大垣漢詩壇の機関誌投稿者:やす 投稿日:2011年 6月 8日(水)20時00分12秒 |
『淺野晃詩文集』
雑誌に載った書評なども載り次第、紹介したいですね。 さて、久しぶりに古書目録からよい買ひ物をしました。 小原鉄心の衣鉢を継ぎ、野村藤陰を擁して戸田葆逸(葆堂)が大垣で編集してゐた漢詩雑誌の合冊です。 『鷃笑新誌』 1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 16.9×11.0cm 各号9-11丁 各号定価5銭 鷃笑社(大垣郭町1番地)刊 行 鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介 各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四 郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社 「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってる謂で、毎度儒学者の謙遜で す。 どこの図書館にも揃ひの所蔵はないやうですが、明治16年26号までが確認されてゐるやうです。該書は刊行元で余部を合冊したものでせうか、きれいな製 本です。毎号巻頭を先師鉄心の詩文が飾り、招待寄稿者のほか、杉山千和、溪毛芥、江馬金粟ほかの面々。 いづれ全文画像 をupしますのでお楽しみに。 『鷃笑新誌』の引 故鉄心小原先生、往年吟壇に旗を竪(た)つ。嘗て一社を結び、号して「鷃笑」と曰く。 一時の文客靡然として之に従ふ。盛んなりと謂ふべし。既にして世故変遷し風流地を掃ふ。 先生また尋(つ)いで世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。 吾が社友、葆逸戸田詞兄は先生の侄孫、而して少時その社盟に預かる者なり。 一日、余に謂ひて曰く、 「方今、奎運(文運)旺盛にして文教大いに興る。吾が大垣の若(ごと)きは、嘗て文雅を以て著称せらるも、乃今、寥々として此の如きは、吾、常に此に於い て慨き有り。 因って一社を設け、以て故鉄心の蹤を継がんと欲す、如何。」と。 余、曰く、「善きかな。」是に於いて檄を移(とば)して同志を誘ふ。応ずる者は殆ど二十名。 乃ち相ひ約して曰く、 「毎月一会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒、無量にして乱に及ばず、分韻、詩を賦すも、金谷の罰は設けず。ただ其れ適(ゆ)く所のみ」と。而して社 名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。 是れ即ち旧盟を継ぐの意を表すなり。そもそも鉄心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て補佐の重きに任ず。為に士民の瞻仰する所、退食の暇には鵬翼を 枉げ鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はざるなり。 今、我輩、固(もと)より先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鶯鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。 然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存するは、果たして如何なるかな。 一月に詩文若干を得、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。 同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要(もと)めん。 藤陰野村煥識 |
増子氏の書評投稿者:二宮佳景 投稿日:2011年 6月 4日(土)15時25分22秒 |
いい書評だと思う。 http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk110522-3.html |
浅野晃さんの著書投稿者:根保孝 栄石塚邦男 投稿日:2011年 5月27日(金)15時44分46秒 |
読んでみます。浅野 研究のさらなる発展を期待します。以上、もうコメントすることはないでしょう。私は、「月刊文学街」で同人雑誌評を毎月担当してますので、機会がありまし たら、浅野晃さんの関連にふれたいと思います。お騒がせしました。皆さまのご健筆お祈りいたします。 |
(無題)投稿者:やす 投稿日:2011年 5月27日(金)11時59分6秒 |
お
説は尤もの事ながら、この掲示板は自説を主張して議論する処といふより、同好の人たちが寄合するところなのです。さう管理人たる私が決めてをります。もし
どうしても「淺野晃は私の師だが超一流じゃなかった」といふことを「弟子」として云ひたくて仕方が無いのでしたら、御自身のブログを立ち上げて開陳されて
は如何でせうか。 本当に石塚様が弟子ならば、ここは「よその家」なのですから、 「間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」といふマーク・トウェインの言葉や 「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」といふ論語の言葉を思ひ出して頂きたいものです。 石塚様はたしかに淺野晃を得難い先輩と仰ぐ後輩の一人かもしれませんが(私もさうです)、先師に対して限界を言ひ渡すやうな評に対して「ね、さうでせう? 先生の限界ですよね。」なんて同じく本人に言ひ渡せるほど親しい間柄ではなかったのでしたら、いくら相手がおおらかな教育者であっても「弟子」を名乗 るのは、やはり僭越ごとに感じます。 途中経過ながら書評(といふより思ふところ?)をBook Reviewにupします。 しばらくは手を入れて更新するかもしれません。よろしくお願ひ申し上げます。 |
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駄文を読まされて、いらいらするわ投稿者:二宮佳景 投稿日:2011年 5月27日(金)00時28分20秒 |
やす様。宣言を破
