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山田鼎石 やまだ ていせき(1720 享保5年5月19日 〜 1800 寛政12年1月12日)

 名は瑛、字は子成、通称は大蔵、鼎石(別に貞石)と号した。鼎石街(釜石町:現在の本町)の素封家山田常省の三男として享保5年5月19日生まれる。上京して江村北海を師とし、 岐阜に帰郷してからは、壮年期に一旦家業に専心するため詩筆を十五年間廃したものの復帰。以後、金龍道人、宮田嘯台、森球玉、左合龍山らと「鳳鳴詩社」を結んで盟主として仰がれた。 けだし岐阜詩壇の嚆矢と呼ぶべく、安永八年に刊行された詩集は、岐阜の人として最初期のものに属する。
 寛政12年1月12日没、岐阜市中大桑町の浄安寺に葬られる。明治初年の長良川堤防改築に際して塋域が移動し、埋骨の地は所在を失ふとともに、墓石も今は無縁仏の扱ひとなってゐる ※下段参照。


掛軸1(織田塚)  掛軸2  岐阜市円徳寺所蔵(岐阜市歴史博物館管理)  塋域


鼎石詩集
(岐阜県立図書館蔵)

『鼎石詩集』

ていせきししゅう

1779年(安永8年)11月 菊花堂 上梓 
京:菊屋七郎兵衛(菊花堂) / 岐阜:藤屋喜平次

【第一冊】4,3,4,1,4(巻一),10(巻二)丁 / 【第二冊】25(巻三)丁 /【第三冊】4(巻四),20(巻五),1,1,1丁  size 26.1×17.7cm


【第一冊】
表紙
見返し
序(江村北海) 1 2 3 4 5 6 7 8

鼎石詩集序(江村北海)


東のかた都門を出でて三十里、大津に抵れば、則ち琶湖の万頃、堆藍、天を涵し、鎮京嶽(比叡山)の色、蜈蚣(三上山)石鏡(鏡山)の諸山と、 秀を雲際に競ふ。形勝雄麗ならざるには非ざる也。
大津より幾駅を過ぎ磨針嶺を踰れば、望湖亭有り。湖山縹緲また復た光景韶美ならざるに非ずや。嶺を下れば番場駅。而して醒井、而して柏原、而して関原並びに千山の名に在り。而して伊吹嶺、最も崢エなり。
垂井以東の山、漸く披避し、赤坂駅に至れば、則ち廓たるかな。
目を東南に極めれば直ちに尾参の域に接す。東北の濃信の諸山、遠近高低、重々呈露す。
その中に就いて山形山色極めて奇に極めて秀でる者、之を岐山と為す。
京より岐に至る、けだし三百里。その間の山々、前後に迎送し左右に映滞する者、無慮幾く十百。
目、熟し、心、弄し、一々応接に遑あらず、而して此に到りて一たび岐山を見れば、心目、之が為に一新す。
稲葉山、弾龍山、併せて之を岐山と称す。鳳皇川その下に流る。その水、虞城(郡上)より来る。
駛流して八十里、黄土(上有知)駅に抵り[鬨]水に合流し、石佛巌を経て始めて長柄(長良)津に達す。
瑩澄鮮碧、毛髪も鑑すべく、而して岐府(岐阜)の万家、川に縁り山を被る。
その形勝、豈に[廣々]大津、針嶺の比のみならんや。
余、嘗て貝原翁(貝原益軒)の岐岨路(木曽路)の記を読み、岐府の風水を称して平安城に似たりと曰ふ、左券(なるほど)と為すに足る。
亦た唯だ、淑清の気の鍾まる所、人を産すること韶慧にして、凡その技芸を以て世に称する者、前後少なからず。
若しそれ文学なれば、則ち山子成(山田鼎石)、之が先鞭を着くと云ふ。子成、名は瑛。その居は鼎石街に在り。因て以て号と為す。年紀(年齢) は余に雁行す。
弱齢より詩を余に学び、今に四十年、孜々として業を廃することなし。業、成りて詩名、遐邇に炳煥す。而して郷隣みな詩匠に推す。
猶ほ且つ、一詩を作る毎に必ず之を余に示して敲推を定む。其の心を秉(と)ることの重厚、末俗軽薄の習ひなし。また復た嘉称すべし。
是に於いて其の餘勇を賈ふ者の漸く衆し。
今を以て之を論ずれば、左九成(左合龍山)、山士諧(山田芝岡)、紀公淵(堀田石室)、田子淵(野田鳳川)、石徳麟(不詳)以下、比々として数ふべし。
而して延いて嘉納、関邑(加納・関)に覃(およ)べば、森求玉(森東門)、沈黙自ら淑くし、宮士祥(宮田嘯台)、慧心秀口、及び田君明、藤子効(後藤虎邱)、司馬子紀以下、才髦を輩出、欝として芸文の薮と為る。また偉ならずや。
余が性、酷(はなは)だ山水を好む、比年、虞城に往来し、途に必ず岐府に出るを以て必ず子成が宅に信宿し、流峙の奇を翫弄し、亦た且つ二三子に邂逅す。吟哦を咀嚼し芸文を評隲して以て娯楽と為す、虚歳あることなし(毎年恒例)。
乃ち岐府の山水の、能く子成を生し、亦た能く二三子の穣郁の美を発育するを嘆ず。
頃(このごろ)、子成が子弟、及び授業の徒、子成が詩を抄して以て、之を梓にし、余に一言を請ふ。
因て居常(つねづね)嘆称する所の者を録して之を贈り、以て序に代ふと云ふ。
安永丁酉(六年)冬
   北海江邨綬 撰
  孫 枏書


