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『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート(つづき) 伊藤信著 大正14年 梁川星巖翁遺徳顕彰会[西濃印刷株式会社内]刊行


【ノート11】 処女詩集刊行をめぐって (順序変更)

 【頼山陽書翰】(梁川星巌宛 文政10年閏6月24日)

西征詩序、太(はなはだ)逼迫せられ候へども、発靱期迫り、早く埒明き候て、上申す可くと、今朝以来、閣百事を束ね書き畢り候。文は「只君与吾」と云ふ様な処を、 少し泛然とする様に(ぼやかす様に)致し候。其外は、カクヨリ(斯くより)外致し方無き候。必竟(畢竟)田錦城(太田錦城)が序、アマリ筋骨を暴き候て、人の怒を招き入れ候より、 ビク付出し候事也。錦序ナカリセバ、拙序は、何も耳ざわりはなき也。よし、耳にさわり候ても、よき事也。八方の機嫌を取り候て、何処に名を成し身を樹てん乎。 たとへどの様に機嫌取り候ても、兄と名を争ふ者は、集のうれるはいやに存ず可きに候。八面に敵を受け候様に相成り候ても、拙は御身方に相成可く候。ほめ過にあらず、公論・定論、 を以て申し候也。浩然、御出し成さる可く候。今日雨晴れ候て、月峰へ参る可く、明日発靱とても、今日は閑暇なるべし。余は其の節に期す。草々

古詩は、只今拝見仕居候。明朝迄には、看畢り候也。(源漢文個所書き下し)

(文政十年)閏六(月)廿四日

星嵒様

 これを読むと、梁川星巌の処女詩集『征西詩』にはもと太田錦城の序も用意されてゐたやうであります。「アマリ筋骨を暴き候て、人の怒を招き入れ候」といふのは、 詩壇の現況を貶しまくってでもゐるのでせうか、太田錦城といへば、菊池五山・大窪詩仏らの意を受けて文化12年の暮に出された「書画番付」に噛みついた人でもありますね。 かの番付は主に山本北山の子、緑陰がその制作に従事したことを森鴎外が書いてゐますが、この山本緑陰といふ人は、梁川星巌が江戸遊学中、吉原で借金を作った際、 清算を指示した人とも伝へられてゐます。つまりそんな私生活での恩誼も蒙った北山一派と対立した人物から過称の一文を賜り、それを処女詩集の序文に掲げようとしたらしい事実は、 当時学益を被ったと云はれる24歳先輩の錦城に対して星巌からの尊敬の念が渝ることなく継続してゐたことを物語るものであって、また年老いて圭角未だ収まらぬ錦城の序文に、 頼山陽が怖れをなしてゐる様子も考慮し、この辺り如何にも世に打って出る野心が見え見えでもまずいと思ったのでせう、すでに錦城も星巌の西游中に亡くなってゐましたから、 それを取り止めにしたしたのだらうと思ひます。
 北山一派の掲げた宋詩称揚の揺籃から離れること十有余年、遍歴を終へ京都で詩人として一家をなすに当り、まづ詩集の刊行を企てた星巌は、 最終的に当時の京都一番の縉紳好事家であった日野資愛(すけなる)卿の序文を戴くことに成功します。「人の怒を招き入れる」こともなく、 胸襟を開くに己をさらけ出してどしどし値踏みしてくる感じの頼山陽よりは常識がある、と気難しい京都の詩人達の間での評判も良かったやうであります。

 【頼山陽書翰】(梁川星巌宛 文政10年閏8月)

未だ晴朗ならず、遊山之挙決し難き候。

私、詩之序、梓出来候ハバ、一閲仕り度く候。ウメ木(埋め木したい)の処もあり。今夕酔ザマシに参る可くとも存じ候。瓢明き(ひさご空き)候ハバ、此者に御附け下さる可く候。 いつかの杖頭(酒代)百銭も、ヨク覚テヲル奴、其儘に御返しなし。十五夕は必ず待ち奉り候。今夕も無月と相見へ候。(源漢文個所書き下し)

十三夕        山陽

星嵒様

2009年1月21日


【ノート7】金森匏庵宛手紙の事

 梁川星巌の伝記と全集を机上にでーんとひろげ、ひきつづき『星巌集』の版本を拾ひ読みしてゐます。いな、詩を読むといふより、星巌の詩を通じて中国の故事を勉強してゐるといった方が正しいです。 不審に思ったことを調べるのは、いまや漢和辞典よりさきにgoogleに頼る有様。様々な賢者隠者仙人詩人の名と字と号とが、次々に現れては覚えられず忘れられてゆくのですが、 肩の力を抜ける場面もあって、食べ物やかみさんが出てくると、俄然生彩を帯びてくるんですね。版木で摺られた漢字の字面から直接ウィットやユーモアを感ずる瞬間といふのは、 時を超えて鮮烈かつ江戸時代の人と心が繋がった何とも云へぬ温かい気持にさせられるひとときであります。

 食香魚
芙蓉紅浅雨初凉 [魚發]々銀刀落夜梁 一段人生快心事 香魚時節在家郷

 香魚を食ふ
芙蓉、紅浅くして雨初めて凉し。溌々たる銀刀、夜梁に落つ。一段人生快心の事。香魚の時節家郷に在り。

 旅夕小酌示内
燈火多情照客床 残瓢有酒且須嘗 又労袖裏繊繊玉 一劈青柑[口巽]手香

 旅夕小酌、内に示す
燈火多情、客床を照す。残瓢、酒有り、しばらく須らく嘗むべし。また袖裏の繊繊玉を労すれば、一劈の青柑、手に噴いて香ばし。(繊繊玉・・・勿論おべんちゃらです。)

 さて美濃大垣の田舎には金森匏庵といふ後輩がゐて、旅先から星巌にいいやうに使はれてゐるのですが、何とかを送ってくれだの、誰々の書を斡旋してやらうだの、 さういふ物に即した細々した消息を記した手紙が、全部遺ってゐるんですね。地元産の奇石を二人で欲しがった結果、値段がつり上がってしまったことを愚痴ってみたり、 古書の購入を依頼して「しかし五両弐三歩ならば、尤も妙に御座侯、・・・(されど)実は六両にても高き者には無之侯」なんて、金払ひの未練がましいところは、 全く私と変りません(笑)。
 さらに「頼氏は口腹家ゆゑに一度話し申し侯ことは一向に忘れ申さず候につき、困り入り申し侯。」って云ってますけど、山陽のやうな駄々っ子でないだけで、 私は星巌先生の方が食ひしん坊だと思ってます(笑)。如亭先輩には敵はないかな。
 そんな当時の、180年前の今月今夜の手紙も引いてみました。

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月12日)

