵然としてこれを久しうす。としるさる」

「林の中、さも限りしられざれば、少し立かへりて東なる谷へ分入るに右顧左眄(とみこうみ)梅ならぬ処もなし。ここにもまた、あづまやのありければ、
備前の平松渓、兵庫の橘之靖、江戸の太田周、備後の菅晋帥、桑孝[禾或]、高景張、文化癸酉二月二十八日、藝藩都筑諸子に従ひここに来る。因みに憶ふ、西山拙齋諸子と四十年前、 ここに看梅す。悽然としてここに題す。としるさる。
この奥もまた行き尽くしがたければ、村の長とおぼしき人の家をかりて休らふ。調度は都筑氏より携へ来りて、酒になに備はらざる物なきに、京の医(くすし)渡邊義齋といへる人、 久しく三原にあり、高橋主が古き友なりとて、これも酒肴をもたらせ来る。青木何がしは、この日誘ひつれども故ありて伴ひ得ずとて、大なるひさごに酒を充てて贈らる。 また丹羽何がしといへるも、大人に対面すとてここまで訪ね来たり。これも物もたらせて各主ふりせられければ、(出会ひければ)

咲く梅の林の中のけふの会は酒さへ名さへ香に匂ひつつ   先生

この席(むしろ)に連なる人々、京、江戸、津の国、備前、周防、安藝、この国には神辺、山南、松永所々の産にて、この三原の人はおはさず。丹羽大人(うし)来まして初めて此地の産也とぞ。 かりそめの団居(まどゐ)にかくつどへるもめづらし。さて都筑與市、渡邊義齋、高橋景張ら笛をふきければ、声さへも匂ひて、妙(たへ)にあはれなり。「疎影横斜水清浅」てふ句を分けて、 おのおの漢詩(からうた)を作る。
…………………………………………………………………………
日もくれかかりたれば、花はいよく白栲(しろたへ)に見えて眺めことに多し。花の席(むしろ)立ち去りがたけれど、おのおの心をのこして帰る。

  梅林帰路口占   (先生)

一叢叢接一行行 花照帰途夜亦光 微雨不知吟袖湿 笠檐点々滴清香
(一叢叢接す、一行行。 花、帰途を照す、夜、また光る。 微雨、知らず、吟袖湿すを。 笠檐点々、清香を滴らす。)

此夜は川口某が許に宿る。これも大人の来れるをききて、舟着きし時、さとみの医(くすし)をして迎ヘしめ、乗り物持たせなどせしかど、 先づ都筑大人(うし)を訪(とぶら)ひてここは帰途(かへるさ)を契りし也。さて湯浴み酒たふべて夜の更くるまで物がたりす」   青木某:青木充延

「明くれば二十九日なり。都筑氏案内(あない)して妙正寺てふ精舎に詣づ。此処は大城の戌亥(いぬい:西北)の山にあたりて、大城の殿造りより、長居の浦、 布刈(めかり)の瀬戸、遠くは伊予の山々も見え渡れり。その中に島山数々ありて、近きは大鷺小鷺大鯨小くじら等その名もおかし。漕ぎ行く舟どもあまた真帆片帆ゆきかひて、 その眺め云ふもさらなり。藻塩の煙絶えせぬに蜑人ひとのいとなき(暇無き)業を知り、船のひま行小笠に旅人の道いそげる様もはるかに見えてあはれなり。 都筑ぬしが事(つか)へ奉るは、この城をしらせ給ふ浅野の君なり。この寺の眺めに愛で給ひて四方の博士にからうた求め給ふ事、年久しければ都筑ぬし、そのこころを享け侍りて、 大人のからうた求めんとて案内せしになん有りける」

「大城の東より、川に沿ひて北に行けば、山中村といふ所あり。ここにも梅多かればとてまた人々と伴ひ行く。この里はやや春の光りおそくていまだ盛も過ざれば、 匂ひもことに深し。左右に山松生茂りて深緑にうつろふ。色は昨日の眺めよりもたちまさりてみえ、梅の多きこと数もしられず。境の広さ見尽くしがたきも、さばかりは劣らず。 ここは近き頃、植え始めしにや。大人四十年あまりの昔あそび給ふける時は未だかかる林は音にも香にもきこえざりしとなん。されどまた老木も数さはに見ゆ」

「ここにもあづまやありければ、その柱に、

西郊に梅、四方に著く。而して未だこの林を賞する者有らず。是日同遊の者、江戸の太田周、兵庫の橘之靖、備前の平松渓、本藩の人、都筑輯、金丸放民、併び余、 凡そ六人。時に文化癸酉二月二十九日也。半路に別れ遁去する者、沼隈の桑孝械、高景張の二人  菅晋帥題

と、書いつけたり。おのれと高橋ぬしは友伴(友がき)の、がり(許)行きて、少し遅れたれば中途より帰りしとおぼされしや」
「同じ人々また川口某が許につどひて酒くみかはし、筆すさみ等するに夜も半ば近くなりにたれば、人々に別れを告げて立いづ。都筑、青木などの人々長居の浦ちかく送り来れり」
「明くれば弥生の朔日の朝まだきに船出す。来りし夜は雨くらくして見えざりし島々も、みな打笑みて人を迎ふるごと見え、潮(うしほ)に曳かれて船の速きも妬(ねた)き心地す。 玉の浦より大人は大田などの人々と徒歩(かち)よりして帰られ、己と高橋ぬしは船路より帰る」

「文化十年の春三月桑田孝[禾或」」

茶山追記
「急に児共に写させ候へば、誤もあるべく読みがたくも候らん。漢、大和(からやまと)共にいたく御削被下度奉希候 晋帥
桑田は小原君(小原梅坡)よくご存(知)の人に御座候。その外もみな私が小友なれば知らぬ人とて御遠慮被成被下まじく候。


【ノート8】 中島棕隠の「穢名」 下巻 309〜314p

特にコメントも必要ないやうな頼山陽お得意の悪口雑言。([]管理人補注)

