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やまかわ ひろし【山川弘至】『日本創世叙事詩』1952
日本創世叙事詩
山川弘至著(長詩新訳古事記)
昭和27年12月15日 長谷川書房
140p 21.3cm×15.3cm 上製 ¥300
序文 折口信夫 保田與重郎
【補足説明】
刊行当時はばかられ、編者によって一部削除された本人の序文について、1992年刊行の後版 復刻(桃の会刊行)では旧に復してある。
以下に本人序文(無削除版)、編者山川京子氏による初版、後版の跋文を掲げる。遺書にも等しく、戦時下の当時における詩人の決意として汲まれるべき内容である。
序文(無削除版)
この書を草するに当り、我が心頭に去来したものは、かの北畠親房卿が、はるかに常陸の小田城にあつて、南風競はざる日に烈々忠誠の大義を述べ、畏くも神皇正統の理を闡明し、 神国日本の本義を明示して、あの中世における民族精神の危機の日に、毅然として皇国の危ふきを支へた悲壮の生涯であつた。
おもふに卿が兵馬倥偬の間にあつて、常に生死の境に身をさらしつつ、尚念々その神明に誓つて之を行つたものは、実に皇統の護持と国体の闡明であつた。文武一如、 常にこのために身を挺し、果敢な生涯を終始して省みなかつたのである。かの神皇正統記こそは、実にその生と死が境を接し、念々その日常が、明日を知らぬ戦ひのさなかにあつて、 純忠至誠比なき憂国の至情をもつて記した血涙の書に他ならなかつた。
私は今私の信仰なり思想なりの立場より卿の思想を批判しようとするのではない。卿の志が、つねに万国に比なき我が国体への献身と護持とにあり、その生命が、 つねに皇統護持の悲願のために燃焼しつづけたといふことに、今の己の立場より省みて、激しい感動を禁じ得なかつたのである。そして之は現在の私の志にもつとも通じ、 私らの悲懐にもつともふれるものあるを、切々として感ずるのである。
私はおほけなくも、昨今の己の心情にひきくらべて、卿のかの日の心情をおもひ、感涙禁じえぬものがあつたのである。おもふに我らの皇国に生をうけしこと、 すべてはこの万国に比なき我が国柄への献身と、その崇高な神授のみちの護持といふことをおいては、他に何物もないといふことを、昨今特に身にしみて思ふのである。
そして我ら数にも入らぬ一介草莽の微臣の心情も、又かかつてここに存する以外の何ものでもないのである。卿の悲願がかつて此所に存したごとく、 我が悲願も又つねにここにあることを、今やしきりに思ふのである。
思ふに我らの生命は、実にこのことにのみ懸つて存するのであり、我が生命は、今日あつて今日ないのである。今やすでに我が生命は、我が大君にささげあまして、
自分の生命ではないのである。我らたとへ明日の生命をはかりえぬ今の時にあつても、その刻々の死と直面せる生のひとつひとつの瞬刻にあつても、只おもふことは、
我が民族にあたへられたる神聖なる使命の遂行と、そのための捨身以外の何ものでもないことを、しきりに感ずるのである。その生の刻々を、
皇神のみちに献身する以外の何ものでもないのである。
我らまことに今日の時に、その瞬刻といへども、皇国護持の崇高なる使命を忘れ、天つ神よりうけ奉りし日本民族の神授の使命を忘るるがごときことは、もとよりゆるさるべきことではない。
文武いづれの問にあつても、我らこのために生命を献じなけれはならぬ。之こそ大日本は神国にして、我らその神孫のみ民われらであり、我らは天つ神のみ子に仕へまつる、
み民われら以外の何ものでもないことの根本である。これこそ「大君の遂にこそ死なめ」の大伴家言立の成立するゆゑんである。