峭寒御勝常奉賀侯。小生無事に勤業仕侯、御放念可被下候。扨て石之義、(郷里の)舎弟より、追々かけ合申侯処、先方にて申候は、大垣魚屋嘉兵衛(金森匏庵)より至て懇望にテ、 金三両より下にては、売り不申侯旨にて、初よりは、金壱両斗り価をあげ申侯故、舎弟も大に困り、小生方へ右之趣き申越侯。無拠右之価にて買取申侯。小生も買かけ申侯物故に、 三分や壱両之事は思はれず、右之段御推察季希上侯。来春は、先便に申上侯通り、伊賀に遊歴、帰途は必御地に向、曾根へかへり申侯。僅の石にて、交際に隙を生じ侯てはあし(悪)く、 石は来春迄、小生あづかり申置、何か様(いかさま)共可仕侯間、左右に御承知可被下侯。
○明史(『欽定明史(1739)』4帙40巻?)之義、急に御謀り之程奉希上侯、今年中に、小生方に参り申候様奉願上侯。
○珊瑚之義、急に御はからい奉願上侯、何卒急便に御返書奉願上侯。
○餘清斎法帖(王献之の摸刻)、御望も無御座侯ば、見せ本は御返し可被下侯。
○此間名硯出で申侯、価は金拾五両と申し候得共、此節之事、十両位には可仕侯。厚さ貳寸五分斗りにて、紫端溪、うらに眼三つ御座候。何分御返書急々奉願上侯。
西征詩不殘出来申候。委曲は後便に付し申候。草々不喧
 十二月十二日
                          緯上
煙漁老兄

(167p)

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月17日)

十家詩話(『甌北詩話』)、尾州に無御座侯はば、此方より差上可申侯間、御申越可被下侯。本月十二日発御手帖接手、益御勝常之由奉賀侯。明史の義、御懸合被下侯処、 六両位よりは引不申との事、何卒六両にても不苦侯間、急に御買取の程奉希上侯。しかし五両弐三歩ならば、尤妙に御座侯、明史は小生読かけに御座侯に付、何卒して求め置度、 何分今年中に落手仕侯様急に奉頼上侯。実は六両にても高き者には無之侯、此節価少々あがり申候。珊瑚、餘清斎法帖慥に落手仕候。繻子之義は先御預り置可被下侯。 其内売候はば御売り可被下侯。萬一一向に望む人も無御座候はば、御戻し可被下侯。〇細香よりの繻子之切、並手帖御伝達、慥に落手仕侯。○今春御托し横巻下の巻も、年内に落成可仕侯、 後便には必ず差出し可一申侯
○中島(棕隠)先生(美濃遊興)の義、委細承知仕侯。実に遊歴中之拙計(不詳)可発一笑。帰途彦根へ立寄申候様子、一昨日帰京、小生方へ今朝参り申、暫く話し帰り申侯。
○頼(山陽)氏へ鴨を御送りの由、頼氏の横巻も、急に謀(計ら)ひ可申侯。頼氏に鴨御贈之節、別に一つ御求め可被下侯。是は小生より価を出し可申侯。小生も頼氏に鴨を約束いたし置候処、 時々催促にあひ困入申侯。其かはりに、横巻を謀り可申候。頼氏は口腹家故に、一度話し申侯事は、一向に忘れ不申候に付、困入申侯。
○石之義、舎弟より度々かけ合申侯様子なれ共、彼理九郎(谷利九郎)、なかなかむつかしき男にて、兎角かたつき不申困入申侯。
○全唐詩之義、今一往高田梅二郎へ御かけ合可被下侯。何れ一帙は上木いたし度者なれ共、先づ半帙にても口あけをいたし度、何分急に御かけ合可被下侯。全唐詩の十両と申す本も、 此方に引とどめ、吉治方にあづけ置申候。年内無余日寒気之節御自重奉頼侯。何分明史之義は、急に御かけ合、御越し奉頼侯、其かはり何にても又々御世話可申上侯。猶重便に期候。草々不一
 十二月十七日
                         梁緯拝上
煙漁老兄 文案下

(167-169p)

 「見せ本」といふのは、見計らひの為の見本のことで、仕官せず生計を立てることができるやうになったといっても、詩人は自らの潤筆料だけに頼る訳にもゆかず、講詩・校讐に加へ、 書画骨董の斡旋まで何でもしてゐたんですね。

2008年12月17日


【ノート8】村瀬藤城宛手紙の事

 さて文政12年(1829)の梁川星巌ですが、4月上旬に故郷に帰ると展墓をすませ(7月13日)、前掲詩のごとく落鮎を賞味すると9月に三重へ出発します。 文政4年に『三野風雅』を編集してくれた津坂拙脩の許(父、東陽は3年前に70才で死去)で年を越し、2月にはふたたび京都へ帰還。この間、6月13日に村瀬藤城へ出した手紙が残ってをり、 処女詩集『西征詩』の落成報告とともに、白鴎社同人の消息、そしていよいよ京都に腰を据える旨の決心が述べられてゐるので紹介します。

 梁川星巌書翰(村瀬藤城宛 文政12年6月13日)

尊翰捧読、起居御勝常奉賀侯。小生無事ニ而、四月上旬に帰郷、早速に趨謁仕り、萬緒可申上存侯処、柳兄(神田柳渓)申候は、其にては却テ悪敷、先ヅ我方より委曲を伝へ可申侯間、 上有知行は、延引可然トノ事に付、手帖(手紙)も呈上不仕、今日に至り申侯也。尊命の如く萬事柳兄に預け可申侯間、左右に御承知可被下侯。小生は固より、寒盟を願はず候得共、 先頃貴翰見読ニ付、無拠疎遠に及申侯也。老兄に隔意無之儀ニ候は、小生は勿論に御座侯。旧に依り友誼は龍の如く雲の如く奉希侯。尊大人久病、定テ薬餌坐臥萬般老兄之一身ニ蒙り可申、 御労心推察奉り候。其労心ニ付、老兄之病ヲ引出サヌ様ニ、御用心専一ニ祈り奉り侯。
○(石原)東より之刻詩料弐円金慥ニ落手仕侯、東之主意も、委細承知仕侯。
○林良画一巻、石摺数張、明詩抄本一冊、三品共ニ、慥ニ落手仕り侯。
○西征詩ハ、当正月ニ彫刻落成仕候得共、日野(資愛)公序文ヲ賜リ候ニ付、彼是延引ニ及申侯。製本近々ニ出来、鴎社諸兄弟へ分配可仕侯。右出来次第ニ、小生直ニ老兄方へ拝趨、 其節先達テノ書画幅及諸算清還可仕侯。小生此度ノ帰郷ハ、逗留僅ニ五七日之積リニ御座侯処、本家身上向之事ニ付、相談ニ加ハリ、発程大ニ延引仕侯。小生も頼翁及諸子之勧により、 聖護院之地面ニ一廛ヲ構へ可申ト、追々工夫を着け、当二月既ニ一決仕リ、幸ニ古家有之侯ニ付、地面共ニ買取可申様、引合相済申侯。此事老兄ニも相談可仕存侯得共、当春之御手帖に付、 見合申居候。此度ノ遊歴も、右之卜居一件ニ付、発程仕り侯。小生事東西走波已ニ年四十ニ余リ、昔之詩禅ニは無之、唯事業ニ耳心情ヲ寄セ申侯。上京以来詩数百五六十首も可有之、 近々抄写入電矚可申侯。書余は、帰一子ニ御聞可被下侯。草々頓首。