棄して、最後にこれだけ書きこむよ。 根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。 それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初 の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と いうコウモリの優越感が透けて見える。 改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、 必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、 歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連 の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、 浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。 根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫 や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強 く思う。 それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から 感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧 力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を 「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。 それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の 教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。 門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無 駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ んでした。 |
(無題)投稿者:やす 投稿日:2011年 5月26日(木)23時36分23秒 |
神様でなくとも師と
呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。 普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、 ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、 中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。 ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。 |
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(無題)投稿者:やす 投稿日:2011年 5月26日(木)21時44分21秒 |
石塚様 私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任され る石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。 弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云っ てきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、 私は思ひます。 それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したの なら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。 今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。 |
評価基準は投稿者:根保孝 栄石塚邦男 投稿日:2011年 5月26日(木)18時17分56秒 |
「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方と
は、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を
罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。 私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひ とりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではな いと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰 の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたから ね。 新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あな たもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬で きない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つ でした。 |
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お世話になりました投稿者:二宮佳景 投稿日:2011年 5月25日(水)23時41分31秒 |
やす様 お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。 一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。 後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。 |
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浅野晃について について投稿者:やす 投稿日:2011年 5月25日(水)07時32分18秒 |
「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節し
てきた日和見男」 「怪物」…室生犀星 とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。 似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。 変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大 事ですよ。 だから「日和見男」ではないんです。 さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。 そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。 伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します(むしろ反対に教示 した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。) もっとも四季派好き な私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、 さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。 「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」 そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。 |
再び浅野晃について投稿者:根保孝 栄石塚邦男 投稿日:2011年 5月25日(水)05時41分47秒 |
浅野晃は、文学者
としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を
擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。 ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってま すが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、 伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明 らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。 浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という 方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。 それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、 文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤 千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿 をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いして るでしょうし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。 |
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伊藤千代子について投稿者:やす 投稿日:2011年 5月15日(日)00時31分53秒 |
二宮様、あらためてはじめまして。雑誌『昧爽』での御文章をいつも拝見してをりました。伊藤千代子については、二宮様と全く同じ理由 から、私は「とても 幸福」ではなく、当たり前のことですがやはりとても不幸だったと思ってをります。さうでないと、淺野晃もまた転向などせずに死んでゐれば幸福だったなんて 云ふ人が現れてこないとも限りませんから(笑)。 「とても幸福」といふのは、むしろ千代子の悲劇を主義主張であげつらふ方々の、事情と思惑に於いて、さうなのでありませうが、とても 残酷な幸福です。立 原道造や中原中也も戦争を知らずに死んでいったから幸福だったといふ人がをります。彼らの親友ならばさう言ってもいい。反対に彼らを歴史的人物としてみる ことのできる人ならさう言ってもいい。しかし私の立場は、この世代の人たちとは、先師との縁を以て地続きにゐたい(まだぎりぎり許されるのではないか)と いふ感覚で接してゐますので、さうは言へません。やっぱり「淺野晃の妻」ならば、生きて居れば必ず転向したと思ふし、死因が肺炎といふのは雨中に立ちつく しでもしたのでせうが、未だ夫の変心を理解できなかったとはいへ、「兄さん」を恨んで死んでいったとはどうしても思はれない。二人を引き離して考へるの は、死に別れた夫婦に対して失礼な話で、だからこそミネ夫人は『幻想詩集』に激怒したんだらうと思ってゐます。(二宮様が記述された後半部の詳しい事情 は、『昧爽』14号の「淺野晃ノート番外編」における中村一仁様の収めやうのない怒りを御参照のほど) けだし若き日に生涯の傷となった唯一人の女性を心に刻んでゐる文学者は多いですね。森鴎外はもとより、川端康成、伊東静雄、三好達 治…。伊藤千代子との 関係については、日夏耿之介の死別した前妻と並び、文壇でもタブーに類することだったのでせうか、今回『淺野晃詩文集』に収録された未発表原稿「千代の死」には、多くの注目が集まるものと思はれますが、合せて「水 野成夫のこと」に描かれてゐる、昭和3年3月15日に始まった一斉検束の様子なども、なるべく多くの人に読んでもらひたいと思ったことです。 連休中は私事にかまけて何も書けませんでした。中村一仁様が『昧爽』に連載された「淺野晃ノート」に出てくる人達の名が、この本を読んだ後では親しみをもって 理解できるやうになりました。公私ともに多事忙殺中ですがいづれ拙い書評を掲げたく、このたび思はぬ震災被害に遭はれた中村様へも何卒よろしくお伝へ頂け ましたら嬉しく存じます。 コメントありがたうございました。 |
伊藤千代子の栄光と悲惨投稿者:二宮佳景 投稿日:2011年 5月14日(土)13時05分11秒 |
夫である淺野晃の解党の主張に衝撃を受け、一時は統合失調の症例を呈し、最後は松沢病院で肺炎で亡くなった伊藤千代子。ネットで調べれば、ある特定の政党
やその同調者同伴者が彼女を持ち上げているのが分かる。若くして死んだことは気の毒という他ないが、実は彼女は、とても幸福だったのではないか。 まず、89歳の長寿を全うした淺野と異なり、長生きせずに済んだからだ。千代子があの三・一五事件の後も生きていたら、彼女に転向は無縁だったろうか。 佐多稲子が戦争中、戦地に慰問に出かけたように、千代子も転向して国策に協力するような事態もあり得たのではないか。そう思うと、あの時死んで、千代子は 幸せだったのだと思う。 また、戦後の日本共産党の歴史を見ずに済んだのも幸福なことだったと思う。今でこそ徳田球一らの「所感派」は党史の上で分派ということになっているが、 千代子は長生きしていたら「国際派」に属しただろうか。それとも「所感派」に属して北京からの指令に従って武装闘争路線の片棒をかついだであろうか。 その後も共産党は多くの文学者や文化人を除名処分にしているが、千代子は例えば蔵原惟人のように、最後まで党に忠誠を誓っただろうか。