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2021-2022年 日録 掲示板 過去ログ

teacup掲示板のサービス終了

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2022年 7月30日(土)21時31分8秒
  teacup 掲示板のサービス終了(2002.7)に伴ひ、22年の長きに亘り利用して参りました掲示板を、過去ログに格納し、「したらば掲示板」にもbackupしました。今後どうするか未定です。

  

  

  

 
 

   

   

 

  

 

  

 teacup 掲示板、ありがとう。
  

丹羽嘉言『謝庵遺稿』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2022年 5月18日(水)22時53分56秒
  尾張の画家、丹羽嘉言:にわ-よしのぶ(1742-1786)の遺稿集『謝庵遺稿』 享和元年(1801年)序[刊] を手に入れました。
再刊本『福善斎画譜』 文化11年(1814年)序[刊]と共に、原本はすでにデジタル公開されてをります。

 わたしはどうしても小動物についての記述に目がゆきます。「蚊を憎む文を愛する説」といふ一文。 (13-14丁)

 丁酉(安永6年1777)六月 曝書の次に、清少納言の枕書(枕草子)を披き「蚊を憎む一節」に至りて、其れ言簡にして意至れるを愛づ。
 早くに豹脚有りて、眉睫の間に翺翔するは、一に其の言の如し。
 當初の清氏、後の数百歳、蚊の人と興に有ること今日の如きなるを豫め知り、而して筆を下し斯文を成せり。
 予、今、斯文を玩し、而して後、數百年前、蚊の人を擾(煩わ)すこと今日と同じく、又た今より以後、 數百千歳も、蚊の人と與に有ること一に今日の如く、而して斯文の終に亡ぜざるを知る也。
 李笠翁云ふ。「蚊の為物(物となり)や、體は極めて柔にして性は極めて勇、形は極めて微にして機は極めて詐。地を擇びて攻め、虚に乘じて以て入る。昆蟲庶類の善く兵法を用ゆる者、蚊に過ぎたるは莫し」 と。
 是の言、蚊のことを盡したるか。假し予をして蚊子に為らしめば、將に笠翁に於いて三舍を避けん(恐れ近づくまい)。
 古人の筆を弄するは、景を見ては情を生じ、場に逢ふては戲を作す。惱むべく憎むべきの蚊を以て、變じて笑ふべく愛すべきの文に做(な)し、既にして以て自ら娯しみ、又た我が後の人を娯ます。蚊子は微物と雖も、亦たともに斯文に力有るは、豈に憎む可けん哉。
 是に於て殘帙を理(おさ)め、蠹魚を撲ちて嗟嘆獨語す。蚊の既に我が臀の斑然たるに飽けるを知らずと。

丁酉六月 曝書之次 披清少納言枕書 至憎蚊一節 愛其言簡意至 早有豹脚 翺翔眉睫間 一如其言 當初清氏豫知後数百歳 有蚊與人如今日 而下筆成斯文 予今玩斯文 而後知數百年前 蚊之擾人同今日 又知自今以後數百千歳 有蚊與人 一如今日 而斯文之終不亡也 李笠翁云 蚊之為物也 體極柔而性極勇 形極微而機極詐 擇地而攻 乘虚以入 昆蟲庶類之善用兵法者 莫過于蚊 是言盡蚊矣 假使予為蚊子 將避三舍於笠翁 古人弄筆 見景生情 逢場作戲 以可惱可憎之蚊 變做可笑可愛之文 既以自娯 又娯我後人 蚊子雖微物 亦與有力于斯文者 豈可憎哉 於是理殘帙 撲蠹魚嗟嘆獨語 不知蚊既飽 我臀斑然

また『福善斎画譜』においては第四帖。碩学森銑三翁もまたかういふ瑣末事を愛されたらしく、

「動物の方に「井邦高畫」とあるのが一面加はつてゐる。その猫と鼈との題辭に、謝庵のいふところがまた面白い。

 「余素不喜畫猫與鼈偶見二物皆如讐観余余惡其状之不雅又不喜復見二物一日讀聖師録始知猫之仁鼈之義可傳賞于後世而憶吾之相惡不過一時頑擧也夫人貴乎博愛物固不可貌相猫與鼈可憐哉於是移寫舊圖以補吾畫録而不雅者竟不雅」
(『森銑三著作集 第3巻 人物篇 3』中央公論社,1973 p465-474 「丹羽謝庵」より)

 拙い訓読を添へて置きます。

「余、素と猫と鼈とを畫くを喜ばず。偶ま二物を見るに、皆な余を観ること讐(あだ)の如し。余、其の状の雅ならざるを惡み、又た復び二物を見るを喜ばず。一日、聖師録※を讀むに、始めて猫の仁、鼈の義を知る。後世に傳賞すべし。而して吾の相ひ惡むは一時の頑擧に過ぎざるを憶ふ也。夫れ人は物を博愛するより貴し。固より貌相の可ならざる、猫と鼈とは憐れむべき哉。是に於て舊圖を移寫し、以て吾が畫録を補ふ。 而れども雅ならざる者は竟に雅ならざるなり。」

※図書館の蔵書を検索してみたところ、『聖師録』といふのは、どうやら彼自身の手で和刻した唐本のやうです。

清 王言原本・藤嘉言(丹羽謝庵)著『聖師録』 天明元年7月(1781)]跋[刊]
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB11610423
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA69280076



今年の収穫書籍・雑誌より

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年12月31日(金)16時45分3秒
編集済
 
今年の収穫書籍・雑誌より一部を御報告。(刊行日順)

『勢陽風雅』雪巌道人編 (伊勢地方の漢詩アンソロジー)宝暦8年 土地の名に『〇〇風雅』と名を付ける地方詞華集の濫觴でしょうか。

『勢海珠璣』家里松嶹編(同上趣旨の後継アンソロジー)嘉永6年 扉の「無能有味?(齋)」なる庵号に編者の性格が偲ばれます。


銭田立斎(金沢)『立斎遺稿』上巻 天保12年 金沢の富商詩人。大窪詩仏を歓待する詩が数篇あり『北遊詩草』にも彼に謝する五律を載す。

 仲冬旬四日邀詩佛先生于艸堂
人事すべて縁の有らざるなし。尋常相遇ふ亦た天に関す。何ぞ図らん詩伯の千里を侵し、来りて吾曹と一筵を共にせんとは。
聊か素心を竭くして野蔌を供し、更に新醸を斟みて溪鮮を煮る。斯の如き良會の得難きを知る。 況んや復た交遊の暮年に在るをや。

『増補書状便覧』弘化2年 手を掛けて修繕した本はとにかく可愛い!
 