序(金龍敬雄) 1 2 3 4 5 6


鼎石詩集序(金龍道人)


鳳皇鳴きぬ。かの岐山は、是れ成周(周王朝)の基とする所、郁々乎たる文明の兆(きざ)す所かな。
吾が東華(日本)の岐山もまた然り。但に形成の相ひ肖るのみにあらず、鳳鳴の文明を兆する者も亦た肖たり。
曩者(さきに)在中納言(在原行平)、稲葉の松を詠ぜしより、以て愚中(周及)の声を趙宋に揚げ(留学事績)、雲外(玄嶂)の機を覇主(信長)に抗するに至る。(※戦国時代の事績。)
奚(なん)ぞ其れ盛んなるかな。惟だ輓近、寥々たるのみ。
然りと雖も時は久しく廃すべからず。必ず偉人の生ずる有り。
山田子成、けだし其の人なるかな。幼にして聡慧、弱冠にして詩を好み、日に唫哦を事とし、殆ど心肝を吐くに至る。
後、採薪の憂(病気)に罹り、之を廃すること十五年にして復す。更に吟哦を事とすること今に十五年なり。
余、頃(このごろ)、その鼎石集なるものを閲するに、古詩近體、賅(そなは)りて存す。
中晩の佳境に到るや、餘り有りて又た優に盛時の域に入らんと欲す。乃ち侍児をして之を諷(諳誦)せしむ。
諷々乎たる興国の音にして、実に以て鳳皇の鳴に配し、而して能く郁々乎たる文明の兆しを作すに足る者か。
況んや山水明麗、秀気の鍾まる所、必ず当に篤く偉人を生すべし。豈に彼の岐山に譲らんや。
子成、名は瑛、其の宅は岐府鼎石街に在り。故に取りて以て号と為すと云ふ。余が同国なり。
其の文明の化、遂に闔国に及ぶことを喜ぶ。故に之が序と為る。
  時
安永六年冬至前三日
   金龍翁雄杜多着(著)
       山嘉胤 書


序(龍草盧) 1 2 3 4 5 6 7 8


鼎石集序(龍草廬)


けだし予を以て今の詩を論ずれば、則ち四等の異有り。儒生の詩也。隠士の詩也。禅者の詩也。詩人の詩也。
禅者の趣は固より観るに足るに弗(あら)ず。隠士の風は便ち枯淡寒痩、亦た取るべからず。儒生の辞は動(ややも)すれば輙ち理詠に渉りて風韵、或は乏し。
唯だ詩人の作、温厚和平にして、情景相ひ触れ、逸致、餘り有りて、超然として復た尚ぶべからざらんか。是れ予が之れ大いに欲する所なり。
友人三野の山田子成、氏名は瑛、幼より学に志し、長じて詩に耽る。是に於いてか、厥(そ)の題咏する所、歳々に数十百首を累(かさ)ぬ。
頃者(このごろ)、自ら最も佳なる者を擇び、録して冊子と為す。号して鼎石集と曰ふ。
其の郷族、宮田子祥、予の門下に従遊する者久し。之れ亦た不世の奇才子なり。
予、居恒(つね)に之の子を呼び、以て[契]門の千里駒と為す也。今、子祥その鼎石集を校し、子成とともに書を修めて以て叙を予、公美に匃(こ)ふ。
予、[局]を啓き一照する[時]は、則ち厥の言、唫半、理趣、凡ならず。灑々の状、落々然として晩唐の綺靡に陥らず。誠に是れ風流温藉の徒の気象なるを知る也。
厥の気象を知りて而して又た夫れ学ぶ所、常人に超出すること、夫れ萬々なるを知る也。
天下後世、子成の詞を読まん者、其れ必ず之を詩人の詩と謂ひて、而かも厥の傑然なる者と称すべきかな。
予や迩(ちか)きに夫れ、綬を江(江州)の某に解きて(致仕して)、而して京に帰り、蓑笠漁竿、以て鳬水の上に逍遥、而して文事に隔生(きゃくしょう)なる[時]は、則ち彩毫以て斯の集を光華すること能はず。
則ち光華すること能はずと雖も、而して子祥に私するの意、慳(やぶさ)く其の請ひを拒むに忍びず。
而して叨(みだり)に楮墨に命ずること、これ尓(しか)り。
戊戌(安永七年)春、平安緑鳬江上明月楼中に書す。
 彦藩前文学 龍公美

目録 1 2

 巻之一
 五言古詩
左元鳳庭生霊芝賦此為賀 1 2
懐旧詩
陌上美人 1 2
花下飲
怨詩行 1 2
挽歌詩 1 2
促織歌

 七言古詩
上養老山
侠客行
老婦歎鏡 1 2

 巻之二
 五言律詩
賦得竹林鷽
白寉翁不老門集得長字 1 2
咏白鼠

白鼠を咏ず
自ら馴良の質あり、(※鼯鼠の)五技の工なるに関(あづ)かるに非ず。毫(細毛)は明月の皎たるを争ひ、眼は夭桃の紅なるを奪ふ。
未だ梁上に馳るに慣れず、常に躬を帳中に侍す。聞く、(※大黒点の使者の)君よく祉(さいは)ひを致すと、肯て令名をして空しからしめんや。

