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さとう
いちえい【佐藤一英】(1899〜1979)
一戸謙三詩集 『歴年』を読む
佐藤一英
昨年の冬、「歴年」を読むことを得た喜びは、一昨年の秋、蒲原有明の「春鳥集」をほぼ昔のままの姿で読んだときの喜びにも比べることのできるものでした。
終戦後、尾張の古里にひきこもつて、まれにしか外出もしない生活をしてゐる私は、詩集の新刊ものもあまりたくさん読んでゐるわけではありませんが、目にしたかぎりでの好もしい詩集でした。この詩集を手にしたのは、師走の庭に落葉の鳴る午後でしたが、いままで読んでゐた書物をおいて、いきなりこの詩集の中に没入しました。
この詩集は、あのひかへ目で、うちにひとすぢの張りを持った短い自序にまづ引き込まれます。才能ある一青年が余儀なく田舎で生活するやうになってから二十年の間にどんな風波がこの青年を見舞ったか、その風波にどうして耐えてきたか、といふやうな小説的な興味でも、最後までいっきに読み終らせる力を、各篇の詩が持ってゐます。それはこの詩集が低俗なといふ意味にはならなくて、この詩集が、実に巧みに構成されてゐるといふことを語ってゐるに過ぎません。
ここに収められてゐる詩は、どれこれも、高度な技術と、洗練された趣味によって作られてをり、もし、このやうな構成法をとらなければ、この詩人の深い心づかひと、魂のしづかな身じろぎを聞くことなしに、頁を閉ぢることがあるかも知れないのです。
私はこの詩集を、日暮れのほのかなあかりをたよりにして読みつづけ、その晩灯のもとでやっと読みをはり、家内の寝しづまった家で、長らく、快い感動にゆられながら、この詩人の運命を考へていました。
年越しの晩、一昨年は学友横光利一の死によってうけた衝撃を、横光と対座するやうな気持ちで、鉛筆を執った、同じ燈のもと、同じあんかによりながら、除夜の鐘をきいてから、明け方までかかってまたこの「歴年」を読みぬきました。そして、実にすがすがしい気持ちになつて、人が起きはじめる頃、私は床についたのでした。こんな楽しい元旦は近年ありませんでした。
田舎にゐるといっても年のはじめの七日間は人の訪問も少しはあり、読書をみだされがちですが、その間にも「歴年」を、もう一冊の詩書──「歴年」が来たのでわきへやってあったもの──といっしょに置いて、時たまとりあげてゐるうちに、また一ペんみな読み終りました。もう一冊の詩書といふのは、田中克己君が著された「李太白」です。
これは戦争の終る前年出版されたときいたとき、読みたいと思ひながら、手にする機がありませんでした。先日ナゴヤまで出て、場末の小さな本屋でこれが塵をかぶってゐるのを見つけて、買ってきたのでした。私はこの本を年末年始に読むにはふさはしい本として一冊のノートとこれだけを机の上にのこしてゐたのです。そこへ「歴年」がとどけられたわけです。」
実は今年は何年ぶりかで、耐寒著述をやってみようと思って、意気込んでゐたのですが、寒に入る前日にからだをいためてゐることに気づき、いささか寒修業は無理に思はれましたので、思ひあきらめて、七ッの女の子と遊ぶことにしたのでした。
そんなわけで、「李太白」はまだ読み終らないでゐますが、「歴年」だけは三度目読み終りました。三十年近い知己の、会ふべくして、会ふ機会を一度も持たなかった友を、かうした一冊の書物を通して身ぢかにするよろこびは、また格別なものがあります。
この書物は不思議な魅力をもつ言葉にみたされてゐます。青年期から壮年期へかけての二十年の歳月の自伝をこんな風にまとめることは、一つの文学的な美しい偶然のやうにも思はれます。このはげしくさかんな時期を丹念にまた要領よく、しかも、そのときどきに記録しておくことは、稀有なことにちがひありません。
終戦後、多くの文人が自叙伝めいたものを書きました。しかし、誰が、この「歴年」の著者のやうに自らの像を正しく、美しく彫り刻んだものがあるでせう。
