も どる

2009年1-6月 日録掲示板 過去ログ



「口語俳句 新刊号」  投稿者:やす  投稿日:2009年 6月30日(火)22時38分48秒
編集済
   在京 時代勤務してをりました下町風俗資料館の元上司、松本和也様より「口 語俳句 新刊号」の御寄贈にあづかりました。ここにても厚くお礼申し上げます。ありがたうございました。
 長らく自然消滅状態にあった雑誌の復活は、往年のロックグループの一夜限りの再結成みたいですが、「言うべきことは言っておこうというわがまま」と謙遜 される松本館長、否「まつもとかずや」氏らしい節操と節廻しに触れてなつかしく、東京にをりました当時の極貧詩人時代の自分もなつかしく思ひ返されまし た。もとより作詩上においては180度ことなる立場にあった私ですが、下町の風景が変貌してゆくことに対して、下町風俗資料館ですごした6年間、「いまど きの若い者」なりに心を痛め、今はまた、日本の庶民が当たり前のこととしてゐた生活上の信条さへ、風前の灯下にあることを、ことさら強く感じつつ文章を拝 読しました。
 「口語俳句」と「一行詩」とはどこが違ふのか、「口語俳句」と「川柳」とはどこが違ふのか、むかし館長にお尋ねして困らせたことがありました。思ふにそ れを「一行詩」として一句ごとにタイトルをつけるのは(そのギャップにポエジーも生れるのですが)事々しく野暮天なのであり、また「川柳」には「あてこす り」はあっても真の批判精神はなかったことを思へば、「鹿火屋」の流れを継ぐ末裔の思ひとして、「川柳」とも一線を画されたのではなかったかと、さう解釈 したことと思ひます。戦後民主主義の思想を投入された俳句が、ときに異物を注射された生き物のやうにのた打ち回ってみえることもあり、却ってそんな破調も ふくめて「口語俳句」の持ち味として主張してゐるんだらうな、民主主義を前衛する自負と庶民の生活にうごめくエロティシズム、これらが同居した産物として 「口語俳句」といふブランドであり、歴史的エコールなんだ、と思ひ至ったことがありました。
「ストリップ嬢の傍らでかぶりつく天皇がいてもいいよね」
 伝統に対する「わがこころのレジスタンス」の最たる一句でせうか。

 しかし「戦争を知らない子どもたち」の世代が老境を迎へ、日本はいまや「戦争を知らない老人たち」が、昔ぢゃあり得なかったやうな情けない事件で世間を 騒がす前代未聞の時代に突入して参りました。伝統文化に対して、レジスタンスどころか介護認定をしなくてはならない現状に接して、日本の国はさきの敗戦で 切り花のやうに、文化の命運をすでに絶たれてゐたのだらうかとも思はざるを得ません。戦前の面魂を存した斯界の巨匠たちが、たまさか戦後の自由な空気にふ れて発火した、最後の燃焼といふべき精神的所産のピークを最後に、日本といふ国は物質的な豊かさと引き換へに精神的にはゆるやかに滅びていったのだと、こ の頃の私は考へるやうになりました。こんにちの日本文化を代表するとも云はれるアニメブームさへ何かしら、手先が器用だった職人文化の亡霊の仕業に思はれ ることが多々あります。
 などと、つまらぬ意見を礼状にも認め、大いに頻蹙を買ったことと存じますが(笑)、なにとぞお体御自愛頂き、再び怒りの爆発にむけて御健筆をお祈り申上 げます次第です。ありがたうございました。

「口語俳句 新刊号」44p 2009.6.1発行 \500
 〒344-0007 埼玉県春日部市小渕2172口語俳句発行所

『詩稿』のこと[その2]  投稿者:やす  投稿日:2009年 6月28日(日)17時53分42秒    編集済
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つづいて村瀬藤城のこと。  投稿者:やす  投稿日:2009年 6月25日(木)23時23分42秒
   先日ネット上で偶然村瀬藤 城の自筆詩稿を見つけました。眺めてゐたらば、なんと以前BookReview『漢詩閑話 他三篇』で紹介されてゐた地元旧家に伝はる掛軸の詩篇とそっくり同じものを 発見。早速その事実を著者の御遺族へ報告し、御挨拶かたがた先日、件の掛軸の写真を撮らせて頂きにお邪魔いたしました。
 往時の長良川の渡し場の面影は、鉄橋と堤防によって偲ぶよすがもありませんが、藤城の詩に記された森鬱たる背後の山や神社はそのままです(写真)。
合せて梁川星巌の詩軸も提示され、現在解読中。ともに故中村竹陽翁の秘蔵品だった由、残念ながら翁の従弟で口語詩人の深尾贇之丞にまつはる資料はありませ んでしたが、土地に根ざした文献が、縁りの家に百年以上もそのまま蔵されてゐる有り難さを、しみじみ感じて参りました。
 さて次の日のことですが、偶然頂きものの福井のお土産「織福」といふ和菓子の包み紙に見覚えのある署名をみつけました。村瀬藤城の 署名とこんなところで出会へるとは、連日の遭遇にびっくりした次第(笑)。