自分が多忙の身をかへりみず、自ら筆をとつて、この著を草するに至つたのも、只この「みたみわれ」の悲願に発する以外のなにものでもなかつたのである。 自分は念々死を見つめつつ、その生きてあらむかぎりの刻一刻の時限を、死と生との間にあつて、ひとすぢにこの道の護持に生きようとするにすぎないのである。 神皇正統の比なき理を護持し、その無比の国体を守護し奉るは、我が民族の天来の使命以外の何ものでもないのである。さればこそ自分は、名もなき匹夫の身をもつて、 止むに止まれぬものを感じたのである。明日の生あることをおもひえても、今やそれを誰が断言しえようか。我らは念々生のかぎり、この至上なるあたりへの献身をおもひ、 大君の辺にこその情をあつくするのである。
おもふに我が道統の泰斗の本居宣長翁が、かの古事記伝を著して、神国日本の本源を明示し、皇道自覚維新回天の根本をなしたことは、 今さら申すまでもないところであるが、今日において古事記に対する我が国民の理解といふものは、未だ必ずしも充分でないといふことを、しきりに痛感するのである。
我が民族のもつとも神聖なる生命の本源たる古事記の精神を、単なる古代の神話として考へ、又昨今の情勢への単なる比喩として考へると云ふ程度のものであつては、 我らは神典の本質に対してもまことに申しわけないことを感ずるのである。
我らは民族の聖典たる古事記の体得により、神州不滅の確信を把持し、世界修理固成の本つ国たるの光栄と責務とを自覚せねばならない。我らの民族の遠つみ祖の生命が、 古事記の語る窮みない古より、悠々として湧き上つて尽きないことを考へねばならぬ。民族の生命の源泉が、つねに此所に発して悠久蒼古であり、 又常に清新にして無窮なる神のみ旨の存することを感じとらねばならない。我らは古事記の示すところに、我が民族の生きてなすべき道を感得し、我らの生死の大道を体得すべきである。
我々の信仰の一切が、その根元をここに発し、我々の世界観の一切が、ここに発してゐることを、この著述によつて自然に世に示すことは、我が第一の目的である。 我が皇祖天照大御神への信仰を、絶対のものとしてその心中に確信し、我が皇国こそ万世無窮世界の本つ国としての修理固成の本源たることを確信し、ここにこそ我が信仰と生命との一切が、 帰一奉献せしめらるることを、切々として銘肝すべきである。
我らは古事記を拝読して、そこに民族生命の本源を感じ、遠つみ祖の生命のふるさとを感じなけれはならない。そこにかぎりない父祖の歴史と血と国土とを感じ、 そこに限りない生命の発展をおもはねばならぬ。
我らは天つ神より承けつがれて来た、天業恢弘修理固成の御皇謨を体し、最後の血の一滴までも、天業翼賛に捧げ奉るべきを銘肝し、その本源こそ古事記にあるを知るべきである。 我らは遠く天孫の御降臨の古より、天つ神の言よさしのまにまに、御聖業を扶け奉つた五伴之緒ののちであり、又国つ神ののちなるものたちも、天つ神の大きみいつの光に浴して、 はじめて大御祖なる遠つみ神の血を自覚し、その帰一すべきものの本源を悟つて、天孫に仕へまつるこそ至上の道なるを自覚した祖らののちであり、 そののち久しく我が大君の天つ神より承けつぎ給うた御聖業を扶け奉つた祖らののちであることを、今こそ身にしみておもはねばならない。これこそ聖戦完遂の本源であり、 尽忠報国の本源であるからである。
我らは古事記を、我が民族の一切の信仰の本源とし、そこに一切の志を発し、一切の民族感情の深奥に横はる、詩魂の流動の本源をおもふべきである。私の著作は、 このために、今までの古事記の註釈風なものに対し、すべて物足りないところを感じて著したものに他ならないのである。故にこの点において、いささかながらも、 今日民族の興亡を決すべきの秋に、その自ら確信するところすくなからざるものがあるのである。