題画山水二首 1 2
溪口春泛
幽居二首
寄遠曲
邉馬有帰心
秋日送人之南海
岐岨道中作応人需
大溪禅師見示新年作次韻呈上
次龍潭師新年韻却寄
人日作
五日作
同諸子咏蛍得八庚
賦得青松篇壽林氏六十
山中隠者
中秋前一夕月有蝕

中秋同諸子賦得七陽

中秋、諸子と同に賦す。七陽(の韻)を得たり。
嘉會、諒に得難く
良宵、豈に常なり易からんや
盃を傳へて素影を斟み
瑟を鼓して、清商(※澄んだ音)を發す
行雁、飛びて嶺に横はり
寒蛩、鳴きて牀に在り
永言(※歌)、斁意(※えきい:倦むこと)無し
碧瓦、微霜を綴れり

同夜寄懐五瀬邨上氏

同夜、五瀬の邨上氏に寄懐す
客を邀へて良夜を倶にし
筵を陳べて羽觴を酌む
酣歌、世を玩ぶに堪へ
俳謔、亦た章を成せり
月に對して千里を懐ひ
風に臨んで八行(※律詩)を裁す
何為れぞ観宴の夕べ
更に相思をして長からしまんや

正伝刹主甚好奇石、余一日訪之乃出其所攅石数百種、見示一物一品靡不偉状実壮玩哉、有嘆作席上呈刹主 1 2
次韻司馬子紀見寄
池塘生春艸

嘉納駅送北海先生赴郡上 1 2
為宮田士祥壽乃翁七十

寄題井上氏蒼松園
五日諸子至同賦得一先 1 2
秋日山居
重陽日再次原韻答清公績文学

関邑途中口号 1 2
田君明宅宴集同北海先生及諸子賦得一先
九月十三夜懸壺楼小集得七陽

山家春日 1 2
春日遊稲葉山過雨憩含政寺得風字
夕陽僧

山士諧宅小集分題得夏日山居支韻 1 2
題画山水屏風応眄柯亭主人需
同千邨君及諸子泛舟長水得一東

江上懐故人
春日諸子至同賦得十灰
春日宮田士祥宅集分體得五言律

咏寉壽大江稚圭五十初度
満願精舎集同諸子賦得寉字
秋日極楽精舎集同諸子賦楓落呉江冷得十二侵

 五言排律
賦得春色満皇州二首
賦青松篇壽桑城邨上氏七十
聞大江稚圭講書方来館有此寄

咏水仙花
寒梅

 六言排詩
春日郊行 1 2

裏表紙

【第二冊】
表紙

 七言律詩
長安春望
双胡蜨
七夕桂樹楼小集得浮字

擬夏日侍宴


九日書懐

艸堂九日、曾遊(※昔の旅)を感ず
濁酒蕭然として、落木愁ふ
誰か更に登高して賦を作す(※重陽行事)に堪へん
獨り失意を将って幽に耽るに好し
一叢、香動く黄花の色
四壁、寒生ず白雁の秋
遮莫(さもあらばあれ)、人間(じんかん)知己少なきこと
柴桑(※陶潜の故郷)の處士、自ら風流