「京儒、名を挙げ候様、仰せられ下さり候へども、所謂「中風暇乞ひ嫁女」の外は、させる大将もこれ無きと見へ候。近来、梅辻春樵(中風先生の門人)と云ふ詩家、流行り申し候。 その友に、かの中島文吉(同門)と申す、是は御存じの先年、穢名あり候者、近来、江戸より帰り、『鴨東四時詞』と申す小冊を出し、竹枝六十五首、猥褻瑣細を極め申し候。 元来、竹枝と云ふもの、如何の物と云ふ事を知らぬ様に相ひ見へ候。それはともあれ、あの通の名を被りて、また帰郷、誰も取り合はぬ筈のところ、ヤハリ用ゐ申し候者もこれ有り候、 世は広きものに候。その内、京人はただその才か否かを論じ、賢、不肖を論ぜず、その貧富を問ひて、その貧廉を問はず、廉恥と云二字などは夢にも知らぬばかりり多く御座候。 春樵は、妻を娶り、その帯び来たる所の金を収め、而して後これを出し候人に候。海保儀兵衛(旧名彦六)[海保青陵1755-1817]は、江戸吉原にて、儒者彦と云ひし太鼓持なりし。 彼の「嫁女先生」に続き候位に御座候ところ、これまた中風仕り候。その外、医者より素読師匠に変じ、只今だいぶん大医などの息子を弟子に致し居り候は、朝倉玄蕃と申すものこれ有り、 号は荊山に候[1755-1818]。故岩垣[龍谿1841-1808]の門人に、遵古堂[塾名]と云ふもの御座候。同門に猪飼敬所と申すもの御座候。これは自身腕は立ち申さず候へども、 人の文などを指摘させ候へば、尤もなる事を申し候者に候。皆川[淇園1735-1807]門の小儒、大分これ有り、その巨擘は北小路大和之介[梅荘1765-1844]と申すものに候。 先づこれらにてこれ有るべく候。外は斗量帚掃[升で量り、箒で掃き捨てるほど多い]、相応に茶粥は啜り居り申し候と見へ候。襄[のぼる:山陽の名]のごとき新来、控磬其間、 御存じの京人之気にて、一年にても古きものを用ゐ申し候ゆゑ、孤立無援に候。登々[庵]などは、親祖父を信服させ候に妙を得申し候ゆゑ、大分よろしきと見へ候。 そしてその渡世の致し方は、襄に比して更に倹薄、筆硯書画などの好事は、毛頭これ無く候。楽なる人に候。」

 「中風暇乞[致仕]嫁女」というのは村瀬拷亭である。梅辻春樵、中島棕隠とは、茶山もやがて數年後に相い識ることになるのである。 武元登登庵が親祖父を信服させる腕前を持っている一方、生活ぶりが簡素で、書畫骨董の癖もなく“氣樂に暮しているというのは、彼の案外な一面を語っているものと言えよう。
(下巻 309-310p)

「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。此節、一珍儒これ有り候。西依(成齋[1702-1797]の子墨山[1739-1798])社中に、井川何某と申もの、同社の衣什を盗窃、 講席にて見台に向ひ居り候ところを、快手[捕手役人]踏み込み、高手小手に戒め、座に有り合はせた諸生両輩も再び捕へ、罪に極め候。おのれ等は盗[人]の講釈を何の為に聞きに行くぞ、 べらぼうめ、と叱られ候のみにて、諸生は逐ひ返へされ候。去々年は、合田何某(栄藏)と申す儒者の心中を致し、死に候者これ有り(北野の妓と相対死す)。今年は、此の盗儒これ有り、 人間[ジンカン]には好對これ有るものに候。文吉の盗は大賊ゆゑ、今におけるも縄を漏れ居り申し候。□□□□名教を汙衊[おべつ:血を流して汚す]候はなし、 先生長老の耳に入れるべくもあらぬ事に候へども、あまり珍事ゆゑ申し上げ候。」

 山陽はこの書簡においても、「文吉の盗は大賊故、於今漏縄居申候」と中島棕隠の悪口を言っているが、その棕隠の非行とは、どんなことだったのだろうか。(下巻 313-314p)

 「棕隠の非行」については、大賊すぎて捕まらぬ盗みといふのですが、盗作疑惑なら、いづれ冗談に類した山陽の穿った臆測でせうし、前者の穢名と同じことを指すなら、 或は巷間「粋は文吉」とサゲの部分で歌はれる元となった逸事、例へば梁川星巌同様、若き日の風聞があったのかもしれません。彼の詩を江戸贔屓の中村真一郎が買はなかったことからも分るやうに、 「粋」が文事の艶に関るものでなかったことは明白だからであります。「先年、穢名」とあるやうに、本人の思惑を超えた儒者にあるまじき事件、 しかし側から見れば江戸っ子が囃したてたくなるやうな逸事、つまり誰かお偉い様の鼻を明かすやうな「荒事」を起こして、故郷の京都へ逃げ帰って来たのではないでせうか。

 それにしても「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。」なんて、報告の内容まで茶山翁に責の一端があるかのごとく最初に断るところ、強の者です。菅茶翁も、 言葉には残らなかっただけで若い頃は毒舌家だったといふから、火にくべるべき往復書翰の山陽の分だけが残ったのかもしれません。それなら律義なのはむしろ山陽の方なのですが(笑)。


【ノート9】 後藤松陰、黄葉夕陽村舎滞在の事 下巻 345〜347p

 下巻はさきにも申しました通り、ほぼ半分の分量が文化十一年(67才)の江戸于役と、文政元年(71才)の大和遊山の記述に費やされてゐます。旅日記など考証材料が豊富の故ですが、 もとより道中のお話には「華」があり、その間出会った人々を列挙して、(茶山は、もはや知らぬ者のない著名人でしたから、)当時在世の、名のある詩人たちとは総て相見えたといふ感じに、 たいへん豪華な様子に描かれてをります。中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』が、詩人達を、主人公山陽との関係によって類別し、名鑑のごとき紹介方法で楽しませてくれたのに対し、 この本では富士川氏は、茶山が生涯出会った順番に、人物を列挙して紹介の労をとってゐます。『江戸後期の詩人たち』といふ本で、江戸漢詩に対する最初の火付け役を果した富士川氏ですが、 その後、中村氏の大冊『頼山陽とその時代』が読書会に与へた衝撃に、自信と使命感は強められたことでせう。この本を書き進むにあたっては、私淑する鴎外史伝の形式とともに、 中村氏の本に対しても、後日比較されることを念頭に置いて、予め結構には意が払はれたことと思ひます。私も人物名が(生年―没年)と共に紹介されるたび、赤鉛筆を引いて喜んでゐました。 この度の旅行中でも、江戸にあった川合春川、京都まで旧師を追ってきた山伏の體圓など、美濃人のことが記されてゐます。しかしながら一番嬉しかったのは、これは茶山在郷中のことですが、 広島に里帰りする頼山陽に伴はれてやってきた門下の一番弟子※、後藤松陰の名を見たときでした。茲に至ってやうやく「山陽軍団」の先鋒が登場といったところです。 彼は菅茶山の『筆のすさび』序文のなかで、その滞塾中の様子を茶目ッ気たっぷりに披露してゐますが、けだし茶山の京都滞在中、 「羅井の門人美濃大垣の人、菓子を恵む」と記されてゐるのも、当時弱冠の、無名の青年だった松陰であったと思しく、今回もそのまま山陽に随いて春水の三回忌に列しなかったのは、 山陽の教育的配慮もあったかしれませんが、春風、春風の二大詩人と面晤するより、廿日余の間、黄葉夕陽村舎で翁の謦咳に接する方を優先したからだったやうであります。

