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『杉浦明平暗夜日記1941-1945』

2015.07.05 一葉社 若杉美智子, 鳥羽耕史 編

本文575p 19.5cm上製カバー 5000円(税別) ISBN:978-4-871960571


【紹介文】

 小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。 編者の若杉美智子氏は、個人誌『風の音』にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、 小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、 晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。 しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、 『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

暗夜日記

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、 芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。 読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。 でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。 しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。 編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」ことを示す“証拠物件”であり、それは読まずとも分る気がいたします。

 さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、 私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ変はることの無かった、彼らしい毒舌の忖度の無さを理解してあげられるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇の東洋的ヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、 敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情にあきたらない団塊リベラルの人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、 残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、 起きてしまった戦争の悲惨さや理不尽さを、文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、 日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、 そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、 杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、 同じく皮肉屋で生涯を通した忖度無しの直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。 そんな心構へで読むことによって、あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。 興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、 結局どのやうなものであったかさへ生涯口にはされませんでした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。 むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」
 といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。


【読後感】

 新しくなった岐阜市立図書館に入ってゐたので、早速借りてきました。

 編者がまえがきで述べてゐる感想の通り、『暗い夜の記念に』における憤懣一色の内容とは落差が激しく、たしかに徴兵を逃れた豪農の「坊ちゃん」の厭戦日記といふ感じではあります。 とはいへ、万一憲兵に差し押さえられた場合を考慮して、詳細に書かれてゐる戦局は日本についてではなくドイツのことですし、アッツ島玉砕のことなどに触れてゐる箇所は珍しい。 また敢へて空白の字数で伏せた箇所もありますが、

「ドイツではゲーテの少数を除けば、文学より哲学者のライプニッツ、へーゲル、フォイエルバッハ、更に〈九文字空白〉こそ文字でかかれた人類の師範である。 しかしハイネを忘れてはならぬ。ルターを逸してはならぬ。(中略) ロシア文学については長々しくのべるのをやめよう。(中略)それから〈四文字空白〉の凱切な論文集を。」(昭和18年5月7日の日記より)

 ここはもちろん〈マルクスエンゲルス〉と〈レーニン〉なのでありましょう。

 若き日の片思ひの数々が書き綴られるくだりなど、著者の愛読者にとっては微笑ましくも意外な読みどころに違ひないのですが、今読んで意味があるとすれば、 本書の宣伝文句のために今国会の安保法案騒動を意識して引かれた

一月十九日(水)
(前略)敗戦後に一箇の東洋的ヒットラーが出現し、民を殺すことを草を薙ぐごとく、(中略)粛然として声なからしめるかもしれないのである。 しかしてその可能性は、あらゆる民衆利益 の擁護者を掃蕩することによって、今日本においては準備せられつつあるのだ」
(昭和19年1月19日の日記より)

 といふ言辞ではないやうに、やっぱり思ひます。彼は日本の敗戦の後にワイマール憲法に擬へられるべき日本国憲法が布かれる事を、この時点で予言した訳でもありませんし、 20年にも満たなかった悲惨な第一次大戦後のドイツを、戦後日本の驕奢と飽食を極めた70年間に擬へるのもをかしいです。教条的なイデオロギーを嫌った彼ならではの姿勢を慮るならば、 ここは解説において共編者の鳥羽耕史氏が指摘された箇所、敗戦後にやってきた進駐軍が自宅から酒をいいやうに接収してゆく様子に対し、

「そうした過程を経て、一九四五年の日記が「しみじみいやになる」ことで閉じられていることの意味は大きい。戦時中にも豊かな食生活を送り、 地主の息子としてのメリットを享受していた杉浦が「民主化」を進めているはずの米軍への不満を、生活の中から感じたことを意味するからである。567p」

 といふ部分にこそ、大きく頷かざるを得ませんでした。私としてはむしろ同日の日記の「ヒットラー云々」の文辞の前に

「魯迅を読んでいる、今の日本は魯迅の支那よりもっと退却した、
しかし一時憤ったりしたけれど、私はもう魯迅のように落着いて、諷刺にみちた新聞をひろげるのを毎日のならわしとする。
今の社会は一個のよき諷刺文学ではあるまいか、たとえば今日は、日本人は「醜の御楯」として徴用令に一言の文句もなく従うが、ルーズベルトはこれを納得さすために数千言を費さねばならなかった、と自慢している。(中略)
魯迅にこの不可思議な文明国の話を聞かしてやりたかった。支那人はもっとだらしなく、われわれの醜の御楯ほど純良ではないだけ、もっと悪を働くことにおいて小さかった。」