幽居 1 2
客中作
秋日偶作

至日送人再之豫州
寄清君錦先生

中秋前一夕江亭賞月得歌韻
秋日芭蕉館即事懐友

釣父
寄芥君彦章

送人之南呉野 1 2
秋日旅懐
九日餐菊亭雨集得寒字

漢高廟
送五台山人還浪華

九月十三夜凌雲軒雨集得賓字
秋夜遊寉林精舎同諸子賦得開字

秋日作五首 1 2
和司馬元貞見寄
蒼松篇壽張藩人七十
春初送申文英之洛陽

次韻岡蘭夫見寄
蒼松篇壽令府坂君七十初度

偶成
梅雨中臥病

頳桐花 1 2
金錢花
同諸子遊篠田氏宅得開字

哭江邨孔均
次韻岡蘭夫

寉林精舎送麟上人之東都
春日閑居二首 1 2
穀日作
鸚鵡 1 2
次龍潭老師見寄韻二首

玉蘭花
愛妾換剣

僧某次予旧作韻見贈再次原韻謝答 1 2
春燕
和司馬子紀

北海先生将赴虞城枉駕弊盧賦此呈上
岐山懐古三首 1 2
夢遊天台山同諸子賦限韻標橋飄簫驕

呈上金龍上人
咏雁来紅

咏煙艸
中秋無月同諸子賦

望海
遊寉林精舎作

季冬夜同諸子賦得陽韻 1 2
次服美仲二株寺集示司馬子紀韻却寄二首

咏笋
伊藤士善文学将赴東都途中宿嘉納駅宮田士祥邀宴席上賦呈之

山亭初夏
関邑司馬氏眄柯亭宴集倍北海先生同諸子賦示子紀

咏牡丹応洛陽人索
遊小房山途中口号

九月十三夜左元鳳宅同金龍上人及諸子賦得六麻 1 2
水中楼影

関邑田君宅宴賦贈主人 1 2
奉呈肥後侯
次韻関邑原玄同見寄 1 2
賦松寉篇壽仲兄士眞六十初度
寄題三原宇都宮生潮鳴館

暮春紀公淵宅宴集同諸子賦得十一眞
暮春宮田士祥宅値凍滴師自東武帰西京席上賦此呈之 1 2
咏蚊

吊織田塚 并引 1 2

織田塚者蓋距岐山二里許在上嘉納邨中有
塚無碑相傳是織田信長與齋藤道三争雄之
時合葬戦死之處也遊魂為變毎濕雲陰雨輒
墦間有戦争之聲里民驚告雲外和上和上乃
作一偈薦抜焉其怪長絶丁酉春金龍上人原
葬圓徳寺内且欲揄揚其偈誦之奇絶顯明其
功徳之廣大立碑勒之垂諸不朽云

永禄煙塵誰也知 蓬蒿没逕一邱遺 冤魂昔散高僧
偈 頑石今成戦士碑 寺動鯨音鐘旦暮 天銷龍氣劍
雄雌 百年都是東流水 唯有青山似舊時

織田塚を弔す  并びに引

織田塚は蓋し岐山を距ること二里許りにして、上嘉納(上加納村)の邨中に在り。
塚有れども碑無し。相ひ伝ふ、是れ織田信長※と齋藤道三と雄を争ふの時、(※正しくは秀信)
戦死を合葬するの処也と。遊魂、変を為して湿雲陰雨の毎に、輒ち墦間に戦争の声有り。里民驚きて雲外和上(和尚)に告ぐ。
和上、乃ち一偈を作りて薦抜(供へ)、焉(ここ)に其の怪、長へに絶ふ。
丁酉(安永6年)春、金龍上人、円徳寺内に原葬し、
且つ其の偈誦の奇絶を揄揚(ゆよう:称揚)し其の功徳の広大なるを顕明せんと欲し、
碑を立て、之を勒(ろく:刻)して諸(これ)を不朽に垂らすと云ふ

永禄の煙塵(戦火)誰かまた知らん
蒿菜、逕(こみち)を没して一邱、遺る
冤魂、昔散ずる高僧の偈
頑石、今成る戦士の碑
寺は鯨音を動かす、旦暮の鐘
天は龍気を銷(消)す、剣の雄雌
百年、都(すべ)て是れ東流水(逝きて還らず)
唯だ青山の旧時に以たる有り

五日送山士諧重之西京 1 2
寄題服士迪峨洋閣

夏日左元鳳至喜而賦之 1 2


中秋無月

三五(※十五)の清光、何處にか求めん
徒らに冷雨をして南楼に灑がしむ
山前の暝色、雲、樹を埋づめ
江上の哀音、雁、洲を下る
夜靜かに蘭燈、明、借るべく
天空の桂鏡、影、浮き難し
人間の斯の夕、悲哉、甚し
望を斷つ廣寒宮(※月の宮)裡の秋


