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河合東皐:至楽翁 かわいとうこう:しらくおう(1758宝暦8年〜1843天保14年6月21日)


《資料紹介》河合東皐の写本詩集
                       中嶋康博

 木村寛齋に続いて、江戸時代後期の大垣藩士、河合東皐(かわいとうこう:1758 宝暦八年〜1843 天保十四年)の漢詩詩稿を紹介する。幕末の大垣藩城代であり、当地の詩壇盟主であった小原鉄心(1817 文化十四年〜1872 明治五年)が、親しく交流した漢詩人のなかでは、一番の年嵩の先輩同僚である。
 資料は木村寛齋の時と同様、オークションサイトの同じ出品者からのものであった。内容は、著者自身によって安永・天明期から文政期までの詩文が四冊にまとめられており、それぞれ『東皐集二』『東皐集巻三』『東皐集』『文政庚寅集』と名付けられている。

 はじめに戦前の大垣市が刊行した『大垣市史』下巻(第2類第3碑文479-480p)掲載の「河合東皐碑文(至楽翁之墓)」を掲げる。
 墓碑は市史が刊行された昭和五年当時には大垣市内の「遮那院趾」に在ったようだが、現在は歴代藩主が眠る菩提寺円通寺の境内に移され、碑文は摩滅して読み難くなっているものの、子孫により大切に継承されていることが寺院で確認されている。


   

 

 「河合東皐碑文」 至楽翁之墓
君諱政良、字子讓。河合氏。號東皋。稱勘左衛門。其先世居、濃之中鄉。爲名族。至曾祖利重。始仕本藩。父利正。母井道氏。有四男一女。君其季。以兄皆夭嗣。泰嶽公之爲世子也、君以勲舊之子入侍。公猶幼冲每在左右。其所輔導最多。公立恩眷彌隆。後徒君夫人傅。又爲世子傅。頗見信任。文政十二年以老致仕。凡在職四十五年。恭順誠敬如一日。今公就封之初、念其世勳、召見特加禮賜衣物。人以榮之。君精武技。兼嗜文事。善爲詩。少時遊江都。 受業昔陽古屋氏。專治古學。討論不自懈。學者服其精。晚自號至樂翁。寄情山水。寓迹風月。優遊自樂。天保十四年癸卯六月二十一日終。齡八十五。葬於城東遮那院之塋域。生二男一女。長曰利方。星野氏之子、其次夭。女嫁河井政武。並都築氏之子。銘曰
功榮其身。敬以自守。維壽維康。積コ旣久。神之所祉。有慶厥後。
           嗣子 河井利方 建
           晩生 松倉廣美 銘
           江都 平松可[燮] 書

 至楽翁の墓
 君、諱は政良(※もと正良)、字は子讓。河合氏。東皐と號し、勘左衛門と稱す。其の先は世(よよ)、濃の中鄉に居り、名族たり。曾祖利重に至って始めて本藩に仕ふ。父利正。母井道氏。四男一女有り、君は其の季なり。兄、皆な夭(若死)を以て嗣となる。
 泰嶽公(※8代藩主氏庸うじつね)の世子と爲るや、君、勲旧の子たるを以て入って侍す。公なほ幼冲、東皐つねに左右にあり輔導する所もっとも多し。公の立つや(文化三年)恩眷いよいよ隆なり。のち君夫人の傅に徒り、又た世子(※氏正)の傅となり、頗る信任さる。
 文政十二年、老を以て致仕す。凡そ職にあること前後四十五年、恭順誠敬一日の如し。今公の就封のはじめ、その世勲を念ひ、召見して特に礼を加へ、衣物を賜ふ。人以て栄となせり。
 君、武芸に精しく、兼ねて文事を嗜み、善く詩を作る。少時江戸に学び、業を古屋昔陽に受け、専ら古学を治め、討論自ら懈らず、學者その精しきに服す。
 晩に自ら至楽翁と号し、情を山水に寄せ、迹を風月に托し、優遊自ら楽しむ。
 天保十四年癸卯六月二十一日終る。齡八十五。城東遮那院の塋域に葬る。二男一女を生む。長を利方と曰ひ星野氏の子なり。その次は夭し、女は河井政武に嫁す。並びに都築氏の子なり。銘に曰く、
功は其の身に榮え、敬以て自ら守る。維れ壽、維れ康にして、徳を積むこと旣に久し。神の祉(幸)ひとする所、厥の後(子孫)に慶有らん。
           嗣子 河井利方 建
        晩生(後輩) 松倉廣美 銘
           江都 平松可 書