『龍山遺稿草稿』と『詩稿』のこと。  投稿者:やす  投稿日:2009年 6月25日(木)23時15分56秒
   加納の宮田佳子様よりは、ひき つづいて宮田嘯臺の若き日の盟友である左合竜山の詩集『龍山遺稿』の写本草稿と『詩稿』と題された謎の(?) 写本草稿をおあづかりしてゐます。
 『龍山遺稿』の写本は、岐阜県図書館にも昭和16年に寄贈された一冊がすでに所蔵されてゐますが刊本と異同がなく複写本と思はれ、拾遺詩を含んだ原草稿 といふのは、編者嘯臺自筆の書き入れとともに、200年前の地元漢詩の新資料発見といふ意味でも、たいへん貴重な文献かと思はれます。
 またもう一冊の『詩稿』と題された文庫本大の写本草稿ですが、裏に嘯臺翁の長子である「宮田
」といふ名が入ってゐます。普通に考へればこの夭折詩人の自 筆草稿といふことになるのですが、途中に現れる「辛巳元年」といふ年号が、宝暦11年(1761)としても文政4年(1821)としても、氏の生没年[明 和4年(1767)〜安永9年(1780)]とずれてゐて、合はないのです。後半に「初夏村瀬士錦君見訪」といふ詩があることから、どうやらこれは文政4 年、嘯臺翁75歳時の詩稿である可能性が大です。この年の春に翁が村瀬藤城(士錦)の生家である上有知(こうづち:黄土)に自ら赴き、30歳の藤城が礼を もって迎へ、今度は夏に藤城が加納にやってきた。さういふことではないかと思ひます。藤城先生はすでに嘯臺翁の古希(文化13年)に賀詩を贈ってゐます。 師である山陽が以前、加納に枉駕したときに与へたといはれる「悪印象※」も、嘯臺翁の中ではもう過去のこととして、人格者村瀬藤城との往来のなかに氷解し てゐたことでありませう。
(※文化10年当時34歳だった山陽は、美濃の田舎の宿場町に訪れ、集まった詩人たちを一瞥して「青田のごと し」と評した由。一代前の詩壇が流行させた平 易低俗の弊が「擬宋詩」として、新世代詩人たちによって軽蔑され始めた頃ですから、狂俳が蔓延したといはれる美濃の地で嘯臺翁が奉呈した詩の謙譲さといふ のは、山陽のためには「単なる文学好きな田舎爺」の媚態とでも映ったのでありませうか。)
 しかし、ならばなぜこの詩稿ノート裏に「宮田
」と記されてゐるのでせう。これは『三野風雅』に於いて父兄の順に詩人が載せられてゐるなか、三男の精齋が 長男のを差し置いて前に記されてゐることや、二人とも同じ吉太郎といふ通称であること(嫡男としての通称を継がせたのかもしれませんが)、ともに謎です。 或は多作家と伝へられる嘯臺らしく、息子が作って白紙のまま残してあったノートを、借用して自身の詩稿帳に使用したものかもしれません。
 


宮田嘯臺翁  投稿者:やす  投稿日:2009年 6月 1日(月)11時50分1秒    編集済
   昨日、旧加納宿の 当分本陣だった漢詩人宮田嘯臺の旧宅に御挨拶に伺ひ、復刻本『看雲栖 詩稿』の全文公開について御承諾い ただいた御礼を申し上げるとともに、子孫である佳子様よりは、詩人の遺墨・文献の類を示され、当家に伝はる貴重なお話をお伺ひすることができました。早 速、撮影画像を追加させて頂くとともに、この場をもちまして改めて御礼を申し上げます。
 拝見した遺品でびっくりしたのは、復刻された手稿本6冊の他、なほ未公開の漢詩集が1冊あり、多くの「まくり」の類も遺されてゐたことでした。まくり は、岐阜教育大学(岐阜聖徳学園大学)の教授であった故横山寛吾先生が、宮田家を調査された際に筆跡を解読された白文が遺されてゐましたので、テキストに 起こして公開、順次読み下してゆければと思ひます。また漢詩のみならず、加納宿の好事家連で巻いた狂歌の写しもまとめられてゐて、こちらは全て佳子様が読 み下され、すでに一冊のテキストになってをりました。安永4年(1775年)に25でなくなってゐる詩人の弟(士瑞)が参加してゐることから、狂歌流行の 気運のなか、先代を中心とする近所の文学好きのサロンの中で、若き日のユーモアを存分に発揮したものと思はれます。ただ、和歌や芝居の知識も要りさうな江 戸時代の狂歌の解釈は私に荷が重いかも(汗)。一例を挙げるとこんな感じ、友人の篠田氏より新蕎麦が送られ、皆で食べた時の模様です。

「花鳥軒の蕎麦切に」

秋なから蕎麦の名代は花鳥軒 はらのはるへ[春の春辺/腹の張る屁]をもてなしにして (霞亭)
扨も扨もこの蕎麦切りの信濃よさ[品の良さ] ほほう見事な花鳥軒とて (州蕷)
花鳥軒たたの鳥とはおもはれす 此ほうちょう[包丁]の手きはみるにも (丁江)
御馳走は花鳥の軒の蕎麦しゃとて はらはるならぬ人とてもなし (滄浪)
花鳥とほうひ[褒美/放屁]のうたのそろいしは 蕎麦にくさみ[ネギ]の取りあわせかも (奈何)
麺盤たるほうちょうときく蕎麦切は くふにしかさるへ[屁]けんどん哉 (奈何)


 蕎麦食べながらの歌会で、誰か大きなおならでもしたんでせうね。奈何は嘯臺翁の父。さても「緡蛮たる黄鳥・・・鳥に如かざる可けんや」を引ッ掛けて洒落 のめしてしまふとは磊落な親父さん。二十代とおぼしき翁はこのなかでは(霞亭)の名で時折顔を出します。おそらく脇本陣の詩友、森求玉も混じってゐる筈で すが、どの号が誰なのか判然としません(滄浪は秦滄浪ではないらしいです)。