獄中の千代子につ いて証言を残した女活動家たちの何人かも、結局は党から切られる形になった。佐多稲子にもその思いを禁じえないが、死んだ千代子への追憶が誠実であればあ るほど、「家」であったはずの共産党から除名された彼女たちの悲劇が一層痛ましく感じられてならない。 小林多喜二や宮本百合子のように、どんな拙劣なものでも小説や評論を千代子が書き残していたら、それは「研究」の対象になりえただろう。しかし、夫の母 親あてに書かれた書簡、あるいはそこに記された心情の美しさとやらを称えることが果たして「研究」と呼ぶに値するものなのかどうか。門脇松次郎や遠藤未 満、紀藤義一や小池豊子、さらには楠野四夫といった淺野晃を直接知る、「苫小牧文化協会」の系譜に連なる人物が相次いで鬼籍に入る中で、伊藤千代子の名前 を出したいがために淺野を語るような人物が大きな顔をし出すのは、時間の経過の中でやむを得ないのかもしれない。しかしその楠野さんが名誉会長を務めた苫 小牧郷土文化研究会が刊行する『郷土の研究』第9号を見て瞠目せざるを得なかった。というのは、楠野さんの追悼特集を組んでいるのはいいが、御息女の口か らあり得ない発言があったからだ。札幌の御息女に電話で確認したら、「父の個人的なおつきあいを私は知らない。それはインタビュアーの人が書き足したこ と。申し訳ないことをしました」とのこと。やっぱり! 何より、あの伊藤千代子の書簡発見で一部の連中が盛り上がるのを、楠野さんが苦々しい思いで見つめ ていたのを、直接知っている。あの時、入谷寿一が編集した『苫小牧市民文芸』の千代子特集にも、楠野さんは沈黙を守った。あちこちの団体などから寄稿や証 言を求められたものの、一切拒絶されたのだった。 「伊藤千代子研究における歴史修正主義」になるか「『郷土の研究』における歴史修正主義」になるかは、まだ分からないが、そんなタイトルで文章を書いて みようと考えている。苫小牧市立中央図書館の、淺野晃に関する展示コーナーに千代子の肖像写真や書簡が陳列されるのも時間の問題だ。しかし、伊藤千代子は 苫小牧と直接、何か関係があったのだろうか? 何もない。ただ地元の党員や活動家が騒いでいるだけの話で、公開された書簡が注目されたのも公開当初だけ で、その後は他の資料同様、開示請求は激減したという。 末筆ながら、中嶋さんのますますの御活躍と御健筆をお祈りいたします。 |
「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」投稿者:やす 投稿日:2011年 5月 1日(日)23時06分28秒 |
岐阜の大牧冨士夫様より『遊民』3号御寄贈に与りました。左翼文芸史の回想を連載されてゐるのですが、今回は「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」。未
知の人ですが、詩人西澤隆二の元妻といふことで、佐多稲子への問ひ合はせの手紙を始め、新資料公開の意義は深からんことを思ひ御紹介します。 福井県丸岡町一本田にある中野重治の生家跡は見学した事もあり、あらためて彼の友人に「ひろし・ぬやま」といふ風変りな名の詩人や、妹に中野鈴子といふ 詩人があったことなど思ひ出しましたが、定職のない夫隆二を支へるために働きに出た銀座のバーで、ミイラ取りがミイラになったのか、生活が荒れてゆく同志 である妻の様子を、見るに見かねたのでせう、彼らの師であった佐藤春夫が仲裁に乗り込んできたといふ一件。その後いくばくもなく短い夫婦生活は清算された と云ひます。御存知のやうに「門弟三千人」を誇った佐藤春夫は日本浪漫派筋の弟子も多数擁する文壇の大御所で、離婚後の彼女はその許に通ったといふことで すから、如何にも懐が深いといふべきか。むしろ佐多稲子の回想小説で、親しかった気持ちが「しゅんと音をたてて消える」と書かれたのも仕方なく、旧と同志 だった誰彼が、彼女の存在を(西澤氏の再婚にも憚ってのことでせう)「なかったこと」にしたがってゐる事情など、イデオロギーによる政治闘争の裏側で、時 代に翻弄され捨てられていった一女性の不幸が、聞き出せば聞き出すだけまざまざと浮き彫りにされてくるやうで、戦時中、同郷の中野鈴子に宛てた、詩のやう な彼女の手紙は痛ましい限りです。その一節。 スズコサン、ワタシタチハ昔ノユメヲモッテイル。ソノユメカライロイロシカヘシヲウケ、コウシテイキテイル。ヒトクチニイヘバ、ワタシタチハウマレソコ ナツタノデハアルマイカ。ワタシタチハ、アマリクライクルシミニアヒ、ホントニアタマヲワルクシスギルトイフコトガアルノダ。 これら故意にたどたどしい言葉に滲んでゐるのは、もはや「転向」と呼びたい程の挫折感でありませう。社会の理不尽を具さにクルシミ、ルサンチマンを掻き 立て共に見た革命のユメ。しかし直面した現実からイロイロシカヘシヲウケ、ウマレソコナッタノデハアルマイカと、一種因業にも観ずる自責の念は、「正義」 に盲ひた自分の姿を戯画化するに至ります。戦後、元夫の幸せさうな再婚を横目で睨みながら、同じく中野鈴子宛ての手紙より。 私はふとってゐる、おまけに綿入れの重ね着ときている。山が歩いてゐるやうだ。田舎の町の角 の店屋のガラス戸に映る大きな大きな女、おおそれは何と私であった! 田舎の町の一本の本通り、本通りのつき当りは山脈だ。私はそこをのっしのっしと歩く、昨日はこの本通りに雪が降った。山脈がはげたお白粉程に雪を着た。 私はその本通りを歩く、あなたへ手紙を出しに、その手紙にはる切手を買ひに。 彼女が如何なる晩年を過ごしたものか分かりません。丁度『淺野晃詩文集』を読んでゐるところでしたから、私は淺野晃の最初の妻であった伊藤千代子のこと を思はずには居られませんでした。彼の場合は反対に、思想の憑物が落ちたのが夫の方で、若妻は夫の変心を理解できぬまま、痛ましい錯乱のうちに肺炎で亡く なってゐます。前回掲示板でとりあげた「わだつみ会」と同様、挫折を知らず死んだ女性闘士の一途さを、小林多喜二のそれとならべて「反天皇制」の殉教者と して祀り上げんとする政治活動が今も盛んだと聞きます。今回の大牧様はむしろ左翼の立場から、この「生没年不詳」の一女性のことを「忘れてはならない」人 物として、文学史の闇から救はうとされてをり、探索動機にある温かな人間観が、私のやうな者が読んでも同感を覚える所以なんだらうと思はれました。 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。 『遊民』3号 遊民社発行 \500 連絡先:三島寛様rokumon@silver.plala.or.jp |
山下肇 / 『木版彫刻師 伊上凡骨』投稿者:やす 投稿日:2011年 4月27日(水)00時12分45秒 |
池内規行様より
