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『谷崎昭男遺文』

2021年10月26日  谷崎輝里発行 編集制作 風日舎 

21.5x15.5cm  624p 非売本


 このたび、風日舎より吉村千穎(ちかい)氏の編集にかかる『谷崎昭男遺文』(私家版,非売本)の寄贈に与りました。

 生前の谷崎先生が日々に草された保田與重郎および日本浪曼派人脈に関する文章について、さきの遺著ともなった評伝『保田與重郎:吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故ニ』(2017 ミネルヴァ書房)他の著書には収められなかった長年にわたる膨大な遺文が、600頁もの浩瀚な書物となって一冊にまとめられてをります。

 かつて『大東亜戦争詩文集』が新学社の近 代浪漫派文庫で編集された際、「田中克己戦争詩篇」の選者に御指名いただいた御縁によるものかと存じますが、斯様のすばらしい書物を拝読できる喜びに感謝するとともに、お独りで編集作業に当られた吉村氏の、曰く「職業人生最後の大仕事」につきましても、茲に深甚の敬意と謝意とを表し、出版のお慶びを申し上げます。誠にありがたうございました。


 故谷崎先生、谷崎昭男氏は保田與重郎の謦咳に親しく接することのできた人たちの中でも、謂はば最年少の世代に当る方です。

 先師のみならず周辺にあった文学者・関係者について、その一番若い席位置から見渡された風景を、早くから培はれた「谷崎節」を以て語り伝へてこられた述志の文章には、一読して誰にも書けない独自の魅力が満ちてをります。

 與重郎大人自らの筆では行き届かぬ、あるひは記すことの出来なかったニュアンスや消息を、「このひとの在ることを世に広く伝へなくてどうする。さういふ一種の客気に駈られた(623p)」口吻を以て読むことができるのは、思ふに保田與重郎の謦咳に接し得なかった後世の私ども世代が許された、せめてもの楽しみといってよいかもしれません。

 先師ゆづりのその「谷崎節」ですが、詩でなく文章で歌はんとしたポーズに満ちた行文、そして各話冒頭のゆかしい語り口にも現れてゐます。しかしながら説明責任に於いて痛いところには余さず触れて廻ってをり、婉曲にせざるを得ない部分はあっても、「與重郎節」のやうに煙に巻いて不問に付してしまふことはありません。

 ですから、分量は確かに厖大なのですが、(特に第一部,第三部については、)思考回路を全開にしてかじりつく大冊なのではなく、気脈の通じる読者を選んでは相鎚を打たせるやうな小品、もっといへば舌鼓を打ちながら読みたくなるエッセイの宝箱となってをり、手に取った私は目次を一覧するなり年甲斐もなく、大好物の菓子ばかりが詰まった大袋を与へられた子供のやうな心持を禁じ得ませんでした。


 第一部のエッセイ群は、もともと表題の「わが新室の眞木柱はも」といふ書名で単行本にされるべく、最終稿が用意されてゐたものといひます。
 眼目と思はれる終盤の二つの文章から少し紹介します。まづは晩年に住んだ京都の邸宅について。

「鳴瀧の保田邸は、建築家としての上田恆次にとつて記念すべき仕事となつた。だが、それは上田恆次にとつてのみならず、保田與重郎の生涯においてもまた記念されなければならない。といふのも、戦後のそれからの保田の処生は、この建築によつて大きく決定されたと云つていいからであり、ここを住処としてくらすこと、何よりもそのくらしぶりに自身の詩人たる面目を描かうとした。云ひ方を換へるなら、そのやうな生き方を保田がするやうに仕向けた、その一事にみささきの片岡に建てられた家の持つた意味は存するといふことである。」(「わが新室の眞木柱はも」186p)

 その名については。

「新居が、新古今和歌集の神祇歌に収める熊野権現の神託歌「思ふこと身にあまるまで鳴滝のしばし淀むをなに恨むらむ」から「身余堂」と号けられたのは、お前の願ふことは、やがて分に過ぎるほどに成就するのに、との歌意をわが身の上に擬へたものか、」(同186-187p)