十六夜夜半月稍清明次嚮山士諧見寄韻以謝答 1 2
丁酉秋上岐山有感作
賦鴨水弄月兼寄草盧先生

海楼賞月
十六夜対月

古戦場
歳晩寄長安平師古

御溝新柳
賦早春残雪

春日宮田士祥看雲栖集分體得七言律刪韻 1 2
左元鳳金谷街別荘同諸子賦得十三覃

茶室口号 1 2
春晩常在寺集山士諧携具得十三元
送人之芳野看花

同金龍上人及諸子遊小房山得二蕭
仲夏圓得精舎集得十一眞

閏七月十六日遊唯敬精舎同諸子賦呈刹主黙湛師
左元鳳自京帰訪余余時伏枕賦此兼謝嚮見寄之意 1 2
冬日聞某文学投宿嘉納駅宮田士祥宅力病往訪席上賦呈之

冬日森求玉宅同某文学及宮田士祥左元鳳分題得雪美人八庚 1 2
又雪佛

終わり
裏表紙

【第三冊】
表紙

 五言絶句
稲葉山
題石鏡

大堤曲
咏史
悼亡女
延平津
聞雁

寄某生客東都
賦楊柳枝送人
閨怨
訪山人

采蓮曲二首
金龍上人義茶亭十勝
右賞菊井
右高台寺

右八阪塔
右祇園祠
右圓通殿
右緑鴨河

右毘盧閣 1 2
右深艸里
右丹鳳城
右五台山
右毉王殿

右多宝塔
右白山祠
右天女宮
右犍稚楼

右翠霞峯
右嘯月亭
右観魚橋

 七言絶句
宰相藤公賜壽詩一章謹賦此奉謝
漢宮詞 1 2
江亭春晴
送人之洛陽

梅花落 1 2
巫山高
采蓮曲

登賀氏十八楼同諸子賦得十灰 1 2
哭森昌齢
涼州曲

呉宮詞 1 2
奠河遇雨
秋日作

秋日送客 1 2
秋夜懐故人
贈寒松館主人

夜猿啼 1 2
秋夜聞雁
待梅

壽長安医師奥邨翁八十応需 1 2
暮春送客
石鹿懐古

観韓客 1 2
侠客行
送人之越中

訪隠者不値 1 2
塞上曲
青楼曲

稲葉山 1 2
寄懐毛利生客羽州三首 1 2
早春謾成二首俲長慶體
春夜聞篴

東山看花有感作
送人経岐岨還武城
邨中閑歩

春日紀公淵宅集分題得松間花限韻
春日満願精舎集同諸子賦得十二侵
山房春興

次黙湛師見寄韻以謝
上巳作
賦松寉篇為某生壽応需

山中尋花
長堤芳艸
宮人斜

春思
正伝寺観牡丹石
北海先生再枉過弊盧賦此呈上

鳳河泛舟同諸子賦得一先
五月十三日送北海先生帰京師
感旧

長安曲
春日野歩

訪山僧不遇 1 2
同金龍上人及諸子遊小房山帰路分韻得一東
元日作

上巳日寄懐北海先生 1 2
山其乙留滞京師将帰不果却有此寄

題眄柯亭主人蓬島石応需
夏日訪山房 1 2
夏閨怨
初夏上稲葉山

雨後晩凉 1 2
月下聞砧次韻司馬子紀
雪中探梅

丙申元日作 1 2
壽君山先生八十初度
哭梅花道人

哭媳婦 1 2
夏日邨居
賦得海屋添籌壽佐渡人

山寺避暑 1 2
無題
大江穉圭見恵二令郎詩不勝唱嘆聊一絶以謝之

九日値雨二首
関邑途中作

多郎里茶店送北海先生帰京 1 2
送邨上氏帰桑城

和大江穉圭見恵二令郎見寄三首 1 2
寄懐草盧先生
次韻滕子効留別作

送金龍上人同諸子賦得開字
春日送人之京二首

春日早行
春日同諸子訪左元鳳得花字
同金龍上人及諸子遊信溪山得山字
神戸氏庭賞牡丹 1 2
暮春宮田士祥宅送笙洲和尚帰京同諸子賦得十四鹽

従軍行二首 1 2
孤邨燈
水亭避暑得九青

子規啼同韻 1 2
秋閨怨
不出院僧

七夕寉林寺集同諸子賦得臺字 1 2
七夕夜深
秋閨怨

哭垣生 1 2
看雲楼宴集北海先生将帰京見恵留別之大作席上卒次其韻以謝青顧之意又先生将探奇養老山故及之

経故人旧宅 1 2
極楽寺集與諸子同賦湖中値雨得五歌
新雁

送山士諧兄弟之京二首 1 2
初秋石楽民亭集席上同諸子賦得一東
暮春郊行

砕釆薺(げんげ)
終わり

跋(宮田嘯臺) 1 2

[跋](宮田嘯臺)

岐下詩社、鳳鳴と号す。鼎石先生、盟を主(つかさど)るや久し。先生の詩稿数巻、諸子毎(つね)に之を梓することを請ふ。輙ち辞す。
予、乃ち慫慂して曰く、
夫れ先生詩を言ふ者、今に数十年なり。老成の佳句、翅状、九苞五色を賅(そなは)るのみ。
其の音、雝喈(やはら)ぐ、鳳鳴の号、徒(いたずら)ならざるかな。
今■千仭に挙がり、国家の士、盛んに鳴き、以て世人をして諸子も其の後に和鳴することを知らしめるに足[時]は、則ち岐下の炎暉にして而して社の盛挙なり。
敢て請ふ、譲ること莫れと。
先生、笑って而して答へず。予、同盟にして而して且つ親戚の誼みを斉しくす。故に詩を輯めて遂に剞劂に付すと云ふ。
皇和安永己亥(八年)仲秋
    嘯臺宮田維禎士祥識

跋(佐合龍山) 1 2

鼎石詩集跋(左合龍山)

古へに称す、芷蘭(芝蘭)の室に入れば、則ち潜(かく)れて之と與(とも)に化すと。是れ有るかな。
山鼎石、子成翁、吾党の丈人行(長老)なり。而して緇素(僧俗さまざま)十餘輩と與に曁(およ)ぶ余り、詩社を結ぶ。其の薫陶を受ける者多し。
また田士祥と與に、慫慂以て其の詩稿を梓す。豈に惟に翁の盛挙のみならんかな。亦た是れ吾党の光栄なり。実に芝蘭の室の化なる者徒かな。
安永己亥(八年)の秋
   龍山左九成 拝撰

跋(堀田石室) 1 2

[跋](堀田石室)
北海先生の日本詩史の日本詩選、出でて而して後世、吾が三野に鼎石翁有ることを知る。余が父執(父の友)なり。
故を以て兄事すること数十年、親しく其の行蔵を悉(つく)す。
近来名声殊に煥発す。四方の士、文章詩賦を以て暗投する者の累々紛々、日に日に一日より多し。
是に於いてか詩業倍(ますま)す盛んに、篇什甚だ富めり。
乃ち盟弟の田士祥、左元鳳および従遊の二三子、相謀り其の中に就いて若干首を梓行し、鼎石詩集と曰ふ。
余、按ずるに古へに曰く、大人(たいじん)と游びて以て名を成す(※『楚辞』)と。
翁は已に北海先生を以て名をなす[時]ば、則ち余も亦た翁を以て名を成す者なり。豈に可ならざらんや。
是に於いて[譫]言を巻末に題すと云ふ。是歳安永戊戌(七年)秋九月既望(16日)。
  紀 廣 識

