「口語俳句 新刊号」 投稿者:やす 投稿日:2009年 6月30日(火)22時38分48秒 |
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在京
時代勤務してをりました下町風俗資料館の元上司、松本和也様より「口
語俳句 新刊号」の御寄贈にあづかりました。ここにても厚くお礼申し上げます。ありがたうございました。 長らく自然消滅状態にあった雑誌の復活は、往年のロックグループの一夜限りの再結成みたいですが、「言うべきことは言っておこうというわがまま」と謙遜 される松本館長、否「まつもとかずや」氏らしい節操と節廻しに触れてなつかしく、東京にをりました当時の極貧詩人時代の自分もなつかしく思ひ返されまし た。もとより作詩上においては180度ことなる立場にあった私ですが、下町の風景が変貌してゆくことに対して、下町風俗資料館ですごした6年間、「いまど きの若い者」なりに心を痛め、今はまた、日本の庶民が当たり前のこととしてゐた生活上の信条さへ、風前の灯下にあることを、ことさら強く感じつつ文章を拝 読しました。 「口語俳句」と「一行詩」とはどこが違ふのか、「口語俳句」と「川柳」とはどこが違ふのか、むかし館長にお尋ねして困らせたことがありました。思ふにそ れを「一行詩」として一句ごとにタイトルをつけるのは(そのギャップにポエジーも生れるのですが)事々しく野暮天なのであり、また「川柳」には「あてこす り」はあっても真の批判精神はなかったことを思へば、「鹿火屋」の流れを継ぐ末裔の思ひとして、「川柳」とも一線を画されたのではなかったかと、さう解釈 したことと思ひます。戦後民主主義の思想を投入された俳句が、ときに異物を注射された生き物のやうにのた打ち回ってみえることもあり、却ってそんな破調も ふくめて「口語俳句」の持ち味として主張してゐるんだらうな、民主主義を前衛する自負と庶民の生活にうごめくエロティシズム、これらが同居した産物として 「口語俳句」といふブランドであり、歴史的エコールなんだ、と思ひ至ったことがありました。 「ストリップ嬢の傍らでかぶりつく天皇がいてもいいよね」 伝統に対する「わがこころのレジスタンス」の最たる一句でせうか。 しかし「戦争を知らない子どもたち」の世代が老境を迎へ、日本はいまや「戦争を知らない老人たち」が、昔ぢゃあり得なかったやうな情けない事件で世間を 騒がす前代未聞の時代に突入して参りました。伝統文化に対して、レジスタンスどころか介護認定をしなくてはならない現状に接して、日本の国はさきの敗戦で 切り花のやうに、文化の命運をすでに絶たれてゐたのだらうかとも思はざるを得ません。戦前の面魂を存した斯界の巨匠たちが、たまさか戦後の自由な空気にふ れて発火した、最後の燃焼といふべき精神的所産のピークを最後に、日本といふ国は物質的な豊かさと引き換へに精神的にはゆるやかに滅びていったのだと、こ の頃の私は考へるやうになりました。こんにちの日本文化を代表するとも云はれるアニメブームさへ何かしら、手先が器用だった職人文化の亡霊の仕業に思はれ ることが多々あります。 などと、つまらぬ意見を礼状にも認め、大いに頻蹙を買ったことと存じますが(笑)、なにとぞお体御自愛頂き、再び怒りの爆発にむけて御健筆をお祈り申上 げます次第です。ありがたうございました。 「口語俳句 新刊号」44p 2009.6.1発行 \500 〒344-0007 埼玉県春日部市小渕2172口語俳句発行所 |
『詩稿』のこと[その2] 投稿者:やす 投稿日:2009年 6月28日(日)17時53分42秒 |