(文政十二年)六月十三日

卯改名 緯  拝上

藤城吟兄盟 台下

御家内様方へよろしく、拙荊無事、是又宜敷申上候。
一 柳兄より承り申侯。元遺山集謄写出来、校合も相済み申侯之由、何卒拝借仕度奉希上侯。
一 丈太郎(長慶)義、江戸表朝川善庵江入塾仕り侯之由、此節申参り侯。当春以来、弘斎(菱湖)宅ニ逗留、今度ノ出火ニ類焼、丈太郎衣服等も、過半焼キ申侯トノ事ニ御座侯。
一 頼(山陽)翁も、当春奉北堂伊勢参宮ニ御座侯。兎角門人中之受あしく、困入申侯。
一 貫名(海屋)も東行、九月ハ帰京トノ事。○善助も依然トシテ、鼓琵琶居申候、詩文ハ大分上り申侯。
一 中島(棕陰)客冬大垣加納遊歴、大分評判御座侯。 (全集第5巻18p)

 久しぶりに帰ってきたのに御無沙汰な星巌に対して、詩社の留守を守ってきた村瀬藤城はいくぶん詰る気味の手紙を書いて寄越したのでありませう。 「白鴎社はどうするんやね。」これに対して温和な共通の親友である神田柳溪を口実に立てて(ダシに使って)の、詫び状の気味があります。律儀な村瀬藤城にしてみれば、 歳が二つしか違はない星巌が、家督を放擲して自由気儘に生き、また自分の師と定めた頼山陽に対して(それが自他ともに認めるところであっても)友人として振舞ってゐることに、 心中複雑なものが蟠ってゐたことには相違ありません。しかし一見極楽蜻蛉のやうに見える星巌ですが、この手紙には同時に、縉紳日野資愛の序文を戴いた詩集の嘖々たる評判をもとに、 青年時代を知る昔の知友を見返し、乞食坊主然の風来坊にも思はれてゐた「詩禅」のイメージを名実ともに返上して、今や天下に名を馳せる頼山陽とともに京に腰を据える決意を固め候につき、 といふ決意が述べられてゐます。そしてそのための遣り繰り算段をつけるために、彼が何を考へてゐたのか、面白い手紙も残ってゐるのですが、次回に譲ります。 転居がなかなか実行に移されないことに対しては、山陽が急かして寄越した詩が残ってゐます。「牙」とは仲買人のことを「牙人」とも云ふ由。

 貽星巌梅子      頼山陽

黄梅墜地不酸牙 拾寄書窓看奈何 花下曽謀卜隣計 因循已是半年過

 星巌に梅子(梅の実)を貽る

黄梅、地に墜ちて牙を酸せず 拾って書窓に寄せて看ること奈何せん 花下かつて謀る、隣に卜するの計 因循すでに是れ半年過ぐ

2009年1月9日


【ノート8 補遺】(2009年1月17日)

 帰省中には星巌先生、加納藩の少壮学者長戸得齋(当時28歳)と会って、彼の北陸遊行を送ってゐます(文政12年6月)。恰度得齋の遊行紀行『北道游簿』を入手できたので、 星巌との応酬とともに写して置きませう。その際の星巌は得齋に、村瀬藤城への周旋をくれぐれもよろしくと依頼したことでありませう。或はこの時、かの手紙を託して持たせたのかも分かりません。

 将發郷口占二首(長戸得齋) 此の行、飛[騨]加[賀]二越[越中越後]より奥州を歴て江都に入る。 『北道游簿』二巻を著し、以て游迹の概ねを紀す。又、詩七十首を得るも『游簿』既に刊行さる。今乃ち詩若干首を抄出す。

掃展先塋住數旬 貂裘敝盡帶緇塵 十年未遂平生志 跼蹐乾坤奈此身

先塋を掃展して住むこと数旬 貂裘敝れ尽くして帯も緇塵 十年未だ遂げず平生の志 乾坤に跼蹐する此身をいかんせん

東奔西走幾冬春 久慣浮萍斷梗身 負郭無田歸亦客 不妨重作遠遊人

東奔西走幾冬春 久しく慣るる浮萍斷梗の身 負郭に田無くして帰れば亦た客 妨げず重ねて遠遊の人と作るに 『得齋詩文鈔』巻一4丁丁

 送長戸士譲遊學江戸倣岑嘉州體(梁川星巌)

驪歌一曲錦鞍[革薦] 欲盡不盡酒如泉 丈夫乾坤誰知己 握手肝膽鐵石堅 弘文書院如天録 玉牙萬軸光連娟 君在其間日勘校 中夜或見青黎煙 簷前涼緑搖午影  狼藉瓜蔬香滿筵 請君且坐日未昃 更與酤取斗十千 有約明春吾亦往 殘花滿城子規天

驪歌[別れの歌]一曲、錦の鞍[革薦](あんせん:旅支度)。 尽さんと欲すれども尽きず、酒、泉の如し。 丈夫は乾坤に誰か知己ならん。 握手して肝膽、鉄石堅し。  弘文書院[太宗創設の学校]天禄[天禄閣:漢代の図書館]の如し。 玉牙万軸、光連娟たり。 君、其の間に在って日々に勘校※す。  中夜或は見ん[劉向に教授した太乙仙人の]青黎の煙を。 簷前の涼緑、午影を揺らし 狼藉たる瓜蔬、香り筵に満つ。 請ふ君、且(しば)らく坐せよ、日は未だ昃かず。  更にともに酤取(こしゅ:酒を買ふ)せん、斗十千。 約有り明春、吾れも亦往かん。 残花満城、子規の天。 『星巌丙集』巻3 歸省集

上内[上有知カウツチ]贈村瀬士錦(長戸得齋)

赭圻蒼壁欝成環 中有騒人掩草關 日夕唯親賢聖籍 匹如蘇子在眉山

赭圻(しゃき:赤い境)蒼壁、欝として環を成す 中に騒人の草關を掩へる有り 日夕唯だ賢聖の籍に親む 匹如たり蘇子[蘇軾]の眉山に在るに 『得齋詩文鈔』巻一4丁

『北道游簿』(冒頭 原漢文)    美濃 長戸譲士譲著

文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]なり。 路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。乃ち其の行程を記し、 以て他日の臥遊に供す。

七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。織田黄門秀信の岐阜に在るや、其れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、 其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒(かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。 飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。右に折れて二里、関村に出るべし。昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。 今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。左に転ずれば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。 一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、 及び族太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教授す。就学する者、 稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。