 また小原鉄心が編集を志し、未刊に終わった漢詩アンソロジー『地下十二友詩』※の中では、天保十四年、八十五歳の天寿を全うした河合東皐は「至楽翁」として、次のように紹介されている。
(※リンク「木村寛齋の添削詩稿 未刊に終わった小原鉄心編『地下十二友詩』との関係とともに」)

 河合良
良、字子譲、号東皐、至楽其別号、篤学慎行、深厭軽薄気習、嘗為大嶽公傅、勤々三十年、余之始結交也、
子譲既致仕、齢長於予五十八、然交誼甚密、暇則相訪話情、子譲不嗜飲、常病予大飲無量、屡以為言、
頗有古人之風、天保十四年癸卯六月二十一日歿年八十五。

 河合良
良、字は子譲、号は東皐、至楽は其の別号なり。篤学慎行、深く軽薄の気習を厭ふ。嘗て大嶽公の傅と為りて、勤々三十年。余(小原鉄心)の始めて交を結ぶや、子譲すでに致仕し、齢は予より五十八を長ぜり。然るに交誼は甚だ密にして、暇あらば則ち相ひ訪ひて情を話す。子譲、飲むを嗜まず、常に予の大飲無量なるを病みて、しばしば以て言を為す。頗る古人の風あり。天保十四年癸卯、六月二十一日歿す。年八十五。

 そしてその詩稿について、次のような編集方針で臨んだという。

至楽老人遺稿、等身、然詩特餘事、而不堪巧、但足以見天明寛政年間之風格耳、故不多録。

至楽老人の遺稿、身と等しうす(多くある)。然れども詩は特に餘事にして、而して堪しくは巧まず。但だ以て天明寛政年間の風格を見るに足るのみ、 故に多く録せず。

 すなわち詩作はあくまでも余事として適当に愉しんでいたという総括を鉄心にされたのであるが、詩稿の量は大げさに言えば背丈ほどあったらしい。 なまなか余事であったとは思われ難いのである。
 ただ『地下十二友詩』が計画された幕末にあって、それらは「天明寛政年間の風格」つまりその当時にはすでに時代遅れとなった性霊説(典故・格調を追わず即物性を旨とした抒情)に基づく詩風であったのだろう。遺された作品も、もはや世代を隔った現今の詩人に添削を委ねる筋合いのものではないのだ、そのような「判断」によって詩稿後半から三篇のみが選ばれ、また先輩への「配慮」によって巻頭に載せられることになっていたようだ。

 紹介文にあるように、五十八もの年齢の開きがあり、出会った当時すでに隠居の身であったという下戸の翁から、若き日の鉄心がたびたび酒量につき窘められていたと書いているところが可笑しい。忘年の契りというのだろう。「昔は沢山詩を書いたもんだよ」と二十代にまでさかのぼる青春の詩稿を示され、托された詩稿のうち、今回発見された四冊がその何割に当るのかは分からない。また『地下十二友詩』に選ばれたわずか三篇の詩篇にしても詩稿とは異同がある。推敲されたのかもしれないが、掲載に際して勝手に添削が施された可能性も否定しない。

 河合東皐については『美濃大垣十万石太平記(上)』(1985清水春一・山田美春編著 253-256p)において、祖先および子孫について、 殆ど唯一の文献として解説がされており、茲に引いておきたい。これを読むと小原鉄心が『地下十二友詩』に多く載せぬとした東皐の遺稿から、ことさら長い「段木詞」を選んで巻頭に掲げた理由、東皐が根尾山の段木方(藩内の薪木を根尾川山系から徴収し差配する仕事)だった父の仕事を、子供の頃から身近に見て育ったことが判る。