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つづいて村瀬藤城のこと。 投稿者:やす 投稿日:2009年 6月25日(木)23時23分42秒 |
先日ネット上で偶然村瀬藤
城の自筆詩稿を見つけました。眺めてゐたらば、なんと以前BookReview『漢詩閑話 他三篇』で紹介されてゐた地元旧家に伝はる掛軸の詩篇とそっくり同じものを
発見。早速その事実を著者の御遺族へ報告し、御挨拶かたがた先日、件の掛軸の写真を撮らせて頂きにお邪魔いたしました。 往時の長良川の渡し場の面影は、鉄橋と堤防によって偲ぶよすがもありませんが、藤城の詩に記された森鬱たる背後の山や神社はそのままです(写真)。 合せて梁川星巌の詩軸も提示され、現在解読中。ともに故中村竹陽翁の秘蔵品だった由、残念ながら翁の従弟で口語詩人の深尾贇之丞にまつはる資料はありませ んでしたが、土地に根ざした文献が、縁りの家に百年以上もそのまま蔵されてゐる有り難さを、しみじみ感じて参りました。 さて次の日のことですが、偶然頂きものの福井のお土産「織福」といふ和菓子の包み紙に見覚えのある署名をみつけました。村瀬藤城の 署名とこんなところで出会へるとは、連日の遭遇にびっくりした次第(笑)。 |
『龍山遺稿草稿』と『詩稿』のこと。 投稿者:やす 投稿日:2009年 6月25日(木)23時15分56秒 |
加納の宮田佳子様よりは、ひき
つづいて宮田嘯臺の若き日の盟友である左合竜山の詩集『龍山遺稿』の写本草稿と『詩稿』と題された謎の(?) 写本草稿をおあづかりしてゐます。 『龍山遺稿』の写本は、岐阜県図書館にも昭和16年に寄贈された一冊がすでに所蔵されてゐますが刊本と異同がなく複写本と思はれ、拾遺詩を含んだ原草稿 といふのは、編者嘯臺自筆の書き入れとともに、200年前の地元漢詩の新資料発見といふ意味でも、たいへん貴重な文献かと思はれます。 またもう一冊の『詩稿』と題された文庫本大の写本草稿ですが、裏に嘯臺翁の長子である「宮田龔」といふ名が入ってゐます。普通に考へればこの夭折詩人の自 筆草稿といふことになるのですが、途中に現れる「辛巳元年」といふ年号が、宝暦11年(1761)としても文政4年(1821)としても、氏の生没年[明 和4年(1767)〜安永9年(1780)]とずれてゐて、合はないのです。後半に「初夏村瀬士錦君見訪」といふ詩があることから、どうやらこれは文政4 年、嘯臺翁75歳時の詩稿である可能性が大です。この年の春に翁が村瀬藤城(士錦)の生家である上有知(こうづち:黄土)に自ら赴き、30歳の藤城が礼を もって迎へ、今度は夏に藤城が加納にやってきた。さういふことではないかと思ひます。藤城先生はすでに嘯臺翁の古希(文化13年)に賀詩を贈ってゐます。 師である山陽が以前、加納に枉駕したときに与へたといはれる「悪印象※」も、嘯臺翁の中ではもう過去のこととして、人格者村瀬藤城との往来のなかに氷解し てゐたことでありませう。 (※文化10年当時34歳だった山陽は、美濃の田舎の宿場町に訪れ、集まった詩人たちを一瞥して「青田のごと し」と評した由。一代前の詩壇が流行させた平 易低俗の弊が「擬宋詩」として、新世代詩人たちによって軽蔑され始めた頃ですから、狂俳が蔓延したといはれる美濃の地で嘯臺翁が奉呈した詩の謙譲さといふ のは、山陽のためには「単なる文学好きな田舎爺」の媚態とでも映ったのでありませうか。) しかし、ならばなぜこの詩稿ノート裏に「宮田龔」と記されてゐるのでせう。これは『三野風雅』に於いて父兄の順に詩人が載せられてゐるなか、三男の精齋が 長男のを差し置いて前に記されてゐることや、二人とも同じ吉太郎といふ通称であること(嫡男としての通称を継がせたのかもしれませんが)、ともに謎です。 或は多作家と伝へられる嘯臺らしく、息子が作って白紙のまま残してあったノートを、借用して自身の詩稿帳に使用したものかもしれません。 |
