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「田中克己について 戦争詩の周辺」

平成18年度四季派学会大会(2006年10月21日 於 松蔭大学会館:神戸松蔭女子学院大学)での講演録をもとに、訂正、追加を施したものです。


1.ごあいさつ

 はじめまして。只今紹介にあづかりました岐阜女子大学図書館の中嶋康博と申します。

 わたしはさきの平成4年度の四季派学会大会で、「四季」の編集同人であった田中克己の青春時代のことについて、研究発表をさせて頂きました。 ですのでこの場でお話しするのは二度目となります。現在は「四季・コギト・詩集ホームページ」といふインターネットのサイトを通じまして、 専ら戦前に活躍した四季やコギトの詩人たち、それから最近はまた、自分の故郷であります岐阜県の漢詩人たちについて、祖述といふか、紹介活動を行ってをります。 本来は大学教員でも有名詩人でもない自分のやうな者が、講演の部でお話をするのは僭越にすぎると思ふのですが、別にメインの演者がゐるからといふことでお引き受けした次第です。 30分位のはずが時間もたっぷりあるやうなので、普段人前で話をすることのない自分が果たして持ち時間に堪へるやうな話ができるかどうか、杉山平一先生の手前、 たいへん面目ないやうな申し訳ないやうな気持で立ってをります。

 ともあれ、私が近頃しきりに思ひますことは、四季派やコギトの人々が開かせた日本の抒情詩の精華を、私達以降の世代はどんな具合に受け継いでゆくのだらうかといふ、 疑問といふか不安であります。御存知のようにインターネットによって、私のやうな者でさへが情報の発信者となり得るやうになった反面、 これまで学術的な研究基盤だった大学における近代文学研究といふものが、組織的にも方法論の上でも大変難しいところに立たされてゐるやうに思ひます (事実私の職場では国文学科が廃止され、蓄積された近代文学関係の図書資産は死蔵同然の状況にあります)。 そして抒情詩の実作者と読者をとりまく歴史的な問題としましては、日本の自然や人心について、どんどん過去が理解できないやうな形で、なしくづしに変質して来てゐるといふ状況があると思ひます。 今日はさういふ意味では現代に語られることのなくなった歴史の側面についても話をすることになるかと思ひますが、よろしくお願ひを申上げます。

 話をもどしますが、前回発表しました内容は、論集の第五集(平成5年)にまとめまして、その後、 詩人が遺した詩作日記を翻刻した『夜光雲』といふ私家版の本のなかに(平成7年私家版、限定100部)、 解題として収録しました。現在はサイト上で読むことができます。それから翌年の平成8年になりますが、 詩人の詩業を集成した『田中克己詩集』を潮流社より刊行することとなりまして(限定300部)、その編集にも携はりました。 詩人の詩業を集成するつもりで臨んだ作品集だったのですが、ページ数の制約があって全詩集とすることを諦めざるを得ませんでした。しかしながら、 刊行された詩集と戦前の拾遺詩を中心に据えて、戦後の詩を厳選したことによりまして、詩人田中克己の生涯を俯瞰する上では、却って詩史的な存在理由を強調する内容になったのではないかとも思ってをります。 これはまだ残部が僅少ながらあると思ひますので、四季派やコギトの詩人それから日本浪曼派に興味をお持ちの方は、 少々高価(\9000)ですがぜひ刊行先の潮流社まで問ひ合はせて頂ければと思ひます。以上宣伝です。

 2.『大東亜戦争詩文集』

大東亜戦争詩文集

 この集まりは四季派学会といふ、雑誌「四季」に拠った詩人達、つまり昭和初期の口語詩において知的で温雅な詩風を確立した、 「四季派」と後世呼ばれるやうになった詩人達について論じ合ふ場な訳ですけれど、田中克己といふのは「四季」の初期(15号)からの同人ですが、それよりも早く、 雑誌「コギト」の創刊同人であります。そして活動の拠点とは云へばこちらの「コギト」の方でして、詩人自身が「四季に書くときにはよそ行きで臨むやうなところがあった」と話してをりましたが、 立原道造や津村信夫が代表するところの所謂「四季派」の詩とは少し毛色を異にする詩人であります。同じく初期から四季の同人になってゐる中原中也もさうです。 尤も中原中也は、カテゴライズされる際には、人生派といふか、草野心平の「歴程」の仲間に参入されることが多いのですけれど、編輯とは無縁の人ですし、早くに夭折してしまひます。 一方田中克己は、神保光太郎とともに、立原道造亡きあとは津村信夫と三人で「四季」の編輯にもたづさはることになりました。そして保田與重郎や伊東静雄や蔵原伸二郎といった人達が、 「四季」の後半から(53号より)同人に参入して参りますが、その呼び水となった同人のやうに考へられてをります。もっといへば「四季」を戦争で穢す方向へ牽引していった、 日本浪曼派(にほんろうまんは)の詩人の一人として、認知せられてゐるかもしれません。

 さて皆さんは現在刊行中の「近代浪漫派文庫」といふ叢書はご存知でせうか。 保田與重郎の全集を編集しました新学社による刊行ですが、その一冊、『大東亜戦争詩文集』といふ一巻にこのたび田中克己の作品が収められることになりまして、御遺族の許諾を得て、 私が収録詩の選定をすることになりました。これがこの8月に出来上がったばかりの一冊ですが、なかを眺めますと、内容は、さきの大戦で戦死・自決・処刑された人々による「大東亜戦争殉難遺詠集」。 これを前半部に置き、右翼の大物である三浦義一、影山正治御両人の歌集を次に置き、続いて田中克己の作品が24編収められてゐます。さうして最後に、 若手ロマン派の選手であった戦没詩人、増田晃、山川弘至のアンソロジーで締め括るといった構成となってをります。実際に読んで頂ければわかりますが、 前半の歌集部分と後半の詩集部分はかなり異なった印象を読者に与へると思ひます。特に最後の増田晃と山川弘至の部分は、『大東亜戦争詩文集』といふものものしいタイトルにはそぐはない、 従軍以前の若き日の作品群が多く収めてあり、どうしてこのやうな選詩となったのか私も知りたいのですが、残念なことに編集後記がありません。 尤も彼等も戦争詩ではなく初期の抒情詩が選ばれたことについては、これが一般書店においてまとまって詩が紹介される最初の場であることを思へば、むしろ幸せなことであったやうに思ひます。 ここで最初に、田中克己と共に収録された、この二人のマイナーポエットについて少し触れておきたいと思ひます。

 3.増田晃と山川弘至

 増田晃について申しますと、生前未刊に終った詩集に『述志』と『日本新紀』といふ従軍中の作品があるのですが、ことにも『日本新紀』といふ長編の戦争詩は、 彼が戦地から妻へ宛てた手紙のなかで、当初は、

「自分の今迄の詩はのこらなくても、この詩だけはのこるといふ確信がある(昭和18年4月16日、利子氏受取はがき)

といふほどの自負の言葉で臨みながら、結局は

「日本新紀はほぼ不成功と存じ候。このところ仕事の方がおもしろく候。日本新紀不成功はやうやく詩筆を絶たんかと思ひをり候。(昭和18年6月20日受取はがき)」

という風に煮詰まってしまった作品で、その二週間後に彼は戦死してしまひますから、つまり不本意ながらも絶筆といってよい作品かと思ひます。冒頭の一節から、

 その一

わが後に生まれ來む子らよ聞け、高光る日の御子のさだめます豊葦原瑞穂の國は、國はじめて二千六百年を経て、つひに未だなき國難にあひぬ。たとへば北風の吹き來り、 野の荊を吹きたふすごとく、米英はアジアを進略し來り、つひに隣邦中華もその風に靡きわが神國はつひに危機に及べり。

といった具合で、彼の師匠であった伊福部隆彦が、古事記を翻案して書いた詩集『日の皇子』、これに倣って日米開戦以来の歴史を、 詩によって闡明しようとした作品であります。これが今回の『大東亜戦争詩文集』には紹介されてをりません。代りに、 出征直前に刊行した私家版の処女詩集の『白鳥』(昭和16年3月)、その冒頭を飾る表題作や、 それに連なる若い日の作品が多く採られてをります。水がしたたるやうな言葉で、対象の輪郭をもどかしげに描かうとするロマンチックな、その「白鳥」といふ詩を少し読んでみます。