 当日は少し離れた塋域に立ち寄ることも出来、一日の御縁を墓前にあつく感謝申し上げることができました。訪問記をご覧ください。


 さて、皆様からお送り頂いてをります種々の雑誌、個々に御礼は申し上げてをりますが、ここでの御紹介が久しくお留守になったままでをります。誠に申し訳 ありません。殊にも國中治様から4月にお送り頂きました、杉山平一先生の詩業を縦横に論じた論文の数々は、読後感を昨年末に半分書いたまま、継ぎ穂を失っ てしまひ、書きあぐんでゐる始末。わたくし事で頭が思考に集中することができず、加之、BookReviewが投書を受けて削除されることもあり、自分の つまらぬ意見よりテキストの紹介に専心した方が、よほど世の為、精神衛生にも適ふと思ったものですから、いましばらく頭を使ふ更新を避け、テキスト紹介作 業に集中したい考へです。よろしく御理解賜りたく存じます。

近況報告  投稿者:やす  投稿日:2009年 4月26日(日)08時58分19秒
   近況報告を疎かにしてをりまし た。まとめて記します。

 鳥取の手皮小四郎様より『菱』165号の御寄贈。今回の荘原照子の伝記は読みごたへがありました。田舎らしからぬ執筆陣を聘した『白梅』といふ文藝雑誌 をめぐり、中原中也15歳、荘原照子14歳の投稿詩歌の紹介、そして当時三木露風に激励された喜びを今も寸分違はず記憶してゐる元文学少女の老婆と、うな ぎ丼を食べながら相対する筆者。残り物をビニール袋に「ドサドサ」詰めて持って帰らうとする姿をリアルに描いて締め括る、手皮様らしい文章と精緻な考証に 感歎です。

酔ひたふれ正体も無き吾が父を山門に見て走りよりしも
山門に酔ひ仆れたる父をめぐり人集ひをれど吾は泣かなくに


 当時の、父親を歌った短歌が『マルスの薔薇』のなかの人物描写そのものであったことに「びっくり」ですが、「びっくり」はむしろそんな歌を父自身の目に 触れるかもしれぬ雑誌に投稿する恐るべき14歳の少女といふべきかもしれません。この時代の詩人は光と影のコントラストの強いトラウマが、モダニズムを纏 ふことなく素のままに渦巻いてゐる感じ。引き裂かれる初恋をめぐっては「いずれ詳しく触れ」られる予定です。


 八戸の圓子哲雄様から『朔』165号ならびにお便りを拝掌。雑誌はこのたびも小山正孝未亡人常子氏の一文に癒されました。丸山薫を語りつつ、引用された 八木憲爾氏との件りもあたたかく、本が唯一の財産だったといふ詩人の文学気圏の中に留まり、いつまでもこのやうに回想してくれる奥さんをもつ喜びといふの は、やはり四季派詩人ならではの特権であると思はれたことです。


 圓子様のお便りには、『朔』編集局へ宛てた田中克己先生からの風変りな感想のことが書かれてゐました。そんな折、田中先生のハ ガキをまとめて送って下さった埜中美那子様には、宛先である辻芙美子様とと もに、あらためてこの場を借りまして御礼を申上げる次第です。
 写真も同封されてゐましたので早速アルバムも更新し ました。辻芙美子氏は帝塚山学院短期大学時代の四期生。ドイツ語を買はれ卒業後、服部正己博士の秘書に推薦された田中先生の教へ子です。最晩年の来信は、 私が先生の御宅に出入りしてゐた時期と重なってそれまた思ひ出深し。けだし私宛ての手紙は、最初においでなさいと呼ばれた絵葉書一枚きりでしたから (笑)。

 みなさまには御身体御自愛のこと御健筆をお祈り申上げ、厚くお礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


 さて、読耕が滞ってゐる梁川星巌先生の伝記は、このあと佐久間象山と出会ひ尊王路線を深めてゆく道行きです。日ごろ親炙してゐる「朗読CD」のなかには 象山先生の『省[侃言]録せいけんろく』の触りも収めてあって、曰く、
「君子に五の楽しみあり、而して富貴は与らず。一門礼儀を知りて骨肉釁隙なきは一の楽也。」
 またこれも収録の『教育勅語』は、いぶせきこの頃繰り返し聞くうち覚えてしまひました。
「父母に孝に 兄妹に友に 夫婦相和し」
 
朝晩般若心経を唱へながら喟然たる日々を送ってをります。

(無題)  投稿者:やす  投稿日:2009年 3月14日(土)19時46分26秒
   花粉症に加ふるに風邪が長引い てゐたため、連日眠気覚めやらず、読耕ままならず、この一ヵ月修養も 遅滞してをります。
 山川京子様よりは『桃』の御寄贈を忝く致しました。山川弘至の戦地における遺著といふべき、古事記を和歌の調べに翻案した『日本創世叙事詩』が、 版元を変へて三たび再版されます由、お慶びを申し上げます。民族受難の時代に詩人がなすべきことはなにか、神の国に在ることの意義や自覚を求心的に問ひ進 めていった末に、凝(こご)り固まった祈りの姿が茲に示されてゐる、そのやうに思ひます。激烈な序文はもとより京子氏が後版跋文で補足された当時の詩人の 消息を、今の日本人がどう享けるのか。彼が殉じ得た神話の詩精神が、このさきも歴史を祓ひ鎮め続ける祝詞として活き続けることができるのなら日本は決して 滅びない。さうして漢詩文をふくむ古典を通じて、廃仏毀釈以前の日本人が規範とした慎ましい道徳のありかたに再び思ひを寄せることができるのなら、日本は その歴史に安んじて周りを見回すことだってできる、そのやうに思ってゐます。

