Back (2011.06.15up / 2017.01.03update)
『鷃笑新誌:あんしょうしんし』
鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介
各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社
「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってゐる謂。
『濃飛文教史』1937伊藤信著 より 483p
戸田葆逸 (『鷃笑新誌』編集長)
名は光、字は修來、通称鼎耳、初め葆逸と号し、のち葆堂と改む。別に保眞堂、問鶴園、十二洞天齋の号あり。旧大垣藩臣戸田義尚の長子なり。
嘉永四年十一月二十九日を以て生る。
父義尚、家を継がずして没す。葆堂時に歳十六、祖父義賢の後を承けて禄七百五十石を食み、御番頭に任じ、藩主戸田氏共侯に侍して四書五経を講習す。穎悟強識、王父(祖父)小原鉄心、 深くこれを愛し、常に人に語りて曰く、「姪孫鼎耳あり、以て意を強うするに足る。」と。
明治二年、王父に従ひて東遊し、昌平黌に入り、刻苦精励、業大いに進む。居ること二年、病を載せて還る。藩儒野村藤陰および岩瀬尚庵、井田澹泊等に就きてその薀奥を敲き、
出藍の誉ありきと云ふ。岐阜県令小崎利準、抜きて官に薦む。葆堂、病と称して固く辞す。のち京師に遊び諸名流と詩酒徴逐す。たまたま清人陳曼寿来りて大垣に寓す。 乃ち就きて詩法を問ひ、得る所少なからず。葆 堂また兼ねて渲染を善くす。初め天野方壷に学び、のち明清書家の名蹟を参観し、別に旗幟を樹つ。酣古高逸の致、 鞠すべし。及門の士、大橋翠石の如き最もその秘訣を得る者なり。
明治十四年、同士と相謀りて鷃笑社を創設し、野村藤陰を推して社長とし、自ら編集長となり、月刊雑誌「鷃笑新誌」を発行して斯文を鼓吹す。
盟に加はるもの多く、 また文壇の一偉観なりき。
葆堂、資質蒲柳の如く病を擁し榻に臥して客に接す。或は儒流と経義を弁じ、或は老衲と玄理を談じ、二豎(病気)の身に在るを知らず。明治四十一年七月五日(七日は誤り)遂に没す。享年五十八。
桃源山先塋の次に葬る。男、秦氏(号芸窓)、家を嗣ぐ。著すところ『問鶴園遺稿』一巻あり。
絶命詩 明治四十一年七月
有始者終合者離 玄々妙理奚疑 有人若問死生事 笑答風辺花一枝
始め有る者は終り、合ふ者は離る。 玄々妙理なにをか疑はん。 人有りて、もし死生の事を問はば、 笑って答へん、風辺の花一枝と。
『問鶴園遺稿』より肖像(大橋翠石画)