 と書かれてゐます。私は「身余堂」とは漠然と、身の余生を託する謂のやうに思ひなしてをりました。
 そして次のやうに、豊かな人脈の中にあって、決して孤独でも卑屈でもなかった邸宅での暮らしぶりが説明されてゐます。

「身余堂を荘厳するやうに、昭和の名品の数々が保田の手許に集つてゐたこと、(略) 列記していくと、宛ら個人の小さな美術館が現出するふうであるが、ただ保田にとつて、それらはたんに建物を装飾するためだけのものでなければ、鑑賞してひとり悦に入る美術品として蒐めたものでもなかつたといふことに留意する必要がある。美術品といふなら、骨董の類にも当然手を出していいのを、それに淫するのを自らに戒めて遠ざけた。
骨董ではなく、同時代の由縁あるひとの優作を身辺に置いて、それでわが心を鼓舞し、魂を太らせる。さういふ生成の理を生きるといふところに、保田與重郎のした、ひとつの意味で健康なくらしの実相があつたのは、上田恆次の白瓷で揃へた種々の食器が、鑑賞用に大事に函に蔵つておかれるのでなく、それを毎日の食卓に供したのと事情において変らない。」(同187p)

 「骨董の類にも当然手を出していいのを、それに淫するのを自らに戒めて遠ざけた。」
といふくだりを草しながら谷崎氏の脳裏に去来したのは、小林秀雄や川端康成のことではなかったでしょうか。


 続く第一部の末尾、単行本の最後を飾る予定だったのは、檀一雄と保田與重郎との交誼を語った「日月燦燦」といふ一文です。

 檀一雄葬儀当日の思ひ出から書き起こされてゐますが、話題はすぐに一枚の色紙のことに移ります。

 物事を暴き立てるのを嫌った保田與重郎ですが、敢へて私事を、それも家族について、すなはち三男直日(なおび)氏の自殺(昭和42年)について、たまさか三島由紀夫の自刃(昭和45年)に際しての文章を書き綴るなかで、筆の走るまま苦衷とともに書き足してしまった。そして書き足したもののそっくり削除し、筐底に秘めてあったその一文が死後、全集に収められた経緯についてが記されてゐます。

 謂はば檀一雄と保田直日と、二人を悼みながら保田與重郎を回想した一文なのですが、「死に当って身辺の悉くを整理し、己れにつながるやうな記録の類を跡形もなく」火中に投じてしまったといふ直日氏にして、檀一雄から贈られて処分されずに遺されたといふ一枚の色紙を、随分のちに谷崎氏が目にした所から、保田・檀の友情に書き及んでゆく内容となってゐます。

「檀一雄と保田與重郎との交渉は、戦前において頻りだつたと云へば、そのとほりである。しかしむしろ戦後において、絆により濃いものを見ると説くこともできるのは、戦後に周囲の大方が申し合せたやうに保田與重郎を忌避したなかで、檀一雄はそれに同じなかつた少数のうちの一人だつたといふことにおいてである。」(「日月燦燦」198p)

 とありますが、人気作家であった檀一雄がアンケートの事あるごとに保田與重郎の名を出す事に、当時の記者・編集者は苦虫を噛み潰した顔をしたに違ひありません。

 テレビ局に於ける佐藤春夫と堀口大学との珍しい対談が録画で残されてゐますが、佐藤春夫の弟子として途中から現れた檀一雄が、生放送であるのを良いことに盟友「保田」の名を出した場面には、私も思はず息を呑んだものでした。

