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江村北海 (えむら ほっかい)

(1713正徳3年〜1788天明8年)


【資料】 『濃北紀遊』  関連人物 宮田嘯臺・山田鼎石・矢橋赤水・小出公純

横山寛吾先生著「江村北海と濃州紀遊」「国語国文学 ISSN0286-9365 Vol.6 1987.3 1-19pより。

(前略) 北海は51才以後、郡上藩の客師として毎年一回、京都より出向いて郡上に来り、約一か月逗留して上下士人に購読、これを69才まできちんとまじめにつとめている。 脚の弱い彼は全行程、肩輿を用いたようである。その教授内容は後掲の「遊記 1」にくわしい。とりあげた教材は論語・孝経・小学・貞観政要(家老にのみ)等で夜は、 客舎に集まつて詩文の添削、詩会、評論等に時をすごし、30日の期間中、宴席の招待など一切断わり、毎日きつちりとまじめに講義にあけくれて藩の上下より絶対の信望を得ていたようである。
 この濃北往来の途次、必づ加納・岐阜、(時には関)へ立ちより、加納では森求玉、宮田嘯臺、岐阜でほ山田鼎石の家に宿泊、その度ごとに詩文の愛好者は参集して詩酬唱和に雅宴の花を咲かせている。
 『日本詩選』『日本詩選・続編』(山田鼎石校)『東山寿宴集』等に多くの美濃の詩人の名が見出されるのも故なしとしない。この点北海の美濃の文芸界に与えた影響ははかりしれないものがある。
 北海は旅行好きで機会あるごとに各地を訪れ、紀行文を書いている。郡上へ来たちでに赤田臥牛の住む飛騨へも行こうとしたが、中山七里の険阻に恐れをなしてあきらめ引返したことがある。 後掲の紀遊中の眼目は岩戸観音と阿弥陀か滝と養老の滝である。

掘田石室の序文 (原漢文)

「北海先生、比年(毎年)虞城(郡上)に往還す。途、必づ岐阜・嘉納(加納)の間に出づ。嘉納には則ち森求玉(森東門)、宮士祥(宮田嘯臺)、館待、之れ謹しむ。 岐阜には則ち山士成(山田鼎石)及び僕、小子敬待す。故を以て歳として警咳に陪せざるなし。
先生、好学、老いて益々勤むるは論なきのみ。先生、他の嗜好なし。而して性、特に山水を好む。他邦は姑く置く。
濃州流峙の勝、捜索、遺す所なし。而して歴る所に必ず記述あり。
濃州紀遊、一則より六則に至る。今は則ち其の半ばを刻す。其の他、播州紀遊、北陸紀遊等、並びに文鈔第二編を俟ちて同じく刻せんと云ふ爾。
    天明丙午(6年 1786)夏六月
美濃、紀広謹(掘田石室:紀氏。名は広和、または単に広。字は公淵。岐阜の人。茂左衛門と称す。)跋

濃北紀遊 一

 安永乙未(四年 1775、63才)の秋、余、又将に濃の虞城に赴かんとす。〔廣曰く、虞城或ひは郡上と称す。先生郡上に往来す。其の事詳かに授業編の序説に見ゆ〕

預かじめ九月十二日を卜(ぼく)して治装す。本月三日雨ふる。五日新晴。諸子相諜りて余に餞す。藤鹵山(加藤知雄)其の事を周旋す。等持院門前の某氏の別墅を借り宴席を設く。 同集に十八人。詩酒歓洽(よろこびやわらぐ)黯然(別れを惜しんで悲しむ)の懐ひを散ずるに足る。尓後連日晴朗。天宇、藍の如し。繊雲、曳かず(たなびかず)。 人皆、好天気を噴称(口々に言ひはやす)、而して余、意謂(おも)ふに重陽の後、或ひは多雨にして余が東行を礙げんと。会々(たまたま)龍谷大法主(信入院、文如光輝32才) 十三日を以て渉成苑〔世に枳穀苑と称す〕に遊ばんとす。託乗の徴(召し)有り。眷待隆重(もてなしが手厚く丁重である)の故を以て辞すベからず。乃ち改めて十四日を卜す。 而して果して大いに雨ふり、発するに及ばず。

 十五日、晴るるを俟ちて途に上る。此の日東風微扇(かすかにそよぎ)、乍晴乍陰(晴れまた曇る)、大津の逓運所(宿駅)より筍輿(竹のこし)を易へ、守山駅に至る。 雨昏の風、逆(むか)へて頗る前行に難(なや)めり。乃ち僕を走らし、宇元章(宇野醴泉、通称長佐衛門)が存否を問ふ。会々、元章出でて近里に遊ぶ。内子(奥方)余を邀へ、 摂待唯(ただ)謹しむ。須臾にして元章倉忙(あたふたと)として帰り来り、手を握りて相歓ぶ。未だ寒暄を叙する(寒さ暑さの挨拶)に及ばず。忽ち元章の所在を失ふ。之を家人に問ふに、 家人も亦知らず。少焉(しばらく)にして牒外(まどの外)に人有りて、先生・先生と連呼す。余、之を顧れば則ち見る、元章、箬笠(竹皮で作つたかさ)菅蓑(菅で編んだみの)魚網を手にして立つ。 体を挙げて淋漓たり。

一童子、小籃を挈(ひっさ)げて相従ふ。余、駭いて其の故を問ふ。元章笑ひて曰く、「君が枉顧(貴人の来訪)を辱くす。歓喜、措くなし。但だ村居、鮮(生魚)を撃つに由なし。 所謂、君の故に微(なかり)せば胡為乎(なんすれぞ)泥中にせん者ぞ」と。籃を傾くれば則ち河魚数十、活撥々(ぴちぴち)恰も爛銀の如し。