上田聴秋『月瀬紀 行』乾坤2冊 明治21年 昨年知った郷土ゆかりの文人

高島茂詩集『喜ばしき草木』大 正13年 信州の自然詩人。国会図書館未所蔵。

服部つや遺稿詩集『天の乳』昭和4年  岐阜県詩集で未収集だった本。今後おそらく現れないかも。

稲森宗太郎遺稿歌集『水枕』昭和5年  大切ないただきもの。

『小熊秀雄詩集』昭和10年 伏字に附箋を張って書込み補充しました。

龍木煌詩集『門』昭和10年 限定150部 椎の木社版の詩集。買へる場面に遭ったら迷はず買ひたい。

大木惇夫『冬刻詩集』昭和13年 伝記を読んで親炙するやうになった詩人の限定100部限定豪華装釘本。

北園克衛詩集『火の菫』昭和14年 限定200部 ほしくても手が出なかった永年の探索本。函欠なれど意匠は扉にも採用されてゐて満足。

圓子哲雄主宰詩誌『朔』92冊 昭和 47年~ 圓子さんの辱知を得る以前のバックナンバーを一括寄贈頂きました。

揖斐高編訳『江戸漢詩選』上下 巻 令和3年 斯界第一人者の先生よりゆくりなくも御恵投に与り感激。

冨岡一成『江戸移住のすすめ』令 和3年 盟友の新刊。病臥の間に現在も新著を執筆中の由、再起を祈りをります。

『谷崎昭男遺文』令和3年 保田與重郎・日本浪曼派の逸話満載。

小山正孝詩誌『感泣亭秋報』16号  令和3年 過去最高に充実した内容。


 



『感泣亭秋報』16号

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年12月23日(木)15時33分59秒
編集済
  『感泣亭秋報』16号

 今年も『感泣亭秋報』の寄贈に与りました。
 詩人小山正孝の顕彰を主目的に、令息の正見氏が主宰編集する年報雑誌です。
 周辺にあった抒情詩人達の研究にも開放されて早や16年。渝ることのない、むしろページ数を更新して充実度を増す誌面には驚かされるばかりです。

 このたびは小山正孝の初期拾遺詩を集めた『未刊十四行詩集(潮流社2005)』に未収録のソネットが新たに発見されたことを受け、全22篇が公開されてゐます。渡邊啓史氏による一篇一篇への詳しい解説に、この草稿が詩人の詩業全体から意味するところの考察を付して、大きな「特集Ⅰ」になってゐます。
 手帖の筆跡は内容からみても二つに分れてをり、冒頭の日付(1956.6.9)に近接して第2詩集『逃げ水(1955年)』、第3詩集『愛し合う男女(1957年)』が刊行されてゐます。
 興味深いのは、前半6篇が、遠く弘前高等学校時代の思ひ出を描いたもので、『未刊十四行詩集』の「ⅰノート(1954.12.25)」との関係を感じさせる“四季派色”の強い作品であるにも拘らず、詩集には採られず、対して濃密な愛情が描かれた残り後半の16篇から多くが、推敲を経て翌年の第3詩集『愛し合う男女』に収録されてゐることです。
 つまり草稿は単に詩集制作途中の副産物といふにとどまらず、ソネット形式には拘りつつも“四季派色” すなはち立原道造の影響からの脱却を模索してゐた詩人の、当時の方向性を読み取ることもできるのではないか。――渡邊啓史氏は「ⅰノート」の作品群と、この手帖前半の6篇とを合せて編まれただらう、刊行に至らなかった「弘前時代を回顧する青春詩集」について構想されてゐます。
 けだし卓見といふべく、大人の愛憎より若者の恋愛が描かれた詩を好む私は、かつて公表された『未刊十四行詩集』においても、故・坂口昌明先生が推された「ⅰノート」に目を瞠りましたが、そしてこの手帖でもとりわけ前半の弘前詩篇に清楚な出来栄えを認めるが故に、渡邊氏と同じく「幻の詩集」を思ひ描いてしまったことです。「抑制された語り口」で「風景を通して内面を」表現する“四季派色”の強い作品を一篇、引いてみます。

  小山正孝の新発見ソネット詩稿より

  【その2】
日の光の中を 私は坂道を しづかに
牛のやうに しづかに くだつて行つた
垣の緑のあひだを 汗を流しながら

茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

ハーデイの小説の中を私は生きてゐるのか
老人のやうに しづかに 歩いて行つた
目に涙をうかべながら 垣の緑のあひだを
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

青い空が 日の光が おどつてゐるやうだ
あの少年の日に 私がのぼつて 食べてみた
あの桜んぼはなくなつて 桜の木はなくなつて

赤い実が葉かげにゆれてゐたことも
枝にまたがつて 実を食べたことも
私は思ひ出の中 坂道を しづかに くだつて行つた


 雑誌『四季』によって育った第2世代の詩人たちが、戦後現代詩の「抒情否定」の詩流に向き合ひ変貌していった事情については、続く「特集Ⅱ:四季派の周辺」においても、鈴木正樹氏が「堀内幸枝の作品世界」のなかで明らかにしてをられます。
 戦前戦中の閉ぢた政治フレームの下、箱庭のやうな環境で醸成された抒情世界を、戦後もそのまま持ち続けることの難しさ、いな、堀内幸枝のやうな詩人にあってはもはや不可能であったことを、あからさまに指摘しないまでも、惨落に喘ぐ抒情の様子を追ひ続けた一文のやうに思ひました。
 山梨の片田舎で育った彼女ですが、戦時中は同人誌『中部文学(山梨)』の野沢一ら地元詩人たちや、『まほろば』で籍を同じくした山川弘至を始めとする日本浪曼派系の同人たちと交流を持ったといひます。親から結婚を強いられることなく、そして理解者船越章が所属する『コギト』の圏内から、所謂マドンナ詩人として詩集『村のアルバム』を戦時中に刊行してゐたら…、もしくはデビューが戦後であったにせよ最初の詩集として問うてゐたら、その後どんな道行きになったことでしょうか。
 純粋な抒情を持してゐた女性詩人には、日塔貞子のやうに夭折してしまったひとがあり、山本沖子のやうに30年詩が書けなくなってしまったひとがあり、また堀内幸枝のやうに伝統からは退いて現代詩に塗れたひとが居ったことを、戦後の抒情詩を思ふ際にはいつも想起します。
 小山正孝は、さういふ意味では彼女達と同じく戦争で身を汚すことを免れた上で、男性として詩人の出発時にすでに恋愛のうちにエロスを見据えてをり、それを手掛かりにして立原道造の影響から(ソネット形式だけをしばらく受け継ぎ)不完全変態を繰り返した後、やがて箱庭の意義も新たに抒情を韜晦する独自の制作姿勢を身につけて、現代詩詩人として立つことを得たひとであったやうにも思ひます。

 さうして恋愛とエロスとを切り分け得なかった、ロマンチック気質を同じくする生涯の親友が山崎剛太郎といふことになりましょうが、今号は3月に103歳で長逝された山崎先生と、翌4月に病に斃れた若杉美智子さんに対する哀悼をこめた特集が続いてゐます。
 正見氏は主宰者として、別に後記「感泣亭アーカイヴズ便り」のなかで心のこもった追悼文を寄せてをられますが、「特集Ⅲ、Ⅳ」といふ形で呼ぶのを憚ったことにも思ひやりを感じました。

 山崎剛太郎先生の追悼文は、佐伯誠さんの一文に感じ入りました。私も震へる筆蹟に奥様が解読を添へて送って下さった先生からのお手紙を大切にしてをります。かつて草した一文を再び 手向けます。