白鳥

しずかにゆるく
薔薇色の酒をながすやうに
いつか消えいるそのおもひ
白鳥がすべつてゆく…………
あつい火の接吻(くちづけ)のあとの
おきどころないこころとアンジェリスが
やさしい祈りをうたふとき
白鳥がすべつてゆく…………
雪よりもはかなくとけやすく
藍いかがみにうつるその白
その白をなげくやうに夢みるやうに
白鳥がすべつてゆく…………
その胸よりわかれるウェーヴのしわは
乱されたとも見えぬばかりに
いつか練絹のあはい疲れとなり
白鳥がすべつてゆく…………
その白いまろい胸にわかれるなみは
ルビーのさざめきをこぼしうつし
白い手に消えてゆくまどろみのひとときを
白鳥がすべつてゆく…………
夢によくみるこのひととき
夢のなかからみえてくる幾羽かの白鳥
ただすべってゆくばかりで
白鳥がすべつてゆく…………

 流石は同世代の立原道造と並び称せられた、育ちの良い、早熟な、都会派ロマン詩人の面目といったものが躍如としてをります。尤も大正四年生れの彼は、 一年先輩にあたる立原道造の繊細さを嫌悪するやうなところがあって、むしろ数年(4年ですが)先輩である田中克己の詩の、響きの高さや乾いた色彩の方により親近を覚えていったやうであります。 彼が戦地から葉書六枚を使って書き送った「田中克己氏のこと」といふ一文には、そんな消息が慌しく走り書きされてをります。ネット上にも上してありますが、 折角の四季派学会ですので、立原道造に関係する箇所を少し紹介したいと思ひます。

 田中克己氏のこと

 私がはじめて出た詩集の出版記念会は田中氏の西康省の記念会で、丸の内のマーブルでひらかれ、当時私は帝大生であつた。私は日ごろから寡黙であつたので、 この会でも黙つてすごしたのであるが、いつも着物をきて撫肩でやせた十一貫(41kg)の克己氏が、洋服をきてすはつてゐるのを見ると甚だ意外な流竄されたやうな気がした。

 流竄(るざん)…借り物のやうにしょんぼりみえたといふことでせうか。

 この席で立原氏を知つた。立原道造氏は詩よりも人間の方が魅力があり、死んだらなほ魅力があつた。ことにその許嫁と軽井沢にゆきテラスの高いところに詩の二行をしるした話や、 その美しい死をきくと、当時の私ははじめて詩人をみるやうで羨しくてならなかつた。

 この後斜線で消してあるのですが「その詩は自分はきらひであった」と書いてあります。

記念会のひけた夜、自分が田中氏の詩に呈した、「石榴がわれるやうな」といふ言葉が好きだといつて、立原と二人でお茶をのんだ。それからもよく立原君から手紙が来て、 長崎でたふれたときも、お家からすぐに手紙をもらひ、驚いた次第であつた。立原君ははじめからゆきづまつた人である。その詩はいいとかわるいとかいふ詩ではない。 立原という詩人は、もともと詩をかくのにうまれて来たのではなく、詩人に(として)限りなく愛惜されるために生れたやうな人であつた。さういふ人が沢山ゐた方がよいのである。

実はこの後に続く文章も斜線で消してある部分があるのですが

その席で佐藤春夫氏が立原氏の詩と田中克己の詩をならべてよく似てゐるといふやうな事をいはれた。当時立原氏の評判はあがってゐたのであるが、 自分はその時もさうは思はなかったし、今でもさう思ってゐない。田中氏は詩人に愛惜されるために生まれた人ではない。それが根本的にちがふのである。 その詩はむしろ勁さをもち、予言力をもってゐた。大東亜戦下の詩人を見れば分る事である。

と書いてあります。戦後現代詩の詩人たちが立原道造と決別する方向とは全く別の方向に、彼は立ってゐる訳ですが、田中克己をその引き合ひに出してゐるのが、戦時色濃くなってゆく時期にデ ビューした詩人の、世代の意見として大変興味深いと思ひます。

 もう一人、山川弘至は増田晃よりさらに一年後輩にあたる詩人ですが、コギトにも増田晃とは入れ替はるやうに数編の掲載がみられます。山川弘至は、私の故郷でもある岐阜県の、 奥美濃の旧家の出身ですが、国学院で折口信夫に薫陶を受けたエリート学徒として、国学の著作を二冊(『國風の守護』『近世文藝復興の精神』共に大日本百科全書刊行會)出してゐまして、 それらとならんで同じ昭和18年、出征半年前のことですが、『ふるくに』(昭和18年1月、まほろば叢書2 大日本百科全書刊行會)といふ処女詩集を刊行してをります。 これは当局の承認を正式に受けた刊行物だけに「九軍神に捧ぐ」「ソロモン海戦」といった戦争詩が、全体の半分近くを占めてをりますが、 また別に遺作としては『日本創世叙事詩』(昭和27年 長谷川書房)といふ、 新訳古事記と呼ぶべきやうな著作があります。本人の手になる序文は、戦時下における詩人の遺書として、決意として汲まれるべき文章でありますが、創作の意図は、 さきの増田晃の「日本新紀」とも符合するものが感ぜられます。これもネット上には上してありますが少し紹介致します。

(前略)今や自分の生命は、今日あつても明日を証(あか)しうるものではない。醜(しこ)のみ楯とすべてを我が大君にささげあました今日の時に、そのありのかぎりの生の時に、 過去数年にわたつて、辛苦勉励もつて到達せし信念の一端を、この民族の聖典をたてとしてひろく国民に語るをえば、けだしそれにすぐるよろこびはなく、又明日をはからぬ生命の日において、 いかなる困難と不便をしのんでも、神国日本のため、我が国の将来のため、このことだけは書きのこしておきたかつたのである。之は私の敵前における遺書の気持であつた故に、 平和な日に悠々机によつて草した研究書のごときものと、若干おもむきをことにすることは又、止むをえないところであらう。(後略)

 彼もまた今回この『大東亜戦争詩文集』に収められることになったのは、この序文でも、あからさまに戦争を題に採った詩でもなく、詩集『ふるくに』や遺稿詩集のなかから、 素朴な抒情詩がおもに選ばれてゐるのであります。確かに詩人の詩人たる所以が、同じ「死」を想ふにせよ、先ほどのやうな激烈な文章ではなく、 おしみなく回想される山家のふるさとの思ひ出に培はれた、次のやうな作品にみられることは明白でありませう。

 私が死んだら

私が死んだら
私は青い草のなかにうづまり
こけむしたちひさな石をかづき
青い大空のしづかなくものゆきかひを
いつまでもだまつてながめてゐよう。
それはかなしくもなくうれしくもなく
何となつかしくたのしいすまひであらう。
白い雲がおとなくながれ
嵐が時にうなって頭上の木々をゆすぶり
ある朝は名も知らぬ小鳥来てちちとなき
春がくればあかいうら青い芽がふき出して
私のあたまのうへの土をもたげ
わたしのかづいてゐる石には
無数の紅の花びらがまふであらう。
そして音もなく私のねむる土にちりうづみ
やがて秋がくると枯葉が
一面にちりしくだらう。
私はそこでたのしくもなくかなしくもなく
ぢつと土をかづいてながいねむりに入るだらう。
それはなんとなつかしいことか
黒くしめつたにほひをただよはせ
私の祖父や曾祖父や
そのさき幾代も幾代もの祖先たちが
やはりしづかにねむるなつかしい土
その土の香になつかしい日本の香をかぎ
青い日本の空の下で
私は日ごとこけむす石をかづき
天ゆく風のおとをきくだらう。
そして時には時雨がそよそよとわたり
あるときは白い雪がきれいにうづめるだらう。
それはなんとなつかしいことか
そこは父祖のみ魂のこもる日本の土
そこでわたしはぢつといこひつつ
いつまでもこの国土をながめてゐたい。
ただわたしのひとつのねがひは
──ねがはくは花のもとにて春死なん
 そのきさらぎのもち月のころ──

 かうしてみてゆきますと、この本の最後を占めるべき作品は、タイトルの趣旨からすれば、増田晃、山川弘至ではなく、たとへば大木惇夫、この人はすでに別巻にて収録済みですが

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕ベ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

といふ「戦友別杯の歌」で有名な『海原にありて歌へる』であるとか、

或ひは浅野晃による英霊の鎮魂歌、『天と海』(昭和40年4月)といふ詩集のなかの一章、

明けがたの海の
ほの白い渚をゆく
海は ただ
青く 遠い
世の人の永訣の時を
いまこの時と
何が決めるのか
けれど
海にはおもいいとなみがある
星には彼の光度がある
人には責務がある
われらは みな
責務を愛した また
この国土と
東洋の満月を
われらはみな
愛した
責務と
永訣の時を

(英霊に捧げる72章のうち9)