2009年1月17日


【ノート9】金森匏庵宛手紙の事 ・ 糶取り(せどり)の巻

 翌けて13年(天保元年)の春も星巌夫妻は、先輩頼山陽、そして伊勢で知り合った後輩斎藤拙堂との花見・観梅の日々。詩酒徴逐、忘年の交歓には余念がありません。 一体さういふ資金をどこから調達してゐたのか、詩を講じ書を校すと記されてゐるほか、前回「書画骨董の斡旋まで」なんて書きましたが、続いて伝記に引かれてゐる、 同じく金森匏庵への書簡には、斯かる詳細を星巌自らが述べてをります。

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政13年[天保元年]3月25日)

春暖相催候処、筆研萬福奉賀侯。小生無事御放懐可被下候。扨テ『淵鑑類函』弐部、此方ニ御座侯処、一部ハ新渡ニ而板甚敷、金十壱両、壱部ハ古本ニ而板ハ大抵、 内一冊七十葉程は、かきたし御座侯、右ハ金十弐両弐分ト申侯。此節ハきき物ニ而、安直なる本ハ見当り不申侯。

一、服部隣助も、二三日以前ニ、長崎へ下り申候。吉治も三四日中に又々下り、其外伊勢六輩壱両人下り申候。皆々閏三月下旬、或四月上旬ニハ、帰京いたし侯。此度ハ、長崎表之唐本、 沢山二参リ候之由、大抵二百五十貫程(1トン弱)之本也、扨各々百金(100両?)斗ツツ持参ニ而長崎へ下り、其不足之処ハ、京或ハ大坂表ニ而、かわせ(為替:立替払ひ)ニいたし申侯ニ付、 京大坂当着いたし侯哉否や、市ヲ開キ売払申侯、帰着後十日限り、かわせの金子ヲ返済仕侯事故、各々帰着後十日之内なれバ、何本ニテモ安直ニテ入手仕侯。小生も明日伊賀へ発足、 三十金斗り調へ、来月下旬ニハ帰京、彼本ヲ安直ニテ買取申候也。御望の本も御座候ハバ、金子を閏三月下旬迄ニ、此方御越置可被成侯、何ニテモ安値ニテ入手仕侯、しかし、 即金ならでは調不申候。

一、小生も此度ハ、本ニテ少々利ヲ得度存侯、何卒二三十金も出来侯ハバ、老兄御世話奉願上侯、商の事故ニ、利足ハ高キモ不苦候。若シ御閑暇ニテ御坐候はば、 金子五十金斗り御持参ニテ、御上京は尤モ妙々、何レ本ニテモ、市場之落札ニテ引取可申侯、一度書林の手ニ落申候得ば、余程の利分ヲ取申侯事ニ御座侯。何卒御計策可然様一寸願上候。 萬一老兄御出馬出来不申侯はば、二三十金斗り御世話一寸願上侯。或十五金位ニテモ不苦侯。勢州津、松坂、伊賀、江州彦根、芸州、丹州、書物の得意場、小生多分御座侯ニ付、 存じつき申侯也。此度の本ニ而利ヲ得、水東のト居ヲ仕度、何分宜敷様奉一願候。

老兄御出馬なら、閏月廿八九日が宜敷、木屋町二条下ル若松屋座舗ニテ、服部隣助ト御尋可被成候。小生も隣助方ニ寓居仕候。
小生も明朝発足、伊州え参り申侯、甚匆々、萬緒は後郵ニ付シ申候。
御返書被下侯はば、伊賀上野二三町服部祐助(服部竹塢)迄御越し願上侯。京都吉治方御出し被下侯得ば、吉治よりとどけ呉れ申侯也。

○書物一件は、吉治へは沙汰御無用、吉治は右之品々ヲ秘シ置キ、高価ヲ待侯積リニ御座侯。草々頓首。

(天保元年)三月廿五日            梁川新十郎

金森烟漁老兄 貴下

(185-187p)

 長崎舶載の唐本(漢籍)は、当時「五ヶ所本商人」と呼ばれる、江戸・京・大坂・堺・長崎の、入札権をもつ商人のみが長崎会所で落札することができたのですが、 ここに名の挙がってゐる服部隣助、吉治といふのはその本屋でせうか。手紙にはさらに伊勢の六輩壱両人も長崎へ下ると書いてあります。六輩壱両人とは6名+2名=計8名といふことなのか、 よく分かりません。いづれにせよ、星巌が彼らから本を買って「お得意先」へ行商に出かけ、鴨東(水東)聖護院辺りに転居する資金をつくる計画があったのは前回述べた通り、この当時、 頼山陽と隣同士にならうと約束したことを真剣に考へてゐた模様です。全体が甚だ興味深い内容なのでゆっくり見てゆきませう。

 さて、まず冒頭に名の挙げられてゐる『淵鑑類函』といふ本。清の康熙帝の指示で編まれた全450巻の類書のことですが、輸入された最新のものが刷板が「甚しく」11両であるのに対し、 古本で程度は「大抵(まあまあ)」、1冊70枚程書き足したのが12両2分といふのは、印刷本も写本も区別なく通用してゐた当時、書き足しもまた付加価値と認められてゐたことを示してゐます。 「甚しく」とは、新渡はおそらく後印本なので、刷板も甚しく擦り切れてをり、の謂でせうか。『淵鑑類函』の揃ひは、天保14年舶載の140冊が、 長崎会所で村上藤兵衛といふ商人によって銀469匁の値が付けられたといふ記録が残ってゐます(『漢籍輸入の文化史』大庭脩著1997研文出版158p)。1両=65匁として7.2両。 星巌記すところの流通相場が11〜12両ですから、この一揃ひを誰かに10両で「お値打ち」にお世話したとしても、1匁を現在の\4000として単純に云へば70万円近くの差額を本屋と分け合ふことになるわけです。 一冊が1〜2万円に相当する当時の唐本です。行く先々にパトロンを持つその道の目利きが糶取る(せどる)のですから、これはいい副業になったと思ひます。

 そして買ひ付け人として服部隣助と吉治といふ人物が出てくる訳ですが、特に吉治といふのは、星巌は今回買った本を一足先に知友の「得意場」に売り捌いて、 寝かせて高値を狙ふこの吉治の欲の裏を掻いてやらうと、匏庵にも口止めして一寸ばかり見下してる本屋です。さきの村上藤兵衛が「村藤」と呼ばれてゐま すが「吉治」もまた吉田屋治兵衛の略称。菅茶山の親友だった西山拙齋の遺稿詩集なんかを出してゐる京都の本屋なんですね。

