Back (2017.02.12up / 2021.02.27update)

戸田葆堂 とだほどう(1851嘉永四年~1908明治四十一年)


 戸田葆堂、名は光、字は修来、通称鼎耳、初め葆堂と称し、のち葆逸と改め、再び葆堂に復した。別に保眞堂、問鶴園、十二洞天齋の号があり、旧大垣藩臣戸田治右衛門義尚の長子である。
嘉永四年(一八五一)十一月二十九日に生れる。父が早世したため祖父義賢の後を承けて家を継ぎ、藩主戸田氏共(うじたか)の侍講となった。明治五年に他界した小原鉄心を「王父(亡き祖父)」と仰ぎ、生前の鉄心は穎悟強識であった「姪孫」の彼を「以て意を強うするに足る」と常に人に語り、頼りにしていたといふ。鉄心には娘が三人あり、藩執政上田家を襲った弟能重のほか同胞に四人の姉妹があった。「姪孫」とは姉か妹の孫を指すことになるが、同時に祖父として仰がれたのは、つまり葆堂の両親が、小原家の後嗣同様、いとこ同士だったと思はれる(小原家には能重の長男適(ただし)が鉄心の婿養子に入っている)。

 明治二年、鉄心に従って東遊、昌平黌に学んだが、居ること二年で病を得て帰郷。その後は藩儒の野村藤陰および岩瀬尚庵、井田澹泊等に就いて学んだ。岐阜県令の小崎利準(こさきとしなり)に乞はれるも病弱を理由に仕官を固辞し、京都の諸名流との詩酒徴逐の日々を送ったといふ。また画筆を執っては天野方壺に学び、南画家として一家を成すに至ってゐる。
明治十四年九月、同士と相謀って大垣に鷃笑社を創設した。野村藤陰を社長に推し、自らは編集長となり月刊雑誌『鷃笑新誌:あんしょうしんし』を発行、以後印刷にも携はった。稀覯雑誌であるが、現在東京大学の明治新聞雑誌文庫に、明治十六年二十六集までのバックナンバーが断続的に確認されてゐる。

 ほかに著書として、子息の泰が私家版として公刊した『問鶴園遺稿』一巻(大正五年刊)のほか、数種の自筆稿本が岐阜県図書館に遺されてゐる。『問鶴園遺稿』巻頭には葆堂より絵の手ほどきを受けた大橋翠石による先師の肖像が掲げられてゐる。


【筆跡】 戸田葆堂筆跡類


【参考資料】

『鷃笑新誌:あんしょうしんし』1集~11集合本(明14年[9]月~15年8月) 鷃笑社(大垣郭町1番地、社長野村藤陰)刊行

『洞簫余響』野村藤陰/編 [致道館][慶應3(1867)]跋


【著書および日記】

p1

『問鶴園遺稿』

(もんかくえんいこう)

大正5年1月1日 戸田葆堂著; 木蘇岐山點定; 牧野鐵九郎編輯 
戸田泰発行 印刷 河田貞次郎(西濃印刷株式会社)

39丁 26.3×15.4cm 非売品 帙入り

p2

扉「問鶴園図」(毎々子 署)

p3

題字(戸田研堂:旧大垣藩主 戸田氏共) / 問鶴園図(森琴石 画)

p4

葆堂筆蹟 / 葆堂肖像(大橋翠石 画)

無官無位不履不巾。北窓高臥年已久。自謂羲皇以上人。
明治三十六年癸卯六月十四日 時季五十三 葆堂戸田光

無官無位、不履不巾(身なりに頓着しない)。北窓高臥して年すでに久し。自ら謂ふ、羲皇以上の人(太古平穏の民)と。

p5

序文(石川柳城)

p6

序文(原田西疇)

p7

序文(藤澤南岳)

本文PDF(22,699KB)

地震行(濃尾大震災を詠んだ詩)

歳維次重光単閼。 歳は維れ重光単閼[辛卯:明治24年]に次(やど)る 。
冬十月二十八晨。 冬十月二十八の晨(あした) 。
驟暖奇侅候凶兆。 驟暖奇侅(きかい:非常)にして凶兆を候(きざ)す。
白日無光昏天垠。 白日、光無く天垠昏(くら)し。
一[烏]不啼風頓止。 一鳥啼かず風頓(にはか)に止む。
轟響何物忽聾耳。 轟響、何物ぞ忽ち耳を聾す。
天柱挫兮坤輿裂。 天柱挫け、坤輿裂く。
振掉篏揺不能起。 振掉[振盪]篏揺[撼揺]起きるあたはず。
一上一下陸吹涛。 一上一下して陸、涛を吹く。
匍匐難行神徒馳。 匍匐するも行き難く神(心)徒らに馳す。
棟落於前来圧後。 棟は前より落ちて、来るに後を圧す。
屋瓦紛如木葉飛。 屋瓦は紛として木葉の如く飛ぶ。
周章無術避暴殄。 周章して術べなし、暴殄を避くるに。
眼眩廣輪豈其弁。 眼は眩み、廣輪(東西南北)豈に其れ弁ぜんや。
推擠欲起石噛足。 推擠(おしひしがれ)て起きんと欲するも石、足を噛む。
萬死之中以躬免。 萬死の中、躬(み)を以て免(まぬが)る。
忽見處々捲焔烟。 忽ち見る、處々に焔烟を捲くを。
狂奔無語人瞠焉。 狂奔して語なく、人は瞠せり。
火勢驀地猛加烈。 火勢驀地にして猛烈を加ふ。
狂焔乱飛欲暁天。 狂焔乱飛して暁(や)けんと欲する天に。
回禄[曝]奰不可當。 回禄(火神)、[爆][奰:ひ(強大になる,怒る)]して当たるべからず。
四面咸火無跡亡。 四面はみな火、跡なく亡ぜり。
断臂折脚狼藉僵。 臂断ち脚折れ、狼藉として僵(たふ)る。
淋漓血迸不裹創。 淋漓として血迸り創(きず)を裹(つつ)まず。
命也臻此軽于塵。 命や此に臻りて塵より軽し。
焦屍爛骸積作岡。 焦屍爛骸、積みて岡を作す。
嗟有底罪戮萬霊。 ああ底(なん)の罪有りてか萬霊を戮(ころ)す。
災禍転瞬無可量。 災禍、転瞬(一瞬)にして量るべくもなし。
天道好生曽所信。 天道の好生(生を好むの徳)は、曽て信ずる所。
絶叫更向彼蒼[憗]。 絶叫は更に向ふ、彼の蒼(蒼生:民衆)の[愁]ひに。
君不見他時斉巽現新乾坤。 君見ずや、他時(むかし)“巽(たつみ:西北)”に斉(ととの)へて(万物潔斎し:易の八卦)、新たに乾坤(天地)の現はるるを。
我聞萬物出乎震。 我は聞けり「萬物は“震”より出づる(易の八卦) 」と。

p7

葆堂遺稿跋

今茲来大垣。宿于牧野交翠家。数日。交翠修訂葆堂遺稿。予始見葆堂之詩。清客陳曼壽等。頻費賛評。蓋其才調過人。有高尚優美之気象。又有卓然于雲表之慨焉。見其山水画。優入南宗之域。覚有倪迂茫緩之趣焉。詳聞葆堂之平生。瀟洒出塵之姿。品格高邁為近世難多獲之人也。而天不仮年惜哉。

  大正四年八月十二日  鷹洲 織田完之

p8

跋文(木蘇岐山)

葆堂戸田先生行状

先生旧大垣藩名閥也。考諱義尚。妣家女。考不継家而歿。先生時歳十六。承組父義賢之後。食碌七百五十石。任御番頭。侍藩主戸田氏共公。講習四書五経。頴悟強識。王父小原鐵心深愛之。常語人曰。有姪孫鼎耳。足以強意。明治二年従王父東遊入昌平黌。刻苦励精。業大進。居二年。載病而還。就藩儒野村藤陰及岩瀬忠蔵井田徹助等。敲其蘊奥。有出藍之誉云。岐阜県令小崎利準。援引薦官。先生称病固辞。後遊京師。与名流詩酒徴逐。曾清人陳曼壽来。親問詩法。所得不尠。先生兼善渲染。初学天野方壷。後参観明清諸家之名蹟。別樹旗幟。酣古高逸之致可掬焉。然以画家不自居。及門之士。若大橋翠石。最得其秘訣者也。先生資質如蒲柳。擁病臥榻接客。或与儒流弁経義。与老衲談玄理。不覚二竪之在身。明治四十一年七月五日歿。享年五十八。葬於桃源山先塋之次。先歿数日。予知易簀之期迫也。自著碑陰之字。曰名光字修来。号葆堂。通称鼎耳。旧大垣藩臣戸田義尚長子也。
嘉永四年十一月廿九日生。終生不求官。以文墨自娯。鳴呼亦足以知先生之終始矣。

  大正四年十一月五日 交翠 牧野 鐵 識

 遺稿刊行予専当之与男芸窓大橋翠石分担補貲

                        鐵 又識

書問鶴園遺稿後

家君易簀之後。牧野交翠君首従遺稿上梓之事。大橋翠石兄賛襄之。木蘇岐山翁以旧知之故。当校定之任。及刻成。旧藩公特蒙恵題詞。如南岳、西疇、琴石、柳城、鷹洲、岐山諸大家。各辱文詩画記。燦然添光焉。霊兮有知。則莞爾含笑応言詩巻長留天地間。惟余不肖碌々守園居。所負如是其多。抑亦先君之徳也哉。因贅言一言永充紀念。

  大正四年臘月 男芸窓 戸田 泰 謹誌

p9

奥付


p10

戸田葆堂『芸窓日録』

(うんそうにちろく)

明治14年3月24日 ~ 明治15年12月18日

24×16.5cm、35丁、和紙 写本日誌

『芸窓日録』解題 中嶋康博(『岐阜女子大学地域文化研究』(34号,2017年3月)PDF(2.5Mb) 2017年3月公開(新かな遣い)

【凡例】

○文字表記はなるべくそのまま起した。異体字・誤字・脱字は、そうであると思われる字を[ ]内に示し、判読不能の字に□をあてた。また適宜句読点と括弧を施し、説明を(※)内に補った。
○本資料の解読にあたっては、岐阜女子大学地域文化研究所の丸山幸太郎先生、辻公子先生、および韓天雍先生から多大なる御教示に与った。あらためて茲に深謝申し上げます。また刊行後に判明して追記訂正した部分を緑字で表記した。皆様からの判読御協力ありがとうございます。


  

(※表紙) 芸窓日録

(※表紙裏) 大阪西区梅本町五番地 佐野サト内
東京四谷坂町三十二番 小川兵衛方 杦山三郊(※杉山千和三男)
                   草書 明人 宜山