 かうした作品の方が相応しかったのではないかと思ったことです。

 さうして彼ら、増田晃と山川弘至については、杉山平一先生が著書の中でよく名前を挙げられます、能美久末夫、塚山勇三、或ひは西垣脩や鈴木亨、村次郎といった人々と一緒に、 「四季・コギト派第二世代」の詩の精華として、あらためて一巻が設けられるべき筋合ひのものであったやうにも思ふのであります。

4.田中克己のアンソロジー

 つまりアンソロジーといふものは、選ばれる詩によって随分読者に与へる詩人の印象が異なってくるものだと思ひます。田中克己のアンソロジーとしては、 中央公論社の『日本の詩歌』第24巻(丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎)の、阪本越郎氏の解説を付したものがもっとも懇切丁寧であり、 これを越えるものはないと思ひますが(詩人自身も阪本越郎氏には深甚の恩義を感じてゐたやうです)、実は今回、田中克己の詩を選ぶにあたっては、 タイトルが『大東亜戦争詩文集』といふことで、編集サイドからの依頼には予め「戦争詩を」といふ制約があった訳です。ご存知の方は少ないかもしれませんが、田中克己といふ詩人は、 戦後キリスト教に改宗し、最後の詩集とは云へば、信仰仲間だけに配った非売品の『神聖な約束』(1983年)といふ限定30部きりの一冊です。 不肖の後学(弟子)を自認する私も持ってをりません(笑)。ですが、さういふ心持で亡くなられたので、今回この叢書に田中克己が迎へ入れられるにあたっては、キリスト者として、 先生の遺志に背くことにならないか考へました。そしてかうして本が出来上がって、同時に収められた、特に前半の遺詠集に眼を落としますと、今度は反対に、 ただひとり生き残って世界観を変じた人間が、茲に会同した英霊たちからどんな風に迎へられるだらう、といふ不安も起こりました。さらに他所の巻に収められた立原道造、津村信夫、 伊東静雄、蔵原伸二郎といった四季やコギトの仲間達の作品、そして先ほど申上げました、この巻に一緒に収められた後輩の、増田晃や山川弘至に対する選詩の基準と比べましても、 何かこの叢書では代表作からの「ベストセレクション」を採られず、ひとりだけ損な役回りを演じることとなってしまった事の顛末については、詩人としての先生に誠に申し訳なく思ひ、 今回はさういふ訳でこの本に収められた詩篇の選について、覚書といふか若干の申し開きをしたいといふことでやって参りました次第です。

 田中克己は、所謂「日本浪曼派」の同人ではありませんが、先ほども申上げましたやうに、日本浪曼派のことを戦争賛美文学者として批判する人々からは、『神軍』といふ名前の詩集をもつことに象徴するやうに、むしろその精神を体現した戦時中の詩人として、 典型的な「日本浪曼派の詩人」とみられてゐるのではないかと思ひます。そしてさうであるならば、日本浪曼派世代の詩人がどんな風に「肯定すべき」戦争を消化して詩に表してきたのか、 ひとつアンソロジーを編んでみたらはっきりするのではないか、と考へ、この企画に協力させて頂くことにしました。編集の動機が、これまで繰り返されてきた戦争詩批判の立場では、 不取敢ないことが、どのやうにアンソロジーに反映され、読者に伝はるのか。製作年次順に並べて一覧することで、詩人の成熟と分解に至る過程を、前回全詩集を編んだ際にもまして、 一層先鋭的に示すことはできないか、そのやうに考へた訳であります。

 そんな観点ですから、所謂代表作は殆どが割愛されましたけれども、反対に詩人が単行詩集から省いた拾遺詩篇にも、面白いものがあれば入れることにしました。 あとは実際に作品を読んで頂いて感じて頂ければ済むことなのですが、まずは各詩篇の雑誌における初出年月を、所載詩集とともに一覧することにします。御手許の資料を御覧下さい。

掲載順 タイトル 初出年月  所載詩集

1 Marchen 昭和15年8月 「大陸遠望」
2 報告 昭和12年5月
3 秋の湖 昭和12年12月 「詩集西康省」
4 死者に敬禮せよ 昭和13年10月 「大陸遠望」
5 美しきことば 昭和14年3月
6 夏草 昭和14年8月 「大陸遠望」
7 大陸 遠望 昭和14年12月 「大陸遠望」
8 皇紀二千六百年の朝 昭和15年1月 「大陸遠望」
9 われ らは 昭和16年2月 「神軍」
10 昭和16年8月 「神軍」
11 この頃 昭和16年9月 「神軍」
12 ハワイ 爆撃行 昭和16年12月 「神軍」
13 昭和17年1月 「神軍」
14 日本を 愛す 昭和17年2月 「神軍」
15 死生有命 「南の星」
16 牟田口兵團 「南の星」
17 降服 「南の星」
18 印度洋 を見る 昭和17年9月 「南の星」
19 別れの宴 昭和18年5月
20 わが 従軍記 昭和18年6月 「南の星」
21 四季なきくに 昭和19年6月
22 ますらを還る 昭和19年12月
23 私は生きて 昭和21年9月 「悲歌」
24 哀歌 「悲歌」

 製作年次順とは申しましたが、実は一番最初には、昭和15年に発表された「Ein Märchen」といふ、戦争とも関係のないやさしい肌触りの詩を据えました。

 Ein Märchen            昭和15年8月初出 所載詩集『大陸遠望』

芝生のまんなかに噴泉(ふきあげ)があつた
それに影映して楡(にれ)の樹があつた

そこで或日七人の少女が輪舞(ルンデ)を踊つた
踊り疲れて坐らうとしたら椅子が六つしかなかつた
一人が立たされて泣きさうになつた
空は青く雲は白く風の薫る日だつた
その七人は結婚した 幸せだつた
だけどあの一人だけは早く夫を失つた
そして輪舞の日を憶ひ出して諦めるのだつた
あの楽しかつた日にも不運だつた自分のことを思ふと
ふしぎと心が鎮まるのだつた

 戦争で夫を失ったすべての妻たちに捧げる一篇として、同時に詩人田中克己自らの生涯を象徴的に予言するやうな一篇として、どうしてもこれを最初に掲げたかったのであります。 さらにそれは、先ほど申し上げましたやうに、奇しくも今回、多くの詩人のなかから田中先生ひとりが戦争詩だけを集められることとなった、 この叢書における不幸な待遇のことを諷してゐるやうでもあり、私が選んでおいて何なのですが、にがい内輪の「オチ」となってをります。

 5.大東亜戦争の定義

 さてここで言葉の問題ですけれども、そもそも「大東亜戦争」といふのは一体どんな戦争のことを指すのかといふことであります。日本が戦ったさきの戦争といへば、 一般に昭和12年盧溝橋に端を発する「日中戦争」と、それに続きます昭和16年12月8日に始まった「太平洋戦争」のことですが、ともに戦後さう呼ばれるやうになった呼称です。 ほかには満州事変に始まる中国への侵略を色濃く意味するものとして「15年戦争」といふ言葉があります。また一方、明治維新以降、黄色人種国家からひとり西欧の列強に伍し得た日本が、 西洋文明との最終的対決を掲げ、今次大戦を位置づけるところの「100年戦争」といふ考へ方もあります。「大東亜戦争」といふ呼称は、 日本が米英に宣戦布告した際に掲げたもので「大東亜(東アジア・東南アジア・太平洋諸島)共栄圏をつくるための戦争」といふ意味ですが、そのとき同時に、それまで行ってきた中国への侵攻をも含めて、 つまり盧溝橋に勃発した支那事変にさかのぼって「大東亜戦争」と呼ぶやう、戦争に対する認識が、初めて言葉とともに公に改変された訳であります。 戦争に大義が掲げられるまでは、中国への侵攻についてもはっきりこれを戦争と呼べない国際事情があったわけで(日本側にとってはこれ以上の国際的な孤立を避けたい、 中国側にとっては支援を受けてゐる西洋がまだ戦争には巻き込まれたがらなかった)、世の詩人達も、この昭和16年12月8日に至ってはじめて、 日中間の衝突の膠着状態にある原因が背後の西欧列強にあること、即ちこれを断つことが「アジア対西洋」といふ百年来の恨みに報ゆる正義であるとして、これまでとは打って変はって、 開放感をぶつけるやうに戦争詩を書き始めることになる訳であります。

 6.田中克己の戦争詩 そのT (日中戦争時代)