 守山も亦大邑なり。而して元章、土豪を以て郷曲(いなか)に推さる。厦屋(大きな家)高大、家人も亦衆し。且つ、学博く名高し。屡々京師に遊び、経(経書)を王門に講じ、又数諸侯、 師友を以て遇せらるるあり。儼然たる湖東の一大先生なり。今、余が故を以て此の狂態を作す。其の交誼、嘉すベし。其の夜、一二の後生、謁を執る(面会に来た)。 今、其の姓名を遺(わす)る。余、元章と灯下に唱和し、半夜、寝に就く。

 十六日。雨止み天晴る。元章の門人某、近邑に住す。屋後の山、多く松蕈(まつたけ)を産す。此の日、山中に置洒して元章を邀へ宴す。元章、余と偕に行かんことを請ふ。 余、前行の故を以て割愛して固辞す。告別して去る。薄暮、鳥本駅に到り逆旅に投宿す。

十七日。早く発し磨針嶺(彦根摺針峠)攀ぢ望湖亭に坐す。時に朝曦(朝日)纔かに山を離れ、霞彩絢爛、湖烟山靄と相ひ輝り映ゆ。余、往(さ)きに吏職と為りて郡上に往来すること無慮(およそ)十数、 必ず此の亭に憩ふ。光景目熟す。明媚斯くの如しと雖も甚だしくは留意せず。一茶して去る。心に期す。此の夕、嘉納府(加納宿)に抵らんと。奈何せん、 短晷(日ざし短く)路残り、美江寺に宿す。

巖戸観音

十八日。巳牌(10時)嘉納に到る。先づ森求玉に報知す。求玉、整服して出で迎ふ。余を引いて堂に上る。余、東廡の中に佩刀衣巾、袈裟念珠等、書冊筆硯の間に狼籍たるを見る。 余が意、頗る怪しむ。既にして(やがて)菰野の源維潜(南川金溪)・大垣の藤泰伯・智洲上人(縁覚寺住職)、屏後より出で、謁を執る。蓋し諸人、余の十二日を以て京を発すと聞き、 故に此に来て相ひ遅(ま)つこと已に数日なり。求玉、之を館待(泊めてもてなす)し、日夜詩戦を為す。諸人不棄ノ辱(友人)と雖も亦、求玉の客を愛するの稚好を知るべきのみ。 須臾にして宮士祥、亦至る。是に於て士祥と求玉と相ひ謀り、余に啓して曰く、

「久しく聞く、先生泉石の好ありと。此より去ること十里、巖戸の観音洞あり。梁蛻巌先生(梁田鋭巖)の集中、数々言ひ及ぶ者にして明日小子輩、先生に陪遊せん。 知らず、先生の意、若何ん」と。余答へて曰く、「極めて是なり、極めて是、但だ前程、期あり。明日は留まり難し。諺に日ふ『善事は宜しく急にすべし』と。即今一遊。 豈に不可ならんや」と。乃ち折簡(全紙を二つ折にして認めた短い手紙)して岐阜の山士成(山田鼎石)を促がす。其の至るを須(ま)たずして士祥・求玉・泰伯・維潜・智洲上人と先づ発す。 沿路、瑞龍寺に遊ぶ。古刹なり。殿堂の規制、及び山を距るの近遠、酷(はなばだ)しく洛下の龍安寺に肖たり。但だ一鴛鴛池を欠くのみ。

此の日、晴暄、孟夏の気候の如し。人々裌(あはせ)を著る。行歩すれば猶ほ膚に汗するを覚ゆ。因りて香積(こうしゃく:庫裡)に就いて各々数碗の茶を喫す。 門を出づれば恰も好し。山士成・申文英・左元鳳(左合竜山)の三人、岐阜より来り会す。是に於て遊、益々壮なり。経る所は則ち余が明朝、郡上に赴く道路、数里にして左折し始めて大路と別る。 田間の小逕を歩すること里(一里)許り、巌戸村に到る。村を過ぎれば足歩漸く仰ぐ。穉松、林を作し、人、樹裏より行く、衣巾、為に青し。林、窮るの処、三面皆山、 唯々来路一方のみ通ずベし。其の状、宛も屏風を環匝(周りにめぐらす)して僅かに合はざる者の如し。而して山背骨稜々たり。其の最も崎抜(そびえる)なる者を巣髄山(たかのすやま)と名づく。 左方に石磴(石段)数十級あり、之を登攀すれば則ち所謂る観音洞なる者にして亦一巨巌なり。洞は其の半ばにあり。洞中に小堂を構ヘ普陀大士(観音菩薩)像を案ず。 故を以て内に入りて其の浅深を探ること能はざるなり。磴を下りて地の梢(やや)平なる処に就て延席を舗陳(しき並べ)樽俎を排列す。山海頗る備はる。並びに士祥・求玉の齎す所なり。 諸人随意に飲喚し、韻を勒(押韻の字を前もつてきめること)し詩を賦す。俄頃(しばらく)にして詩箋堆畳す。余も亦た其の余勇を買ひて数絶句を作る。是に於て日已に夕なり。北風起る。 人各々綿を襲(かさ)ぬ。文英、臥病より起きて頗る艱色あり。乃ち其れをして強ひて数巨觥を傾けしめ酒力を以て寒威に敵せしむ。乃ち僕輩に命じ具を収めて席を撒せしめ、 相携へて求玉が家に還る。則ち夜の初更(9時)なりと云ふ。

巖戸観音

十九日。嘉納を辞す。諸子十里の外に相送る。余、二絶句を口占(くちずさむ)して其の殷勤を謝す。午を過ぎて芥箕村(芥見あくたみ)に憩ふ。黄土邑(こうづち美濃市上有知)に抵る。 日、猶ほ高舂(こうしょう:日没まで間あり)なり。浅野氏に投宿す。今春、余、郡上より帰るとき浅野氏に宿す。主人画菊の図を示し余が題詩を請ふ。何(いくば)くも亡くして主人病に没す。 今、壁間に其の図を掲ぐるを見る。未亡人出でて拝して曰く、「亡夫在りし時、特に斯の画を愛す。先生の詩を賜ふことを得て愛載特に甚だし。常に坐右に掲ぐ。今日先生復た斯の堂に辱臨して、 九原(黄泉)終に起こすベからず」と。因りて涙簌々(そくそく)として下る。余も亦た之がために悽惋たり。