奥付
裏表紙


『盖松紀行』かさまつきこう

 遺文『笠松紀行』は、記された年月を詳らかにしませんが、鼎石七十代前半の晩年、美濃国が洪水と伝染病に襲はれた年として寛政元年(1789)年秋の出来事のやうに思はれます(調査中)。 原本の行方は不明ですが、漢詩人津田天游の序文題詩を付して製本され、訓点を施して書き写した(天游自身の控へ?)と思しきコピーが、現在岐阜県図書館に所蔵されてゐます。
 鼎石の没後、原稿はおそらく形見として鳳鳴詩社の後輩だった宮田嘯臺の許で保管されてゐたのでありませう。序文によれば大正時代、宮田家から円徳寺の先々代住職松田金堂氏の手に渡り、 津田天游の目に触れるところとなったやうです。その後、昭和に入って再び借覧する人が現れ、本文のみを謄写版で翻刻した「私家刊行版」が、また別本として県図書館に伝はってゐます。
 円徳寺の所蔵する古文書資料は現在、岐阜市歴史資料館に委託されてをり、照会してみたのですがみつかりませんでした。管理人が古書展で購入して蔵してゐる『天游詩鈔』が、 序文を仰いだ松田氏の蔵書であったことから宿縁のやうなものを感じてをりましたが、残念ながら原本は金堂氏没後、これらの古書とともに散逸してしまったのかもしれません。
 ここには津田天游の序文と題詩を付し、本文は現存する二冊の異同を校勘したものを適宜改行して掲げました。コピー不鮮明のため一部判読し辛い個所がありますが、 皆様からの刪正を乞ふ次第です。(2011.1.25管理人しるす)

岐下詩人山田鼎石寛政中歿其家絶不祀。余甞旁披而得墓碑於浄安寺荒叢中、悵然賦詩以弔焉。客秋金堂松田[]得其遺稿一篇於加納宮田氏[ ]絶無而僅有者也。装釘功成来請題余所作之弔詩乃記其由茲重録云。
 大正七年 著雍敦牂三月
  天游 田 発 識

岐下の詩人、山田鼎石、寛政中に歿して其の家絶えて祀らず。余甞て旁披而して墓碑を浄安寺の荒叢中に得、悵然として詩を賦し以て弔せり。客秋、金堂松田[ ]、其の遺稿一篇を加納宮田氏の[ ]に於いて得、 絶無而して僅かに有する者なり。装釘功成り、来りて余に作る所の弔詩を題することを請ふ。乃ち其の由を記して茲に重ねて録すと云。
 大正七年 著雍敦牂(戊午) 三月
   天游 田 発 識

 弔山田鼎石墓

山容鬱鬱水湯湯 [ ]勝髣髴古洛易 秀霊鐘處人如玉 含英咀華燦鼎石
先生見既角江門 才子走且僵遺編 今日想偉器誰能 立伝壮吾郷載筆
多年侵雨露東西 梵刹尋細故固緑 未了宿志酬始掃 鳳河河畔墓隧道
春浅日色寒杜碑 百年無後護蓋棺 名定所栄枯極日 淒涼雲樹暮於乎
家亡祀絶有餘悲 没人憑弔恨無涯 顕晦闡幽文士事 此以願受地下刻
浄声嗚咽春動息 遠篷揺曳昏長坡 英魂一去呼不返 唯看与秋山谷声

又有墓前作十絶 今録其七

鼎石先生古墓前 夕陽楼樹絶香煙 残碑積蘿無人掃 蕭寺春[ ]一事耳 
墓門寥寂鳳河濱 二月風寒意未春 桃棘枸苔人々去 残碑一片一伝神 
詩草堂々圧一城 江門才俊見先生 悠々歳月香美絶 謹[ ]当年鼎石名 
如今編素各多難 孰向祠壇気吐虹 鼎石以来無鼎石 寒煙[ ]々続禅宮 
手捨残碑孤永吁 祗林河處聴啼鴣 磬沈魚黙春蕭寂 不見吟壇考丈夫 
曽慕高風編小伝 記胸以事代麁奠 回[ ]百[ ]以故春 孤向葉[ ]揮涙見 
一代詩豪安在哉 白楊風呤[ ]鴉哀 莓祠弔罷日将夕 欲去躊躇駐幾回 
此実伝明治戊申(41年)二月既作 今探簏底第録不敢[ ][ ]要存当時感懐矣
  発 又識

[ ] 解読中

  赴盖松紀行 (笠松に赴く紀行:原漢文)

 今茲夏秋の交(変り目)、瘟疫大いに行はれ、荊妻媳(嫁)婦もまた之が為に悩まさるれ、殆ど危篤に及ぶ。顛側、 人を須(ま)つこと数旬にして已(や)み復常す。 他方の旧知の看候(見舞ひ)する者もっとも多し。爾後、往きて之に謝せんと欲するに尋(つい)で嫂の凶に遭ひ、而して余もまた善く病めり。是(ここ)を以て果たさず延いて今日に及ぶ。