 そして若杉美智子さんの「雑誌「未成年」とその同人たち(再録)」は、彼女の個人誌『風の音』で18回にも亘った長期連載の一括再録ですが、兼ねがね通覧したいと思ってゐた文献でした。これが今『秋報』における、もう一つの大きな目玉となってゐます。
 立原道造、杉浦明平、猪野謙二をはじめ、寺田透、田中一三、江頭彦造、國友則房ら、一高卒東大生の文学有志による同人誌『未成年』9冊(昭和10‐12年)について、その歩みを一号ずつ、回想・書翰等の周辺資料を駆使して同人達の動向と発行当時の影響とを一緒に書き留めてゆかうとした「詳細な解題」ですが、不日誌面が復刻されることがあれば、本文43ページに上るこれら解説に、蓜島亘氏による「附記」13ページを合せて副読資料として欠かせないものとなりましょう。
 立原道造といふより、杉浦明平に長年私淑された若杉さんについては、『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を翻刻・編集された晩年の業績にはなむけする別所興一氏の文章がこの後に二本続きます。うち後者は私も寄贈を忝くした左翼系の文学同人誌『遊民』12号(2015年)掲載の再録ですが、 郷里で永年明平氏の身近にあって直接指導も受けたひとならではの、日記から看取された率直な「杉浦明平観」が述べられてゐます。
 すなはち彼の女性観においては、年甲斐もない純情さや、美女にうつつをぬかすといった「育ちの良さ」を「中途半端」と指摘し、伴侶を選択する際にその女性の背後人脈を天秤にかけ、作家信条が脅かされることのない方を妻に選んだことについて「随分エゴイスティックな結婚観」とまで呼んでゐます。
 一方、戦時体制に対しては容赦ない批判が綴られてゐるこの日記。日本浪曼派に対する憤りを死んだ親友の立原道造に向けて叩きつけ、その浪曼派の総帥保田與重郎が排したアララギ派についても、戦争讃美が満ちるやうになったと絶望し、遂には官憲の取り締まりに怯える小心翼翼たる自分自身に鋒先が向かふといった内容です。
 ここにも小山正孝同様に兵役や徴用に就くことを免れ得た男性知識人が隠し持つに至った、「何もできないけれど目をそらさず最後まで見届けてやる」との臥薪嘗胆の気概を認めることができましょう。戦後、彼が最初に出版した文集『暗い夜の記念に』の中でなされた文学者への告発は、軍部に対する憎悪をそのまま感情に任せて移しただけの悪罵にすぎませんでしたが、「生来ロマンチストであるゆえに、リアリストの限界を知り、 リアリストと身をなしたがゆえに、ロマンチストの欠陥を体験している」、ハイネのやうな心性を宿した彼の文学の出発点を考察する際には、称揚するにせよ批判するにせよ今後この日記が合せ読まれることが必須となるやうに思ひました。
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』については、かつて拙サイトでも述べてゐますが、 明平先生は晩年になっても岩波文庫の『立原道造詩集』解説のなかで、四季派詩人たちが愛した信州の地元の人たちのことを、やはり感情先行で「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と罵倒してゐて、(さういへば立原道造も渥美半島に咲き乱れる百合をユウスゲと較べてガッカリしてたのを思ひ出しました)、 大笑ひしたのですが、さういふ他愛無い私見の放言、イデオローグには到底なり得ぬ反骨の真面目について、機会があれば更に知りたく思ってをります。

 他にも気になったのは、青木由弥子氏が、独文学者で哲学者の恩師、加藤泰義氏の遺した2冊の詩集について語った一文。
 加藤泰義…? 未知の人かと思ったら、詩を書いてゐた20代、覚束ない理解で読んでゐた『ハイデガーとヘルダーリン(芸立出版1985)』や、訳書『シュペングラー:ドイツ精神の光と闇(コクターネク著:新潮社1972)』といった本が、加藤氏によるものであったと知りました。
 当時、さかんにドイツロマン派界隈の訳書を漁って、ドイツ語文脈圏の詩的感触、或ひは形而上学から香る詩的氛囲気に親しんでゐたことを思ひ出しましたが、ギリシア神話が出される条りにはヘルダーリンが想起されるものの、詩人として紡がれた優しい言葉遣ひには「特集Ⅱ:四季派の周辺」に収められた理由が首肯されました。
 哲学者として実存と向き合ひ考察をこととする人が、詩人として生を語る際には、時の詩壇・詩流などとは関係なく、純粋な抒情が斯様に啓かれ、自然に紡がれるものなのかもしれません。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。以下に目次を掲げます。有難うございました。


『感泣亭秋報』16号 2021.11.13 感泣亭アーカイヴズ刊行 244p 1,000円

詩 小山正孝「一瞬」4p

特集Ⅰ 未発表十四行詩草稿22篇
 未発表十四行詩草稿22篇 本文とノオト 小山正孝6-42p
                   内面の現実(※解題と考察) 渡邊啓史 43-77p

特集Ⅱ 四季派の周辺
 塚山勇三の詩 生涯を一つの長篇詩のように 益子昇 78-87p
 「詩集舵輪」について 小山正孝 88p
 堀内幸枝の作品世界 鈴木正樹 89-102p
 加藤泰義の「小さな詩論」 詩で生を思うということ 青木由弥子 103-110p

ある日の山崎剛太郎
 美しい集い 山崎剛太郎氏に感謝 水島靖子 111-113p
 恐るべき人とdangerous boy 宮田直哉 114-118p
 楽しみと日々 山崎剛太郎さんのプルースト 佐伯誠 119-123p
 残照を仰ぐ 山崎剛太郎氏の片鱗にふれて 北岡淳子 124-126p
 アラカルト(a la carte)「薔薇物語から薔薇の晩鐘まで」観劇記 善元幸夫  127-131p

若杉美智子の机
 雑誌「未成年」とその同人たち(再録) 若杉美智子 132-179p
 付記 若杉美智子「雑誌「未成年」とその同人たち」によせて 蓜島亘 180-192p
 若杉美智子さんの杉浦明平研究をめぐって 別所興一 193-196p
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を読む 別所興一 197-204p

回想の畠中哲夫 三好達治と萩原葉子さん。そして父のこと2 畠中晶子 205-206p

世にも不思議な本当の話 高畠弥生 207-211p

うらみ葛の葉 または葉裏の白く翻る時 渡邊啓史 212-222p

詩 中原むいは/里中智沙/柯撰以 223-227p

私の好きな小山正孝
 若き日の愛の記憶――『雪つぶて』を読む 服部剛 228-230p

濁点、ルビ、さまざまのこと 渡邊俊夫 231-234p

信濃追分便り(終) 布川鴇 235p
常子抄 絲りつ 236-237p
鑑賞旅行覚書6 オルガン 武田ミモザ 238p
《十三月感集》 3他生の欠片 柯撰以 239-240p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 241-244p

 

田村書店 奥平晃一さん追悼

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年12月12日(日)21時34分37秒
編集済
 
 神田神保町の古書店、田村書店の奥平晃一さんが2021年11月26日に亡くなられました。80才だった由。古本先輩からの一報で知って驚きを隠せません。文学界隈の様々な人たちから、 今後自身の思ひ出を交へた追悼コメントが次々にあがるのでありましょう。