廿日、昧旦(未明) 黄土邑を発し此を去りて虞城に抵る八十里、一路大渓に傍ふ。恰かも峡中の行の如し。流峙(山と川)の奇秀、応接に遑あらず。 而れども往年詳かに記するを以ての故に今復た贅せず。其の夕、虞城の南柵の門外に到る。諸子此に候迎す。相携へて城に入り蓮生寺に館す。寺は悠かに京師本願寺に隷す(隷属)。 寺主湛空、頗る吟哦を好む。故を以て相得て歓喜し、接待の情至る。

 廿一日。出でて藩の大夫に謁す。今年君侯東都に在り。豫じめ余が昨今虞城に到らんを察し、手書を賜ひ、併せて寒衣一隻(ひとそろへ)、書辞懇到、且つ曰く、 「虞城は山中に僻在し寒威緊厳なり。老人最も宜しく自愛すベし。之が為に相胎る」と。余、其の眷顧の優渥を感じ、拝戴して出ず。

 廿二日。昨日より今日に至り、藩中の諸士、余が来るを聞き、館寺に労問す。出入織るが如し。迎送頗る煩はし。

 廿三日。講堂の講、今日を肇めと為す。但だ、奇日は未(ひつじ:14時)を以て出て上下大夫の為に論語を溝じ、偶日は申(さる:16時)を以て出て諸頭目及び上下諸士の為に論語を講ず。 又奇日の読後、某大夫の宅に過りて貞観政要を講ず。大夫今夏、東都より還る。君侯手づから貞観政要を賜ひ特に命じて曰く、「郷に還るの後、子細に講求せよ」と。 故を以て大夫特に余に請ひて講習す。

 其の余は館寺に在て朝晡(朝夕)に孝経・小学を講す。夜は則ち詩を説き文を論ず。昼夜少間あるなし。讌飲邀招、講席を妨ぐるを以て大抵固辞して赴かず。

 直ちに十月十七日に至り乃ち止む。

(十月)十八日。一日の閑を偸み、普道巌に遊ぶ。巌は城を距ること十里、佐生・藤生・谷生・田生・晁生・医玄竜・僧湛空従遊す。附郭(負郭、城下に近い)の苧羅村を過ぎ、 左は城山に傍ひ右は蘘荷渓(みょうがたに)に俯す。行くこと数里可り。大石、道傍の田畝中に離峙す。其の最も大なる者は殆んど三間、屋の如し。 藤羅(ふじかずら)其の上に蒙茸(生ひしげる)し、苔蘇は斑駁(まだら)、傍らに老杉数株あり、其の大なること啻に連抱(両手でだきかかへる)のみならず、余、捨て去るに忍びず、 盤桓(たちさりがたい気持)少時、相与に烟(たばこ)を喫す。既にして又行く。数里ならずして巌下に抵る。巌形、之を譬ふるに巨霊大斧を揮ひ、山の半片を劈破(ひらきやぶる)する者の如し。 左右後の三面は尋常の土山のみ。特に前面巉削たり。故を以て観(ながめ)甚だしく美ならず。此を過ぎて数百歩、即ち普道村(符路村)なり。一里正(庄屋)の家に憩ふ。 斯の日、風なく小春天、暄かに蝿蚋(はえとぶよ)人を撹(みだ)す。久しく留まるベからず。茗(茶)を喫して去る。再び道を苧羅村に取り、八幡の神祠を拝し、巌下院に過る。 〔寺の名、神祠の香火を司奉す〕堂宇清新なり。後口は絶壁に縁り、前は蘘荷渓に臨む。渓を隔てて東堂山に対す。城下の諸山、東堂最も秀抜、連峯森立(並び立つ)す。 其の斧斤を禁ずるを以ての故に、杉桧稠茂し、青嵐欝勃、挹(く)むベし。但だ蘘荷渓の灘声怒激、千雷の殷(ゴロゴロ)たる如し。頗る話言を乱る。 是に於て諸子僧厨を借りて飯を作り、伊蒲(いふ:僧に供する食物)芳潔、酒行(めぐ)ること数々、又韻を勒し詩を賦す。乙夜(23時)相挈(ひ)いて寺に帰る。

 十九日。朝に出で藩大夫に謁し、明日南帰せんことを告ぐ。是に於て諸子来別する者、巨屨小屨(はきもの)庭に盈つ。日の夕ベ、佐生・藤生、 雉と鱒とを携へ来り手づから宰割(主となつて処理・料理する)しせ饌を作る。須臾にして諸子麏集(群集)し、離盃交錯、以て行色(旅行の様子、又その天気)を壮んにす。

 廿日。昧旦、虞城を発す。中野村に至りて送者に謝し、将に函嶺(はこさかとうげ)を躋らんとす。尓時(そのとき)日纔かに扶桑を払ふ(丁度夜明け)。宿雲逗霧、 山を縈(めぐ)り水を啣む。古人の詩に日ふ、「寒日山を出づること遅し」。又日ふ「川は流る、宿霧の中」と(「日出寒山外、江流宿霧中」杜甫「客亭」)。 余、輿中に在りて之を誦す。益々其の精妙を覚ゆ。適々見る、山址(山のふもと)の松下に群鹿、寒蕪上に臥す。状、太だ間暇なり。従者無情にも手を拍て之を噪(さわが)す。 則ち蹶起して林中に人る。霜田(下田)に午飯し、日暮、黄土邑に抵り、木阮禮が家に投宿す。阮禮は虞城の谷生が族にして亦た指を翰墨に染むる者なり。