私はこの著をものしたことに、崇高なる神意を感じてゐる。まことにとぼしい時と資料のうちにあって、つたないながらもこのことをなしえたことに、ありがたい神意を感ずるのである。 このことを完成しえたことに、御神意のかたじけなさ以外に、力なき己にすでになにものも言ふべきことはないのである。私は神皇正統の理を之によつて明示し、 我が世に生をうけしゆゑんの生き甲斐を、すこしでも果すを得ば、これにすぐるよろこびはないのである。又このためには、七生報国の大勇猛心をふりおこして、わが生のあらむかぎり、 あくまで皇神の大道の闡明のために、突進して止まざるのおもひを有するのである。これは生命のあらむかぎり、つねに死をみつめつつ、私によつて行はれる至上の生涯の事業であり、 文にあるも武にあるも、その終結においてつねに一致するみちである。
古人も、匹夫の志はうばひえないといふことを云つてゐるが、まことにいかなるものをうばひえても、匹夫の志はうばひえないといふことを、 私はしきりに感ずるのである。いはんやこのはかない我一個の生命が、かしこくも我が大君に帰一し奉ることをおもふとき、そこに無限の自信を生ずるのである。 私はかの大楠公兄弟の七生報国の悲願のごとく、名もなき草莽の臣子ながらも、七生報国もつてあくまで皇神の大道を護持せずんば止まぬであらう。己の志は、 たとへかすかにしていかに小さなものであつても、死生を貫通して万世に通ずるであらう。このためにこそ、私も又古人のごとく、「倒れて止まず」のおもひである。
私は今日国の危急の日に、この著によつていささかでも我が国学の道統の祖たる方々の志にそひえたことをおもひ、無限のよろこびを禁じえないものがある。 私は少壮国学院大学に学び、このためにつとに身命の一切をささげつくすべきことこそ、己の使命であることを、我が学統の祖らの教へ給うたことを知つたのであるが、今や皇国重大の秋、 身をもつて日ごろの悲願を実践せんとす。おもふにこの著作もその念願のひとつに他ならぬのである。おもふに皇神の大道の宣揚こそ、又今次聖戦の根本義に他ならぬからである。 しかも今や自分の生命は、今日あつても明日を証しうるものではない。醜のみ楯とすべてを我が大君にささげあました今日の時に、そのありのかぎりの生の時に、過去数年にわたつて、 辛苦勉励もつて到達せし信念の一端を、この民族の聖典をたてとしてひろく国民に語るをえば、けだしそれにすぐるよろこびはなく、又明日をはからぬ生命の日において、 いかなる困難と不便をしのんでも、神国日本のため、我が国の将来のため、このことだけは書きのこしておきたかつたのである。之は私の敵前における遺書の気持であつた故に、 平和な日に悠々机によつて草した研究書のごときものと、若干おもむきをことにすることは又、止むをえないところであらう。
現代多くある古事記の註釈及校訂の事業において、必ずしも偉大なりといふべきものを私は耳にしないが、只先輩木下祝夫氏の古事記は、 たしかに意義多く重なる歴史的事業であつたことは、鹿子木員信博士の言にもあるごとく、その隠忍の苦しい校訂の大事業にあつて、まことに尊重すべく貴いことである。 私は校訂においても註釈においても、この他はほとんど現代において、意義多い著書を知らぬといつても、必ずしも不遜の言ではないとおもふのである。しかも我が書記を民族生命の源流とし、 我が古事記をその歴史への決意の本源とし、その一切の信仰の根元として、民族の歴史につらぬかれた確信ある詩の言葉として、我々のまへに語つてくれた文人も詩人も学者も、 一人としてなかつたことを悲しむのである。そして今日の国文学者と称する人々の多くに失望するのである。
今こそ古事記は民族の聖典として、世界皇化の聖戦のさなかにあつて、我が是のいかなる辺土のはてまでも、少年少女の美はしい詩としてをひあげられ、 老翁老媼の日常の信仰として拝誦されねばならぬ。しかして我が古事記が、心美しい日本の少年少女の口によつて、美しい詩の真に語りうたはれる日々こそ、 かかる少年少女の成人してになふ次代の文化に、私はかぎりない希望と期待とを抱くのである。