 かくいふ私も初めてお店を覗いたのが大学を卒業して上京した昭和の終りだから、思ひ出はかれこれ40年近く前までさかのぼります・・・。

                  ★

 インターネットなんぞ無かったその昔、戦前に刊行された詩集を求めるためには、さうしてそもそも世の中にどんな詩集が出回ってゐるのか知るためには、古本屋が発行してゐる販売目録といふものがありはしましたが、それがいったいどんな詩集なのかはその本屋まで直接足を運ばなければ見ることができませんでした。図書館では読むことが出来ない本の話です。店が遠ければ、そして売れてしまへばそれも叶はないし、もとより買へもしない高価な本は、只みせてほしいと言ったところで「うちは図書館じゃないよ」と断られて当たり前の話でした。

 だから上京して貧乏暮らしをしてゐた“陰キャ”詩人の若者にとって、目録販売をせず、背取りを事とする同業者を立入禁止にしてゐた田村書店は、足を運びさへすれば、有名無名に限らぬ戦前詩人の詩集の現物と出会ふことができる唯一の場所だったのです。
 
 古書目録が知見に役立つと書きましたが、田村書店は過去にただ一度だけ詩集の販売カタログ『近代詩書在庫目録』(1986刊行)を出してゐます。明治期からの近代詩集489冊を書影と共に総覧した古書目録は、伝説のコレクターと呼ばれた小寺謙吉氏が編集した『現代日本詩書綜覧』(1971刊行)といふ詩集図鑑とならんで、そのころ戦前期に刊行された詩集の書影・書誌を知るためのマストアイテムでした。

 ことにも古書目録には身もふたもなく「価格」が明示されてゐます。そこに込められたシビアな価値判断──すなわち「内容」と「装釘」と「ネームバリュー」と「珍しさ」との四者を勘案して示された評価は、こと田村書店のこの古書目録に関して言ふならば、コレクターおよび古書店の間で永らく稀覯本詩集を収集する際の、指標として機能してゐたやうに思ひます(のちに2010年、扶桑書房が同分量の同種目録をカラーで刊行)。

 今ながめると業界の相場も移り変はり、また「内容」については店舗独自の見識が反映されてゐるので、ジャンル単位で補正は必要かもしれません。バブル景気もはじけましたが、新たな富裕層出現により、そのころ台頭した次世代専門店によって吊り上がった稀覯詩集の古書価格は、現在も変化がないやうです。

 ただ田村書店がすごいのは、店売りでは公刊されたこの自店目録とは異なる値付けがされてゐたことで、客の足元を見て無闇に高額にしたがる専門店を牽制するやうな、極力抑へられた値付けが当時からされてゐたことだったと思ひます。扶桑書房が現れるまで掘り出し物はここでしか見つからなかったし、抒情詩はともかく日本浪曼派など全く相手にしなかった奥平さんの値付けは、同じ界隈にある体制寄りの文学者を尊重する古書店の本棚をため息を以て眺め過ぎてゐた私をしばしば狂喜させたものでした。

 それだけに在庫の回転は恐ろしく早く、店外に二足三文で並べられる筋の良い研究書・翻訳本の類ひはもとより、新しく入荷した稀覯詩集も古本屋としてはあり得ないスピードでどんどん売れてゆきます。一冊でも多く詩集と出会ふことを目的とする私のやうなコレクターにとって、覗くたびにワクワクする期待を味はへる本棚はここにしかなく、同時に、見逃したら二度と出会ふことのない一期一会の悔しさを何度となく舐めさせられた「鉄火場」でありました。一巡りして帰ってきたら売れてゐたのは度々のこと、「やっぱり買はう!」と靖国通りを横断してバイクに轢かれた苦い経験は古本仲間の間で笑ひ種になりました。

 新たな本との出会ひが尽きないのは在庫の厚さゆゑですが、「売った本を再び買ひ入れる際には必ず六割を保証する」との奥平さんの公言は、ただいま払底してるからといって阿漕な値付けをする本屋とは異なり、(後年、業界全体が暴落に見舞はれるまで)値付けに対する絶対の自信と信用との証しでした。

 しかしながら私が田村書店を近代文学の初版本を扱ふ最も真摯な店として慕った理由は、実は値段よりその対面販売の姿勢にあります。左様、ここを訪れたことのあるみなさんが一度は被ったと仰言る「洗礼」。すなはち「本を大切にしない人間や、本で稼いでゐる同業者はもとより、研究者にありがちの、たかが本屋風情と見下したビジネスライクの態度をとる客にも、うちの本は売りたくない」といふ、露骨なほどハッキリした奥平さんの古本屋哲学です。

 実際、帳場の後ろの壁一面に敷き詰められた稀覯本に、断りもなくうっかり手を出さうとして叱責された「著者」があったといふのは、通ひ始めた当時すでに広がってゐた伝説でした。しかし商売以前のモットーだったこの姿勢は、私には、在庫に胡坐をかいた横柄な態度ではなく、「本を大切にする読者・研究者に、実際に本を手に取ってもらった上で買ってもらひたい」といふ良心の表れとして映ってゐました。

 東京都心の古書の街、神田神保町で店を経営しながら、古書に対してだけでなくその嫁ぎ先にも慈愛を注ぐためには、斯様に堅固な武装が必要だったかと思はれてなりません。嫌な思ひをして去った人がある一方で、たとい上客でなくとも、私のやうな執念深い探索者には魅力ある古書世界への階梯が開かれたのだと云へるのです。

 ここからは昔話です。

 初めてやってきた人は店に入るなり、名物の番頭さんがグラシン紙の掛かった本の背をトントン叩き回るのをみて、先づ異様な殺気が漂ふのを察知する訳ですね。察知しない人が洗礼をうけます。細長い店内の一番奥、本が山積みにされた司令塔のやうな帳場から、来店する一見の客に向けて鋭い視線を送ってゐた奥平さんは当時40代。その一番恐ろしげだった頃に、田舎からポッと出て来た若者の私がやらかしたのは、

「この本まけてもらへませんか。」

と、ぶっきらぼうに本を差し出したことでした。帳場越しにジロリとにらまれて返された言葉はただ一言、「あんた、関西の人か」。これがキツかった。私の場合は怖い思ひ出ではなく、二の句を継げず、 ただ恥ぢ入ってしまったことでした。

 後の祭りですが、これ以後はもうもう畏れて話しかけることもできず、しかしその後も私は5時に仕事が引けると国電を乗り継ぎ、お茶の水から坂を駆け下りて店に駆け込む毎日。店内を縦に仕切った本棚の、詩集を固めて置いてある狭い通路にしゃがみ込み(分かる人は解かる。あそこに坐るのか)、新しく入った詩集を手許に抜いて買はうか買はまいか、閉店する6時半までの短い時間、巻頭から一篇づつ詩を読んでは見返しに貼られた値札をにらみつける日々を送りました。

 古書との出会ひは正に一期一会の真剣勝負。とにかくその場で決めなくてはなりません。何度となく番頭さんに邪魔にされ、腋の下に汗をかきかき黙々と未知の詩人たちと対峙する実地を経験することで、少しは私の審美眼も養はれたでしょうか。

 顔を覚えられて向ふから話しかけられるまで、決してこちらから話しかけはしなかったのは、恐ろしかったのもありますが、ひどく恥をかいた思ひをしたあと、一寸した意地も芽生えたからでした。当時の私は、自分には縁のなささうな寿司屋で黙ってサービスランチを食べてはさっさと帰ってゆく卑屈な流儀を心得てゐましたが、この田村書店でも通したわけです(笑)。