Book Review  投稿者:やす  投稿日:2009年 2月11日(水)16時05分39秒
   去年の10月に『ボン書店の 幻』の改訂再版が出てゐたことを知らず、先日新本を求めて所感を記した のですが、同じ月にも う一冊、日本漢詩人選集(研文出版)で梁川星巌の巻が出てゐたこと。これまた不敏にして先週まで知りませんでした。昨晩さっそく県立図書館へ行って借りて きました。収録詩篇が少ないものの、解説は丁寧で江戸詩人選集(岩波書店)との重複はありません。『梁川星巌全集』での伊藤・冨永両先生による注釈以後、 新たに補足された語釈や故事について知ることができ、わが拙き読書ノートにも裨益するところ大です(現在【ノー ト13 頼山陽との永訣 江戸へ】まで)。ともにBook Reviewより御笑覧ください。

 また図書館のついでに、全集の第4巻も借用してきました。5巻本のうち手許にこの巻だけないのですが、第1巻〜第3巻の星巌詩集本篇に比べて、350冊 しか作られなかったこの第4巻(紅蘭詩集)と第5巻(書簡)のみを手に入れることは至難の業。結局コピーをとることになりさうです。

 中野書店『古本倶楽部・お喋りカタログ』第三号に『萱草に寄す』書入れ並本現る(\315,000)。これまた目録に出るたび切ない気分。

詩集『揚子江』  投稿者:やす  投稿日:2009年 2月 7日(土)19時51分56秒    編集済
  山口融さまよりは、先日(1月 18日)紹介しました父君正二氏の戦塵詩集『揚子江』(昭和51年私家 版)の御寄贈に与りま した。本来戦争中に出る筈だった詩集ですが、戦後手許に戻ってきた原稿を改作せず、30年後に再び刊行することにしたといふ代物。内容は掲示板で予想した 通り、日中戦争で実際に戦った当事者の、のっぴきならぬ現実が、思想ではなく詩想を通じて吐露されてゐました。巻末には「文字、仮名づかい、何れも原文の まま」とし、読みづらいのは「それはとりもなおさず戰爭を知らないと云ふことに庶(ちか)いのではなかろうか」と記されてゐます。たしかに仮名遣ひの他に も、当時の中国語が説明無しでたくさん詠みこんでありますが、もとより生き残った知友の机辺におくるため、自ら孔版を刻し、たった200部刷って製本した 私家版の詩集です。味方を疑はず、敵を蔑まなかった一日本兵の心情が、生のままに感ぜられ、当時抱いた詩情と真(まこと)を、そこにそのやうにしか在り得 なかった青春を、三十年後の著者が併せて懐かしんだ。そのやうにみるべき作品集でありませう。序詩を紹介させて頂きます。

  (序詩)軍艦旗
              山口正二

おれはもうおれのおれではない
理窟も議論も無く、さうなんだ
おれが獨りのおれの時は
社會とか、秩序とか、
生きる爲の方針とかについて、そして又時々は見榮と謂った
こと等や、極くつまらない損とか得とかの區別までも、
ちゃんと考へてゆかねばならなかった。
そんなに多く、持ち切れない條件を背負ひまはっても、
おれは矢張り阿呆の様にしか生きてゐなかった。
おれは
今、もう棒ッ切れの様に單純だ
唯、鬪へばいいのだ。
大きなカのほんの一つの細胞となって
敵に打つかればいいのだ。
そして、勝てばいいのだ。
戦ひは勝てばいい様に、
おれは、誰の爲にとも、何の爲にとも考へる必要はなくて、
唯もう撃ち出された彈丸の様に、眞ッ直ぐに翔ペばいいのだ。
こんな簡単なことが、
おれを数倍も偉く感じさせる。
ともかく
おれはもう充分満足して、おれの動くのを凝視めてゐる。
おれの腦髄にも、網膜にも、
ああ、體中に、
はたはたとはためく軍艦旗
おれは
いっぽんの軍艦旗になって進む。
                    『揚子江』より


詩集の現物を手にすれば、飛騨高山で同じく謄写版印刷を生業とした和仁市太郎の詩集と同じ「手作り感」を実感できます。昨今の、小綺麗で均一装幀の自費出 版詩歌集ブームの中にあって、慥かにこの「紙碑」は内容と同等の異彩をを放ってをります。いづれホームページで全文が公開されるのを俟ちたいと存じます。
ここにても厚く御礼を申上げます。ありがとうございました。

 


御案内  投稿者:やす  投稿日:2009年 2月 7日(土)19時25分23秒    編集済
  >佐藤さま
「頑張って歩んできた」といふのは、読者の事情に依った解釈なのか、今一つピンと来ないのですが、「私自身が忘れたらこの私の徒労を知る者もなくなってし まふんだなぁ…それでいいか(嗚咽)。」といふのが私の理解でしたが、前向きに解釈されたのは珍しいことに思ひます。

さて、文化のみち二葉館からは次回の特別展「春日井建と仲間たち」の御案内を頂きました。そもそも和歌と現代詩と両方苦 手な人間にして、さきの「この道」の歌さへオロオロ解釈、コメントもできなくって恐縮しきり。頂きましたチラシをとりいそぎ御紹介いたします。
 

ありがとうございました  投稿者:yukari  投稿日:2009年 2月 5日(木)10時48分5秒    編集済
  中嶋さま

ありがとうございました。詩集も「忘れなば」ですね。
お詫びなんてとんでもない。むしろ、私の見当違いでお手数をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありません。

詩(本もみんなそうだと思いますが)はいろいろな読み方があるんですね。中嶋さんの「完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌」に「そんな見方もあるのか!」と 驚くやら、「確かに」と唸るやら。世界が広がり、ドキドキしております。
私はこの歌を人から教えていただきました。
「哀しみから立ち上がる」というよりも、「この道を泣きつつも頑張って歩んできたことを、誰が知らなくても私自身が知っている。それでいい」と言う感じで しょうか。