 当サイトとしては、詩集に関する以下の文章も抄しておきましょう。

「破壊と、さうして建設と、檀一雄の文学の営為は、双方向にはたらく力を辛く繋ぎ止めたその間でなされたといつたものである。いはば身を台風の眼のなかに置いたふうでもあり、その限りで自身はかつがつ安寧を得てたことにおいて、「破滅型」を文字どほり身を以て演じた太宰治の場合と事情を異にするが、その「間」について、処女詩集の題号を借りて、それを「虚空」と説きなしてみれば、そこに作品を豪奢な絵模様に「象嵌」したところに檀一雄の面目がある。「象嵌」と云つて、それがしかし人工の拵へ物、細工物の類などでないことは、一巻が具さに語つてをり、自から湧出する、優しさの裡に潜められたその激情は、人間の、いふならば最も原始の生命の衝動に近いものであつた。膂力において並はづれ、「健康といふ唯一の病気」をもつだけと自分で語つてゐたといふのを、尤もと諾ふにつけ、またも葬儀の日に五味康祐の口から出たことばに私は引き戻されて追想を新たにするのであるが、当日の保田與重郎の「誄辞」に「奔馬空をゆくさながらに」とあるのは、『虚空象嵌』を念頭に置いての語であつたらうかといふのは、佐藤春夫の装幀になる瀟洒なその詩集の表紙が、裏表紙にまでかかつて一頭の天馬の絵で飾られてゐることから生れる連想である。」(同196p)


 第三部、後半に分けて収められたエッセイ群「僕もまた「精神の珠玉」を信ずる」の中からも少し写してみます。
 表題作の以下の文章には感じ入りました。なぜなら自分と保田與重郎および『コギト』の詩人達との出会ひも似たやうなものであったからです。

「八月十五日という日に終ったあの十五年の永きにわたる戦争は、僕の裡にいささかもその影を落していない。これを賀すべきとはせず、さりとてまたこれを己の負目とはつゆ思わぬ僕は、謙虚にただその悲惨を切々と愬える声に耳傾ける。僕の生年は、その八月十五日に終戦を迎えた年の前年、一九四四年である。僕のやや長ずるにおよんで、人はまず太宰治を教えるにこの上なき深切の情を示したものであったが、さて保田與重郎の名はたえてこれを聞くことなかった。三島由紀夫を、あるいは小林秀雄を人はついで奨めたが、なお保田與重郎を語ってはくれなかった。僕がしかしいまここにそれを怨ずれば、自身の迂闘さを省みない無恥の言に堕そう。あたかも厳しい箝口の令にでも服したかのように、人は多く口を噤んで説かず、その書のまた世に広くおこなわれることほとんどなく、ために保田與重郎という存在さえ、たまさかにしか知るを得なかった僕らの世代であったと、こう僕は告げたいだけである。」(「僕もまた「精神の珠玉」を信ずる」380p)

「僕の生きてきた二十余年は、悲しみを能うかぎり少くしようと力めた挙句、大きく歓びうることもはや叶わぬ時代である。(略) 厭世観に迫られて死を希うほど多感ではなく、喪失の世代たることをみずから誇らんとするには喪ったものを知らず、僕はただ末世の観のみ強く懐いた。忽として現われた保田與重郎を迎えたころの、これが僕の偽らない心の姿勢である。保田氏こそは澆季の世を歌っている人と僕には思われた。しかもひたすらに深くふかく歌っていた、大きく哀しみ、大きく歓んでいた、ただそれだけのことに僕はまず魅せられた。戦後の貧困である。
祝さるべき発見だと、ひとり悦に入った僕は、ほどなくその保田氏の悪名の高さというものを教えられ、戦後の氏が託(かこ)たねばならなかった不遇を了したが、自分の発見を嘉する心に変りはなかった。保田氏が悪名高いというこの貶辞を冠せて語られるのを聞いたとき、僕はむしろ己の発見が証される思いをもったのである。三十冊にも垂んとする氏の著作を古書肆に深く求めては、さらにこの発見を確かめた。」(同381p)

「語ったのではなく、まことに保田氏は一途に歌いあげていた。僕はその文章を聴いて、読むことをしなかった。読書甚解ヲ求メズとは僕の座右の銘でもあったから。古代王朝の末期に物語が変じてふたたび歌となったように、氏もまた時代の没落の歌を歌いつづけて倦むこと知らなかった詩人であった。なるほど人は氏の文章のいわば狂態を難ずる、(略) あるいは保田氏もまた意あまってことば足りなかったかともみえたが、しかしおそらくそれに先立って、散文による意志伝達への拭いきれぬ不信が保田氏にはあった、氏が歌人であることを知ったのはややあとである。氏の文章を僕は是として、その狂態を喜びえた。」(同382p)