 毎日毎日同じ時間にやって来ては同じ棚の本を見回って安い本ばかり漁ってさっさと帰ってゆく身なりの貧しいふしぎな青年に、奥平さんが会計時に声をかけてくれるまで、どれくらゐ時間が経ったのかは覚えてません。ですが、丁度そのころ田中克己先生のもとに出入りするやうになったので、よほど嬉しかったのでしょう、そのことを伝へると、田中克己が戦争中に『神軍』といふ詩集を出してゐる癇癪持ちで有名な老詩人であるとことを知ってゐる奥平さんは、なんとも奇特な若者だと言う顔をされました。そしてある日の夕方、私を呼び止めて帳場の下から差し出されたのは、なかなか見つからなかった田中先生の最初の詩集『詩集西康省』でした。題簽が剥がれてるからね、と破格値で売って下さった喜びは忘れられません。(こんな時にはいつもそばに奥様が立って一緒に微笑んでをられました。)

 押し戴いて帰った私は、早速「子持ち枠」の題箋紙を作って先生の許に走り、タイトルを手書きして頂いて、世に唯一冊の『詩集西康省』を持ち得る幸せをかみしめたのは言ふまでもありません。

 本の背をトントンやる番頭さんに「函の無いのがもっと安く出るよ」と言はれたのに待ちきれず、上京して初めてもらったボーナスを全額握りしめてショーケースの『黒衣聖母』を出して下さいと申し出た夕べのこと(少し経って半額以下で出ました。親不孝者でした)。仕入れたばかりの『生キタ詩人叢書(ボン書店)』4冊が帳場に広げられ、ひと声「6万円」と言はれて買へなかった夕べのこと。記憶に残ってゐるのは、情けない事も多いですが、いまはすべてが懐かしく思ひ出されます。
 
                  ★

 昔はそのやうに毎週、判で押したやうに通ひ続けてお世話になった古本屋さんでした。前述したやうに店売りしかしないため、帰郷してからは上京するごとに挨拶かたがたお店を覗くやうな感じになり、 却って近況報告とともに短いお話もできるやうになりました。(一緒に写って頂いた唯一の写真は2003年のものです。)

 在京中にはどうしても手が出ず「如何なる状態の本でもよいので」とお願ひしたのが入荷したとお知らせ頂き、 とにかくいくらでも買ふつもりでおそるおそる電話して金額を聞き、飛び上がって喜び送ってもらった『春と修羅』が、最初で最後の大きな買ひ物。

 そして最後に挨拶に伺ったのが前回の上京時でもう6年前のことになります。

 自分の詩集を呈して帰らうとしたら、帳場にたむろするお得意とランチに行くとて一緒に連れ出され、初めて御馳走になりました。奥平さんから尋ねられるままに私が話す内輪の昔話を聞くうち、見知らぬその新しいお得意さんが、今は疎遠となったかつての常連のお歴々のことを、所謂ライバル視を以て邪揄ったので、そんなことはないですよ、それに後悔されてるみたいですよ云々と抗弁したのですが、奥平さんはそれを横で黙って聞き入りながら、いかにも懐かしさうな顔をされたのが忘れられない思ひ出となってしまった。辞去する際には「君、もういつまでもやってられないよ。」と応へられた笑顔が、当時すでに闘病中の御返事だったことを、このたび最初に訃音が報じられたブログを読んで知りました。

 インターネットをされない奥平さんには、折々私のサイトを印刷して報告してくださる奇特な方があったやうですが(この場を借りて名前をお聞きしなかった方に厚く御礼申し上げます)、先月アップした、詩集との関はりを振り返った記事は読んで下さっただら うか。古本を安く売ってもらったばかりの、一方的な関係しか無かったものの、私の詩生活・古本人生にとってかけがへのない本屋であり、慕はしいと呼び得る唯一の店主でした。

 これまで蒙った古書恩誼の数々とともに、茲に謹んでご冥福をお祈りいたします。  (2021.12.12)



棟方志功記念館

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年11月19日(金)21時11分49秒
編集済
    東京の自宅改築を機に拠点を一時富山県南砺市福光に移された石井頼子氏(棟方志功令孫)を、コロナ禍が収まりをみせた一日、車を飛ばして岐阜から一路北上。御挨拶にお訪ねしました。

 南砺市福光は志功の疎開先といふのみならず、“世界のムナカタ”に雄飛する直前の七年間、謂はば“蛹の時期”を過ごした土地です。故郷青森でなく血縁のない富山に家族で引き移り、戦争が終はっても東京に帰らなかったのは、ひとへに画伯の藝術に心酔し、その人となりを慕った地元支援者の高誼ゆゑといっていいでしょう。
 市では棟方志功本人のみならず、支援を惜しまなかった草莽の支持者との交流をふくめ、紹介と顕彰とに努めている様子が、小さいながらも誇り高い越中の町らしく、他所の棟方記念館との違ひとなって現れてゐるやうに感じられました。

 頼子氏は、祖父が世話になった頃と人情そのままの福光から、呼ばれるままに、旧家跡に建つ記念館の隣家に引越して、近くの青少年センターの一画でお手伝ひ二人とともに、自宅に遺された150箱もの資料を東京から運び込み、その整理を、すなはちパソコンによるデータベース化に取り組んでをられました。
 突然の推参にも拘らず懇切な対応にあづかり恐縮のいたり、御多忙中の作業を中断させて長々と話し込んでは反省もしきり。せっかく用意された御自身の弁当をよそにして近くの食堂に伴はれ、おでんを食べながら更に続けられたお話の数々は、予期せぬ発見に満ち楽しい記憶しか残ってをりません。

 予期せぬ発見――実は詩人一戸謙三(一戸玲太郎)の詩歴に関する原稿を書きあぐんでゐた先月、令孫の晃氏から資料(個人誌『玲』のバックナンバー)を送られ、そこに「イヴァン・ゴルに倣って」といふ昭和3年の詩が抄されてをり、イメージチェンジを模索してゐた当時の作品を発見した(!)と喜んでゐたのですが、この日、頼子氏がいみじくもその戦前青森の稀覯同人誌『星座図』の現物を、それも件(くだん)のその一冊のみを、

「先日もこんな薄っぺらい雑誌が箱の中から見つかって、びっくりしたんですよ。」

と、ロッカーから出してこられた時には息を呑み、何かのお導きかと思ひました。
 棟方志功にとっても資料の乏しいこの頃の挿画イラストについて、こちらからも折に触れ照会・連絡さしあげると約してセンターを後にしたのでした。

 そののち見学した、移築保存されてゐる旧居(鯉雨画斎)では、トイレや押入れいっぱいに描かれた絵に驚き、枕屏風に寄書された著名人の間に牧野徑太郎(山川弘至の盟友詩人)の名を見つけて喜び、さらに光徳寺に立ち寄り 南砺市立福光美術館の作 品群を拝観して帰還しました。
 毎年すばらしいカレンダーをお送り頂いてゐる御礼だけでもと、残り少なくなった晩秋の晴れ間を見計らひ、ドライブがてらに思ひ立った北陸訪問でしたが、まことに思ひ出深い一日となりました。