(※門下の一番弟子と書きましたが、村瀬藤城は別格です。中村真一郎氏『頼山陽とその時代』をはじめ勘違ひをされてゐる人が多いのですが、頼山陽に最初に贄を執ったのは京都に塾を開く直前、 文化八年に大阪の篠崎邸で偶然出会った村瀬藤城であり、その後、山陽が美濃上有知に村瀬藤城を訪ねた文化十年の美濃旅行の際、大垣の菱田穀齋塾の都講だった後藤松陰、 江馬細香と遭遇するといふ順番であります。)

 さて茶山は「この後、もはや長途の旅に出かけたことはなかった」訳ですが、寄る年波に加へ、今回帰宅した途端に、姪の娘である梅が疫痢にて病死、続いてその父親で、 塾の跡継たる北條霞亭も、厠に「昼夜大凡百行余に及」ぶ状況に陥り、さすがに物見遊山に出かけたバチが当ったと感じたのではないでせうか。翁の子供たちへの眼差しは、 江戸で夢みたといふ次の詩篇に見られるやうに、限りなく温かいものだったやうです。菅家を襲った度重なる子供たちの夭札には、詩になることはなかった生々しい慟哭が繰り返された事でありませう。

穉姪能來入夢魂    稚姪 よく来って夢魂に入る
分明見汝徑間奔    分明に汝が径間に走るを見る
汗珠滿面關何事    汗珠 満面 何事に関はる
應覓秋蛩藏草根    まさに秋蛩(コオロギ)の 草根に隠れしを求むるなるべし


【ノート10】 門田朴齋 下巻 527〜528p

茶山系図

 文政六年、七十六才で村一番の長寿となった頃から、「ユーモアに富んだ愛すべき社交家」である菅茶山の最晩年に、暗い翳がさすやうになります。  塾を託すべき頼りの綱であった都講、北條霞亭が藩命を拝し、「残り少ない血縁の者たち(敬とお虎)」を引き連れて上京、しかも江戸住みわずか二年にして突如病没してしまふのです。 頼山陽も気遣った「老後の団欒の楽しみ」は、傍迷惑な身内の栄転(若い霞亭にとっては「両迷惑」であったかは疑問だが)によって、そして七歳の娘も父を追ふやうに死んでしまふことで、 叶はぬ夢と化してしまひます。寂しさもさりながら、塾の跡目はどうするのか。血縁といっては、甥の万年が遺した一粒種、菅三少年がゐるけれども、 神童の森田綱太少年に比べられては一層凡庸が目に付くやうになったものか、「何になり候やら」未知数の彼は養子であるにも拘らず近所の寺にあづけられてゐます。さうしてもうひとり、 養子に加へられた俊才門田朴齋青年が、ここにきて後継者に目されることになるのであります。とは云ふものの、彼もまた山陽、霞亭のやうに、この塾を去ってしまふ。 しかも此の度は菅三の母と伯母の讒言により、養子を廃嫡して彼を絶縁する宣言が、不幸この上ない茶山の遺言となったからであります。中村真一郎氏が著書『頼山陽とその時代』のなかで、 彼を茶山の実の甥と誤認し、都会に憧れて塾を見捨てた小才子として、見そこなった風の書き様をしてゐるのは、少々可哀想に過ぎますね。 これといって何もない土地に対し恩誼を返さうとする者など、探すのは難しく、またゐたとして今度はお上が放っておく筈がないことは、山陽然り、霞亭然り、 周囲の誰彼に「才子」を諌める言葉を吐きながら、茶山自身充分承知はしてゐたでせう。田舎で立派な私塾を維持することのむづかしさ、一代限りの運営に終らざるを得ない無念が、 妻に先立たれた最晩年の茶山を如何なる疑心暗鬼に駆ったのでありませうか。朴齋は茶山の妻の甥でしたから、中村氏の本の中の、

ようやく入門できた、その歳の除夜、「丁亥の除夜、吾れ長く記せん、歳を守り、君の家に共に眠らざるを。」丁亥は文政十年。(初版503p、文庫版下巻104p)

茶山夫人の忌辰に、「涙を拭ひて試みに筺底の服を看れば、皆、君が細々、手裁の衣。」
自分の着物は皆、奥さんが縫ってくれたものである。その厚情に負いて、結局、自分は廉塾を捨ててしまったのだ。(初版504p、文庫版下巻 105p)

 といふ記述は、破門の事情を察した先輩頼山陽の弟子となり、初めて単身他郷で迎へる新年であってみれば、そして自分をずっと庇ってくれてゐた伯母さんの死を、 現在の境遇に重ねて悼むものであってみれば、哀切極まりないものに変貌します。

 後年、朴齋の四男が、子供の出来なかった菅三の養子になったといふ最終的な和解が、さりげなく締め括りに用意されるに至って、私たちは纔かに安んじてこの大著を閉じることができるのです。


【ノート11】  梁川星巌夫妻、黄葉夕陽村舎滞在の事 下巻 471〜474p,508〜509p

さてそれはそれとして、最晩年には、残り頁が少なくなった交遊録の帳尻を合すかのやうに、逝く者来る者が遽しいことです。太田南畝、葛西因是、立原翠軒、 頼春風ら旧友の訃が報じられ(亀田鵬齋の死に触れてゐないのが残念。)、また一方で、田能村竹田、廣瀬淡窓、中島棕隠といった次世代の詩人たちが門を敲き、手紙を寄せてくる。 大トリは、余命幾許もない茶山先生の良き話相手を務めた二十一歳の俊髦、天才詩人廣瀬旭荘ですが、ここは矢張り、 三年にも及んだ西遊の往き帰りに黄葉夕陽村舎へ立ち寄った若き日の梁川星巌・張紅蘭の夫妻について語りませう。時に星巌三十五歳、紅蘭はまだ二十歳の新婚ほやほやでした。