 それでは最初に田中克己が「大東亜戦争」の前半、日中戦争時代に書いた作品について見てゆきたいと思ひます。彼が「コギト」創刊とともに文学的デビューをした昭和7年から、 第一詩集『詩集西康省』を出す昭和13年までの間といふのは、満州事変以後の日本の帝国主義に反対する運動が、弾圧によって世の中から姿を消してゆく時期と重なるわけですが、 とりわけ昭和10年代に入りますと、詩人は普通に生活してゐて身の周りに現実として飛び込んでくる戦争、自国に課せられた宿命としての戦争といふのを、詩を書く上でいやが上にも意識せざるを得なくなってゆきます。 「四季派」にあってはこれを完全にシャットアウトすることこそが、謂はば一種の「意識」する仕方でもあった訳ですが、「コギト派」の詩には、 鬱屈の詩情、簡単にいふと真実を求めてモヤモヤする感情をぶつけるデスパレートな気分といったものが濃厚に感じられます。所謂「述志の詩」と呼んで差し支へないかと思いますが、 後年書かれる戦争詩とは、異なった受容を想定して書かれてをりまして、つまり一人の読者によって黙読されることを念頭に書かれてゐて、フィクションの殻に包んであるものも多いのです。 これらを順番に見て行きたいと思ひます。

 最初の詩集『詩集西康省』(昭和13年)の時代からは、二編のみ採りました。

 盧溝橋事件の以前に発表された「報告(昭和12年5月)」といふ詩は、戦争を舞台にしてはゐますが、描かれてゐるのは戦争の残虐性といふより、むしろ創作叙事に長けた詩人の文体が、 史実ロマンとしての戦争を記述するに大変マッチしたものであることを示したもののやうに思ひ、サワリとして入れました。

 報告            昭和12年5月初出

事件ノ性質上今ハ詳ニ説クヲ得ナイガ
陰山ノ北麓――百霊廟力四子王府ノ辺トデモシテオカウ――
ソコニ彼ガ率ヰテ駐屯シテヰタ蒙兵ノ一部隊ハ
突如兵変ヲ起シタ
尤モ蒙古兵将校達ハ既二数日前ヨリ逃亡ヲ開始シ
紅イ伝単ハ度々営内二見受ケラレタガ――
ソノ朝
彼ハ補ヘラレテ審問モナク
軍帽ト佩剣トヲ昨日迄ノ従卒ニ奪ハレ
目隠シヲサレタ後銃殺サレタ
彼ノ肉ト骨トハ蒙古犬ノ一群ガ即刻食ヒ尽シ
移動シ去ツタ部隊ノ跡二残ツタモノハ
彼ガ日来愛読シタ吉田松陰全集ノミダツタト云フ

 それが盧溝橋事件以後の作品である「秋の湖(昭和12年12月)」といふ詩に至って、詩人は列車で同席した地方出身の出征兵士に、 わざと「いくさのおかげで珍らしいところを見ました」と語らせます。この詩のラストに滲む思ひといふのは、けだし「反戦の詩」と「述志の詩」を二分する中間にあるやうに思ひます。

 秋の湖            昭和12年12月初出所載詩集『詩集西康省』

僕たちは秋の半日を一緒に暮した
下り列車の三等席のきまりとて
膝つきあはせて親密に語つた
「北支は今はもう寒いことでせうね
私は筑波の北の麓の生れ
家には五人の子供があります
村人たちは旗立てて送つてくれました
東京には十日間とまつてゐました
あの畑に白いは蕎麦の花でせうか
なんと唐辛子が沢山植わつてますね
ここらは私のくによりずつと豊かなことですね」
汽車は轟々と鉄路を走り
ひるすぎて一条の鉄橋を渡る
秋の遠江(とおとうみ)の浜名の湖
日は昃り 船は帰る引佐(いなさ)の細江
山々はしづかに湖に影映し――
兵士はじつと眼をすゑて眺め
楽しげに云ひ出して僕を涙ぐます
「いくさのおかげで珍らしいところを見ました」

 これは次の詩集の『大陸遠望』に収められた「死者に敬礼せよ(昭和13年10月)」といふ詩のなかでは、戦死者を前にして、 戦争に対する賛成の言葉も反対の言葉も書かないことによって誠実を記さうとする姿勢に変じます。さらにやがて、 「秋の湖」と同じやうに出征兵士を見送る「夏草(昭和14年8月)」といふ詩においては、表明される思ひが全て、出征してゆく兵士、その幸運と無事を祈る気持に向かふべく、 主体的にといふか能動的に変化していってゐるやうに思はれます。

 死者に敬礼せよ            昭和13年10月初出 所載詩集『大陸遠望』

死者に敬礼せよ
殷々と遠雷(とほいかづち)の如く轟き
わが友 歩兵中尉小寺範輝の柩車来れり
初咲きの菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり
思へば去年(こぞ)の夏 故里を立ち
山西は重畳たる山の国
幾何(いくばく)の敵や打ちけん 雪や分けゝん
はた閻錫山の作らしめゐし罌粟畑や見けん
一片(ひとひら)の便りだに来ず
五月若葉の朝まだき
山国の山西を出で河南省博愛県の戦闘に
尖兵の長にはありき
チェコ機銃 篁より火を吐くに突撃し
田の畦に斃る 二十七歳なりき
初咲きの菊 遅咲きのダリヤみな白くして愁ひたり
わが友 歩兵中尉小寺範輝の柩車は去れり
殷々と遠雷の如く轟き――
死者に敬礼せよ

  夏草            昭和14年8月初出 所載詩集『大陸遠望』

中央線の立川と八王子との間
夏草の中で軌道がカーヴするところ
そこに彼等は早くから待ち構へてゐた
日の丸と色んな懐ひとをもつて――
八時四十分松本行準急は疾駆する
カーヴでそれは一度速度を緩め
そのとき彼等は日に焦けた顔を見る
万歳々々
万歳は大君の上にこそあれ
日に焦けた顔はこれより
長い軍(いくさ)に 暑い黄土に
いまいくつの歳を迎へることだらう
きりぎりす鳴く夏草のカーヴのところ
翻りひるがへり見えなくなつた日の丸を
いくそたび思ひ返して征くことだらう

この「夏草」の詩では同時に「万歳々々 万歳は大君の上(へ)にこそあれ」

といふ言葉が添へられてゐます。しかしこれは単に「天皇陛下バンザイ」のイデオロギーをなぞった言葉といふよりは、

「日に焦けた顔はこれより 長い軍(いくさ)に 暑い黄土に いまいくつの「歳」を迎へることだらう」

といふ「いくつの歳」に掛かる言葉であって、全体の雰囲気も、消えてゆく列車を見送る風景に重ねられて、悲しいものも感じられるのであります。

 時期的にはこれらの詩をはさんで立原道造の死があるのですが、この辺りから田中克己の詩は、一種の「予言的性格」といふものを表して参ります。 とくに「美しき言葉(昭和14年3月)」「大陸遠望(昭和14年12月)」「われらは(昭和16年2月)」などの作品、もっとも詩人の鬱屈が社会に対して結ぼれた作品といふのは、 歴史通である一個人としての詩人の「述志」といふより、むしろ詩人を通して民族の意志である「大東亜共栄圏」の理想が喋り出したやうな、そんな読後感に襲はれます。 またそれが詩人の文体の持ち味である潔癖さに支へられて、大陸への侵略を肯定するやうなデモーニッシュな独特の感興を打ち出してゐるのです。これが詩人のたわごとか予言か意志なのかは、 事実が彼をひきづりはじめることでわからなくなってゆきます。詩集のタイトルともなった「大陸遠望(昭和14年12月)」を読んでみますが、 この詩は詩人自らの解説(「詩集「大陸遠望」覚書」昭和15年10月)に拠りますと、雑誌「文藝文化」のリーダー的存在で、 国学者かつ軍人であった蓮田善明が、中国の戦場から寄せた随筆の中で、かつて中国に暗躍した海賊、倭寇のことを遠征する自分となぞらへて書き付けた詩に、 田中克己が次韻したやうなもの、といふことになってをります。蓮田善明の元となった文章と詩を抄します。

  「通信紙随筆」  蓮田善明          文藝文化 昭和14年7月号

(前略)私は幾日か江を遡りながら、ふと倭寇のことを想うたことがある。同行のM少尉は東亜同文書院出身で、東朝記者として上海にも在つた人なので倭寇のことにくはしく、 いろいろ語つてくれた。私はふしぎな彼らの行動を思つた。それは勿論今日の遠征と政治的意味は如何であつたか、私はとりあへず次のやうに書きとめておいた。 遠征者の氣持は相通ずるものがあるやうである。

