(2004.10.8up / 2022.06.29update)
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しょうはら てるこ【荘原照子(峠田照子:たわだてるこ)】『マルスの薔薇』1936/昭森社
詩文集『マルスの薔薇』
荘原照子 第一作品集
昭和11年7月10日 昭森社刊
[73]/23.3×15.4cm 並製 \1.00
限定250部 (うちNo.1-10和紙刷特製\2.00)
目次
1 2
<ろまん>
<ぽえじい>
シユミイズ
追放
山河
わが古典的な荘園に
筆草
菊つくる神のなげきぶし
魚骨祭
髪
火の指
秋の視野
あとがき(秋朱之介)
【文献】:毎日新聞 [ 鳥取地方版]記事1967,8/21「不死鳥の女流詩人 荘原照子は生きていた」
【鳥取】荘原照子。戦争にすぐれた資質を断たれた女流詩人。いまの中央詩壇の人たちは彼女のことを次のように記憶しているに違いない。<十五歳で詩壇に出、 “椎の木”に加わる。戦争末期、弾圧に追われ、病死(1909−45年)。代表詩集「マルスの薔薇」>
ところが、その荘原は生きていた。鳥取砂丘にほど近い鳥取市湖山町に一人ひっそりと。すでに五十七蔵の彼女は二十二年ぶりに、近く東京に出て、作品を世に問う。
戦後、荘原照子の死がごく自然に肯定されたのは別に不思議でない。百田宗治が主宰する“椎の木”で、左川ちか、山中富美子ら、すぐれた詩人とその天分を競っていた彼女は、
一方で札つきの危険思想家というレッテルをはられた。「マルスの薔薇」(昭和十一年)で“ご真影を売り歩く”軍人を痛烈に風刺し、十二年「日本詩壇」に寄せたエッセーでは「詩人に祖国はあるが、詩が政治の奴隷となってはならぬ。詩はイマジネーションの世界で限りない違法性を持ってゐる。
そこに詩人の自由があるからだ」と権力からの自由を叫んだ。
日支事変がぼっ発、太平洋戦争へ拡大すると、出版社は門を閉じ、もともと病身な彼女は桔核に襲われた。終戦直前の二十年六月、激しいカッ血が続く中で、
特高警察と憲兵に監視されていた彼女は突然、蒸発した。病死――という名で彼女は消されたのだとうわさする者さえいた。
しかし、照子さんを救ったのは、なんと行動をマークするため、彼女の自宅(横浜市六角橋)に派遣されていた特高警察の憲兵曹長(名前を記憶していない)と、
同曹長のもとで働いていた婦人要員の恒川貞子さん(当時二十六歳)と佐藤喜代子さん(同二十四歳)の三人。三人はともに彼女の詩才をこよなく愛し、監視する役目ながら逆に、
病いと思想の弾圧から彼女を守ることばかりを考えていたという。
二人の婦人要員は、軍からこっそりパンやミルクをせっせと運んでくれた。「あなたはもうすぐ殺される」と逃走をすすめ「仙台の親類へ行く」とデマをとばして、
母の郷里である松江へ逃がしたのもこ人の婦人要員のチエだった。だから照子さんいまでも「私の命が今日あるのは恒川さんと佐藤さんのおかげです。あのときの好意がなければ、
病身の私はとっくに飢死していたでしょう。いまでも生きておられたら、お二人のご幸福をお祈りしたい」と感謝の気持をこう表現している。
詩誌「詩学」は三十二年十二月号の消息欄で彼女のことを「横浜に住んでいたが、敗戦と同時に仙台にのがれ、直後に病死」と伝えている。詩壇の墓標ともいえるこの記事を彼女は、
鳥取市が引揚者用の砂地の上に建てたバラック住宅で読んだ。結核に加えて、心臓病に冒された彼女は、一切の過去と断絶、名前だけの市内のカトリック幼椎園の園長代理を勤め、
砂丘の風紋と語る十数年の歳月を過ごしてきた。
だが彼女をまだ忘れない人もいた。昨年三月、詩人、近藤東氏が「週刊新潮掲示板」で、その消息をたすね、半年後、全く偶然にこの数行の字句に目をとめたとき、
彼女は「詩の終章を書きとめなければ・・・」と思った。
峠田照子たわだてるこ――いまは本名を名乗っている彼女は語る。「最近、心臓の発作がひどくなりました。しかし戦後の詩の流れは見てきましたし、書くこともやめていません。
その草稿を整理する時期が来たように感じられ始めました。恐ろしいことですが二十二年の沈黙の中身を若い世代の前に投げ出すことになるでしょう。」
(付記:該書購入時に旧蔵者が添付したと思しき切貼より。毎日新聞としかメモされておらず、何県版かは不明。)
しょうはら てるこ【荘原照子(峠田照子:たわだてるこ)】(1909.1.16山口県防府市三田尻〜 1999.10.11 90歳)
新聞記事情報の訂正(生年月日)および出身地について鳥取市の手皮(てび)小四郎様より御教示を賜りました(2007.9.21)。
歿年祥月命日について同じく御教示を賜りました(2007.12.08)。
本姓のよみについて同じく御教示を賜りました(2013.1.8)。
【文献】
「モダンガールズ その6」純粋詩をもとめて ―荘原照子― (坂東里美氏 「rain tree」 )
写真提供:手皮小四郎様
左より 1936年 1940年 1967年 の詩誌・新聞に掲載された詩人の肖像。