も どる

2011年1-6月 日録掲示板 過去ログ


大垣漢詩壇の機関誌

 投稿者:やす  投稿日:2011年 6月 8日(水)20時00分12秒
編集済
   『淺野晃詩文集』 雑誌に載った書評なども載り次第、紹介したいですね。

 さて、久しぶりに古書目録からよい買ひ物をしました。
 小原鉄心の衣鉢を継ぎ、野村藤陰を擁して戸田葆逸(葆堂)が大垣で編集してゐた漢詩雑誌の合冊です。

『鷃笑新誌』 1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 16.9×11.0cm 各号9-11丁 各号定価5銭 鷃笑社(大垣郭町1番地)刊 行

鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介
各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四 郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社

 「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってる謂で、毎度儒学者の謙遜で す。
 どこの図書館にも揃ひの所蔵はないやうですが、明治16年26号までが確認されてゐるやうです。該書は刊行元で余部を合冊したものでせうか、きれいな製 本です。毎号巻頭を先師鉄心の詩文が飾り、招待寄稿者のほか、杉山千和、溪毛芥、江馬金粟ほかの面々。

 いづれ全文画像 をupしますのでお楽しみに。


『鷃笑新誌』の引

故鉄心小原先生、往年吟壇に旗を竪(た)つ。嘗て一社を結び、号して「鷃笑」と曰く。
一時の文客靡然として之に従ふ。盛んなりと謂ふべし。既にして世故変遷し風流地を掃ふ。
先生また尋(つ)いで世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。
吾が社友、葆逸戸田詞兄は先生の侄孫、而して少時その社盟に預かる者なり。
一日、余に謂ひて曰く、
「方今、奎運(文運)旺盛にして文教大いに興る。吾が大垣の若(ごと)きは、嘗て文雅を以て著称せらるも、乃今、寥々として此の如きは、吾、常に此に於い て慨き有り。
因って一社を設け、以て故鉄心の蹤を継がんと欲す、如何。」と。
余、曰く、「善きかな。」是に於いて檄を移(とば)して同志を誘ふ。応ずる者は殆ど二十名。
乃ち相ひ約して曰く、
「毎月一会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒、無量にして乱に及ばず、分韻、詩を賦すも、金谷の罰は設けず。ただ其れ適(ゆ)く所のみ」と。而して社 名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。
是れ即ち旧盟を継ぐの意を表すなり。そもそも鉄心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て補佐の重きに任ず。為に士民の瞻仰する所、退食の暇には鵬翼を 枉げ鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はざるなり。
今、我輩、固(もと)より先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鶯鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。
然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存するは、果たして如何なるかな。
一月に詩文若干を得、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。
同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要(もと)めん。
                     藤陰野村煥識

増子氏の書評

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 6月 4日(土)15時25分22秒
  いい書評だと思う。

http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk110522-3.html

浅野晃さんの著書

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月27日(金)15時44分46秒
  読んでみます。浅野 研究のさらなる発展を期待します。以上、もうコメントすることはないでしょう。私は、「月刊文学街」で同人雑誌評を毎月担当してますので、機会がありまし たら、浅野晃さんの関連にふれたいと思います。お騒がせしました。皆さまのご健筆お祈りいたします。

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月27日(金)11時59分6秒
  お 説は尤もの事ながら、この掲示板は自説を主張して議論する処といふより、同好の人たちが寄合するところなのです。さう管理人たる私が決めてをります。もし どうしても「淺野晃は私の師だが超一流じゃなかった」といふことを「弟子」として云ひたくて仕方が無いのでしたら、御自身のブログを立ち上げて開陳されて は如何でせうか。

本当に石塚様が弟子ならば、ここは「よその家」なのですから、
「間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」といふマーク・トウェインの言葉や
「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」といふ論語の言葉を思ひ出して頂きたいものです。

石塚様はたしかに淺野晃を得難い先輩と仰ぐ後輩の一人かもしれませんが(私もさうです)、先師に対して限界を言ひ渡すやうな評に対して「ね、さうでせう? 先生の限界ですよね。」なんて同じく本人に言ひ渡せるほど親しい間柄ではなかったのでしたら、いくら相手がおおらかな教育者であっても「弟子」を名乗 るのは、やはり僭越ごとに感じます。


途中経過ながら書評(といふより思ふところ?)をBook Reviewにupします。
しばらくは手を入れて更新するかもしれません。よろしくお願ひ申し上げます。
 


師と弟子

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月27日(金)01時53分37秒
    文学の先輩や師とは宗教における教祖ではないです。弟子と言えども自分の意見は持つべしです。浅野晃先生とは言わずに、浅野晃と私が書くのは、彼の文学的 足跡すべてを許容しているわけではないからです。浅野晃は、その点では自由主義者でした。そして平等主義者でした。自分の文学観に反する弟子も受け入れた おおらかな教育者でした。それが彼の魅力であり、また弱点でもあったでしょう。かれ自身、右翼から左翼、そしてまた、左翼から右翼へと変節しましたが、そ れは教条主義者ではなく、原理主義者ではなく、自由主義者であったからです。彼は純粋の学問的共産主義は89歳の亡くなるまで認めていましたが、一党独裁 の政治的な変形共産主義には断固として反対しております。個人のの自由を認めた上での経済的、政治的共産主義を念頭にしていたのですが、当時の日本共産党 はかれの理想に反したものに映っていたのでしょう。中国やソ連の一党独裁の共産主義には最後まで批判的でしたし、彼の平等主義、自由主義的体質では当然で あったでしょう。日本の歴史的民族性に想いを寄せた彼が、日本民族の象徴としての天皇制を熱烈に容認して右翼と言われたのも、彼が日本人の資質を愛したか らで、それは彼の古典への想いから醸成されたものであったでしょう。
 私は浅野晃という文学者を時代に翻弄された悲劇の文学者であったと思いますが、右左ブレた生涯は決して誉められたものではなく、もっと周囲を納得させる 処世があったのではないかと思うだけで、偉大な一流文学者であったと思います。ただし、文学史的に見れば、超一流でなかったのは衆目の認めるところで、そ れを私も宜うということであります。
 日本人の多くは、議論に慣れていません。自説に固執して、異説を忌避する単純な原理主義者が多数を占めているのは悲しい事です。議論は新しい見方を獲得 するための道筋であり方法であることの意味を、確認して謙虚に議論しようではありませんか。私の意見に反論があるなら、私を説得する論理を展開していただ きたいと思います。
 物事は良いか悪いか、気に入るか気に入らないかで判断するのではなく、私たちは論議するとき、真摯に異説に耳を傾ける許容範囲の広い心を互いに持って論 議をすることではないでしょうか。論議によって新しい視野を獲得できれば私は幸せです。この場でも大いに論議し勉強したいものです。
 私も自説を主張します。皆さんも自説を主張していただきたい。歩み寄れるところ、歩み寄れないところを検証して、浅野晃像を追究したいものです。
 

駄文を読まされて、いらいらするわ

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月27日(金)00時28分20秒
   やす様。宣言を破 棄して、最後にこれだけ書きこむよ。
 根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。
それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初
の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と
いうコウモリの優越感が透けて見える。
 改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので
あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み
を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、
必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、
歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連
の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、
浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。
 根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫
や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強
く思う。
 それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え
ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から
感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ
らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧
力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を
「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。
 それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の
教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。
 門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き
たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無
駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ
んでした。

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月26日(木)23時36分23秒
  神様でなくとも師と 呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。

普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、
ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、
中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。
ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。
 


浅野晃の虚像と 実像2

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月26日(木)22時38分19秒
    郷土文研の門脇松次郎さんとは若い頃から「居酒屋鍋万」で酒を酌み交わした先輩でしたし、成田れん子の遺作保存に力のあった紀藤義一さんは共に同人誌を出 した仲ですし、楠野さんは私が新聞記者時代、図書館長でしたし、楠野さんの娘さんは、新聞社時代、私の部下でしたので、苫小牧の浅野晃関係者は、私とは極 めて近い方ばかりです。しかし、浅野晃は一流だが超一流でないと思っておりました私は、浅野信奉者の輪の中には決して一度も入ったことはありませんでし た。
 若い頃から「神様は造ってはならない」というのが、私の信念でしたから、浅野晃を神様のように祀って語る皆さんの立場を理解できない私であったのです。
 文芸評論を軸に学生時代から新聞に寄稿、書いていた私にとっては、浅野晃は一研究材料の文学者に過ぎないという認識しかありません。信奉しすぎたり、憎 み過ぎたりすると、客観的視界が曇る怖れがあることを知っていたからでした。
 この場でも、主義主張にこだわった発言や、必要以上のアンチ共産党の発言など枝葉末節の議論が目立ち、ことの本質からずれた意見交換になっていることを 危惧するものです。
 歌人で共産党の苫小牧市の市議であった畠山さんとも新聞記者の昔からの付き合いで良く知ってますが、彼はことさら共産党の立場で伊藤千代子を弁護してい るわけではなく、一研究者として伊藤千代子の書簡を公けにすることに努力しただけのことですし、元北大演習林長の石城さんは、偶然諏訪市出身であるところ から、伊藤千代子像をゆかりの諏訪市に建立することに尽力することになっただけの話で、概要の流れを検証すると、共産党がことさら伊藤千代子を持ち上げ、 浅野晃を裏切り者としているわけでもないのです。
 新聞社で客観報道を心がけていた私にとっては、以上のような色合いで見て取れる浅野晃・伊藤千代子問題なのです。伊藤千代子が共産党にとってはジャン ヌ・ダルクなのは、政治的視野から言えることですが、文学関係者の浅野研究には何の意味合いもない枝葉末節の週刊誌のスキャンダルめいたことで、問題にす べき事ではありません。
 浅野晃が楠野氏に秘密に託した書簡は、自分の死後、真実が明らかになることを望んでいたからで、浅野晃が伊藤千代子を愛しく思っていることを、家族に知 れては問題になると先を読んでのことであったでしょう。そうでなければ、書簡は自分で焼却処分していただろうと思います。 