詩って本当にいいですね。今回、それをすごく感じています。
これからもHPによらせてください。よろしくお願いいたします。

お詫び  投稿者:やす  投稿日:2009年 2月 4日(水)21時42分52秒    編集済
  佐藤ゆかり様、管理人のやす@中 嶋康博と申します。詩を感ずるのに素人も玄人もありません。
さてお尋ねの件ですが、「ご存知」も何も、これは小さな画像を掲げた私のミスなのですが、再
度スキャンしました画像を 御覧頂ければ分かるやうに「忘れなば」で正しいのです。申し訳ありません。
「生きようという力がわいてくるような歌」といふのは、あたらしい解釈ですね。
私にとっては、落ち込んでゐる時に口ずさんで、さらに完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌なのですが、いぢけすぎて悲しみの向かふ側をみて居る節も感ぜられ ます。
思ふにひとは一度泣きつくした所から再び立ち上がる力も涌きあがってくる訳ですから、さういふ解釈も成り立つかもしれません。
この歌に復唱して「たれをかも恨むにあらむこのみちを  いつよりわ
れ はなきそめてこし」なんて歌もあります。
立派な公開資料に見合はぬ拙いノートを併載してをりますが、今後ともよろしく御贔屓に下さいませ。レファレンスありがとうございました。

 


わが忘れなば  投稿者:yukari  投稿日:2009年 2月 4日(水)18時58分42秒    編集済
  はじめまして。佐藤 ゆかりと申します。

詩集にも古書にもまったく詳しくなく、なのにこんな「まさに素人!」の投稿していいのだろうか…と不安になりつつ、どうにも気になってメールしておりま す。

私、「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」がとても好きです。何というか、生きようという力がわいてくるような歌だと思いま す。

この歌を検索しているうちに「四季・コギト・詩集ホームページ」に出合いました。
田中克己さんのいろいろな歌にふれることができ、喜んでおります。

そして、「エッ」と思いました。
私は今まで「わが忘れなば」と思っていたのですが、『戦後吟』の写真に「わが忘れたば」とあります。
「わが忘れたば」と「わが忘れなば」は意味合いが少しだけ変わるような気がしています。
中嶋様も「わが忘れなば」と書かれていらっしゃいますが、田中克己さんは『戦後吟』のあとに「たば」を「なば」に変えられたのでしょうか。
もともと「忘れたば」なのか、それとも「なば」に変えたのか(それとも現代用語では「たば」は「なば」なのかと考えたりもして…)などいろいろ考えており ます。
変えたならば「深い」と勝手に思ったりもしています。

「たば」と「なば」についていろいろ検索したのですがまったくヒットしません。それで、思わず投稿してしまっております。
もしも、ご存知でしたらお教えいただけると幸いです。
このような変な投稿で申し訳ありません。
 

御礼:『定本伊東静雄全集』逸文の紹介  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月23日(金)23時51分35秒
   碓井雄一様
 林富士馬追悼文「先生の御事」(「新現実」71、2002.1)および「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」(「昭和文学研究」48、 2004.3)のコピーをお送り頂きありがたうございました。書き込みを賜りましたので、掲示板より重ねての御礼を申し上げます。
 思へば私は田中克己先生の臨終に際して文章を書いてをりません。ですが碓井様同様、年少の友人として接して下さった師の家に足く通ひ、奥様から毎度手料 理を振舞はれ恬然長居してゐた貧乏青年、世代をはるかに隔てた不肖の弟子としての想ひを言葉にするなら、全く同一のものになると思ひます。違ふのは、碓井 様の2年間に対して吾が5年間(ただし酒と文学論議は無し)。そして120通も手紙を頂いた碓井様に対して、私は最初に「一度いらっしゃい」と葉書一枚を 頂いただけ。矍鑠たる浪曼派詩人との濃密な交際といふより、いつも横に控へる奥様と先生を肴にして三人で雑談に興じてゐたことが多かったやうに思ひます。 一緒に撮った写真も5年間のあひだに適ま来訪客があって撮って頂いた一枚があるきりです。それは自宅改築の際の仮住まひでの写真で、段ボール箱に囲まれた 先生は入歯を外しはなはだ冴えず、私も着たことのない色のセーターを着て表情硬く・・・けだし唯一の大切な写真には変りありませんが、あんまりひとにみせ たくないのであります(笑)。
 『定本伊東静雄全集』の逸文ですが、刊行された『伊東静雄青春書簡』以外のものに限ってもこれだけの分量があるのですね。改訂版定本の刊行が無理でも新 たに拾遺資料として一冊にまとまると有り難いのですが、それも難しければHPに上してしまふのも一策です。研究者も愛読者も多い詩人ですから(嫌な言葉で すが業績価値も商品価値もあり)此処で勝手に「孫引きベータ版」を掲げてしまふ訳にもゆかないのが残念ですが、今回碓井様が整理して報告されてゐる新見資 料の書誌のみ掲げさせて頂きます。