多くの文人は、すでに年経た追憶のしびれ、すりへつたものをどうすることもできず、また一冊の仮作を自らの著書に加へたのに過ぎません。
また戦後、多くの個人全集が出ました。しかし、それらの大部分はその著者の正しく、美しい人間像をとらへるのに、読者を戸まどひさせるだけのものです。
日本の北のはてで、ひとりの窓をひらいて、流れ入るはげしい風波を身にあびながら、それに溺れ倒れることのなかつた一つの魂の記録、こんなに親愛な感じにみちた、また賢明さの光をただよはせた詩書は、どんなに賞讃してもすぎるといふことはないでせう。
この書は、百頁にも足らぬ、ささやかな書物でありながら、また一つ、重大な一ことをあらはにしてゐると思ひます。
それは、韻律ある詩と、いはゆる小説との間に、散文の微妙な世界がかくされてゐることを、実にあざやかに二十年の努力によってきり開いて見せてくれたことです。
それは自由詩とか、散文詩とかよぶ概念でつなぎとめることのできない、言葉の不思議な領域です。さういふ領域をこんなに見事に示してくれた書物は、稀らしいのではないかと思ひます。
この書の読者は、この著者が、戦争をはさんだこの最近の十数年間にどんなに芸術的な詩を書いてゐるかを知りたいと思ふでせう。そして、それらの詩を読むことによって、芸術を産み出す魂といふものが、何であったかと感知して、またこの「歴年」を繰りかへして読むことでせう。
まことに感じやすく、こはれやすい魂をもってゐて、それをはげしい戦争を通してまで、護り抜き、このやうな美しい記録として世におくることは、
おどろくべき事件といつていでせう。
北のはてには確かに神秘があります。このやうな詩人を中心にして、生活してゐられるあなたがたを祝福せずにはをれません。
北には温暖な地にはみられない結晶と、秩序の美徳がのこされているだらうと信じます。その理由をのベるには、私が「大和し美し」を書いて、その後、はたと暗黒の扉に突きあたってしまった当時のことを書かねばなりません。
私は光明のない境地にゐて、ひたすら詩の源泉を求め、詩学の第一歩から踏み出す決心をしました。そして、私がどんな姿で、その源泉を掘りすすめたかは、ここでは申しあげますまい。それは「新韻律詩論」や「日本美の再建」といふ拙著にいくらかは伝へられてゐて、あなたがたもいま見られたかも知れませんが、いまそれをくわしく述べてゐるときではないやうな気がします。
それはともかく、私自ら「地獄の時」と呼んでゐる、この時期をすぎて、私は清例な詩の源泉を掘りあてることができました。これはユニバーサルなものにも通じてゐる、日本の詩の源泉でした。これを私は仮に「聯」と呼んで発表しました。
昭和十年のことで、それは小山書店から出版した「新韻律詩抄」の中に収めておいたのでした。このささやかな拙著を読んで最初に、もつとも大きな感動と共鳴とを示してくれたのは、誰あらう、この「歴年」の詩人であったのです。その後、彼と私との共同の活動については、いつか、彼から話されるときがありませう。
太平洋戦争は私どもの交際にも、やむを得ないへだたりをつくりました。私は気にかかりながらも、この詩人への便りをおこたりがちでした。
私は太平洋戦争が始った頃、明治からこちらへ、半世紀以上の日本詩の正系、それはまた過去数世紀の日本詩の源泉にさかのぼることのできる、現代詩の正系であるものを発見しました。
私はこれを仮に「くろしほぶり」と名づけて、発表しました。私は戦争中も戦後も、日本詩の源泉である「聯」とこの「くろしほぶり」で詩を書いてきました。
戦後万里閣から出版した小さな詩集「乏しき木片」には、戦中戦後の「くろしほぶり」を三十篇ばかり収めました。御地から発刊されてゐる美術雑誌「浮彫」に寄稿した一詩もやはり「くろしほぶり」で書いてゐます。四つの頭韻と二つの音数律による十二行詩です。
私はまへに「春鳥集」のことを書きました。「春鳥集」が明治三十八年に初版が出てから四十年もすぎた今日、初版と同じ姿で復刊されたことを、この上もなくよろこぶものです。