(※明治十四年)
三月二十四日:晡時、藤井寒林子ノ逆旅ヲ叩キ、黄昏、家ニ帰ル。
三月二十六日:夜、藤陰老人(※野村藤陰:註3)、來話ス。
三月二十七日:午後五[字(※=時:以下同)]、岐阜栄助(※中村栄助)ヱ柬(※かん:手紙)発ス。○夜、甚蔵(※使用人:河合甚蔵)エ詢金ノ残リ分八円相渡ス。合計十八円也。右ハ明治十三年辰一ヶ年分、懇頼ニ因テ之ヲ諾ス。
三月二十八日:藤井氏來訪。時座ヲ同フスル者、齋藤(※齋藤百竹:註13)、矢野(※矢野栗所:註13)、河本、山川雪鴻ノ数子ナリ。雅譚、不雑塵。
三月二十五日:胡銕梅(※胡鉄梅:解題参照)筆資料、便ニ附シテ名古屋伊藤ヱ送致ス。[此]金額十五円四拾銭也。[枚]数六張分ナリ。
三月二十九日:曼壽(※陳曼壽:解題参照)ヱノ[復]凾発ス。○昨賜華牋、頼詳閣下近況曼福慰ニ、弟(※自称)碌々依旧、硯田筆耕、無有異[事]。足下現所[寓]山[光]水色倶佳、何堪艶羨。弟客日理装、欲重入都以叙旧歓。足下山城之滞期有幾日。宇乞為告辞、想別來[嚢]中定應佳句多。幸賜一硯、何快如之。刻下春寒峭料、自玉所祷奉善、草卒不罄。
○倉竹圃(※戸倉竹圃:註13)ヱ柬発ス。告グルニ「鷃笑社」會期ヲ以テス。○名古屋伊藤ゟ(※より。以下同)胡氏筆資領手ノ[復]函來着ス。
三月三十日:朝、岐阜岡本(※岡本硯農:註14)・大澤ヨリ柬來ル。直ニ[復]凾発。午後、岩越來ル。藤井氏、大滌子(※石濤:清初画家)ノ山水帖ヲ携ヱ來ル。
夜ニ入テ小川(※小川僧泰:註15)舎ヲ訪。酒間、墨井道人(※呉歴:清初画家)墨竹、文震孟(※明末書家)行書、子冶(※瞿応紹:清代画家)墨竹帖ヲ見ル。
三月三十一日:萬酔堂來リ、公債証一件、内約ス。
四月一日:訪藤井氏。夜、到小原(※小原適:解題参照)、野村(※註3)之両氏宅而會事ヲ談ス。
四月二日:祖先ノ忌辰、仏事ヲ執行ス。來人三十名斗(ばか)リ。料理壱人ニ付十[銭]ナリ。○上田、西京ヨリ柬着ス。
  ※上田肇(1852-1932)。上田能重三男、俳壇宗匠「花の本聴秋」として知られる。以下同(上田千秋氏よりの御教示)。
四月三日:開「鷃笑社」會、於無何有(むかう)荘(※小原鉄心旧庵:註16)。[此]日會者十有餘名。時梅花将残亂香馥郁。
四月四日:同藤井訪胡銕梅[寓]所。夜十一[時]帰家。
四月五日:西京篠田ヱ柬発ス。
四月六日:杉山千[和]來訪。時携一詩來、曰「壓街新物賣[欠字]魚。四月清[和]雨霽初。知是山王祭期近。村童舁出小神輿。」甚好竹枝。
四月七日:朝、岐阜中栄(※中村栄助)ヱ柬発、午後、画ヲ胡氏ヱ属ス、二十葉。夜、関口生(※関口伯斐:註13)余吉岡(※吉岡楼:註17)ニ招ク。辞スルニ小詩ヲ以テス。「鴎盟詩約両三及。聞説芳楼共挙巵。生憎今宵有煩事。乞君休咎負佳期。」時夜将三更。
四月八日:午後、胡氏ヲ訪、画二葉ヲ属ス。各四尺屏。
四月九日:小原氏初午稲荷祭、夜八[時]家ニ帰ル。岐阜脇坂(※脇坂竹坨:註13)并ニ栄助ヨリ柬着ス。○野村熟(※野村藤陰塾)生、古川熊太郎、画門ニ入ラン事乞。○牧野(※牧野交翠:註13)ヨリ潤金トシテ六円預リ置ク。
四月十日:美晴春暖可人。午後訪胡氏、余以曽所愛之小巻、乞鑑。胡氏云「[此]顧西楳(※顧洛:清代画家)之筆也。我邦頗貴、蓋自賞之物、故欠欵(※款)耳。」
四月十一日:訪藤井氏、夜、十二[時]過帰ル。
四月十二日:名古屋天然堂ゟ柬着ス。夜、訪藤井氏。
四月十三日:小川氏招飲。
四月十四日:戸倉竹圃來。夜飲於京丸亭○脇坂ヨリ柬來ル。
四月十五日:夜、寒林君來訪。○胡氏潤金、松[野]并[堀江]両氏ヨリ預百円余。


  

  (※欄外:元人仇山村(※仇遠:元代書家)詩「無求莫問朝廷事、有耻難交市井人。」)
四月十六日:藤井、明晨将帰郷。余、潤金十七円、外ニ壱円金ヲ以テ渡ス。此夜雨。共ニ詩アリ。
四月十七日:胡氏ヲ訪。潤儀九十六円十[銭]。外ニ絖本五円三十八[銭]、文霞口、十四円、文明口、芦鴈左[元]四角(九十六[銭])、〆百十七円四十四[銭]也。胡氏、此日[詩]ヲ以テ贈ル。夜、藤井ヲ訪。偶然脇坂氏ニ晤ス。[此]夜、藤井頗不平、闌[令]病ヲ発ス。十二[時]過帰家。
四月十八日:寒林ヲ送ル。午後与胡氏養老行ヲ約ス。
  (※欄外:寒林住所 大坂西区靭下通二丁目二十八番地。大[和]國平群郡三井村四十二番地)
四月十九日:朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭(※解題参照)中ニ宿ス。
四月二十日:胡氏來憩於偕楽社、後移豆馬亭。各有詩、画興少有。胡氏要還垣(※大垣)、[但ただ]固(もとより)車無、乃(すなはち)止宿。
○胡氏詩曰「松斜風穿急。泉奔萬馬力。逝者如斯夫(※論語の一節)。誠者故無息(※中庸の一節)。誰従川上來。千古尼山一。(※尼山:孔子故郷)」
  題豆馬亭「不窮碧海上蒼穹。日月双丸走太空。亭上白雲亭下河。寸人豆馬土濛々。」
四月二十一日:次胡氏韵曰「新築名園老瀑東。壮観不与昔時同。賞心帰去猶労夢。花隔軽烟細雨中。」
午後四時過命車。胡氏、岡本、大澤、桒女之諸氏ト同ク帰ル。泥土速馳スル能ス、夜七時過家ニ至ル。此車賃八十[銭]。

四月二十三日:微雨。朝、大高氏ノ葬ヲ送ル。午後、胡氏ヲ訪。夜、脇坂來、話畢テ直ニ去ル。[此]日養老公園井上参議ノ陪従ノ帰途ナリ。○天然堂來ル。
四月二十四日:朝、西京上田ヱ柬発ス。○回陽堂來リ、水谷氏画門ニ入ラン事ヲ乞。胡氏画及寒林書画ヲ乞ハン事ヲ托ス。(※欄外:日曜)
四月二十五日:朝、小原氏珍客ヲ待ツ、因テ器物数点貸ス。夜、小山尊語來。余、他出中、不接謦咳。胡氏画、文明口六葉持帰ル。
四月二十六日:朝、岸田講掛金相渡ス、則六円ナリ。内十[銭]料理代引。小山尊語來話、明晨将上西京、因幸托一封寄芥津(※篠田芥津:註18)。封中容壱円二十五[銭]、金則「果梅集」代価也。○東京小野湖山贈近著「消閑集」二巻來。己卯(※明治十二年)後作。
  (※欄外:満江春水柳依々。細雨尊前花乱飛。采手無言悵離別。欲千夕暉一片軒。帆望急溜々所心。東京神田区神[田]五軒丁十五番地 小野)
四月二十七日:[此]日甚覚暖、藤井ヱ柬発ス。
四月二十八日:雨。携岡本生至望海楼、喫点茶。
四月二十九日:夜、訪胡氏、為詩談。此夜春寒甚。
四月三十日:胡氏潤金二十九円五十二[銭]渡ス。内四尺屏三[枚]。倉氏(※戸倉氏)分、此金六元(内四円半直[納])引而三円九十[銭](又十三枚ハ五部引)。
五月一日:鷃笑社會。此日小雨弄晴。頗可詩、胡銕梅亦來参、席上賦七律一首、寓客皆驚。
五月二日:雨。朝、楓村來訪、談西遊之事。且、胡氏嘱画ヲ托ス。
五月三日:朝、藤陰見來、贈胡氏[詩]曰「畧従図画識超俗。相値更欣徳量寛。筆換舌來交若問。詩抒臆去互親歓。剪燈縦是双心契。判袂其如再會難。為我生絹寫残墨。毎思君處展來看。」
五月四日:朝、公債利子請取件、中嶌氏ヱ托ス。午後、訪胡氏、入夜帰。
五月五日:雨。終日昏々為睡。
五月六日:雨。西京篠田ヨリ柬來ル。
五月七日:雨。胡氏ヲ訪ヒ潤金十四円八十二[銭]渡ス。[此]日五尺屏白凰墨竹図壱張、胡氏写以テ贈ル。[此]夜、余、微恙ヲ以テ帰家スル能ズ。遂ニ京丸亭ニ宿ス。翌早朝、車ヲ命ジテ帰。途上、新漲為川。
  (※欄外:戸倉口。玉堂富貴二円六十六。四尺屏二[[枚]] 四元。序文 壱円。絖本尺二 四尺五。同 尺八四尺 九十二[銭]。□ 菓子
藤井口。絖本三尺。 [潤]壱円二十[銭]。)
五月八日:晴。國帋十三[枚](此代壱円四十三[銭])以テ胡氏ニ贐ス。
五月九日:晴。病褥無聊。
五月十日:晴。明日胡氏上程ノ由。蕪詩ヲ贐ス。曼老(※陳曼寿。以下同)ヱノ柬一封、岡本ヱ附ス。嘱物五字額四張印五[枚]、[此]潤金八円ナリ。
  (※挿込紙:「微雲作雨首夏清。疎雨送我歩園林。一湾泂水緑于酒。十畝菜花黄似金。童子不関門待客。主人方沐手調[琴]。故國若無滄海隔。何妨曳杖百回尋。」)
五月十一日:中嶋(※中嶋蘆洲:註13)生、有馬温泉ヨリノ柬着。○大野郡政田村、堀金作來リ、画ヲ乞。○黄昏脇坂ヱ柬発。


  

五月十二日:回陽生來、胡氏書托寄戸倉竹圃子。
五月十三日:木村拙蔵來リ画ヲ乞、田付氏ノ嘱。
五月十四日:岐阜林逸(※註19)來ル。蓋、方壺(※天野方壺:註20以下同)門、[此]人想浮薄姓欤。
五月十五日:八幡神社祭事。依例襍[踏]、此日不出門外。○中嶋、安田両子西遊帰途來話。
五月十六日:朝、篠田、脇坂両氏ヱ柬ス。○長地村岩越家[内]來ル。
五月十七日:上田ヨリ柬到ル(東川端通丸太町下ル九十二番)。又岡本ヨリ胡氏[寓]所報シ來ル(河原町通三条上ル下丸屋、松屋市平方ナリ。)○巌越ノ柬認ム。
五月十八日:葉芽ヲ摘ム。[此]目方五百目(※匁)
五月十九日:水谷生來ル。○金二十五円古川ゟ成文堂請取金入ル。
五月二十日:江馬金粟來訪(※註21)。多奇話。○福田廉蔵來ル。
五月二十一日:脇坂ヨリ柬着ス。
五月二十二日:西京文石堂(※唐本専門店)ヨリ「消夏録」送致シ[此]価九十[銭]、稍覚廉。
五月二十三日:西京曼老ヨリ書并石章(※印章)送リ來ル。
五月二十四日:竹ヶ鼻(※羽島竹鼻町)小見山竹村來訪。朝、西京胡氏ヱ柬発ス。
五月二十五日:岐阜杦山ヱ愉快講ノ[事]ヲ報ス。草稿神戸(※ごうど:岐阜地名)杦山ヱ送致ス。
五月二十六日:愉[快]講ヲ講員ヱ報知ス。
五月二十七日:高須高木十蔵來テ、忰松之助ノ学事ヲ托ス。
五月二十八日:愉快講落口半数、此金七十三円五十[銭]也。後會ハ十一月也。○五十円松岡ヱ返金ス。此利三円七十五[銭]也。
○朝、脇坂ヱ柬発ス。夜、曼壽ニ与フル書ヲ修ス。
五月二十九日:東京成章社ヱ柬発ス。○金半円、宇野(※宇野義存:註22)ヱ送ル。「南村遺稿」ノ答礼。○小原ヨリ三十円借リ入レ。本年七月返濟ノ約。
五月三十日:東京成章社ヱ為替金壱円着出ス。此賃三[銭]也。
五月三十一日:服部傳吉方[負]債元金百円、利子八円三十三[銭]三[厘]相渡、右皆濟ノ[事]。○三円三十[銭](一月ヨリ五月迠)五十円利金小原ヱ納ム。
六月一日:金四十円早川倉造ゟ請取。
六月二日:高須池田新ナル者來、画門ニ入ラン[事]ヲ乞。岡本ヱ柬発ス。
六月三日:吹原ノ[茶]肆ヲ過グ。
六月四日:戸倉ヱ柬発ス。
六月五日:岩越方養子新婦ニ付、代理トシテ甚作(※既出)ヲ遣ス。壱円五十[銭](肴料・扇子料・袷代料)兼。○矢野ゟ取替金受取。又戸倉竹圃同数此十円ナリ。
六月六日:成章社ヨリ「詩文詳解」當(※到)着。○午後、鷃笑社會ヱ赴ク。[此]日雨、夜、十[時]過帰ル。
六月七日:雨。牧野生來、席上揮毫。
六月八日:杦山千[和]ヱ柬発ス。
六月九日:中嶋來、取替金六円持來。外ニ五円成文堂掛残之分預リ置。
六月十二日:脇坂來、枕頭俗事ヲ談ス。胡氏画相渡ス。絖本七円二十[銭]壱[厘]十六[カヘ]。潤七円。
六月十八日:牧野來テ東行ヲ告ク。頼ニ小野(※小野湖山:註23)ヱ贈柬ヲ托ス。
六月十九日:丹瑞來ル。○成章社ヱ柬ス。
六月二十日:成文講触レ状配達ス。○金三円六十[銭]甚蔵ヱ渡ス。本年六月迠分相濟。
六月二十二日:郷亮三來リ、金百円ノ證券御渡ス。利子十五円相附。此期限六月元十一月晦日迄也。
六月二十三日:朝、脇坂來リ、西京渡シ金ノ[内]、三百円ハ両名ノ名目ニ而金策ス。
六月二十四日:成文堂五百講會日。余、以不快欠席、[此]掛金十三円七十[銭]。○壱円八[銭]九[厘](十四[年]上半期学校費)納ム。
六月二十五日:銀行ニ而三百五十円借入レ。利子壱[銭]三[厘](内五毛ハ前[納]ノ[事]――壱円五[銭])。期限十一月三十日、[此]抵當(坪数千四十七坪六合二勺、價三百三十五円二十五[銭]也。六ヶ月利子二十七円三十[銭])。曼壽ヱノ柬、今井ヱ托ス。
六月二十六日:成文講割戻し。壱口ニ付十壱円七十[銭]つゝ、郷両氏ヱ返ス。
六月二十七日:金二円三十[銭]吹原ヱ遺ス。瓶及墨壱丁ノ代價。


