(2019.10.13up / 2019.10.17update)Back
四季派の外縁を散歩する 第26回
「生誕120年記念 佐藤一英」展によせて
図録『尾張に生きた詩人 佐藤一英展』を読む。
愛知県の一宮博物館から「生誕120年記念 佐
藤一英」展の内覧会のお招きに与りました。今夏「一戸謙三展」に関はった御縁により、御厚誼を賜った一英長男の史門様御夫妻ほか皆様に御挨拶し、著書原稿ほかの資料を拝観して参りました。
展示は3フロアですが、遠方で観に来られない方々には、ふんだんに資料を掲載した、詩人としての活動に焦点を合はせた充実の図録128pは必見です。
大部の内容に一通り目を通したところですが、まづは冒頭の坪井秀人氏「佐藤一英の位置」が、詩壇の特異点に陣取った詩人の詩作と、その詩史的な意義を打ち建てんとしたポレミックな詩学とに対して、大東亜戦争期における結末にまで踏み込んだ論考となってゐて、読み応へがありました。
論文前半に於いては、初期の詩人の位置づけが、春山行夫や横光利一との関係を例に出して「一筋縄ではいかない」ものになってゐることが指摘されてゐます。
大正時代の名古屋詩壇で『青騎士』をともに興した盟友の春山行夫。
Poeほかの象徴詩に耽溺することで詩的揺籃期を培った二人の間には、春山の第一詩集『月の出る街』跋文に窺はれるやうな人情濃やかな友情が存在し、春山が名古屋を去りモダニズムの旗振り役としてフォルマリストに変貌し、そして詩作をやめた後に至っても終生、尾を曳くやうに続いたのでありました。
昭和19年、前妻を亡くした春山氏が再婚するにあたって、仲人を一英さんがつとめてゐるのを知ってわたしも驚いたのですが(昭和19年8月31日一戸謙三宛書簡)、今回展示されてゐる友人吉田一穂の手
紙のなかでは、
「春山なんぞといふ極端な馬鹿を君はまだ心の底で認めてゐる処がある。あいつは裏切り者だし明確に我々の敵だ。あうした奴は最后までやっつけなければいけない。」
とまで、書き送られてをります。
このやうな事情について坪井氏は、「モダニズムの視覚偏重の傾向に対して、佐藤が一貫してきびしく批判する姿勢を保持」していたことを指摘しつつ、本来吉田一穂と共に相反する立場に至った筈の春山行夫との関係を「個人的交流」に帰してをられますが、佐藤一英と春山行夫と両者に通底してゐたものがあるとすれば、如何に非難されようが、権威的なものに対して論争を挑む在野の姿勢。それを、二人は学歴に頼らぬ汪溢する知性をもって認め合ってゐたのだ、といふこともできるでしょう。
春山を敵視した吉田一穂に対しても然り。たいへんに人付き合ひを大切にするひとであったことがわかります。ただ一方では、『晴天』や『新韻律詩抄』など彼の詩集を最初から、折にふれ褒めてくれた萩原朔太郎に対して、
「一、
大和の教への宣布。一、行動主義の決定。一、新韻律主義の徹底。一、新定型確立。したがつて萩原一派のロマンチシズムをたたきつぶすこと。自由詩散文詩を追つぱらふこと。既成宗教、新邪教及びマルクスボーイの一掃。大きい旗を立てませう。」(昭和11年12月一戸謙三宛書簡)
なんて気焔を上げたりもしてをり、まあ一英さん自身、ちんまり枠におさまることのない個性とバイタリティを持ち合はせてゐた人物だったのですから、人のことはいへません(笑)。
時代の寵児となった学友横光利一の場合などは、小説家となる菊池寛との縁をつくったのが佐藤一英ならば、戦時中「祭政一致的な国語ナショナリズムに陥って」いったのも、佐藤一英の方から影響があったと思しい。その結果、戦後になって学閥を持たない有名人の彼には「戦犯バッシッグ」が集中し、若くして不遇に亡くなってしまった(昭和22年)訳ですから、当時の詩人にとって、兄事した福士幸次郎の最期(昭和21年)に続く大打撃であったことが窺はれます。