と書かれた、当時から何ものにも忖度はしない皮肉たっぷりの感想に、イデオロギーには最後まで馴染むことのなかった人間らしい批評家としての資質を感じたのでした。



【以下追記】
 最後に、この日記翻刻には途中に欠落期間があることを付記します。冒頭凡例「日記の形体」を記すなかに、

「1944年1月26日から1945年3月3日までは一年余り日記を書いていない」

 とありますが、「記録が無い」ではなく「書いていない」とする若杉氏は「まえがき」にかう記してをられます。

「公表を控えるようにという戒めは固く守られ、杉浦が亡くなってからも家族は日記を読むことを遠慮してきた。
 私は杉浦の生涯を辿り書誌と年譜を整備しようとしていたので、事実確認のために没後十年をまたずして日記を見ることを特別に許された。
 中学、一高時代から始め、徐々に範囲を広げ一九六四年三月までは閲覧できた。それ以降は、あまりに現在に近いという理由で読むことを許されていない。
 没後十年を過ぎた今も杉浦の遺言は守られている。今回たとえ一部分であっても日記を公刊するのは、遺族にとっては思い切った決断であったに違いない。」


 私が編集した『夜光雲:田中克己日記』も、第7巻(昭和7年1-7月:『コギト』創刊や、東大構内でアジ演説を聞いてゐて留置場に勾留された事件等を記した筈の一冊)を欠いてゐますが、これは紛失(廃棄?押収?)による欠落です。 徴兵を逃れるため政府の統制機関に就職するなどしてゐた若き日の杉浦明平もまた、何かしらの差し障りがあって、敗戦末期の約一年間のノートが何らかの理由で欠落してゐる、といふ可能性はないのでしょうか。
 或ひは単純に忙殺されてゐただけかもしれませんが、前後の日記が編者謂ふ所の「備忘録」的なものではないだけに、途絶した現物の日記が紙を無駄にせず書かれてゐるか否か等、とりあへず知りたいところです。
けだし若杉氏も「思い切った決断」をされた遺族に配慮して、それ以上のことは書けなかったのではないかといふ懸念は消えません。
 (『風の音』における連載「杉浦明平の世界」において、それを明らかにすることなく氏が逝去されたため、詳細を語れるのはもう一人の編者である鳥羽氏かもしれませんが、『暗夜日記』解説には「一年以上の長い空白期に入ってしまい」とのみ、『感泣亭秋報』17号「杉浦明平の世界」解説文にてもこの期間について触れてをられません。)【以上2022.12.22追記】

 以下に拙サイトと関係する立原道造・小山正孝への視点や、開戦・敗戦時の感想を示す、当時の杉浦氏らしいところを少し引いて紹介にかへさせて頂きます。


昭和16年4月18日(金) 曇・夕立
(前略)
 立原の校正をして今日も怒る。「風立ちぬ」(※堀辰雄論)の終りでやってる保田の尻馬へ乗ってのファシズムヘの奉仕はきたならしい。醜悪だった。

昭和16年11月11日(火) 曇
(前略)
 夕方は上野へ廻って古本屋を歩く。読みもしない本、読んだって面白くも何ともない本などを何故買って歩くのか。 これだけだ、これだけで私は自分を慰めようとしている、しんじつ、本屋を見ている間だけは私はかなしさを忘れる、 本を読むより本屋の棚を見ているときの方が何十倍たのしいことか。もう下宿へもどるといやになる。 光の中にさらされて灰色になった「青い鳥」のように、薄汚なく、くだらない印刷活字の並んでいるのにすぎなくなる。 私はそれを一ぱいつまって本の上しか明いていない本立の中にねじこむようにする。