 さて、ここまで第一部・第三部と、周りの果肉たる文章を愉しんで食べ散らかして来たのでしたが、しかしその後に残された果実の芯。中間の第二部に収められた若き日の論文が、食指の動かぬ単なる若書きの文章だったかといへば、決してさうではありませんでした。

 ことにも圧巻だったのは、谷崎氏自身と保田與重郎との出会ひにも比せられるべき、「恐いものみたさ」で惹きつけられたニーチェの訳出に生涯を投ずることとなった「生田長江先生傳(205-306p)」でありました。

 生田長江(1882-1936)が、『ツァラトゥストラ』と『資本論』とを最初に訳出したといふ意外の一事を知っては、すでに異常の運命を予感させもしますが、私はこの人について名前と病気以外の事を殆ど知りませんでした。

 「批評は批評そのものとしての独立の価値を持ち、批評家は必ずしも作家に付随し、隷属して存在するのではない」(224p)
 「「附和雷同するよりも、寧ろ好んで異を樹てると云はれ天邪鬼と云はれる方を択びたい私は、既に世間から認められてゐる有名な人々を讃美するよりも、未だ世間から認められてゐない無名の人々を推奨する方に力を入れて来ました」」(230p)


 と高言し、新人発掘と後進の育成にいそしんだ、学校教師ではない真の教育者たる面目、佐藤春夫との出会ひや、平塚らいてうによる『青鞜』創刊をめぐっての事情が最初に詳述されてゐます。そして生涯の信条とした、

「自分をより善くすることによつてのみ、社会をより善くすることが出来、社会をより善くすることによってのみ、自分をより善くすることが出来る。」(246p)

 斯様の格率が、ニーチェを戴く保守派、マルクスを戴く急進派、のどちらからも疎まれた人だったといひます。

 世の誤解に敢へて身を曝す覚悟の彼は、人間性のために戦ふのを本義とした、キリスト教社会主義・中庸の徳目を大切に、強いて二者を較べては 「社会をより善くすることによってのみ、自分をより善くすることが出来る」方をより重く見た結果、労働者のみならず資本主義に取り憑かれた富者階 級をも憐れむ「徹底人道主義」(266p)なるものを掲げます。

 にも拘らず、一方では「マルクスに聴くことがニィチェに学ぶことの十分の一も面白く思われなかった」(260p)とも吐露するやうな人間性。

 つまり「労働の質的改善:個性的であり、愉快なものであり、それ自体のなかにも目的を有する:労働の芸術化」(275-276p)を夢見るやうな、ロマン派的芸術至上主義人間が抱へる理想と矛盾とが、「貴族主義的デモクラシイ」(261p)「反「商品」主義」(278p)のもとに説明されてゐる訳ですが、昨今の日本を顧みては私など非実利的人間には、これがなるほどなぁ、と思はれるところでありました。

 やがてやってきた関東大震災を評して、
「どうだ、少しは思ひ知つたか? これでもまだ覚めないといふのか?」(282p)
 との日本人及び日本の社会への呼びかけに至っては、真実ゾッとしないでもありません。

 さうして病魔と共にやってきたのが、その後の彼の「東洋への回帰」であり、これ故に、生田長江は近代浪漫派文庫の一冊になったのでありましょう。

 その「超近代主義」の主張に於いてですが、さきの二者を較べて今度は「自分をより善くすることによつてのみ、社会をより善くすることが出来る」 との信条を優先するに至った彼は、暴力革命を志す社会主義思想の排斥を表明し、かつて応援した青鞜派をも「女性の男性化」を目論むものとして否定 します。

 「超近代主義」とは取りも直さず「反近代主義」であって、畢竟信仰の問題を内に蔵してをり、マルクス主義による革命を「復讐的革命」と喝破した長江は「宗教的革命」を最晩年に言挙げるやうになります。

 伝記作者谷崎氏は、それを保田與重郎が掲げた「一挙にマルクス主義と、アメリカニズムを打倒する」、精神的な革命につながるものとして結論づけたい旨を末尾に明かし、「保田與重郎という謎を解くための一つの鍵がじつに長江先生にあり、保田與重郎がまた長江先生を解き明かす鍵であった」と述べてをります。