さて、佐藤一英が詩的生涯の中で一番に心を砕いたのは、(図録では現物が編集ぎりぎりでみつかったために写真が小さく紹介されてをりますが)いふまでもなく戦前に彼が創始した「聯」であります。
これについての解説も、坪井氏が韻律論をことあげた近代詩人達の系譜のなかに(謂はばそのどんづまりに)彼を据え置いて詳しく立ち入って解説されてゐますが、その来歴については、別項文章で、歌人である小塩卓哉氏が「一英の韻律理論は常に進歩史観に彩られているように思われる」と引用された、詩人自身による次の一文がよく語ってゐるやうです。
「断片は結集しようとし、習慣的な連続は切断される。長歌は短歌的に切断されたが、その短歌は連歌的に結成されたではないか。しかしその連歌も再び俳句的に砕断された。さらに二十世紀の初頭、その俳句はソネット風に連続されて、新詩(※新体詩)の中軸をなした。」
そして学芸員の杉山章子氏が、
「一英は常々「不連続の連続」と語り、詩の各行は独立しながらも他の行と連携し全体の一部であるとの考えを、詩の世界だけでなく個人と社会との関係にも広げて考えていました。」
と図録の解説を締め括られてゐますが、「聯」といふのは畢竟、モダニズム散文詩にまで解体した近代詩から、再びポストモダンとして立ち上がらうと試みた、新体詩のあとに隔世遺伝で現れた最終形態、少なくとも彼らのなかで共有された「野望の詩学」であったといってよいと思ひます。
「眼で読む詩」から「聴いて感じる詩」をことあげた背景には当時昭和10年にはラジオの受信契約者数が200万人を突破するという、新たなマスメディアの登場、といふ現実がありました。
さて小塩卓哉氏は解説のなかで続いて「地方文壇にいて、中央文壇の志を維持する苦労」について、佐藤一英になぞらへるに福田夕作を揚げられ、同じく岐阜県出身のわたし的には大変うれしかったのですが、やはりここでは、生涯面晤の機会がなかったものの、地元名古屋を除けば地方における一番の盟友であった、一戸謙三(1899-1969)を挙げるべきでありましょう。師事した福士幸次郎をなかだちとして知り合った彼が、やがて師の制止もきかず青森詩壇をひきゐて一英さんの「野望の詩学」を地方から強力にサポートしてゐたさまが、『聯』リーフレットの現物を繙けば容易にわかります。
「地方都市としてナゴヤは弘前とともに東西地方の聯運動の中心をなしてゐる感がある。」(『聯』昭和13 年7月 3号後記)
「青森で一戸君が秋田雨雀、鳴海要吉両氏を相手に論争してゐるのは見事なものである」(『聯』昭和13年8月 4号後記)
今回の展示では、(また青森での特別展においても)、その福士幸次郎をかなめとして知り合った彼との宿縁が、有名な文学者・芸術家との交流の陰に紛れてしまったことが、残念といへば残念に思はれたことでした。
論陣を張ることを躊躇しない、同年に生まれ同年に亡くなったこの「聯」の盟友とは、謂はば学歴を逃した者同士でもあります。坪井氏は「韻律学と戦争詠とはきわめて相性のよいかたちでつながっていたはずである」と書いてゐますが、一戸謙三の戦時中の沈黙は特筆に値します。
戦後帰郷して地方から詩壇を見据えるやうになった佐藤一英にとって、戦争に対する思ひを、謙三の世過ぎから教へられるところは多々あったことと思はれ、「『歴年』を読む」という一文には、それがよく表れてゐます。
(ついでに申し上げると文中、一戸謙三の詩集と田中克己の『李太白』とを共に愛読したとの記述に出会ってびっくりしました。佐藤一英を通じて私にまでつながる御縁を感じた次第です。)