彼らは拗ねたる、倭の民なりき
彼らは涯り無き綿津海の彼方と
大いなる空と陸とを望み見て、
情堪へがたかりければ
「八幡大菩薩」の旗書き立て、
語(ことば)通ぜぬ国々へ遠く征(い)で行きぬ。
彼らは“心もの”の慾にかかづらはざりしかば
宝を供へてめで迎ふる者を礼まひいつくしみ、
財を吝しみて抗ふ者を憤りて伐ちたりき。
彼ら、不可思議なる徒(やから)は、かくて
大陸を、西に南に掠めめぐり、
或は古昔(むかし)仏陀坐(い)まして、花島の色声異(あや)しき天竺を襲ひ、
或は長江を遡りて、老仙天翔る崑崙を探りしに
大明国愕然(おどろき)騒ぎて、防ぎあへず
日本将軍に請ひて之を討滅せんとし、
不逞なる尊称を奉り、貢物山と積みたりしも、
遂に将軍之を鎮め得しことを聞かず――
唯いつとなく彼ら自(おの)れと水に死に行きき……
ひとり山田長政といへる強者(つはもの)、
シャム国に、王者の勢ひをほしいままにし、
毒を盛られてはかなき最期をとげたりと、
青史にその遠征を措しまれぬ。

大陸遠望            昭和14年12月初出 所載詩集『大陸遠望』

夕暮ごとに大海のほとりの丘に来て
西に向つて顧望するのが慣はしとなつた
いつも夕日の沈んだあとでは波が急に荒くなり
沢山の呟き声が聞え その中には
いやなぶつぶつ声がまじつてゐた
そしてその一つがかう云つた
「何のためにお前は何時もその方に向ふのだ
この海の彼方には鈍重な面貌をもち
五千年の譎詐(けっさ)と流血の歴史をもつた
黄色い民が村落を作り都会を建設し
そこで日々争ひ喧噪し蠢めき奔つてゐるだけだ
その他に何があつてお前は眺めてゐるのだ」
それに対し私は眉を揚げてかう答へた
「何ゆゑとか何のためとか問はないでくれよ
その問ひ方には賎しいものがまじつてゐるからな
しかし強いてお前に答へてやらう
わが祖(おや)たちが意志し 欲望したことで
なほ果されぬ大きな希ひごとがあつて
それがおれの血を騒がせて止まないからだ」
かう云つたとき夕暮の蒼靄の中から
数多の塔(パゴタ)、あまたの拱橋(アーチ)、あまたの城楼などが
簇立(そうりつ)し金色(こんじき)に輝くのが見えた。

 ラストの

「夕暮の蒼靄の中から、(パゴタ)、あまたの拱橋(アーチ)、あまたの城楼などが簇立し金色に輝くのが見えた。」

といふ箇所は、私はこれを読むたびにいつも、オーケストラの音色が交錯して一気に頂点まで昂ぶるやうな情景を思ひ描いてしまひます (卑近な例で例へるなら、Beatlesを知ってる人なら、I’m the Walrusのラストみたいな感じです)。

 また、この夕べの海を前にした鬱屈の空気といふのは、伊東静雄の詩集『春のいそぎ』に収められた「夏の終」といふ詩の気分に通ふものがあるのぢゃないかと思ひます。 「夏の終」のラストにも「ある壮大なものが徐かに傾いてゐるのであった」といふくだりがありますが、それは壮大な季節がどうにもならぬ力でゆっくり傾いて沈んでゆくといった意味合ひですが、 この詩における「簇立(そうりつ)し金色(こんじき)に輝く」「塔(パゴタ)、拱橋(アーチ)、城楼」といふのも、壮大なアジアの歴史的過去の総体としての幻なわけですし、 昂然と言挙げた不遜な夢を垣間見た後のことは詩には書かれてゐませんが、おそらく最終的な決着を果たす戦争に向かって「壮大なものが徐かに傾いて」いったのではないでせうか。 (ふたたび例へて言へば、先ほどのBeatlesの曲が終った後にも、おんなじやうな音響がひびきわたりますね)。

 さてこの詩をタイトルに掲げた第二詩集は、序文にありますやうに、全体が蓮田善明に捧げられてをります。『詩集西康省』を、蓮田善明が戦場に持ち歩いて慰めとしてゐた、 といふことを聞いて感激した詩人が、あらためて第二詩集を捧げたわけであります。

 蓮田善明が倭寇の事を記したおなじ「文藝文化」の昭和14年7月号には、詩人自身が「現代の詩人」といふ題で文章を書いてをります。そこには詩人の任務として、 自由に口語や文語を使って嘗て歌はれなかった「新しいことば」による詩をつくること、その新しさとは「いつも全民族に呼びかけてその心情を快い爽やかさで充たすことでなければならない」という風に書かれてゐるのですが、 つまり、戦争の詩を書かう天皇陛下バンザイの詩を書かうとは書いてゐないのですが、「ただ一人の読者によって黙読されること」から、直接民族共同体へ訴へようとする方向へ、 多数の読者を予め意識した詩の製作へと、自信を以って意欲を打ち出してをります。どうにもならぬ力で歴史が動いてゐることを体感した詩人が、その歴史を押しとどめるより、 「予言的性格」をもって歴史の行末を真っ先にみてやらうとの想ひがあったのかもしれません。

 ただ、蓮田善明への傾倒が激しくみられるこの『大陸遠望』ですが、この蓮田善明といふひとは、典型的な軍人さんで、 (クレッチマーの気質分類でいふなら筋肉質であまいもの好きの典型的な「闘士型てんかん気質」ぢゃないかと思ふのですが)、初対面の田中克己本人に対しては些かの不満を持ったやうであります。 やせこけた書斎派青年の利発さが気に召さなかったのかもしれませんが、「戦場の実態が表されてゐない」と、自分に捧げられたこの詩集の内容について大層叱斥されたさうであります。 詩人にしてみれば意外な誤算と失望だったやうで、これまで好かれていゐるとばかり思ってゐた尊敬する先輩を訪ねた場で、まさか貢ぎ物に文句がつけられるとは思ひもよらなかったことであり、 これはおそらく血腥い前線から帰還して気が昂ぶってゐた所為だと思はれるのですが、以後詩人はこの先輩のことを何がなし敬遠するやうになったといふことです。 反対に伊東静雄とは蓮田善明は大変ウマが合ったやうでありますが、後年蓮田善明の衣鉢を継いだ三島由紀夫とも、伊東静雄は好かれ田中克己は無視されたのも、 不思議に符合した面白いことのやうに思ってをります。

 日米開戦に至る前の作品としてはほかに、同盟国ドイツを槍玉にあげた次の作品が傑作なので、とりあげました。

 恥辱            昭和16年8月初出 所載詩集『神軍』

わが若き日は恥多し
前(さき)の欧洲大戦は
われが十九の時なりき
わが学校に独逸人 名をキュンメルといひけるが
語学教師の任にあり
日独国交断絶後 面(おもて)は常に愁ふれど
なほとゞまりて教へしを
十一月のことなりし
朝食(あさげ)のあとに号外の
我軍勝てるを報じたり
さてキュンメルの授業時は三時限なり
二時限の休憩時間に白墨(チョウク)とり
われ勇敢に大書せり
青島己陥落矣(チンタオ・イスト・ゲフアレン)と
クラスメートは喝采し われは
文法的錯誤なきや数度確かめぬ
始業の鐘は鳴らされぬ
靴音とまり 扉(ドーア)あけ
渠(かれ)キュンメルは入り来しが
わが筆の跡見るやいな
その白督の面には 紅さし やがて死者の如 蒼ざめ 踵(きびす)めぐらしぬ
再び起る喝采に われは首(かうべ)をあげざりき
――わが若き日は恥多し。

 生徒に対して絶対的な優位である筈の先生に対して、考へもせず行った悪戯が「成功しすぎた」ことに、悪戯の当事者が恥じ入ってしまったといふ詩ですが、 面を上げられなかった理由については特に何も書いてありません。社会的なマイナリティーに対する差別が成立する瞬間に、われ知らず先頭になって加担してゐたことを、 作者ひとりだけが悟ってゐる状況、さういふことなのだと思ひます。そのため「わが若き日は恥多し。」な訳です。
 一寸読むと体験談のやうにも感じますが、第一次大戦で青島が陥落した大正三年は詩人が3歳のときですから、明らかなフィクションです。実際の大阪高等学校時代の詩人は、 ドイツ語の先生であったロベルトシンチンゲル先生には、優秀な生徒として最も可愛がられた口ではなかったでせうか。 田中克己の最初の著作はノヴァリスの『青い花』の翻訳です。しかしこの詩がドイツ語教師でなく英語教師であったなら、 さうしてチンタオがパールハーバーもしくはシンガポールであったら、どうでせうか。預言的な詩人と呼ばれる理由は、こんな作品にも表れてゐるやうに思ひます。