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近況報告 投稿者:やす 投稿日:2009年 4月26日(日)08時58分19秒 |
近況報告を疎かにしてをりまし
た。まとめて記します。 鳥取の手皮小四郎様より『菱』165号の御寄贈。今回の荘原照子の伝記は読みごたへがありました。田舎らしからぬ執筆陣を聘した『白梅』といふ文藝雑誌 をめぐり、中原中也15歳、荘原照子14歳の投稿詩歌の紹介、そして当時三木露風に激励された喜びを今も寸分違はず記憶してゐる元文学少女の老婆と、うな ぎ丼を食べながら相対する筆者。残り物をビニール袋に「ドサドサ」詰めて持って帰らうとする姿をリアルに描いて締め括る、手皮様らしい文章と精緻な考証に 感歎です。 酔ひたふれ正体も無き吾が父を山門に見て走りよりしも 山門に酔ひ仆れたる父をめぐり人集ひをれど吾は泣かなくに 当時の、父親を歌った短歌が『マルスの薔薇』のなかの人物描写そのものであったことに「びっくり」ですが、「びっくり」はむしろそんな歌を父自身の目に 触れるかもしれぬ雑誌に投稿する恐るべき14歳の少女といふべきかもしれません。この時代の詩人は光と影のコントラストの強いトラウマが、モダニズムを纏 ふことなく素のままに渦巻いてゐる感じ。引き裂かれる初恋をめぐっては「いずれ詳しく触れ」られる予定です。 八戸の圓子哲雄様から『朔』165号ならびにお便りを拝掌。雑誌はこのたびも小山正孝未亡人常子氏の一文に癒されました。丸山薫を語りつつ、引用された 八木憲爾氏との件りもあたたかく、本が唯一の財産だったといふ詩人の文学気圏の中に留まり、いつまでもこのやうに回想してくれる奥さんをもつ喜びといふの は、やはり四季派詩人ならではの特権であると思はれたことです。 圓子様のお便りには、『朔』編集局へ宛てた田中克己先生からの風変りな感想のことが書かれてゐました。そんな折、田中先生のハ ガキをまとめて送って下さった埜中美那子様には、宛先である辻芙美子様とと もに、あらためてこの場を借りまして御礼を申上げる次第です。 写真も同封されてゐましたので早速アルバムも更新し ました。辻芙美子氏は帝塚山学院短期大学時代の四期生。ドイツ語を買はれ卒業後、服部正己博士の秘書に推薦された田中先生の教へ子です。最晩年の来信は、 私が先生の御宅に出入りしてゐた時期と重なってそれまた思ひ出深し。けだし私宛ての手紙は、最初においでなさいと呼ばれた絵葉書一枚きりでしたから (笑)。 みなさまには御身体御自愛のこと御健筆をお祈り申上げ、厚くお礼を申し上げます。 ありがたうございました。 さて、読耕が滞ってゐる梁川星巌先生の伝記は、このあと佐久間象山と出会ひ尊王路線を深めてゆく道行きです。日ごろ親炙してゐる「朗読CD」のなかには 象山先生の『省[侃言]録せいけんろく』の触りも収めてあって、曰く、 「君子に五の楽しみあり、而して富貴は与らず。一門礼儀を知りて骨肉釁隙なきは一の楽也。」 またこれも収録の『教育勅語』は、いぶせきこの頃繰り返し聞くうち覚えてしまひました。 「父母に孝に 兄妹に友に 夫婦相和し」 朝晩般若心経を唱へながら喟然たる日々を送ってをります。 |
(無題) 投稿者:やす 投稿日:2009年 3月14日(土)19時46分26秒 |
花粉症に加ふるに風邪が長引い
てゐたため、連日眠気覚めやらず、読耕ままならず、この一ヵ月修養も