 服部隣助の方は、星巌の寓居先でもあり懇意らしく、木屋町二条下ル若松屋の住所まで記してゐますが、何者でせう。 検索してみると美濃国中仙道之図や関ヶ原附近絵図を出してゐる美濃人らしき若松屋重兵衛といふのがあり、また明治初年の京都には若松屋源兵衛といふ本屋も見えます。ただしかし、 名のない本屋は「五ヶ所本商」などになれない筈ですし、そもそも伊勢の本屋などは除外です。
 おそらく「六輩壱両人」は、五ヶ所本商である大手本屋の伊勢支店7店舗からの助っ人(うち一店舗からは2名)なのでせう。そして服部隣助=若松屋は、書籍以外の輸入品と関はりのある、 薬種商か何かの商家かもしれません。「木屋町通二条下ル」は高瀬川の分流地点で、現在立派な庭を持つ懐石料理店がありますが、昔の若松屋は何屋さんだったんでせう。 匏庵からの手紙の転送依頼も、だから寓居する若松屋ではなく、両者がお得意様になってゐる欲深吉治書店(笑)に送るやう指示してゐるのではないでせうか。
 以上は推測です。「かわせ換金大古本市」が開かれる日には、やっぱり星巌も山陽も棕隠も初日に並ぶんでせうか。そんなことはないと思ひますが想像すると楽しいですね。

2009年1月9日


【ノート10】頼山陽手紙の事 ・ 引越しの巻

 さて転居の事は「余頃購得鴨東間地百餘弓、疏水種竹、以爲偃息處、書喜」の詩があるやうに、無事7月に成ります。ところが間も無く10月にはそこを発ち、 「得意場」のひとつである、彦根の小野田簡齋の許を根城に定め、居候生活を始めるのです。伝記ではさらっと流してゐますが、余程意に満たなかったことが新居で起きた。 住居に関ることか、或は土地と家を買ったのが借金で、返済ままならず稀覯本を抱へて行商に行かざるを得なくなったのかもしれません。星巌夫妻はそのまま半年間彦根に留まり、 翌天保2年の5月に帰ってくるのですが、そこは買ったはずの自宅ではなく、鴨川西岸の「寓居」であり、しかも2ヶ月でまた彦根に戻ります。新居とりやめに係る残務整理の意味もあったと思ひますが、 取り止めが金銭による理由だけではなかった様子が、彦根遊歴中に頼山陽から届いた手紙から窺はれます。処女詩集を刊行して名が広まったにせよ、それはあくまで畿内と、 彼が旅した西日本でのことであって、かうなったらどうしても江戸へ行って一旗揚げなくては気が済まない、そのブレーク寸前の予感を感じさせる詩人の雰囲気にはむしろ、 同じく若き日の過ちによって江戸がトラウマとなってゐる山陽が感化されたことでありませう。私はこの条り、『詩集西康省』を刊行した先師田中克己が身一つで上京したエピソードを、 その際の伊東静雄の羨望とともに思ひ合せるのです。

 頼山陽書翰(梁川星巌宛 天保元年閏12月22日)

奉別後杳然、如何に成され候哉と家内どもども、御噂而已(のみ)申し居り候。小野田(小一郎)よりの文通にも、しかと御様子も申し越さず、此方よりは、 毎時伝言申し遣り候。一日(向)相達しも致さず候哉。扨て、思召寄こされ緑鳧一隻、何ぞ其の肥鮮哉。如何様、鉄砲よりはもち(黏)の方、腴と存じ候。早々賞翫仕りべく候。其の腴、 飧(ソン:晩飯)にすべし。故人の詩句と相似る察し候。六十余首も詩出来候よし、御気色よき処知るべし。大慶に存じ候。何卒来春は大概にして御帰京成なさるべく。 いつ迄も尻すへず、游歴も如何に候。一向生涯遊歴人となる、如亭山人のごとくなれば、又其れ趣向もあるべし。然し、名声重からず、御家内もある事也。彼の聖護院(卜居の件)御決策成さるべく候。 其上にて又遊歴されば直打これあり候。今に始まらず老婆心、吻々此に及べり。御体察成さるべく候。外史の謝礼の事、先比(さきごろ)アノ医生[久 米休山?]よりも申し越し、如何にてもよろしくと申し遣り置き候と覚え候。如何様刀剣、外へ出ス例あるまじ。さすれば刀剣料にてよろしく候か(楽翁様は、集古十種に、銀廿枚也。 姫路の十枚に縮緬などは其(甚)軽薄。是は写料だけと申す心、アノすこき家老(河合寸翁)の計ひ也。楽翁様へは、別に差し上げ候と申所もあれども、御身代も御考へあるべき歟。 大抵足下御覧置き候て仰せ下さるべく候、姫治はカネになりがたく候)。それは思召次第、絹匹は無益に候。小野(田)は、あれを未だ閲さず候哉、何とも申し越されず、何より見てもらひ、 少にても国家に益有る事も候ハバ、大慶之に過ぎずと御伝へ下さるべく候。京、かわる事なし、例の気色よき時節、墨を晨窓水仙花下に磨り、終日書を著す。本国の故君の喪にて、 客を謝し居り候、是亦遺恩と申すべく候。余は御帰京の時を期し候。御遅くは先打に、其詩御示し下さるべく候はば、如何相楽み申すべく候。

尚々、鳧には、報ゆるに足らず候へども、雀みそ申し上げ候。是にて精を養ひ、何にても[子供を]御拵へ成さるべく候か。併し僕女子[陽子]を生せ、啼くこと甚しく困り居り候。子無きも楽に候か。
〇高江村[士奇]集、御覧候哉、付紙は時々付けかへ、大に骨折り置き候。あのトル又内に抄録させ而、兄御一閲、重複など無き様に、成し置かれ候ては如何。

 (天保元年)十二月廿二日

公図詞兄         襄
紅蘭嫂同看

 星巌の性質に対しての頼山陽のおせっかいとも言ふべき厚情は次の手紙にも表れてゐます。倨敖を自認反省する山陽が謂ふところの星巌の欠点は懶惰。 筆不精だったかどうか分かりませんが、妻の紅蘭が腰を落ち着けない夫に泣かされっぱなしだったといふのは、彦根で暫く不遇を喞つところと云ひ、またわが先師とそっくりかも(笑)。

 頼山陽書翰(梁川星巌宛 天保2年閏7月24日)