  

六月二十八日:金二百円、萬酔堂ヱ貸ス。來月限[此]抵當二品ナリ。山川生來ル。○立成講集會、余、病ヲ以テ辞ス。
○大橋寛一講四円差出ス。落口七十四円十五[銭]ノ用。
六月二十九日:東京牧野ヨリ柬來ル。○「鷃笑新誌」ノ件ヲ談ス。三和ヨリ金十六円、利子二円二十[銭]、受取悉皆濟。
六月三十日:東京牧野ヱ[復]柬発ス。○服部傳方銀瓶成文堂口受ケ出ス。此金二十円ハ元金(利子二十七円十八[銭])相[渡]ス。
○金三十円來月限ニ而三[和]ヱ貸。○三十円(利子四十[銭])小原方ヱ返濟す。
○浅ノ口五百円(十二月五日迠ノ利、壱[銭]一厘ニ而)此金三十六円。三十円相渡ス。○下婢給壱円半、生渡シ。(※欄外:郵便ハガキ二十五[銭])
七月一日:雨。高木乾濤來而告別。
七月二日:岡本、大阪ヨリ帰途來訪。書画数幅ヲ持來。浄業ノ墨蘭、呉文炳山水、尤佳ナル者。
  (※欄外:西新町壱丁目八番地 岡本久敬)
七月三日:雨。岡氏又來リ(金壱円貸ス)、席上竹堂ノ画ヲ臨ス。○鷃笑詩會、余、微恙ヲ以辞ス。
七月四日:夜、中嶋生、來リ訪フ。
七月五日:岸、高木生來リ、「鷃笑新誌」ヲ校讐ス。栗所モ又來ル。
七月六日:無事。
七月七日:又雨。石原(※石原墨荘:註13)生來リ話ス。
七月八日:朝、上田ヱ柬発ス。○西京玩古堂來ル。
七月九日:朝、杦山ヨリ詩屮(※草稿)來着。一昨七日出ノ柬ナリ共、遅延配達ノ不注意ニヨル也。夜、「新誌」校讐十二[時]過。
七月十日:晴。炎感甚タシ。
七月十一日:體気不爽。
七月十二日:牧野ゟ柬來ル。○中嶋ヱ成文堂ゟ引受品相托ス。四十八点、此金五百三十円。○脇坂ヱ柬ス。
七月十三日:朝「新誌」高木ヱ托ス。夜、石崎、杦山ヱノ柬書ス。
七月十四日:朝、石崎、杦山ヱノ両氏ヱ柬発ス。
  七月十五日:無事。
七月十六日:安藤鉐次郎來リ、余ガ画門ニ入ル。○池田生帰省。
七月十七日:段木(※薪:つだ)壱間此代四円十五[銭]。石崎齢一ヱ渡ス。外運賃四[銭]。
七月十八日:曼壽ゟ柬着。七月十九日:養老書画會散々。篠田ヱ発ス。
七月二十日:成文堂事件ニ付、小川屋ニテ集會。(※不詳)
七月二十一日:上田氏ヱ柬ス。井筒屋講画金十四円、宇野ヱ渡ス。
七月二十二日:朝、牧野ヨリ柬來ル。○ナタ子(※なたね:菜種油)売却、此価三円十五[銭]。壱升八[銭]五ノ割。
七月二十三日:無事。
七月二十四日:大跡戸倉ヨリ十円回送ス。内三円ハ唫講會三回分。七月八月ニ付七円成文行。
七月二十五日:耕間堂來話ス。
七月二十六日:朝、曼壽并藤井ヱノ柬、回陽生ヱ托ス。○立成講ゟ七十円借入レ。壱銭五厘六毛。
七月二十七日:矢野生來、束脩持シ來ル。
  (※欄外:下石津郡高須西町口池向打)
七月二十八日:安藤來告別(岐阜常盤丁(※町)四[嶋]堂雇)。池田生來ル。
七月二十九日:岡本ゟ柬來。即時[復]函ヲ発。
七月三十日:牧野ヨリ柬并ニ途産(※不詳)ヲ販ル。借屋賃増加発表方。
七月三十一日:雪齋ゟ三十七円四十[銭]、井筒屋講金入。二円五十[銭]。善左衛門袷。五月今日迠。金五十円、小原方返上。但シ利子二円添。
八月一日:雨。株券請取。
八月二日:邸内売却仮約定、右手附トシテ五十円請取置。○陳曼壽ヨリ柬着ス。
八月三日:菅宗三ゟ柬ル。岸ヱ柬発ス。大橋(※大橋翠石:解題参照)來話、版事ヲ談ス。
八月四日:小原ヱ一訪ス。
八月五日:朝、野村氏ヲ訪。午後、池田生來、束脩持贈。○馬淵研造、泓良畺二子來。
八月六日:友誼會。東京谷(※:註24)ヱ柬発ス。大和藤井ゟ一封來ル。
八月七日:鷃笑社會。[此]牧野、山川生來訪。
八月八日:曼壽ヨリノ柬着ス。
八月九日:杦山來リ千円、講発會十八日ト決ス。
八月十日:夜、松岡氏ヲ訪。 八月十一日:福永ニ而會。
八月十二日:胡銕梅來柬。谷氏法事。
八月十三日:朝、銕梅、琴仙(※王琴仙:解題参照)両子來訪。午後、其寓所ヲ訪。王氏談中曰「先生欲抹茶乎否」。余曰「不欲」。王曰「弟、於貴邦所交之文人墨客、皆嗜抹茶者少矣。若有嗜抹人、則知其為俗物」。相倶言之一笑。


  

八月十五日:早晨、胡氏ヲ訪テ不遇。寒林ヨリ柬來ル。黄昏野村君ヲ訪ヒ、帰途活版所ヱ一訪ス。
八月十六日:角力一覧、此日大達尤有人望、梅谷ハ松ノ音ト相角シ勝負無シ雖、梅谷ノ者カ。
八月十七日:胡氏、名府(※名古屋)ヨリ柬到ル。東京下谷人來リ、乏窮ヲ説キ悵然、画一葉ヲ施送ス。牧野ヱ成文口ノ品物托ス。
八月十八日:千円講発會、余以病辞。
八月十九日:中嶌來。夜、長崎田中萬谷來話。
八月二十日:曼壽ヱ柬発。
八月二十一日:曼老ヨリ柬着ス。午後脇坂來リ、此日來賓頻々。
八月二十二日:萬谷來リ別ヲ告ク。石痴(※成瀬石痴:註25)篆[印口]篆ヲ依托ス。
  (※挿込紙:長崎銀屋街五十三番 戸行餘学舎ニ付 田中秀実)
八月二十三日:宇野來ル。八月二十四日:無事。
八月二十五日:曼壽柬着、復函又発ス。夜小原ヱ到、活版所事件ヲ談ス。
八月二十六日:牧野ヨリ道具代トシテ三十五円、中嶌ヨリ十三円、外ニ胡氏潤金トシ十円預り置。夜、石川柳城來訪ス。
八月二十七日:金三百円、邸内売渡シ金ノ内、受取。三円[矢]野講金、但シ四會目。
八月二十八日:安藤養園両生來ル。八月二十九日:二百円宇野ヱ貸ス。
八月三十日:東京神田区中サルガク町(※猿楽町)、福永ヱ柬発ス。
八月三十一日:午後「新誌」御届相認本、慶(※岡安慶介:解題参照)ヱ托ス。
九月一日:中井生來。彦根本丁(※本町)聚議社。原生來。
九月二日:石原、池田來ル。杦山談判アリ。
九月三日:金六十円、萬酔堂ヱ渡ス。
九月四日:鷃笑社會ヱ趨ク。此日會者十五名。
九月五日:書画會事ヲ牧野生、石原ヱ談ス。
九月六日:三和來リ、大栄講ノ[事]ヲ乞。七十円受取共證書ヲ渡ス。外、五円右ヘ利子トシテ受取。
九月七日:脇坂ト夜話ス。
九月八日:公債池田屋ゟ受取。九月九日:一日小川屋ニ而脇坂談ス。
九月十日:百五十円小川ゟ受取、右屋鋪売却金、悉皆相濟。
九月十一日:「鷃笑新誌」成。安田烏林來ル。
九月十二日:間宮桂二來ル。四日市[三重]社會。
九月十三日:東京福永ヱ柬発ス。夜、大風雨アリ。
九月十四日:陰晴不定。 九月十五日:快晴。
九月十六日:夜、郷ゟ復柬來ル。 九月十七日:脇坂來ル。
九月十八日:脇坂同伴宇野ヱ行。夜、御望(※ごも:岐阜市地名)郷氏、高橋両氏ノ柬認ム。
九月十九日:大硯大筆安田屋ヱ貸ス。朝、亮三及瀬一ヱ柬発ス。牧村來。
九月二十日:東京平山ヨリ柬來ル。
九月二十一日:曼壽ゟ柬來。
九月二十二日:福永ゟ柬着ス。
九月二十三日:回陽堂ヱ小集。午後演舌會ヱ趨ク。沼間君ハ「寡人政府」ノ論題ニ而、談場ニ上リ、衆ニ向テ曰、
余、本日ヲ以テ満期トス当縣下ノ人民ニ對シ、離別ノ言贈ラン。世俗或ハ臨別其地称誉ス。又ハ虚言ヲ飾ル。是尋常ノ例ト為ス。余不然。茲一ノ所見アリ。不知、諸君肯否。誠挙テ曰ン。人民皆昏[夢]未タ醒メサルヤ、耳聾ナルヤ、各性命在産不知哉ト問ハゝ定テ曰ン、白昼無[夢]、耳又不聾、性命在産モ又了知ス。余、所説比諭耳為詳之ヲ説ン。(※解題参照)
  (※欄外:石原生ニ托シ小林(※小林卓齋:註13)ヱ「新誌」投寄)
九月二十四日:中嶌來リ、成文事件ヲ談ス。朝、曼壽ヱ柬発ス。
九月二十五日:雨、大橋柬京ヱ発ス。
  (※欄外 神田三崎町壱丁目二番地 森田巳之助)
九月二十六日:朝、陳氏ヱ柬発。○牧野ゟ金子受取六十二円。外ニ銕梅ニ納五円。
九月二十七日:蔵具運輸。 九月二十八日:中井真平柬托。曼壽トシテ三円五十[銭]附。
九月二十九日:五円。外ニ三円。高木旅費トシテ渡し。
九月三十日:江馬氏(※江馬天江:註26)來垣。夜、二十五円大工又八ヱ渡ス。総計七十五円之内也。
十月一日:江馬与天江集于萬酔堂居所。池田氏帰省ス。
十月二日:陳曼壽來着。 十月三日:於回陽堂入札。
十月四日:訪曼壽。 十月五日:曼壽、金生山行。
十月六日:「味梅花館詩集」(※註9:解題参照)十三[部]自文石堂販來(※売り来る)、此代金三円也。
十月七日:東京ヨリ電信着ス。
十月八日:小原方ニ而二百五十円借入右ヱ五十円添、三百円為替ニ而。東京ヱノ柬認。鷃笑社會ヱ趨ク。


  