7.田中克己の戦争詩 そのU (太平洋戦争時代 徴用まで)

 さてさうして昭和16年12月8日の開戦を迎へる訳ですが、所謂「戦争詩」を詩人達が一斉に書き始めるなか、田中克己も新聞誌上で真っ先に開戦の感動を書き表します。 真珠湾攻撃を詠んだ「ハワイ爆撃行」といふ詩がそれです(昭和16年12月日本讀賣新聞)。日記によると12月15日投函してをります。

  ハワイ爆撃行             昭和16年12月初出 所載詩集『神軍』

宛然一個の驕慢児
力を恃みて非理を唱導し
物に倚りて正義を圧服せんと欲す
空しく蒐め得たり艦と機と砲と
海外に盤踞して神州を呑むと想へり
一億国民みな切歯せしが
聖詔 既に下りて秋霜より烈し
時は維れ昭和十六年十二月八日
颶風未だ収まらず全天闇(くら)し
母艦々上 司令 命を伝へ
言々壮んにして復た厳を極む
紅顔の健児 目眦(もくし)裂け
吾が生は皇国に享く 死は布哇(ハワイ)
醜敵を屠り得て鴻恩に報ぜんと
挙手して機に上ればまた後顧せず
爆音轟々 敵空を圧し
金鯱(きんこ)一たび巨鯨に臨むと見しが
須臾に摧破し去る巨大艦
雲煙散じ去つて再(ま)た影を見ず
真珠湾頭 星条旗低し
捷報連(しき)りに故国に到り
山川歓呼して草木揺(ゆら)ぐ
盟邦また瞠目し 醜小狼狽す
吾れ国史の此の瞬間に生きたるを喜び
仰いで霊峰富士を望み見るに
暗雲一拭されて皓として白し

 そしてこの詩をはじめとして陸続と書かれる戦争詩と、先ほどの「恥辱」のやうな、戦争直前の時期になった詩が半分半分に収められた、 『神軍』といふ名の第三詩集が刊行されるわけであります。詩人自身は開戦の直後、日本軍が連戦連勝を収めた当初の時期に、 文士徴用の第二陣として、神保光太郎、北川冬彦、中島健蔵らとともにシンガポールへ派遣されることになるのですが、詩集はその留守中に、保田與重郎によって刊行の斡旋がなされ、 『神軍』といふタイトルも彼によって付されたものださうであります。なかに同名の「神軍」といふ詩篇があるのですが、これを詩集のタイトルとして掲げるに相応しいかどうかといふと、 一寸言挙げ染みたおこがましさも感ぜられ、含羞(はにかみ)を旨とした詩人自身は面食らったらうと思ひます。さりとて当時晴れがましさが無かったかと云へばさうとも思はれず、 保田與重郎が跋文で「『神軍』は大東亜戦争を熱祷した新時代の詩集である」と書いてゐますが、『神軍』といふタイトルは、今や得意の絶頂にあった詩人の心を見透かして、 これを元気よく後押しする配慮があったもののやうに、私には思はれます。

 國中治さんも、昨年の研究紀要(戦争詩への道 『屋上の鶏』から見た三好達治』2005神戸松蔭女子学院大学 研究紀要46)のなかで、戦争中の三好達治のことを、 「足場は悪いがやたらにまばゆい舞台に立たされていた」といふ風に表現されてをられますが、出来上がった本を手にして、田中克己もまた、足場は悪いが、 さぞかし目映い晴れがましい舞台に立たされていた、といふ心持であったんぢゃないでせうか。

 そして、表題作になってゐる「神軍」といふ詩篇ですが、これがまた不思議な、一種透明な浮遊感に満ちた作品になってをります。 宙に打ち上げられた弾が上がりきったところで止まってゐる一瞬を写したかのやうな、もうこのさきはない、といふ感じです。小高根二郎氏が、自身が徴用されることを霊感で預言したかのやうな内容である、 と書いてゐますが、伊東静雄もこの詩に次韻する意味で「送別」といふ詩をコギトに書いてゐます(昭和17年3月コギト)。今となってこれを読めば何といふことはないのでせうが、 私にはこの本が詩人の出征中、コギトの盟友(保田與重郎と肥下恒夫)によって編まれたといふ刊行事情と合せて、それがそのまま詩人の遺稿詩集になってもをかしくないやうな神がかった雰囲気を、 詩集のタイトルとなったこの詩から感じまして、まさに不吉な「まばゆさ」に戦慄を覚えたことがありました。

  神軍                            昭和17年1月初出 所載詩集『神軍』

ハワイ海戦、マレイ沖海戦、比島馬来の敵前上陸
と皇軍の到る処成功を見ざるなく、これひとへに
神業と思ふより外なし。こゝに於いて作れる詩。
この朝(あした) 虚空に光り
神人(しんじん)の飛び交ふを見る
ひとり云ふ 『戦ひ如何に』
答ふらく『皇軍(みいくさ)は
勝ちに勝ちたれ
子どもらが乗れる鳥舟(とりぶね)
あだつくに艦(ふね)うちつくし
沈めしは大艦(おほぶね)五つ
他もすべて役(やう)なくはせし
皇神(すめがみ)に申さむためと
急ぎゆくなり さて卿(そこ)は』
曩(さき)のもの答へていはく
『南(みんなみ)の軍(いくさ)を見にと
皇神(すめがみ)の任(まけ)のまにまに
ゆくなれど それもまた
同じくはあらむ みいくさなれば』
さて後は言(こと)と絶えつつ
光るものまた姿なし。

    送別     伊東静雄                   昭和17年3月初出

君が「神軍」と題する詩をよめば
神人が虚空にひかり
見しといふ
みんなみのいくさ
君もみにゆく
みそらに銀河懸くるごとく
春つぐるたのしき泉のこゑのごと
うつくしきうた 残しつつ
南をさしてゆきにけるかな

 実際の奉公といふのは、戦闘が既に終った占領地区で発行する新聞の編集が主であって、本人も帰国後に「コギト」や「祖国」の連載のなかで詳細に報告してをりますが、 一緒に行った文学者、例へば北川冬彦の小説『悪夢』(手帳文庫、昭和22年12月地平社)のなかで明かされてゐるのは、徴用者同志の確執を通してみた日本軍の独善の体質であったやうです。 その暴露本によれば田中克己は、先輩文学者に睨まれてシンガポールの新聞社から辺地のスマトラへ飛ばされ、そこで交通事故に遭って、さながら神経衰弱の気味で帰ってきた、 とのことですが、南方へ行く途中でのエピソードなどは詩人の気質を第三者が活写して大変面白いので少し引いてみます。

  小説『悪夢』(北川冬彦)より

 ある晩、中島(健蔵)と平野(直実:大陸新報記者)と、同じ桟敷に同宿の将校と、三人は、高雄でその将校が手に入れたウイスキーを傾けながら、何やら気炎をあげてゐた。 もう十一時にもならうといふのになかなか止めない。うるさくてしやうがない。我慢がならなくなって私は、横になったまま、

「うるさいぞ!」と怒鳴った。すると平野はぎょろっと濁った眼で私の方をにらんだが、そのとき、

「平野君、いい加減にしたらどうか」と、そのころもう船酔ひから治ってゐた神保光太郎が私の隣から声をかけると、まるで飛鳥のやうに私を飛び越え、神保にとびかかった奴がゐる。 見れば平野だ。

そのとき、平野は立ち上がった神保ののど元を押へて、

「何がうるさい!」と云った。私は平野をうしろから押へようとした。とたん、神保の向ふに寝てゐた田中が、起き上がりざまに低い背で、 背のびするやうな恰好で平野の頬を平手打ちにした。私は田中がこのやうな行動に出るとは意外であった。その詩集や「コギト」なぞで見せてゐた、 田中克己の重厚な高風な詩風からは想ひも及ばないところであったからだ。全く素早いものであった。

(中略)

平野は脚を離されると、自分の席へかへった。かへりがけに、

「現地に着いたら、田中と神保は生かしちゃ置かない、叩き切ってやる。」と捨て台詞を残した。酔っ払った獰猛な面構へは、私に一瞬、一体こんな連中に何の仕事をさせようといふのだらう。 こ奴とぐるになってゐる中島はどういふ積りなのであらう。大学のフランス文科の講師であり、ひとかどの文芸評論家として通ってゐる中島の面が、 三文政治家の安っぽさでてらてらと私の眼に映った。