 維時(これとき:今)十月中旬三十日なり。天気快豁、和暖相ひ催し、誠に「十月江南天気好し、憐むべし冬景春華に似たるを:白居易」と謂ふべし。是に於いて孤杖を曳き一僕を従へ、 岐の南門を出て路を美江大悲閣(美江寺)門前に取る。

p1

 往くこと数百歩、老父丁壮皆出でて郊隴に耰(たねま)き、婦妻児女相引いて南畝に餉(かれい:弁当)す。正にこれ麰麦(大麦)播種の候なり。 また行を進むこと数百歩、途燕尾するの処に当って地蔵堂あり。西のかた横斜の小径に就いて往くことまた復た数百歩、而して数椽の村居あり。之を上加納村と謂ふなり。

 茲より圓徳寺門前に出る。門前に禁榜(立札)建つ。此れ昔○○年中織田氏の賜ふ所なり。門内また大樹百余尋(ひろ)なる者あり。此はこれ甞て金龍道人所有の銀杏にして空翠に聳え、 かつ(源)重之の句なる者なり。此の句、今に至って人口に膾炙す。覚性師に見(まみ)ゆ。師近く慶事あれば不腆(粗品)を以て賀を為して去る。門を出て斜めに往くこと半里、 皆な竹居盤屈して径を為す。

 此れを過ぎれば則ち四顧曠然として左右みな平田なり。禾稼すでに熟して穫りて喬扞(いなこぎ)に曝す者あり、穫らずして田に在る者あり、之を農夫に問へば曰く、 穫らざる者は検吏いまだ按検せざる故なりと。前路圯橋(土橋)あり、野水清潔にして掬すべきに堪へたり。故に字地に「清水」と曰ふ、宜(うべ)なるかな。

 橋を過ぎれば則ち人屋街を為す。是れ即ち加納城中なり。数百歩にして菅神庿(天神廟)の左側に出づ。庿傍の紅樹、錦繍を曝すが如し。其の幽致もまた愛すべきかな。 杖を植(た)てて一絶を作る。其の詩に曰く「庿前の紅樹、朝霞に映ず。道を解すること二月の花より紅なり。緩歩、杖に倚って吟賞して去る。何れの人か相見てまた車を停めん」と。

 是れ従り直ちに城街に出でて森球玉を訪ふ。球玉、余を留めること殷勤なり、然れども盖松に赴くの意、急迫なるを以て怱卒にして去る。また田士祥(宮田嘯台)を訪 ふ。士祥、逓火(十能)を以て火を搬ぶに遇へり。余が至るを顧み、之を迎へ揖して曰く、いま将に茶炉中に火を加へんとす、 願はくは一椀を喫して去れと。また固辞して去る。また瀧平なる者を訪ひ回礼を為して去る。此の数子を訪ふ者は皆、病中看候を為せし所の人にして之が為に回謝するの故なり。

p2

 城下を過ぎること十餘街、欄橋あり。橋畔、茶店あり。余、去春相過ぎるの時、白藤花盛んに開き庭中半ばを以て架を為す。藤花長きこと六七尺、 裊々(じょうじよう:嫋々)として地に着く。壮観と謂ふべきなり。今や初冬、寂寥として見るべものなきなり。

 店を距つこと数十歩、両岐の処、碑を置く。勒曰く「左は岐岨駅道、右は熱田駅道」盖松は即ち熱田駅道中なり。碑南、松列りて道を夾むこと五百弓(三千尺900m)ばかり。 之を名づけて八街駅道(八丁畷)と曰ふ。余、脚歩を以て之を試むるに果たして然り。

 之を過ぎて川手村に至る。また茶店あり。店主七旬齢(70歳)、余と雁行す。少時よりの旧知にして頗る学才あり。老いて農に隠る者なり。 乃ち余を見て相揖し迎へ入れて古昔を談ずること暫時。 婦人傍らに在り、茶を汲み煙具(たばこ盆)を供し欵待丁寧なり。談、余が『鼎石詩集』の業あるに及ぶ。曰く、「児輩をして之を一読せしめんと欲す、庶幾(ねがはく)は暫く之を貸さんことを」と。 余曰く「諾。家蔵する所の書、今なほ数部あり、以て一部を授与せん」と。翁喜びて先づ謝辞を述べ、また帰時を約す。話を為すの間、一絶を賦して去る。其の詩に曰く「共に憐れむ双鬢半ば糸の如し。 曽遊を追憶すれば彼の一時。邂逅即ち今、情尽きず。猶ほ将に餘意を帰期に付さんとす。」と。

 店を出ること数十歩、道の左に一橋あり。之を望むれば径(わたり)纔かに二尺餘、長きこと数十丈に及ぶ。高架虹の如し。郷人荷担して来往すること平地の如し。 余、傍より之を観るに寒心して過ぐ。過ぎて歩を進むこと一里餘、村舎あり平田あり、斯に至って老脚頗る疲る。路傍に草坐して少(しばら)く憩ふ。平田を望むるに多く成熟を得ず。 種々短髪の如く然り。余、怪しみて之を郷人に問ふ。曰く「是れ皆な七八月の間、馮夷君(洪水)虐を為す所なり」と。余曰く「嗚呼、何ぞ其れ甚だしきや」。太息して過ぐ。