彼等は行く先々で話題となりましたが、それは頼山陽や柏木如亭ら潤筆料を稼ぎながら旅した先輩にもまして詩人らしく、華やかな「おしどり道中」の印象を振りまいたことでせう。 星巌はもと詩禅といふ名からして、儒学よりもむしろ仏教・道教に造詣が深いひとでしたし、政治的にも、人倫が羈足せられるべきは幕府ではなく國の道統に対して、 つまり当時単なる権威的存在として相続してゐた天皇家であると深く信じ、後にそれを実行しようとした最初の反体制の人物でありました。 ですから一藩に自分を売り込むのとは真逆の宣伝をしながら周った、彼ら人生最大の興行旅行は、後世から見ればなかなか意味深なものだったと云ってもいいでせう。 ちなみに紅蘭は茶山と見えた文人のなかでは、維新後まで生き延びた数尠いひとでした。

彼ら二人が九州まで旅路を延ばすにあたっては、京都で頼山陽に耶馬溪の美しさを吹き込まれたのをきっかけとして、茶山による慫慂に与るところが大きかったことが紹介されてゐます。 茶山その人の文章について、富士川氏は『黄葉夕陽村舎文』所載のものを引いてゐますが、実際に『星巌集』跋文に上されたものとは若干の異同があります。よって両方を並べてみます。

(跋) (天保十年「玉池之寶漢閣重刻」版『星巖乙集』の跋文、荘門霞亭書による。)

梁公圖、其の妻張氏と長崎より還り、遊草四巻を出し示す。余披讀諷玩一再、曰く「此れ余の詩なり。」と。公圖瞠目直視して曰く「來徃三年、其の間得る所、 自ら構へ、自ら錬る。子と何ぞ關せん。」と、余曰く、「否。初め子の此に來るや、將に輒ち駕を囘さんとす。余長崎の遊を勸むれば、則ち子の色、次且※して曰く、 「此の行已に倦めり。而して孟光既に旅況に慣る。行々當に後擧を謀るべきのみ。」と、余乃ち張氏に謂て曰く、「肥筑遠しと雖も、已に半路に及ぶ。今にして果さずんぱ、前功亦棄つ。 弓鞋千里に之く、豈に又再期有らん乎。」と。張氏之を頷く。余益々從臾し、而して後、子の轅初めて西せり。夫れ詩は西遊に成り、而して西遊は余に成る。則ち之を余の詩と謂ふも、 亦誣いず。唯其の情を冩し、景を敍する。吾が口出だす所の如くならざる也。」と。夫妻共に笑ふ。乃ち巻端に書す。

文政乙酉仲冬八十老人備後管晋帥、黄葉夕陽邨舎に識す。 荘文響書 (原漢文)

  書詩禪道人西遊詩巻後 (『黄葉夕陽村舎文』巻四所載による。)

 梁伯兔夫妻、長崎より還り、其の遊草二巻を出し示す。余披味一再、曰く「此れ余の詩なり。」と。公圖愕然して曰く「來徃三年、其の間得る所、自ら構へ、自ら錬る。自ら録し、 自ら編す。子と何ぞ關らん。」と、余曰く、「否。子の余を尋ねし當時、已に將に駕を囘さんとす矣。余、長崎の遊を勸む。而して子が色、趦趄※して日く、此の行則ち倦む。 而して孟光既に旅況に慣る。行、後擧を謀らんのみと。余乃ち令内に謂って日く、西肥遠しと雖、既に半路に及ぶ。今にして果たさざれば、前功も亦た棄てん。弓鞋三千里、 豈再期有らん乎。令内、之を頷く。余、因て益從臾す。而して後、子の轅始めて南す矣。然らば則ち此詩は南遊に出で、而して南遊は全く余の從臾に出づる也。 南遊既にして已に余に出づれば則ち其の得る所の詩、これを余の作る所と謂ふも、亦誣いず矣。」と。夫妻共に笑ふ。乃ち巻末に書す。(原漢文)

【次且・趦趄】ぎくしゃく

また以下は、往来の途時にものされた夫々の詩。

文政六年(1823) 7月16日〜7月18日 (往路)

菅茶山「梁詩禪攜内來訪」    梁詩禅、内を携へて来訪 『黄葉夕陽村舎詩遺稿』巻三5丁

倶隱同行路不難     倶隠 同行 路難からず
眉齊玉椀日酣歡     眉は玉椀に齊しく日々酣歓す      『星巌集』には椀→案
出關詩賦人爭誦     関を出る詩賦 人 争って誦す
君是今時梁伯鸞     君は是れ 今時の梁伯鸞

梁川星巌「次韻答茶山翁見贈」  次韻して茶山翁の贈らるるに答ふ 『星巌集乙集』 巻一5丁

住自不安行更難     住 自ら安からず 行は更に難し
荊釵何暇共酣歡     荊釵 何の暇あってか 酣歓を共にせん
吾生唯有飄零似     吾が生 唯だ飄零の似たる有り
慚殺高人梁伯鸞     慚殺す 高人の梁伯鸞に

梁伯鸞の故事は本文に詳しい。
しかし「荊釵何暇共酣歡(ほんに偉さうに一緒に酔っぱらっとるです。)」とは、随分の言ですね(笑)。

菅茶山「詩禪和答前詩疉礎重贈詩屬中元郷閭以久旱廢踏唱因及」 『黄葉夕陽村舎詩遺稿』巻三6丁

大旱村閭得客難     大旱 村閭 客得がたし
踏歌無賞孰能歡     踏歌 賞無く 孰れか能く歓せん
良宵寂寂松窓月     良宵 寂寂 松窓の月
喜見文簫伴彩鸞     喜びて見る 文簫の彩鸞を伴ふを

踏唱の民俗を詳らかにしません(盆踊りのことか)。

文政八年(1825) 11月3日〜11月8日(帰路)

梁川星巌「重訪茶山翁」  『星巌集乙集』 巻四7丁

天涯倦客冷吟魂     天涯の倦客 吟魂冷かなり
行李重過黄葉村     行李 重ねて過る黄葉村
流水浮萍嗟我迹     流水 浮萍 我が迹を嗟き
斜陽高柳認君門     斜陽 高柳 君が門を認む
論心白酒三杯釅     心を論じて 白酒 三杯釀(あじこ)く
満面春風一夕温     面に満つる春風 一夕温かなり
深荷葑菲承不棄     深荷す 葑菲 不棄を承るを
半生浪泊復何言     半生の浪泊 復た何をか言わん