十月九日:朝、東京ヱ為換(※為替)発。此賃十八[銭]也。牧野、陳氏潤。十三円、又二円三十[銭]受取。
十月十日:金七円、過日入札費トシテ渡ス。夜、同藤君訪陳氏。
十月十一日:修齊学舎小會ニ趨ク。帰途「新誌」ヲ校ス。
十月十二日:原田(※原田西疇:註27)自岐阜帰。
十月十三日:王廷章(※画家。生没不詳)來ル。夜、訪陳氏。此世會者、西疇、石川、高木、牧野之数名也。(※欄外:[菱ハク]羅 汽船也)
十月十四日:江馬金粟ヲ訪。
十月十五日:修齊舎開業式。朝、東京大橋ヱ柬托ス。
十月十六日:越後人雪山画洲人來、極凡。曼壽潤十五円伊藤受取。四円安藤ゟ受取。
十月十七日:清水粥作來。 十月十八日:東京大橋ヨリ柬來ル。
  (※挿込紙:木屋町仏光寺下ル十九番)
十月十九日:雨。 十月二十日:十円弥介ヱ渡ス。
十月二十一日:百円受取。宇野ゟ。
十月二十二日:東京福永ヱ柬并金五十円発ス。大橋モ同し。
十月二十三日:原田來、告別。同氏ヱ五円潤[方]、外ニ十一円文石堂ヱ托ス。
十月二十四日:東京大橋ゟ柬着ス。岸田氏舫講(※もやい講)掛金六円差出ス。
十月二十五日:同曼壽游京丸亭。此日中嶋之為破銭。夜、陳氏潤精算ス。
十月二十六日:石川氏來遊。
十月二十七日:朝、訪鈴木氏。
十月二十八日:曼壽來訪。
十月二十九日:修齊會集會
十月三十日:修齊社寄付金書、小原方ヱ托ス。帰途学舎ニ入リ講談ヲ聴。此日東京荷物着(太助ノ口)。夜、間宮ヱノ柬認ム。
十月三十一日:大阪周擴舎(※解題参照)ヱ金五円発ス。小山ゟ芋一俵販リ來ル。
十一月一日:活版所決算簿ヲ製ス。
十一月二日:無事。
十一月三日:西京國友ヨリ捲スルメ着。
十一月四日:御望亮三子ヱ「新誌」発。四日市間宮ゟ柬來ル。托矢野氏送陳氏書[於]安藤。
十一月五日:鷃笑社詩會。西疇ゟ柬着ス。
十一月六日:修齊学舎演説。夜「新誌」校讐。
十一月七日:胡銕梅ヱ柬発、嘱托ノ帋(四尺屏二枚、冊頁六枚)。潤十円五十[銭]。
十一月八日:小原方法事。修齊舎寄附金五円、并興文講掛金壱円五十[銭]差出ス。午後石川ノ招キニ因テ、水明楼ニ趨ク。此日會者、陳氏、野村、杦山及弟(※私)也。
十一月九日:小原氏ノ為、法典全昌精舎(※全昌寺:註28)ニ趨キ、帰途溪毛[葊](※溪毛介の庵。註29)ヲ訪。
○利子九十二円二十五[銭]相収。○東京杦山三郊氏ヱ柬発ス。御望郷亮三ヱ金百円、成文堂口ヱ返濟ス。
十一月十日:遊与偕園、雅興アリ。夜、百円小原より借リ入レ。
十一月十一日:杦山氏ヲ小川屋ニ石川ト同しク訪。十二[時]帰ル。
十一月十二日:朝、原田ヱ荷物回送ス。夜、石川氏來、「新誌」ヲ校ス。
十一月十三日:「新誌」校讐。西京原田ヱ柬発ス。
  (※挿込紙:陳曼壽迎來節、中井氏ニ托、三円半。又、高木ヱ托ス、五円。入札[場]、七円。味梅花館詩集、三円二十五[銭]。活版所、二円。十月三十日渡し分、十円)
十一月十五日:戸田雄馬大坂行ニ付、金五円托ス。○東京ヨリ器械到着。○西京上田ヱ柬発ス。○夜、牧野來ル。
十一月十六日:西京ゟ絖本着。一反五円。
十一月十七日:井筒屋講十五円掛金送ス。
十一月十八日:器械、東京ヨリ出、四日市ヨリ大橋(※解題参照)ゟ二円八十[銭]。大橋ゟ此者九十五[銭]也。
十一月十九日:此日、於吉岡楼雅集展観。位置齊整ナス。
十一月二十日:雅會趨ク。○石川氏來、告別。早川周造(※註30)画門ニ入ラン[事]乞。
十一月二十一日:斜風寒雨、瞻山始載雪。
十一月二十二日:國[枝]來、五円半受取。
十一月二十三日:東京銀座二丁目 日龍社御中 平山耕雲(※註31)。
十一月二十四日:朝、為替東京ヱ発ス。上田帰京ニ付十円紙代トシテ托ス。
十一月二十五日:始器械ヲ試ム。
十一月二十六日:東京福永ヨリ柬來、諸受取書共。
十一月二十七日:此夜有密快(※不詳)。
十一月二十八日:大坂ヨリ帋、并文字(※活字)着。西疇ゟ柬來ル。
(※挿込紙:記 
    一金 三百五拾円 [口]/188 元金
    一金 弐拾六円弐拾五[銭] リ足(※利息)
    但 貸金元リ本月限リニ付 御返金之事
    明治十四年十一月二十八日 第百二十九國立銀行 戸田鼎耳殿)
 
十一月二十九日:秋雨[付]無聊。夜、訪陳氏、賦詩、十二[時]過帰家。
十一月三十日:成文堂百五十講半口落決算相濟。此金七十三円五十[銭]。暢神堂ゟ受取。
成文堂預リ金二十円ノ内、五円三度相渡ス。残五円也。○十円福永ヱ渡ス。
十二月一日:入札金三十七円四十七[銭]三[厘]。外三十三円萬酔堂ヨリ為替。暢神堂ゟ受取。
十二月二日:無事。十二月三日:鷃笑社會、來員頗多。西京上田ヨリ柬及洋帋着。
  (※欄外:西疇 五条伏見街道下桶屋[様]向ヒ)
十二月四日:東京杦山ヨリ柬來リ。
十二月五日:入札之内二十三円五十[銭]、暢神堂ゟ受取。


  

十二月六日:無何有荘小集。此日會者十名、雅興頗旺。
十二月七日:堀口泰一來、岡本研農ヨリノ托シ金掌入。
十二月八日:小川僧泰(※註15)來リ話。西京芥津ヨリ柬着シ、鈴木安兵衛來、絖本代五円相渡ス。
十二月九日:大坂周擴舎、活字注文書ヲ出ス。并芥津ヱ柬発ス。上田、京ヨリ來リ。
十二月十日:東京平山ヨリ柬着。
十二月十一日:湖山(※註23)ヱ香魚腸(※うるか)一壺ヲ贈ル。此價四十[銭]。
十二月十二日:朝「新誌」三冊信州松本ヱ送附。○原田ヱ柬発ス。午後、小川果齋(※註15)ノ招ニヨリ吉岡楼ヱ趨ク。帰後西京芥津ヱ「新誌」三冊、外ニ金六円(白帋代)、小川果[齋]ニ托スルノ一封ヲ製ス。
十二月十三日:活版器械過半運送ス。
十二月十四日:國枝ヨリ壱円半受取置。○寅太[郎][室]御分霊通興拝ス。
十二月十五日:假開業式ヲ修ス。 十二月十六日:「新誌」ヲ校す。
十二月十七日:夜、鈴木突如來、大橋ト同伴ス。
十二月十八日:初雪來。曼壽送別筵延ス。岐阜渡[部]ヱ柬発ス。柳城、任所(※清水任所:註13)ニ托シ金四円附ス。任所モ壱円ヲ托。
十二月十九日:又雪。十二月二十日:曼壽別筵ヲ開ク。朝(二十円池田屋受取。五十円今村ゟ受取)。文明堂十円渡ス。但絖本代ナリ。
十二月二十二日:成文千円講第二回目(四月十八日、十月)。此掛金十九円八十八[銭]、外ニ新掛分十一円四十五[銭]四[厘]つゝ満[場]迠掛継キ。
十二月二十三日:朝、曼壽発車。金五円ヲ托ス、[栢年]ノ潤資。外ニ一円、冶梅(※王冶梅:解題参照)ノ潤十五円、福永ヱ貸ス。
十二月二十四日:東京福永ヱ柬発ス。○西京芥津ヱ白帋ノ未着ヲ促ス。
十二月二十五日:杦山、早川來リ、西京ヨリ白紙着ス。賃濟。
十二月二十六日:東京ヨリ文字着。脇坂來ル。夜「新誌」ヲ校す。周擴舎ゟ文字着。
  (※欄外:越中國高岡定塚町 常念寺 邨申巳)
十二月二十七日:成文堂五百円講(割渡し、引而十二円三[銭]ニ濟)。(五円戻ス)金十円(内三円國友方ト、タンケイ(※端渓硯)七円、飛脚屋ヱ托ス)。
十二月二十八日:大跡戸倉ゟ老[梅](※蝋梅)來。陳氏書托ス。
十二月二十九日:曼壽ゟ柬着。
十二月三十日:水谷ゟ金七十円受取。
十二月三十一日:浅野耕作口五百円ノ利子(十一月迠壱[銭]一厘ノ割)、三十六円相渡ス。此日多忙倍常。夜、一酌為忘年歓十一[時]就寐。

(※明治十五年)
一月一日:上晴。年賀依旧例。
一月二日:活版開業、祝酒ノ筵ヲ開ク。此日十五名。焼物トシテ金十[銭]つゝ并手巾(六[銭]五[厘])ヲ引。此費凡三円也。
○半季落代三円ト定、六ヶ月分先入ス。因テ此金ノ以テ此費ニ抵ツ。
一月三日:朝、石川氏ヱ柬。多和田生ヱ托ス。○大坂安土町三丁目矢嶌勘助ヨリ白帋價書着。午後小原ノ年始祭ニ赴くク。
一月四日:若曽根來。次児傭入ノ件ヲ談ス。陳氏ヨリ柬來リ、夜[復]柬認ム。方壺ヱモ出ス。
一月五日:朝、申郎來。一月六日:活版開業。夜、同申郎訪小原氏。
一月六日:東京濱儀ヨリ名古屋牧ヱ柬発シ、夜、大坂行ノ飛脚屋ヱ周擴舎用ヲ托ス。
  (※欄外:東京麹子町区飯田町三丁目二十八番地 大三大通 四ノ小通 濱弘。  愛知県名古屋矢場町五ノ切四百八十一番地 牧光葆)
一月七日:無事。一月八日:矢野、山川両氏ノ招ニ因テ吉岡楼ニ於新年會ヲ開ク。○果齋ヨリ柬來ル。
一月九日:石原來、束脩ヲ持來。
一月十日:江馬氏ヲ訪。春煕ト旧ヲ話ス。(※註32)。
一月十一日:雪。安[部]來リ、大橋ノ講事件ヲ談ス。○今村ゟ筆七本ヲ購求ス。
一月十二日:藤井、高木松之助、両人ヱ柬発ス。
  (※欄外:大坂西区江戸堀北通一丁目十七番 旧三田侯邸 高橋正直方 高木松之助)
一月十三日:東京福永ヱ六円二十[銭]三井為替ニ而送ル。○大坂日支三宅明楽齋社員加納廣次來、筆数十枝ヲ鬻ク。尤猪馬毛多。
一月十四日:鷃笑社會ヱ赴。帰途、三宅筆工ヲ寓屋ヱ訪。此夜、強雪沙々。
一月十五日:井筒屋ヱ遊。脇坂ト同酌而帰。
一月十六日:東京横山礒貝ゟ柬來リ、夜西疇ヱノ書、加[納]筆工ニ托ス。
一月十七日:朝、岐阜中村栄助、小川僧泰ヱ柬発ス。石川ゟ画來。夜、牧野來。
一月十八日:杦山柬來。○松岡來訪。


  