「年越しの晩、一昨年は学友横光利一の死によってうけた衝撃を、横光と対座するやうな気持ちで、鉛筆を執った、同じ燈のもと、同じあんかによりながら、除夜の鐘をきいてから、明け方までかかってまたこの「歴年」を読みぬきました。そして、
実にすがすがしい気持ちになつて、人が起きはじめる頃、私は床についたのでした。こんな楽しい元旦は近年ありませんでした。
(中略)
私が最初の詩集を二十五年まへに出したとき、「月に吠える」の詩人は私が北方的であると評しました。それはあたってゐたか、どうか知りません。 しかし、私は不思議と北の詩人と深いつながりをもつて、生きてきました。
「未来者」の詩人(吉田一穂)、「歴年」の詩人(一戸謙三)、現代の詩人としてすぐれて特色のある、この二人の詩人は、私が第一の詩集を出すまへからの友人です。私はこれらの友人をもつてゐることをひそかに誇ってきたものでした。
いま「歴年」の詩人は、現代詩壇に美しい人間の自画像をあらはしました。人々は、「歴年」を読むことによって、一つの清らかな美しい生き方を学ぶでせう。
さらに、この詩人が、あの狂気の悪さわがしい戦争の時期につねに醒めてゐて、どんなに美しい珠玉をみがいてゐたかを知ることによって、この詩人の芸術精神の高さと思索の深さと詩的趣味の豊かさを知るでせう。
私はこの詩人の戦時中も変らなかつた詩的製産の珠玉集が一日も早く出版されることを期待するものです。戦後、いっさう甚だしく乱れた詩界は目をみはつて、その珠玉集をうけとるでせう。」(『北』昭和24年5月 第3号所載)
わたしも坪井氏と同様、「綴密ではあるものの、ある種の息苦しさも感じられなくもない定形態の詩、韻律詩」よりも、第一詩集『晴天』に収められた「無技巧、初版本文の読点なども含めての、一気呵成に書いた愛の歌にうたれる」抒情詩を愛する者です。
そして各行が独立して遠心的思考に立つ「聯」、および各種の韻律に拠った実作については、
「《予め定められた数律へ語がやつてきて座をしめる》というよりは、〈予め定められた数律へ語をあてはめる〉という作業が背景に感取されて、意味の連環には恣意的な作為をまず印象づけられることにもなる。」
と指摘されるやうに、おそらく多くの読者が、隅々まで昧解するには至らずにゐるのではないでしょうか。
ところが佐藤一英と同様、はじめは大正口語詩の気圏にあって、求心的な抒情詩を書いてゐた一戸謙三が、モダニズムに開眼してのち、方言詩のみならず、かうした遠心的な連想にもポエジーの拠り所をもとめるやうになり、謂はば抒情詩と聯と「二刀流」を使ふ詩人に変貌を遂げた経緯を知るに及んで、彼に「聯」の世界を啓いた佐藤一英といふ詩人についても、自ら創始した理論でもって自縛して果てた、ただ特異な存在として片づけてよい詩人だったらうか、といふ疑問をわたしに問ひかけて来るやうになりました。
さきの「一筋縄ではいかない」事情といふのも、あながち「個人的交流」だけによるものでなく、それは彼が「運動」としては些か無理筋な詩学にたつ「聯」を、「国民詩」として掲げようとした結果、詩壇や世間における随所において、雅俗の折合ひを強いられたからではなかったか、と私は思ってゐます。
詩作者としては純粋であらうとしながら、それが詩人としての佐藤一英にみられる唯一の瑕疵ではなかったか。折合ひの仕方について、坪井氏は論文の後半に於いて「他のほとんどの詩人たちが陥ったあやまちと同様」、その戦争詩を論って「けっして免罪されるべきものではない」と書いておいでですが、わたしはそのやうには思ひません。
かつて杉山平一は、戦争詩といふものは校歌のやうなものであり、学校がなくなれば校歌が意味をなさなくなるやうに、戦争がなくなれば戦争詩にも意味はなくなる。と書きました。