 廿一日。黄土を発し輿にて芥箕村に抵る。芥箕より石仏巌を経て長等津(長良の渡し)を済(わた)り岐阜に達す。蓋し来路の西に出づるなり。石仏巌、土俗或ひは土が仏と称す。 巌突起して河に臨み行路を横絶す。巌を鑿ちて尺許りの径を通す。車馬を論ずるなく、肩輿過る者と雖も必ず輿を下りて歩行し、空輿にして後、舁(か)き過ることを得ベし。 号して危険と為す。然而(しかれ)ども址を承くるの巌、斧鑿の痕、皴々然(しわが多くあるさま)として自ら足を失ふには至らず。況んや、右壁の捫(と)るベきあり、則ち身、崖に縁りて蟹行す。 万に(決して)蹉跌の患ひなし。余が行歩に艱(なや)めるを以てすと雖も、亦た安行を得たり。午後、山士成が門に踵(いた)る。士成驚喜し、倉皇として出で迎へ、速やかに酒飯を弁じ、 即ち人を四方に走らし、余が至るを報知せしむ。是に於て申文英・左元鳳・紀公淵(堀田石室)・山處和(山田芝岡、字子諧、称元長)及び某々の諸人、続々として来り集る。

少焉にして宮士祥・森求玉至る。又、赤坂の橋子淵(矢橋赤水)・大垣の井蘭汀、偶々斯の地に遊び、余が至るを聞きて亦た来る。夜に入りて来る者、益々衆く、 席殆んど容るること能はず。名理(宋学?)を談ずるあり。史漢(史記・漢書)を論ずるあり。延陵(延陵侯季札)子房(張良)を説くあり。所謂、諸名士、洛水の戯、想ふベし。而して四更(午前3時)始めて散ず。

 廿一日。将に岐阜を発せんとす。士成の為に行を留めんとする者あり。而るに余の意、今日大垣に抵り、明日養老に遊び瀑布を観るに在り。士成余に謂ひて曰く「弟子、先生 の高興を阻むには非ず。但だ養老は空しく名を得たるのみ。其の実、勝地に非ず」と。余、士成に瀑布の大小、布引・箕尾〔二瀑並びに摂州に在り〕と孰与(いづれ)ぞと問ふ。 士成、笑ひて曰く「之に勝る」と。余曰く「然らば則ち何ぞ勝地に非ずと曰ふことを得んや」と。土成笑ひて曰く「先生は山水に易牙(中国の名料理人)なり。 至り遊ばば則ち必ず能く淄澠(味の異なる淄水と澠水)を弁ぜん」と。余頗る其の言を信ず。而れども初念、竟に変ずベからず。束装して出ず。諸子別を送る。 大抵、駄羅里〔だらり:村名〕を以て河梁と為す。士祥・求玉は則ち遠く美江寺に迄(いた)る。独り橋子淵のみ余に従ひて大垣に抵る。

 大垣は藩侯の城地、雉堞(ひめ垣)綿連、華屋(りつぱな家)斉整、即ち円覚寺あり。智州上人住す。来りし時嘉納に邂逅するなり。談、養老の遊びに及ぶ。 故を以て上人、榻を懸くること(賓客謝絶の故事)已に久しと云ふ。其の夜、藩中の士、河子鵠・田子信・村穆卿三人、藤泰伯と偕に来り謁す。

 廿二日。晴る。上人余が為に早く已に肩輿を命じて行厨(弁当)酒榼(酒樽)備はらざる者なし。但だ上人は寒疾、風すベからざるを以ての故に同遊するを得ず。憾むベしと為す。 是に於て余は輿、子淵は歩。西郭門を出じて大路と別れ、南のかた田畝の中に投じて去る。幾許の村邑を経、行くこと十数里、一大沢あり。瀰茫として枯葦折芦、叢を寒水の中に作す。 水禽群を為し、咬々嘎々の声、遠近相接す。忽ち見る、前面、路絶え陂水湛碧にして渡航あり。岸に横たはりて四顧すれども舟子を見ず。所謂「野渡、人なくして舟自ら横たはる」者なり。 疑訝の間、舁夫先ず肩輿を舟中に安置し、既にして自ら舟を操す。俄頃にして彼岸に達す。余、之に問ふ。曰く「此れ官路の大道に非ず、行人稀少、若し過る者あらば自ら棹して済(わた)る」と。 想ふに、太古の民俗其れ或ひは斯くの如からんのみ。城市利名の念、此に到りて消尽す。行くこと十里余可(ばか)り、一大邑あり。大道其の中に横貫す。高田と日ふ。 関ケ原より桑名に走る者、多度の山麓道路にして陂陁(はた:傾斜地のさま)漸く上る。

 養老は人家あり、寺観あり。所謂醴泉なる者あり。往年余、山僧の需めに応じて其の縁由を記す。故を以て復た録せず。時已に午を過ぐ。余、子淵と偕に旗亭に飯す。 旗亭は数處に在り。其の上方に在る者、軒爽(高くさわやか)東南に尾(尾張)・参(三河)の二州を望む。屋舎も亦寛広なり。其の主人、日に醴泉を斟みて浴湯を為し、以て四方養痾の客を延く。 其の規模大抵、多田の温泉〔摂州に在り〕に似たり。是に於いて春夏の交、言を養痾に託して来遊する者殊に衆し。乃ち孌童侠女(美男美女)あり。潜かに往来を為して以て客歓を佐(たす)く。 要するに之れ、飲博無頼の巣窟にして其の土風知るベきなり。瀑布は此を去ること尚ほ数里あり。大磧中を道ゆく。即ち瀑布の下流なり。而して沙磧能く洩る。繊々たるの流れ或ひは伏し或ひは現はれ、 有るが如く無きが如し、地勢建瓴(勢ひの強いこと、建は覆、瓴は瓶)、之れに遡るは猶ほ阪磴(急な石段)を躋るがごとし。之れに加ふるに頑石磊砢、左に眺び右に躍り、 勢ひ輿すベからず。別ち余は杖に椅り蹣跚す.数人扶持して僅かに達するを得たり。瀑布は之れを布引・箕尾に較ぶれば則ち長く闊(ひろ)し。壮観なら ざるに非ず。然れども竟に美観に非ざるなり。此れ蓋し山水に精しき者に非ざれば語るベからず。之れを概論すれば、其の山高くして呆(ぼんやり)なり。 大にして漫なり。嘉木奇巌なし。又幽林邃壑なし。一言以て之れを蔽へば、俗地のみ。士成の言徴すベし。