 私が個人的に嬉しかったのは、癩病に罹患した師を避けた佐藤春夫を烈しく叱ったといふ伊福部隆彦の、その逸話こそ載せてゐませんが、最後まで病床の長江の傍を去らなかった同郷門弟による忌憚なき回想の言葉が多数引用されてゐたことでした。


 第二部の最後には、保田與重郎との関係が言葉に上されることの不自然に少なかった存在として、谷崎氏の関心事にあった評論家「福田恆存」を論ずる一文が用意され、谷崎氏の文学的な出発時に於いて、生田長江の他にもう一人、どうしても気にせずには居れなかったこの人物の立場に関する、 つまりは「なぜ保田與重郎と没交渉であったのか」といふ疑義についてが語られてゐました。

 なるほど「カソリシズムの無免許運転」を自称した福田恆存が、一方で日本の美意識との間で揺れ動いてゐた評論家でもといふのは、東洋回帰を果たす生田長江が、そもそも教会的宗教を峻拒して受洗したキリスト者であったことを想起させます。

 そして知識階級が軽侮する未啓蒙の民衆にこそ正しき義をみた保田與重郎と福田恆存とは、保守論客として谷崎氏が一番信を置く評論家だった訳ですが、両者を結ぶ精神的な親狎はきっとあったに違ひないとの希望は、憶測を越えて、三島由紀夫と同様、お互ひに寡言ならざるを得なかった「戦時下文学の嫡子」に擬へられてゐて、状況証拠を論ってゐて興味深いです。福田恆存と保田與重郎と、双方からの言及が少なかった事情を語って、

「ここに、福田恆存と三島由紀夫のふたりを有した戦後文学とは、無みされることのみ多かった戦時下の文学の紛れもなき嫡子である。庶出の子、落し子ではなく、あくまでそれは嫡出子であった。すなわち、子の大いなる功業のかげに寂しく忘られた親のかこつ悲歎に、ぼくは一滴の泪を禁じえないのである。親に孝養をいたさぬ子の非情、これを責めよと、ひとは云うであろうか。だが、そのまえに、そうした非人情を子に強いた世間の眼の方をぼくはむしろ憎み、しかもその不忠の子にたいして怨み顔ひとつみせようとしない親の毅然たる態を知って、親の悲しみにあらためて泪する。」(「福田恆存」368p)

 と評してゐるのは、実際に親子に擬するに代表たる保田與重郎(親)と福田恆存三島由紀夫(子)とはあまりにも歳は近すぎるものの、これまた後世の私どもに示された、戦後文学史におけるいみじき伏流の姿のやうにも観ぜられたことです。

 さらに穿ってみるなら、さきに谷崎氏とはほぼ同年の保田直日氏のことを記した文章に触れましたが、保田與重郎に対する斯くまでの谷崎氏の傾倒に対して、生前の保田與重郎から如何なる至福の労ひに与ったのか、例へば「谷崎節」に接した師はどんな言葉を息子のやうな愛弟子に垂れ給うたのか、 知りたくも思ひました。

 正に非売本ならではの内容、大切にしたいと存じます。
 いずれ大きな図書館に寄贈されたものを読むことができることと思ひますので、以下に目次を掲げます。※●は私的覚えです。