「北方人」第15号の御恵投に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。 池内様が私淑される山岸外史。その周辺人物として今回回顧されるのは、戦後東大教授となった山下肇氏です。池内様の訪問記や「外史忌」におけるスピーチ など、良い感じで読んでゐたのですが、終盤に至り「わだつみ会」の内紛をめぐっての書きづらい事情を、是々非々として裁断し書き留められてゐたのには吃驚 しました。いったいどういふ事情なのか、ネット上で関係記事を読むことを得、改竄された岩波文庫版『きけわだつみのこえ』を原姿に戻さうとした「わだつみ 会」役員が、「事務局」によって排除されたといふ騒動の一件を知りました。その状況に立会ひながら、事情が「全部分かっているのに事務局には無力」といふ 格好を装ひ、なほ理事長の座を墨守されたといふ山下氏の情けない俗物ぶりについては、池内様がこの一文を「知性と詩心と卑俗」といふタイトルにし、 太宰治に学んだはずの含羞の念はどこへ消えてしまったのだろう。人一倍知性に優れ、詩心に恵ま れた先生の晩年に想いを致すとき、一種痛ましさを感じずにはいられない。 と惜しみ嘆いて締め括られた通りです。前半で語られてゐる池内様とのやりとり、そのなかで明らかにされた高橋弥一氏との心温まる交流とは、如何にしても つながりません。まことに「不思議であり残念でならない」ことですが、それが人間といふものなのでせうか。晩節を汚した人物に対する回想と評価の難しさを 思ひ、また「東大名誉教授」や「岩波教養主義」の権威を後ろ楯に、戦没学徒の遺稿をイデオロギーの具に供せしめた「わだつみ会」事務局の変質にも憤りを感 じました。 山下氏が戦後山岸外史を訪ふことがなくなったのは、もちろん「君子危きに近寄らず」との打算が働いたからでありませう。しかし、それは「結婚式に呼ばな くてよかった」といふ酒席における無頼派らしい狼藉ぶりを恐れて、なんて次元の話ではなく、職場内での昇進にも影響を与へかねない「縁を切るべき日本浪曼 派の人物」もしくは「戦後は反対に共産党に入党した、激しすぎる節操の持ち主」として敬遠されたのではなかったでせうか。 若き日の山下氏のかけがへのない親友であり、ともに山岸外史に兄事して通ひつめたといふ今井喜久郎・小坂松彦両氏の戦死を、山岸外史の評価を訂正できる 貴重な証言者を失ったと惜しまれる池内様のお気持ちは察するに余りあります。同時に彼らの痛ましい戦死については、『きけわだつみのこえ』の生みの 親でも ある山下氏御自身こそ、衷情は深刻なのに違ひない訳でありますから、「不正を見て見ぬふりをすること」こそ最も恥づべきナチズムの罪だったと反省するドイ ツの戦後と深く関ってきた筈の氏にして、この不甲斐なさは一転、一層のさびしさに思はれることです。やがて共産党からも破門されたサムライの先輩は「わだ つみ会」の顛末を泉下からどのやうに眺めてゐたことでありませう・・・。 あらためてここに ても御礼申し上げます。ありがたうございました。 池内様よりは、合せて同人のお仲間である盛厚三様の新著『木版彫刻師 伊上凡骨』(2011 徳島県立文学書道館刊)を同封お贈り頂きました。「いがみぼんこつ」・・・未知の人ながら一度聞いたら忘れられない名前は、また一度会ったら忘れられない 人物でもあったやうです。洋装本の装丁に関はり、当時の芸術家たちから最も信任の厚かった木版職人であった彼は、明治気質の職人らしい、裏方としての気骨 を「凡骨」と自任したものか、名付け親の与謝野寛夫妻や岸田劉生、吉川英治らと親交を深めながら、誰彼に愛される奇人ぶりを示したと伝へられてゐます。業 績とともにエピソードも満載の一冊。重ねて御礼を申し上げます。巻末の「伊上凡骨版画一覧」リストから、家蔵本では『私は見た』といふ千家元麿の詩集がみ つかりましたが、似た感じの装釘で、中川一政の処女詩集『見なれ ざる人』にも「彫刀 伊上凡骨」のクレジットがあるのをみつけました。写真印刷版が確立す るまで、江戸和本文化の伝統が最後に燃焼した痕跡とでも謂ふべき「洋装本の木版表紙」の風合に、しげしげと眺めいってゐるところです。 |
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『菱』173号 『椎の木』の内部事情投稿者:やす 投稿日:2011年 4月14日(木)00時33分5秒 |
「モダニズム詩人
荘原照子 聞書」連載中の手皮小四郎様より、『菱』173号を御寄贈頂きました。ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。 稀覯詩誌『椎の木』については、昭和7年に再刊されモダニズム色に染められた「第3次」以降の復刻版がなく、閲覧したことも殆どないのですが、「山村酉 之助VS乾直恵・高祖保」といふ、若手編集方に確執があったなど、斯様な内部事情が語られたものに接するのは初めてだっただけに、大いに昂奮しました。 「山村酉之助というギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子が大阪に居て、これが第三次 『椎の木』の 編集者になった。費用の問題で・・・。ブルジョワだったから。それで百田さんの編集の助手みたいなことをしていた高祖(保)さんが、半分は面白くなくなっ て、まあ『苑』を自分がやり出したわけだな。 『椎の木』のアンソロジーに『苑』というのがあった。この『苑』を、私達(『椎の木』から出た者)に呉れて、椎の木社から出してくれた。百田さんは度量が 広くて、偉い!」 「春山行夫あたりが行動主義を唱えだした。これに山村酉之助など『椎の木』の人たちが引っ張られていった。春山の人民戦線にだ。江間(章子)さんもそう だった。それに対して高祖さんが、詩の純粋性、純粋性と言い出して、ぼくたちは絶対に人民戦線に引っ張られないようにしようと言った。あの時は、すさまじ かった。」 『椎の木』から分裂してできた月刊『苑』や「春山行夫の人民戦線」など、手皮さんが訂正される通り、たしかに思ひ違ひがあるものの、これまで誰も残して こなかった当時の雑誌をめぐる「気分」について、問へば問ふだけどれだけでも口をついて出てきさうな彼女の証言が、実に貴重で興味深い、といふか「面白 い」のです。これは偏へにインタビュアーとの信頼関係に拠るところが大きいのでせう。荘原照子はこの昭和10年当時、永瀬清子といふ、抒情詩人としてまた 生活人としても中庸の王道を歩いてゐたライバルをネタに、自身の「極端に走りやすい」「分裂製の強度な」性格を自嘲気味に分析してみせるエッセイを書いて ゐたらしいのですが、自分とは対極の詩人を引き合ひにして、ことさら「病苦・孤棲・貧困」の境涯を際立たせようとしてゐるのを、また手皮さんが見逃さな い。「およそ自分の思い描く自己像ほど虚像に過ぎないものはない」とバッサリ。恣意に流れがちな老詩人の回想の裏に、身を飾る韜晦を嗅ぎ分け、同時に、ま たさうであるより他なかった事情をも察して代弁してをられます。後半の、漢詩からの影響をもとに展開される詩の分析でも、詩を生活の中に捕らへるのではな く、自身が詩と化す自虐的ナルシズムの夢想に囚われてゐる詩人の発想を指摘してをられますが、鋭いと思ひます。