 既にして山を下り、西に転じて行くこと、三十里可り、南宮山に抵る。八幡神祠あり。輪煥(建物が壮大で美しい)たり。昏黒、垂井駅に抵る。酒を命じて子淵が遠送の労を謝す。 且つ之に贈るに詩を以てす。「霜林断続す山辺の路、相送りて遠く来るは唯だ是れ君のみ」の句あり。

 廿三日。垂井を発し、子淵に別る。其の夕ベ高宮に宿す。

 廿四日。守山。

 廿五日。家に還る。日未だ虞淵(夕方)に迫らず。

濃北紀遊 二

 丙申(安永五年 1776、64才)八月、余又た将に虞城に赴かんとす。

 廿四日を以て束装す。是より先、柚伯華(柚木知雄、称清兵衛)、江(州)の迫(はざま)郷より京師に乗遊す。此に到りて郷に還る。乃ち相約して同じく発す。大津に抵り、 湖に枕(のぞ)む酒楼に上り、伯華と互(かはるがは)るに賓主を為し以て別酒を酌む。草津を過ぎ手を分つ。伯華は右して石部に赴き、余は左して守山に抵る。 守山に抵るに日未だ桑楡(西方の日の没するところ)に迫らず。是に於て又行くことに十里・鏡邑に宿す。古駅なり。鏡山は和歌の題詠多し。邑は山に縁って名を得たり。古昔、人烟稠密、 娼妓多きこと濃の野上(現不破郡垂井町地内)〔鏡は是れ江州〕に比す。今、武佐が官駅と為り則ち鏡は遂に廃せらる。然れども人家猶ほ数百あり。客舎も亦多し。 其の逓運所なきを以ての故に縉纓(高位高官)侯伯(諸大名)及び郡国の官吏、凡そ駅馬郵卒に求むるある者は此に宿するなし。是を以て逆旅清静、土俗亦た頗る醇なり。 吾が輩の宿歇(休むこと)殊に武佐に勝る。

 廿五日。醒井(さめがい)。

 廿六日。嘉納(加納)。又た求玉が家に宿す。須臾にして諸子来り会す。詩酒の歓、一に去年の如し。

 廿七日。嘉納を発し、午後関邑に抵る。関邑の人家数千。富庶は岐阜に亜(つ)ぐベし。芝山氏の家に過る。主人翁、名は安全、年紀七十。而して身躯軽便、少壮の人に異ならず。 性、潔を好む。之れに加ふるに點茶を耽嗜し、利休氏の約束(きまり)を信じ守る。故を以て室堂庭園、掃除備(つぶ)さに至る。婢僕衆しと雖も必ず手づから之れを払拭す。 明瑩、鑑とすベし。翁の次子士紀(名、元貞)嘗て京師に在り。余、素より之れを識る。亦た左右に陪侍す。既にして邑中の二三の子弟、来りて謁を執る。山田君明も亦た其の中に在り。 君明、名は鑑、之れを視るに白ルの少年なり。而して毫しも軽薄の態なし。喜(嘉)すベきなり。 是より先、飛騨の上田生、疾あり。医に関邑に就く。賃居切近なり。亦た来会せり。是に於て同坐十余人、茗話酒談、夜半始めて休む。

 廿八日。諸子の為めに留めらる。

 廿九日。昧爽、関邑を辞し、霜田(下田)に午飯し、梅原を過ぎ、千虎村に至る。日暮れぬ。村民数炬を把って前導し、甲夜(21時)虞城に至り、又建生寺に館す。

 九月朔。城に入る。

 二日。講堂に臨む。大抵去年に如同する者は録せず。

 九月将に尽きんとするに迨(およ)び、講堂の講も亦た畢り帰驂、将に南せんとす。一夕、小出大夫(名公鈍、号謝海.称弥左衛門)の讌会に赴く。 酒間、従容として大夫に啓して曰く「僕、頽齢已に七十に垂(なんなん)として険艱を辞せず、比年(毎年)往来する者、亦た唯々諸公の為の故のみ。今、帰期旦夕に在り。 諸公何を以て行に餞せんや」と。大夫僉(みな)曰く「然り、思はざるに匪ざるなり。但だ寡君(青山幸道)移封以還(このかた)国計倹薄、是を以て藩中の諸士の稟俸、 啻に減半のみならざること蓋し先生の悉くす(知悉の)所なり。故を以て百尓(凡百)闕略、苟且(かりそめに)日を度るのみ」と。言うて此に到りて媿赧(愧赧)太甚(はなはだ)し。 余、笑ひて曰く「僕が大夫に求むる所は銭帛に在らず」と。大夫曰く「然らば則ち何を以てか礼と為さん」と。余が曰く「僕聞く、虞城の上流、古里に阿弥陀が瀑布あり。 直下千尺、紀(州)の那智と雖も恐らくは其の長を競ひ難からん。僕、神遊(心もそぞろ)已に久し。奈何んせん。衰老の極、久しく勝具(済勝之具、健脚)を失ふ。且つ山路村逕、 置郵の宮道に異なるときは、則ち輿馬何に由りて弁を取らん。若し大夫の寵霊(寵命)に頼りて一遊を遂ぐるを得ば、何の栄餞か之れに如かん」と。大夫笑ひて曰く「此の事易々(いい)たるのみ」と。 輒ち之れを祝官(祝=字義未詳)に命ず。祝官、文移(ふれぶみ、行文移牒)を沿道の里正に下し、其れをして村村相承けて護送せしむ。邦俗の称する所の村継ぎ人足なる者なり。