 段ボール150箱のデータベース化を、講演ほか各種活動をこなしながら再来年2023年4月までにまとめたいとのことでした。お手伝ひと三人で着々とお仕事を進められてゐる現場を覗くことができたのも貴重でしたが、(資料庫、および御一緒に撮って頂いた写真をアップします)、すでに身近な「よりこ様」として、私にも現在翻刻中の「田中克己日記」につき逐次思ひ出を伺ってゐる先師御長女の諏訪依子さんがみえ、ここにもうおひと方「よりこ様」の知遇を得て大変不思議な、有り難い気持ちにもなったことです。

 重ねてお礼を申し上げますと共に、ご健勝ご活躍をお祈り申し上げます。ありがたうございました。



 

 

 

 

 

 


『菱』212号 特集 辻晉堂と詩歌

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年11月12日(金)08時49分5秒
編集済
  2021 年11月07日の「日本海新聞」朝刊に紹介文を書きました。

 社会とおなじく、特に地方では、新陳代謝のなくなった同人誌メディアが軒並み高齢化問題に直面しているときく。鳥取の老鋪詩誌『菱』も歴史が長く、これまで幾多の同人を追悼号で送ってきた。しかし一方で、ベテラン詩人でなくては遺せぬ資料価値豊富な詩史的文章に出会えるのはありがたい。現在編集を司る手皮小四郎(てび こしろう)には、幻のモダニズム詩人といわれた荘原照子の評伝の長きにわたる連載があり、単行本化が待たれている。今回212号「特集 辻晉堂と詩歌」にも鳥取出身の彫刻家、辻晉堂(つじしんどう1910-1981)に関する発見と称してよい報告があり注目した。

 抽象的な“陶彫”で有名な晉堂だが、力強い写実的彫刻が美術界で注目されたのは昭和8年。上京した彼が住んでいた、芸術家のたむろする界隈は当時「池袋モンパルナス」と呼ばれたが、そう名付けた詩人小熊秀雄との「相互不理解の上の奇妙な友情」(?)を、元県博物館学芸員の三谷巍(たかし)がまず紹介。ついで、モダニズムの後を受け、その地から独創的な定型詩の発信をはじめた佐藤一英のもとで、晉堂が詩人としても活動していたことを手皮が紹介している。

 小熊秀雄とは馬が合わなかったようだが、同じく我の強い同郷の僧侶小川昇堂とは好かったらしい。文学好きな二人はともに一英が昭和13年に創刊した『聯』という詩誌に参加して、しばらく「四行頭韻詩」という「聯詩」の腕を競っている。本名汎吉(ひろきち)から晉堂に改名したのは、歌人画家早川幾忠の弟子だった昇堂の許で得度したからでは、と推測する手皮だが、晉堂・昇堂ふたりの妻が浜坂出身の姉妹であることまで突き止めている。そうした発見が、一年前に追悼号で送ったばかりの同人西崎昌の岳父だった北村盛義、彼と晉堂とが親友だったことに発しているというのもまた長命詩誌ゆえの縁しというべきか。

 詩作品では足立悦男「正念場」の、「写実とは見たままではなく思ったままを描くことだ」「絶筆の薔薇に花の形はなかった 老画家に見えてゐたのは薔薇の命そのものであった」という、これも詩人画家だった中川一政の逸話を引いた一篇に心打たれた。(中嶋康博・詩文学サイト管理人)


 写真は辻晉堂による佐藤一英像(遺族蔵)。
 

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『谷崎昭男遺文』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年10月26日(火)09時14分47秒
  本 日が発行日の『谷崎昭男遺文』(私家版,非売本)の寄贈に与りました。
ご出版のお慶びを申し上げます。紹介文はこちら
 


 


圓子哲雄氏の思ひ出

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 9月19日(日)23時10分12秒
編集済
    圓子哲雄様とはもう30年近く前のことになりますが、私が詩を書いて居た1992年の時分、杉山平一先生からの紹介ということで、圓子様主宰の詩誌『朔』の最新号(120号)を送って下さったのが御縁の始まりです。それを機に、田中克己先生の日記の翻刻を4回ばかり誌上で紹介させてもらひ、しばらくして再び同人に勧誘下さいました。

 まことに申し訳ないことながら有難いお誘ひを断ってしまったのですが(当時のことについては『詩と詩想』10月号に寄稿した拙文を参照下さい)、1998年以後、『朔』の寄贈に与り、お送り頂くたび毎に、いつも便箋一枚いっぱいに認められた近況をはるばる八戸からお聞かせ頂いては、岐阜からも返信を長々と書き送るといふ手紙の上でのやりとりを、思へば2015年の夏、『朔』が179号を以て休刊するまでの間ずっと続けてきたことになります。

  1971年の創刊このかた、『朔』は同人の作品発表の場のみならず、青森県が生んだ抒情詩人や、圓子様の詩情の拠り所にして自身のデビューを果たした『四季』にまつはる先達詩人の顕彰が(特輯号もしくは追悼号として)幾度となく組まれて来ました。

 寄稿者として、圓子様と同郷で隠棲中だった先輩詩人、村次郎の人脈を活かし、彼がかつて同人だった詩誌『山の樹』(『四季』第2世代の衛星誌)の盟友達から惜しまぬ協力をとりつけることに成功し、単なる同人誌の域を越え、近代詩の研究者にもその名を知らしめるに至りました。

 私は特輯された詩人のうち、とりわけ感銘した一戸謙三──郷里に籠って新詩型を模索し続けた抒情詩人(1899-1979)について深く興味を寄せるやうになり、やがてその詩集をネット上で紹介しようと思ったことから、令孫晃氏の知遇を得ましたが、思へば圓子様との文通に発するものでした。

 圓子様をめぐって最も思ひ出深いのは、私が田中克己に師事したのと同じく、圓子様が心酔されたその先輩詩人、村次郎について、手厚い追悼号を編集し(1998年137号)、以後「村次郎先生の思い出」を連載するとともに、長年にわたる聞き書きを『村次郎先生のお話』といふ2
巻本にまとめられたことです(文学篇1999年、言語論・地名論・伝承芸能・植物相論2000年)。

 編集にあたっては恐らく自分の詩集より心を砕かれたことと思ひますが、戦後、家業を継ぐため帰郷し、 潔く作品の発表を絶ってしまった詩人が、心安い地元の後輩詩人を話し相手に、本にされることなど予定せず、折々に語った詩人論・文学論が「聞き書き」の形をとってそのまま活字にされてゐます。

 所謂“炉辺の放談”であり、かつての朋友が次々に有名となっていった後も、皆から一目置かれ声を掛け続けられた存在だっただけに、ことさら身動きがとれなくなっていったのではないか──私が想像するさうした臆測を含め、編集後記を書いて詳しく事情を説明する責任が直弟子の圓子様にはあったとも思ふのですが、錚々たる文学者を一言で片づける態の「人物月旦」など(当たってる・当たってないかは別にしてとても面白いのですが※)、タイトルに「村次郎“先生”」とクレジットされた事と相俟って、誤解や反感を招くことはなかったかと、傍目ながら危惧したことです。