一月十九日:無異状。
一月二十日:大跡戸倉より成文堂講帳并金五円、陳氏潤筆不足分ヱ遣ス。(多少過去之分アリ)。○大坂周擴舎より明詳堂來リ。
一月二十一日:西京鈴木安右衛門より白帋二本着。此代二円三十[銭]、外ニ賃残十五[銭]也。
一月二十二日:早起訪長屋氏。帰途叩岸門、午飯而帰ル。○寺内村小川勘平方家賃金三円受取。但シ一月二月分也。
一月二十三日:西京ヨリ小川、薄田両氏柬着シ。
一月二十四日:晩栗二俵壱円、五[銭]ニ而買。
○二円五十[銭]、大橋[俊江]講初會掛金、安[部]ヱ托ス。
○四円十九[銭]一厘、十四年後半期ノ地税、相納。夜、於小原小集。
一月二十五日:岡崎佐野氏、大坂陳氏ヨリ柬來ル。
一月二十六日:石川ヱ柬発ス。
一月二十七日:肥後熊本ノ人、嘯山(※竹富清嘯:註33)画史來訪。
一月二十八日:松本吉田ゟ柬着ス。
一月二十九日:藤井寒林より柬來ル。
一月三十日:金五円下婢給金相渡ス。夜、長屋生來話。
一月三十一日:福萬ゟ五十円受取、内二十五円松岡ヱ割与ス。萬酔堂ゟ四十円受取。
二月一日:後藤才助來リ、牧野事件ヲ[頼]談ス。二月二日:無異状。
二月三日:萬酔堂三百円ノ外印乞。御望亮三方五十円返金ヲ約ス。夜、嘯山來話。
二月四日:鷃笑社會ニ赴ク。
二月五日:牧野ヨリ金十円、露考古稀[祝]画ノ潤金トシテ受取。
○曼壽ヨリ冶梅ノ冊頁販來。 二月六日:無異状。
二月七日:陳氏ヱ「新誌」二巻、回陽堂ニ托シテ贈ル。外ニ方壺方ヱ冊頁二[枚]画ヲ属ス。此吉田。
二月八日:中嶌來話ス。
二月九日:小川果齋ゟ柬來。○小見山竹村ヱ「新誌」ヲ販ル。又、藤井寒林ヱモ販ル。
  (※挿込紙:大橋より金預り置。二月九日四円四十五[銭]。三月迠利濟)
二月十日:鳴戸小山尊語ヨリ幸便アリ。「新誌」第四集壱[部]五集二[部]、〆三[部]贈附シ。
二月十一日:名古屋牧ヨリ柬來リ、直返柬ヲ発ス。
二月十二日:此夜有密快(※不詳)。二月十三日:信濃國諏訪郡中洲村二百九十八番地 平林秋聲來訪。図画専門家。
二月十五日:牧野ゟ老[梅](※蝋梅)來。冶梅、清嘯ノ画渡ス。
二月十六日:平山ヱ柬発ス。
二月十七日:朝、西京上田方ヱ柬ス。午後平林方赴筵。
二月十八日:渡[部]ヱノ柬認ム。二月十九日:夜、曼老ヱノ柬認ム。
二月二十日:周擴舎ヱ柬発ス。
二月二十一日:岡崎并上田ヨリ柬來。直ニ両處ニ復柬発。
二月二十二日:西京嶋田安右衛門來。白帋代二円三十[銭]拂。
二月二十三日:無異状。二月二十四日:無異状。
二月二十五日:立成講親睦會ニ而吉岡(※吉岡楼)ヱ集會ス。
二月二十六日:戸田鋭之助(※註34)法事。 二月二十九日:福永ゟ證書受取。
三月一日:大坂安土町矢嶌勘助方白帋注文書出ス。金十四円二十[銭]、外ニ為換賃五[銭]、郵便賃二[銭]。○渡[部]ヱ柬発ス。
三月二日:上田氏來ル。天野ゟ画來ル。三月三日:無異状。
三月四日:鷃笑詩會。三月五日:客來。
三月六日:同客來。○西京(秀水、天江(※江馬天江)、神山(※神山凰陽:註35)、竹堂)ノ四名ヘ牧村氏ノ画嘱ス。 三月七日:大阪矢嶌ゟ紙着ス。
三月八日:中嶌來。金二円、原田行之金預り置。
三月九日:無異状。三月十日:朝、方壺ヱ柬発。陳曼壽ゟ柬着ス。
三月十一日:善光寺地所分裂願役場ヱ差出ス。○國立銀行ニ而三百七十円新借、旧十二月ヨリ二月迠、利十六円七十三[銭]相納、外五円十八[銭]利子前収三分六月限(三十七[銭]印帋代、五厘證券帋)。
三月十二日:朝、三十円為換、大阪周擴舎ヱ出ス。
三月十三日:大阪周擴舎、小原ヨリ同時柬來ル。
三月十四日:無異状。 三月十五日:無異状。
三月十六日:朝、周擴舎ヱ柬発ス。○今枝ヨリ二十五円受取。○岐阜渡[部]柬発。夜、曼老ヱノ柬修ス。 三月十七日:無異状。
三月十八日:朝、三十円以銀行以為替。平山ヲ送ル。


  

三月十八日:朝、周擴舎ヘ活字四号文字原稿発ス。三月十九日:無異状。三月二十日:同。
三月二十一日:大阪ゟ文字來。三月二十二日:無異状。
三月二十三日:石川ゟ課題來。○果齋ヘ「新誌」発ス。○谷氏法事ニ付來客。
三月二十四日:周擴舎ヘ柬発ス。○陳氏ヨリ柬ル。因テ「新誌」七集西京ヱ向テ発ス。  三月二十五日:大坂周擴舎ヨリ送金着。
三月二十六日:秋声書画會、与偕園ニ赴ク。
三月二十七日:雲林院(ウジイ)蘇山來訪。三月二十八日:周擴舎ヨリ四号仮名着。
三月二十九日:無異状。三月三十日:訪[津嶌]氏。
三月三十一日:平井ゟ二十円借リ入レ。○十二[銭]大橋方預金(本日迠ノ利、おセいへ渡ス)。
  (※欄外:西洋帋 京橋區中橋大鋸町六番地 金澤屋商店
  日本演説討論方法 九十[銭] 銀屋二丁目書林 山中孝之助方)
四月一日:雨。鷃笑社會ヘ赴ク。
四月二日:[フレス](※「プレス」か。解題参照)東京ゟ着。
四月三日:曼壽より柬來。四月四日:中嶌來。
四月五日:大坂周擴舎ヨリ四号文字着ス。
四月六日曼壽ヘ次韵ノ蕪詩ヲ[復]ス。○修齊学舎意見書ヲ廻ス。
  (※この日、板垣退助遭難あり。解題参照)
四月七日:無異状。四月八日:真平來ル。
四月九日:小原方稲荷祭。○村由巳ヱ柬発ス(越中國高岡定塚町 常念寺ニ方)。
四月十日:茨城県、関友石來ル。篆刻業。午後石川柳城來訪。
四月十一日:柳城告別。 四月十二日:無異状。終日雨中。
四月十三日、四月十四日、四月十五日:無異状。
四月十六日:岐阜勧業課ヘ復凾ヲ出ス。夜、文明堂來ル。
  (※一行空白 京都長期滞在。解題参照)

六月九日:雨。午後訪小原。小川僧泰來話。
六月十日:野村、松岡ヲ訪。方壺ヘ柬発ス。
六月十一日:朝、岩田(※岩田徳義か。註36)來。午後藤陰來話。
六月十二日:上田氏ヲ訪。夜、文[霞]大橋來。
六月十三日:朝、安田、戸倉、中嶌氏來。六月十四日:雨。山川來話。
六月十五日:濃飛自由新聞開業式。午後三時ヨリ於吉岡楼。早川氏來ル。
六月十六日:牧野來。西京[上田]ヘ新聞ヲ送ル。
六月十七日:訪小原氏。夜、書周擴舎柬。
六月十八日:王冶梅ヘ柬発ス。矢野來。
  (※欄外:絖本二丈七寸。毎尺十八[銭]かく。代金未納此代三円七二六。活版金文 五円七円八円)
六月十九日:岡本硯農來ル。夜、十五円大工又八ヘ渡ス。夜、石川ヘノ柬認ム。
六月二十日:旧端午日。晴。竹影ヨリ柬着。
六月二十一日:夜、終日不出戸外。
六月二十二日:冶梅ゟ柬着。直復音ヲ発ス。又、天然堂ヘ発ス。
六月二十三日:上田氏ヘ柬発ス。周擴舎ヨリ文字着ス。
六月二十四日:名古屋柴田ヘ柬発ス。 六月二十五日:関友石來ル。
六月二十六日:冶[梅]、上田ヨリ柬來ル。夜、始メテ試漢枝。
六月二十七日:成文堂五百円講。此事務多ニヨリ欠席。
六月二十八日:朝、三十円宇野ヘ返ス。天野ゟ柬來リ、戸倉氏來ル。
六月二十九日:無事徹夜。
六月三十日:小原氏百円返ス。此札時田頼三後藤[ニ]同帰。
七月一日:鷃笑社會。七月二日:郷氏來ル。
七月三日:「新誌」天野、江馬、原田、陳、王、伊セ(※伊勢小淞)、森(※森琴石)、小川、篠原、邨、送ス。
七月四日:岩越ヘ柬発ス。 七月五日:四君子會廣告、各處ヘ郵送ス。
七月六日:大橋へ名古屋へ遣ス金十五円托し置。夜活版所ノ會計ヲ為ス。
七月七日:無事。周擴舎より送金者一目着。
七月八日:大橋帰垣。
七月九日:近藤政男貸家[濟][宮]ニ付、鋪金トシテ二十五円受取置。中嶌ヨリ香典預リ置。原田ゟ柬來ル。
七月十日:無事。七月十一日:陳氏ゟ柬來。徹夜。
七月十二日:森氏琴石ゟ柬來ル。  七月十三日:無事。
七月十四日:朝、中井氏來話。又、嶌田[老]田モ來。
七月十五日:金三円六十[銭]、河合甚蔵給料、一月ゟ六月迠分相渡ス。天野并上田氏ヘ素麺一函つゝ送ル。 七月十六日:無事。
七月十七日:夜、「新誌」稿ヲ草ス。
七月十八日朝、百円小原方ゟ借入レ。○周擴舎ヘ文字返ス柬ハ未タ。夜、金古堂ヘ柬、并竹影ヘ認ム。
七月十九日:四十円岩越方へ以為換送ル。内十五円ハ周擴舎ヘ渡シ分。 ○周擴舎ヘ柬発ス。吉田伝次來話。
七月二十日:雨。井筒屋講掛金、萬酔堂ヘ附ス。
七月二十一日:名古屋天然堂ヘ柬発ス。
七月二十二日:中嶌、牧野両子來ル。  七月二十三日:金古堂へ柬発ス。
七月二十四日:小原氏例祭へ赴ク。夜、金十円ヲ上田氏帰京へ托ス。○石川ゟ柬到ル。七月二十五日:無事。
七月二十六日:金二十円竹ノ原ゟ受取。
七月二十七日:朝、養老江赴ク。七月二十八日:夜、十一[時]過帰家。
七月二十九日:大坂森金石(※森琴石:註37)ヨリ書幅來ル。
七月三十一日:赴十三円三十一[銭]七月迠ノ銀行ノ利子拂。
八月一日:方壺ゟ柬着。吉田生來、別ヲ話ス。


  