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月26日(木)21時44分21秒
  石塚様
私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任され る石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。
弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云っ てきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、 私は思ひます。
それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したの なら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。
今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。

評価基準は

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月26日(木)18時17分56秒
    「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方と は、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を 罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。
 私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひ とりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではな いと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰 の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたから ね。
 新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あな たもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬で きない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つ でした。
 

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月26日(木)02時46分8秒
編集済
  「短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。」

短歌のことは私も詳しくないので分からないのですが、詩の手法の水準とかレベルって何でせう。少なくとも詩の評価とは関係ないですよね。
そんな視点で抒情詩が評価できるかのやうに「平凡」と並列させたりすると、評価者のレベルの方が知れてしまひます。

むしろ私は、同人誌の高齢化が身を以て表現してゐる通り、すでに戦後現代詩の方こそ近代口語抒情詩よりも古臭くなっちゃったんぢゃないかと心配してゐる 「素人好み」の人間です。
その原因は、進歩史観でもって戦前を切り捨て、安易に民主主義日本の歩みに詩の歩みを擬してきたからだと、
それゆゑ「古典への仲間入りができない」といふ決定的なツケを、今になって被ってゐるからだと考へてをります。

本当の文学は時代の流れに対する抵抗からしか生まれません。その流れに抗することが出来なかった時代、流れよりも過激に流れることで己の純粋を主張した日 本浪曼派の人達は、
結局、敗戦に至って、そのツケを戦争遂行者とともに、追放といふ形で支払はなくてはなりませんでした。
しかし戦後現代詩の人達が、何の転向も表明しないまま、先輩から取り上げ掌握してきたジャーナリズム上で「素人好み」に受ける伝統詩にすりよった言説をし 始め、
巧く変節し日和見し果(おお)せて死んでいったことについては、何のツケも払ってゐません。どころか、
今や日本のお年寄り全体が、戦前の教養や道徳を馬鹿にすることをジャーナリズムから徹底的に教へられた「元紅衛兵」のやうな人達世代の塊です。
彼らが私達世代を飛び越して、孫世代に一体何を伝へ得て死ぬるのか、コスモポリタニズムがグローバリズムの破綻によってなし崩しの無効になりつつある今 日、気になって仕方がありません。

私は、近代口語抒情詩人たちの遺産を、謂はば祖父世代からの遺言のやうに受け継ぎ、祖述してゆきたいと考へてをります。
「現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年 代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。」
この前半のお言葉は、まさに当時、自分の詩集が石塚様世代の前衛の先輩から賜った評言と同じなのです(笑)。
つまり、昭和60年代当時としても、新人のくせにすでに古い筈の感性で後ろから何刺して来たんだ、という印象だったのでありませうね。

明日は家の所用で代休をとったので夜更かししてゐます。明後日には(途中でもいいので)書評upしたいです。

二宮様、またいつでもコメント頂きたく、皆さまにも宜しく御鳳声下さいませ。

お世話になりました

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月25日(水)23時41分31秒
  やす様

 お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。
 一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。
 後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。
 


伊藤千代子の短 歌

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月25日(水)23時32分36秒
   成田れん子の作品 よりも、伊藤千代子の短歌の方が上等ですね。伊藤千代子の作品については、まともな研究がなされていず、これからのことです。
 伊藤千代子が浮上したのは、浅野晃研究の過程でのことですし、共産党の党籍のまま病死した悲劇がクローズアップしたことによるので、浅野晃研究が進ま ず、千代子ゆかりの諏訪市で大々的に宣伝されなければ、彼女は今も無名のままであったでしょう。
 一方、浅野晃は文学史的に足跡を残した文芸評論家でありますが、それ以上の存在ではないと、私は思います。短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩で はなく近代詩水準のレベルに過ぎません。
 浅野晃の短歌、詩を好きな人は素人だけです。まともに短歌、詩を書いている者はだれひとり評価はしないでしょう。ですが、文芸評論の仕事は、文学史上評 価されて良いと思いますよ。
 浅野晃について騒いでいる人たちは、仏教大学で彼の講義を受講した生徒か、短歌のお弟子さんだけでしょう。浅野晃の詩は、詩の本質を理解してない素人好 みですから、人気があるだけのことです。
 しかし、文学についての指導者としては、浅野晃は卓越したもので、また容貌、雰囲気も女性を惑わす不思議な魅力のあった人物でしたから、その面からも怪 物といわれるゆえんです。
 彼が怪物といわれたのは、いくどか文学者として死に体になりながら、不死鳥のごとく時代の最先端に踊り出たしたたかさによってです。つまり、彼の政治感 覚めいた日和見主義が、リバイバルにつながるのですが、そういうところに長けた文学者と見るか、彼の人格のなせる業と見るかは、異論のあるところでしょ う。
 一口に言えば、浅野晃は偉大な文壇の政治家であったということです。政治家であったが、政治屋でなかったのは、浅野晃信奉者には、せめてもの慰めであり ましょう。浅野晃との関係を言えば、私も弟子の末席を汚す立場ですが、彼の数々の変節は、政治的なものよりも文壇での去就の有り方にあるのです。良く言え ば柔軟な思慮を持った正直な男であったとも言えます。つまり「過ちを正すにはばかることなかれ」という思想で一貫しておりました。彼の怪物ぶりは、日本文 壇史を詳細にたどれば、その姿が浮き彫りにされるでしょう。
 
 

やす様の指摘に ついて

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月25日(水)22時25分48秒
  「もっとも四季派好 きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、さういふところも拘らない。やはり大きいといっ た方がいいかもしれません」

 これから浅野晃について語られる時は、こういう意見がどんどん出てもらいたいものです。
 このやす様の指摘、かなり重要です。勇払時代から最晩年の作品に至るまで、そういう印象はやはりぬぐいがたいです。おおらかと言えば聞こえはいいが、か なづかいの当否も含めて、詰めの甘さが残る。ただ、小高根二郎の詩誌『果樹園』に断片が発表された長篇詩「天と海」は、その推敲が功を奏した傑作です。詩 誌に発表された一つひとつの断片も捨てがたいのですが、それらをあの七十二章にまとめあげた浅野の力量は、やはりたいしたものです。
 『幻想詩集』の冒頭を飾る「帰つてきた死者」も、『果樹園』に発表された時は舞台が駅のプラットフォームで、深夜の空港ではなかった。詩集収録にあたり 大幅に加筆、改稿したことが歴然としています。ソ連による大韓航空機撃墜事件を題材にした「海馬島近海」などは、さらにもう一冊詩集が彼によってまとめら れていたなら、どのような形で収録されたろうかと考えるのは、それこそ愛読者の妄想の類ですね。
 転向後の、特に戦後の浅野が批判した「ソ連」や「共産主義」は、セリーヌの「ユダヤ人」同様、字面そのものだけでとらえるべきではなく、人間存在の愚劣 や残虐性の象徴でもあり、その告発の底辺にあったのは、彼のヒューマニズムではなかったかと最近は強くそう思っています。
 

生きている本人 を直接知っていること

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月25日(水)22時07分9秒
   詩人を歴史上の人 物として知っている、あるいは文献や関係者の証言のみでしか詩人を知ることができない私からすれば、直接詩人を見た根保氏はある意味でうらやましいが、あ る意味で「その程度の経験か」と冷めた思いも禁じえない。
 ところで、伊藤千代子が「伝説の歌人」? たしかに女学校時代に短歌の一つくらい詠んでいるのかもしれないが、彼女が再評価されるような歌を残していた というのは、本当なのか? 土屋文明が千代子について詠んでいるのは知っているが。穂別の成田れん子の間違いではないのか?
 

浅野晃の虚像と 実像

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月25日(水)20時10分4秒
   浅野晃が晩年、北 海道苫小牧市に数度きてますが、そのうち三度、新聞記者として彼に会って取材した体験が私にはあります。
 私が東京の学生時代、先生の歌会に二度ほど出たことがあります、と言いますと、浅野晃はじっと私の顔をのぞき見るように見ました。私は当時、深川の心行 寺という浄土宗の寺に寄宿して神田御茶ノ水の大学に通ってました。その寺では幼稚園を経営してまして、そこの先生をしておられたO子さんが浅野先生の短歌 の会の会員でした。浅野先生は僕のふるさと苫小牧市に数年居住していたことをO子さんに話しますと、歌会に出てみないかと誘われまして、それで、のこのこ ついて行ったというわけでした。昭和37年の春だったと思います。
 当時、小説、現代詩、評論をやっていた私でしたが、短歌、俳句にはさほど関心がなく、現代詩も神田の伝説の喫茶「らんぼう」に出入りする「荒地派」の詩 人たちを信奉して、鮎川信夫とかの姿を見たいばかりに出入りして教えを請う立場だったで、読んではいましたが、浅野晃の詩作品には関心がありませんでし た。
 それで、浅野晃の歌会には二度出席しただけでしたから、浅野晃と伊藤千代子のことは、当時知りませんでしたし、浅野晃の存在そのものにも、さほどの興味 はありませんでした。
 しかし、浅野晃は、私の故郷の苫小牧市のお弟子さんたちが、神様のように慕っている存在であることは知ってましたので、そういう男かと短歌の世界の師弟 関係の深い絆を感心して見ていたものです。
 私が新聞記者として浅野晃と再会したわけですが、そうした経緯から再会もさしたる感興をおぼえなかったものです。
 浅野晃とは十数年ぶりの再会でしたが、白髪の柔和で上品な80近い学者タイプのプのお年寄りで、初めて東京の歌会で会った印象とは違ったものでした。彼 の詩は比較的好きですが、現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象 でありました。
 そんなわけで、浅野晃の教え子ではない私は、浅野晃に傾倒する詩人、歌人とは一線を分けている立場ですから、客観的に非情に語ることができるのでしょ う。浅野晃信奉者には大変悪いのですが、以上のようなかかわりから、私は、浅野晃を突き放して見ることができるのですが。また、共産党員でもありませんの で伊藤千代子を冷静に見ることができるのです。