書簡:杉山平一宛(昭15.9.29付)、三島由紀夫宛(昭19.11.21付):『定本伊東静雄全集』第7刷(人文書院1989.4)別刷付録
歌詞:「木枯し」:『新修女子音楽』水野康孝編(大阪開成館、昭12.9):小高根二郎「伊東静雄・その詩碑と拾遺と」『文学館』5 (潮流社1984.11)
書簡:吉田貞子宛(昭7.5.4付)、宮本新治・貞子宛(昭9.2.3付)、宮本新治宛書簡(昭9.2.18付)、杉山平一宛、三島由紀夫宛(前述):同 上(小高根二郎)
書簡:下村寅太郎宛(推定昭18.春)、下村寅太郎宛(昭18.10.27付):『伊東静雄―憂情の美学』米倉巌(審美社1985.9)
書簡:小高根二郎宛(昭25) (昭26.1.15):「当館所蔵の伊東静雄書簡について」『大谷女子大学図書館報』19(人文書院1987.1)
散文:短文4篇:『呂』3(昭7.8)、4(昭7.9)、6(昭7.11)、7(昭7.12) :赤塚正幸「伊東静雄読書目録」『敍説』9(敍説舎1994.1)
書簡:肥下恒夫宛(昭10.8.22〜18.10.12):飛高隆夫「肥下恒夫宛伊東静雄葉書二十通他一通」『四季派学会論集』6(四季派学会 1995.3)
書簡:品川力方海風杜宛(昭13.11.20):「館蔵資料から 未発表資料紹介」『日本近代文学館』146(日本近代文学館1995.7)
散文:『呂』第四号(昭7.9):碓井雄一「伊東静雄の「全集」と「文庫本」・覚書」『群系』(群系の会、1996.8)
書簡:大塚格宛133通:大塚梓・田中俊広『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』本多企画 (1997.12)
散文:「一つの詩集」:『野人』第六号(昭14.9.20):碓井雄一「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」『昭和文学研究』48(昭和文学 会2004.3)

 文中『呂』の逸文の紹介者である赤塚正幸氏は、かつてわが職場で教鞭を執られた先生。おかげで図書館には四季派関係の文献が完備してゐます。過去の紀要 所載論文も許諾を受けCiNii からFull Textを公開させて頂いてゐますので併せてお知らせ致します。
 ありがたうございました。
 

『天游詩鈔別集』  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月22日(木)23時06分1秒    編集済
   風日事務局より歌 誌「風日」の御寄贈を忝くいたしました。その精神的支柱である保田與 重郎を回顧した「五十年記念誌」の 頒布について、年会費の名目でお取り計らひ頂いた為、和歌の門外漢である私にまで昨年一年間、購読 を賜ったのでした。谷崎昭男氏が草される先師の回想を楽 しみに拝読してをりましたが、今号の話題は先だってこちらでも紹介させて頂いた身余堂写 真集『保田與重郎のくらし』をめぐっての一文。いづれ一冊にまとめ られる時を楽しみにしたいと存じます。ありがとうございました。

 探求書の『天游詩鈔別集』(津田天游著、昭和2年刊)を丸善から受取りました。馴染み深い岐阜市内の土地を詠みこんだ漢詩が目白押しに並んでゐます。金 華山、達目洞、忠節橋、雄総山、岩井薬師、・・・尤も当時の風景なら写真がすでにある時代なので、何もわざわざ漢詩で偲ぶ必要はないのですが(笑)。用 字・典故も江戸時代より易しくとっつきやすさうです。しかし、今しばらくは梁川星巌の伝記に齧りついてゆくことにします。「読書ノート」ゆるゆる更新して ゆきますのでよろしく。

 

最近の経済的不況の折、伴侶にこれ以上本を買われるのを防ぐため、家人が目録を先に受け取り・・・  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月21日(水)21時21分8秒    編集済
   碓井様、センター 試験も終りひと段落された由。わが職場ではセンター終了を受けてのこ れからが正念場です。今年もよろしくお願ひを申上げます。

 「田中克己アルバム」の写真の不明人物については、皆様から情報を募ってをります。かつて成城高校の国語教師であられた山川京子様よりは、成城国文学会 の人々のほか、宮崎智惠・大伴道子合同出版記念会にも参加されてゐた由、御電話を頂きました。これには気が付かず、当日の雰囲気をお話し頂いた記憶力とと もに吃驚です。ありがたうございました。

 さて本日到着の目録、和洋会の「お願い」に笑ひました・・・(今のところU^ェ^;U )。また石神井書林目録に『詩集西康省』の並本が\5250で出てゐましたのでお知らせします。
 

有難うございます。  投稿者:碓井雄一  投稿日:2009年 1月19日(月)10時30分0秒
  いつもいつも優しい 御紹介と御手紙を賜り、本当に有難うございます。ようやく第9号まで 発行することができました。嬉しく 衷心より御礼申上げます。拙文「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」と、林先生への追悼文、近日中にお送り申上げます。今日はこれから、大学 の方の今年度の最終講義でございます。高校の方、センター試験が終り、僕は3年生の授業のみ担当ですので、こちらも一段落でございます。来年度も3年生の 担当だと思いますが、何にせよ、4月中旬まで大勢の前で声を出すのは暫くお休みです。この間に自分の勉強の充実を……、と毎年思うのですが、サボってばか りおります。次号、7月上旬にはお届けできることと存じます。何卒お見守り下さいませ。  

詩集『揚子江』  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月18日(日)11時48分20秒    編集済
   山口融さまより、 御尊父正二氏の詩集『揚子江』の あ とがき画像を お送り頂いたので追加upしました。戦中に刊行が予定されてゐた戦地での詩篇を、敢へて書き変へず上梓されたのは、徒な戦意高揚でも反戦でもなく、一兵士 としての自らの詩想に雑ぜものがなかったからなのだと思ひます。当時軍人詩人として有名だった西村皎三のことを蔑んでゐないのがその証拠ですし、四季派関 連で申しますと臼井喜之介と、ウスヰ書房から詩集を出してゐる大西溢雄と、共にお知り合ひであったことにも驚いてゐます。孔版印刷であることも手伝ひ、戦 後に出た多くの戦争詩集とは一線を画す氛囲気をあとがきから感じ、興味深く拝見しました。ありがたうございました。  