 此間両度、寸楮呈し候。定めて絡繹[間なく続いて]相達し御覧下さるべくと存じ候。昨日は、其方より御出しの書、始めて落手、別後、動履安佳(やや安佳を復せる)を審かにし、 此を欣び慰む事に候。霞山一条[の一件]ハ、さぞ此の通りなるべしと、拙も存じ居り候。几語[冗語?]と云ふもの、面談に済せば、彼此直に手軽く訳分り候もの也。一たび伝語と成ると、 何か手重く聞え候もの也。一たび貴寓を訪ふと存じ候前に聞霞山説(霞山の説を聞きて)、其の通りでは、独り此の一僧にあらず也。其の他依頼すべき人へも其の通りの事ありては、 老兄の為に憂ふべき事と存じ候より、面上に申すべきと存じ候処、御留守故、令閨に申し置き候也。令閨の常癖にて、涙に和(あ)へる伝説ありしと存じ候。 ソコで老兄ノ肝にグッとサワリ(障り)候と見え候。面談に承れば、霞は此通の俗僧也。
 其の交際は此の通り也。(老兄も若キトモ言ふべからず、今の内に身世の計、御定めナケレバ、二如亭[柏木如亭の二の舞]と成ると存じ候憂ひ也。木俣の如く小野田の如く、 其の歓心を失はずドウゾ落著ヲ御謀り成らるべく候。彦根の籍を貫かず而、其の禄俸を収め時々入京、京人と云ふ事ニ成し置かれ候事、手礙なきか。 先づ僕ノ老兄の為の謀ハ此の通り也。)已に相ひ済み候事、言ふに足らぬ事を聞くと一咲[一笑]而して止む、それはそれでよけれども、外の信誼有り、恩意有り、 終身倚り頼むべきものの歓心を失はぬ様には成さるべく事と申候と、老兄もしれた事にても謹諾々々[「はい謹んで承知仕りました」]と云て済むべし。何分小生も、 是に因れば[反]省有り候。京儒餓鬼、田舎人に遇はば則ち聚まり而食を求むと云ふは信然也。独り拙生は則ち然らず。是は老兄も悉す(つくす:知悉)所也。霞僧の餌に掣(ひか)れて、 為此云々[此を云々と為す]などと仰せられ候は、悪口の甚しき也。拙もコレヲ肝ニサヱル[:堪へる?]日ニハ、グットサヱネバならぬ也。老兄も其の意でなきと云ふ事ハ、存じ居り候故、 何とも存ぜず候。
 末尾の「吾儘自許、子孫の計を顧みず」の一条ハ、拙の頂門に一鍼也。是は真の知己、我を憂ふるの語、猶ほ拙生の老兄を憂ふるごとき也。傍人より之を観れば、皆猿の尻咲と申すべきに候。 されども、咲(わらっ)た猿の言を、咲(わらは)れた猿は、敬受服膺致すべき事に候。併し老兄は一味懶惰のみ。僕は倨敖と云ふ大病あり。人の憎悪を取ること必ずや深からんと存じ候。 兄の所謂、交遊門人などの是に因りて離去するも少きに非ずと云ふ事は、気が付かず。亦其の誰某と為すも知らざる也。猶ほ御用捨て無く仰せ下さるべく候。「巻紙を費やすを厭ふ勿れ」也。
 僕よりも、交る内はヤハリ申し上げ候積り也。併し、令閨に向ふて説く事は、御戒めの通り、向後仕(し)まじく、一度ならず二度ならず、拙生も真に懲(ちょうひ:懲り慎む)を知らざる者と謂ふべき也。 畢寛、生の意は、老兄は懶性、世話になった先方へ一々状をヤルは出来まじ。ソコヲ夫婦共に知音になり居り候コソ幸なれ、令閨より一紙遣はされ、上封だけを老兄煩はせ候へば、 先方に得心する事也。独り一霞僧のみならず近き内世話になりし先なれば、其の通りに成され候へば、往きて世話にナラズとも、後来の為にもなる事と申じ候。是は僕家にも一例有りし事ゆゑ申し候也。 「婦人の言は聴かず」は御互に存じ知り居り候。併し是亦僕の「入らぬ左平治」也と、今にては存じ候。又々巻紙を費し候。是にて欄筆。
(天保二年)七月廿四日

 尚々、大定研を目にせぬを恨む。鼎を日中に一目もせざるも恨む也。二条磧納涼に、貴家へ御知らせ申すべき哉と存じ候処、浪華より未だ帰り為されず事と存じ、其の義に及ばず。 老兄物足りて相逢はざるも大恨也。○御立[替]の跡金下され、扨も老兄の朴実、頭に感涙仕候。彼の写字生滞留中の飯料未だ来らず、大事ナケレども、其れ約ナレバ、それなるべしと存じ候所、 何ぞ図らん、兄の御恵也。決して之を空しくはせず。近夕是れにてドコゾヘ駝[妻]を携へて一遊、対酌想ひを為すと申すべきに候。
兄、甘物を好むと云ふ、一物囉(貰?)ひ物には非ず也。買たる也。故に些ながら上し候。

 尚々、甌北詩の評、此間申し上げ候が如何、ドウシテモ蒋心余[蒋心餘]ヨキ様に存じ候。甌北[趙翼]も倉山[随園]ヨリハマシナリ。
「骨重神寒」と云ふ事あり。此の輩の病、皆重からず寒からずに坐す也、今此間と雖も、此の四字を下すべき者、兄の詩を除く外、僕未だ之を覩ざる也。自愛々々。

 文中「俗僧」にされた霞山は、土佐の画僧。頼山陽や浦上春琴に学び、美濃竹鼻の安楽寺に住むを以て星巌とは夙に深交ある由。 それゆゑ次のやうな「風法華=風来僧、風顛僧」なんて詩も成り立つ訳ですが、当時44歳で一応星巌の一年先輩なんですね(明治5年85才で入滅)。

 七月八日歸湖上寓、忽見霞山上人(日野霞山)至、厨無一物、聊吟鄙句、以充供

吟鞋歸蹋白鷗沙 仄徑穿林細綫斜 烏有田盧容老懶 漫呼寓止做吾家 入門未問竹尊者 飛錫已來風法華 且用甚麼供養了 笑拈吻角一技花

 七月八日、湖上の寓に帰る、忽ち霞山上人至られるも、厨に一物無く、聊か鄙句を吟じて以て供に充てり。

吟鞋帰り蹋(ふ)む白鴎沙。 仄徑、林を穿ちて細綫斜めなり。 烏んぞ田盧の老懶を容るる有らんや。 漫に寓止を呼びて吾家と做(な)す。 門に入りて未だ問はず竹尊者、  錫を飛ばして已に来る風法華。 且(まさ)に甚麼[何物]を用ゐんとして供養了する 笑って拈る、吻角の一技の花。

 そこで前の手紙、山陽の語る霞山をめぐってのお話がイマイチよく解らない訳であります。短気を起してパトロンの歓心を害するな、といふ山陽の老婆心切について、 どう「霞山の一条」が関係してゐるのでせう。検討課題です。

2009年1月18日up / 2009年1月28日update


【ノート12】彦根客寓 五山堂詩話補遺巻四をめぐって

 『五山堂詩話補 遺巻四』菊池五山著より。

 彦根、湖東第一の雄藩為り。蔚然たる文物、今日最と為す。其の京師に密邇するを以て墨客韵士来往に虚無し。[中]島棕隠・梁[川]星巌諸子の如き客寓日久し。 薫陶の資する所彬彬として人有り、大率(おおむね)着鞭は多く当路[要職者]の上に在り。臣室の慕ふ所、敦厚風を成し、 唐句に云ふ「化成りて風草を偃し道合して鼎梅を調す※」殆ど此を謂ふ也。今上下を通じて二十有一人を得る。(23丁) 「※奉和李相公早朝于中書候傳點偶書所懷奉呈門…中書相公:權コ輿の詩」

 梁星巌、近日家を挈て湖東に客寓す。隠然たる一敵国、我望みて之を畏る。星巌は即ち詩禅、初めの名は卯、字は伯兔。子成[頼山陽]の詩に云ふ、 「誰か知らん伯兔迷離の眼、却って蟾言の霊薬を窃んで来らんとは」。今、名を緯、字は公図と改め再び玉衡に還り、上って星緯に列す。文彩著はるは固より怪しむに足らず。  星巌、近業一冊を寄せ示す。今、状境最も切なる者を抄して以て小伝に代ふ・・・。(36-37丁)