「葑菲」は、詩経國風に「葑を采り菲を采る。下體を以てすること無かれ」とあり、かぶらの味が不味いといって、かぶ菜まで棄てるな。の謂。 「夫婦ふたり一緒」を謙譲して指してゐるのはその通りですが、さらに「白酒三杯釅」の条りは蘇軾の詩の「江城の白酒三杯にして釀(あじこ)く野老の蒼顔一笑にして温かし 已に約す年年此の会を為すを故人用いず招魂を賦するを」を踏まへてゐて、つまり話題は半月前に塾を訪れた頼山陽について、その春風逝去の傷心の事に及んで、 これをほのかに詠みこんでもゐるやうな趣きです。


【ノート12】  頼山陽との最後のやりとり 下巻 507〜508p

 そして、その星巌が立ち寄った半月前、頼山陽が叔父春風の葬儀ののち神辺に立ち寄った際、茶山から山陽に対して贈った詩なのですが、抄出にして解釈が半端に終ってゐます。 茶山と山陽の永訣を感じさせる詩といっては、むしろ前回の来訪(496〜499p)文政七年十月、母と倶に滞留したときの方が哀切極まるものがあり、 こと山陽に対してはその後のやりとりが蛇足ではなくとも散文的に感じられるのですが、結果的にこれが二人の最後の面晤となったのであり、富士川氏の別著『菅茶山と頼山陽』の方には、 全詩と詳しい註釈が付してありましたから、そちらをまるまる紹介して本書の理解を助けたいと思ひます。少々故事が詰まり過ぎ教示に頼った解釈なので、再び引くのを躊躇はれたのでせう。

「十月望草堂集適頼子成來同賦贈之時子成新喪仲父」 『黄葉夕陽村舎詩遺稿』巻五13丁

去歳潘輿宿吾家     去歳 潘輿 吾家に宿り
今年徐鏡復來過     今年 徐鏡 復た来て過らる
同是黄州後遊夕     同じく是れ 黄州(赤壁の地)後遊の夕
恰値尊前雅客多     恰も値ふ 尊前 雅客の多きに
君悲此行喪大阮     君は悲む 此行 大阮を喪へるを
客喜當筵得老坡     客は喜ぶ 筵に当たって老坡を得るを
去年今歳連此會     去年 今歳 此の会を連ねるは
我於桑楡樂何加     我が桑楡(晩年)における 楽しみ何ぞ加へん
靜聽水聲帶哀怨     静かに聴く 水声 哀怨を帯びるを
却覺月色添光華     却て覚ゆ 月色 光華を添へるを
南阮有喪雖可悼     南阮 喪有り 悼むべきといへども
北堂無恙亦堪歌     北堂 恙なし また歌ふに堪へたり
一戚一忻是常事     一戚 一忻は是れ常事
不妨同酔作微酡     妨げず 同じく酔を微酡に作せしを

右の詩の第一句と第二句の「潘輿」と「徐鏡」は、言うまでもなく、ここで互に対をなしている言葉であるが、「徐鏡」は、神田孝夫氏の示教によれは、好男子とか、 美青年とかを意味する言葉で、漢詩人が相手を美化して言うときなどにしばしば用いる、いわば常套語の一つなのだそうである。この言葉がそういう意味をもつようになったのは、 『戦国策』のなかの或る小話にもとづくらしいが、そのことはいまここでは述べない。
 次に「潘輿」の潘は晋の詩人で、また美男子の聞えの高かった潘岳のことであり、「潘輿」は従って藩岳の輿(かご)ということになるが、しかし、これも神田氏の示教によると、 茶山が右の辞で「徐鏡」に対する言葉として「潘輿」と言ったとき、おそらく潘岳の「閑居賦」という長い詩のなかの「大夫人板輿軽珂」という句を思いだしていたのだろうという。 ところで、もしそうだとすれば、大夫人とは諸侯の未亡人を言うのであるから、この場合には梅颸のことが考えられていると言ってよいだろう。 前年(文政七年)山陽が梅颸とともに黄葉夕陽村舎を訪ねてきたとき、茶山は「恰も潘郎の母に陪して至る有り」と詠んで、既に山陽を潘岳に擬していたが、 その比喩をここで再び用いているのである。つまりこの詩の冒頭の「去歳、潘輿、吾が家に宿り」という句は、山陽に向って、 「去年、あなたは母君といっしょに吾が家に宿ってくれた」というほどの意味をもつ句となり、それにつづく「今年、徐鏡、復た来り過ぐ」という第二句は、「今年はあなただけだが、 またよく訪ねてくれた」という意味になるのである。因みに神田氏の語るところによれば、「徐鏡」というのは、いわば詩人たちの慣用句の一種であるから、 これを詩中に使うことは別に異とするに足らないが、その対の言葉として、即座に美男子の潘岳の「閑居賦」を思いだして、「潘輿」と言い、 それで以て山陽が去年は母の梅颸とともに訪ねてきてくれたことを言ってのけたのは、十分に嘆賞に価する詩技なのだそうである。この詩を山陽が許して、 「おもしろき事に御座侯」と言ったとき、彼としても当然この詩のそうした面白味を読みとっていたに違いない。
 次に第三句の「同じく是れ黄州後遊のタベ」という「黄州後遊のタベ」はもちろん蘇東坡が赤壁に遊んで、「後赤壁賦」を作った日、つまり十月十五日のタベであり、 「大阮」はひとの叔父をさしていう言葉で、ここでは春風のことである。「桑楡」は老年とか、晩年とかという意味であるが、「南阮」はこの詩では特殊な意味で使われているようである。 もともと「南阮」という言葉は晋の阮咸・阮籍等をさす言葉で、彼らが道の南側に住んでいたために、北側の阮氏に対してそう称せられていたのだという。しかも、 その「北阮」が富有であったのに、彼らは貧しかったので、「南阮」はまた貧老の別名にもなっているらしいが、右の詩のうちで茶山は「南阮」という言葉をそうした意味ではなく、 次の句の「北堂」の対句として用い、「北堂」がこの場合、梅颸をさしているのに対して、春風のことを「南阮」 と言っているのである。そして「南阮、喪有りて悼む可しと艶も、 北堂、義無く赤た歌うに堪えたり」というのは、叔父春風の喪を弔った山陽に幸いにもまだ母梅颸が健在であって、 彼がこのたびもまたその母を広島に見舞ってきたことを祝った句なのである。(『菅茶山と頼山陽』 220-222p)