昭和16年11月12日(水) 晴
(前略)
 先日樋口、曾根(※樋口賢治・曾根光造)と飲んだ夜、意識を失ったのちの行動を聞いた。 私はビヤホールを二軒、そのあとでニュウヨークという特殊喫茶へ入ったことまでは覚えていたが、それからロンシャンとかアムステルダムとかエスパニョーロに行ったことは覚えていなかった。 殊にエスパニョーロは、常にコギト一派が出入しているバーなので、その表で 「保田與重郎出て来い。 俺の前で法螺を吹いて見ろ」などとどなったと聞いて慄然とした。 ああいう連中を相手にしては、あぶないのだ。 (後略)

昭和16年11月14日(金) 雨・後晴
 朝、小山(※小山正孝)が来た。 小山はすっかり短歌、特にアララギのファンになって近ごろは歌集や歌の雑誌ばかりよんでいる。 小山のようなのは私と逆に歩むかも知れない。(後略)

昭和16年11月20日(木) 曇・夕立
(前略)
 小山が図書館の昼休みに寄る、卒業論文の提出までにあと十日しか残っていない、という。そうだ、十一月ももうおしまいだ。 そして一ヶ月たてば来年だ、私も三十になる。何とおろかしく三十を迎えなくてはならぬことだろう。 小山が来るといつもこのごろはアララギのことばかり話す。 自分は出てしまったが、しかし私の本質を形づくる多くの分子がアララギによって与えられたものであることを私は決して否定しない。 現実に根を張ること、これである。ともすると、ローマンチストにまきこまれた私を失わせなかったのはこれである。 生来ロマンチストであるゆえにリアリストの限界を知り、リアリストと身をなしたがゆえにロマンチストの欠陥を体験している。(後略)

昭和16年12月2日(火) 晴
(前略)
 三省堂の金本が土方氏(※土方定一)をたずねて来た。一緒に表へ出るとき、金本は何かドイツの小説でもぽつぽつ訳してみたいがと土方氏に教えを乞うた。 土方先生は「シュトルムでもまず読むといい、ドイツ語の使い方がよく分るから。シュトルムというのは実にいいからな。翻訳もあるはずだよ」
 私はシュトルムの名でもう腹が立っていた。しかし日本語でよむと余り面白くないようですね」と言った。 「そんなことはないさ」と土方先生が言う。「でも岩波文庫に入ってるのなんてまるで女学生の読もの見たいだからなあ」と私は言わずにいられなかった。 土方先生はむっと顔色を変えたらしく黙ってしまった。私は余り土方先生を怒らせるのを好まない。けれどシュトルムに至ると我慢がしきれなかったのである。 「岸田劉生」の売れる話などに転じて私はどうにかそこを一応収めることができた。余り人をむかむかさせるな、殊に近しい人をば。 (後略)

昭和16年12月8日(月) 晴
 十時ごろ石井(※石井深一郎)が「おやおや未だ寝てるのか、戦争が始まったよ、シンガポールか何処かをやってるとラジオで言ってた」。 窓の下、隣りのラジオから軍楽隊の演奏が休みなくひびいてくる。私は又少時とろとろとした。
 いつもより少し早く、十二時まえに出て行くと、ペリカンさんも本当だと言う。テラオで飯を食ってると丁度十二時で、宣戦布告の詔書が読上げられた。 大学生たちは一斉に立上がり、或ものは脱帽子 半敬礼の姿勢で耳を傾けた。私はこうした景色の傍観者として立つのを意識する。(後略)

昭和16年12月26日(金) 雨・後曇
小雨の朝(※故郷に)帰着。家には父と母、姉、昌幸子、それからさち子と俊介、女中が二人。はつゑのことはまだ話に出なかった。
東京もそうであったが、汽車の中も、家へ帰ってもショーヴィニズムの氾濫横溢である。 その上、「公論」を見ると、昔中学校時代に一緒に回覧雑誌をやった金子謙一が保田、浅野(※浅野晃)あたりを讃えている文章に出会った。 ずいぶん久しぶりではあるが、このように人はたやすく理性を失うものか。(後略)

