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勢海珠璣  【江戸時代末期 ・三重県の漢詩人のアンソロジー】


『勢海珠璣』

(せいかいしゅき:たまき[玉城])

嘉永六年序[1853] 家里松オ

22×cm 序1,例言1,本文27,跋1 丁

版元: 記載なし



『勢 海珠璣』

二松學舍大学所蔵本(日本漢学画像データベース)




伊勢武士貽笑於治承。今伊勢棊又見謾矣。
堂堂大國廟所尊置、焉當愞劣如是耶。
特風雅之道、拙翁樹幟於北。雲淙應之於南。
其佗接武踵響之作、可上口者孔多。
松坂家里誠縣、摘而刊之寵以佳名曰勢海珠璣。
足以為勢人吐氣矣。誠縣白皙韶秀心之與詩、皆如其貌。
此集所収、其平素交遊相與之迹。
因开師友亦可以筮誠縣其人、
豈子輿氏所謂「一國善士」者歟。
若能進友「天下之善士」、著作林林、予復将樂而序之也。
嘉永六年歳次癸丑[日寒]十一月望
 津城學友 土井恪 識  井野問 書


伊勢武士(※伊勢平氏)は治承(※の乱)に於いて笑ひを貽(のこ)し、今、伊勢の棊(※地区?)、又た謾(あなど)らる。
堂堂たる大國、祖廟の尊置する所、焉んぞ當に是の如く懦劣(だれつ)なるべけんや。
特に風雅の道は、拙翁(※齋藤拙堂)北に於いて幟を樹て、雲淙(※鷹羽雲淙)南に於いて之に應ず。
其の他、武の踵を接する響きの作、口に上すべき者は孔(はなは)だ多し。
松坂の家里誠縣、摘みて之を刊し、佳なるを以て寵し、名づけて勢海珠璣と曰ふ。
以て勢人の吐氣と為すに足らん。
誠縣は白皙韶秀、心の詩と與(とも)にあるは、皆な其の貌の如し。
此集の収むる所、其の平素の交遊、之を相ひ與にする迹なり。
因开師友亦た以て誠縣其の人を筮するに可なり。
豈に子輿氏(※孟子)の所謂「一國善士」なる者ならんか。
若し能く友を「天下の善士」に進むれば、著作林林として、予は復た将に樂みて之に序さんとする也。
嘉永六年、歳次癸丑、[しもつき]十一月の望(※15日)
 津城の學友 土井恪 識す  井野問 書す



[跋]
珠産於諸國海中出。吾伊勢者最有名其採之也。
淘沙礫汰磯砆、而後上下之品判矣。
余撰所詩亦奚以異此。但謾然采之淘汰、
未至其品之上下不能遽辨也。
況滄海渺茫、安得無遺珠耶。
然比之諸國所産、孰美孰否。無必有能辨之者。
癸丑暮秋 家里衡 識於讀我書齋

[跋]
珠は諸國の海中に産して出づ。吾が伊勢は最も其の之を採るに有名なり。
沙礫を淘(よな)げ、磯砆を汰(よな)げ、而して後、上下の品を判(わか)てり。
余の撰ぶ所の詩も亦た奚(なん)ぞ以て此に異らん。
但だ謾然と之を采りて淘汰すれば、未だ其れ品の上下に至らず、遽かには辨ずる能はざる也。
況んや滄海の渺茫たる、安んぞ遺珠無きを得んや(※きっと遺珠はあるだろう)。
然らば之を諸國の所産に比べて、孰れか美とし孰れか否とす。
必ずしも能く辨ずる者の有ること無からん。
癸丑(1853嘉永6年)暮秋 家里 衡 讀我書齋に於て識す。

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