この漢詩からの影響についてですが、儒者の 家系に育ったとは云へ、私は彼女がむしろその束縛から脱却せんとモダニズムに新機軸を啓いたとばかり思ってゐましたから、当時のエッセイにそこまで漢詩に 寄せる親愛を綴ってゐたことは初耳でした。詩の冒頭に杜甫の詩句が懸ってゐれば、モダニズム常套のお飾りにしか思ってゐなかったのでありました。『椎の 木』の現物に当たってみたいところですね。 かうして今回の連載では、聞き書きと雑誌現物との両面から、いよいよ詩人として全盛期を迎へる荘原照子をめぐる詩壇状況といったものについて考察されて ゐるのですが、『椎の木』周辺のマイナーポエット達への伏線に注目です。今回私が気になったのは「ブルジョワの息子」山村酉之助。彼は大阪人なので、素封 家の彼が主宰した『文章法』といふ『椎の木』衛星雑誌には、当時モダニズム手法で頭角を現してゐた同世代の田中克己も寄稿してゐます。(といふか御祝儀の 意味でせうが、創刊号(昭和9年2月)には乾直恵も高祖保も書いてゐるんですよね。) そして、その縁もあってか、山村酉之助は暫くの間、集中的に「コギ ト」に詩を寄せるやうになります。手皮さんが解説された彼らの「行動主義(能動主義)」が、本場フランス仕立てのものとならなかったのは、左翼潰滅後で時 が遅すぎたことがあったでせうが、スノビッシュな詩風と共同体参画への意志にどれだけの必然性といふか、実存的な拠り所があったのか、一寸みえないところ もある。発表誌の強烈な個性に引きずられ、また離れて行ったのではないか、そんな風にも考へたりしました。同様に「草食男子」だった立原道造が、血気を 奮って日本浪曼派に親炙し、離れててゆくのも、けだし当時の若者を駆りたててゐた一般の心情・気分だったのでありませう。荘原照子が山村酉之助のことをボ ンボン呼ばはりするのは、詩そのものに対する評価とともに、詩友高柳奈美がのちに乾直恵の奥さんになったこと、そして「コギト」への寄稿が「日本浪曼派の 一味」とも観ぜられて、すこぶる印象がよくないからでありませう。 次号はいよいよ『マルスの薔薇』について言及されます。さきの掲示板で触れたやうに、詩誌『マダムブランシュ』における匿名子の激辛批評が、秋朱之介の 筆になるものであるかのやうな記述が、同誌面の自己弁明記事にみられるのですが、『マルスの薔薇』を編集した稀代の装釘家、秋朱之介に関する彼女の回想は 如何なるものなのでありませう。そして彼女が強烈に意識してゐたといふライバル江間章子も、一旦は北園克衛に兄事するものの離れてゆくのですが、北園克衛 の一派についても尋ねてをれば、先日の「四季」に対するのと同様、きっと興味深いモダニズム当事者による印象・感想が聞かれたことでせう。楽しみです。 |
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新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』投稿者:やす 投稿日:2011年 4月 4日(月)19時27分0秒 |
森鴎外の短編小説『舞姫』(1980初出)の題材については、若き日の文豪のベルリン留学中の恋愛に係り、ヒロイン「エリス」の実像が小説を地で行く噂話
として度々取り沙汰され、諸説は紛々、1981年に発見された乗船名簿からたうとう「エリーゼ・ヴーゲルト」といふ本名までは明らかにされたのですが、そ
の人物像については、鴎外の没後になってから、妹小金井喜美子による「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けてゐる、哀れな女」であったといふ証言、ま
た子どもたちからは、体裁を重んずる家族からの伝聞や、古傷をいたはるやうな父のさびしげな横顔が、思ひ出として報告されてゐるばかり。鴎外自身はこの顛
末について一切を語らず、そして彼女からの手紙など一切を焼いて死んでしまったために、最も身近な関係者であった妹からの、最初にして止めを刺すやうな
「烙印」が定説としてそのまま今日に至ってゐる、といった状態だったやうです。 このたびの新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の意義は、もはや証言からは得られなくなった100年以上過去の外国人の人物像を、学術論文顔負けの実証 資料により浮かび上がらせながら、同時にそれが退屈なものにならぬやう、現地の地理・文化史を織り交ぜたスリリングな「探索読み物」にまとめ得たところに ある、といってよいでせう。綿密なフィールドワークと軽快なフットワークを可能とさせたのは、もちろん著者がベルリン在住のジャーナリストであったから、 には違ひないのですが「今にも切れてしまいそうで、けれども時おり美しく銀色に光って見える」まるで蜘蛛の糸のやうな手掛かりに縋った探索行は、資料のし らみつぶしに読者を付き合はせるといふ感じは無く、まるで知恵の輪が偶然解かれるときのやうに、徒労に終ったどん詰まりの先「本当に諦めようとしたところ で何かが見つかり、また先に続く」謎の扉の連続のやうなフィールドワークとして再体験されます。歴史に完全に埋もれやうとしてゐる一女性の正体に肉薄しよ うとする意味では、も少し豊富な材料があったらいづれ小さな一史伝と成り得たかもしれません。といふのも、これを彼女に書かしめたのは、学術的好奇心と いったものではさらさらなく、晩年の鴎外が前時代の書誌学者に感じたと同様、自らの一寸した特殊な境涯が縁となって知ることを得た、時代を異とする市井の 一人物へのそこはかとない人間的な共感の故であるからです。 そもそも小説に描かれた内容を実人生に擬へ混同すること自体、非学術的といっていいでせう。しかしあのやうな人倫破綻の告白がどうして書かれるに至った かといふ疑問には、出発したばかりの作家生命を賭した生活の真実が隠されてゐるに違ひない、さう直覚した著者によって、封印された悲劇の鎮魂が、記録を抹 殺された女性の側から、資料の積み重ねによって図られることとなり──これが小金井喜美子と同じ日本人女性の手でなされやうとするところにも意味はあるの ではないでせうか。学術的な論文ではなく、また空想がかった小説でもなく、世界都市ベルリンの世紀末からユダヤ人迫害に至るまでの文化史を、当地に実感さ れる空気とともに織り交ぜて楽しむドキュメンタリーとして、普段の仕事と変りない視線から語られるレポートの手際は見事としか言ひやうがありません。ため に、先行論文は虚心坦懐に吟味され、敬意が払はれ、また臆するところなく間違ひも指摘される。耳遠い文語体を口語体に直す配慮も親切の限り。さうして読み 進んでゆくうち、読者は「鴎外の親戚でもエリーゼの知り合いでもない私(著者)が、ベルリン在住の地の利を活かして」行なった調査の結果、その「どれが欠 けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかった」舞姫の秘密に、最後の最後、共に立ち会ふことになるのです。 奇跡的な発見の結果は、著者に当時の日本の文学者や高足のだれひとりとして予想できなかった、ペンネーム「鴎外」やその子どもたちの名付けの謎解きに も、蓋然性ある推理で挑戦させます。またそんな奇跡にこの度はどこかで私も関ってゐるらしく(笑)、ぜひ皆さまにも読んで頂きたく、御寄贈の御礼かたがた 茲に一筆広告申し述べます次第です。 六草いちか様、本当にありがたうございました。御出版を心よりお慶び申し上げます。 |