『谷崎昭男遺文』 2021年10月26日  谷崎輝里発行 編集制作 風日舎 21.5x15.5cm  624p 非売本

(第一部) わが新室の眞木柱はも──保田與重郎の周囲


身余堂襍記

01「正統」について学ぶ (※国際人とは)
02『日本の文學史』のことなど (※桑原武夫の醜聞)
03『蒙彊』雑感 (※朝鮮語の廃止をしなかった日本について)
04伴林光平をめぐる断片 (※「もとこれ神州の清潔の民、「春のいそぎ」の歌を示した一友人とは)
05「太宰治と檀一雄」展から (※檀一雄文学碑の碑文のこと)
06追悼齋藤十一
07「京あない」再読 (※百万遍の梁山泊のこと)
08人事尽処神留坐 (※「人事を尽くして天命を待つ」ではなく「人事を尽す処、神留(づま)り坐す:命に安んぜよ」の心境)
09辻氏あるいは和辻哲郎 (※「蝸牛の角」原稿末尾欠落のこと)
10夕日のくだち (※大祓筆写のこと)
11匿名と正論 (※無署名「祖國正論」『絶対平和論』のこと)
12「近畿御巡幸記」の方法について (※新聞報道記事の抄出について)
13天皇に対する敬語法
14岡博士歿後二十五年に (※高瀬正仁の「評伝岡潔」について)
15『落柿舎のしるべ』随感 (※「あとがき」和文の書きぶりについて)
16舎人親王の萬葉歌碑 (※栢木(かやのき)喜一自邸横の歌碑について)
17伊奈(那)大鹿村行 (※宗良親王を祠る信濃宮神社について「いはで思ふ谷の心もくるしきは 身を埋木とすぐすなりけり」)
18近代浪漫派の系譜 (※『近代浪漫派文庫』について)
19「天正の橋」の作者 (※水上勉について)
20裁断橋遺跡とキトラ古墳壁画
21菅沼曲翠邸址で (※俳士菅沼曲翠について)
22「機織る乙女」の曲 (※萩原朔太郎作曲について)
23長江、朔太郎、與重郎
24勇払を訪ねる日 (※浅野晃資料室について。中村一仁氏のこと。保田與重郎の『天と海』評)●
25藤田嗣治展から「緒方家集」に及ぶ (※「アッツ島玉砕」と緒方三和代歌集について)
26榧灸る人ぞなつかしき。 (※前田普羅について)
27平澤先生の立志伝 (※その人柄について)
28無名庵守当番の記 (※義仲寺無名庵について)
29島崎巖氏の事業回顧 (※「保田與重郎先生草稿写集」昭和55年〜200p,117冊50部について)
30舞台に上げられた保田與重郎 (※北辰旅団公演について)
31「深山暮春」の画の周辺 (※身余堂に画を掲ぐ日高昌克について)
32谷中の山田良政碑 (※中国革命に寄与した山田良政・純三郎兄弟について)
33詩人の予見性について (※『規範国語読本』と蕪村「夜色楼台図」について)
34煙草譚 (※保田與重郎の喫烟について)
35千穎子の編集者人生より (※吉村千穎(ちかい)と父吉村淑甫(よしほ)氏について)●
36西昌寺の蝶夢法師墓 (※俳人幻阿蝶夢について)
37那須の大丸温泉 (※乃木将軍湯治と保田典子の名について)
38『紅茶は左手で』の読み方 (※五味康祐小説の各モデルについて)
39春聴王命 (※今東光・河上利治について)
40『私の保田與重郎』贅語 (※大高の恩師と同窓生について)●
41自然(かむながら)に生きる (※同題上映会について)
42秋成展、方哉氏の奇禍など (※佐藤方哉遭難と上田秋成展のことについて)
43「霹靂」小註 (※眞鍋呉夫と保田與重郎との関係について)