 さて先ほど申しましたやうに、やや蛇足気味に(?)その後も二人の間では口さがない(?)書翰のやりとりは続くのであります(笑)。そのうち、 山陽が茶山に宛てて文政九年十月十八日に綴った手紙ですが、そこに現将軍、徳川家斉の太政大臣宣下を「けしからず悪しき例」であるとして、あからさまに非難してゐるのは、 山陽が主著『日本外史』擱筆の際、
「蓋し武門の天下を平治する、是に至りて其の盛を極むと云ふ。」
 と寿いだ、正にその事跡なのでありますから、さすがに注意を喚起せられます。けだし頼山陽の主著であり遺著となった『日本外史』といふ歴史書は、 その行間の思ひを恣意的に読み進めた次世代の志士たちによって倒幕のバイブルとなった訳ですから。一体に茶山も、歴史的な教養をもって皇室を奉戴する気分が強く、 これは反体制ではないにせよ今日の文学者が、自由主義に殉じた先人を称へることと大差がないもののやうに思はれます。むしろ自由の少なかった幕府体制を昭和戦前の体制に准へて云ふなら、 彼らが楠木正成を称へることは、共産主義者が小林多喜二を悼むことと同様に悲壮なロマンを伴ひ、またその忠孝を実践した理想の姿に幕府が文句を付け得ない点では、 日本浪曼派のイロニーをも感じさせる。さう譬へても間違いではないやうな気がします。さうしてまた茶山も、この世の平安の極みといふべき世態に遭遇するたびに、 狸親父らしく鹿爪らしい顔をし、澆薄陵遅の世態を痛罵する気持ちをもってこれを寿ぐ言葉を吐くことがしばしだったのであります。しかしその責はあくまで政策担当者に感じて、 幕府体制そのものには感じなかった。幕府が顛覆したらいい、とか、少なくとも面白い位は考へてゐたのでせうか。茶山も頼山陽も幕府に対する邪揄は、 又び譬へるなら戦前文学者がオフレコで「天ちゃん」と称してゐた程のことであったでせうし、以下、安政の大獄を前に仆れた梁川星巌にあってさへ、 観念的ロマン主義に基づいた火遊びの段階であったやうに思はれます。実際の外圧を前にしてパニックを起こした当局者により、これらの政治的未成年者グループの暴走族が危険視され、 いきなり死刑にされてしまってから、事態は深刻な展開を始めるやうになったのであります。


【ノート13】  をはりに

 長々と続いた「閑人読書ノート」でしたが、今回はここでお終ひです。念願の大著を読了して不満に感じたのは、冒頭に述べた仮名遣ひのことと、 今回菅茶山の伝記を中心に詩が選ばれてゐるために、詩単体としてすぐれた作品がパスされてゐることでした。それは『江戸後期の詩人たち』に譲ったといふことでありませうが、 中村氏の『頼山陽とその時代』同様に、有名作品についての解説やコメントがほしいところでした。また、鴎外が主人公没後の遺族の姿を坦々と追っていったやうに、 周辺人物のその後をもう少し列挙することで、例へば没年について順番に語ってゆくだけでも、これだけ広がった人脈の、 また果敢なさとともに時代をあとにする読者の感慨を呼ぶところとなったのではないでせうか。以上、勝手気侭な望蜀の感を記し、以下細々した誤植と不詳箇所を列挙して終りたいと思ひます。