<<このたびの大震災について>>投稿者:やす 投稿日:2011年 3月25日(金)09時37分55秒 |
2万人を超える犠牲者はもとより、20兆円に上るとも謂はれる復興資金、原子力発電所の是非、全国の海岸線の防潮や避難所の移動、さらに根本的には「日本
の田舎をどうするつもりなのか」「電力浪費社会を今後も続けてゆくつもりなのか」といった問題を、このたび起こった大震災は私達につきつけてゐます。 「何でも忘れやすい日本人」ですが、世界を取り巻く現在の日本の政治・経済状況でこれらの問題に向き合へば、おそらく忘れたくとも逃れられないことがこ のさき分かってくると思ひます。さうして歴史的な危機・転換点は、政治・経済の上だけでなく、文化においても現れてくるのではないでせうか。 このたびは世を挙げての節電の呼び掛けも、電車や病院をまきこんだ計画停電を避けることができませんでした。原発の是非は措くにせよ、不要不急の電力を 規制して停電を回避できないでゐるのは政治家の怠慢であり、その関係業界の利権に屈服の様は正しく「政権の内部被爆」と呼ぶべき醜態です。これを正直に伝 へることのできないマスコミにも同様の「そら恐ろしさ」を感じてゐます。しかし突き詰めていけば「日本の田舎は再生されなくてはならない」「電力浪費社会 から脱却しなければならない」といった、人としての生き方の問題である訳ですから、これを正してゆくことができるのは、やはりマスコミの一翼を担ふ芸術、 文学の分野であるとも信じてをります。 「自粛」ではなく「意識改革」。今後、震災をきっかけに、「お金があるなら何をやっても自由」といふ、戦後民主主義が担保してきた日本人の思考が、一人 ひとりの自覚において根本的に改まることを切に望みます。 被災者の皆様に慎んでお見舞ひを申し上げます。 文学の掲示板ですが、今回の大震災は、詩文学に多大な影響を与へた「明治維新」「大東亜戦争」同様、日本の在り方を見つめ直す「国難」であるとの思ひか ら、サイトのスタンスを示させて頂きました。政治的なレスは不要です。 |
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新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』投稿者:やす 投稿日:2011年 2月 7日(月)23時15分5秒 |
長らくオークショ
ン上に晒されてゐた『五つの言葉』
(昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会
図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊
行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方
かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。 さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。 古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。 天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むな しく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠 崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。 けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品で したが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い 読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。 |
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『桃の会だより』三号投稿者:やす 投稿日:2011年 1月21日(金)05時57分32秒 |
折りしも山川京子
様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。 巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が 語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足す ことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京 「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。 徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大 戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常 にふたがる思ひです。 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。 |
山田鼎石の墓投稿者:やす 投稿日:2011年 1月20日(木)22時45分8秒 |
昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山
田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良
川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる
石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。 岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうで す。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どう なってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに 約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったので ありました。 星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの 『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。 |
『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回投稿者:やす 投稿日:2011年 1月12日(水)09時54分1秒 |
手皮小四郎様より
『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。 最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』の掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。 わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひた すために…… 野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いた neptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。 「椎の木」2年11号1934.11 彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を 刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびま す。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに 「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられま す。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞ れの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝 記資料は確保できませんからね。 今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へら てゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」され なかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。 昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出 されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であった こと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを 提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ 事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子に はなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身 する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号 でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻 いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理 由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニ ズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかっ た筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなか の配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。 その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。 |
収穫報告ほか投稿者:やす 投稿日:2011年 1月10日(月)23時45分45秒 |
さて週末土曜日は
神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。 まづは大沼枕山門 下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半 といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。 山を出ることを勧む人に答ふ 風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。 山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。 葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。 鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。 昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの 「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に 係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では 一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限 定300部の稀覯本 ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並 べて写真を 撮らせて頂くことを 忘れたのが残念でし おなじく格安で購 入した 『新領土詩集』もモ ダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジー の一冊。『四季詩集』 『コギト詩集』『歴 程詩集』『培養土(麺麭詩 かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎様から送られた 『菱』172号。追って御紹介したいと思ひ ます。 |
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