我が神典の根本義を、美しい詩の言葉としてうたひあげ、それが日本の美しい少年少女の言葉として、又老翁老媼の信仰として日常の間にも、 あつく美しくかたりあげられることこそ、私のこの著作への最大の願望であつたのである。私は美しい詩の言葉によつて我が遠つみ祖らが身をもつてきづいた歴史における信念と確信とを悟り、 古の神の言葉を今日の美しい詩の言葉として、日本全国民のまへに語りあげることによつて、ともすれば民族の魂から遊離しつつある民族信仰の本源を、 ふかくふかくわが国たみの日常の誓として、その心の奥底ふかく鎮魂せむとしたのである。けだし我らの心底に、つねに呼びさまされ又あつく祭られねばならぬものは、 天孫を中心に護りまつつて、悠久の古より神授の聖業をうけつぎ来つた、代々の祖々の天つ神への信仰と、その歴史への決意に他ならぬからである。この志をして、 再び民族の魂によびさまし、再び之を遠つ神代のそのままに我らの魂の奥ふかく鎮魂することこそ、私のこの詩を草した唯一絶対の目的である。
私はこのためにこそ、神国日本の「み民われ」たるの信仰の根源に参入し、はげしい遠つ大御神への信仰に浄化せられ、強い民族の血の底に流れる詩的感動をもつて、 この書を記したことを誇りとする。けだし私は、つねに天照大御神にいのりつつこの書を草し、遠つみ祖の神々らは来つてこのつたないわが業を扶け給はつたことを感じたのである。 神意が我に降下し給うて、我をして之を語らしめられたのである。之はまことにありがたいことであつた。私は古の語り部のごとく、遠つみ神のみ言を代つて語り奉つたにすぎない。 神州不滅皇道帰一を唱へ奉り、これに祈りこれに仕へ奉らむことのみ願つたに他ならない。かの黒住宗忠翁のごとく、かしこくも「皇祖天照大御神のご開運を祈り奉つた」に他ならないのである。 私はこの無限の「み民われ」の熱禱をこめて、ここにこの書を通して神州不滅の理を記し奉つたのである。つたないこの事のうちにも、この私のかそかなねがひを察していただきたいのである。
今日において古事記は、単なる学問としての古訓註釈や、所謂歴史学の資料として考へられたり、又はいろいろの補助学の資料としてのみ考へられるといふに止まるならば、 昨今の古事記熱も又何らの根本的意義もこの世にのこさないことになるであらう。その学問的な正しい理解と信仰のうへにたつて、我らは悠久の日よりの大和民族の信仰のふかいふかい深奥に没入し、 その流れのかぎりないひびきをききとつて、それを美しい詩人の魂として感受し、それを詩人の美しい言葉として表現することこそもつとも大切なことと考へたからである。 又これこそ私が年来唱へ来つた日本浪漫主義の詩的成立の根本であり、伝統正しい日本詩人のなすべき至上の光栄の業である。単なる学問に止まるときには我が古事記の真の生命は現れない。 それを悠久の民族の信仰として感知して、さらに美しい詩人の魂の心のひびきとなし、之を美しい詩にうたひえてこそ、我が日本の少年少女の詩ともなりその所有ともなりうるものなるを確信するが故に、 私はこの書を草するに、己が微力を省みることなかつたのである。
おもふに私がかかることに志をおこすをえた根本のものは、元より恩師折口先生のあつき御教示の賜に他ならない。先生は、実に我がゆくべきみちの正みちを照らされる俸大なる光であつた。 自分は先生のお力によつて、やうやく皇神の大道の畏さを知るをえ、遠つみ祖のあつき血の脈うつを、その身うちに知りえたのである。 この世に生をうけしわがまことの意義を悟らしていただいたのである。私はこの著作において、初めていささかなりとも、私のかそかなおもひを、恩師折口先生に知つていただくことが出来たことをよろこびとする。 自分は先生によつて、国学に参ずるのよろこびと希望を知つたからである。