浅野晃について について

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月25日(水)07時32分18秒
編集済
  「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節し てきた日和見男」

「怪物」…室生犀星 とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。
似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。
変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大 事ですよ。
だから「日和見男」ではないんです。

さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。
そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。
伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します
(むしろ反対に教示 した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。)

もっとも四季派好き な私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、
さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。

「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」


そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。
 

再び浅野晃について

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月25日(水)05時41分47秒
編集済
   浅野晃は、文学者 としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を 擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。
 ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってま すが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、 伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明 らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。
 浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という 方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。
 それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、 文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤 千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿 をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いして るでしょうし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。


伊藤千代子と浅 野晃

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月25日(水)04時49分27秒
   浅野晃が戦後、苫 小牧市勇払に在住していたことがある。浅野は浪漫派の文芸評論家として有名で、また歌人・詩人としても一家をなした文化人ながら、戦前共産党に入党してい たことから投獄され、獄中を体験したが、共産党の党籍を離れた事によって釈放された体験を持つ。
 戦後、そうした経歴から占領軍によって職を追われて山陽国策パルプゆかりの水野成夫の紹介で勇払工場の社宅に数年居住していたことから、北海道は浅野晃 ゆかりの地となって、研究者に注目されている地である。私は、東京の学生時代、浅野晃の歌会の末席に二度ほど顔を出した事があって、彼の存在そのものに関 心がある。現在、私は「北海道アララギ」の会員で、旭川の「ときわ短歌」の会員になっているのも、浅野晃の足跡を引き摺っていたゆえかもしれない。
 しかし、浅野晃の最初の妻伊藤千代子に関しては、千代子の哀れが際立って、浅野晃には何としても同情できないのである。それは浅野晃が悪いのではなく時 代が悪かったゆえの悲劇なのだが、それにしても浅野晃の立場は、若い妻の千代子が思想の純潔を守ったのに対して、思想的に裏切った男という立場は拭い切れ ないように映るのである。時代の悲劇であるにしても、浅野晃の姿は、獄中の千代子の心中にどのように映っただろうかと思うとき、千代子への哀れの思いが際 立ってくるのである。
 

中嶋様へ

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月24日(火)22時56分13秒
   こちらは感情的に 書きこんでしまいましたが、中嶋さんは大人ですね。心に余裕があるというか。見習わないといけないと反省しております。
 このコメントも含めて、掲示板を汚すものと判断されたら、小生の書き込みはすべて削除してください。ただ、伊藤千代子について論じるなら、彼女がその若 い命を捧げた党が、当時コミンテルンの支配下にあった事実や、当時のソ連でスターリンが何をして居たのかなども、当然視野に入れないといけないですね。千 代子を持ち上げる人間からは、そのあたりのことは何も聞こえてきません。
 先日みすず書房から出た『スペイン内戦』(アントニー・ビーヴァー著)で、フランコらの反乱軍と対立した共和国側がソ連一辺倒で、スターリン式の残虐な 粛清を導入していたことなどが明らかにされていました。王様の首をはねたことを称えるフランスかぶれや、レーニンやスターリンが大好きなソ連びいきが多い 日本の知識人があまり書いてくれないことを、たくさん教えられた気がしました。国際旅団がどうの知識人の連帯がどうのは、もうたくさんですね。
 ソ連が消滅したこと、ベルリンの壁が崩壊したこと、中国共産党の本質が天安門事件やチベット弾圧で明白になつたことなどを、決して直視しようとしない人 間が苫小牧にはいるのですよ。本当に驚くべきことです。もっとも、老い先短い人間に、今さらその青春や人生を否定するようなことを言うのは、いささか酷な ことなのかも、という気持ちも少しだけあります。
 しかしそんな人間の主張に学ぶところは何もありません。「こうはなりたくない」というのは「学ぶ」ということではないですから。
 

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月24日(火)22時03分56秒
編集済
  人の一生はまことに 割り切れないことばかりです。
割り切れないことを、知らずに死んだ方が幸せなのか、
その矛盾を背負い込んで、はからずも生き残った方が幸せなのか、仰言るやうに意味のないことではあります。
ただ幸・不幸を越えて、伊藤千代子より淺野晃の方が桁違ひに「重い人生」を送ったとは、云へるでせう。

思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、淺野晃を「千代子を見棄てた」と切って捨てて論じることのできる人は、
偉いものです。例へば思想なんて高級なことは抜きにしても、奥さんと死別したら、大切な思ひ出を胸に、一生独身を貫き通すことができる人でせう。
節を曲げない人生を送ることのできるひとは、勿論その方がいい。業が深い人生を、好んで選ぶ必要などないです。

ただ二宮様が仰言って下さったやうに「見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意した」 といふことだけは、おさへておかなくてはならないでせう。

淺野晃といふ文人の遍歴は、日本の近代史の業の深さをそのまま身に帯びてをり、(詩集の御返事しか頂いたことはないのですが)、私は尊敬に値する方である と思ってゐます。
同じく思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、今の日本で、彼のやうな生涯を送った先人を、切って捨てて論じることのできる人は、
情けないと思ひます。自分が与り知らぬ日本の過去について、自分達とは何の関係もない世界として清算したつもりでゐるんでせう。

『詩文集』の書評は書きかけのまま。出張から先ほど帰ってきました。申し訳ないです。
早くupしないといかんですね。根保孝栄石塚邦男さま、二宮様、コメントありがたうございました。
 

事実や真実 (藁)

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月24日(火)21時17分40秒
  「歌人の伊藤千代 子」。千代子の作品あるいは歌集をあげてみてください。
「浅野晃書簡の公開」。夫婦のことが問題になったのは千代子が浅野の母
ステに書き送った書簡が 公開されたからでは?
「共産党を離党して」。浅野や水野成夫らは離党ではなく、田中清玄に除名されたのでは?
「若い妻を見捨てた」。見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意したのだ。
「事実や真実」。これも見る側によって、大きく変わってきますね。ただし生前の伊藤千代子が苫小牧とは何も無関係だったことは事実です。
「浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人は浅野擁護に回っていたり」。これは初耳ですな。檜葉某なる女流歌人が浅野の文化活動への協力は偽装だったなどとトンデ モな主張を、自身の成田れん子論で展開しておりますが。これも様々な「事実」から自ずと否定される謬見です。
「素人の感情論」。ならば貴殿は「玄人」なのか? そして「玄人」になる資格や秘訣は何か? そして自身の主張は「感情論」ではないとでも?

 誤解を避けずにいえば、浅野晃の転向は正しかったし、死んだ最初の妻を「偲ぶ」という形で自身の詩作の題材に利用した姿勢はまさしく「牡の文学者」「強 者の文学者」のそれであって、称賛に値する。『幻想詩集』は千代子がらみで論じられることがほとんどだが、浅野の詩作の流れの中では、浅野の宮澤賢治受容 の到達点とみることができる。
 

伊藤千代子と浅 野晃

 投稿者:根保孝 栄石塚邦男  投稿日:2011年 5月24日(火)03時09分4秒
   歌人の伊藤千代子 と詩人で歌人の評論家である浅野晃夫婦のことが問題になったのは、浅野晃書簡の公開による。伊藤千代子が不幸だったとか、いや本当は幸せだったのではない かとか、憶測、類推の類が巷に蔓延しておりますが、あまり意味のない素人の感情論に過ぎませんね。
興味のあるのは、事実と真実の狭間です。
 共産党員として病死した千代子、共産党を離党して監獄から出た転びバテレンのごとき浅野晃。こうなれば、党員にとっては、千代子は聖女にしておきたい存 在でしょうし、浅野晃は若い妻の千代子を見捨てた男という図式になるのは当然でしょう。浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人らは浅野晃擁護に回っていたりと、 事実や真実を超えてひそひそ、侃侃諤諤というのも、文壇スキャンダルめいていて悲しいことに見えるものです。
 ですが、形の上では、思想に殉じた千代子はジャンヌ・ダルクで、浅野晃は日和見主義者で若い妻を見捨てた事実には違いないことです。だからと言って、浅 野晃が良いか悪いかは別のことですが。そこで2首。

 獄死せし伊藤千代子を見棄てたる浅野晃の佇ちし野に立つ
 したたかに生きよと励む歌人の絶えしは寂し窓外の雨

伊藤千代子について

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月15日(日)00時31分53秒
 

 二宮様、あらためてはじめまして。雑誌『昧爽』での御文章をいつも拝見してをりました。伊藤千代子については、二宮様と全く同じ理由 から、私は「とても 幸福」ではなく、当たり前のことですがやはりとても不幸だったと思ってをります。さうでないと、淺野晃もまた転向などせずに死んでゐれば幸福だったなんて 云ふ人が現れてこないとも限りませんから(笑)。