龍山のD氏、周作人、その他 (※昭和13年保田與重郎の蒙疆旅行について)
「祖國」と保田與重郎
木野皿山窯回想 (※上田恆次について)
耀文院追想偶記 (※林富士馬について) ●
両大人追悼 (※高鳥賢司と奥西保追悼)
平野宗浄氏のこと (※伊東静雄との関係と松島瑞巌寺での一夜について)
松本の町にわが名を (※栢木喜一追悼と思い出の一首)
「恢復の宜しきを得て会する日の遠くないことを念じて」
吹浦(ふくら)へ (※奥の細道について)
亀ヶ谷(かめがやつ)切通し附近 (※旅館香風園・獅子王文庫について)
成美女学校概記
一向に僕は変りません。─齋藤十一頌─ (※保田與重郎宛書翰)
新室の眞木柱はも (※身余堂について) ●
「戦後のそれからの保田の処生は、この建築によつて大きく決定されたと云つていいからであり、ここを住処としてくらすこと、何よりもそのくらしぶりに自身の詩人たる面目を描かうとした。云ひ方を換へるなら、そのやうな生き方を保田がするやうに仕向けた、その一事にみささきの片岡に建てられた家の持つた意味は存するといふことである。」186p
「ただ保田にとつて、それらはたんに建物を装飾するためだけのものでなければ、鑑賞してひとり悦に入る美術品として蒐めたものでもなかつたといふことに留意する必要がある。美術品といふなら、骨董の類にも当然手を出していいのを、それに淫するのを自らに戒めて遠ざけた。骨董ではなく、同時代の由縁あるひとの優作を身辺に置いて、それでわが心を鼓舞し、魂を太らせる。さういふ生成の理を生きるといふところに、保田與重郎のした、ひとつの意味で健康なくらしの実相があつたのは、上田恆次の白瓷で揃へた種々の食器が、鑑賞用に大事に函に蔵つておかれるのでなく、それを毎日の食卓に供したのと事情において変らない」187p
日月燦燦─檀一雄と保田與重郎覚書─ ●



(第二部) かくあればひとはしらじな──初期評論


生田長江先生傳
マルロオ雑記
「近代の超克」について「超克」ということばの問題
福田恆存 ●



(第三部) 僕もまた「精神の珠玉」を信ずる──編年輯録

01僕もまた「精神の珠玉」を信ずる (※保田與重郎との出会ひについて) ●
02戦争の痕──吉本隆明「高村光大郎」 (※詩人の戦争責任について)
03歴史叙述恢復の困難――江藤淳「漱石とその時代」
04保田與重郎 (※日本浪曼派と19世紀ロシアのスラブ主義について)
05イロニーの立場
06川端康成と三島由紀夫 (※それぞれ十年遅れた日本浪曼派との関係について)
07檀一雄氏の“類廃”
08「ひややかに」の詩 (※生田長江の詩一篇に対して「日本の橋」風に擬へた感慨の文章)
09三島由紀夫の文明批評――戦後批評と革命思想
10三島由紀夫
11森敦氏の「月山」のこと(文芸時評)
12小林美代子氏の死
13同人雑誌の論(文芸時評)  (※『コギト』肥下恒夫について) ●
14新人の作品から(文芸時評)
15「自分の中の父」「薄陽」その他
16森敦氏の芥川賞について(文芸時評)
17作家の血、文学の血(文芸時評)
18小田実氏の政治と文学(文芸時評)
19柳井氏の「政治小説」(文芸時評)  (※柳井道弘について)
20モデル小説など(文芸時評)  (※高群逸枝を擬へた小説「献身」について)
21文学する姿勢 (※久保輝巳「秋雨秋陽」について)
22 古山氏の小説論  (※古山高麗雄について)
23「書くこと」を与えたのは戦争であった (※大岡昇平について)
24戦時下の吉行淳之介
25保田與重郎●
26大仏の紙の張抜 (※鎌倉大仏について)
27伊波普猷「年譜」について
28読書雑記 (※戦時中のシンガポール・ジョホールバル・蓮田善明について) ●
29波郷全集の頃
30明月の谷戸から
31生田長江資料
32小林康治氏追想
33「世界人」としての保田與重郎●
34「細雪」と戦争
35誤失歩と小説のモデル
36吉見良三氏の「空ニモ書カン」 (※保田與重郎伝記本について) ●
37神経症と偏愛――父・谷崎精二の肖像
38正カナ採用の弁
39千代女の切手のことなど
40 “A ZEN LIFE”を観て
41夢の浮橋
42日居月諸(ひやつきや)  (※俳人小林康治・伊馬春部に・幻阿蝶夢に・佐藤春夫の喫煙とその故郷、詩人野長瀬正夫について) ●
43「日本浪曼派」の大和――保田與重郎について●
44成美女学校追補
45『細雪』のもう一組の四人姉妹
46わが言語観
47常乙女頌――保田典子刀自を偲ぶ●
48露沾公の墓 (※蕉門の内藤露沾について)
49疾風迅雷に生きた跡――評伝選「自署を語る」●


編者後記 (※吉村千穎) ●

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