おもへは我が皇神の道への志を発してより、そのおもひ出は、まことにありがたくなつかしいものがある。柳田国男先生、金田一京助先生、武田祐吉先生、山本信哉先生、 河野省三先生など、又今は北京にあられる藤村作先生など、あのながい私のあゆみを回想するとき、これら恩師先輩への感謝の心で、自分の心は一ぱいになるのである。 我が国学の道統は、あつい国のみちへの愛情とともに、そのみちの正道につらなる道の祖らへのあつい愛情と敬意とによつてつつまれた神のみちであるからである。
場所がらまことに時間と資料にとぼしく、不備なる点きはめて多きは、まことに止むをえないことであつた。只この不自由な今日の場合にあつて、京都帝大国文料出身の友人川口光男氏が、 つねにそばにあつてあたたかい理解の心で、岩波文庫本の古事記と日本書紀とを貸与されしを感謝して止まない。けだしこれこそ年来の私の悲願を果しうる横線となつたからである。 故に本書は岩波文庫本古事記を主とし、時に日本書紀神代巻を参照した。自分がかかることをなしえたことは、すべて折口博士のお教の賜であつて、この書に不備あれば、 先生のお教をきづつけしをはづるのみである。おそれるのである。今や遠く本土をはなれて、著作中不明の点や、不充分の我が知識に止みがたい残念をおもひつつも、 全く参考とすべき註釈書も研究書もなかつたことを諒とせられたい。そしてこの書を草しつつ、自分がこのみちに専心しえたころ、しきりに宣長翁の古事記伝をひもときし日をなつかしくおもひ出し、 不明の点にあふごとに宣長翁の苦心をおもひ出し、又師のありがたさを感じて、天をとんでも恩師折口博士のもとにゆいてお教をうけたいとおもつたのである。 この事を記しつつ私はつねに切々たるおもひを禁じえなかつた。けだし遠く千波万波をへだてれば尚なつかしきは我が日本の国土と歴史とそこにいます恩師折口博士のありがたさなつかしさとは、 到底想像しがたいほどのものを感じたからである。
終りにあたり恩師折口先生と、私のその志と悲願とを同じくし日ごろもつとも敬愛おくあたはざる国学者保田與重郎先生より、ありがたい序文を賜つたことを、 ふかく感謝する。装幀及び挿絵をおねがひした安田靭彦先生は、未だいちども拝顔の栄をえない方であるが、日頃岡倉天心先生直系の画人として、 その精神と画風にひそかに敬慕おかなかつた方である。ここにふかく謝意を表す。又かかる時代に万難を排して出版に賛成され、その実現に苦心されし先輩にして同志たる横井金男氏に感謝し、 又我がつたなき事業に一切の世上の常識をすてて理解をよせられし版主牧田平次郎氏にあつく感謝する。残念なのは同学の親友牧田益男君が今はやはり醜のみ楯と遠く征旅にあつて、 私のこの仕事を直ぐによろこんで同感してもらふ機会がおくれるであらうといふことである。君がゐれば、きつと心からあの明るい笑ひでたれよりも私のこの仕事に賛成してくれるにちがひないであらう。
我らは今こそ神州不滅の絶対を確信し、かの大国隆正翁の言のごとく、一人たりとも生きてあらむかぎり、神州不滅の確証に献身し奉るべく、この書をその祈りに代へたいとおもふ。 この意味においても、日頃より我が研究のみちを扶け護り幸へ給ひ、すくなからぬ研究費を補助されて、我が皇神のみちへの献身のために守護をたれ給うた、 畏い京都伏見なる官幣大社伏見稲荷神の大前にこのつたない書物を奉納したいとおもふのである。
昭和二十年一月十一日記し終る
山川弘至
跋 (初版)
はじめてこの『日本創生叙事詩』の遺稿が、はるかな南の戦場の、主人から届きましたとき、私は実に容易ならぬものを感じました。彼の畢生の神皇正統記であることを、 はつきり直感したからでこざいます。