 是に於て廿九日を卜し、暁を俟ちて起き嗽流、纔かに畢り、未だ粥を啜るに及ばざるに、負郭の徒役、肩輿を以て来り迎ふ。館寺の北隣に淇水なる者あり。好事多技なり。 嘗て数々(しばしば)上流に往来して余が為に其の道里山川を談ず。曲折詳悉なり。故に之れを要し(無理強いをして)之れを挟みて行く。

 寺を出て洞仙橋を渡り、右山に傍ひ左渓に縁り北に向って行く。未だ楊柳寺に至らざること数里、早く已に前村の民丁(人夫)道の左に候迎す。此れより以往、 一路之れに準ずと云ふ。且つ也(また)肩輿の小なれば、尋常駅路は舁夫二人を以てするに、此の行、山民舁送に慣れず、又官命を重んじ、是を以て一肩輿にして舁夫六七人、 或ひは七八人、相代はり相扶け、簇擁して進む。捷疾なること飛ぶが如し。亦一快事と為す。

 時惟れ秋冬の交、四山の霜葉爛班、人に媚ぶ。瀬子・神路(かんじ)二村の間、流峙、最も殊絶と称す。虞城より三十里に鶴来(つるぎ)村あり。此に到りて両山開避し田畝町々(平らか)たり。 之れを過ぐれば中津村に到る。里正某、余を引いて其の家に至る。小堂清楚なり。菘葉を羹にし(唐菜の吸物)、河魚を炙とす。敬待古朴、余之れが為に加飧す(多く食べる)。 若し夫れ、官道は短長の駅程に非ずと錐も、大抵人家ある處には必ず茶店及び酒店ありて以て行人の憩息に便す。今此の山中、特に余が為の故に村民處々に地の高爽を択び、 或ひは青松林中、或ひは丹楓樹下、席を青苔の上に舗き、茶甌、酒鐺(酒鼎)を樹枝に縄し、酒を温めて紅葉を焼き、茶を蒸(に)て烏薪(炭)を爇(や)く。梨栗棗柿、 之れを左右に取り亦た尽く新蘇なり。以て余が至るを待てり。其の山情野趣、殊に怡悦すベし。既にして鳴鹿原(なるかはら)に出づれば則ち山益々開避し、莽渺(はるか)たる原野、 古へ旦(よ)り未だ耕種を経ざるの地なり。蓋し、地高く寒烈しくして且つ水の引漑すベきなし。遍地唯々細篠、茸々(茂るさま)、穉松之れ雑(まじ)はる。 麀鹿(ゆうろく:めじか)の伏す攸(ところ)、因りて以て名と為す。之れを過ぐれば則ち地勢漸く下り、四山亦漸く輳合す。蓋し虞城を出ずるより大渓右に在り。 白鳥村に抵り大渓を渡る。茲より渓流左に在り。虞城を距ること蓋し六十里と云ふ。又行くこと五六里、歩岐島(ほきしま)に近し〔村名〕。渓を隔てて遥かに見る。 一條の瀑布、青壁に懸かるを。長さ百余尺なるベし。其の闊さ亦た十尺を下らず。前に草木の障翳を為すなし。景境清絶なり。

余、愕然たり。疾く淇水を呼びて曰く「是れ阿弥陀が瀑布にあらざるを得んや」と。淇水笑て曰く「否。否。此れをば馬尾泉(うまのをのたき)と名づく」と。 余淇水に謂ひて曰く「未だ阿弥陀が瀑布を観ずと雖も先ず此の奇観を得て、今日の労を儻(償)ふに足る。之れが為めに輿を駐むること少時にして行く。又五六里にして前渓村の里正、 九郎なる者、民丁十数人を従がへ来りて余に謁し、且つ告げて曰く「官、今夕中桐村(中切村)に宿歇し、明日瀑布を観んこと、固に宜しと為す。但だ、今日東南の風ふき、且つ山雲、 岫に帰らず。占に於ては雨と為す。明日若し雨ふらば恐らくは遊観を妨げん。若かず、天の未だ陰雨せざるに迨び、今日先ず瀑布を観んには」と。余以て大いに然りと為す。 乃ち右に折れて磧中に人る。玄れより以往、小渓曲礀、深流浅流、総ベて是れ乱石磊阿、復た逕蹊なし。肩輿進み難きの處は、九郎余を背にして過ぐ。蓋し瀑布は左傍の山中に在り。 此を去ること已に近し。而して其の間、龍幹虬條、糾紛交錯、榛莽屏塞、其の中僅かに一綫の樵逕あり。輿馬は論ずる亡きのみ。必ずや、少壮の人、軽躯健脚、単身結束し、 而る後に始めて能く達するを得ん。