 河合勘左衛門正良

 本姓は、藤原氏。家紋は、抱き柏。もと、三つ柏(いつの頃か先祖某氏が伊勢の大神宮に参拝し、宮川に浮ぶ三つの柏葉を見て三つ柏の紋を当家の定紋とした。また、目出たい吉祥の三つ柏葉に、河にて合ったから河合を名乗ったという)を使用した。
 その祖、四郎兵衛利成は、権頭助宗二十余世の孫という。美濃国主土岐氏に仕え、中郷村に居住した。
 二代、與兵衛利有も中郷村に住み、元和九年に没す。三代の佐右衛門利法。四代、甚左衛門利盛に至り、五代目の勘左衛門利重がはじめて当藩に仕える。
 利重は、三代(氏西)、四代(氏定)に仕え、扶持米三十二俵二人扶持が支給され、享保十三年八十二才で没した。
 六代の彦太夫利国は、当国石津郡三十丁村水谷五郎右衛門の嫡男。養父利重より早く没したため家督は継がなかった。
 七代の勘左衛門利正は、享保六年生まれ、幼くして、祖父利重の家督を継ぎ、木村園右衛門豊忠宅に寄寓。五代(氏長)、六代(氏英)に仕え、元文四年、二十五俵二人扶持が支給された。代官兼根尾山段木方、詰目付兼段木方留所奉行・別勘定奉行等を勤め、七代氏教の安永二年、新知五十石の知行取りになった。ついで、固奉行兼舫奉行・普請奉行・中奥番所・納戸役を勤め天明七年二十石が加増。寛政四年江戸詰となり、同五年氏教から下知書
「金八郎(氏庸)幼年ヨリ出精相勤一段之事候、及老年ニ至候間用向取扱差許之勤方之儀是迠之通ニテ金八郎行状第一ニ心ヲ附相勤比段可申渡也」
と時服一襲が与えられ年来の勤労を賞された。ついで、氏庸(部屋住)の側役を一命ぜられ同八年、三十石が加増され都合百石になった。同年、隠居し江戸の永久邸(永久橋中屋敷)で没した。享年七十七才。蓮光寺に葬り、法号は、観了院忠誉泰山信士といった。妻は、井道隆雄の娘。
 八代目が勘左衛門正良である。はじめ、佐右衛門。
 号は、東皐。宝暦九年の生まれ、天明二年江戸に遊学、翌三年に帰垣した。同五年、 氏教に召出され二十俵二人扶持。寛政四年、父利正と江戸に移り、詰目付と金杉下屋敷の留守を勤め、氏庸の剣槍稽古と素読を講じ、のち上屋敷に移り氏庸に近仕した。兄がみな没したため、寛政九年、七十石で当家を相続し、氏庸の納戸役を勤めた。享和二年側役。文化八年、三十石が加えられ百石。 同十一年、氏正付から同十三年再び側役を勤め、文政四年、持筒頭に転じ役料三十俵が支給される。同八年、氏庸の三男・義三郎(のち・戸田寛之進庸達)。同四男・仁四郎(のち。堀田豊前守正義)。同五男・彦五郎(のち・北條相模守氏久)に素読を講じ、同九年三十石が加増され都合百三十石になった。
 正良は、詩を作り、文武両道をきわめ、小原二兵衛忠寛(鉄心)とも交友が深かったという。同十二年、七十一才で致仕、至楽翁と号した。天保十四年、八十五才のとき没す。城東進遮那院に葬り、法号は忠潤院温誉至楽信士といった。妻は都筑平太夫の娘。弘化四年、七十四オで没す。円通寺の墓は、「慧秀院柔誉貞温信女・河合至楽翁妻都筑平太夫娘七十四才逝・弘化四年四月十五日・河合利方建」とある。
 九代目、勘左衛門利方は、はじめ茂平といった。正良の嫡男である。氏庸に仕え、納戸役を勤め、文政十二年に家督を継いで百三十石。のち、氏正に仕え二十石が加増されて寺社・町奉行になり城内小橋ロ門内の北側に住んだ。嘉永二年に没す。年、五十八才。法号は、摂取院光誉照山信士。妻は、安田氏の娘、慶応四年に没した。法号は、随照院摂誉光順信女。ともに西外側町の円通寺に墓がある。夫妻の墓誌銘は、菱田重明(毅齋)の撰文。墓は、 養子勘左衛門利寛が建立したものである。
 十代・勘左衛門利寛は、東長町山本多右衛門治義の三男(佐竹五郎義著の弟)。百三十石を相続し、氏正・氏彬・氏共に歴仕、諸手旗奉行を勤め、明治二年、三十九才で没す。
 十一代の鋭司利能は、はじめ亀之助といった。実は、石原次太右衛門頼当の二男。妻は、喜多村鎮人の娘。最後の藩主氏共に仕え、のち雄(たけし)と改める。