彼がはげしい軍務ののちの夜更けを殺風景なたむろの一室で、ひとり神話の世界に没人し、神々と遊ぶ姿が目に見え、私は便箋に走りがきの航空便を手にして、 あふれる涙をとどめ得ませんでした。この詩のなかに私はあらゆる彼の言葉をきくことが出来ました。そしてこの書を出版すべく、私もまた凍える夜々、 埋火をかき起し乍ら暗い管制の灯の下で、原稿用紙に浄書したり、警報に驚かされ乍らあちこち奔走するのが、何ものにもかへ難いよろこびでございました。私はたしかに彼を身近に感じ、 この時こそ本意ない離り居に満足することが出来たのでございます。止むに止まれぬものを感じ、私はこの書をどうしても世に出したいと、空襲漸く熾烈を加へた東京にあつて、 あらゆる努力を惜しみませんでしたが、遂に時局は之を許しませんでした。この時お骨折り下さつたのが牧田平次郎氏御夫妻でございましたが、組版は工場で焼けました。
この書の価値を判斬する力は私にはございません。しかし書斎を離れ征旅にあつた彼が、いくつかの抒情詩を経てこの叙事詩を憑かれたやうにかきましたことに、 或意味を感じて居ります。彼にとつて古事記は神話ではなく、そのまま現実の生活でございました。神々のよろこびは彼自身のよろこびであり、神々が怒り給ふとき、 彼は身をもつて慟哭致しました。私どもに古事記の註釈はしてくれませんでしたが、神話を古事記以前の形にかへし、美しい詩によつて尊い日本の創生記を語り、 また自らの生前にそれを実践し、実に身を以てをしへてくれたのでございます。
終戦寸前、昭和二十年八月十一日、台湾屏東飛行場に於て、彼は暗号将校として激烈なB24空爆下、無電機の前に任務を遂行する姿勢のまま、壮烈な戦死を遂げました。 常にその帯刀の手入を怠らず、決して錆を浮かせることのなかつたといふ彼の、着実果敢な勤務ぶりは、本来の軍人の誰にも劣らぬ、武人の面目躍如たるものがあつたよしでございます。 しかも彼の熱烈な愛国の至情を示す道は、ここには存しなかつたのでございます。
文の道剣の道と日の本のますらをの道直にゆかむわれは
召集に應じて出立つ時残しました歌そのままに、彼は最後まで文学の研鑽を忘れす、文字通り文武両道を全うしたやうに思ひます。
国学者として、詩人として、その生涯を捧げようとした山川弘至は、その志半ばにして、戦の為に無慚に挫折致しましたが、『倒れて止まず』の烈々たる魂は決して滅びることはございますまい。
あれから七度の春秋が、はやくも過ぎ去りました。幾度か絶望の淵に沈みながら、彼の志だけに漸く支へられてまゐりました私にとつて、今この書が出版の運びに至りましたことは、
感無量のものがございます。彼が愛して止まなかつた奥美濃のふるさと、そこの山おくつきに今こそみたまはかへり、遠い組たちと共に青雲を仰ぎせせらぎの音をきいて、
やすらつてゐるでせうか。そのおくつきを守つて七年間、同じかなしみに耐へて来られた父、母、はらからに、何はともあれ、この書は第一番に見せたいと思ひます。
折口信夫先生の御序文は、昭和二十年戦禍の中に頂きましたものに筆を加へて頂きました。著者も序文にくり返し述べて居りますやうに、 先生は彼の第一の先達であられると共に、私にも恩師となつて下さいました。はるかにそのあたたかい御心をいつも感じてまゐりましたが、 過ぎ去つた年月のあれやこれや考へますと限りない思ひが湧き、御礼の言葉もございません。
保田與重郎先生には題字と御序文を項きました。世代も近く、青春時代ひとつの理想の方として生前敬愛おくあたはず、本当に親しくお数へ頂きました。
扉及びカツトは、樋口清之先生にお描き頂きました。先生には大学予科の時代から可愛がつて頂き、 現在の私に至るまで一方ならぬ御世話にあづかつて居り、私どもの忘れ得ぬ方でございます。
その他お名前を挙げれば思ひ出も新しい、沢山の先生方のおみちびきでここまでまゐりました。著者の序文に記して居ります牧田益男氏は沖縄でやはり戦死されました。 遠い南の島でその現身の散華致します日まで、彼の近くにあつて深い理解をよせて下さつた戦友の方々のお蔭で、この作品も生れ得たことを思ひますと、 見知らぬそれらの方々にも深い謝意を表さずにゐられません。