 前程一川あり、土橋を成す。以て人を渉す。此の地、封界の処にして川上また一碑を建つ。刻して曰く「川中より以北、加納侯の治むる所、川中より以南、郡官の治むる所なり」と。 故に之を名づけて界川(さかひがは)と曰ふ。

p3

 之を過ぎて道左に円池あり。一夏日、驟雨の時、路に熟せざる(不案内)の人は動(やや)もすれば溺死すると云ふ。 如何となれば則ち界川の水溢れ出づるときは則ち蕩々乎として行程を没す。駅路もと円池を匝(めぐ)って斜めに通ず。之を知らずして詞f(裾まくり)して直ちに渉れば是(ここ)を以て失脚して陥溺する者まま有り。 界川より盖松に至る五百歩許りなり。

 盖松は公邑にして所謂郡官の治むる所なり。数百の商家、此に居す。南畔に巨川ありて泉源は岐岨に出で、而して下流は勢海に達す。是に於いて勢州交易の商船、日々来往す。 故に商家最も醎醝(鹹鹺:食塩)に利あり。

 此の地の杉山氏なる者、余が媳婦の兄なり。即ち之(ゆ)きて投宿せんと欲す。適(たまたま)主人の他へ之(ゆ)くに遇ふ。婦人、使ひを馳せて余が至るを告げしむ。 少焉(しばらく)して主人帰る。共に寒暖を語るの間、日は将に晡(ひぐれ)ならんとす。而して婢、已にして晩飧を供す。食し終へて浴を為す。 而してのち主人と脚炉に據りて相語ること暫時、 夜柝(拍子木)初更を報ず。主人乃ち余に告げて曰く「隣家に骨董市あり、子、往きて之を観んや否や」と。余曰く「是(ぜ)なり」と。乃ち主人に随いて往き、華人の画一幀を得て還る。 還れば則ち下婢また薬石を供す。喫し了りて戸を開ければ則ち参(オリオン座)横たはり月もまた将に落ちんとす。乃ち寝に就けり。

 翌日早起し朝餐未だ熟せずして屋後の花園に至り盤桓(ぶらぶら)す。是れ石氏の金谷園(晋の石嵩の金谷園)にあらずと雖も、中にまた多く奇樹異艸を植う。 然れども時是れ陽春にあらざれば霜圧し風砕けて荒蕪彫零せり。唯だ一株の茶梅(つばき)特に顔色あり。清粧艶麗、燦然として白玉の如し。愛すべきかな。婢、朝餐を告げに来る。 飯後、同郷の重三郎なる者、余が止宿を聞きて訪らひ来る。主人とともに三人、古器を品し少(しばら)く時を移す。

 下婢、また午飯を供す。飯、了れば則ち僮僕すでに帰を促す。主は信宿(連泊)を勧。余、辞するに幹事(用事)あるを以てするも主人、可ならず。 卒(には)かに之が為に再来を約して帰る。

 帰路は許(もと)の如し。川手村に至り、また復た脚力大いに疲れ、双脾すでに吊疼を為す。右に孤竹の杖を曳き左は僮僕の肩に攀づ、蹣跚、 而して纔かに茶店に入りて休むに此の日、 翁不在なり。婦人の欵待は前の如ければ余、長凳(ちょうとう:長椅子)に踞る。躬自ら両脾を按摩すること良(やや)久しうす。吊疼頗る寛ぐを覚ゆ。

 店を出でて加納駅の欄橋上に至る。橋北は比屋数椽、皆な餺飩(ワンタン)を売る。餺飩は乃ち此の地の名産なり。 故に往還の人争って以て之を買ふ。 余もまた嚢銭を探り数枚を買ひ得て帰る。意は只だ児孫に与へて以て喜びを取らんと欲するのみ。

道傍捷径あり。字に「新田(あらた)」と曰ふ。固より管路にあらず、唯だ農人往来の私路を以て、妄りに旅客ををして通行せしむるを許さず。 故に竹門を設けて常に関(とざ)せり。 今や幸ひに禾稼登場の候を以て竹扉之が為に開けたり。斯に至り日すでに虞泉(ぐせん:日没)に薄(せま)り、連山雲起こりて雨意甚だ迫れり。 故に路を新田に取って怱々として裳を褰(かか)げて走る。此の時に当って過(あやま)って「君子径(こみち)に由らず」の教戒(:論語)を犯す。畏るべきかな、畏るべきかな。

 上加納村に至って雨脚乍ち来る。村舎に入り而して外套を脱ぎ、雨具を備へ出づ。近歳加納城下の駅邸、陽には爨婢と名づけて陰に倡妓を貯ふ。岐下の諸少年、 彼に冶遊する者最も多し。余を見て回避、途を易(変)へる者あり、手巾を以て面を裹(つつ)み、傘を傾けて身を隠す者あり。此の如き者、連綿として断たず、妓観の繁華また知るべし。 是に於いて独り自ら衰老を嘆ずるも得々として帰る。余は唯ただ児孫の出て相迎ふるを喜ぶのみ。      鼎石山瑛 識

【付記】鼎石の自宅(本町)より加納宿までは4km、笠松までさらに4km、都合約8kmの行程。
    末尾に記載せる“飯盛女”のゐた私娼宿は、現在地に再移転した金津園の起源と思しき、当時の加納宿の名物であった。
    「餺飩(餛飩?ワンタン)」については不詳。


【関連資料】

岐 阜市立図書館蔵『鼎石詩集』  『濃北紀 遊』


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