その中島といふ先輩文学者は、また、

「それにしても田中は困ったやつだなあ。」と独り言のやうに云ふ。どういふものか中島は田中が小癪で仕方がないらしいのである。 田中はちょろちょろして少しも席に落ち付かない。通訳の人たちのところへ行ってひそかにマライ語の勉強なぞをしてゐるらしかったが、中島はそれを知ってかなのか、 ともかくちょろちょろする田中は、ことにこんどの平野を平手打ちにした田中のすばやい姿は、目障りになるらしかった。

 まあ、こんな感じであります。

 ついでにお話しますとこの『神軍』といふ詩集は、当時「日本出版文化協会推薦之辞」を印刷した帯を付して、初版の1000部に続いて5000部が再刷されることとなり、 結果的に現在古本屋で一番簡単に手に入る詩人の詩集となってをります。そのため「神軍」といふ言葉は戦後、詩人の戦争責任を論ずる際に彼を一言で片付ける殺し文句、 レッテルともなり、キリスト教に改宗した詩人を長らく苦しめる言葉となりました。

 8.田中克己の戦争詩 そのV (太平洋戦争時代 徴用以後)

 さて、徴用といふ華々しい活躍の場から置いてけぼりを食ったライバルの伊東静雄は、同じやうに戦争詩を書きながらも、終始小市民の分に安んずるといったところがありましたが、 田中克己は反対に、この優遇された軍属の経験以降、一気に詩の精彩を欠いてゆくのです。伊東静雄の詩といふのは、思索と推敲を繰り返し、 産みの苦しみをさんざんに経た末のものであることはよく言はれますが、田中克己の詩といふのは元来推敲の跡をそんなに留めません。それがまた持ち味であって、 保田與重郎が文学史的感銘を認めた初期の作品といふのは、まさに早熟の天才の手になるものと呼んでよいものですが、この時期、 所謂朗読にも耐え得る「戦争詩」を公に求められるやうになって、詩作のモチベーションが個人のものか公のものか判らない、だだっ広い広場へ出てしまったのぢゃないかと思ってをります。 最初に書いた「ハワイ爆撃行」も、日記によれば苦吟の末に投函したとのことですが、いま読み返して心意気と苦吟の痕は伝はるものの、大変にむなしい感じがします。 それは「大東亜遺詠集」における絶筆と同じです。本日は資料としてここに、 昭和18年2月4日消印で東京の自宅から大阪中央放送局文芸課(佐々木英之助)宛に速達で送られました、ラジオ用の朗読詩の原稿をもって参りました。全部で五編ありますが、 なかで今回アンソロジーに収めました「敵降服」といふ詩を、この原稿のバージョンで読んでみます。 シンガポールにあったとき、マレー半島南端のジョホールバールでの体験談を又聞きして詩にしたものです。

 敵降服             (昭和18年2月放送原稿 初出) 所載詩集『南の星』

突撃の命令下り
戦車まづ準備を修め
歩兵その傍らに立つ
小隊長われ刀(とう)ぬきて
いまし行かん 死なんとするに
なにゆゑぞ 背後ゆ伝ふ
突撃中止!
一瞬の静寂のあと
やがてやがて 大波のごと
万歳きこゆ 師団より
旅団、聯隊。聯隊ゆ
大隊、中隊。小隊に報あり
敵は降服す とぞ
おほみいつ極みなくして
あだこゝにすべて降りぬ
頬つたふ涙のあるを
知りつゝも恥ぢず
やがてまた命令来る
喫煙! と。ああ その煙草の旨かりしこと。

 これなどはオチがあってよほど面白い詩であるのですが、所謂詩人の独壇場であったシニカルな人生観や、潔癖な風景の切取り方、鬱屈を肚に据えた抒情といったものは、 残念ながら見受けられません。かうした南方での見聞体験をもとに成った詩歌は、次の第4詩集の『南の星』に収められてをります。 今度の刊行斡旋は三好達治といふことで、一体に戦争詩集といふのは、表向き積極的に自費出版するといふものではなかったやうであります。

 さてここで杉山平一先生がこの度の新著『詩と生きるかたち』のなかで、この大東亜戦争遂行中に書かれた戦争詩について、大変わかりやすい説明を書いてをられますので、 少し引用をさせて頂きたいと思ひます。

「 詩人は校歌をたのまれて書くやうに、頼まれて戦争詩を書いたと思う。校歌に、山高く川清し、の慣用句を使う様に、慣用語で戦争を述べている。 そういう仕事だから、出来はもとよりよくない。詩集に、校歌を入れないように、戦争詩を入れない。それは出来が拙いからである。 そういう作品を他の作品と比較するのは、校歌に川清しと書いた人に川の汚染を書け、と責めるのは酷である。

 大戦後、映画監督伊丹万作は、戦争映画を作っていないからとて、戦争映画糾弾組織の理事に推薦されたのを断っている。 「自分が戦争映画を作らなかったのは、注文がなかったからで、糾弾などおぞましい。私を非国民呼ばわりしたのは、軍部でも当局でもない、きみたち隣人だった」といっている。 巧い詩人にはみな注文依頼があった。書いてないのは下手だったり、無名だったからである。」(『詩と生きるかたち』50-51p編集工房ノア2006)

 もっとも、田中克己をはじめとして全ての詩人が、当時「出来がよくない」と思って戦争詩を書いてゐた訳ではないと思ひます。 はっきり云って戦争詩に価値が失はれたのは、「戦争に負けたから」に他なりません。校歌を作った学校がなくなってしまへば、校歌もまた存在価値を失ふのであります。 そして戦意高揚のために盛んに作られた詩といふのは、一人の読者によって黙読されることを念頭に置いたものとは異なり、朗読されることを予定して作られてをります。 学校や会社でも、みんなで一声に朗読した「国民詩」といふものが流行ったのですが、ですからこんなのはやっぱり杉山先生の仰言るやうに、 学校の校歌と同じ次元の作品といってよいものかと思ひます。

 田中克己の戦争詩は、しかし、先程来みてきましたやうに、本来は「述志の詩」の延長線上に閉じ込められたままであるはずのものだったやうに、私は思ってをります。 開戦以前になった、歴史に題材を取ったものには、謂はば明治維新以降百年来の日本民族の恨みや野望が感じられるフィクションが多いことは述べました。 戦争中の日本で流行った戦時標語に「撃ちてしやまむ」といふのがありますが、 それは古事記の中の久米歌の件り「みつみつし 久米の子等が垣下(かきもと)に植ゑし薑(はじかみ) 口疼(ひび)く 吾(あ)は忘れじ撃ちてしやまむ」から採られたものです。 すでに田中克己は初期詩篇「履(くつ)」(昭和7年6月コギト)といふ詩において

   履            昭和7

年6月初出  所載詩集『詩集西康省』

私は身に山椒の臭ひを帯びた蛇(くちなは)である
私の鱗は日を受けると金色(こんじき)に光る
それは闇では濃い緑いろとなる
私の腹には紅い縞が二條(ふたすじ)とほつてゐる
私は私の洞(あな)に天南星(てんなんしやう)を植ゑてゐる
その花は私の洞をほの明るくする
その根を私は食物にする
私は四五日来(このかた)嬰々(インイン)をおもつてゐる
嬰々はあの窓の中にねむつてゐる
私はその紅い小さい履(くつ)を見た
それは私が雀の卵をとりに戸樋をつたつた時である
昨日は嬰々の婢(こしもと)に棒切れで擲たれた
私は鱗を一部剥がれてゐる
私は復仇を誓つてゐる
天南星の根を噛んでである

といふ具合に、作品の締めくくりに同じ根っこを噛むといふ趣向を取り入れて、「復讐」をテーマに抒情詩をつくってゐる訳ですが、私には、 田中克己の詩の魅力と戦争詩に至る淵源といふのは、或ひは同時に胚胎するところの、この「吾(あ)は忘れじ撃ちてしやまむ」といふ鬱屈の癇性にあるのではないかと思ってをります。 詩人を語る際には必ず引き合ひに出されます

「このみちを泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」

といふ歌も、ですから実はその鬱情がむすぼれた先に開かれる、日本特有の諦念とともに彼方へ開かれる抒情なわけです。 先程紹介しました「Ein Märchen」や「秋の湖」もまた同様のものだといへませう。ところが鬱情が外に向かって爆発してしまふと、つまり「撃ちてしやまむ」が現実となって開戦に至り、 当初の大勝利の感情に酔ってしまったところで、詩人は国民大衆の気分と一緒になり、社会的な信頼も表層で勝ち得てしまふ事態を生じさせました。 これが詩人の幸せであり悲劇であったと、拠りどころとなる抒情の核を、奪ってしまった理由ではなかったかと思ふのであります。