跋文をかくやうに主人が申してまゐりましたとき、はじめとんでもないことだと思ひました。しかしそれは私どもの間柄につては極めて自然なことであり、 彼の手紙を一度一度遺書の気持でよまなければならなかつた私は、はい書きませうと、霊にうなづくより他なかつたのでございます。残されましてからのち、一歩も進むことの出来ない私の拙さをわびながら、 なほかつ敢て僭越な一文を加へますことを、およみ下さる方々にもお許し頂き度いと存じます。
七度もともに生れてと誓ひにし、永遠の生命はわがうべなへど
昭和二十七年八月
山川京子
をはりに(後版)
昭和二十七年になつてやつと一本にすることの出来ました、山川弘至の陣中の作「日本創世叙事詩」を復刻致しました。四十年ぶりでございます。 原稿は昭和十九年十一月二十五日に三通、遅れて一通が台北から送られてまゐりましたが、その中途に次の通信文が添へられてゐました。
この作品をかいた理由は今までの国民が古典ことに神代の信仰にたいしてあまりにも無知であることが民族のためいかに悪思想 邪宗教にはしり 文学を頽廃せしむる原因となりしかを痛感
古典を美しい詩にして 之を国民に愛読せしむれば 古事記もバイブルをはるかにぬくでせう 又正しい古事記信仰が必要とおもひかきました 私の必死の神皇正統記なることをおもひ
あくまで出版に努力して下さい
歌謡の部は一字下げて下さい
校正はよほどよくやらぬととてもだめです
これ丈でひとつの詩集にまとめます
あとのつづきは神武東征のはじめまで書きあげて一冊にします この次の便で今月末ころおくりますからそれまで今度のを浄書しておいて下さい
浄書する前にはたれにもみせないことにして下さい
私も之ですこしは皆さまのご期待に すこしはそひうることになるでせう いそがしいなかに悪戦苦闘 字もきたないですがよく浄書してくれたらすばらしい長詩になります
台本は岩波文庫本古事記のみ(浄書にあたり参照して下さい)ミルトンの失楽園におとらずと確信す
また最終回の封筒に同封されてゐたのが次のものでございます。この二つは作品の中にありましたため「山川弘至書簡集」に洩れましたので、あへて載せさせて頂きます。
拝啓 この本は題名長詩「新訳古事記」とします 序文は折口保田両先生よりもらひます 私の序文はこのつぎの便で月末ころ又は来月初ころおくります
その時神代巻全文訳了して送りますから それでまとめて下さい もちろん神代巻のみで打切ります 装幀は是が非でも安田靭彦氏にたのんで下さい
天心先生の直門にして神話を絵にすることは この人以外今の日本人にはありません たのみます 出版屋は牧田氏がいいかとおもひますが お前ひとりでは大へんですから
このたびはお父様に相談して お父さまの会社にたのめればともおもひますが それ以外は牧田氏がやはりいちばんとおもひます今度は絶対自信をもつてゐます
一般に毎月つくつておくつてゐる短詩は まとめて別の詩集にして下さい なるべく早くして下さい 別の詩集の方は中河先生に序文をもらひたいと考へますが
この方はもうすこし多くかいてからにしますからそのつもりで以上
原稿は手紙この封書ともに四つに入れておくりました うけとつたら必ず返事を下さい(航空便にて)
昭和二十七年といへば講和条約が整つて早々のころで、何となく憚つて本人の序文はかなり削りました。復刻とは申すもののこの度は原文通りに致しました。 折口、保田両先生のご序文はお願ひして頂戴しましたが、装幀、挿絵を是非と申してをります安田靭彦先生からは頂くことが出来ませんでした。二十年のはじめに、 写しました原稿を持つて大磯のお宅に伺ひましたところ、何の紹介もなくぶしつけに参上しましたのに、 快くお会ひ下さいましたが「こんなご時勢ではお引き受けする自信がない」とお断り頂いたのでございました。二十七年の折はお願ひに上る元気もなく、今も悔いてをります。 従つて二十七年版に頂きました樋口清之先生の扉とカットは省かせて頂きました。
極端に多忙な軍務のかたはらに認められました原稿は判読しにくい所や、多少の疑問があり、当時一部問ひ合はせて返送して貰つたところもございますが、