 当時のお手紙には、

「(前略)年金生活者となってヤレヤレ、ホッとして、と思っていましたのに、今回の2冊の本を出したことによって、新しい本性を出した人間たちから矛を見せて取り囲まれました、が、今は何も怖くない。(後略)」2000年11月11日付書翰より

 と認められてゐて、私は『朔』誌上に刊行を慶ぶ寄稿や書評が皆無で、雑誌の主宰者としてもさぞかし孤立感を深めてゐるだらうことを嘆き、一見平穏な編輯の仕上がりに、同人雑誌の存在意義を質したくなるやうな、もやもやした気持を抱いたことでした。

 そして圓子様の斯様な尽力と姿勢こそが「聞き書き」といふ形式の読物を価値付けてゐることを返信に託し、その当時に連載されてゐた「村次郎先生の思い出」も、むしろ圓子様の自叙伝としてまとめ直したら、 きっと素晴らしい本になるだらうことを力説したのですが、エピソード満載の回想録はたうとう纏められることはありませんでした。

 2018年の夏、青森県近代文学館にて催された「一戸謙三展」に関り、青森まで公園に出向くことが決まった際、この機を逃しては、と数回お手紙を差し上げて御都合を伺ったのですが、代筆による御返事も頂けず、状況がつかめぬため電話も躊躇はれました。

 見舞訪問ならば控えた方が良いと一戸晃さんよりお聞きして断念、講演翌日の日程を弘前に変更して、一戸謙三の墓参を遂げて帰還しましたが、30年来、手紙を通じてでありましたが、師事する先生の顕彰についてお互ひを励まし合ってきたものの、終に謦咳に接する機会を持たぬまま永別となったことを悔いてをります。


圓子哲雄(1930.11.20 - 2021.8.24)


 受胎告知 Ⅰ

秋の山は急に深く色づいて
お前の瞳が不思議と明るくなって
振り返りながら僕に囁いた
一つの新しい木の実の話を

愛することを
生きることを
夢のように語りながら
お前は光り輝く瞳となって
不思識な啓示に打たれている僕を
やさしく包みはじめる

              『受胎告知』1973 より



 高飛込み

僕は僕から脱れようと
空高く羽博いていった
執拗に纏りついていた影は
あんなにも高く遠く
束の間の恍惚
影は急速な重力の前に項垂れ
水の中に起きた飛沫(さざなみ)は一瞬僕を消していた
プールの底にくっきりと映る影
僕は僕であるよりなかった

              『受胎告知』1973 より



 晩秋

庭を眺めていた父の影
今日も父の友達が死んだのだそうだ
一人二人 といなくなって
秋の陽はあまりに早く弱まって
枯木の陰に立つ父を影は忘れていた

              『父の庭』1981 より


※ちなみに田中先生については、

「若い頃の作品は好い。晩年「四季」を再刊すると、二号まで出して挫折した
(※11号までですよ)。誰も有力な人がついて行かなかったからだろう。中野清見の親しい友人だが、時々変な電話が来ると言っていた。」

 と一言(笑)。


稲森宗太郎『水枕』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 9月11日(土)21時27分18秒
  「稀覯本の世界」管理人 様より、三重県名張の夭折歌人、稲森宗太郎(1901年 - 1930年)の遺稿集『水枕』(昭和5年)を 頂きました。

和歌にとんと疎い私ですが、季節ごとに目に触れる身近な自然に対する抒情は理解できます。
といふよりそれこそ我が本領とするところ。殊にも草花や虫たちに対する写生にたいへん感じ入りました。
気に入ったところを引き写してみます。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。



牡丹雪ことに大きなるひとひらはしばらく消えず葉蘭の上に 11

 伯耆三朝温泉にて
暁のいでゆの中に人あらずうすれし灯かげうつりてゐるかも 14

暁の湯浴みををへて春寒し人の起きねば独り坐りをり 14

柳の葉ちりこぼるなり庭檜葉の蜘蛛のいとにもひつかかりつつ 21

焼けくゆる秋刀魚の匂ひ、この夕の厨ゆすなり、さんま、さんま、嗅ぎつつもなつかしきかな、わだつみの潮のいろの、秋さるとむれ来し魚ぞ、油ぎる鱗の色の、さやかにも今は秋かも、くらひなむ秋刀魚。 23

八つ手の花咲ける門べに、豆腐買ふと立てるわが妹、藍さむき瀬戸の鉢にし、銅銭を添へていだしぬ、わが見てをれば。 24

けふの日の思はぬ入日わが部屋の電球の面にひそかにうつれる 27

たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 27

 新年をこもりをりて
元日のけふの大空、ほがらかに晴れわたりたり、がらす戸よ眺めてあるに、風船玉あかきが一つ、屋根の上にふとも浮き出づ、子が手よりのがれしならむ、ありなしの風にゆれつつ、庭松の梢をぬきて、向ひ家のあんてなをこえ、いや高く上りゆくかも、青き空の中。 37

 わが弟東京見物にと来りしを、我れたまたま心たのしまぬことありておのづから疎うす。一日伴ひて上野の動物園に遊ぶ。
春さむき水のほとりを、静かにも歩みゐる鶴、清らなりや二羽の丹頂、むかひゐるに憂へは忘れ、ひとりしも遊べる我に、のまずやと莨すすめぬ、うら若き弟。 44