八月二日:内藤氏別筵ニ赴ク。
八月三日:方壺ヱ「分類字錦」六帙、外ニ金十円、藤野ヱ托ス。并周擴舎ヘ文字注文書ヲ托ス。
八月四日:石川へ柬発ス。石崎來、郷氏委托件アリ。
八月五日:鷃笑社會、暴風雨ノ為ニ不馳赴。
八月六日:夜、十[時]頃、曽根堤損潰ノ急報アリ。一家諸具纒収、恰如戦場。溢水及床。(※註38)
八月七日:下水スト雖モ恰戦城ノ如シ。
八月八日:水見舞トシテ便來ル。石原、杦山、牧野、早川、岩越、中嶋、渡[部]、各贈リ物アリ。
八月十日:諸方ヨリ柬六封來ル。○松岡、小川、松永、國枝へ水見舞トシテ醤油壱升つゝ遣ス。
八月十一日:西京天ノ(※天野)ヨリ柬來ル、直ニ[復]柬ヲ発ス。
八月十二日:石津、小川ヘ「新誌」郵送ス。又、内藤へ柬出ス。
八月十三日:活版所掃除シ上田肇來。又晩晴、安田白砂糖一箱物來ル。
八月十四日:内藤ゟ柬來ル。○大阪岩越ヨリ菓子器陸運ヱ托シ着。
八月十五日:池田來。又、[早]川丹陽來。夜、探物ノ議アリ。
八月十六日:東京杦山、大阪森、西京金古三所ヘ柬ヲ発ス。○西京中井より紙着。 八月十七日:無事。
八月十八日:朝、奥村方へ到。安藤來ル。明日帰岐ノ由。
八月十九日:西京中井ヱ洋帋注文ノ柬ヲ発ス。夜、訪野村氏。
八月二十日:方壺ヨリ洪水見舞着。金古堂ゟ柬來リ。
八月二十一日:西京鈴木安右衛門來リ、絖本代五円渡ス。
八月二十二日:無異状。
八月二十三日:石原ゟ潤儀数ケ來ル。夜、静岡壱番町鳳鳴社、柬并ニ天野ヘ「新誌」ヲ送ル。 八月二十四日:谷村ゟ柬來ル。
八月二十五日:岐阜曼壽ヘ柬発ス。午後吉岡楼立生講集會。
八月二十六日:福永方へ八十円口ノ利子三ケ月分二円八十七[銭]遺ス。
八月二十七日:大坂周擴舎、西京石津并竹影ゟ柬着。夜、呉山來話。
八月二十八日:中嶌來リ、岳飛法帖代壱円。村來ル。
八月二十九日:西京上田ゟ中井ゟ柬ル。○今村ゟ二十五円受取。此リ(※利)七十五[銭]也。
八月三十日:郷氏來ル。 八月三十一日:三田大橋氏取替。
九月一日:快晴。無事。 九月二日:鷃笑社會ヘ赴ク。
九月三日:牧野生來。古稀潤賄金トシテ四円預リ置ク。
九月四日:快晴。無事。
九月五日:朝、赴岐阜、先訪陳氏(※解題参照)。午後訪石川。夜、宿竹屋町菊半楼。  九月六日:同、陳、石、一訪高橋氏。
九月七日:夜、帰家。 九月八日:名古屋芳洲門生僧來リ、画ヲ乞。
九月九日:戸田氏法事付出。
九月十日:到山口願書状。此日會者十名余。夜、八[時]過、帰家。
九月十一日:矢野來、夜出[髪及切]。小原方ヲ訪。
九月十二日:石川氏柬発ス。
九月十三日:壱円半東京成章社送ル。郵便為替ノ代、四[銭]也。
九月十四日:訪石原不遇。  九月十五日:小原氏來リ、晩餐ヲ喫[而在]。
九月十六日:金十円活版所ヨリ受取。内九円也、中井ヘ以銀行為換送ル。右銀行手数四[銭]。山川氏來話ス。  九月十七日:若山生來ル。
九月十八日:大阪森氏ヨリ柬來ル。夜、田[林]來、大橋氏事件ヲ談ス。
九月十九日:無事。
九月二十日:梅吉上阪ニ付大森帋店ニ而求帋スル[事]ヲ托ス。乃(※すなはち)金三円也渡ス(此金本月[入]分活版舎ノ金)。内藤氏へ柬托ス。
九月二十一日:朝、文明堂來、京都東洞院松原下ル 中野常七方ヘ白帋ノ價格問尋状差出ス。
○東京成章社より「詩文評釈」四十号ヨリ五十二号迠來ル。天然堂來ル。
九月二十二日:浅ノ(※浅野)兵吉來、碑書ヲ嘱ス。夜、小原氏ヲ訪。
九月二十三日:天然堂來、告別。○岐阜縣ゟ鷃笑社一周年発賣高取調ノ書信到ル。夜、峻郎氏來ル。
九月二十四日:朝、野村君來、小原氏ノ回居アリ。
九月二十五日:戸倉、谷、中嶌來ル。夜、訪内藤生。○棚橋氏ゟ「金石集」來ル。
九月二十六日:早川牧野両生來ル。早川ゟ岳飛(※法帖)ノ代壱円、外十円預ル。右、乃置[遊]潤七円也。差引三円也返上。
○大橋氏器械三百二十円ニ而引受ノ約[調]。(※解題参照)
九月二十七日:朝、毛上人(※溪毛介:註29)ヲ訪フ。曼壽、石川ゟ柬來ル。直[復]函ヲ発ス。惣兵衛東都ヘ帰ル中嶌ニ到ル。
九月二十八日:朝、四円、西[野]講ヘ出ス。午後牧野ゟ十五円、秋水金預リ置ク。梅吉大阪より來ル。
  (※欄外:山本駿郎 神田区小川町二番地 市川直之方)
九月二十九日:昨夕石原氏云々アリ。求梅宝水來今夕帰去。○十二円五十[銭]、戸田治三郎方講金出ス。
九月三十日:井筒屋ゟ十円入ル。
十月一日:十五円松野氏へ[戻]ス(内七円ハ大橋氏ゟ廻行金返上分。八円ハ五十円ノ内ニ而[戻]ス)。
十月五日:東京濱弘一(※註39)ゟ海苔一函贈來ル。
十月七日:鷃笑社會。与偕園へ赴ク。
十月八日:岸生來告別。○曼[樹](※曼寿)柬着ス。
十月十七日:小原氏法納ノ壽筵ニ赴ク。
十月二十日:大阪森氏へ柬、及呉昌明ノ幅(※掛軸)返ス。
十月二十三日:成文堂九百円講四會目。此掛金十五円七十八[銭]四[厘]也。外ニ十一円四十五[銭]四[厘]、利[残]有。


  

十月二十五日:牧野氏ヘ書画幅細書送致ス。
十月二十七日:大橋方講落金六十七円六十五[銭]、安[部]ゟ受取。残金十八円ノ證書入レ置ク。年三會ニ六十四円つゝ返却スルノ約。
十月二十八日:東京野村及岸より柬來ル。又、静岡鳳鳴社より「九成餘唱」一部販リ來ル。
  (※挿込紙:東京神田区西小川町壱丁目九番地)
十一月四日:鷃笑社會。与偕園ヘ赴ク。
十一月五日:野村氏説道ニ侍ス。
十一月六日:東京野村宅ヘ柬。政岡并岸ヘ「新誌」一[部]つゝ送ル。
十一月十日:興文校掛二円五十[銭]内大橋分一口上田肇分一口差出ス。
十一月十一日:朝、奥村東行ニ付、岸生ヱ一柬附托ス。
十一月十一日:公債利子共覺社ニ而受取。
十一月十二日:長村氏[寛]公ヲ訪。
十一月十三日:牧野ゟ柬來。書画朝預送ル。○岐阜渡[部]ヘ[復]柬発ス。
十一月十八日:井筒屋講掛金十五円出ス。内八十[銭]□他ヨリ引。○曼樹ヘ柬発ス。
十一月二十七日:中嶌來、書画売却金ノ内へ五十円預リ置ク。
十二月一日:豊後人來ル。十二月四日:曼樹ヘ柬発ス。
十二月六日:豊後人來告別。依而牧ノ古稀ノ画、五岳外三[枚]ヲ托ス。右潤トシテ二円預ケ置ク。
十二月十三日:竹影生ヘ硯販リ。杦山ゟ柬來ル。東京大橋ヘ柬発ス。夜、岡崎佐野ヘノ柬認ム。
十二月十八日:「新誌」曼壽(十三、十四)。果齋(十ゟ十四迠)。岸及鳳鳴社へ送ル。若山生來、「新誌」二部持去。○金三円、甚蔵ヘ渡ス。
                  (※以下無記載6丁)


 解題

 明治時代初期、大垣で発行された漢詩雑誌『鷃笑新誌(あんしょうしんし)』の編集長をつとめた戸田葆堂(とだほどう:嘉永四年~明治四十一年)。彼が遺した日記『芸窓日録(うんそうにちろく)』(24×16.5cm、三十五丁、和紙写本)を翻刻紹介する。

 最初に戸田葆堂の略歴を『濃飛文教史』他※註1にしたがって述べる。戸田葆堂、名は光、字は修来、通称鼎耳、初め葆堂と称し、のち葆逸と改め、再び葆堂に復した。別に保眞堂、問鶴園、十二洞天齋の号があり、旧大垣藩臣戸田治右衛門義尚の長子である。

 嘉永四年(一八五一)十一月二十九日に生れる。父が早世したため祖父義賢の後を承けて家を継ぎ、藩主戸田氏共(うじたか)の侍講となった。明治五年に他界した小原鉄心を「王父(亡き祖父)」と仰ぎ、生前の鉄心は穎悟強識であった「姪孫」の彼を「以て意を強うするに足る」と常に人に語り、頼りにしていたという。鉄心には娘が三人あり、藩執政上田家を襲った弟能重のほか同胞に四人の姉妹があった。「姪孫」とは姉か妹の孫を指すことになるが、同時に祖父として仰がれたのは、つまり葆堂の両親が、小原家の後嗣同様、いとこ同士だったと思われる(小原家には能重の長男適(ただし)が鉄心の婿養子に入っている)。


 明治二年、鉄心に従って東遊、昌平黌に学んだが、居ること二年で病を得て帰郷。その後は藩儒の野村藤陰および岩瀬尚庵、井田澹泊等に就いて学んだ。岐阜県令の小崎利準(こさきとしなり)に乞われるも病弱を理由に仕官を固辞し、京都の諸名流との詩酒徴逐の日々を送ったという。また画筆を執っては天野方壺に学び、南画家として一家を成すに至っている。
 明治十四年九月、同士と相謀って大垣に鷃笑社を創設した。野村藤陰を社長に推し、自らは編集長となり月刊雑誌『鷃笑新誌』を発行、以後印刷にも携わった。稀覯雑誌であるが、現在東京大学の明治新聞雑誌文庫に、明治十六年二十六集までのバックナンバーが断続的に確認されている。
 ほかに著書として、子息の泰が私家版として公刊した『問鶴園遺稿』一巻(大正五年刊)のほか、数種の自筆稿本が岐阜県図書館に遺されている。※註2 『問鶴園遺稿』巻頭には葆堂より絵の手ほどきを受けた大橋翠石による先師の肖像が掲げられている。

 さて、江戸時代の文化文政期以降、日本における漢詩は、全国の藩校・在郷サロンにおいて隆盛を迎え、幕末の志士たちによる憂国調の漢詩も人口に膾炙するようになったが、明治に入るとさらに一般民衆へと裾野は広がり、新聞にも漢詩欄が設けられ、むしろ江戸時代より量的には絶頂を迎えたといわれる。
 しかし西洋文学の台頭により新体詩が次世代の人気をさらうと、継承者を失った漢詩は筆頭にあった文学の格付から退き、政治家や実業家あるいは御隠居の嗜みへと、斯界全体が陵夷に向かった。ジャンルとしての漢詩は、和本産業の終焉(木版から活版へ)と時を同じくして、明治の初期において最後の光芒を放ったといってよい。

 大垣城下とその周辺は、江戸時代より文芸が盛んな地方で、漢詩人においても梁川星巌、江馬細香、小原鉄心といった巨星を輩出し、三都に劣らぬ人脈を誇った。その勢いは明治になっても保たれ、前述の『鷃笑新誌』の刊行は、当時の文芸シーンを語る上で、地方漢詩壇の隆盛を物語るものであるといえよう。
 実際にこの和綴の月刊誌を閲してみると、小ぶりの活字が並ぶ誌面(17×11cm)には、没後すでに十年にならんとする小原鉄心の遺稿が毎号巻頭に掲げられ、彼を精神的支柱として仰ぐ雑誌の志がみてとれる。巻頭の例言と、社長野村藤陰※註3による創刊号の「引」を書き下してみる。

 例言

一 此ノ冊子ハ主ト乄(して)社員ノ詩文ヲ蒐集シ、傍ラ江湖諸君ノ詩文ヲ附載シ、以テ同好ノ士ニ頒ツ。諸君ヲ乄(して)鷃笑の楽を共ニセシメンヿ(こと)ヲ欲シテナリ。
一 江湖諸君、詩文ノ投稿ヲ惜ム事勿レ。且ツ既ニ他家の評アルモノハ附送アランヿ(こと)ヲ乞フ。
一 投寄詩文、他家ノ評ナキ者ハ社員コレヲ評スル者トス。

        大垣 鷃笑社識

 鷃笑新誌の引

故鐵心小原先生、往年、旗を吟壇に竪つ。甞て一社を結び、号して「鷃笑」と曰ふ。一時の文客、靡然としてこれに従ふ。盛んと謂ふべきかな。既にして世故変遷し、風流、地を掃へり。先生また尋ぬるに世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。
吾が社友、葆逸戸田詞兄、先生の姪孫にして、少時その社盟を預かる者なり。一日余に謂ひて曰く、「方今の奎運(けいうん)は旺盛、文教大いに興る。吾が大垣のごとき、甞ては文雅を以て著しく称せらるも、乃ち今は寥々として此のごとし。吾れ常に此において慨きあり。因って一社を設け
以て、故鐵心の蹤を継がんと欲するが如何」と。余、曰く、「善きかな」。
是において檄を移して同志を誘ひ、応ずる者ほとんど二十名。すなはち相約して曰ふ、「毎月一に会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒は量無くして乱に及ばず、分韻、詩を賦す。金谷の罰(※酒を飲ませる)は設けず。ただ其の適(ゆ)く所のみ」と。而して社名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。是れ即ち旧盟を継ぐの意を表するなり。
そもそも鐵心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て、補佐の重きを任じ、為に士民の瞻仰する所となる。退食の暇には、鵬翼を枉げて鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はず。
今、吾輩もとより先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鷽鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。
然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存する者は、果たして何如せんや。一月に得るところの詩文若干、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要めん。

                    藤陰野村煥 識


 「鷃笑(あんしょう)」とは荘子の故事で、鵬(おおとり)の気概など感知しない斥鷃(せきあん)という小鳥が嗤笑するとの謂であり、雑誌のタイトルが示すところは、鉄心の没後、残された後進が彼の鴻図を仰ぐと同時に、また彼の身上としていた低徊趣味に倣い、旧詩社の名を継いで新しい雑誌の名に掲げた、ということであろう。十丁ほどの小冊子ながら、毎号、同人作品の他に小野湖山や岡本黄石など幕末を生き残った著名詩人からの寄稿も受け、明治十四年の九月創刊第一集から第四集までの発行数は、岐阜県内六百三十部(県外八十五部)、十五年の発行数は県内千四百二十四にのぼったという。※註4 毎号百冊以上印刷した計算だが、明治の十年代、一地方都市からよくも斯様な雑誌が毎月発行できたものと感心する。