 「とても幸福」といふのは、むしろ千代子の悲劇を主義主張であげつらふ方々の、事情と思惑に於いて、さうなのでありませうが、とても 残酷な幸福です。立 原道造や中原中也も戦争を知らずに死んでいったから幸福だったといふ人がをります。彼らの親友ならばさう言ってもいい。反対に彼らを歴史的人物としてみる ことのできる人ならさう言ってもいい。しかし私の立場は、この世代の人たちとは、先師との縁を以て地続きにゐたい(まだぎりぎり許されるのではないか)と いふ感覚で接してゐますので、さうは言へません。やっぱり「淺野晃の妻」ならば、生きて居れば必ず転向したと思ふし、死因が肺炎といふのは雨中に立ちつく しでもしたのでせうが、未だ夫の変心を理解できなかったとはいへ、「兄さん」を恨んで死んでいったとはどうしても思はれない。二人を引き離して考へるの は、死に別れた夫婦に対して失礼な話で、だからこそミネ夫人は『幻想詩集』に激怒したんだらうと思ってゐます。(二宮様が記述された後半部の詳しい事情 は、『昧爽』14号の「淺野晃ノート番外編」における中村一仁様の収めやうのない怒りを御参照のほど)

 けだし若き日に生涯の傷となった唯一人の女性を心に刻んでゐる文学者は多いですね。森鴎外はもとより、川端康成、伊東静雄、三好達 治…。伊藤千代子との 関係については、日夏耿之介の死別した前妻と並び、文壇でもタブーに類することだったのでせうか、今回『淺野晃詩文集』に収録された未発表原稿「千代の死」には、多くの注目が集まるものと思はれますが、合せて「水 野成夫のこと」に描かれてゐる、昭和3年3月15日に始まった一斉検束の様子なども、なるべく多くの人に読んでもらひたいと思ったことです。

 連休中は私事にかまけて何も書けませんでした。中村一仁様が『昧爽』に連載された「淺野晃ノート」に出てくる人達の名が、この本を読んだ後では親しみをもって 理解できるやうになりました。公私ともに多事忙殺中ですがいづれ拙い書評を掲げたく、このたび思はぬ震災被害に遭はれた中村様へも何卒よろしくお伝へ頂け ましたら嬉しく存じます。

 コメントありがたうございました。


伊藤千代子の栄光と悲惨

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 5月14日(土)13時05分11秒
    夫である淺野晃の解党の主張に衝撃を受け、一時は統合失調の症例を呈し、最後は松沢病院で肺炎で亡くなった伊藤千代子。ネットで調べれば、ある特定の政党 やその同調者同伴者が彼女を持ち上げているのが分かる。若くして死んだことは気の毒という他ないが、実は彼女は、とても幸福だったのではないか。
 まず、89歳の長寿を全うした淺野と異なり、長生きせずに済んだからだ。千代子があの三・一五事件の後も生きていたら、彼女に転向は無縁だったろうか。 佐多稲子が戦争中、戦地に慰問に出かけたように、千代子も転向して国策に協力するような事態もあり得たのではないか。そう思うと、あの時死んで、千代子は 幸せだったのだと思う。
 また、戦後の日本共産党の歴史を見ずに済んだのも幸福なことだったと思う。今でこそ徳田球一らの「所感派」は党史の上で分派ということになっているが、 千代子は長生きしていたら「国際派」に属しただろうか。それとも「所感派」に属して北京からの指令に従って武装闘争路線の片棒をかついだであろうか。
 その後も共産党は多くの文学者や文化人を除名処分にしているが、千代子は例えば蔵原惟人のように、最後まで党に忠誠を誓っただろうか。獄中の千代子につ いて証言を残した女活動家たちの何人かも、結局は党から切られる形になった。佐多稲子にもその思いを禁じえないが、死んだ千代子への追憶が誠実であればあ るほど、「家」であったはずの共産党から除名された彼女たちの悲劇が一層痛ましく感じられてならない。
 小林多喜二や宮本百合子のように、どんな拙劣なものでも小説や評論を千代子が書き残していたら、それは「研究」の対象になりえただろう。しかし、夫の母 親あてに書かれた書簡、あるいはそこに記された心情の美しさとやらを称えることが果たして「研究」と呼ぶに値するものなのかどうか。門脇松次郎や遠藤未 満、紀藤義一や小池豊子、さらには楠野四夫といった淺野晃を直接知る、「苫小牧文化協会」の系譜に連なる人物が相次いで鬼籍に入る中で、伊藤千代子の名前 を出したいがために淺野を語るような人物が大きな顔をし出すのは、時間の経過の中でやむを得ないのかもしれない。しかしその楠野さんが名誉会長を務めた苫 小牧郷土文化研究会が刊行する『郷土の研究』第9号を見て瞠目せざるを得なかった。というのは、楠野さんの追悼特集を組んでいるのはいいが、御息女の口か らあり得ない発言があったからだ。札幌の御息女に電話で確認したら、「父の個人的なおつきあいを私は知らない。それはインタビュアーの人が書き足したこ と。申し訳ないことをしました」とのこと。やっぱり! 何より、あの伊藤千代子の書簡発見で一部の連中が盛り上がるのを、楠野さんが苦々しい思いで見つめ ていたのを、直接知っている。あの時、入谷寿一が編集した『苫小牧市民文芸』の千代子特集にも、楠野さんは沈黙を守った。あちこちの団体などから寄稿や証 言を求められたものの、一切拒絶されたのだった。
 「伊藤千代子研究における歴史修正主義」になるか「『郷土の研究』における歴史修正主義」になるかは、まだ分からないが、そんなタイトルで文章を書いて みようと考えている。苫小牧市立中央図書館の、淺野晃に関する展示コーナーに千代子の肖像写真や書簡が陳列されるのも時間の問題だ。しかし、伊藤千代子は 苫小牧と直接、何か関係があったのだろうか? 何もない。ただ地元の党員や活動家が騒いでいるだけの話で、公開された書簡が注目されたのも公開当初だけ で、その後は他の資料同様、開示請求は激減したという。
 末筆ながら、中嶋さんのますますの御活躍と御健筆をお祈りいたします。

「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」

 投稿者:やす  投稿日:2011年 5月 1日(日)23時06分28秒
     岐阜の大牧冨士夫様より『遊民』3号御寄贈に与りました。左翼文芸史の回想を連載されてゐるのですが、今回は「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」。未 知の人ですが、詩人西澤隆二の元妻といふことで、佐多稲子への問ひ合はせの手紙を始め、新資料公開の意義は深からんことを思ひ御紹介します。

 福井県丸岡町一本田にある中野重治の生家跡は見学した事もあり、あらためて彼の友人に「ひろし・ぬやま」といふ風変りな名の詩人や、妹に中野鈴子といふ 詩人があったことなど思ひ出しましたが、定職のない夫隆二を支へるために働きに出た銀座のバーで、ミイラ取りがミイラになったのか、生活が荒れてゆく同志 である妻の様子を、見るに見かねたのでせう、彼らの師であった佐藤春夫が仲裁に乗り込んできたといふ一件。その後いくばくもなく短い夫婦生活は清算された と云ひます。御存知のやうに「門弟三千人」を誇った佐藤春夫は日本浪漫派筋の弟子も多数擁する文壇の大御所で、離婚後の彼女はその許に通ったといふことで すから、如何にも懐が深いといふべきか。むしろ佐多稲子の回想小説で、親しかった気持ちが「しゅんと音をたてて消える」と書かれたのも仕方なく、旧と同志 だった誰彼が、彼女の存在を(西澤氏の再婚にも憚ってのことでせう)「なかったこと」にしたがってゐる事情など、イデオロギーによる政治闘争の裏側で、時 代に翻弄され捨てられていった一女性の不幸が、聞き出せば聞き出すだけまざまざと浮き彫りにされてくるやうで、戦時中、同郷の中野鈴子に宛てた、詩のやう な彼女の手紙は痛ましい限りです。その一節。

 スズコサン、ワタシタチハ昔ノユメヲモッテイル。ソノユメカライロイロシカヘシヲウケ、コウシテイキテイル。ヒトクチニイヘバ、ワタシタチハウマレソコ ナツタノデハアルマイカ。ワタシタチハ、アマリクライクルシミニアヒ、ホントニアタマヲワルクシスギルトイフコトガアルノダ。


 これら故意にたどたどしい言葉に滲んでゐるのは、もはや「転向」と呼びたい程の挫折感でありませう。社会の理不尽を具さにクルシミ、ルサンチマンを掻き 立て共に見た革命のユメ。しかし直面した現実からイロイロシカヘシヲウケ、ウマレソコナッタノデハアルマイカと、一種因業にも観ずる自責の念は、「正義」 に盲ひた自分の姿を戯画化するに至ります。戦後、元夫の幸せさうな再婚を横目で睨みながら、同じく中野鈴子宛ての手紙より。

 私はふとってゐる、おまけに綿入れの重ね着ときている。山が歩いてゐるやうだ。田舎の町の角 の店屋のガラス戸に映る大きな大きな女、おおそれは何と私であった!