昭和17年1月31日(土) 晴
(前略)
 生田(※生田勉)と富岡鉄斎の展覧会を見に行く。上野は春日のように照っている。鉄斎というのは写真版などで見たかぎりでは自由自在な筆づかいに敬意を感じていたが、それほどのこともなかった。 よいものはごく稀である。尤も八十才を越えると急に進歩して一人の画家として大成して居る。色彩も晩年の沈んだものには感嘆すべきものがあるけれど、線などの使い方を全然知らない。 生田は人間が皆いい顔をしてると言ったけれど、私はこういう酒脱な顔を卑しいと思う。もっと水気があるのが美しい。山と水ばかり画いていたら私はもう少し尊敬したろう。 しかし忠君愛国の画題、楠公だとか、富士山だとかをいくつも並べているところを見ると、彼が単なる技芸師にすぎなかったことを教えられる。この点は芸術至上主義的傾向を有するすべてに共通する、 例えば今日の高村光太郎のごときがそれだ。彼らは技術だけを習っているが、現実に対して何らの正しい認識も有たないので、そういう現実に直面すると忽ち自分の馬脚をあらわす。 そういう自分の弱点を避ける賢ささえもっていないのである。高村光太郎は今月は蒋介石に与える詩を作っている。――とも角、鉄斎が五十か六十で死んだら彼は三流どころの画家であったろう。 八十以後にあのような発展をもつということは稀有でもあれば、驚異に値することでもある。いずれにせよ、私は未完成のまま限りない将来を偲ばせてやまない華山の方に遥かに遥かに敬礼する。 私は鉄斎の画だったらほんの二つか三つしか欲しくはないであろうが、華山のだったら断片零墨でも珍重するであろう。(後略)

昭和17年2月4日(水) 曇
(前略)
 小山は七時ごろ来る。 歌の話をしながら紅茶をすすりながら十時まで喋っていた。 小山は一月から日本精神研究所に入った。ソフトなどかぶり、青と牡丹色の派手なネクタイをしている。 私はつい小説を書いた話をしてしまった、生田にも洩らしたし、これで四人ばかりに喋ってしまったことになる。 (後略)

昭和17年2月15日(日) 雪
 今暁から雪が降り出した、朝九時に目をさましたと思うと、時計がっていて、それは十二時すぎで、 小山が枕元に座っていた。 小山は折にすしをもって来てくれたので、火のけのない火鉢にいない火鉢に対いながら、湯だけ下からもらって来て、飯を食った。 それが終るともう二時だ、生田の家をたずねる約束があったけれど、まだ止まない雪のゆえにためらい始めた。 小山と明でコーヒーを飲んだあと、とうとう小山も誘って三鷹まで出かけることにした。 私は四方より東の江戸川下流の方が好きだ。 しかし今日は用事で出かけるのだ。
 三輪(※三輪福松)は先に来ていた。 早くになったら直ちに吉祥寺や中野の古本屋を見歩くつもりだったが、お喋りしているといつか十時すぎてしまった。 レオナルドの翻訳打合せどころか、雑談会だった。こういうお喋りも毎日では頭が痛くなるが、一月に一回ぐらいなら疲れを休めるのに適当。 結局はカステルの色鉛筆と古本の話に着いてしまう。
 凍り出した雪の上を三鷹駅に歩いている途中、ラジオがシンガポールの陥落を報じていた。 私も五合の配給酒にありつけると言った。下宿へかえると十一時半、 それから火をおこし、シモンズの訳を始めた。 夜はいたいまでに冷え、火は直立消えとなる。
 小山の話によると、田中一三は満州で戦死したというのはうそで、上官と合わず、ピストル自殺を遂げた、 そのため遺書も最後まで持っていたノートも焼却されてしまったのだという。印刷にして一応流布しておかないとそういうみじめな目に会う。

昭和17年3月29日(日) 曇・時々小雨
 夢の中で立原に会った。数寄屋橋の上で、生きてるときと同じようにロバのような目をしていた。私は彼が死んでることを承知していた、だからどうしたのかたずねた、 「余りさびしいから迎えに来た」と立原は腕を引いた。「まだ早すぎるよ、だめだよ」と私は、別に少しもこわく感じないで答えた。 「それじゃ仕方がないなあ」と立原は答えた。
 きょうは立原の四回忌であった。昨夜一度水道橋で別れた寺島(※寺島友之)が、小田急か何かの連絡社線がなかったからと又もどって石井の室に寝ていた。 明石と三人、昼飯を食ってもどると、小山が待っていた。家から食パンと卵を送って来ていた。
 谷中に小山と着いたのは二時ごろだった。深沢紅子さん、水戸部さん(※水戸部アサイ)、生田、小山、僕それに立原のお母さんと達夫さんだけで、のり巻が来るまで喋っていた。(後略)