遅滞してをります。 山川京子様よりは『桃』の御寄贈を忝く致しました。山川弘至の戦地における遺著といふべき、古事記を和歌の調べに翻案した『日本創世叙事詩』が、 版元を変へて三たび再版されます由、お慶びを申し上げます。民族受難の時代に詩人がなすべきことはなにか、神の国に在ることの意義や自覚を求心的に問ひ進 めていった末に、凝(こご)り固まった祈りの姿が茲に示されてゐる、そのやうに思ひます。激烈な序文はもとより京子氏が後版跋文で補足された当時の詩人の 消息を、今の日本人がどう享けるのか。彼が殉じ得た神話の詩精神が、このさきも歴史を祓ひ鎮め続ける祝詞として活き続けることができるのなら日本は決して 滅びない。さうして漢詩文をふくむ古典を通じて、廃仏毀釈以前の日本人が規範とした慎ましい道徳のありかたに再び思ひを寄せることができるのなら、日本は その歴史に安んじて周りを見回すことだってできる、そのやうに思ってゐます。 |
Book Review 投稿者:やす 投稿日:2009年 2月11日(水)16時05分39秒 |
去年の10月に『ボン書店の
幻』の改訂再版が出てゐたことを知らず、先日新本を求めて所感を記した
のですが、同じ月にも
う一冊、日本漢詩人選集(研文出版)で梁川星巌の巻が出てゐたこと。これまた不敏にして先週まで知りませんでした。昨晩さっそく県立図書館へ行って借りて
きました。収録詩篇が少ないものの、解説は丁寧で江戸詩人選集(岩波書店)との重複はありません。『梁川星巌全集』での伊藤・冨永両先生による注釈以後、
新たに補足された語釈や故事について知ることができ、わが拙き読書ノートにも裨益するところ大です(現在【ノー ト13
頼山陽との永訣 江戸へ】まで)。ともにBook Reviewより御笑覧ください。 また図書館のついでに、全集の第4巻も借用してきました。5巻本のうち手許にこの巻だけないのですが、第1巻〜第3巻の星巌詩集本篇に比べて、350冊 しか作られなかったこの第4巻(紅蘭詩集)と第5巻(書簡)のみを手に入れることは至難の業。結局コピーをとることになりさうです。 中野書店『古本倶楽部・お喋りカタログ』第三号に『萱草に寄す』書入れ並本現る(\315,000)。これまた目録に出るたび切ない気分。 |
詩集『揚子江』 投稿者:やす 投稿日:2009年 2月 7日(土)19時51分56秒 |
山口融さまよりは、先日(1月
18日)紹介しました父君正二氏の戦塵詩集『揚子江』(昭和51年私家
版)の御寄贈に与りま
した。本来戦争中に出る筈だった詩集ですが、戦後手許に戻ってきた原稿を改作せず、30年後に再び刊行することにしたといふ代物。内容は掲示板で予想した
通り、日中戦争で実際に戦った当事者の、のっぴきならぬ現実が、思想ではなく詩想を通じて吐露されてゐました。巻末には「文字、仮名づかい、何れも原文の
まま」とし、読みづらいのは「それはとりもなおさず戰爭を知らないと云ふことに庶(ちか)いのではなかろうか」と記されてゐます。たしかに仮名遣ひの他に
も、当時の中国語が説明無しでたくさん詠みこんでありますが、もとより生き残った知友の机辺におくるため、自ら孔版を刻し、たった200部刷って製本した
私家版の詩集です。味方を疑はず、敵を蔑まなかった一日本兵の心情が、生のままに感ぜられ、当時抱いた詩情と真(まこと)を、そこにそのやうにしか在り得