不詳箇所につきましてはひろくみなさまの御教示をお待ち申し上げます。

27 語釈 濂洛の学 濂(周敦頤)洛(二程:程明道・程伊川)関(張載)?(朱熹) れんらくかんびん
31 語釈 ・・(せんせ ん)くどくど 小言は・・ (せんせん)たり。
31 語釈 羊棗瘡痂 傷物のナツメ
38 語釈 稠人広坐 -
41 誤植 ×叔夜燭/○寂夜燭 -
45 誤植 ×警/○驚(原本) -
45 誤植 ×僑居/○僑舎(原本) -
45 語釈 一旦言歸を告げ 一旦言(ここに)歸を告げ
51 誤植 ×陶陶施施と うとうしし/○陶陶施施ようようしし -
57 誤植 ×貌/○猊 -
86 誤植 ×一噱イッキョ/○一噱イッキャク 大笑ひ
111 誤植 ×牛海だろ。/○牛海だろう。 -
127 誤植 ×稠人チョウ ジン/○稠人チュウジン -
136 語釈 △容〓/○容皃(貌) 原文の誤字を そのまま写したか。
144 誤植 ×晉師/○晉帥 -
146 誤植 ×遺る/○遣る -
162 誤植 ×奔鹵/○莽鹵 -
180 誤植 ×衆生のの縁/○衆生の縁 -
184 誤植 ×1765/○1756 -
202 不詳 鸞徒 大漢和にな し。
220 誤植 ×圮/○圯 -
224 不詳 是ニ而下地指 上置候見セ本と徼し而念冊 (見本として予め差し上げた本)と?して(からめて)二十冊」の謂か。
253 不詳 水中に昌[蜀欠]多く 菖蒲(菖歇?)のことか。
259 不詳 「鎔果」 大漢和にな し。土産に適し(297p)、枚数で数へて、鯉にも与へ得、尨犬も食ふ(笑 259p)。けだし鋳型で焼く煎餅の類か。
262 不詳 山[日市] 大漢和にな し。
297 不詳 楚萍謝絮 「楚江の萍」 孔子家語より。楚の昭王は長江をわたっていた。流れの中に何かういているものがあった。大きさは一升枡ほどで、円く赤い色をしていた。舟につ き当たったので、船頭がひろい上げた。昭王は家来たちにたずねた。かれらもよく知らなかった。そこで、使いに土産を持たせて魯国に行かせ、孔子にたずねさ せた。孔子はいった。「これは萍の実です。わって食べるのです。また、幸いを持って来るめでたい果実で、天下の征服者だけがたびたび手に入れています」 と。
301 誤植 ×洎瀬/○泊 瀬(はつせ 初瀬) -
314 誤記 菊池五山が茶 山と出會ったのも、この日か、その前後のことであったと思われる。 菊池五山は寛 政10年に江戸を追はれ、流浪の後、伊勢四日市に文化3年まで逼塞したので、茶山が 文化2年上京した際の事と思はれる。
320 語釈 七ツ寺(時?) 七ツ寺は名古 屋市中区大須の地名。ちなみにその少し前の詩名にある「野間内海」は「のま・うつみ」地名です。
323 不詳 蚕忙纔緩又分袂 原本でも 「蚕」で「蚕忙:」の熟語もあるのにことさら「てん」と訓む難字を宛ててゐる。
323 語釈 艾葉 よもぎは端午 の節句に用いる野草にして、伊吹山名産。
324 不詳 臨風誰憶謝玄暉 この詩は李白 の「秋登宣城謝?北樓(秋、宣城の謝?(しゃちょう)北楼に登る)」をふまえる。 江城如畫裏江城 画裏のごとく 山曉望晴空山暁(あ)けて 晴空を望む 兩水夾明鏡両水 明鏡を夾み 雙橋落彩虹双橋 彩虹を落とす 人烟寒橘柚人烟 橘柚寒く 秋色老梧桐秋色 梧桐老ゆ 誰念北樓上誰か念はん 北楼の上 臨風懷謝公風に臨んで謝公を懐はんとは
333 語釈 「唐翁」 宋、林堯叟の ことか。
335 誤記 ×「寛政六年 には三十歳」/○「寛政六年には四十歳」 東東洋 宝暦 5〜天保10
343 不詳 華v 広漢和になし。
395 誤植 ×君今南去我 東遷/○君今南去我東還 -
395 語釈 倦鳥 鳥倦飛而知還 陶淵明「帰去来の辞」
403 語釈 牛衣 牛衣対泣 (貧乏の象徴)
404 不詳 枕雲上人之 「越中」 なぜ詩中には 君獨向「金城」とあるのか。
410 不詳 四方の俊髦を 兒待す 四方の俊髦を 兒侍(侍児)せしむ
415 文献 「十春詞の穣縟」 『三好達治全 集』巻七369-383p
452 誤記 ×比叡山の雪 だろう/○伊吹山の雪だろう -
458 語釈 翠閣紅橋坐[ざして]自移 翠閣紅橋坐[居ながら]自移
459 不詳 珂聲 珂声は玉の名 だが三囲(みめぐり)稲荷へ玉姫稲荷が狐の嫁入の謂か。鞭影が不詳。
464 語釈 軋軋鴉 鴉軋 軋軋  艪のきしる音
465 語釈 典刑 古い法 鎌ヶ 谷の刑場跡の謂
469 語釈 河伯亡羊の嘆 黄河の神「河伯」が海を前にして嘆いた謂
472 不詳 ×「青山荘」/○「西山荘」 青山荘とも 云ったか。
479 語釈 郢教 詩文の添削を 乞ふ際の脇付。郢政、斧政、削正。運斤成風の故事より。
490 誤植 ×花折/○花拆(花ひらく) -
497 誤植 半髠はんひん はんこん (鬢が半分禿げてゐる)
498 語釈 封管 領地のこと
509 語釈 神純甫 米沢藩儒、神 保甲作のこと
509 不詳 避穀和尚渓月 -
509 語釈 貫世華 大貫退蔵のこ と
518 語釈 洞洞屬屬 小学明倫6 ○禮記に曰く、孝子の深愛有る者は必ず和氣有り。和氣有る者は必ず愉色有り。愉色有る者は必ず婉容有り。愛は心に根ざす。故に其の外 に發見すること此の如 し。孝子は玉を執るが如く、盈るを捧ぐるが如く、洞洞屬屬然として勝えざるが如く、將に之を失わんとするが如し。洞洞は質愨の貌。屬屬は專一の貌。上に愛 を言い、此に敬を言う。故に曰く、愛敬親に事うるに盡す、と。嚴威儼恪は親に事うる所以に非ざるなり。嚴は嚴肅を謂う。威は威重を謂う。儼は儼正を謂う。 恪は恪敬を謂う。四の者の容貌は親に事うるの體に非ず。親に事うるは當に和順卑柔にすべし。
520 不詳 耘の先生に辱交するや -
522 不詳 淪(しずむ)肌瀹(ヤク:ひたす)髓 淪肌浹(ショウ:うるほす)髓といふ言葉はあるらしい。
536 誤植 ×[殷心]紅/○殷紅 赤黒い色
554 語釈 匪莪 後年、自身の 関防印に使用
554 語釈 御安履奉賀候 履(幸せ)
554 語釈 尊履万福 履(幸せ)
9 誤植 ×幽野/○幽墅 -
25 語釈 如来命甫歳之御吉兆 来命の如く甫 歳の御吉兆(御来諭の通り正月の御吉兆)
31 語釈 太田方擺 太田方(諱名)擺(活字を排列)
38 誤植 ×會見雖云潤/○會見雖云闊 闊は疎闊(まばら)の謂
42 語釈 楚材の所謂除 弊の一語 「一利を興す は一害を除くに如かず、一事を生ずるは一事を省くに 如かず。」耶律楚材
42 語釈 肺腑にして能 く語らば医師の色土のごとし」中国古諺 「肺腑而能 語,医師色如土(肺腑がもし口が利いたら医者の顏色は真っ青)」中国古諺
59 誤記 ×一生を獨身 ですごした/ 平田玉蘊はそ の後一度結婚してゐる。
71 語釈 お慮もじ(御慮文字)ながら 慮外なことながら
79 不詳 姑惡 秧鶏(くいな)。鳴声が「姑悪」の発音に通じ、中国では古来姑に虐待されて死んだ嫁の生れ変りとされた。