負けた戦争というものに大義が認められるかどうかはひとまず措きます。しかし「免罪」に値する(値しない)あの戦争における罪というのは畢竟、
大日本帝国のいやらしい軍隊と報道のあり方、つまりは無謀な進軍と事実の隠蔽とにあったのであって、既に戦争が始まってしまった段階における、国民一人ひとりの戦争協力の姿にあるわけではない、本人たちにとって「知らなかったでは済まない」ことを、戦後安全地帯にゐる人間が指弾すべきではない、日本国民であるわたしは、さう考へてゐます。
でなければ、佐藤一英を郷土の先人として仰ぐ理由はみつからない。たとい彼が戦後、土地の紀元を建国2600年から2万年の照葉樹林帯に変更したからといって、そして地元の名士として市の功労者になったからといって、あるのだらうかと感じます。
一英さんに戦争詩の詩集があり、また後世の目からは最悪の黒歴史として指弾されさうな『われら戦ふ:ナチスドイツ青年詩集』な
どといふ訳業もあることについて、
「私はさきごろからヒットラーユーゲントの委嘱によつて、前大戦の絶望から今大戦の蹶起に至る間の詩、同部選出のもの数十篇を訳しつつあるが、感無量なものがある。私はドイツ青年が一人の指導者であるヒットラーに全生命をささげて戦ふ心に、深く感動する。それはまさに神に対するやうな心である。実に美しいこれこそ、今大戦の輝く戦果ををさめつつあるものだと思ふ。」(「伝統に生きる詩」昭和17年1月)、
と詩人は書いてゐますが、私は、大東亜戦争を始めた当時に於いて、それはさうだったんだらうと、素直に思ふのです。事実を知らされなかったことがどのやうな罪に当たるのか。何も知らされなかった国民、ことにも純粋に「大東亜共栄圏」の理想を信じて表現に携はった者には、(当時文学デビュー前で免罪されてゐたアプレゲールから)罰だけが強く下されてゐるやうな気がいたします。
敗戦直後のノートを閲してゐませんから、それ以上のことは言へませんが、左派知識人の権威である和田春樹氏が「ともあれ一大変身した」と一定の評価をしたからといって、昭和20年10月発売の『少年倶楽部』に載せられた平和主義を掲げた一文によって、あったかなかったか今日に至っても国際情勢や政治力学によって左右されかねないやうな罪、それに対する免罪云々といふ考へ方が現れること自体が、わたしには理解ができません。
和田氏が承認した位置まで下がったところから、坪井氏は「韻律と定形の探求、この財産があったから」詩人はこの敗戦を跨ぐことができたのだ、と一応の着地点を穏便に用意して下さってゐるのですが、はたしてどうなのでしょう。
私はいやらしい軍隊と報道のあり方を除けば、日常生活において、戦前に生きた庶民がどのやうに他者(朝鮮人中国人を含む)に接して来たか、いかなる雅俗の折合ひをなしてきたのか、それ以外の興味がありません。
さういふ意味では、開会式でも詩を朗読された令孫真下あさみさんによる祖父の回想は、田舎住みの好好爺の日常を写してゐて微笑ましく、心打たれました。音数律が一番成功してゐるのも、市長が口ずさまれた校歌、そして斯様の童謡歌曲の類ひに於いてではなかったか、と思ひつつ聴いてをりました。
吉田一穂と、一穂が手紙のなかで春山行夫に続き「極端につまらない」と侮蔑されてゐた一戸謙三と、その二人を同じく知己として大切に思ふ姿勢には嘘がないこと、雅俗を合はせ呑む彼の襟度をふまへて、『終戦の歌』に至る彼の戦後の平和主義のことも考へてみたいと思ってゐます。
先にも記しましたが、会場には有名な「文学者・芸術家からの書簡」が展示され、図録でも大変興味深いコーナーとなってゐるものの、対する一英さん本人の肉声を伝える書簡が遺っていないこともまた残念ではあり、それについては拙サイトに掲げてゐる、一英さんの謙三さんへ宛てた書簡のコ
