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さとう
いちえい【佐藤一英】(1899〜1979)
春山行夫と僕 「月の出る町」によせる
僕が春山行夫を知つたのは、そんなに昔のことではない。だのに僕らは生れおちるとから離ればなれに育てられ、生活してきた二人の兄弟が二十幾年
の後、奇遇したかの心情を経験することになつた。
その頃、名古屋で起した宗教革新運動に興味をうしなひかけてゐた僕は、同志がまたそれぞれ宗教中心といふことに不自由を感じてあることを知つた
ので、二号まで出した雑誌を廃刊にし、「宗教革新同盟」といふものを解散することにした。
その頃、福士幸次郎(人も知るやうに彼と僕とは兄弟関係に立つ)が、名古屋での詩歌講演のために来名した。(一九二二年二月のことだ。)
彼は「楽園」の創刊続を持つてゐた。(この若さそのものの詩中心の雑誌は、僕が早稲田の文科にゐた頃、即ち四五年も前から計画してゐてやつと、
しかも予期せずに、その顔を見るものであつた。)
それを兄が弟にずつと昔に約束したものを弟が忘れた頃、不意に与へて喜ばせる快感から、福士はさうしたのであつた。僕の情熱は再び詩の世界に燃
えたつた。僕が春山を知つたのはこれ以後三四カ月を過ぎてからのことである。
その頃、春山は、名古屋のある会社に勤めの傍ら、彼の竹馬の友、井口蕉花君とともに「赤い花」といふ雑誌を出してゐた。
ところが間もなく「楽園」も「赤い花」もともに廃刊か休刊になつてしまつた。その春、高木斐瑳雄君から話があり、「赤い花」の連中と一緒に雑誌
を始めようと思つてゐるが加はつてくれないかといふのだ。
──僕と春山との友情・生活はこれから始まつた。
春山は会社のかへりに殆んど毎日のやうに、僕の東新町の仮寓(いまもこれを書いてゐる)の扉をたたいた。
彼の姿が見えない夜は、僕が出かけて行つた。あのいかめしくたち並んでゐるブルヂョアの住宅におしつぶされさうな一間きりの裏座敷へ。そしてこ
のどちらかの部屋で僕等は語りあつた。──英仏の象徴詩を、東洋の古典詩歌を、彼の書斎のボンボン時計が夜中の二時を打つたりして驚ろいて立ち上
つたこともあつた。(が彼のドコか異国的な、それでゐて、祖先伝来と思はれるやうなその時計は、いつも二時間位はすすんでゐた。──そして今もす
すんでゐる。)
彼は風呂手拭を振り乍らまたいつも風呂屋の前まで、おくつてきてくれた。あやつり人形の鋒鎗持ちの格好で、(願はくば彼から一切の和服をとり去
ることを!)。
人通りの少ない電車通から入つた広い旧屋敷町の月の出は変つてゐた。その月は広ろく疲れた顔を出した。どこか、文明のおとぎばなしのお姫様を思
はせた。
“gi simil s al virino eliranta
eltombo"(※墓から出てきた女のやうだ)などと「サロメ」の文句をエスペラント語で口づさんでみたこともあつた。
が春山はその月を僕と同じように眺めたのか、どうかは知らない。ともかくかかる月の出る町で、彼の隣りの門前で僕がウリーニ(※小便)したこと
だけは忘れてゐない筈だ。(かかる町ではまさに噴泉の趣味をそえる!)そして彼は僕にその家がポリツイステエヨ・マーストロ(※警察署長)の屋敷
であることを警告したのだから。
彼の洋服姿が脇に二三冊の舶来詩集をかかえて、広小路のペーヴメントの上をやや背をこごめて足早に通りすぎるさまを見たものは、彼の背高がいか
に調和的な映画の主題であるかを思ふであらう。かかるときまさに彼のエキゾチシズムは彼のボンボン時計の響とは全く異つた響と速度とを起す!
そしてまた折々僕とともに歩くのだが、僕の黒いトンビに山高帽姿(これはポオを失神させたレエヴンである)は、彼の文明そのものの姿と対照して
いかに野蛮人くさく見えることであらう。
彼の言ふがごとく村長の赤毛布ぶりといふところであらう。
しかり、彼は文明人型であり、僕は野蛮人型である。「青騎士」同人のすすめによつて僕は五六年間の詩作の一部を一九二二年十月に発表したのだ
が、彼は僕が五六年の間に開拓した詩歌の分野を、僅か五六ヶ月で自分のものにしてしまつた。
そして彼の豊かな天分は、なほ彼独自の世界をあまた探索、開墾しつつある。彼こそはまさに出藍の天才であらう。が僕はダヴインチがラフアエルに
対して抱いた嘆をいままたくりかへしはしない。むしろよき稟才を弟に持つた兄の喜びが僕の胸をしめてゐる。
ただ彼があまりに文明人であることによつて彼の将来に多少の杞憂を抱きつつ、一世紀にごくまれにあらはれることをゆるされるであらう天才の選詩
集を世におくることに、誇りと喜びとを持つものである。
一九二四年三月十六日
日曜日の昼、田舎の家で書きをはる 佐藤一英
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