 今回紹介する日記「芸窓日録」は、この『鷃笑新誌』の編集長であった戸田葆逸(のちの葆堂)による自筆の日録である。オークション市場に現れたものを編者が入手した。表紙裏に記された住所名前から、旧蔵者は文中にも出て来る杉山三郊(※杉山千和三男)であった可能性がある。
 「芸(うん)」とは書庫に用いる防虫草のことで、「芸窓」は書斎を意味するだろう。子の泰が芸窓を号としているが、記された内容や、当時の葆逸が三十三歳であったことを思うと息子の誌したものとは考えられない。そして入手後におどろいたのは、これが書き継がれた明治十四年三月二十四日から十五年十二月十八日までの期間が、恰度この『鷃笑新誌』の創刊を挟んでいることであった。

 すなわち読み込んでみると、罫紙をあらかじめ綴った帳面にほぼ毎日書き込まれている内容は、事務的な覚書が大部分を占めるものの、漢詩雑誌の編集長となった彼を中心に、日々絶えなかった同好の士との交歓、書翰の応酬、金銭授受といった、地方の士族階級の文人生活の実際がありのままに記録されており、庵主との会話、ものされた漢詩に及んでいる箇所もある。
なかでも興味深かったのは、江戸時代にはなかった「雑誌」を印刷するために使用した活版機械や活字について記されていること。そして当時の漢詩壇において賓客として遇せられていた中国人、つまり鎖国が解かれた日本に清国からはるばるやってきた「本場の漢詩人」との交流がつぶさに写し出されていることであった。

 まず印刷事情について気のついたことを述べれば、明治十四年八月十五日に、雑誌の版元となった活版所、岡安慶介(大垣岐阜町十六番地)への挨拶「活版所ヱ一訪ス」に始まり、九月に雑誌を創刊してのち、何故か十一月十五日「東京ヨリ器械到着」の記事にあたることである。この印刷機は船便で四日市を経由して、入手に奔走した「大橋」なる人物の大垣の屋敷に到着し、十一月十八日「此者(戸田邸)」に一旦運び込まれている。そして試し刷りののち何処かへ搬送され、翌る一月二日に「活版開業、祝酒ノ筵」が開かれるのである。器械はその後「大橋氏」が「三百二十円ニ而引受」ることとなったらしい(九月二十六日)。「大橋」とは弟子の大橋翠石少年(当時十六才)で、「大橋氏」はその父親の、紺屋を営んでいた亀三郎であるように思われる。つまり「大坂周擴舎」への活字注文などとともに察せられることは、活版機械や足りぬ活字を自前で揃え、版組に直接関わるような雑誌の編集・発行を、葆堂は自邸もしくは岡安慶介の場所を使用して始めたのではないか、ということなのである。
 『鷃笑新誌』の奥付をみると創刊号以来「印刷兼売捌 岡安慶介」に変更はみられない。しかし十二月の第四集以降、それまで奥付に付されていた、岡安慶介を刊行元とする印刷物の宣伝が消えている。斯様の発言権が版元からなくなった事情が窺われるが、創刊時にお上へ届け出た印刷所の名義を変更するのも面倒なため、そのままにしておくことになったことも考えられる。

 活版事業については他にも、明治十五年六月十五日「濃飛自由新聞開業式」の記事にも注目したい。濃飛自由党の本部は新聞発行と時を同じくして岐阜から大垣の岡安慶介印刷所に移された。直前十一日に来訪の「岩田」なる人物は、社会運動家の岩田徳義(のりよし)ではないだろうか。尤も新聞は七月、直ちに発行停止処分となり、濃飛自由党も集会条例の改正によって九月に解散。党員は東京の自由党に赴いた。※註5

 葆堂と自由党との関係が明らかでないが、民権運動嫌いといわれた小崎利準県令からの招聘を断り続けた背景には、こうしたことも関係していたのではないかと思われる。というのも、編集と印刷のノウハウをマスターした彼は、こののち明治二十一年には『警世新報』、二十二年には『美濃新報』といった地方新聞の「印刷者」として、発行者と共に名を並べるようになるからである。※註6 東京から到着した「フレス」(明治十五年四月二日)すなわちハンドプレス・手引き印刷機は、雑誌ではなく新聞のために購入されたものかもしれない。このときは不要になった器械が、大橋氏へ引き取られて行った理由も説明がつく。

 また明治十五年の日記には、四月十六日から六月九日まで二ヶ月近い中断期間がある。表向きは京都にあった諸友と遊ぶために長期滞在していたからだが、旅行直前の四月六日には板垣退助が岐阜で遭難しており、帰還してすぐ「濃飛自由新聞」を発行、七月十三日には停止処分を受けている。※註7 民権運動が絶頂期にあったさなかの旅行は、葆堂にとってどんな意味をもつものであったのだろうか。世上沸騰する政治議論をぶつ「演舌會」に趨き、内容を写している個所もあるが(明治十四年九月二十三日)、全体に当時の日記の記述や『鷃笑新誌』掲載詩に政治的な痕跡を認めることはできない。彼が号に使った「葆」とは、草木がこんもりと茂るさま。うちに隠して表にあらわさないという謂があった。

 さて次に来日漢詩人との交流をみてみたい。日記に現れる胡鉄梅・陳曼寿・王琴仙・王廷章のほかにも、日記がつけられる直前の明治十四年二月には王鶴笙の訪問を、またこの日記以後、翌十六年には再び陳曼寿が、十七年までに朱印然(大橋家に逗留)、王冶梅、二十年十月には王犖と、中国の文人画家が陸続として戸田邸に立ち寄っていることが、編年体の遺稿詩集『問鶴園遺稿』に収められた作品から知ることができる。

 彼らは何をしにはるばる日本までやってきたか。日記は遠来の賓客として遇されながら潤筆稼業にいそしんでいた彼ら、外国人との交流の実際を記し、交歓の覚書は彼らにとっての真の目的、潤筆料にもおよんでいる。平仄の意味を体験したこともなかった日本の漢詩人達は、本場の作詩現場に瞠目し、詩書画の三絶を能くする文化人であれば誰でも快く自邸に迎えた。意思の疏通はおそらく彼らが商売上覚えた片言の日本語のほか、筆談によるところが多かったであろう。彼らの待遇は江戸時代の頼山陽や梁川星巌たちによる巡業旅行の舞台裏を髣髴させもする。出稼ぎに来た彼らと、来賓として迎える地方サロンとの思惑とは一致し、前後の郵筒のやりとりを含め、取りまとめ役だった葆逸との関係も頗る良好だったことが日記からは窺われる。

 日記に記された日時に合わせ、中の一人、画人胡鉄梅との交流記録を『鷃笑新誌』や『問鶴園遺稿』から拾ってみたい。大垣での初対面は明治十四年(辛巳)四月四日。それから約一ヶ月、度々の往来があった。

 辛巳春。清客胡鐵梅。來遊吾大垣。一日過其寓楼。席上漫賦長句以示。(『鷃笑新誌』第一集)

翰墨生平未了縁。翰墨、生平(※平生)未了の縁(※来世にも及ぶ因縁)。
相逢一笑好開顔。相逢ひて一笑、好く顔を開く。
詩思遠逐三唐域。詩思は遠く逐ふ、三唐(※初唐盛唐晩唐)の域。
筆致夐抽両宋間。筆致は夐(はるか)に抽きんず、両宋(※北宋南宋)の間。
矯似龍人擅才学。(※筆勢)矯(はげ)しきこと龍人に似て才学を擅(ほしいまま)にす。
鈍於蛙我恥痴頑。蛙より鈍なる我れ痴頑を恥づ。
同朋別有交情密。同朋の別れには交情の密なる有り。
不許怱忙早擬還。許さず、怱忙と早や還らんと擬するを。


 これに鉄梅が和している。(同一集)

我生未盡看山縁。我が生、未だ尽くは山縁を看ず。
海外青山破笑顔。海外の青山、笑顔を破る。
萬感都帰詩一巻。万感すべて帰す、詩一巻。
先峯却架屋三間。先峯却きて架かる、屋三間。
読書味有甘埋骨。読書味ありて、骨を埋むるに甘んず。
閲世寒心肯学頑。世を閲すれば寒心、肯へて頑を学べり。
目送孤鴻天際去。目は送る、孤鴻の天際に去るを。
不知倦翮幾時還。知らず、翮(つばさ)に倦みて幾時にか還るを。


 四月十九日、胡鉄梅を伴って詩酒徴逐したという「豆馬亭(とうまてい)」は、前年に建ったばかりの新築の旗亭であるが、養老公園内にいまも現存し当時の建物で営業している。当日の応酬より『問鶴園遺稿』には次の一篇を載せる。

 四月、鐵梅及び[戸]倉竹圃、岡[本]硯農、大澤生と同(とも)に養老公園に観花、鐵梅詩先づ成る、因て其のを韻を用ふ。

新築名園老瀑東。新築の名園、老瀑の東。
壮観不与昔時同。壮観は、昔時と同じからず。
賞心帰去猶労夢。賞心と帰去と猶ほ夢に労(くるし)むごとし。
依約淡烟香霧中。依約(※=依稀)たる淡烟、香霧の中。

 日記に録されているのは次の詩である。

 題豆馬亭

不窮碧海上蒼穹。窮らず碧海上の蒼穹。
日月双丸走太空。日月の双丸、太空を走る。
亭上白雲亭下河。亭上の白雲、亭下の河
寸人豆馬土濛々。寸人、豆馬、土濛々たり


 また日記には漢詩一首を書した薄葉紙が一枚、別に挟まれていた。五月十日に記述のある、留別を詠んだ「蕪詩」と思われる。

微雲作雨首夏清。微雲、雨を作(な)す、首夏清し。
疎雨送我歩園林。疎雨、我を送りて園林を歩ます。
一湾泂水緑于酒。一湾の泂水(※けいすい:はるかなる水)、酒より緑なり。
十畝菜花黄似金。十畝の菜花、黄は金に似たり。
童子不関門待客。童子は関せず、門に待つ客を。
主人方沐手調琴。主人まさに沐して手づから琴を調す。
故國若無滄海隔。故國、もし滄海の隔てる無くんば。
何妨曳杖百回尋。何ぞ妨げん、杖を曳いて百回尋ぬるを。


 そして彼が去った後、葆逸は手紙に代えて長詩を送った。

 別後、胡鉄梅に寄せて簡に代ふ。(『問鶴園遺稿』書き下し)

胡公の天賦もとより曠達。幼時すでに神童と喚ばる。多年研鑽す、六法の訣を。筆権擅奪す、造化の工を。ああ公の名つとに殊域に[傳]はり。遥かに同志をして高蹤を慕はしむ。それ奈(なん)ぞ万里絶海の阻める。毎に患ふ、尋常逢ひ易からざるを。
詎(なん)ぞ料らん明治歳辛巳(※十四年)。一朝、載筆(※文人)海東に来たる。忽ち謦咳に接して渇想を慰む[矣]。喜び却って疑ふ、夢中に在るかと。吾、幸ひに昕夕に秘蘊を叩く。親交、道を論じて楽しみ窮らず。
君見ずや、古法、手に筆なく眼に紙なきを。今の古法、業を同じくするも同じからず。また見ずや、法中、法あるもまた法に非ずを。果然として悟るや否や無功の功。王[蒙]・倪[瓚]・黄[公望]・呉[鎮](※元末四大家)逝きて久し。数百歳後にして始めて公を見る。森羅万象も一枝の筆に。随意写し来って坐(そぞ)ろに風を生ず。此の楽、此の情、忘れ得難し。
なにごとぞ告別の太だ匆々たる。江山、春老いて鵑声(※ホトトギス)切なり。堪へず、游子の笻(つゑ)の帰るを促すに。情多くして語なく帰去に餞(はなむけ)す。何れの日か重ねてまさに清容に接せん。別後、何れの方にか吾が悶を遣(や)らん。別後、何の術すべにて吾が胸を披(ひら)かん。強いて高楼に上りて悵(いた)み相望す。慕雲春樹、鬱として濛々たり。


 斯様に別れを惜しまれた胡鉄梅であるが、夏には文人学者の王琴仙を伴い再び大垣に現れた。「抹茶を嗜む漢詩人の俗物たること」について雑談に興じているのが日記にみえる(八月十三日)。彼とは翌十五年春の京都旅行の際、帰国を明朝に控えるというタイミングで会ったのを最後にしたようである。(「邂逅胡鐵梅時胡氏帰期在明晨」『覆瓿餘稿』※註2)。

