旧臘、相模女子大学谷崎昭男先生より御先師の書き下ろし評伝『保田與重郎』(ミネルヴァ日本評伝選 2017年)の御恵投に与りました。ここにても新刊のお慶びを申し上げます。
冒頭に記された、「つとめて文学の言葉で保田與重郎についてしるしたい」との執筆趣意、文明批評家としてではなく文人として師の俤を伝へたいとの志は、かたちの上では、一息の長い独特の文体のなかに端的に、象徴的に顕れてゐます。
仮名遣ひも歴史的仮名遣ひに改められてをり、前著『花のなごり』(新学社刊1997年)にもまして與重郎大人の気息を体現する文章には、本書を手にされた皆さん一様に瞠目したところでありましょう。
そしてそれが形の上に留まるものでないことも、(評伝を書くには「直接そのひとを識ってゐるのとさうでないのでは随分と相違すると思はれる」とありますが)、まさしく対象に直接師事した著者だからこそ描き得た血の通った事情が、見聞の無い期間についても確からしさを伴ひ、伝はってくる一冊でした。
戦後、高村光太郎に宛てた原稿依頼の手紙や、生田耕作の回想中に記された“戦犯保田與重郎”に対する桑原武夫の見苦しい振舞ひなど、全集未収録の新発見資料がさりげなく紹介され、仄聞するエピソードへの目配りも忘れない。贔屓の引き倒しにならぬやう、裏付けるべき事実をもって忖度の限り (先師の言動に異を唱へる際の著者の心映え)が尽された筆致の表情こそ、本書の一番の魅力ではないかと思はれたことでした。
ことにも前半生の(絶望的な)正義感と、後半生の(受忍といふべき)節操。ことごとしくいふなら左翼・右翼との関係の機微に属する真相について、保田與重郎から特別に寵愛せられたと任ずる著者がどのやうに「政治の言葉」でなく「文学の言葉」で書き留められたか。これは特段に関心を抱いて読 んだ部分でしたが、抜き書きしたくなるやうな言辞が鏤められてゐて、一度ならず快哉を叫んだことでした。
「政治か文学か」、それが一大事とされた日である。しかし、政治へ行くか、文学をとるか、そのどちらかを択ぶのではなく、政治か文学かを問ふ、さういふ心情そのものの上に文学を位置させようとすることにしか、自身の良心を護る途はない。83p
現実に対して、追随する安易さも、そこから逃避する卑怯も保田のものでなく、向き合った現実と格闘しつつも、それとの共生を図らうとしたことに、時代への保田の良心といはれるべきものを見る私は、その点で、戦争を保田ほど十全に生きた文学者はゐなかったと思ふのである。163p
全体を通じ“一評伝”を超えて訴へてくるものが感じられるのは、文学者がどのやうに戦争と向き合ってきたか、そして戦争責任をとるとはどういふことであるのか、といふ、戦後日本文壇が抱へ続けてきた大問題についてでしょう。本人からは言ふことを得なかった念ひを、著者がはっきりと代弁、回答してゐて、祖述者のまことの在り方を教へられた気がします。
そのうち「戦時中に書いた文章の一字一句を保田與重郎は決して改めなかった」といふのは戦争責任にまつはる具体的な一事。責任の取り方(受け止め方)の一斑が示されてゐるのですが、もちろん開き直りで改めなかったといふことではありません。
保田與重郎にとって「戦争責任をとる」とは、自分の文章を心の支へにして戦場に向かった若者たちに、最後まで向き合ひ寄りそふことでありました。勝者から押し付けられた「お前たちが一方的に起こした間違った戦争」といふ思想理念を、生き残った人間が無批判に押し戴いたり、無謀な大本営、野蛮な軍隊、卑怯な上官への怒りをぶつける為にそれを利用することでは決してあり得なかったといふことです。
思ふに正義感の発現とは、傲慢に抗してなされるか、ずるさを軽蔑してなされるか、或ひは欲念からの達観へとむかふのか、それにより左翼にも右翼にも宗教者にも転じ得ると私は思ってゐます。それはまた時代相や、出自・トラウマによって、決定されるところでありましょう。一方で、気質において愛憎の激しい人間は身を誤りやすい。
本書でも論はれてゐますが、戦後“日本浪曼派一党”に対して放たれた批判、ことにも杉浦明平による感情をむき出しにした悪罵は、真偽のみならず表現としても正義の鉄椎と呼ぶに当たらず、彼自身これを若気の至りと訂正することもありませんでしたが、文学者の戦争責任が、報道者(ジャーナリスト)の戦争責任、つまり政治的裁定とは自ら異なるものでなければならなかったことを著者は訴へ、そして保田與重郎ほどそれを日常坐臥の上に示して生きた文学者は居なかったと、本書のなかで繰り返し語ってゐるのです。
「そんなことは言はんでも分かるやらう」と保田與重郎が収めてしまふところを、杉浦明平は「それは敢へて言ひ続けていかなきゃいかんことだらう」と怒り続けた。
無念に死んだ人のために生き残った者がしなくてはならなかったこととは何だったのか。それが死者に寄り添ふことであらうと、死者に代って復讐することであらうと、これから生きてゆく人たちに対して、身を正さしめるために、生き残った者自らが生活を律して生きてゆくことを見せることには違ひありません。
保田與重郎は、さうして杉浦明平も自分(の身)を勘定に入れずに自分(の志)を大切にして、それぞれの節を全うした人生を送ったやうに、私には観ぜられます。しかしながら彼等とその世代が退場した今日、日本人はどのやうに変貌してしまったか。
保守を任じながら環境よりも経済優先の国家経営に余念がない政府のもとで、まもなく日本が戴くべき御代は革められようとしてゐます。隠遁者、もっとはっきり謂ふなら遺民として生きた保田與重郎が願ったのは、国柄を基にした独自の宗教的自然観を、一人でも多くの日本人が守り続けていってくれることだったのではないでしょうか。
本書には、ひとりの文士が大戦争の時代を生き永らへ、やがて最後の文人として崇められるに至ったいきさつの全てが、弟子にして知己である一番の理解者によって書き綴られてゐます。さきの吉見良三氏による評伝『空ニモ書カン』(淡交社刊1998年)とあはせて一読をお勧めします。(2018年01月03日)