昭和17年4月18日(土) 晴(※ドーリットル空襲)
 朝、寺島が来たが又ると今度は小山が来た。 私が床を離れようかどうしようかしてると、頭の上を極めて低く飛行機の過ぎる音がし、続いて二、三発花火のような音がした。 「敵の飛行機か」と小山が冗談言った。 少したつとサイレンが鳴り出した。 空襲警報らしい。 それから小山と昼飯食うまえに昨夜のを返しに山喜房へ行くと、けい子が先刻アメリカの飛行機が赤門の上を飛んで印が見分けられるぐらい低かったと言った。 まさかと言ったが、 どうやらアメリカか何処かのが来たことは本当らしい。 寺尾へ行っても飯を食ってる人は一人もいなかった。 道へ出て興奮している、 爆弾を落したのが見えたという、西の方にに煙が上っていた。 小山とは何処かへ散歩するつもりだったが、 すでに交通は停まってそれどころではないので、帝大新聞へ行った。 大学生が皆腕章を巻いて、春の日のうららかな草の上に集まっている。 上の小学校の屋上にも監視が立っている。 東に も北にも煙が上がり、又頭の上を二、三台逃げるように行くと、高射砲が鳴り出した。
 四時にやっと解除になった。 月島の方や川崎の方が燃えて居り、 牛込の山伏町あたりにも焼夷弾が落ちたという。 皇室は御安泰でいらせられるとラジオで言ったけれど、「そんなことは誰も気にしてはいない」などというものがあった。(後略)

昭和18年1月18日(月) 晴
(前略)
 私は自分ながら醜いと思いながらどうにも抑えられないことがある、それは寺島と小山君が仲がよいと嫉妬を感じること、これである。 特に寺島の送別会の夜、寺島が小山に「俺の妹をもらってくれ」と言って以来はっきりそれを意識し出した。 私は美知子さん(※後の夫人)を見ていて私よりも小山君の方がふさわしいとふと思った。 そして小北のところで写真の娘さんをいいとほめたとき、寺島が明平の好みだから是非世話をしてもらえ、としきりに言ったのは酔っていたとはいえ一種の排口(はけぐち)ではないかと疑われたりした。 寺島の目には小山の方がよいと見えたら私はあきらめる以外にはないのだから。もちろん寺島はそんなに深く考えてもいないらしい。(後略)

昭和18年5月7日(金) 晴
(前略)
 いつぞやの日記にヘツセにならって「世界文学をどうよむか」考えたことがある、あれからどれだけたったか知らんが、今とは多少ちがっているであろう。後々の覚えのためにここに又記しておこう。(中略)

 東洋には作品はあるが、作者はない。「千一夜物語」は東洋人の織り上げた美しい巨大な夢だ。支那には孔子の「論語」が最も美しい。老子を私は部分的にしか理解しない、 荒踏にすぎる、それに比べると論語は一語々々金を伸べたようだ。思想家としては「墨子」。歴史は「左伝春秋」。「戦国策」。「史記」は諸侯の興廃を記したところで、 一般にいう列伝をそれほど高く買わない。「水滸伝」「三国史」はまだ読んだことがない。しかし一度読んだ「聊斎志異」の艶福な怪談は忘れがたい。けれど、 何といっても軟文学は「紅楼夢」に尽されるであろうか。近代では大魯迅が卓然として世界の水準を凌いだ。
国文学で必読の書は、「万葉集」「古事記」。「竹取」「源氏」「今昔物語」。「保元・平治物語」「金塊集」。「徒然草」、「歎異鈔」「一言芳談抄」「夢中問答」。西鶴。 芭蕉「俳句」及び「俳諸」、蕪村の一部。宣長「玉くしげ・秘本玉くしげ」。「五輪書」。江戸文学を一つというなら「浮世風呂」を加えよう。「能狂言」の極く少数のもの。「蘭学事始」。