86 不詳 夫故少しだだけといふ気味 -
93 語釈 いくちもと 数千許株
93 語釈 さはなり 多い也
93 語釈 あやにくに 生憎に
93 語釈 出づべう 出づべく
93 語釈 病おこたる 治る
125 誤植 ×听夕切劘(きんせきせつま)/○听夕切劘(きんせきせつび) 听夕(不詳)切劘(学徳を磨く)
134 語釈 長命縷(ちょうめいる)は名詞。 薬玉(くすだま)。生薬の入った袋に五色の絹糸を結びつけたもので、端午に長命を願った。
137 誤植? ×棧馬/○賤馬 -
145 語釈 骨蒸 骨蒸労熱:結核性の熱を指す
159 不詳 未牌みはい ひつじの刻(午後2時頃を告げる鐘?)
203 語釈 未だ笄するに及ばざる まだ15にもならない
203 語釈 瓜李 『瓜田に履を納れず李下に冠を正さず』
205 語釈 婁子柔 明の朱白民
215 語釈 かの巨口細鱗のいを(魚)に名だたるうまさけ取たつさへて 鱸と銘酒を、とり携へて(巨口細鱗、状如松江之鱸。(中略)於是携酒與魚、復遊於赤壁之下。『後赤壁賦』)
215 語釈 こはやつかれか これは私めが
215 語釈 このゆふへをくれるいをも この夕べ、招(をぐ)れる魚(招きよせた酒)も
216 語釈 うけはる でしゃばる
235 不詳 矢野秉次、山 本北山門人美濃の人渡邊司を攜へ來る -
239 語釈 緑鳧 鴨形香炉のことか。
254 語釈 魯皐を譴(とがむ)る 齊人歌曰:「魯人の皐(ゆる)き、數年覺らず。」魯人の皐緩(ずぼら)、数年斉の稽首に答ふることを知らず。(春秋左氏傳:哀公二十一年)
269 語釈 小宰羊 豆腐のこと(故事:清貧副知事の羊の謂)
269 語釈 房銭 やどせん
273 語釈 石鮅 オイカワ (鮅=鱒)
274 語釈 [虫國]聲 蛙声。螻[虫國]ろうかく。
274 語釈 山足桃多く 山足(やまあし:麓に)桃多く
280 語釈 朱鬛 鬛は小鰭、鯛 のこと。
280 訂正 舊識を疑い 舊識に擬し(馴染み扱ひをしてくれ)
281 語釈 竹笨車 竹製の粗笨な駕籠
282 語釈 烟簑 烟蓑雨笠(雨具、転じて隱者の自適生活を云ふ。)
288 不詳 [享單]柳たんりゅう -
288 誤植? ×輔時/餔時もしくは?時(夕方) -
300 語釈 杖銭 杖頭銭(晋の阮修が常に銭百文を杖の先にかけ酒店に飲んだ故事)
303 誤植 ×糠兩/○糠雨 -
307 語釈 鸛/鵑 こうのとり/杜鵑ほととぎす
309 語釈 斗量帚掃 升で量り、箒 で掃き捨てるほど多い
313 語釈 労瘵 労咳・肺結
313 語釈 快捕(手) 快手=捕り手 役人
314 語釈 人間には好對 有之ものに候。 世間[ジンカン]にはよき連れあひがあるものです。
314 誤植 汗衊 汙衊、汚衊。おべつ。血を流して汚す
317 誤植? ×拘彎/○拘攣:筋肉の異常緊張 -
317 語釈 玉椿八千代 幾久しく
317 語釈 末の松山波も 越えなん 君をおきてあ だし心をわが持たば末の松山波も越えなむ(古今集東歌)末の松山:宮 城県多賀城市
320 不詳 眞个 まことに
321 誤植 御見葉 (初版のみ) 御見棄
321 語釈 庭前など 庭前など(昔と変りなく)
324 語釈 当子 当子年
338 語釈 清塵濁水跡難狎 清塵(あなた)と濁水(わたし)は本来逢ふ事の叶わぬ筈なのに
340 語釈 猜拳賭酒 じゃんけんに負けたら杯を乾す
340 語釈 傞々 酔って舞ふさま
343 語釈 疎懈 怠慢疎漏
344 語釈 囱劇 怱劇 あわただしい
346 語釈 濡染 カブレ
346 語釈 被髪侏離の語 解し難い外国語
346 語釈 陰晷いんき 時間
346 誤植 以て飲も過ぐ可し。 以て飯も過ぐ可し。
363 誤植 萱堂×せんど う/○けんどう -
365 語釈 雨つつみしたれば 雨包み(覆ひ)をしたので
369 語釈 子昂の書の羲之に淵源せる 趙子昂(元時代の書家)
379 誤植 ×楊冰不冶、 陰火潛然/○陽冰不冶、陰火潛然 -
379 語釈 出畫一五六ふくに過ず 出画15〜16幅に過ぎず
386 語釈 掣雷 閃雷
387 語釈 香闉 闉 外城の 門、ここでは寺を指す。
393 語釈 支遁 晋の格義(老荘)仏教の僧
397 語釈 奥産金鼠一箱 奥州産のキンコ(干し海鼠)一箱
407 語釈 帘影 帘 酒屋の旗
408 語釈 余、塗に遇う みち
410 語釈 大凡百行餘 厠へゆくこと
411 語釈 瓜時 陰暦七月
411 語釈 江戸二分判の沙汰ばかり 文政二分判金(鋳造)の噂ばかりの謂か。
413 誤植? ×おす捲上る/○みす(御簾)捲上 -
413 語釈 月そよにたくひなき 月ぞ世に類ひなき
414 語釈 遽皈 にはかに帰る
414 語釈 遽皈=遽帰(きょき) にはかに帰る
414 語釈 藍尾 婪尾。座中にあまねく酒をつぐこと。
414 不詳 甚則先生 山陽茶山間で 通ずる符牒の綽名と思はれる。
418 語釈 そうじみ來り さうじみ:正身(ご本人)来り
425 語釈 分携 分離
430 語釈 華陀の遺し得た方を授けらるるに非ず 自分で麻酔法を発見したのだ
430 語釈 玉女祠 和歌山県新宮の徐福伝説(玉女=弁天)を指すか。
430 不詳 金剛峰 高野山
431 語釈 当時存本色候も可然ヤと、先に急ギ奉汚尊覧候 当時、生の雰囲気を留めた詩もそれでいいかと、急いで御覧頂きましたが、
432 不詳 甜赤 -
433 語釈 后羿(こうげい)の故事 不老不死の薬を飲んで月へ上った嫦娥のこと
435 誤植 ×城墟興梵臺/○城墟與梵臺 -
441 語釈 荘樗 村荘の樗材、 田舎の役立たず
452 不詳 且目底戯綵  爲人所奪 且つ目するに、なんぞ戯綵(老人を楽しませる孝行)の、人の奪ふ所となせる
453 誤植 ×昌[蜀犬]羊棗しょうしょくようそう/○昌[蜀欠]羊棗しょうしょくようそう 人夫々の好物(曾ルのナツメ、楚文王の菖蒲の漬物)
453 語釈 芋魁 京野菜の一。 頭芋
456 不詳 動履勝常 ややもすれば禧ひ常よりすぐれ
461 語釈 縦い藍田の會を継ぐとも 年少の俊英との会合はあっても、(藍田生玉)
461 語釈 表忱叱存 聊表鄙忱,萬望叱存,幸幸。『終須夢』
507 語釈 私の、私たちの。身内親しい関係について云ふ。
513 語釈 ×堯韮はかぶらの一種/○菖蒲 -
516 語釈 ハマスゲではなく、かやつり草を指す。
517 語釈 不騫 「南山の寿の如く騫けず崩れず」詩経九如篇
517 語釈 覶縷 らる 委曲詳細
526 不詳 筆楚を御加へ -
532 語釈 温生捷 温庭のような詩作の速さ。
532 語釈 張旭顛 張旭のような詩作への熱中。
534 語釈 シ然 かいぜん 心配ないさま・へっちゃら

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