初荷のキコー本  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月17日(土)18時14分14秒    編集済
   旧臘は、上京した 折に見つけた村瀬太乙の初刊行書『菅茶山詩鈔』(嘉永6年序)が「買 ひ納め」でしたが、本年の記念すべ き「初荷」もまた、長戸得齋の紀行文集『北道游簿』(天保10年序)と、津田天游『天游詩鈔別集』(昭和2年)と、御当地美濃の漢詩文集となりました(ニ コニコ)。『北道游簿』は、かつて明治古典会七夕古書入札会で美本を手に取るも、やりすごした紀行本の稀覯本。冒頭にわが町長良村の風景も述べられてゐ て、佐藤一斎は跋文で、歴史がてんこ盛りのところが凡百の紀行と違ってゐて宜しいなんて云ってますが、ここはやはり当時の郷土の風景をもっと報告して欲し かったところ。『天游詩鈔別集』は、『美濃の漢詩人とその作品』(山田勝弘著)のなかで、後半の一章を割いて詳しく紹介されてゐる詩集。序文を書いてゐる 矢土錦山の扁額を入手してゐることもあって、気になってゐた詩集です。幸運にも二冊とも入手が叶ひ欣喜雀躍。昨日の五反田展『堀辰雄詩集』(デッサン欠 \40,000)は残念ながら外れたのですが、これ以上望んだらバチが当ります(笑)。

『北道游簿』(冒頭)    美濃 長戸譲士譲著
文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]な り。路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。乃ち其の 行程を記し、以て他日の臥遊に供す。

七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。織田黄門秀信の岐阜に在るや、其 れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒 (かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。 右に折れて二里、関村に出るべし。昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。左に転ずれ ば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の 城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、及び族 太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教 授す。就学する者、稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。

更新報告 続き  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月15日(木)23時22分52秒    編集済
   山川京子様主宰の『桃』一月号 (Vol.56(1),No.634)の御寄贈に与りました。山川弘 至記念館増築に係る地鎮祭の祝詞を、桃の会の野田安平氏が撰してをられます。ここにても会の皆様にはあらためて御礼を申し上げます。ありがたうございまし た。

 さて、物を納める蔵も大切ではあるのですが、歳月が日々損なってゆく資料の保存を、なるべく早い段階で画像に於いて留めることが、不取敢自分に出来る精 一杯の供養なのではないかと思ひ、昨年「田中克己アルバム」の公開を発心しました。御遺族の全面的な協力を賜り、本日先生の17回忌にあたり、更新を一通 り終へることができましたことを、茲に謹んでご報告申上げます。
(なほ、集合写真においてはお名前不詳の方も多く、お分かりの方にはメールにてこっそり耳打ち頂けましたら幸 甚です。)

『近代文学 資料と試論』第9号  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月15日(木)23時18分42秒
   碓井雄一様より『近代文学 資 料と試論』第9号の御寄贈に与りました。ここにても御礼を申し上げま す。ありがたうございました。
 今回の碓井様は、師である林富士馬を、そのまた師であるところの伊東静雄との関はりに於いて論ぜられます(「林富士馬・資料と考察 6伊東静雄と響き合 う詩想」)。直前に掲げられた勝呂睦男氏の回想文「忘れがたき年月」が浪曼派詩人林富士馬の面目を明らかにしてをり、碓井様の文章に余韻を引いてゐる様を 羨ましく拝しました。師に連なる先輩後輩の交りに薄かった私に殊更さう思はれ、「無益な遠慮と虚勢」を「含羞と自恃」のやうにも思ひなしてゐた過去を恥づ かしく回想いたします。
 冒頭、「林富士馬は伊東静雄が最も愛し続けた詩人/知友であった。」と記されてゐることで私の頭に去来するのは、富士正晴氏が何かで書いてゐた回想で、 東京で林富士馬と初対面の折、好青年の林氏に対して傍から見て度の過ぎる先輩風を吹かせてゐた伊東静雄が、あとで「あれ位でいいんです」とか嘯いて富士氏 を呆れさせたといふ逸話です。富士氏は今回碓井様が抄出の文章中でも「『誕生日』について云ふのに「試論」一篇だけの話をした伊東静雄はやはり眼光の鋭 い、たしかな人だったといはないわけにはゆかぬ」なんて書いてゐるのですが、「一篇だけ」なんて語気は伊東静雄の意を見透かすものでありませう。愛情と優 位とを確信する相手に対しては、時に不遜の姿で自恃を迫る、また人前で故意にさういふ挙に及んで欝屈の片鱗を垣間見せる人だったんだらうと思ひます。母親 に対しても「おまへは黙っとれ」とか怒鳴った事が記されてゐますし、百田宗治も伊東静雄のことを「自恥を知って」ゐるからこそ「きっと不敵なものを蔵して ゐる男で、どうかすると傲岸無礼の挙動が平気で行へる種類の人物」と評してゐます。一中学教師の社会的身分と等身大の詩人とみる向きに対して非常な敵意を 抱いてゐたと、こんなことは愛読者には今更なことですが、碓井様へ至るいみじき三世代の師事を鑑み、あらためて書き添へてみます。
 晩年の林富士馬を迎へて発刊された同人誌「登起志久」から数へれば11冊。終始篤実の気によって領せられてきた無償の営為も次回の「満願成仏号」を以て 終刊となる由。本当に御苦労さまでした。
 