 明治以後では、四迷の「浮雲」他二作。鴎外の全部。藤村詩集。子規の小説をのぞく全部。独歩。漱石の「猫」と「坊ちゃん」、荷風「おかめ笹」「腕くらべ」「あめりか物語」「江戸芸術論」「渥束椅謂」。 春夫「田園の憂欝」「都会の憂欝」及び初期短篇。有島武郎全部。志賀直哉「暗夜行路」。芥川「河童」以下晩年の作品。
歌は左千夫、茂吉。詩は萩原朔太郎。なほ福沢諭吉の文章、特に「自伝」と「文明論の概略」。

 歴史家では原勝郎のもの。又魯庵の随筆全部。

 現代では小林。中野。それから梶井。横光は「家族会議」以前。川端は「伊豆の踊子」に尽きる。
まだ書きおとしはあるが、ここでやめる。

昭和18年8月29日(日) 晴
(前略)
 きょうは弟は点呼だった。川口も軍医中尉の服に勲六等旭日章をつけて出かけると、俊介や千鶴子が「兵隊ちゃん、兵隊ちゃん」と言ってよろこぶ。 芥川の言うとおり兵隊と子供とは同じ趣味だ。 竹槍、銃剣これが日本人の武器であり、絶えず少佐殿が主張しておられる決戦用の道具だ。まことにそれらは大和魂にふさわしい。竹槍と銃剣はノモンハンでソ連の戦車に千本一からげに幾十束がふみつぶされた、 竹矢来をふみにじるのと大差ないのだから。ソ連にもかなわぬし、況んやアメリカ兵に対してをや。それでは何のためになるかといえば、まず支那人に対して役に立つ。 次に満州人、朝鮮人、そして最後に最も重要なる任務として日本人の暴民に対して威力を発揮しうる。
 ともあれ銃剣がいかにはかないものであったか、アッツ島の悲劇が如実にこれを物語っている。きょうの新聞によれば二千五百四十余名が全減した。 それは悲壮ではあるけれど統帥の失敗による犬死の見本であるにすぎぬ。これがよき教訓として国民の生命を大切にするよすがとでもなればこの二千五百名は犬死ではない、 が同じ悲劇が南方でも繰返されるのをやめないであろう。成程アメリカ人は人間が貴重な生命をこんなにもそまつに扱えるものかとびっくり仰天したかもしれぬ。 丁度われわれが生蕃人の乱暴さに恐怖を感じるように。しかしそれにも拘らず、二千五百名が一人のこらず消え去ってアッツは結局悠々とアメリカ人の拠るところとなってしまった。 「アッツ島につづけ」という標語が出来上った。しかし行賞となると「勇士を代表して山崎部隊長」だけが「二級進級した」のである。
 職業軍人に対してのみひたすら恩賞が加重される、彼らはどんな勇敢な死に方をしようともそういう特別の賞与に値しないはずなのに。 もともと彼らはそういうふうに死ぬために平和なときから飼われてあるのだから。大佐から中将になれば遺族扶助料だけでも大したちがいだ。しかし一等兵が上等兵に、 或るは中尉が大尉になったところでそれは遺族に座布団一枚多く与えるがほどもない。(後略)

昭和20年8月15日(水) 晴
(前略)
 午前中何も手がつかぬ。希望にあざむかれることを自ら警めたが矢張落着かぬ。十時警戒警報が出て防空情報の途中、官庁告示として、 本日正午全員参集、重大放送を行う、というのでさてこそと思った。 正午にはラジオの前に父と母と幸子と四人で座った。果して降伏の詔勅だった。矢張り胸がつまりそうだった。
 隣へ行くと兵隊が二人、村のものが二、三人集って、とうとう最後までやることになったそうな、と言う。 ラジオが聞きづらいので最後の一人まで云々という個所だけ耳にしたらしい。 説明してやると、区長の登三さは向うが上陸してくるまでやるべきだ、と主唱し出す。 自転車で何処かを一廻りして来て十人中七人までは戦争終了に反対だ、向うが来れば男は皆殺されてしまうか、何もかもとりあげられて餓死するかだ、といきり立った。 「あーああ、特攻隊の人々も皆犬死になってしまった、そうなるのではないかと思っていた」と吐息したのは三人息子を戦死させた倉吉である。(後略)


【参考サイト】『杉浦明平暗夜日記』人名索引 (鳥羽耕史研究室サイト)

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