 田舎の町の一本の本通り、本通りのつき当りは山脈だ。私はそこをのっしのっしと歩く、昨日はこの本通りに雪が降った。山脈がはげたお白粉程に雪を着た。

 私はその本通りを歩く、あなたへ手紙を出しに、その手紙にはる切手を買ひに。


 彼女が如何なる晩年を過ごしたものか分かりません。丁度『淺野晃詩文集』を読んでゐるところでしたから、私は淺野晃の最初の妻であった伊藤千代子のこと を思はずには居られませんでした。彼の場合は反対に、思想の憑物が落ちたのが夫の方で、若妻は夫の変心を理解できぬまま、痛ましい錯乱のうちに肺炎で亡く なってゐます。前回掲示板でとりあげた「わだつみ会」と同様、挫折を知らず死んだ女性闘士の一途さを、小林多喜二のそれとならべて「反天皇制」の殉教者と して祀り上げんとする政治活動が今も盛んだと聞きます。今回の大牧様はむしろ左翼の立場から、この「生没年不詳」の一女性のことを「忘れてはならない」人 物として、文学史の闇から救はうとされてをり、探索動機にある温かな人間観が、私のやうな者が読んでも同感を覚える所以なんだらうと思はれました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『遊民』3号 遊民社発行 \500  連絡先:三島寛様rokumon@silver.plala.or.jp

山下肇 / 『木版彫刻師 伊上凡骨』

 投稿者:やす  投稿日:2011年 4月27日(水)00時12分45秒
   池内規行様より 「北方人」第15号の御恵投に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 池内様が私淑される山岸外史。その周辺人物として今回回顧されるのは、戦後東大教授となった山下肇氏です。池内様の訪問記や「外史忌」におけるスピーチ など、良い感じで読んでゐたのですが、終盤に至り「わだつみ会」の内紛をめぐっての書きづらい事情を、是々非々として裁断し書き留められてゐたのには吃驚 しました。いったいどういふ事情なのか、ネット上で関係記事を読むことを得、改竄された岩波文庫版『きけわだつみのこえ』を原姿に戻さうとした「わだつみ 会」役員が、「事務局」によって排除されたといふ騒動の一件を知りました。その状況に立会ひながら、事情が「全部分かっているのに事務局には無力」といふ 格好を装ひ、なほ理事長の座を墨守されたといふ山下氏の情けない俗物ぶりについては、池内様がこの一文を「知性と詩心と卑俗」といふタイトルにし、

太宰治に学んだはずの含羞の念はどこへ消えてしまったのだろう。人一倍知性に優れ、詩心に恵ま れた先生の晩年に想いを致すとき、一種痛ましさを感じずにはいられない。

 と惜しみ嘆いて締め括られた通りです。前半で語られてゐる池内様とのやりとり、そのなかで明らかにされた高橋弥一氏との心温まる交流とは、如何にしても つながりません。まことに「不思議であり残念でならない」ことですが、それが人間といふものなのでせうか。晩節を汚した人物に対する回想と評価の難しさを 思ひ、また「東大名誉教授」や「岩波教養主義」の権威を後ろ楯に、戦没学徒の遺稿をイデオロギーの具に供せしめた「わだつみ会」事務局の変質にも憤りを感 じました。
 山下氏が戦後山岸外史を訪ふことがなくなったのは、もちろん「君子危きに近寄らず」との打算が働いたからでありませう。しかし、それは「結婚式に呼ばな くてよかった」といふ酒席における無頼派らしい狼藉ぶりを恐れて、なんて次元の話ではなく、職場内での昇進にも影響を与へかねない「縁を切るべき日本浪曼 派の人物」もしくは「戦後は反対に共産党に入党した、激しすぎる節操の持ち主」として敬遠されたのではなかったでせうか。
 若き日の山下氏のかけがへのない親友であり、ともに山岸外史に兄事して通ひつめたといふ今井喜久郎・小坂松彦両氏の戦死を、山岸外史の評価を訂正できる 貴重な証言者を失ったと惜しまれる池内様のお気持ちは察するに余りあります。同時に彼らの痛ましい戦死については、『きけわだつ
みのこえ』の生みの 親でも ある山下氏御自身こそ、衷情は深刻なのに違ひない訳でありますから、「不正を見て見ぬふりをすること」こそ最も恥づべきナチズムの罪だったと反省するドイ ツの戦後と深く関ってきた筈の氏にして、この不甲斐なさは一転、一層のさびしさに思はれることです。やがて共産党からも破門されたサムライの先輩は「わだ つみ会」の顛末を泉下からどのやうに眺めてゐたことでありませう・・・。


 あらためてここに ても御礼申し上げます。ありがたうございました。


 池内様よりは、合せて同人のお仲間である盛厚三様の新著『木版彫刻師 伊上凡骨』(2011 徳島県立文学書道館刊)を同封お贈り頂きました。「いがみぼんこつ」・・・未知の人ながら一度聞いたら忘れられない名前は、また一度会ったら忘れられない 人物でもあったやうです。洋装本の装丁に関はり、当時の芸術家たちから最も信任の厚かった木版職人であった彼は、明治気質の職人らしい、裏方としての気骨 を「凡骨」と自任したものか、名付け親の与謝野寛夫妻や岸田劉生、吉川英治らと親交を深めながら、誰彼に愛される奇人ぶりを示したと伝へられてゐます。業 績とともにエピソードも満載の一冊。重ねて御礼を申し上げます。巻末の「伊上凡骨版画一覧」リストから、家蔵本では『私は見た』といふ千家元麿の詩集がみ つかりましたが、似た感じの装釘で、
中川一政の処女詩集『見なれ ざる人』にも「彫刀 伊上凡骨」のクレジットがあるのをみつけました。写真印刷版が確立す るまで、江戸和本文化の伝統が最後に燃焼した痕跡とでも謂ふべき「洋装本の木版表紙」の風合に、しげしげと眺めいってゐるところです。
 


『淺野晃詩文 集』 【第一報】

 投稿者:やす  投稿日:2011年 4月16日(土)01時03分8秒
   今晩『淺野晃詩文 集』を拝掌。刊行経緯を知って吃驚、お慶びとお見舞ひと交々お伝へ申すべくも、まずは巻頭写真16p本文703pといふ浩瀚な陣容、限定300部で 6300円(税込)といふ破格の赤字出版について、その完成を緊急報知いたします。
 『淺野晃全詩集』をお持ちの方はもとより、日本浪曼派の研究者・愛読者は急ぎお求めください。感想紹介は追って上したいと存じます。
 中村一仁様、長らくの編集お疲れ様でした。被災の後始末に忙殺の最中、貴重な一冊を私にまでお恵み頂き感謝に堪へません。ここにても御礼申し上げます。 ありがたうございました。

『淺野晃詩文集』2011.3.30鼎書房刊 6300円(税込) ISBN:9784907846794

『菱』173号 『椎の木』の内部事情

 投稿者:やす  投稿日:2011年 4月14日(木)00時33分5秒
   「モダニズム詩人 荘原照子 聞書」連載中の手皮小四郎様より、『菱』173号を御寄贈頂きました。ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

 稀覯詩誌『椎の木』については、昭和7年に再刊されモダニズム色に染められた「第3次」以降の復刻版がなく、閲覧したことも殆どないのですが、「山村酉 之助VS乾直恵・高祖保」といふ、若手編集方に確執があったなど、斯様な内部事情が語られたものに接するのは初めてだっただけに、大いに昂奮しました。

「山村酉之助というギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子が大阪に居て、これが第三次 『椎の木』の 編集者になった。費用の問題で・・・。ブルジョワだったから。それで百田さんの編集の助手みたいなことをしていた高祖(保)さんが、半分は面白くなくなっ て、まあ『苑』を自分がやり出したわけだな。
『椎の木』のアンソロジーに『苑』というのがあった。この『苑』を、私達(『椎の木』から出た者)に呉れて、椎の木社から出してくれた。百田さんは度量が 広くて、偉い!」

「春山行夫あたりが行動主義を唱えだした。これに山村酉之助など『椎の木』の人たちが引っ張られていった。春山の人民戦線にだ。江間(章子)さんもそう だった。それに対して高祖さんが、詩の純粋性、純粋性と言い出して、ぼくたちは絶対に人民戦線に引っ張られないようにしようと言った。あの時は、すさまじ かった。」


 『椎の木』から分裂してできた月刊『苑』や「春山行夫の人民戦線」など、手皮さんが訂正される通り、たしかに思ひ違ひがあるものの、これまで誰も残して こなかった当時の雑誌をめぐる「気分」について、問へば問ふだけどれだけでも口をついて出てきさうな彼女の証言が、実に貴重で興味深い、といふか「面白 い」のです。これは偏へにインタビュアーとの信頼関係に拠るところが大きいのでせう。荘原照子はこの昭和10年当時、永瀬清子といふ、抒情詩人としてまた 生活人としても中庸の王道を歩いてゐたライバルをネタに、自身の「極端に走りやすい」「分裂製の強度な」性格を自嘲気味に分析してみせるエッセイを書いて ゐたらしいのですが、自分とは対極の詩人を引き合ひにして、ことさら「病苦・孤棲・貧困」の境涯を際立たせようとしてゐるのを、また手皮さんが見逃さな い。「およそ自分の思い描く自己像ほど虚像に過ぎないものはない」とバッサリ。恣意に流れがちな老詩人の回想の裏に、身を飾る韜晦を嗅ぎ分け、同時に、ま たさうであるより他なかった事情をも察して代弁してをられます。後半の、漢詩からの影響をもとに展開される詩の分析でも、詩を生活の中に捕らへるのではな く、自身が詩と化す自虐的ナルシズムの夢想に囚われてゐる詩人の発想を指摘してをられますが、鋭いと思ひます。この漢詩からの影響についてですが、儒者の 家系に育ったとは云へ、私は彼女がむしろその束縛から脱却せんとモダニズムに新機軸を啓いたとばかり思ってゐましたから、当時のエッセイにそこまで漢詩に 寄せる親愛を綴ってゐたことは初耳でした。詩の冒頭に杜甫の詩句が懸ってゐれば、モダニズム常套のお飾りにしか思ってゐなかったのでありました。『椎の 木』の現物に当たってみたいところですね。