 この後、詩人は可愛い盛りの次男を疫痢で喪ひ、さらに終戦直前には保田與重郎とともに再度召集が掛かります。しかし今度は一兵卒、 只の二等兵として北支前線へ送られることになるわけです。保田與重郎の召集には軍部からの懲罰の意味がこめられてゐたらしいといふことは、多くの人が証言してゐるところですが、 徴兵検査の結果がはかばかしくなかった田中克己もまた、当局から某かの不興を買ったのでせうか。天皇の現人神にあらざることは敗戦に先立ち悟ったとのことですが、 それは『南の星』刊行以後の作品、つまり戦争詩ゆゑに戦後の詩集にも収録されず放擲された作品のなかにみられる、次のやうな表現にも感じられる気がします。 この「ますらを還る(昭和19年12月初出)」といふ詩は、かつて「死者に敬礼せよ(昭和13年)」で歌ったと同様、戦死した友を悼んでゐるのですが、当時、 東南海地震の被害さへ秘したほどに、ヒステリックな報道管制を敷いてゐた昭和19年の作品に、次のやうな聯がみられます。

  ますらを還る            昭和19年12月初出

ちちははの国は紅葉し
篠原に霰たばしる時ちかづきぬ
たよりあり、功(いさを)し立てて
つはものはそのふるさとに神とし還る──
はじめての召しにゆきしは
北支那の紅葉するくに
かへり来て紅葉を見つつ
いひしことわれは忘れず
大陸の空いや青くその紅葉さらに紅しと
ふたたびを召されてゆきし
濠北はマダン、メラウケ、アイタベか
さだかに知らず──常夏の国にありける
紅葉なく青き空には
敵機のみ日がな舞ひたり
ますらをやいさを語らず
飛機のみか弾丸(たま)も送らぬ
ふるさとに恨みも云はず
三年経しけふたよりあり
──ふるさとに神とし還る。

 戦死した友に代はって「飛機のみか弾丸(たま)も送らぬ ふるさとに恨みも云はず」といふやうな、随分思ひ切った恨み言を、一般誌(「文藝」改造社)に吐露してをります。 その後もう一度「誓ひ」といふ鬼畜米英撃滅の詩を一篇書いて気を吐いてをりますが(「文藝春秋」昭和20年3月)、結局は先程申上げましたやうに、 保田與重郎とともに二等兵として北支へ送られることになるのです。そして日本浪曼派の影響下に育った若い詩人たち(増田晃や山川弘至など)が、次々と戦死してゆくなか、 同じ様な環境に身は置きながら、彼等のやうに戦死して神に祀られることを、運命はこの二人の詩人には許さなかったのであります。

  私は生きて            昭和21年9月初出 所載詩集『悲歌』

早春の暖い日
南風の吹く入海に
私たちを載せた船は着いた
上陸してしばらく歩く
頂上まで雑木の茂つたなだらかな山
閉め切つた紙障子
蜜柑の皮の乾してある縁側
そんな風景の一つ一つを
私はたんねんに眺めながら
思ふことはたゞひとつ
あゝ 私は 生きて
還つて来た!

 アンソロジーにおきましては、この「私は生きて」といふ、戦争が終って日本に帰ってきたときの詩が書かれるまでに、大きな空白期があったことを記すべきなのですが、 この詩と次の詩は、この本の中で「天皇陛下バンザイ」の皇国史観をくぐり抜けて書かれてゐる詩であります。

 最後に掲げました、フィリピンで戦死したコギト同人の親友、中島栄次郎のことを悼んだ「哀歌」を読んでみます。 詩人の心情には、あの「Ein Märchen」で押し殺した沈痛な抒情が戻って参ります。これは戦後暫く経ってからの詩集『悲歌』に収められました。

 哀歌            所載詩集『悲歌』

あの曲り角をまがると
おまへの家が見えて来る
小川のよこの木々にかこまれた家だ
もうそこにはゐないのに
おまへが写真でのやうに
今日もしづかにそこで笑つてゐるやうに思ふ
泣いてゐる写真か おこつてゐる写真
死ぬためにはそれらをのこすべきだ
僕はおまへのことを考へると
だまされたあとのやうにくやしくなる。

 もはやここには、詩人の歴史的意義といふものは感じられないながら、国家の宿命を詩人の存在理由として生き、そしてその嵐から生還できたひとだからこそ歌ふことのできる、 透き通った深い海のやうな悲しみを、私は感じます。それはこの「哀歌」の他にも、伊東静雄ならば戦後になった「夏の終り」といふ詩、 或ひは蔵原伸二郎ならば「風の中で歌う空っぽの子守唄」といふ具合に、コギト派の詩人達にはひとりにひとつづつ一種の絶唱としてあるやうに思ふのですが、さういふ抒情詩を、 この『大東亜戦争詩文集』アンソロジーの最後に添へてもよかったんぢゃないかと思ったことでした。なぜなら大東亜戦争とはそれに殉じて死ぬことの出来た者たちだけの戦争ではなかったと思ふからであります。

 9.をはりに

 田中克己についてのお話はここまでです。おしまひにここまで話してきて、今回この本に即して話してきたからには、選者として戦争詩とどう向き合ったのか、 つまりさきの大戦をどう観ずるのか、戦慄すべき詞書をもつ遺詠集と一緒に収められてゐますから、いい加減なことは述べられませんが、少しだけ述べたいと思ひます。

 わたしが思ひますのに、戦争で負けた国においては、国のために死んだといふのも、国のせゐで殺されたといふのも、戦死の事実としては同じなのに違ひないといふことであります。 そして神社で人を祀るといふことには、誉め称へるといふ意味とは別に、無念に死んだ彼らを畏れ、その恨みを鎮める側面もあるのだといふことを、 外国にもっと理解してもらふ必要があるのぢゃないかと思ひます。また国内に向っては、「アジア諸国のなかでの日本」といふことを歴史的に再認識すべきであること。 「大東亜共栄圏」が思ひあがったものであるなら、廃仏毀釈以前のつつましい日本人のあり方、神さまと仏さまと孔子さまが同居して暮らしてゐた、 世界中のどこにもないやうな国柄に思ひを致すしかないのではないでせうか。

 国の歴史の最後が「敗けいくさ」な訳ですから、何を言っても政治的に解釈され、揚げ足をとられる可能性があるのは、致し方ないことかもしれません。 それなら好んで少々変人扱ひされることを、詩人としては選ぶべきかもしらん、とも私は考へてをります。人生の三大苦である、老いや貧乏や病気さへ、 その際は恰好の隠遁の隠れ蓑になるかもしれません。平野幸雄さんといふ、京都で一人暮らしをしながら年金で個人雑誌を出してゐた風変はりなおじいさんがをりましたが、 文学上の付き合ひにおいては結局誰にも知られず孤独のうちに亡くなりました。生前、その雑誌の後記の片隅で繰り返し訴へてをられた、日本浪曼派と大東亜戦争を称へる杓子定規な文言よりも、 その片々たるパンフレット雑誌の刊行を何十年もひたむきに続けられた姿に、私はすさみゆくこの日本で、節といふか、信条を全うして生きる(また死ぬ)といふことは、 姿においてかういふことなのではないかと、一寸思ったことであります。

 さきほどは「むなしい」と云ひましたが、昨今の日本の世相社会といふのは、この本の前半に集められた「大東亜戦争殉難遺詠集」の英霊に対して、 ただただ「もうしわけない」の一言です。果たして現在の日本は、他国からの歴史認識の指摘についてあれこれ云ふ前に、もはや滅びて当然の罪悪を祖先に対して犯してゐるもののやうに、 私には思はれてなりません。三好達治はすでに戦時中の当時、

「種々の面白からぬ器量の狭い生硬な不自然な判断や結論が、それだけにまた強硬な或は激越な決意の見せかけの下に提出されるのではあるまいか」

といふ具合に、「天皇陛下バンザイ」の皇国史観一辺倒であった若者たちの行く末を危惧してをりましたが、戦争に対して

「協力とか反対とかの単純な事柄ではなく、いのちがけでこのような詩を書き残すしかなかった青春があったという厳粛な事実(増田晃『日本新紀』1973年、松永伍一氏解説より)」

については、現在の内外の世界観によって彼らが辱められることのないやう、鎮魂の思ひを日常の挙措として自然に表現し、振舞ふことのできる日本人でありたい、 そのやうに思ひます。

 まったくとりとめない終はり方ですが私の話はこれで終ります。ありがたうございました。


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