是に於て九郎心に一計を生じ、余を導いて右傍の峻嶺を攀ぢ、其の頂に出でて、余をして渓を隔てて悠かに瀑布を観望せしめんと欲す。乃ち十数人の民丁をして山轎を周匝せしめて、 前なる者は挽き、後なる者は推し、左は支へ右は扶け、揺々(ゆらゆら)擺々(おし動かす)として以て其の絶頂を窮ム。余、地の坦夷に就き轎を出で、草を籍いて坐し、瀑布の面目を窺ひ見るに、 聞く所の直下千尺は夸誕(大げさでたらめ)ならざるを知る。生来観る所の瀑布、此と比儔する者なし。但々当面相対し切近なる如しと。之れを要するに中間一大渓を隔つ。相去るの遠き、 意ふに里計りなるベし。故を以て巌壑吐納の奇状巧形、得て之を審らかにすベからず。況んや、噴雪迸珠の観。山震ひ谷応ふるの声、杳として、視聴に接するなし。 視る所は特(ただ)に青蘿墻上、一匹の白練を挂るが如きに過ぎず。遺憾なきこと能はず。然りと雖も余は勃[穴率](穴の中から腹ばひ出た)の翁、尺歩を 労せずして、険を穿ち峻を攀ぢ今此に観望する者は亦た唯々大夫の寵霊と一路里正の勤、役夫の労とに頼りて以て素懐を儻(ほしいまま)にするを得り。豈に愉快ならざらんや。 夫の前渓の里正九郎なる者の若きは、其の余を愛護するや最も至れり。希はくは永く失ふて諼(わす)れざらん。斯の時余が意、斗酒を得て以て民丁の労に酬いんと欲す。 而れども窮山の巓、村を離るること己に迥かなり。之れを得るに由しなし。僅かに一絶句を作りて以て九郎に遺(おく)る。既にして日漸く晩暮なり。 倉皇、山を下り炬を執りて中桐村に抵り、里正某の家に投宿す。巨宅なり。

蓋し虞城は濃州に在りて已にに山中の僻邑と称す。而して中桐は虞城の東北隅に在り。虞郡を距ること八九十里、窮陬遐僻の郷と謂ふベし。而して室堂斉整、 供帳(ごちそう)鮮明、殊に山中の体面(体裁)に非ず。村中の羅葍(だいこん)の大なること世に称する所の尾張大根なる者に譲らず。蕪菁(かぶら)も亦大いさ壼の如し。 其の味京師の所謂近江蕪菁に勝れり。山間の石田、之れを産す。殊に異とすベし。此の夜果して雨ふる。

十月朔。終朝、雨未だ止まず。此を去ること数里ならず。向ふ鷲見村〔中桐・鷲見の二村渾て之を須見郷と称す〕あり。霊鷲巌あり、孤峰特立、三十丈、奇秀比ひなし。赤松翠柏、 寸土を仮らずして生茂し、隼鶻(はやぶさ)常に其の上に巣くふ。淇水嘗て其の状を図して余に夸示す。又た万古杉と称するあり。十人連抱するも猶ほ未だ周合せず。余、 今朝之れを観んことを擬して(……しようとする)、雨を以ての故に果さず。遂に割愛して肩輿を回し、再ビ歩岐島を過ぐ。渓中に千畳巌あり。邦俗藺席(たたみ)を数ふるに幾畳・幾十畳と称す。 巌、平正、甃(石だたみ)して成る者の如くして其の幅員の闊大なること藺席千畳を舗くベく、流水其の上を過ぐ。青黛色を成す。此の時雨止み天晴る。二日町〔村名〕に抵る。 里正某、又能く人意を解す。余を導いて渓畔に到り、当面及び左右遠近の山巌を指點し、詳らかに其の名由を説く。惜しむらくは、今、多く記せず。日午、長瀧村に抵る。長瀧寺あり。 古刹なり。大刹なり。創造今を距ること七百年、其の詳かなることは寺記の在るあり。前堂最も巍峨宏壮、葺くに木片を以てす。曰く「山中は雪深く寒厳 し。若し葺くに瓦を以てすれば則ち冬に至りて砕破す」と。当時僧舎殊に多し。今猶ほ十数区を余すと云ふ。一僧余を引いて一精舎に過る。蔵仙坊と名づく。門庁堂宇、営繕惟れ新たなり。 伊蒲餞を具す。飯し罷(や)みて主僧起ちて拝し請て曰く「仄かに聞く、尊師京師に在りて點茶の法規を以て諸弟子に教授す。余波の及ぶ所、園樹を案拝し、 庭石を布置するも亦各(おのおの)精到(ゆきとどく)すと。貧道新たに茅宇を講ず。落成未だ月を踰えず。是を以て前庭未だ一卉一石を移すに遑あらず。幸に一二の指揮を賜はば伝へて以て弊園の栄と為さん」。

余、初め其の言を解せず。已にして其の解を得たり。蓋し、人余が米家の癖(米元章のやうな愛石癖)あるを以て伝訛して遂に庭石を好むと為し、又附会して以て世に所謂茶人宗匠と為す。 是に於て余、笑ひを忍びで対ヘて日く「上人、聞を誤るのみ。余れ其の人に非ず。且つ沿道、人役期待するは上人の知る所、淹坐すベからず故を以て敢て辞す」と。 其の夕、白鳥村某の家に宿す。亦巨宅なり。展待(展=厚)大抵前宵の如し。

二日。白鳥を発し、神路村に午飯し、晡時(16時)虞城に還る。

越えて四日に虞城を発し黄土邑に宿す。

五日。平明、関邑の山田君明、肩輿舁夫をして来り邀へしむ。半路にて君明亦親(みづか)ら迎接す。相伴ひて其の家に至る。余来りし時、芝山氏に信宿(連泊)す。庭園の掃除、 窗櫺(窓のれんじ格子)の払拭、業已(すでに)前言す。喜美ならざるに非ず。然れども余や、麋鹿(卑しいこと、卑野)の野性、加ふるに老懶を以てす。則ち反って心神安からざるを覚ゆ。 君明が宅は陋ならず華ならず。園樹庭石、自然の趣を失なはず。之れに加ふるに君明が余を敬待するや、縟礼足恭を為さず。勤めて志を養ひ、老を安んぜんと欲す。 余が意甚だ以て和適す。即ち詩を作りて之に贈る。「灯火安眠、家に在るが如し」の句あり。