 星巌の彦根逗留記事とともに載ってゐる「上下二十有一人」の人々は次の通り。姓を修して載せられてゐるので本当の苗字が判然としない人がゐます。

01:木俣 石香(名:易 字:子簡 別号:楽山)、朝鮮通信使から贈られた家宝を蔵する「石香齋」主人。録詩「春暁、社日所見、冬暁、湖上冬景」
02:小野田 簡齋(名:為典 字:舜卿 別号:赤松 通称:小一郎)、頼山陽書斎の記を書く。録詩「感懐寄某、芹水春望(4篇)、佳句」
03:宇津木 龍臺(名:泰交 字:子同)、平氏。祖父に(名:久徴 字:明卿)、父に宇津木昆岳(名:久純 字:徳卿、詩集『六松園集4巻』)あり。録詩「初夏郊行(2篇)、客中春尽(2篇)、午睡至晩、摘句」
04:宇津木 松濤(名:久寿 字:季山)、龍臺の弟。録詩「初夏雑興(2篇)、偶成」
05:宇津木 謙亭(名:泰和 字:貞卿)、龍臺の子。録詩「晩晴(2篇)、湖上晩帰、林亭夏日」
06:大林 荷坪(名:儀 字:子表)、龍臺の家来、五山に学ぶ。録詩「二色桃花(2篇)、湖村夕眺」
07:緑野長[長野?長田?長井? 緑野](名:業寿 字:子寧)、窮理を好む。録詩「秋日出游(2篇)、新雁、霜夜聞鴉」
08:脇 豊達[脇田?山脇?梅泉](名:豊達 字:子義)、太夫にして君子人。録詩「湖上冬暁(2篇)、春暁、初夏、
09:広 将行[広田?広川?広江? 濤堂](名:将行 字:子美)、家臣の最年少にして中島棕隠に師事。録詩「残菊、冬閨、楊妃教鸚鵡図」
10:藤 尭三[藤田?藤川? 求友](名:尭三 字:子卿)、太夫にして温藉。録詩「夜永(2篇)、冬暁」
11:藤 三盛[藤田?藤川? 竹溪]その弟(名:三盛 字:子成)、「緑筠書屋」主人。録詩「湖上秋日(2篇)、夏日、偶成(2篇)」
12:石蓮 新野春[新川? 石蓮](名:中規 字:野春? 別号:清来窩)、望族(名家)で隠栖して画を事とす。録詩「書懐(2篇)、溪居春事、春夜聴雨」
13:松平 石湖(名:康宗 字:朝卿)、源氏。詩才湖東第一。祖父に(名:康純 字:少卿、『寒松館遺稿10巻』)あり。録詩「秋日出游(2篇)、湖村晩興」
14:岡本 黄石(名:宣哲 字:文卿 通称半介)、録詩「夏日書懐(6篇)」
15:篠 成美(名:成美 字:天琛)、黄石の家僕。頴脱。録詩「山家秋夕」
16:木守位[木?木守? 翠芳](名:守位?位? 字:子仁)、許詢の癖(旅行癖)あり。録詩「和田嶺、不忍池観蓮」
17:犬塚 花月(名:正陽 字:子乾)、義侠心に富み、子仁とともに藩要職にあり。録詩「冬暁(2篇)、新涼(2篇)、題詩仙堂」
18:龍 雲樵(名:護 字:業夫)、龍草廬の孫。録詩「早発、新秋歩月、磨鍼嶺和詩仏韻、佳句」
19:西澤 莬山(名:崐 字:子玉)、江戸祗役の際に五山に詩をを問ふ。録詩「夏晩睡起(2篇)、酒瓢(2篇)」
20:横田 蕉齋(名:敏 字:敬徳)、録詩「首夏林居(2篇)、新荷(2篇)」
21:太田 松窩(名:寛堯 字:子文)録詩「春草(2篇)、雪声(2篇)」
22:澁谷 勉齋(名:昭 字:叔明)、医師。谷如意の父。録詩「春雪映早梅(排律2篇)、月餅(2篇)」
23:西山 梅原(名:篤雅 字:子正)録詩、医師。「湖上晩晴(2篇)、雪景(2篇)」
24:そして星巌自身の処女詩集『征西詩』から「感懐(2篇)、松原寓居雜題(4篇)、摘句、食湖魚膾歌(食鯉魚膾有懷如亭山人)」と、
25:妻紅蘭の作品「夏夕(3篇)、題自画芳草蝶飛図」および女弟子として
26:河田千枝(字素影号秋香)といふ女性の作品「晩秋所見」と星巌の贈る詩1篇が挙げられてゐます。

 全部で26人の筈ですが、21人とはどういふ計算してるんでせう。親族と家来はおまけとして勘定したものでせうか。 星巌によって数奇な運命に引きずり込まれてゆく岡本黄石も、やうやくここで門下の精鋭に先駆けて登場、 『星巌集』に於いても丙集巻6(天保元年10月〜天保3年9月)「雪夜讀書到五更有懷黄石君」に最初に名前が挙がってゐます。星巌夫妻が彦根にやってきた当時、弱冠20歳の青年でした。 因みに後の錚々たる門人達の名が『星巌集』の詩篇タイトルに読み込まれた最初を掲げます。

大槻磐溪が『星巌丙集』巻9(天保4年7月〜天保5年2月)「悼亡二首代大槻士廣」に、
嶺田楓江が『星巌丁集』巻1(天保5年11月〜天保6年8月)「和嶺田士徳夏日濶r三首、戲倣其體」に、
大沼枕山が『星巌丁集』巻4(天保8年4月〜天保8年12月)「不忍池觀蓮同大沼子壽」に、
遠山雲如と小野湖山が『星巌丁集』巻5(天保9年1月〜天保10年5月)「以滿城風雨近重陽爲首句、同遠山雲如、横山子達(湖山)賦」に、
竹内雲濤が『星巌丁集』巻5(天保9年1月〜天保10年5月)「牡丹芽 二首 (竹内九萬宅席上掲題)」に、
鱸松塘が『星巌戊集』巻2(天保12年3月〜天保12年7月)「讀鈴木彦之松塘集題二律」
森春濤や伊藤聴秋に至っては生前刊行の『星巌集』の中にはみつかりません。後に大沼枕山は「弟子で一番詩が良いのは岡本黄石」と語った師に失望して以後、 政治に関ってゆく星巌を先生と呼ばなくなるのですが、岡本黄石は要路の人であっただけでなく、けだし仲間内でも一番最初期の兄弟子ではある訳です。

さてこの内容に呼応して、後日星巌のもとに送られてきた五山の手紙があります。裏事情を語ってゐるものでよく分らぬところもあるのですが、面白いので掲げてみます。

 【菊池五山書翰】(梁川星巌宛 天保4年12月6日)