なかった青春を、三十年後の著者が併せて懐かしんだ。そのやうにみるべき作品集でありませう。序詩を紹介させて頂きます。 (序詩)軍艦旗 山口正二 おれはもうおれのおれではない 理窟も議論も無く、さうなんだ おれが獨りのおれの時は 社會とか、秩序とか、 生きる爲の方針とかについて、そして又時々は見榮と謂った こと等や、極くつまらない損とか得とかの區別までも、 ちゃんと考へてゆかねばならなかった。 そんなに多く、持ち切れない條件を背負ひまはっても、 おれは矢張り阿呆の様にしか生きてゐなかった。 おれは 今、もう棒ッ切れの様に單純だ 唯、鬪へばいいのだ。 大きなカのほんの一つの細胞となって 敵に打つかればいいのだ。 そして、勝てばいいのだ。 戦ひは勝てばいい様に、 おれは、誰の爲にとも、何の爲にとも考へる必要はなくて、 唯もう撃ち出された彈丸の様に、眞ッ直ぐに翔ペばいいのだ。 こんな簡単なことが、 おれを数倍も偉く感じさせる。 ともかく おれはもう充分満足して、おれの動くのを凝視めてゐる。 おれの腦髄にも、網膜にも、 ああ、體中に、 はたはたとはためく軍艦旗 おれは いっぽんの軍艦旗になって進む。 『揚子江』より 詩集の現物を手にすれば、飛騨高山で同じく謄写版印刷を生業とした和仁市太郎の詩集と同じ「手作り感」を実感できます。昨今の、小綺麗で均一装幀の自費出 版詩歌集ブームの中にあって、慥かにこの「紙碑」は内容と同等の異彩をを放ってをります。いづれホームページで全文が公開されるのを俟ちたいと存じます。 ここにても厚く御礼を申上げます。ありがとうございました。 |
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お詫び 投稿者:やす 投稿日:2009年 2月 4日(水)21時42分52秒 |
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更新報告 続き 投稿者:やす 投稿日:2009年 1月15日(木)23時22分52秒 |
山川京子様主宰の『桃』一月号
(Vol.56(1),No.634)の御寄贈に与りました。山川弘
至記念館増築に係る地鎮祭の祝詞を、桃の会の野田安平氏が撰してをられます。ここにても会の皆様にはあらためて御礼を申し上げます。ありがたうございまし
た。 さて、物を納める蔵も大切ではあるのですが、歳月が日々損なってゆく資料の保存を、なるべく早い段階で画像に於いて留めることが、不取敢自分に出来る精 一杯の供養なのではないかと思ひ、昨年「田中克己アルバム」の公開を発心しました。御遺族の全面的な協力を賜り、本日先生の17回忌にあたり、更新を一通 り終へることができましたことを、茲に謹んでご報告申上げます。 (なほ、集合写真においてはお名前不詳の方も多く、お分かりの方にはメールにてこっそり耳打ち頂けましたら幸 甚です。) |
『近代文学 資料と試論』第9号 投稿者:やす 投稿日:2009年 1月15日(木)23時18分42秒 |
碓井雄一様より『近代文学 資
料と試論』第9号の御寄贈に与りました。ここにても御礼を申し上げま
す。ありがたうございました。 今回の碓井様は、師である林富士馬を、そのまた師であるところの伊東静雄との関はりに於いて論ぜられます(「林富士馬・資料と考察 6伊東静雄と響き合 う詩想」)。直前に掲げられた勝呂睦男氏の回想文「忘れがたき年月」が浪曼派詩人林富士馬の面目を明らかにしてをり、碓井様の文章に余韻を引いてゐる様を 羨ましく拝しました。師に連なる先輩後輩の交りに薄かった私に殊更さう思はれ、「無益な遠慮と虚勢」を「含羞と自恃」のやうにも思ひなしてゐた過去を恥づ かしく回想いたします。 冒頭、「林富士馬は伊東静雄が最も愛し続けた詩人/知友であった。」と記されてゐることで私の頭に去来するのは、富士正晴氏が何かで書いてゐた回想で、 東京で林富士馬と初対面の折、好青年の林氏に対して傍から見て度の過ぎる先輩風を吹かせてゐた伊東静雄が、あとで「あれ位でいいんです」とか嘯いて富士氏 を呆れさせたといふ逸話です。