 河合東皐は、小原鉄心やその先輩江馬細香が活躍した頃よりさらに前時代の詩人である。念のため詩稿に出てくる「東陽先生(守屋東陽)」の『東陽集』をあたってみた。詩題には師事した晩年の服部南郭を始め、岡田新川、江馬蘭斎ほか地元詩人の名が挙がっていたが、残念ながら河合東皐の名を見 つけることはできなかった。

 ただし特筆すべきは守屋東陽が『美陽選』なる近親詩人のアンソロジーを計画しており、その序文を書いていたことである。東皐の東陽追悼詩において完成しなかったことが触れられているものの、或いはそうした存在は知られており『美濃風雅』に大垣の武士達の収録が見送られた理由の一端としてあったかもしれないことを付記しておく。

 ともあれ当時の漢詩人の全生涯にわたる作品が、二百年の時を経て奇蹟的に紹介される事になったのは、さきの木村寛齋の時と同様、郷土詩史にとって特筆すべき発見かと思う。

 木村寛齋の項でも記したが、大垣藩の武士詩人たちは、文政四年に刊行された美濃地方の一大アンソロジー『三野風雅』の中に採られることが少なかった。貴重な当時の人間関係が映されているというだけでなく、漢詩文が有する「風格」を、品隲することが困難になった現代人の目からすれば、幕末期の尊王攘夷思想が未だ突出することのなかった、インサイダー文学者の自適生活活写されている当時の作品にこそ、江戸後期に大衆化を果たした漢詩文化の実情が、他者の添削を経ることが無いことも相俟って却ってよく窺われるのではないか、とも思われるのである。


 新出資料のうち、『地下十二友詩』に選ばれた最終的な詩篇を【A】に、続いて自筆詩稿を【B】以降に掲げる。鑑賞や選詩判断についての考察は他日にゆだねたい。


【A】未刊本『地下十二友詩』より河合東皐の詩篇 ◎01.◎02.◎03.
  PDF(13.2mb)

僊其骨儒其心。奉
君忠執事勤。香一炷
竹三竿。存至楽古之
人。 至楽老人賛
   尚庵岩瀬題(岩瀬尚庵)

僊は其の骨、儒は其の心。
君を奉じて忠、執事勤む。
香一炷、竹三竿。
至楽、古への人、存す。

◎01.段木詞。并序
 段木謂薪木也。我封疆西北堺于江越。山深谷邃。居民以伐木充租税。毎歳所伐出。不下五六千間。(段木長三尺、積之高五尺、廣六尺、方言謂之一 間)。盡従谿流。運漕而達大垣。於是自士大夫。以至輿臺卒隷。頒賜各有差。餘波及農商焉。其澤不尠。事詳於詩中云。

西北攅峯繞封域。参天林木欝蕃殖。大者十圍小者拱。陰々交柯日光匿。
居民生計持斧斨。雲嵐深處遠裹粮。採樵従米代租税。維伐維断三尺強。
邦人呼之稱段木。負擔陟降幾陵谷。山深家遠露宿還。溪頭累々積如屋。
冬初山村迎有司。巡検依舊不愆規。杙柵鎮石壅支泒。浚鑿耶相逐下。
一川駿奔疾於矢。段木漂蕩流不止。鼈耶鼇耶相逐下。滾々漂々十數里。
流来六里(村名)官舎前。校檢聚積於此全。舟舩日夜積又載。従流自是下篁川。
君不見 垣城内外家幾萬。終年薪木充一旦。
 禧曰、段木入詩、是為蒿矢。而段木名、世不多知也。采風者可以収而資經濟焉。