厳寒堪へ難くも益々御清勝御座成され慶賀奉り候。兎角御疎潤、いづれ春来緩々(ゆるゆる)拝晤を相楽しみ申し候。さて唐突に如何敷く存じ奉り候へども、宮眭より別紙の通り申し来し候に付き、 思し召し恐れ入り候へども御相談旁々内々に申し上げ候。御十分に思し召しの処を、腹蔵無く仰せ下さるべく候。ヤハリ棟向迄御返事御差出し下さるべく候、願ひ上げ奉り候、頓首。
  (天保四年)極月(12月)六日

「詩話」御入録、最初より厚く御世話下さり、千々萬々拝謝奉り候。昨冬御出府、仰せ下さり候通り、御在府の諸彦ヲ除キ、都合十金御恵投下さるべく趣にて、 右の内五金御廻し下され、犬塚様より慥かに落手仕り候。残り五金は当春まで御沙汰も之なく、会前いろいろ困り候事これ有り候間、右御出府は趣[行]以て宮[貝圭]へ御頼み申し候。 五金借用仕り候。委細御子■■様と存じ奉り候。右残り五金の内、梅泉大夫より一円[1両]、私方へ四月ごろ直ニ遣はせ候に付き、四両に相 成候間、則ち今日[この手紙を]差上申し候。[借金をしてゐる]宮眭子■の趣[要求]に存じ奉り候。此の所、御相談申上げ候様は、右十金の外、追って遣はされ候分、 御入銀いまだ参り申さず候。是[代金]も何卒、宮眭へ差向け候様に仕り度く存じ奉り候。[貴方からの]思召の段[については確かに]伺ひ上し奉り候。思召に叶ひ申さず候はば、 私より相ひ弁じ候様とも存じ奉り候。鄙布之様[弊衣貧乏の様?]くれぐれも赧乃口[赧顔の至?]と申すべきに候。一円只今差出し候にも困り、上え申上げ候。
 渋谷 弐方[南鐐二朱銀二枚]
 龍文学 壱方[同一枚]
 星巌先生 壱方
 紅蘭先生 壱方
右の通、御取計ひも下され候へば、萬瑞相済む候次第に御座候。末の[紅蘭様の]一方[代金]は、御宅中[二人分で]御迷惑に成り候へば、私より夫(それ)だけ補遺[おまけ]し申すべく候。 渋・龍二君は、究助[救助?]仰せ下さる候事ゆへ、試みに[一応]申し上げ候。くれぐれも、御懇志中に隔意無く、何事も仰せ下さるべく候。

星巌先生 極内用事

  桐孫

p6

 宮眭といふのは金貸でせうか。この手紙は星巌の江戸出府を「昨冬」のこととしてゐますから、天保4年のものには相違ない、 「詩話補遺巻四」が刊行されたのは天保2年と揖斐高先生は著書に於いて考証されてゐますので、前に掲げた「補遺巻四」が出でて二年後、未だ掲載料の支払ひが滞ってゐたこととなり、 如何にも遅いことのやうに感じられます。最終巻である「補遺巻五」が既に天保3年に出てゐるとすれば、なほのことです。天保3年の年頭には菊池五山に新春挨拶の詩を贈ってゐますが、 それはおそらく「補遺巻四」の刊行に纏はり御礼の意味も込めてのことだったと思ひます。さうして「詩話御入録、最初より厚く御世話」した星巌に対してもちゃっかり代金を請求してゐる、 「ま、奥方の分は『補遺』しとくから頼んだよ。」なんて洒落まで云へる間柄だったやうです。

 この『五山堂詩話』ですが、刊行年についてよくわかりません。私の所蔵する巻9と、補遺1、2の3冊分の合冊は、刷版が綺麗で、断ち寸がバラバラ。 明らかに1巻づつ単冊で刊行された初刷版らしい気配があるのですが、綴ぢに使用してある裏表紙は、3冊のどれとも寸法が合はず、刊年記載がなく「五山堂詩話補遺嗣出」と刷ってあります。 これは失はれた巻10の末に付せられたものなのでせうか。もしさうなら中身だけ失はれて表紙が残った理由が不明ですが、 関西大学図書館に所蔵されてゐるらしい初刷り元版によれば10巻が完結したのは文政13年のことのやうです。すなはち書誌は、関西大学図書館蔵書では

江戸 : 鶴屋金助 : 西村源六
大坂 : 泉本八兵衞, 文化4.2[1807]-文化13.1[1814][刊] 
巻3以降のその他の出版者: 山城屋佐兵衛(江戸), 植村藤右衛門(京都), 塩屋長兵衛(大坂)
となってゐます。

p7

合冊の奥付はさきに申したごとく、刊年不記載で「五山堂詩話補遺嗣出」と刷ってあり、
江戸 : 鶴屋金助   
その他の出版者:植村藤右衛門(京都), 塩屋長兵衛(大坂) となってゐます。手許には別に、後刷と思はれる補遺もありますが、 こちらの最終巻「補遺5」の末尾は「文政七年甲申購板 江戸書林 玉山堂 山城屋佐兵衛」となってゐます。この山城屋佐兵衛(玉山堂)といふのは、他の大学の所蔵情報には必ず表れてくる、 謂はば板木を買ひ取って補遺ともども刊行を始めた最後の元締めと思しい本屋さんなのですが、関西大学所蔵の単冊本の書誌に「巻3以降のその他の出版者」として名前が上がってゐるといふことは、 巻4以降にも必ず山城屋佐兵衛の名前が上がってゐなければならない筈ですが、私の「五山堂詩話補遺嗣出」版の奥付にはその名はない。どういふ訳なのでせう。 ちなみに『詞華集日本漢詩』の影印は、補遺の表紙は「文政五年新鐫」であるのに、巻五末尾の奥付は「文政七年甲申購板」です。
 初刷本に奥付があるなら一冊づつ確かめてみればはっきりすることでせう。私の所蔵する「巻9、補遺1、2」の合冊ですが、もしかしたら文政7年に板を売り渡した鶴屋金助が、 補遺巻2までの売れ残りを適当に綴ぢて売り払った所謂「ゾッキ本」の類ひである可能性もあるかもしれません。

【後日談】 関西大学図書館に視察見学の機会がありましたので、この初刷り元版と思しい10冊の奥付を写真に収めて帰らうと思ったのですが、手続きは当日願ひ出ても駄目で、 レファレンスについても、訊ねることのできる範囲を超えてゐる由。諦めました(2009.10.19)。

 さて、彦根の田舎暮らしに歉らず、江戸への志といふものが蔚然と高まって参ります。火をつけたのが彦根に来游した頼山陽なのか、 迎へた星巌なのかどっちか分かりませんけれども、この天保三年を以て、しかし山陽は病歿して事成らず、彼を置いて上京した星巌の運命は以後、大きく転回してゆきます。

2009年1月28日update 2013.2.5update

【ノート13】へ続きます


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