『菱』164号  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月15日(木)23時17分21秒
  手皮小四郎様より 『菱』164号の御寄贈に与りました。荘原照子の伝記もいよいよ「少女 詩人」時代に入り、謎の多い文学的 出発を聞き書きと文献と両面から解き明かされてゆくのを興味深く見守ってをります。投稿詩にみられる少女らしい淡い同性愛が、やがて告白しないまま失恋の 孤独をかみしめる乙女の心情へと成長してゆく様を見、また母から英語、父から漢学と、あのモダニズム詩を書く教養を殆ど家庭学習により授かったといふ事実 を知って、本人の詩人的な素質とともに、旧家の精神的な財産といふのはものすごいものだと思ったことです。次回は初恋のゆくゑと、それからそろそろ交友関 係にも若い詩人達の名も現れてくるのでせうか。たのしみです。ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  

更新報告  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月 5日(月)22時06分12秒    編集済
   「田中克己文学 館」に御遺族からの借用資料の掲載を開始します。画像が巨きいので、ブ ロードバンドでない方には御迷惑を おかけいたしますが、高校大学時代の集合写真など、研究者にもおそらく初めて御覧になる資料が多く珍しからうと存じます。細部に至るまでごゆっくり御覧く ださい。(無断転載はお断りいたします)
 今年の喪中正月は、そんなこんなでスキャナーとサイト更新作業に明け暮れ、読書は全くお留守になりました。拝聴(拝観)してをりました白川静博士の文字 講話DVDは、最後の第20回「漢字の将来」に於いて再び日本の歴史を憂へ、東アジアに於ける「漢字文化圏共同体」再構築の夢が語られてゐます。94歳と は思へぬ志操と、そして四六駢儷体の詩文を朗々と暗誦される記憶力には驚嘆です。共産主義と物欲主義(アメリカニズム)、さらに一神教や戦後教育に反省を 求め、礼節と仁による平和を掲げようとする、そんなところが斯界に限らぬ敬慕の対象となってゐる所以なのでせうね。

『初版本』終刊号  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月 2日(金)07時31分25秒    編集済
   予約の書誌雑誌『初版本』が晦 日に到着、終刊号とのことで驚きました(第4号)。さういへば創刊の 辞もなければ今回終刊 の辞もなく、最後に扶桑書房東原武文氏が、新旧古書番付を引いて人気本の推移を論じてをられますが、初版本市場の変遷と同時に現在の不安材料を語る内容と なってゐるのが、少しさびしく感じられました。ただ内容は此度も 愛書家が目を細めるものばかりで、とりわけ管理人にとっては、JINさんのモダニズム詩人 追跡、そして「詩集の掘り出し達人」のインタビュー記事は興味深かったです。ときに私のことを詩集コレクターのやうに云ふひとがありますけれど、私なんぞ は自身の所蔵情報をネット上に開示することで、労なくして新しい情報を得ようとする横着人間(ただの貧乏人)にすぎず、彼のやうに丹念に地方の古書店をめ ぐって、一旦おさめた奇貨は深く蔵す、得意気に喋って取り上げられるといふやうなつまらぬ禍を避けるのが、本当のコレクターであります。
 今回は終刊号でもあり、特に乞はれて其の極く一部を紹介させられてしまった、といふことでせうね。かつて書庫を親しく拝見した記憶も蘇り、垂涎の書影と 体験談は眼福もしくは目の毒です。あ、早速「日本の古本屋」にいって「故国の歌」で検索してるひと誰ですか(笑)。
 編集に関はった皆様方には、たいへんお疲れさまでございました。

『初版本』第4号(終刊号) 2008.12.31人魚書房刊 予約限定300部刊行 \1.000
表紙の本 うねうね川 1
芥川と太宰の識語本 川島幸希 2
三島著書目録稿番外抄 山中剛史 20
小松清の著書 樽見博 29
鏡花外装二題 34
詩集を掘り出す 大地達彦 36
荷風初版本拾いの記 鈴木光 46
清方と英朋の木版口絵 56
耄碌堂主人贋作噺 梶川良 60
陰の珍本あれこれ 山口哲司 66
藤村青一 知られざるモダニズム詩人 加藤仁 78
近代古書目録の旅 「太秦文庫古書目録」 76
雑本蒐書録 其之肆 彭城矯介 86
数寄者・楠瀬日年のこと 平田雅樹 92
文学史的評価と古書価 東原武文 100(当HPが7年前、戯れに選定した当時の「昭和初期抒情詩集番付」はこちら。今なら変更もありますが、一寸さういふおちゃらけたもの作る気力が涌 きません。)

『朔』芥川瑠璃子追悼号  投稿者:やす  投稿日:2009年 1月 1日(木)22時09分34秒    編集済
   今年もよろしくお願ひを申上げ ます。

 八戸の圓子哲雄様より『朔』164号芥川瑠璃子追悼号を御寄贈いただきました。
 実は田中克己先生の実家からお借りしてきた昔のアルバムのなかに、このたび口絵写真に採られた詩集出版記念会(1960.4.29)の写真や、夫君比呂 志氏とのスナップ写真(1954.7.9)がみつかり、このたびの特集をひとしほ親しく感じてゐます。また、坂口昌明氏が書いてをられますが、戦前「四 季」での「葛巻ルリ子」時代には、立原道造が彼女の職場だった文芸春秋社を訪ねて行き、不在だったことなんかもあったと云ひます。或はどこかで読んで忘れ てゐるのかもしれません。近頃忘れっぽくていけません。
 連載中の小山正孝未亡人、常子氏のエッセイもさうですが、愛を歌ふ詩人に、心やすらぐ文章を書いて寄せてくれる奥さんが居ったりすれば、これは夭折詩人 の青春とは異なる、何か青春といっても琥珀色の気圏が雲蒸される訳で、まことに羨ましい限りに存じます。
 夫人の御冥福を祈りますと共に、ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。