 余、虞城に在るや、食する所は河魚、其の海味を食するは至て罕なり。〔虞城の渓流激駛、其の河魚に在りても鯉なく鮒なし〕蓋し、南のかた張海(伊勢湾)に距ること二百有余里、 夏日は論亡きのみ。秋季より春季、春初に迨び荷担致す者ありと雖も往々鮮、美ならず。土人之れを食するに慣れて亦怪しまず。余、播州濱海の地に生長し、鮮魚を食するに慣る。 其の京師に在るも猶ほ海錯(海産物)の新鮮ならざるに苦しむ。君明故(ことさら)に鮮味を岐阜に求めて饌と為す。〔岐府は張海を去ること八十里、魚鰕市に満つ〕

 六日。後藤子効、君明を介とし(紹介)来りて礼を余に執る。亦少年にして老実、君明が莫逆と云ふ。是より先、世に称する所の濃の神童、滕世式(後藤軌)なる者は余れ「換璋編」に序す。 今復た贅せず。但だ世の神童奇童と称するは大抵過賞溢美にして独り余が世式に序せるは毫しも虚飾なし。惜しむらくは未だ成童に至らずして夭札せり。子効も亦俊才あり。

 七日。天気晴暄。余関邑を辞す。君明・子効相捨てず、追逐して来る。且つ行厨を携ふ。小瀬より一小舸を買ひ、順流して下る。瞬息にして前録する所の石仏巌の下を過ぐ。 一道の清江、匯(めぐ)りて湖と為り、束して峡と為り或ひは澄潭凝脂、或ひは浅瀬撒花、左山右崖、忽ち開き忽ち合す。其の開くや、白沙霜雪、其の合するや、紅葉錦繍、 鸂鶇(水鳥の名)鳧鷖(かもとかもめ)、沈浮飛翔、其の景境、俄頃にして変幻し、実に詩にし難く画にし難しと云ふ。乃ち舷に倚りて酒を釃(く)み、 逸興未だ闌(たけなは)ならざるに舟已に長等津(長良の津)に達す。乃ち相携ヘて岐府に入り、山士成を訪ふ。須臾にして諸子蝉聯して至る。集会、来時に滅ぜず。

 八日。大垣の藤泰伯・井蘭汀、宮士祥と偕に来る。董し余が虞城に在ること大抵三十日を以て限と為す。是を以て大垣の二子、嘉納に至りて余を物色する者なり。 是に於て士成更に宴を張る。其の盛、来時より光(おほい=大)なることあり。

 九日。岐阜を発す。君明・子効是に於て辞して関邑に還る。余更に士祥・泰伯・蘭汀と偕に赤坂に抵り、橋士淵の在否を問ふ。士淵兄弟具に在り。倉忙出でて邀ふ。 矢橋氏兄弟、余、弟の士淵を識りて未だ兄美甫(赤山)を識らず。此に到りて始めて相識る。蓋し土豪なり。田園荘宅、多からずと為さず。而して兄弟友愛、炊爨を分たず。 娣娰(姉妹)相愛して以て老母氏を奉す。加之(しかのみならず)兄弟並びに学事を好み業余、筆硯を与にし、唱和討論、以て娯楽となす。輓近見ること罕なり。 其の族伯達(号丹陽)も亦吟哦を好む。輒ち来りて謁を執る。赤坂は中山道の官駅と雖も人家四百に過ぎず逆旅は三の一(1/3)に居る。其の余は斯れ農家なれば則ち飲饌の具、 渾ベて之れを大垣の市肆に営弁す。労擾想ふベし。

九日、余、将に辞別せんとす。主人兄弟、肯て許さず。

(十日)尓日(その日)、天宇殊に清朗なり。駅の北に金生山あり。蓋し濃越〔美濃・越前〕接界の諸山、北より来て南に馳す。山脉此に窮る者が東南に斗絶せり。 故を以て山高からずして望み極めて開敞(たかくひらける)なり。主人兄弟、席を山上に移し一詩戦を作さんと欲す。余に請ふ。余笑ひて曰く「伯叔聞かずや。海を観し者には水を為し難しと。 老夫、上流の佳山水中より来る。此の地の培嶁(小高い丘)土山、謝公の屐を労するに足らず(山水好きの謝霊運が上り下りに歯を付け替へて歩いた故事)」と。 士淵曰く「培嶁土山は固より先生の言の如し。然而ども、此の地の培嶁土山、反(かへっ)て称すベき者あり。先生或ひは恐らくは未だ之れを悉さざるのみ」と。 余曰く「何ぞや」と。士淵曰く「斯の山中、峭壁巉巌なしと錐も、満山渾ベて是れ大石小石、其の中に硯材の良なる者を出だす。又花紋石・盤渦石及び石弩・雷斧等あり。 京摂の駔[馬會」(そうかい:仲買人)毎(つね)に山に入りて捜索し之れを得て以て四方に貨す。故に邑吏、榜(たてふだ)を挂けて以て他邦の人の山中に入るを禁ず。 山は金生の名に負かず。之れを以てすれば則ち培嶁と雖も名山と称すベし。豈に先生の高躅(躅=足迹)を労するに足らざらんや」と。諸子も亦噴々として余の遊を促がす。 是に於て余、已むことを得ずして起つ。山址(山麓)対街の人家の後園に接するを以て肩輿を須ひず。杖を曳いて上る。阪磴、亦復(また)峻ならず。二里に及ばずして已に山巓に達す。 則ち所謂、竹裡の行厨、松下の樽罍、坐する者、立つる者、樹に倚る者、石に踞する者、杯を把り毫を揮ひ、各自従容として以て東南を望むときは則ち勢〔伊勢〕の東都、 張〔尾張〕の西都、侭く吟眸に入る。人々嘆賞して詩を賦す。士祥・俊才、手、筆を止めず。直ちに鐘鳴り鴉宿するに至りて後、山を下る。主人更に宴を後堂に張る。 諸子猶ほ且つ余興に乗じ、杯盤の間に呻吟す。余、枕を其の傍に支へて席散ずるを知らず。

 十一日。主人兄弟及び諸子に別れ南行す。一路事なし。

 十四日。家に還る。


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