 段木の詞。并びに序。
段木(ツダ)は薪木を謂ふ也。我が封疆の西北は江越(近江・越前)を堺とす。山深く谷邃し。居民、伐木を以て租税に充つ。毎歳伐り出す所は。五六 千間を下らず。(段木の長さ三尺、之を積みて高さ五尺、廣さ六尺、方言に之を“一間”と謂ふべし)。盡く谿流に従ひ、運漕して大垣に達す。是に於 いて士大夫より、以て輿臺卒隷(召使)に至るまで頒ち賜はるるも各々差有り。餘波は農商に及び、其の澤(たく)尠からず。事は詩中に詳らかに云 ふ。

西北に峯は攅(あつ)まりて封域(領地)を繞る。
参天(聳ゆる)たる林木、欝として蕃殖す。
大なる者は十圍、小なる者は拱(こまね)く(程の太さ)。
陰々、柯(えだ)を交へて日光匿(かく)る。
居民の生計、斧斨を持し、
雲嵐、深き處、遠く粮(かて:弁当)を裹(つつ)む。
採樵して米に従って租税に代ふ。
維れ伐り維れ断じて、三尺強(※約1メートル)。
邦人、之を呼びて段木と稱す。
負擔して陟り降りすること幾陵谷。
山深く、家遠く、露宿して還(かへ)る。
溪頭に累々と積むこと屋の如し。
冬の初め、山村、有司を迎へ、
巡檢、舊に依って規を愆(あやま)らず、
杙柵、鎮石もて、支泒(支流)を壅(ふさ)ぐ。
激流を浚鑿して、岸涯を溢れさす。
一川、駿奔するは、矢よりも疾く、
段木、漂蕩して流れ止まず。
[鼈]か鼇か(亀たち)、相ひ逐ふ下、
滾々漂々として十數里。
流れ来るは六里(村名:揖斐郡大野町)の官舎前。
校檢、聚め積み、此に於いて全うす。
舟舩、日夜、積み又た載せ、
流れに従って是より篁川(※城下をめぐる川の旧名か)を下る。
君見ずや、垣城の内外に家幾萬あるを。
終年の薪木、一旦(一朝)に充つ。
 禧(菱田海鴎)曰く、段木の詩(題)に入るは、是れを蒿矢と為す。而して段木なる名も、世に多くは知られざる也。采風の者(風俗採集学者)、以 て収めて經濟に資すべし。

◎02.厳齋大夫観楓宴次主人韵
樹々深紅又殘黄
勝於花處下吟牀
多年製錦鄭卿手
裁入詩篇句亦香

 厳齋大夫(戸田睡翁)の観楓の宴。主人の韵に次す。
樹々、深紅また殘黄。
花より勝(景勝)の處、吟牀を下す。
多年、錦を製す、鄭卿(名政治家)の手、
裁して詩篇を入るれば、句また香ばしからん。


◎03.同寛齋大夫訪菱毅齋
退食従容向野村
行攀五柳弄春暄
但為王弘無載酒
先生容易不開門

 寛齋大夫と同に菱毅齋(菱田毅齋)を訪ふ。
退食(退勤)、従容として野村に向ひ、

行(ゆくゆ)く五柳を攀(引)いて、春暄を弄す。
但だ王弘と為るも、酒を載せるなくんば、
先生(五柳先生:陶淵明)、容易に門を開けざらん。

至楽老人遺稿、等身然詩特餘事而不堪巧、但足以見天明寛政年間之風格耳、故不多録。

至楽老人の遺稿、身と等しうす(多くある)。然れども詩は特に餘事にして、而して堪しくは巧まず。但だ以て天明寛政年間の風格を見るに足るのみ、故に多く録せず。

【B】自筆詩稿 第2集【東皐集二:東皐謾詠】〇001〜〇111.  安永十年 (1781年 河合東皐23歳)



※これ以前に存在したと思はれる自筆詩稿 第1集は散佚。

【C】自筆詩稿 第3集【東皐集三】●001.〜●039.  天明二年(1782年 河合東皐24歳)



【D】自筆詩稿 第4集【東皐集】□001.〜□169. 寛政六〜九年(1794-1797年 河合東皐36-39歳)



【E】自筆詩稿 第5集【文政庚寅集】■001.〜■242. 文政十三年 (1829年 河合東皐71歳)〜


現在翻字・訓読中。










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