 それから頻繁に日記にあらわれるのが詩人の陳曼寿である。冒頭三月二十九日の手紙の写しにみえるように、明治十三年に来日した彼と葆逸とは既に京都で会っており、この日記で明らかになったのは、明治十四年十月二日から十二月二十三日までの期間、大垣辺に寄寓した陳曼寿が、雑誌の同人たちと金生山や大垣藩の庭園であった与偕園、養老の滝などを巡っていることであった。(日記十月五日および『鷃笑新誌三集』戸田葆逸「辛巳晩秋。同曼翁及千和柳城諸老。飲[于]與偕園。席上分風花雪月字爲韻。得風字。」、『同五集』陳曼壽「同人游養老山觀瀑布」)。

 そして明治十五年春、葆逸は京都に入るなりまず陳曼寿を訪ねており(「入都先訪陳曼壽寓、席上賦眎」『覆瓿餘稿』※註2)、九月には岐阜へ立ち寄った曼寿の宿舎にもわざわざ泊りがけで訪ねている。(五日、六日)。

 陳曼寿は明治十六年にも京都から西濃地方に潤筆旅行を行っているが、『問鶴園遺稿』には「[晤]曼翁」、「重陽の日、曼翁自ら瓶菊図一條を写して貽らる。画致高淡さながら其の人の如し、人をして欣賞勝へざらしむ。因て此を賦して謝すと云ふ。所謂「瓊[瑤]木桃」※註8慚愧に堪へざる也。」、「曼翁の豆馬亭口占の詩の韵に次す」、「曼翁に揮毫を求む、副ふるに一詩を以てす、時に翁の帰期近し」等々の作品が録されている。

 画家だった胡鉄梅とは異り、陳曼寿は『鷃笑新誌』掲載の同人作品にもさかんに評を付しており、詩人として彼自身の寄稿もみられる。日記や雑誌をみるかぎり、戸田葆堂が一番親しく交わった清人だったようだ。

 日記では、彼が来日後まもなく刊行した自分の詩集『味梅華館詩鈔』をひっさげてやって来たことが分かる(明治十四年十月六日)。十六年の再訪時には、さしずめ世話になった美濃の詩人たちの作品を多数掲載した、彼が編集したアンソロジー『日本同人詩選』の刷りたてが携行されていたことだろう。※註9

 この『日本同人詩選』は、長年敬慕の念を以て中国文化に対する片思いを募らせてきた日本の詩人が、非公式ではあったが本場の漢詩人から、評価を「形」として受け取った初めての経験となる四巻本であった。同時期に、権威ある学者兪樾(ゆえつ)によって清国で編纂された選詩集、本邦漢詩人を全四十四巻に総括した『東瀛詩選』(光緒九年[明治十六年]序)が刊行されたが、『日本同人詩選』が現地交流を基とした一歩さきがけるものであったことは、郷土文学史のために記憶されてよいことに思う。※註10

 謂わば日本の漢詩受容史の掉尾を飾ってくれたこの陳曼寿が、帰国後間もなく病死したのはそれからわずか一年後、明治十七年二月のことである。日本と中国との力関係が逆転することになった日清戦争が始まるのはさらに十年後の明治二十七年、陳曼寿が清国の運命を知ることがなかったのは幸いであった。胡鉄梅は日本人の妻をもっていたというが、明治三十二年、五十二才で亡くなっている。※「胡鐵梅札記」(中村忠行『甲南国文』35号より鈔録)

 晩年の葆堂は、彼ら中華の末裔文人たちの故国が没落してゆく運命を、いかなる感慨で見送ったことであろう。そうした胸中を述べた詩もやはり『問鶴園遺稿』にはみえない。戸田葆堂が他界したのは明治四十一年七月五日のことであった。享年五十八。詩集巻末の行状には「桃源山先塋の次に葬る」とあるが、「王父」鉄心が現在も眠る全昌寺墓地内を現地踏査したものの、その名を留めた碑石等を確認することはできなかった。

 以上、当時の印刷事情と来日漢詩人との交歓のみに焦点を当ててみてきたが、この日記は他にも色々な観点から考察できる一次史料としての性格を有していると思われる。此度の翻刻に伴い、原本および『問鶴園遺稿』『鷃笑新誌』第一~十一集(片野南陽旧蔵書※註11)の画像を、編者の開設する個人ホームぺージ内に公開した。研究者諸賢からの御教示をまって補遺訂正に備えたい。※註12


※註1:伊藤信著『濃飛文教史』昭和十二年、博文堂刊。483-485p,
    『千里一走(大橋翠石伝)』大正三年、濱田篤三郎編、高嘯會刊。1-5p
※註2:『問鶴園遺稿』戸田葆堂遺稿詩集。大正五年、戸田泰刊。三十九丁。
    『拙稿 自辛巳一月至十二月』戸田葆逸詩稿写本。23×14.5cm十二丁。
    『覆瓿(ふくほう)餘稿 自壬午至甲申共八十首』戸田葆逸詩稿写本。24×14cm十六丁、ほか。
※註3:野村藤陰。名は煥(あきら)、字は士章、文政十年生の大垣藩士。小原鉄心と共に幕末維新時の藩事に奔走、明治八年、職を辞して大垣に帰臥、以後郷里の後進の教育に当たった。明治三十二年没。
※註4:『大垣市史 通史編近現代』平成二十五年刊。142p,
※註5:『岐阜市史 通史編近代』昭和五十六年刊。239p,
※註6:『大垣市史 通史編近現代』平成二十五年刊。154,277-278p,
※註7:『大垣市史 資料編近代』平成二十一年刊。224p,
※註8:詩経故事「我に投ずるに木桃を以てす、これに報ゆるに瓊瑶を以てせん」厚く返礼して末永く誼を願った謂。
※註9:『味梅華館詩鈔』陳曼寿著。明治十三年八月、原田西疇編、前川善兵衛刊。『日本同人詩選』明治十六年四月、陳曼寿編、大阪土屋弘刊。
※註10:蔡毅「陳曼寿と『日本同人詩選』中国人が編纂した最初の日本漢詩集」『国語国文』72(3),705-725p,2003-03
    日野俊彦「陳曼寿と日本の漢詩人との交流について」『成蹊国文』(48),57-71p,2015-03
※註11:片野南陽は鷃笑社同人。『鷃笑新誌』十一集に牧野交翠「哭片野南陽」の詩がみえることから、該書はその形見として合冊され蔵書印が捺されたものと思しい。
※註12:「四季・コギト・詩集ホームぺージ」http://shiki-cogito.net/

※註13:すべて『鷃笑新誌』同人。雑誌掲載の人名より推定した。
※註14:岡本硯農。南画家。胡鉄梅から学んだ。嘉永二年名古屋生、大正十二年没。
※註15:小川僧泰(または果齋)。『鷃笑新誌』同人、後の木蘇岐山。典故考証に精通し五千巻堂主人と号した。安政四年稲葉郡佐波村生、大正五年没。
※註16:無何有荘(むかうそう)。小原鉄心旧庵。現在「奥の細道むすびの地記念館」内に移築。
※註17:吉岡楼。大垣公園内にあった料亭。
※註18:篠田芥津。京都の篆刻家。文政四年稲葉郡芥見村生、明治三十五年没。
※註19林逸。書家。岐阜市在の県庁職員。天保十年生。
※註20:天野方壺。南画家。文政十一年伊予に生れ、明治二十七年岐阜県で没したといわれる。
※註21:江馬金粟。江馬細香の甥。詩人・洋医。文化九年生、明治十五年没。
※註22:宇野義存。漢詩人宇野南村の三男。『南村遺稿』を刊行。
※註23:小野湖山。梁川星巌の高弟。東京在。文化十一年近江生、明治四十三年没。
※註24:以下「谷」氏は溪毛芥の家を指すか。長男雲嶂ならば『鷃笑新誌』同人。天保十一年生、明治三十七年没。
※註25:成瀬石痴。長崎の篆刻家。天保九年生、明治二十八年没。
※註26:江馬天江。星巌門下の文人。京都在。文政八年近江生、明治三十四年没。
※註27:原田西疇。安芸生れの『鷃笑新誌』同人。京都で陳曼寿の詩集を編集。
※註28:全昌寺。大垣市にある小原鉄心・戸田葆逸の菩提寺。
※註29:溪毛芥。大垣誓運寺住職。雲華上人に学ぶ。文政元年生、明治十六年没。
※註30:早川周造。安八郡三郷村戸長。明治三十年貴族院議員当選。『鷃笑新誌』同人の早川樸堂と同一人物か。文久三年生。
※註31:平山耕雲。大垣藩の砲丸鋳造・金工師にして読売新聞印刷技師となる。
※註32:江馬春煕は江馬金粟の長男。ときに金粟一月五日没、七十一歳。
※註33:竹富清嘯。別号嘯山。南画家。上海に渡り帰国後京阪を遊歴。天保四年熊本生、明治三十二年没。
※註34:戸田鋭之助。大垣藩家老。国立第百二十九銀行頭取。安政四年生。
※註35:神山(ごうやま)凰陽。京都在文人。長良川(鳳凰川)の北、上土居に文政七年生、明治二十三年没。
※註36:岩田徳義(のりよし)。岐阜県における自由民権運動指導者。弘化三年岡崎生。大正十二年当時存命。
※註37:森琴石。南画家。胡鉄梅と交流。天保十四年有馬温泉に生る、大正十年没。
※註38:明治十五年八月五日から六日にかけて台風上陸。四国から中部地方にかけて各地の川が氾濫した。
※註39:濱弘一。大垣出身文官。当時会計検査院検査官。嘉永元年生、大正九年没。

【事項参考図書】
『濃飛人物と事業』大正五年、大橋彌市刊。
『大垣市史 中巻(分科志)』昭和五年、大垣市役所刊。
『濃飛偉人伝』昭和八年、岐阜県教育会刊。
『岐陽雅人伝』昭和十年、松田宗教刊。
『平田町史 下巻』昭和三十九年、平田町役場刊。
『岐阜市史 通史編近代』昭和五十六年、岐阜市刊。
『大垣市史 通史編近現代』平成二十五年、大垣市刊。


豆馬亭訪問記 2017年4月19日

「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」  『芸窓日録』 明治十四年四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したのが明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向きをお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。
 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍した浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げられてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますから、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額(同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時代の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろいろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じてをり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参りました。

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351

参考サイト
 養老町役場のホームページより
  豆馬亭
  村上旅館と豆馬亭

 インターネット上で古い絵葉書売られてゐました









画裡山川、一望悠たり
高楼聳えて 白雲の頭に有り
誰か知らん 尺樹林園の低きに
豆馬寸人 随意に遊ぶを

島地黙雷 養老豆馬亭の詩







全昌寺展墓記 2017年7月3日

 紀要の抜刷をお送りした方々のうち、加納の宮田佳子様よりは、御実家の菩提寺である全昌寺へ問合せを給はった結果、戸田葆堂の墓碑が特定されたとの嬉しい御連絡を頂きました。
 早速お寺に電話して、照会先の不破英明住職より、御多忙中のところ懇切な御案内を給はり、墓地の一角に建立された五輪塔に「黙動院眞覺葆堂居士」の戒名を確認して、やうやく詩人の御霊に報告することが叶ひました。

 墓地は昭和50年代の整備事業の際に整理されてをり、葆堂の墓もそれまでは、昭和13年に亡くなった夫人「松月院鼎室時聴大姉」の戒名を連ねた夫婦墓が建てられてゐたさうです。三界万霊搭のもとに隙間なく集められた旧墓石群の中からそれを見つけることはできさうもありませんでしたが、興味深い話題も伺ふことが出来ました。
 大垣藩の家臣に数へられる戸田家のうち、葆堂は「治右衛門家」の長子である筈なのに「儀右衛門家」の墓に入っていること。大垣(西濃地方)には曹洞宗の寺は少ないのですが、全昌寺はそのうち小原鉄心の菩提寺でもあったことから、彼を慕ってここに祀られることになったのではないか、といふことなどです。

 また「日記」にも名前の出て来る大垣の名士、戸田鋭之助の次男の御息女が佳子氏であること。つまり鋭之助の岳父すなはち佳子様からすれば曽祖父が野村藤陰であることから、佳子氏が嫁いだ宮田家の祖先、江戸時代の美濃漢詩サロンの要であった宮田嘯臺との姻戚関係にも遠く思ひをはせたやうな次第。
 茲に後日談として報告させて頂きます。


【その他 文献】

『鷃笑新誌:あんしょうしんし』1集~11集合本(明14年[9]月~15年8月) 鷃笑社(大垣郭町1番地、社長野村藤陰)刊行

『洞簫余響』野村藤陰/編 [致道館][慶應3(1867)]跋


Back

Top