(2010.01.18up/2014.08.15update) Back

こばやし まさずみ【小林正純】『温室』1941


温室

詩集 『温室』

小林正純 処女詩集

昭和16年 3月31日 詩文学研究会発行
詩文学研究会叢書第二編

並製 26.4×18.9cm 67ページ \1.30(特製本)

刊行数不明 別に家蔵版特製(大判緑洋布装アート紙版函付き)がある由。普通本は未見。

  中扉

序(梶浦正之) 1 2 3 4 5

詩文学研究会叢書

季節の姿勢

敬礼 1 2 
姿勢 1 2 
潜流 1 2 
転向 1 2 
美訴 1 2  
変化 1 2 3 
中学生 1
履歴書 1 2  
栗色の病気 1 2  
拿眠 1 2  
霧 1 2 3 

温室の葩

温室 1 1 2  
温室 2 1 2 3  4 
童話 1 2 
返事 1 2 
月見草 1 2 
スケート 1 2 
青インクの会話 1 2 
朝の歌 1 2 
初茶会 1 2 
野点 1 2 
伊羅保茶盌 1  
深夜 1 
峠 1 2 
秋くずれ 1 2 

目次 1 2 
奥付 
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小林正純(本名小林正種)は津島市出身で高山機関区にあったひと。明倫中学校夜間部卒業。美形で有名な九代目市川海老蔵に顔立ちが似てゐたと伝へらる。豪北へ出征の後、戦死した。
「詩文学研究会叢書」はこののち陸続と30冊余が刊行されたが、詩人は同郷の先輩詩人梶浦正之を雑誌創刊の時よりサポートしてきた人であったから、 師匠の訳詩集に続き、名誉ある第二編の席を用意されたものと思はれる。以降の叢書巻末に付せられた宣伝欄には、
「東洋的古典の真髄と西欧的抒情との融合の精華「詩文学研究会が続いて詩界へ示す真摯なる新人の第一矢」とある。梶浦正之が序文に述べるやうにモダニズムを下敷きにしながら (「拿眠」「月見草」ほか)、詩境転身を図ってゐる様子が窺はれる。集中最後に置かれた「秋くずれ」などは、爾後の進展が期待される佳品であると思ふ。

 しかし今日この本が注目を引くのは師梶浦正之との関係ではなく、むしろここから巣立って行った詩 友、木下夕爾の処女詩集『田舎の食卓』の装幀をそのまま踏襲してゐることであるかもしれない。当時木下夕爾はすでに第二詩集『生まれた家』を刊行し、気鋭の新進として詩壇に遇され始めてゐた。 この叢書にも第七編に『青草を藉く』として参加が予定され、先行して宣伝も打ってゐる。梶浦が愛弟子の処女詩集を、会を挙げて刊行開始した叢書の第二編として位置づけるとともに、 一番弟子と恃んでゐた木下夕爾の出世作の装釘を形の上では倣ったこと、なかなか用意周到であったと云はなければならない。

 さて、しかし木下夕爾の第三詩集『青草を藉く』結局刊行されなかった。これは実のところ文学的野心を若き日に一度断念した夕爾が、 詩的出自を名古屋ではなく東京・堀口大学門下にありと私かに自負してゐたこと、一方の梶浦正之が夕爾のことをなほ「詩文学研究」社中のホープとして参加させることで叢書に箔を付けようと考へたこと、 これらの思惑が終にすれ違った結果のやうに思はれる。おそらく経費は各自著者持ちの自費出版であったに違ひない。会員ならば誰でも作ることができたと思はれるこの叢書の一冊に入ることを、 夕爾は拒んだのだらうか、それとも一冊にするだけの作品が集まらぬまま敗戦を迎へ、そのまま熄んでしまったのだらうか。(『青草を藉く草稿』の名の下に15篇清書された原稿が残されてゐるが、 昭和19年の作品を含んでをり、刊行遅延された末に清書された草稿のやうである:ふくやま文学館資料)。 この叢書の意義は、しかし小林正純を初めとする沢山の無名に終った詩人達の処女詩集が、そのまま戦地へ赴き不帰の人となった若き戦没詩人の遺書となったといふところにある。 叢書すべての巻頭に序文を書いてゐる梶浦が、なにかしら意気軒ミに特攻隊を送り出す部隊長のやうに見えてくるやうな回想文がある。

 (前略)当日の会の顔ぶれは30名たらず。いい合せたように冴えない顔色と暗く沈んだ表情は戦局の不利というよりも、 自らに迫ってくる運命とのたたかいに疲れきったといういい方が当っていたであろう。その日、梶浦正之師は詩集「三種の神器」を出版したばかりで、 その四六版大の外箱・紫・赤二種色分総生地張の豪華製本は絢爛目を奪うばかり、師の説くところ皇国日本。会する者、ひとしく腕を組み憮然たる面持。 (略)血色のすぐれた師をとりかこんでいる愁訴にみちたまなざしを、その日、全国から集まっている詩人に見たのである。(後略) 上本正夫「木下夕爾との出会いのこと」(『含羞の詩人木下夕爾』1975刊 木下夕爾をしのぶ会実行委員会)より

 戦争たけなはの頃の出版記念会についてかうした思ひ出を語った資料は少ない。それはとりもなほさず生き残り、ふたたび詩筆を執った詩人が少なかったことを証ししてゐよう。 戦意高揚に余念のなかった詩文学研究会と距離を置くやうになった夕爾は昭和19年、故郷福山において僅か16p、『晩夏』といふ名の、全く時局とは関係ない私家版詩集を、たった75部ひっそりと編んだ。

※伝記にあたっては『名古屋地方詩史』48p『飛騨戦後詩史』20pおよび鈴木登様からの御教示を忝くしました。(2014.08.15update)

巻末宣伝

奈良進詩集『出発の朝』(詩文学研究会第四編)巻末宣伝欄

巻末宣伝

巻末宣伝

澁澤均『さくら』(詩文学研究会第22編)巻末宣伝欄


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