ピーを見て頂くことで、両者の紐帯と一緒に伝へることができるのではないかと思ってゐます。些かなりとも宣伝をさせてください。
実は今週の始め、謙三さんの令孫晃さんより、昭和20年に出された未発表の書翰の写しをお送り頂き追加しました。いつもは葉書なのに封書で、戦中最後の書簡となった2枚の便箋には悲壮な心境が認められてをりました。
【昭
和20年6月15日】
御元気ですか。昨日、文報(文学報国会)の連絡幹事會に出て、二つの提案をして可決となりました。第一は、文報の機構の簡素化。これは急速にさうする事となり、連絡幹事會が、文報の推進隊となる事になりました。つぎは十代の天皇の御製より、祈禱のものを中心に謹選し、
決戦下の国民におくること。これもまづ明治天皇のものをはじめとして、実行することになりました。謹選の上はラヂオ、新聞でひろめます。
すでに雑誌、パンフレットさへ用をなさなくなりました。われわれの国民信仰確立運動も旺文社が全面的に協力してくれる事になりましたが、四つの雑誌はみな焼けてしまって、小生の詩や文章も消えてしまひました。同封のきりとり(不詳)は先月号のものです。まだ一種だけは出してゆくといってゐますが、いつまでつづけられるかわかりません。
われわれには、祈りつつ行ふ、これだけがのこされてゐます。これは国民とても同じことです。ただ、われわれは信仰の基礎を一声のまことによって、確立することを、どこまでも強力につとめ、詩人の最後の御奉公を完うしたいと思ひます。文報での提案もこれでした。
すでに東海軍管区内の工場にはいくつか、われわれの同志の推進隊が「まがね會」といふやうな名称のもとに活動を始めてゐます。そちらにもかうしたものができる事を切望してやまず。行動による率先垂範、これだけが国民をひっぱってゆく力です。わたくしは、それを、昨年、九月、渡満の前に『文学報国』に投書しておきました。「まこと一すぢ」この一文が、いまごろになって掲載されてゐます。しかしわれわれは最後まで志をすてません。 雑誌社もだめ、文報もだめ、になっても、われわれ同志の活動はつづけたいと思ってゐます。
すでに都の残存家屋には、敵のバクダンの集中攻撃がはじまりました。われわれの学問と藝術とを護る意味で、福士、渡辺の長老に、疎開をすすめてゐます。そちらでもおよびを願ひます。東京は、はげしい戦場と化しつつあります。今後は軍管区単位で活動する事になりますので(これは文報でも立案実行化中)、われわれの若い同志にも、お召しのないものには参軍管区にかへって、そこが戦場化するまで、まこと、まごころの道を説いてくれるやうに頼んでゐます。
長男は今春、予科練で、入隊しました。こんど特攻隊を志願したさうです。小生に一つの人情をゆるしてもらへるなれば、長男よりさきに死にたいことです。しかし、一切は神意のままです。六月十五日
京都にて 佐藤生
一戸兄
文中の「長男」とは今回開会式で挨拶をされた御年90歳の史門さんのこと。図録解説には確認された書簡として「一戸謙三」の名も挙がってをり、
不日、一英さんの書簡と「往復」に照らし合はせることができれば、一層興味深い資料となるのではないかと期待してをります。
それから『晴天』に続く若き日の第2詩集『故園の莱』(1923年 青騎士發行所)がわたしの手元にあり、エスペラント語で女性への献辞がペン書きされてゐます。
当時すでに妻帯してゐた筈ですが、いったいだれに贈ったんでしょう(笑)。
詩人のロマンスについては会場に誰でも読めるやうに置いてあった、詩人の奥様たまをさんの人生をやさしい物語にした冊子(萩原小学校刊行)をぜひ手にとって頂きたいです。
