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守屋東陽
もりやとうよう(1732 享保17年〜1782 天明2年4月14日)
守屋家
家紋は、桧扇。
その祖は、物部守屋、よって守屋を氏とした。そして、河内国若江東弓削村に住んだ。
初代・小十郎定昌は、甲斐の武田氏に仕え、天正年中、三河長篠において戦死した。
二代・内蔵昌長は、天正十年の鳥居峠の戦いに力戦し、重傷を負い本国油川に退隠して傷を癒やす。
三代・源左衛門定秀は、駿河大納言忠長(徳川三代将軍家光の弟・駿遠両国と甲斐の一部五十五万余石の大守)に仕えたが忠長が国を除かれたため下
総の古河に住み、同地に没した。
四代・秀安は、江戸に出て医者になった。小十郎娘明の父親である。
五代が小十郎煥明。別に秀緯。また峨眉山人と号した。元禄六年江戸に生まれ、医業を継ぎ、享保九年三十二才のとき、医と儒学をもって五代藩主氏
長に召し抱えられる。知行は、二百石。屋敷は、城の西・水門川の右岸、清水口門と竹橋口門のほぼ中央(現・神田町一丁目)辺りが与えられた。
煥明を当藩に推挙したのは、宝永三年当藩にえた荻生徂徠の門人・安藤順得(奎州)である。煥明は、はじめ安藤仁右衛門煥図(東野・東壁・順得の
兄)に学びのち徂徠に入門した。徂徠は、「東壁死して東壁死せず」と煥明を安藤東野の生れ替りのように評したという。特に詩文と書をよくし、その
道の友人が多かった。当藩では、門人に大石半右衛門董弘(桂林)がいる。六代氏英の宝暦四年に病没。享年六十二才。岡山の安楽寺に葬られる。墓誌
は遺命により、江戸の服部南郭の撰文であった。
六代・小十郎元泰は、伯亨。号は、東陽といった。煥明の嫡子である。享保十七年に
生まれ、氏長の命を受けて江戸の服部南郭(儒学と詩文に長じ荻生徂徠の門人。東京都品川区北品川三丁目の東海寺に墓がある)に七年間師事。宝暦四
年、二十三才のとき医業を継ぎ氏英に仕えて二百石になった。
父に似て学問を好み、明和元年、朝鮮の使節が大垣を通行したとき、船町全昌寺で使節を接待する。元泰の墓誌に
「明和甲申年韓使聘東都 道濃州 侯受朝命 為主於厨伝之事 君従在側 已而会韓使於桃源山全昌寺 以詩及筆語交鋒疾応酬……」
とある。同六年、三十八オで七代藩主氏教の侍講となった。また、それとは別に武道にも心がけ、当藩の剣・槍薙刀術と鎖術にその名の高い正木太郎
太夫利充の門弟になっている。安永六年、氏教の用番を勤めのち三十石が加増された。天明二年に没す。享年五十一才。父と同じく岡山の安楽寺に葬ら
れた。法号は、澄源院諦円伯亨居士といった。墓誌は、服部元立の撰文。遺著に『東陽集』が
ある。妻・新(誠)は、同藩深沢唯右衛門光繁の長女。
弟・繁右衛門公泰(煥明二男)は、栗田市郎左衛門光隆(三百五十石)の養子になり、伝兵衛光当といった。
七代は、養子・小十郎元万(もとかづ)が継ぎ、氏教と八代氏庸に仕える。
八代・小十郎元寛(もとひろ)は、戸沢作太夫盛尚の四男。はじめ富蔵。尚徴といった。文化十四年、元方の養子になり、家督二百三十石を継ぎ天保
十一年使番に就任。のち弓頭・先鉄砲頭・旗奉行を勤め、氏庸・九代氏正・十代氏彬に歴仕。山鹿派の兵法を修め、弘化四年兵学指南になり、また別
に、書道と彫刻にすぐれた才能があった。屋敷は、新馬場町。文久二年に致仕、随齋と称した。慶応四年に没し、岡山の安楽寺に葬られる。享年七十一
才。法号は、経文院緯武元寛居士といった。墓碑は、実姉・利代の子・小野崎五右衛門辛徳(立堂)の選文である。
九代・小十郎元能は、同藩藤江彦八郎好効の二男。元寛の養子になり、氏彬の側役を勤め、元治元年、郡奉行になった。ついて最後の藩主氏共に仕え
維新の後は、大垣県権少参事。廃藩後、不破郡長を勤め、明治二十七年に六十六才で没した。家は、基三郎が継いだ。
(『美濃大垣十万石太平記(上)』(1985清水春一・山田美春編著 390-392pより。)
『東陽集』
(pdf 60mb)
岐阜県図書館蔵
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