畳にしおきてながむる鉢の罌粟かそかにゆるる人のあゆむに 51

さみどりの鸚鵡のぬけ毛ほのかにも畳にうごく土用のまひるを 59

曇りつつむし暑きかも昼まけてみんみん蝉の遠く聞ゆる 59

こがね虫かさなりてをり朝露のおどろが中の赤ままの葉に 63

落葉せし楢の鞘を逃ぐる小雀(こがら)追ひかくる鵙と杉にかくれぬ 68

落葉をいつぱい詰めし炭俵を人かつぎゆく落葉こぼしつつ 70

 秋の末に
鉢のままに庭にころがれる、一本の鶏頭、うちたたへし紅の色の、寂び寂びて目に沁むまでに深き秋かも。  71

 病弱なる人をその郷里におきて、ひとり東京に住みつつ、
夜ふけて帰りし部屋に、寒やとて炭火おこせば、たきつけの紙の白灰、外套のままなる我に、まひてはかかる。 78

読みさしし机の本にさせる月ひとの坐りて読みゐる如し 88
塩せんべいかむにはりはり音のしてかたへさびしき夕ベにもあるか 88

 春来る
出で来たり夕空見れば金星の光なまめく紫おびて 92

 盲学校の門前を過ぐるに、盲目の童ら、校庭にボールを投げて遊ぶ
盲学校校庭に咲く八重桜子ら遊びをり深き明るみに 97

フットボール空に投げたり下の子らうつむきて待つ地に落つる音を 97

ぎんやんま翅光らして、椎の木の若葉にとまれば、松葉杖つける少年、もち竿を腋にはさみて、木のもとにしのび寄るなり、杖ひきつつも。 105

まかがやく空をかぎれる棟瓦蜂一つとべり触れつ離れつ 106

松葉牡丹咲きて照りたる砂の上に赤蟻の道切れてはつづく 107

 ある時
自由をたたへたりし我れ諦めを尊しとせむこも亦誠なり 120

今の世の苦しき知らに肥えて笑ふ人に好かれじわが痩せ歌は 125

せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩せ歌は 125

 龍を詠ず
青雲の垂り光りたる海の上ひろらに遊ぶ雄龍と雌龍 135

 凧を聞く
戸をゆする風にきこゆる、凧のうなりよ。かきこもる我の心に、ひそみたるもののあるらし、空に誘はる。  137

濁りたるみどり堪へし川の面投げおとす雪をあやしく呑みぬ 142

 車中にて
ほの明くる山の麓の一つ藁家人はめざめず白木蓮の花 147

道の上のわが影法師ほのかにも帽子かむれりこの春の夜を 149

 井の頭公園にて
井の頭の池のおたまじやくし、かぐろくもむれて游げり。まろらなる頭そろへて、一群のより来と見るに、 へろへろと尾をうち振りて、遠くしも迷ひ行く一つ、水ふかく沈み行きては、はろばろと浮き来る一つ、同じことくりかへしては、思ふことあらず遊ぶに、俄にもものうき心我をおそひ来ぬ。 151

 郊外に移れる夜
煙草すひて起きゐる我にころころと蛙きこえきて夜の静かなり 154

静かにも蛙の声のきこえ来るこの部屋に我はふみよみぬべし 154

わが部屋に我のこもれば隣室に我が妻もまた昼寝してをり 157

一本の庭の青草そよげる見れば、生涯をなるにまかせて、まどはじ我は。 162

雑草にまじるどくだみきはやかにま白き花を空にむけたり 166

古へ人この素朴さを愛しけむ青葉に咲ける白き卯の花 167

花びらの俄に散りし机の上けし坊主一つこちら見てをり 168

庭潦に落ちきたる雨ぼんやりとのぞける我を瞬かしめぬ 170

庭潦渚に出でし一つ蟻道をかへてはまた歩みゆく 176

星空のすそに伸びたる夏草のかぐろく動く星をかすめて 178

 土用の頃
雑草を出し蜆蝶光重きかみなり雲にやがてまぎれぬ 179

唐紙にとまれる馬追なきさしてあとをつづけず明るき部室に 185

灯をけして眠らむとすればさよ更けを蚊帳のべに来て鳴くも馬追 185

秋づきしま青き空にみんみん蝉鳴きすましたる声のよろしさ 186

野司(のづかさ)のいただきに立つ女の子きり髪みだし風に吹かるる 188

足のべにいなごとぶなりけふの日を妻と出で来て歩める野べに 200

土の上に吹き落されてまろき目を闇にひらきてありし芋虫 207

秋深き風のすさめる暁に盗汗をかきてわがめざめたり 208

暁の落葉ふまく風の音盗汗つめたく我はききをり 208

床の上に目ひらきて暁昏の空にすさめる風を思ひぬ 209

起き上りふらふらとゆく親犬に身ぶるひをして仔犬つきゆく 210

垣くぐり出でむとしては白き犬白ききんたまをあらはに見せぬ 211

肌ぬげるわが胸の上に聴診器しづかにうごき遊べる如し 212

聴診器胸にうけつつカーテンのひだにたまれる灯かげを見てをり 213

庭のべに身ぶるひをする犬の音ねつかれぬ我が床にきこゆる 223

木枯の吹ききわぐ中に雀十羽うちみだれては土よりまひ立つ 224

おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ 227

 新しき机を買ひて
電燈の照りほのかなるわが机ひとり見つつも手に撫でにけり 249

することなくわがむかひゐる机の上蛾の一つ来て灯かげをみだす 250

尿せるわが鼻の先にぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ 251

原稿紙めくりてゆけばここにしも刻み煙草のこなのちらばる 264

秋の雨ふれる柿の木幹の叉にかたつむり這へり首さしのべて 266

庭のべのやせたる菊の清らにも白き蕾を我に向けたり 269

ひと茎を伸びたる紫苑わが庭の秋のふかきにとぼしらにに咲く 271

外套をまろらに着たる十人の女学生の来る道いっぱいに 277

 8月31日、小沼逹死す、その家にて
苦しみて死ににきといふか庭の草青さに照るは今日の日影なり 279

雪つぶて胸にあてられし一人の子投ぐる忘れてよろこびをどる 291

 暖き日、都筑に見舞はる
落椿もちたる友の、物言へぬわが枕べに、言葉なくいぢりてはゐる、くれなゐの花を。 295

 初めてせる水枕を喜びて、十一日によめるもの(編者)
水枕うれしくもあるか耳の下に氷のかけら音たてて游ぐ 297

ゆたかなる水枕にし埋めをればわれの頭は冷たくすみぬ 297

枕べに白き小虫のまひ入りぬ外の面は春の夕べなるべし 300


八仙齋亀遊

  投稿者:中嶋康博  投稿 日:2021年 8月19日(木)18時06分20秒
   いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様よ り、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
 御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
 短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
 ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。 「金華まちづくり協議会公式HP」: https://gokinjyoai.org/group/kyouha
i/1692/
 また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p

 そして『濃飛文化 史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
 これらを合はせると以下のやうになります。

【八仙齋亀遊】

 岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
 性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
 作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
 明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
 門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
 以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。

 短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、

「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」

との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。


 さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
 確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
 裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
 まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。

 またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
 山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
 ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日  花屋善平建之」とあるのです。
 乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
 しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
 亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
 そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。


 そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
 狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。

[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」

 無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
 林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きました が、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。





『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 4月12日(月)19時14分5秒
編集済
    旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。

 執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。

 戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
 すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
 その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の

「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地


を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
 しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを

「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」

といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。

 立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。

 そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。

 何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認め
ない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
 また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。

 荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、 それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。

 ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また

「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘っ
た るくて単純なものが多い」

と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。



 本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。

 日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
 繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
 特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。


 ここにても厚く御礼を申し上げます。


『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか

21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社)  \1300+税



青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925


岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 4月 5日(月)20時26分59秒
  【書 評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。


山崎剛太郎先生

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 3月26日(金)17時18分10秒
編集済
 

 今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。

 親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、 103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。
 
 先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
 
 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。
 
 御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。
 
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)







『イミタチオ』61号

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 2月 4日(木)20時52分27秒
    旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、 最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに



田中克己先生の命日に

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 1月14日(木)23時46分46秒
編集済
 

田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。

当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。 すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。

先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。

先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。

田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。

そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日 に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。

先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。

そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。

その夜の1時24分に先生は亡くなった。

翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。

しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。



告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。

それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、 ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、

「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」

と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、

「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」

との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。

不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。

最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。

先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。

御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。

 


先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。

しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、 令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、 思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。

また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。

敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。

このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、 運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。

私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。

 


茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。

人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。

さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。



今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)

葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居た が、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)






謹賀新年

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2021年 1月 1日(金)21時02分20秒
  旧 臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の 目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。


昨年2020年のおもな収穫は

『江戸風雅』第7~15号 9冊 平成25~29年
『太平詩文』第1号~69号 63冊 平成8~28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26~27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60~平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛

といったところでした。



さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。

「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)

といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。



また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p) の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。


 ロッキングチェア

まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子

そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの



そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。

福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。


首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。


付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)







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