 かうして今回の連載では、聞き書きと雑誌現物との両面から、いよいよ詩人として全盛期を迎へる荘原照子をめぐる詩壇状況といったものについて考察されて ゐるのですが、『椎の木』周辺のマイナーポエット達への伏線に注目です。今回私が気になったのは「ブルジョワの息子」山村酉之助。彼は大阪人なので、素封 家の彼が主宰した『文章法』といふ『椎の木』衛星雑誌には、当時モダニズム手法で頭角を現してゐた同世代の田中克己も寄稿してゐます。(といふか御祝儀の 意味でせうが、創刊号(昭和9年2月)には乾直恵も高祖保も書いてゐるんですよね。) そして、その縁もあってか、山村酉之助は暫くの間、集中的に「コギ ト」に詩を寄せるやうになります。手皮さんが解説された彼らの「行動主義(能動主義)」が、本場フランス仕立てのものとならなかったのは、左翼潰滅後で時 が遅すぎたことがあったでせうが、スノビッシュな詩風と共同体参画への意志にどれだけの必然性といふか、実存的な拠り所があったのか、一寸みえないところ もある。発表誌の強烈な個性に引きずられ、また離れて行ったのではないか、そんな風にも考へたりしました。同様に「草食男子」だった立原道造が、血気を 奮って日本浪曼派に親炙し、離れててゆくのも、けだし当時の若者を駆りたててゐた一般の心情・気分だったのでありませう。荘原照子が山村酉之助のことをボ ンボン呼ばはりするのは、詩そのものに対する評価とともに、詩友高柳奈美がのちに乾直恵の奥さんになったこと、そして「コギト」への寄稿が「日本浪曼派の 一味」とも観ぜられて、すこぶる印象がよくないからでありませう。

 次号はいよいよ『マルスの薔薇』について言及されます。さきの掲示板で触れたやうに、詩誌『マダムブランシュ』における匿名子の激辛批評が、秋朱之介の 筆になるものであるかのやうな記述が、同誌面の自己弁明記事にみられるのですが、『マルスの薔薇』を編集した稀代の装釘家、秋朱之介に関する彼女の回想は 如何なるものなのでありませう。そして彼女が強烈に意識してゐたといふライバル江間章子も、一旦は北園克衛に兄事するものの離れてゆくのですが、北園克衛 の一派についても尋ねてをれば、先日の「四季」に対するのと同様、きっと興味深いモダニズム当事者による印象・感想が聞かれたことでせう。楽しみです。

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 4月14日(木)00時30分24秒
  承前

 また山川京子様よりは『桃の会だより』4号を拝受しました。冒頭このたびの大地震について、感懐が述べられてをります。
 礼状にも認めたのですが、私はこの度の震災における天皇陛下の新聞記事が、まるで普段の皇室ニュースのやうに小さかったことに少なからずショックを受け てゐます。新聞各社は、甚大な被害はあれ、この震災のことをやはり一災害としか認識していないのではないか、でなければ、かくまで軽く日本国の象徴を扱ふ やうになったか、といふ慨嘆です。
 天皇陛下のビデオメッセージを唯一表紙に掲げた新聞がありましたが、後日の避難所御訪問の記事が、他社よりも小さく縮こまってをりました。すなはち第一 面報道にクレームをつけた国民が少なからずゐたか、もしくは他紙を意識して社内で「自己批判」した結果でありませう。「国難」はすでに国民の意識の上で進 行中の出来事であることなのかもしれません。

 さて「共産主義」と「大東亜戦時体制」といふ共同体参画運動の陣頭に立ち、20世紀最大の「国難」に立ち向かはんとするも悉く挫折し、自己反省と斃れた 同志への鎮魂の思ひを詩に託し、長い戦後の余生を市井に隠れて送った評論家・詩人、浅野晃。その詩文集がたうとう刊行されたとのこと。二宮様、画像の御紹 介をありがたうございます。
 

淺野晃詩文集

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 4月13日(水)02時48分25秒


  遂に刊行されまし た! 装丁がなかなか素敵ですね。

新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』

 投稿者:やす  投稿日:2011年 4月 4日(月)19時27分0秒
    森鴎外の短編小説『舞姫』(1980初出)の題材については、若き日の文豪のベルリン留学中の恋愛に係り、ヒロイン「エリス」の実像が小説を地で行く噂話 として度々取り沙汰され、諸説は紛々、1981年に発見された乗船名簿からたうとう「エリーゼ・ヴーゲルト」といふ本名までは明らかにされたのですが、そ の人物像については、鴎外の没後になってから、妹小金井喜美子による「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けてゐる、哀れな女」であったといふ証言、ま た子どもたちからは、体裁を重んずる家族からの伝聞や、古傷をいたはるやうな父のさびしげな横顔が、思ひ出として報告されてゐるばかり。鴎外自身はこの顛 末について一切を語らず、そして彼女からの手紙など一切を焼いて死んでしまったために、最も身近な関係者であった妹からの、最初にして止めを刺すやうな 「烙印」が定説としてそのまま今日に至ってゐる、といった状態だったやうです。

 このたびの新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の意義は、もはや証言からは得られなくなった100年以上過去の外国人の人物像を、学術論文顔負けの実証 資料により浮かび上がらせながら、同時にそれが退屈なものにならぬやう、現地の地理・文化史を織り交ぜたスリリングな「探索読み物」にまとめ得たところに ある、といってよいでせう。綿密なフィールドワークと軽快なフットワークを可能とさせたのは、もちろん著者がベルリン在住のジャーナリストであったから、 には違ひないのですが「今にも切れてしまいそうで、けれども時おり美しく銀色に光って見える」まるで蜘蛛の糸のやうな手掛かりに縋った探索行は、資料のし らみつぶしに読者を付き合はせるといふ感じは無く、まるで知恵の輪が偶然解かれるときのやうに、徒労に終ったどん詰まりの先「本当に諦めようとしたところ で何かが見つかり、また先に続く」謎の扉の連続のやうなフィールドワークとして再体験されます。歴史に完全に埋もれやうとしてゐる一女性の正体に肉薄しよ うとする意味では、も少し豊富な材料があったらいづれ小さな一史伝と成り得たかもしれません。といふのも、これを彼女に書かしめたのは、学術的好奇心と いったものではさらさらなく、晩年の鴎外が前時代の書誌学者に感じたと同様、自らの一寸した特殊な境涯が縁となって知ることを得た、時代を異とする市井の 一人物へのそこはかとない人間的な共感の故であるからです。

 そもそも小説に描かれた内容を実人生に擬へ混同すること自体、非学術的といっていいでせう。しかしあのやうな人倫破綻の告白がどうして書かれるに至った かといふ疑問には、出発したばかりの作家生命を賭した生活の真実が隠されてゐるに違ひない、さう直覚した著者によって、封印された悲劇の鎮魂が、記録を抹 殺された女性の側から、資料の積み重ねによって図られることとなり──これが小金井喜美子と同じ日本人女性の手でなされやうとするところにも意味はあるの ではないでせうか。学術的な論文ではなく、また空想がかった小説でもなく、世界都市ベルリンの世紀末からユダヤ人迫害に至るまでの文化史を、当地に実感さ れる空気とともに織り交ぜて楽しむドキュメンタリーとして、普段の仕事と変りない視線から語られるレポートの手際は見事としか言ひやうがありません。ため に、先行論文は虚心坦懐に吟味され、敬意が払はれ、また臆するところなく間違ひも指摘される。耳遠い文語体を口語体に直す配慮も親切の限り。さうして読み 進んでゆくうち、読者は「鴎外の親戚でもエリーゼの知り合いでもない私(著者)が、ベルリン在住の地の利を活かして」行なった調査の結果、その「どれが欠 けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかった」舞姫の秘密に、最後の最後、共に立ち会ふことになるのです。

 奇跡的な発見の結果は、著者に当時の日本の文学者や高足のだれひとりとして予想できなかった、ペンネーム「鴎外」やその子どもたちの名付けの謎解きに も、蓋然性ある推理で挑戦させます。またそんな奇跡にこの度はどこかで私も関ってゐるらしく(笑)、ぜひ皆さまにも読んで頂きたく、御寄贈の御礼かたがた 茲に一筆広告申し述べます次第です。

 六草いちか様、本当にありがたうございました。御出版を心よりお慶び申し上げます。


<<このたびの大震災について>>

 投稿者:やす  投稿日:2011年 3月25日(金)09時37分55秒
編集済
    2万人を超える犠牲者はもとより、20兆円に上るとも謂はれる復興資金、原子力発電所の是非、全国の海岸線の防潮や避難所の移動、さらに根本的には「日本 の田舎をどうするつもりなのか」「電力浪費社会を今後も続けてゆくつもりなのか」といった問題を、このたび起こった大震災は私達につきつけてゐます。

 「何でも忘れやすい日本人」ですが、世界を取り巻く現在の日本の政治・経済状況でこれらの問題に向き合へば、おそらく忘れたくとも逃れられないことがこ のさき分かってくると思ひます。さうして歴史的な危機・転換点は、政治・経済の上だけでなく、文化においても現れてくるのではないでせうか。

 このたびは世を挙げての節電の呼び掛けも、電車や病院をまきこんだ計画停電を避けることができませんでした。原発の是非は措くにせよ、不要不急の電力を 規制して停電を回避できないでゐるのは政治家の怠慢であり、その関係業界の利権に屈服の様は正しく「政権の内部被爆」と呼ぶべき醜態です。これを正直に伝 へることのできないマスコミにも同様の「そら恐ろしさ」を感じてゐます。しかし突き詰めていけば「日本の田舎は再生されなくてはならない」「電力浪費社会 から脱却しなければならない」といった、人としての生き方の問題である訳ですから、これを正してゆくことができるのは、やはりマスコミの一翼を担ふ芸術、 文学の分野であるとも信じてをります。

 「自粛」ではなく「意識改革」。今後、震災をきっかけに、「お金があるなら何をやっても自由」といふ、戦後民主主義が担保してきた日本人の思考が、一人 ひとりの自覚において根本的に改まることを切に望みます。