この度も作者に聞きただすことの出来ないことをもどかしく思ふことがしばしばでございました。漢字は常用漢字に致しました。作者の願ひが古事記の普及にあり、
殊に少年少女に愛誦されることを希望してをりますので、広く親しまれることを眼目と致しました。同様の理由でかなり沢山よみがなをふりました。そのために迷ふことも多く、
申訳なく思つてをります。
日本がすでに敗色を濃くしてゐる前線で、生命の危険にさらされながら、ただ国の将来を思ひ、古事記の世界に浸つて、民族精神護持の志の実現に献身してゐた一人の応召軍人がゐたことは驚異であり、
今は彼の存在そのものが神話のやうに思へるのでございます。
この著が世上一般に顧みられないであらうことは覚悟してをります。しかもなほ私はこの著を再び本にして後世に伝へることが、 残された者の責務であると思つたのでございます。そして今の世にも共感して下さる人のあることを有難く思ひ、なほ後代に望みを託すことが出来ると信じてをります。
不備の点が数々ございませう。不明のところをご教示頂けましたら幸でございます。
この度も畏友石田圭介さんの並々ならぬご尽力を頂きました。厚く御礼申し上げます。
平成四年初秋
山川京子
(2008.12.05 update)
【資料 田中克己書簡 1】 (山川京子氏蔵)
昭和28年1月17日 大阪天王寺局消印 東京都杉並区西田町1-707 山川京子様
一月十六日 布施市西堤町607 田中克己
拝啓
山川弘至兄御遺著「日本創世叙事詩」小生にまで賜りありがたく存じ
ました。兄にお目にかかったのは立教女学校(荊妻母校)御在勤の時
思へば十年の昔になり、貴方様に保田宅でお目にかかってからも数年になり
ます 思へば長いやうでもあり短い様でもありますね。小生新年より
古事記伝ひもときをります 終戦直前岩波文庫の記紀入手にも
困難なすった御様子を思ひあはせ感深いものがあります。
戦ひのさまあやぶしと眉をあげ南に征きしいまに帰らず
高砂の島びみいくさ指揮しつつあへなく散りし桜をのこぞ
すめぐにとさだめをともにせしきみを今のうつつに吾はおもへる
をさならがこゑあげさはぐ室ぬちに神あそびます天をおもふも
吾につづく者をとおもひゆきしひとむなしく死なせありと思へや
うなばらをへだててねむります君のうつくし妻の夢に見え来よ
お礼の意のみ 十六日夜 田中克己
山川京子様
二伸 小生一昨年春より大阪へ帰り表記に居住してをります。御西下のときはおたづね下さいますやう
(2008.12.05 update)
【資料 田中克己書簡 2】 (山川京子氏蔵)
昭和50年9月1日 杉並南局消印 東京都杉並区荻窪 三ノ二九ノ一六 山川京子様
東京都杉並区阿佐谷南1丁目四〇番八号 田中克己
拝啓
昨年は台湾に参り疲れて三ケ月ほどブラブラしてをりました。今年もまた行きたく思ふほど台湾史専攻の私ですがもう老いすぎたかと思ひをります。余事はさておき
弘至大人三十年の記念にとお国の名産いただき恐縮いたしました。十年ほど前に作りました哀悼歌(未完)恥かし乍らお目にかけます。
先日は東京新聞に大人の歌のり大変うれしく存じました。残暑の折柄ますます御元気にと祈り上げます。
お礼かたがた
八月三十一日 満六十四才誕生日午後
田中克己
山川京子様
悼 山川弘至君 (草藁:昭和49年2月付 職場プリントの裏紙に)
ちちははのくにをまもると
たかさごの島の南の
河の辺の土にまみれて
朝よひに北の空をば
父母のまた妻のうへ
幸あれとうたうたひつつ
あだの機の弾に打たれて
くやしくもうせにしひとを
生きのこり三十年(みそとせ)ちかく
老いにし日われは哭きつつ
つたなき句つづりてをれば
あまたたびながししなみだ
あらためて涌きくるおもひ
受けませといのりつついふ
反歌
くやしくもうつくしきひと失ひし
たたかひのことわれは忘れじ