富士氏は今回碓井様が抄出の文章中でも「『誕生日』について云ふのに「試論」一篇だけの話をした伊東静雄はやはり眼光の鋭 い、たしかな人だったといはないわけにはゆかぬ」なんて書いてゐるのですが、「一篇だけ」なんて語気は伊東静雄の意を見透かすものでありませう。愛情と優 位とを確信する相手に対しては、時に不遜の姿で自恃を迫る、また人前で故意にさういふ挙に及んで欝屈の片鱗を垣間見せる人だったんだらうと思ひます。母親 に対しても「おまへは黙っとれ」とか怒鳴った事が記されてゐますし、百田宗治も伊東静雄のことを「自恥を知って」ゐるからこそ「きっと不敵なものを蔵して ゐる男で、どうかすると傲岸無礼の挙動が平気で行へる種類の人物」と評してゐます。一中学教師の社会的身分と等身大の詩人とみる向きに対して非常な敵意を 抱いてゐたと、こんなことは愛読者には今更なことですが、碓井様へ至るいみじき三世代の師事を鑑み、あらためて書き添へてみます。 晩年の林富士馬を迎へて発刊された同人誌「登起志久」から数へれば11冊。終始篤実の気によって領せられてきた無償の営為も次回の「満願成仏号」を以て 終刊となる由。本当に御苦労さまでした。 |
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『初版本』終刊号 投稿者:やす 投稿日:2009年 1月 2日(金)07時31分25秒 |
予約の書誌雑誌『初版本』が晦
日に到着、終刊号とのことで驚きました(第4号)。さういへば創刊の
辞もなければ今回終刊
の辞もなく、最後に扶桑書房東原武文氏が、新旧古書番付を引いて人気本の推移を論じてをられますが、初版本市場の変遷と同時に現在の不安材料を語る内容と
なってゐるのが、少しさびしく感じられました。ただ内容は此度も
愛書家が目を細めるものばかりで、とりわけ管理人にとっては、JINさんのモダニズム詩人
追跡、そして「詩集の掘り出し達人」のインタビュー記事は興味深かったです。ときに私のことを詩集コレクターのやうに云ふひとがありますけれど、私なんぞ
は自身の所蔵情報をネット上に開示することで、労なくして新しい情報を得ようとする横着人間(ただの貧乏人)にすぎず、彼のやうに丹念に地方の古書店をめ
ぐって、一旦おさめた奇貨は深く蔵す、得意気に喋って取り上げられるといふやうなつまらぬ禍を避けるのが、本当のコレクターであります。 今回は終刊号でもあり、特に乞はれて其の極く一部を紹介させられてしまった、といふことでせうね。かつて書庫を親しく拝見した記憶も蘇り、垂涎の書影と 体験談は眼福もしくは目の毒です。あ、早速「日本の古本屋」にいって「故国の歌」で検索してるひと誰ですか(笑)。 編集に関はった皆様方には、たいへんお疲れさまでございました。 『初版本』第4号(終刊号) 2008.12.31人魚書房刊 予約限定300部刊行 \1.000 表紙の本 うねうね川 1 芥川と太宰の識語本 川島幸希 2 三島著書目録稿番外抄 山中剛史 20 小松清の著書 樽見博 29 鏡花外装二題 34 詩集を掘り出す 大地達彦 36 荷風初版本拾いの記 鈴木光 46 清方と英朋の木版口絵 56 耄碌堂主人贋作噺 梶川良 60 陰の珍本あれこれ 山口哲司 66 藤村青一 知られざるモダニズム詩人 加藤仁 78 近代古書目録の旅 「太秦文庫古書目録」 76 雑本蒐書録 其之肆 彭城矯介 86 数寄者・楠瀬日年のこと 平田雅樹 92 文学史的評価と古書価 東原武文 100(当HPが7年前、戯れに選定した当時の「昭和初期抒情詩集番付」はこちら。今なら変更もありますが、一寸さういふおちゃらけたもの作る気力が涌 きません。) |
『朔』芥川瑠璃子追悼号 投稿者:やす 投稿日:2009年 1月 1日(木)22時09分34秒 |