心をこめて書いた詩集も、四半世紀も過ぎれば、あとかたもなくなってしまふことが多い世の中に、これはまた何とゆかしく、美しいことでせう。
「くろしほぶり」が「春鳥集」の中にある「甕」といふ詩と深い関係があるといつたら、いまの若い詩人たちはどんな微笑を以て答へてくれるでせうか。
私とても詩のファソン(※façon方法)といふことを考へないわけではありません。ただ私が考へてあるファソンは、二百年も三百年もつづくものだといふことが、日本の多くのファソン説と違ってゐるところかも知れません。不変のボエジイと可変のファソン。ポエジイの正統なファソンは帽子やネクタイとは違つてみてもいい筈です。「春鳥集」の著者は、私どもと同じ時代に生きてゐて、今日でも美しい詩を見せてくれてゐます。
私が最初の詩集を二十五年まへに出したとき、「月に吠える」の詩人は私が北方的であると評しました。それはあたってゐたか、どうか知りません。
しかし、私は不思議と北の詩人と深いつながりをもつて、生きてきました。
「未来者」の詩人、「歴年」の詩人、現代の詩
人としてすぐれて特色のある、この二人の詩人は、私が第一の詩集を出すまへからの友人です。私はこれらの友人をもつてゐることをひそかに誇ってきたものでした。
いま「歴年」の詩人は、現代詩壇に美しい人間の自画像をあらはしました。人々は、「歴年」を読むことによって、一つの清らかな美しい生き方を学ぶでせう。
さらに、この詩人が、あの狂気の悪さわがしい戦争の時期につねに醒めてゐて、どんなに美しい珠玉をみがいてゐたかを知ることによって、この詩人の芸術精神の高さと思索の深さと詩的趣味の豊かさを知るでせう。
私はこの詩人の戦時中も変らなかつた詩的製産の珠玉集が一日も早く出版されることを期待するものです。戦後、いっさう甚だしく乱れた詩界は目をみはつて、その珠玉集をうけとるでせう。
北方には詩と魂との源泉がのこされてゐます。戦後、とりみだしてゐた詩界は、社会の混乱をそのま反映してるたといへるでせう。
いまや漸く、人々は秩序の美を求めはじめました。詩の世界は二十世紀に入ってから、広大な領土を持ちました。しかし、それは、広大ではあるが、
荒れはてた痩地でした。
さういふことに、二度の世界大戦を経て、人々はやっと気がつき始めました。ポエジイの正統はやがて光を浴びるでせう。日本の詩も一度、詩の源泉にくまなければ、この荒廃の臓野に生きるみちはないだらうと思ひます。
北方にはよい詩人がゐます。「歴年」の詩人の珠玉集は、北方のより若い詩人たちによって砦の中の泉のやうに護られてきた筈です。
いまこそ、それを日本詩の救ひとしても世に示すときであると思ひます。多くの詩人が、それによつて、今日の詩の正しい場を見つけるでせう。かうして現代詩の正系は確かに建て直されたなければなりません。
ラジオは明日あたりから、寒い季節風が吹き始めることを告げてゐます。暮から新春へかけての番くるわせの暖さも昨今、平常の冬の寒さにもどりました。
私は戦時中、御地へゆく機会が一度ありましたが、大陸へいったためにそのよい機会をにがしてしまひました。そして、戦後は、私が東京生活をはなれたので、戦前よりもいっさうとほくへだたってしまひました。
いま傾いた日ざしに、すり硝子の戸にくっきりとうつし出された庭の枯枝の影をながめながら、はるかに御地の冬を想像してゐます。
私の友人がどの地方よりも御地に多くあるといふのは奇縁です。
芸術が、行ったこともない地方、面接したこともない人までも、深い心の交りをつくってくれるといふことは、なんとありがたいことだらうといまさらのやうに思ひます。
(昭和廿四年一月十一日、愛知、本曽川ちかくの農村にゐて)
『北』(第三次)昭和二十四年五月、第三号所載
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