 被災者の皆様に慎んでお見舞ひを申し上げます。



 文学の掲示板ですが、今回の大震災は、詩文学に多大な影響を与へた「明治維新」「大東亜戦争」同様、日本の在り方を見つめ直す「国難」であるとの思ひか ら、サイトのスタンスを示させて頂きました。政治的なレスは不要です。
 


(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 3月13日(日)02時37分7秒
  二宮佳景様、広告あ りがたうございます。
六草いちか様、舟山逸子様、御著ならびに雑誌をお送り頂きながら、昨日来のニュースの大きさに心奪はれ、手につきません。
八戸の圓子哲雄様ほか、被災地区の皆様の御無事を心よりお祈り申し上げます。
 

広告をお許しく ださい

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2011年 3月 9日(水)02時51分11秒
  鼎書房より、4月上 旬刊行の予定です。
   
 

Twitter

 投稿者:やす  投稿日:2011年 2月28日(月)12時34分39秒
  細かい更新記録はTwitterでつぶやくことにしました。
よろしくお願ひ申し上げます。
 

田辺如亭宛神田 柳溪書簡

 投稿者:やす  投稿日:2011年 2月21日(月)23時27分46秒
編集済
  出品者がそれと知ら ずに「村瀬藤城の手紙ではないか」と出してゐたオークション、寝過してうっかり入札の機会を逸しました。なんたる不覚、幸ひ画像は不完全ながら全文公開さ れてゐましたので、読めるものなら読んでみたい文献であります。  

文字化け

 投稿者:やす  投稿日:2011年 2月16日(水)20時49分17秒
編集済
  外部の方より、サイ トのあちこちが文字化けで見られない旨、指摘を受けました。
詳しい人に尋ねましたところ、Windowsをアップデートした際に起きるらしく、私のWebページの作り方にも原因があるやうですが、次回のアップデー トで「回復する予定」だといふことです。ご迷惑をおかけします。2011.02.22更新情報

新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』

 投稿者:やす  投稿日:2011年 2月 7日(月)23時15分5秒
   長らくオークショ ン上に晒されてゐた『五つの言葉』 (昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会 図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊 行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方 かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。

 さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。
古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。 天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むな しく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠 崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。

 けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品で したが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い 読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。

「朔」170号

 投稿者:やす  投稿日:2011年 2月 1日(火)10時13分29秒
   圓子哲雄様より 「朔」170号の御寄贈に与りました。まことにありがたうございました。
 堀多恵子氏・三浦哲郎氏の追悼文は、いづれも真情のこもったものながら、山崎剛太郎氏がこれまでの長い思ひ出から、己が師の未亡人に対する尊敬に慊らぬ 懐かしさを綴られた一文、堀門下唯一の生き証人であることにあらためて感慨を深くするものです。
 それから私は作品をひとつも読んだことが無いのですが、圓子様が旧くは高校時代のクラスメートだった三浦哲郎氏に寄せられた回想は印象深く、ハンサム・ 利発・力持ちで人気者だった“華ある”三浦氏から、地味だが鉄棒の国体選手にも選ばれた圓子さんが内心「男」としてライバルと目されてゐたらしいエピソー ドや、そののち20年もしてから奇しくも両者共通の師であることが判った詩人村次郎氏を挟んで、当事者にしか窺ひ知れぬ曰く言ひ難き三者の心持と事情を 語った条りは実に興味深く、殊にも文壇に出た三浦氏から、
「製作しても発表しない生き方だと言いながら、遠くから現代文壇を批評するのは間違えている。沈黙を守るべきだ。矛盾している。」
 と村氏へ言ひ放ったといふ指摘は、もはや「師」に対する物言ひといふより凌駕しつつある「先輩」に正対しての堂々たる批判には違ひなく、手痛い指弾を受 けた師の反応を敢へて包み隠さず書き留められた圓子様の、弟子を自任し続けた生き方と並べて同時に感じ入ったことでした。
 他にも天野忠の詩業を概括した小笠原眞氏の評論、小山常子氏の回想を興味深く拝読しました。一体に抒情詩人といふものは最初の詩集で全てが決まってしま ふものですけれど、壮年以降に一皮向けた花を咲かせる苦味の利いた詩人の系譜が示されることに、今日的な意義を感じます。

 ならびに今回は、圓子哲雄様の短編小説集『遠い音』の御寄贈にも与りました。小説を読みつけない私の語るところではございませんが、あらがじめ刊行を前 提とのことなれば、遠い日のスーベニールの再録ではなく、戦争を題材にしてゐるのですし、もっと手を入れて、詩人の手になる後日の問題作・奇書とも名づく べき「一冊の本」として趣向をこらされたらといふ気も致しました。皆様の意見はどうでありませう。

 ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。
 

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月27日(木)12時10分12秒
  本の外装と奥付の画 像などメール添付で送って頂けましたら「詩集目録」に掲げさせて頂きます。ことにも処女詩集は地方の私家版出版の珍しい本だと思ひます。
レファレンスありがたうございました。
 

(無題)

 投稿者:史恵  投稿日:2011年 1月26日(水)19時32分17秒
  こんばんは。
情報ありがとうございます!
すぐにお返事いただき、大変感激しています。祖父死後13年、急に思い出したのは何故なのか自分でも不思議です。
自費出版をしてくれた伯父も4年前に亡くなっており、手に入ったらお仏壇の祖父母と伯父に報告したいなと思っています。
また進展ありましたら、管理人さんに報告させてくださいね。本当にありがとうございます。
 

レファレンスあ りがたうございます。

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月26日(水)00時00分13秒
編集済
   はじめまして。レ ファレンスありがたうございます。
 本来メールで頂けるとよかったのですが、アドレスがわかりませんのでこの場で回答させて頂きます。

 拙サイトに情報を掲げてゐる阿祖父様の詩集『おのが軍書』『小さな教室』『雪國天女』は現在国会図書館に所蔵がございます。マイクロフィルム化されてゐ るので東京まで出向いていっても現物は見せてもらへませんが、郵送でコピーをとることができます。(一般資料の検索/申込みボタン)

 個人で利用者登録するのが面倒な場合は、お近くの公共図書館経由で郵送して貰ったらよろしいでせう。料金は一枚35円+送料梱包料が掛ります。留意しな ければならないのは著作権者継承者(伯父様)の承認があることをカウンターを通じてうまく伝へないと著作権法の制限によって、コピーは半分しかとれないと いふことです。直接伯父様から依頼される形にするのがよいでせうが、くれぐれも注意して下さい。
 『小さな教室』と『雪國天女』は道立図書館にも所蔵があるやうですが、『雪國天女』はネット上の古書店(日本の古本屋)に現 在3冊在庫がありますから、値付け直されないうちに一番安い一冊を購入し、『小さな教室』は『おのが軍書』と一緒にコピーを申しこんだらよいのではないで せうか。

 以上、生もの情報を含みますので取り急ぎ回答申し上げます。幸運をお祈り申し上げます。
 ありがたうございました。
 

(無題)

 投稿者:史恵  投稿日:2011年 1月25日(火)22時52分18秒
  突然の訪問失礼いた します。
私は北海道在住で、こちらのホームページを見つけて、管理人さんにお聞きできればと思い投稿させていただきました。
私の亡くなった祖父は荒谷七生といい、生前ぽつぽつと詩や郷土史研究をしていたようですが、私自身は祖父の本を見たことがありません。
唯一伯父(祖父からみると息子)が自費出版した方言集のみ、祖父の死後読みました。
詩を書いていたのは古い話しですし、それこそ自費出版ぐらいしかできなかったのかも知れませんが、ネットで祖父の名を探してみました。
それでこのホームページに祖父の名と作品集の文字を見つけた次第です。
この目録にあるものは入手可能なのでしょうか。それとも、どこかの蔵書になっているなら、直接そこに連絡を取ってみようかとも考えています。
祖父の長女は私の母で、ぜひ手に取ってみせてあげたいと思っています。
祖母も同時期に亡くなり、祖父の作品を知る機会もなく手元にはもうないので、ぜひ一度読んでみたいのです。
唐突で本当に申し訳ありません。何か情報がいただければと思い書きました。

『桃の会だより』三号

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月21日(金)05時57分32秒
   折りしも山川京子 様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。

 巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が 語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足す ことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京 「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。

 徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大 戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常 にふたがる思ひです。

ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

山田鼎石の墓

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月20日(木)22時45分8秒
編集済
    昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山 田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良 川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる 石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。

 岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうで す。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どう なってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに 約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったので ありました。

 星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの 『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。

『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月12日(水)09時54分1秒
編集済
   手皮小四郎様より 『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。

 最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。

わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひた すために…… 野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いた neptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。
「椎の木」2年11号1934.11


 彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を 刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびま す。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに 「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられま す。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞ れの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝 記資料は確保できませんからね。

 今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へら てゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」され なかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。
 昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出 されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であった こと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを 提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ 事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子に はなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身 する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号 でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻 いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理 由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニ ズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかっ た筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなか の配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。
 その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

収穫報告ほか

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月10日(月)23時45分45秒
編集済
   さて週末土曜日は 神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。 
まづは大沼枕山門 下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半 といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。

 山を出ることを勧む人に答ふ

風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。
山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。
葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。
鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。


 昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの 「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に 係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では 一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限
定300部の稀覯本 ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並 べて写真を  撮らせて頂くことを 忘れたのが残念でし 
た。) 
 おなじく格安で購 入した  『新領土詩集』もモ ダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジー の一冊。『四季詩集』 『コギト詩集』『歴 程詩集』『培養土(麺麭詩
集)』とともに昭和 16年に刊行されてゐます。今回「
耳付き詩集」と共に わが書棚で「揃 ひ踏 み」を果たしました が、ネッ
ト上ではカバー付き 刊本であることが却って祟ってをり、やっぱり稀覯本らしくもなく複数冊が稀覯本価格でヒットします。

 かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に
催された大学図
書館研修会で広報担 当者が宣伝してゐたことを繰り返しますが、今
年は国立国会図書館 「近代デジタルライブラリー(ネット上の公
開資料)」の進捗状 況に目が離せませ
ん。「現在は主に大正期と昭和前期刊行図書の拡充を行っております。」と のことですが、デジタル化のネックとなってゐるのは主に「序文跋文の執筆者に関する著作権」といふことです。こ れに
ついてどうチェック が進んでゆくのか、 そんなもの削ってでも所謂「幻の稀覯本」と呼ばれてきた本は先行ネット公開して欲しいところですが、「提供された情報により収録可能」ともなるやうですか ら、或は私達が著作権に関する情報を積極的に寄せ、本来著者の意思(遺志)を非営利に表明してゐる詩集分野でのデジタル化とデジタル公開をどんどん求めて いったらいいのかもしれません。さすればテキス
ト封印を盾とした一 部の古書価格は瓦解しませう。原質としての詩集の価値がネット公開によって(増すことは あれ)減ずることはなく、あらためて内容と装釘に即 した価格が付け直されて、書物愛好者の間に行はれる ことになる筈です。また漢詩集の場合はすでに「江戸 期以前の和漢書約7万冊」が平成23年3月までにデジタル化が完了してしまふ予定らしく、こちらはいつネット公開が開始されるのか、(さきの近代ものにつ いても、デジタル化=即ネット公開といふことではないらしいのですが)待ち遠しいところです。拙サイト上の公開コンテンツも、その有用性や進め方について 今後再吟味が迫られることになるかもしれません。

 さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎
様から送られた 『菱』172号。追って御紹介したいと思ひ ます。
 


墓参記

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月 9日(日)18時47分50秒
    先週の後半1/5〜1/7は新潟県に出張。昨年家宝となるやうな有難い銅像を得た機縁もあり、その日の仕事を終へて宿に帰る途中、長岡郊外の隆泉寺まで初 めての良寛禅師の展墓を敢行しました。「敢行」に相応しく(?)底冷えのする曇天の下、当日1月6日は禅師の祥月命日だったのですが、夕刻の境内周辺に観 光客らしき人影は皆無、供花もたった二束といふ実(まこと)にさみしい命日に立ち会ってしまひました。町ぐるみの法要が半年遅れで行はれる由ですが、しん みりした憑弔は、しかし星巌翁の時と同じく却って心に期するところ深くして帰ってくることができたやうに思ってをります。
 さうして出張の帰途にはもう一基、今度は東京で途中下車して田中克己先生の霊前に一週間早い墓参り。こちらは「生誕100年」の御挨拶です。

 数珠を持参しては何かと余禄に与った出張に「感謝」の週末でした。

 

はつはるに白兔 の伝記ひもとけり

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月 4日(火)23時27分15秒
    年末年始もボソボソ読んできた梁川星巌翁の伝記ですが、やうやく前編を読了しました。特に翁の最晩年となる安政五年の事跡については、それまでの文人墨客 の交遊関係を綴る伝記とは大きく様変はりし、明治まで秘匿されてゐた遺稿『籲天集』から尊王攘夷に彩られた慷慨詩編が紹介される辺りから、一介の宗匠詩人 の生涯は、政治の裏舞台を暗躍する熱血に彩られ、変貌して参ります。これを裏付ける資料も、詩集以外から採られたものにかなりのページが割かれてゐて、生 き残った志士の回想や書翰(特に佐久間象山と吉田松陰からの手紙が長い)、および事件処理のために残された供述調書(申口書)ほか、一様ではありません。 東西日本を遍歴して名声の頂点に上り詰めた老詩人が、やがて「悪謀の問屋」「今度の張本第一なる者」と目されるまでに至った経緯は、その後の結果が分かっ てゐるだけに痛ましく危なっかしく映ります。その動機も社会転覆を謀るといふより純粋な詩人的熱情のなせる「諫言」が主目的なのですから、弾圧に当たった 幕府側にしても、例へば寛典派で星巌にはかつて添削も請うたこともある間部松堂との会見が入京前にもし大津で実現して居たら、大獄の処断はこんなにも陰惨 になっただらうかと思ってしまひます。

 心が痛むシーン(もはやシーンと申していいでせう)といふのは幾つもあるのですが、ひとつは志士でなく学者だった人々の動向でした。京摂一番の儒者と星 巌に信頼されながら、大獄前に謹慎これ努めて極刑を免れた春日潜庵、彼が星巌へ当てた苦衷を滲ませた挨拶の書簡や、「反逆の四天王」の一人だった池内陶所 が、かつて『酔古堂剣掃』を 共に編纂した同志、頼三樹三郎の手跡をお白州で証したといふ供述記録。なかなか苦いものがあります。一方、学者とちがって詩人とは云へば、三樹三郎にして も星巌にしても(結局は助からないのですが)どこか楽天的で抜けてゐるやうに映る。三樹三郎は吉田松陰同様の図抜けた詩人ぶりで、育ちの良さや支援者の多 さにも拘らず、科せられた罪の重さが大獄の陰惨さを象徴するものとなってゐますが、大獄直前に病没した星巌翁は、吉田松陰の内命を帯びて間部侯襲撃に上京 した久坂玄瑞を百方諭止したといふ条りなど、実に歴史の危機一髪を物語るやうな(これは著者である伊藤信氏の手柄ともいふべき、関係者から得た証言らしい のですが)、世故に通じた重々しい判断をなしてゐる。ところが間部閣老には談判すれば真情が通ずるだらうと詩を二十五篇も作って、実はカードはそれだけ だったり、見舞客にコレラの出所と噂された鱧を食ったことを注意されると「旨かりしなり、なかなかコロリには非ず」なんて気丈に話してて翌日死んぢゃふな んてところは、どうなんでせう。さうして三日後に明治維新の遠因となる捕縛が始まるわけです。

 安政の大獄といふのは、幕末ドラマファンにとっては、(志士たちの最初期の面目について興味深い報告に富んではゐても)あくまでもドラマの前史といふ位 置づけなのでありませう。しかし物語がここで終焉する私にとっては、出てくる名前名前を片端から検索しながら、大獄に遭った人、免れた人、そして大獄を科 した人、彼らが辿ったその後の運命について、ネット上で閲覧を繰り返しながら、あれこれと道草の思ひを馳せる処なのでありました。さうしてこれが戦前の著 作であることを同時に考へたのでした。この本は、幕末の反体制思想が成就した結果の世界から、その黎明期の功労者にして最初の犠牲者となった郷土の偉人梁 川星巌の功績を顕彰しようといふ結構を有してゐます。しかし今の日本には「帝の国」といふ世界観は喪はれ、尊王攘夷のスローガンなども、時代遅れの国粋主 義としか捉へられなくなってしまひました。仕方のないことですが、実はこれらふたつの評価の向ふに、詩人が生きた時代の真実があったんだらう、さう思った のは、頼山陽の時代を再評価した中村真一郎や富士川英郎の詩史観の延長上に、発せられるべき真っ当なリクエスト(要求)として、非常な新鮮を以て私に訴へ かけてきた星巌翁の生きざまによるところでした。本書を資料にものを書かうとする現代の作家達を、時に辟易させる大正時代の伊藤先生の口吻ですが、鴎外の 史伝『北條霞亭』と同様、むしろここは著者の最も個人的な思ひ入れを大胆に付して「星巌生涯の末一年」とでもして章をあらためて書いたら、もう少し星巌翁 本人に近づき得たのではなからうか、さう思ったことであります。

 星巌翁の最期にまつはる証言から以降は、詩壇の後輩達による弔詩の数々、大獄事件の後始末を受けて、歴史の表舞台から退いていった寡婦紅蘭女史の面目を 示した回想やその後の世過ぎに筆は移ってゆきます。有名な紅蘭未亡人と暗殺前の佐久間象山とのやりとりなども収められてゐます。面白かったのは紅蘭が出獄 に際して占ったところ

「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終(つひ)には吉。」

といふ卦が出て、これがどうやらおおきにウケたといふ条り、まねかざるの客といふのはもちろん取調官のことかもしれませんが、出迎へにやってきてくれた鳩 居堂主人ほか、気の置けない支援者弟子達のことと解すると、旦那に劣らず磊落な女将さんの人柄が伝はってくるやうであります。

 この年末年始の閑暇を以てゆったり読書ができたことをあらためて感謝します。私からこの伝記に新たに付け加へ得る報告としては、昨年書きましたが、生前 に企図された最後の詞華集『近世名家詩鈔』巻頭にあった翁の名が、大獄の諱忌を以て一旦削られたといふ 小事件、そしてこれも昨年展墓して発見したことですが、星巌夫妻の墓の高さが、実は建てられてから途中で女史の方だけ低く変へられて ゐたといふ、なんだか可笑しいやうな事実についての報告、不日まとめて読書ノートの連載にも付したいと思ってをります。
 

年頭感懐

 投稿者:やす  投稿日:2011年 1月 1日(土)16時33分39秒
   古来五十ともなれ ば「知命」、「人間五十年」、また「年、五十にして四十九年の非を知る」
などと色々に申す由。けだしこしかた半百年、我とわが身の周りに突きつけられし無常のさま
に、ただ驚き悲しみ恐れ居れり。あるひは「四十五十にして聞ゆる無きは是また畏るるに足らざ
るのみ」とも申すとか。畏るるに足らざる者には、天命も下したまはざらん、されど人として、
思ひやり、肚をつくり、ユーモアを解す、この他に知るべき事の何かはあらん、などとひとりご
ちて、ささやかなる新年の祝杯を引けり。             先師生誕百年の元日に

ことしもよろしくお願ひ申し上げます。

も どる