冊子をまとめられたのは、詩人が戦後取り組んだ樫の木の文化論について永年研究に携はれてこられた田内雅弘氏。
このたび未発表の告白自叙伝『詩と生涯』(昭和22年)の存在が、初めて年表上に記されましたが、特別展をきっかけに公開に向かふのかどうか注目されるところです。
佐藤一英展の『図録』につき、坪井秀人氏の巻頭論文「佐藤一英の位置」を中心に、思ふところを今夏特別展に関らせて頂いたもうひとりの「聯」詩人、一戸謙三にかたよせて書き記してみました。2019年10月13日 詩人佐藤一英生誕120年の日に。妄言多謝。(未定稿)
「生誕120年記念 佐藤一英」展:愛知県一宮博物館 2019年10月12日〜11月24日
図録目次
ごあいさつ 2p
坪井秀人「佐藤一英の位置」 4p
出品資料の図版および解説 (杉山章子学芸員)
詩壇へのデビューと戦前の活動 10p
戦後の歩みと樫の木文化論 37p
佐藤一英の詩画 68p
佐藤一英の書 74p
文学者・芸術家からの書簡(吉田一穂・横光利一・萩原朔太郎・福士幸次郎・川路柳虹・春山行夫・棟方志功・寺田政明) 82p
関連資料 103p
佐藤史門「父の想いを胸に」 105p
真下あさみ「おじいちゃんの想いを胸に」 106p
鏡たね「佐藤一英先生」 107p
小塩卓哉「ふるさとはあしたによろし 日本詩歌の原型のありか」 108p
田内雅弘「一英の樫の木文化論 現代文明への警告」 110p
佐藤一英年譜 111p
佐藤一英写真 126p
主要参考文献 127p
おしまひに、図録では紹介の少なかった、詩人の肖像について、貴重な書籍とともに公開許可を御遺族より賜りましたので、以下に文学ミニアルバムとして紹介させて頂きます。
1899年(明治32年)生まれの一英さんは、西暦の下2ケタに2を足すと数え年齢になります。
佐藤一英 文学ミニアルバム
(以下、御遺族に無断の転載をお断りいたします。)
1916(大正5年)
1923(大正12年)11月サンサシオン第一回展
ヒゲのない若い頃の一英さん。年不明
切手にもなった藤井外喜雄による油彩肖像 1923(大正12年)
1927,8(昭和2,3年) 中京高等女学校(英語・国語)教員奉職時。
昭和初年代か(詳細不明)、中央に福士幸次郎。
1933(昭和8年) 次女ルミ、長男史門さんと。
1938(昭和13年)地元一宮萩原での『聯』生誕記念。
(昭和10年代か)
1939(昭和14年)3月5日 聯詩社第一回例会(牛込多門院)。
中央奥に佐藤一英、最前列手前は棟方志功か。
1939(昭和14年) 『空海頌』にて詩人懇話 会賞受賞。
1941(昭和16年)8月30日 朝日新聞社前。
(昭和20年代か) 吉田一穂と。
1953(昭和28年)2月
1955(昭和30年) 一宮玉野の善福寺に建立された福士幸次郎の石碑前で。
1959(昭和34年) 還暦祝い。右より信時潔、吉田一穂、一英、中山義秀。
1960(昭和35年) 自宅にて。郡上八幡の詩人、水野隆と。
1966(昭和41年) 金沢にて。たまを夫人と。
1968(昭和43年)
1970(昭和45年)
(昭和40年代か)
(昭和50年代か) たまを夫人と。
(昭和50年代か) 一宮玉野の善福寺の庫裡様と。
(昭和50年代か) 一宮玉野の善福寺の庫裡様と。
(昭和50年代か) 一宮玉野の善福寺の福士幸次郎石碑にて。
善福寺の現況 (2019.7.2撮影動画)
(昭和50年代か) 自宅にて。
自宅。詩人在世時の佇ひ。
書斎。
墓所(側面に父広三郎の俳句「ねころんだ子のたもとから土筆哉 一英」が刻まれてゐます。)
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