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長戸得齋(1802 享和2年 〜 1854 安政元年)
墓碑銘 (東中野の功運寺にあり、現在三浦霊園に移転。)
(正面) 得齋長戸先生墓
(側面) 長戸士譲墓碣銘
予少時盍簪以爲講習之朋者数輩、今既歴三十年則率皆分離凋謝而存者落落若晨星。
毎相会輙叙旧談往、悲歓交集、士譲亦其人也。而今遽聞訃音且驚且歎、實安政元年十月二十一日也。
嗣子謙既克襄事、詳録其状来泣曰、先人久在門下蒙冞遇、敢請一言以題其墓。
按状加納文学長戸氏諱譲、士譲其字、号得齋。曽祖諱恭忠、始仕永井氏。祖諱意清無子、養郡上藩士小林武助第三子副恭為嗣、娶井上氏生士譲於加納城中。
士譲七歳喪父、與母氏及一姊居家太貧、既而姊適尾藩士安藤正修。
士譲齢十三、始就仕途、母氏亦歾、孤煢益寠、文政二年命移于江戸邸。
一日慨然曰丈夫立志読書方在少壮時、而区区賤役安得成志業乎遂固辞仕、遊於尾藩冢田氏之門、既而厭其学之不純、来江戸寓昌平黌、後又入吾快烈之門、親受一齋佐藤翁薫炙、学弥進名声頗彰。
本藩加納侯再挙為儒員厚貽俸禄、時齢三十有一、於是下帷於城東築地、従遊者日進履衆盈門、諸藩亦延請聴講、業頗劇而性澹宕、有暇則吟花酔月、与朋好文酒歓会相娯焉。然以其夙失怙恃也常不勝風樹之感屡抵美濃掃先壟。
又有煙霞癖、名山勝区足跡殆遍、毎遊必有記及詩翩翩皆可誦、所著得齋詩文鈔、北道遊簿已上梓、遊奥志、詩文遺草若干巻存于家。
初娶林氏、後配野中氏、得二男一女長子謙承家伝業、次子泱寓吾家塾、女未笄皆林氏出也。距生享和二年壬戌六月三日齢五十有三。葬城南三田村功運寺域、追称懐懿。
予曩欲銘墓、官事鞅掌、宿諾三年爰値大祥。因叙概略係以銘、銘曰
其学也純而不雑、其行也謙而冲和。其発為詩為文也平淡而彩華。徜徉山水、吟詠月花、其平素所養亦可嘉也夫
安政三年歳次丙辰十月二十一日従五位下大学頭林韑撰文
門人関研書
不肖謙立石
【訓読】
(正面) 得齋長戸先生の墓
(側面) 長戸士譲 墓碣銘
予の少(わか)き時、盍簪以て講習を爲すの朋者数輩も、今既に歴ること三十年、則ち率ね皆な分離凋謝し、而して存する者は落落として晨星の若し。
毎(つね)に相ひ会へば輙ち旧を叙し往を談じて、悲歓交(こもご)も集る。
士譲は亦た其の人也。而して今、遽かに訃音を聞き、且つ驚き且つ歎く。實に安政元年十月二十一日也。
嗣子の謙、既に克く襄事(※葬儀をすま)し、其の状を詳録して来りて泣いて曰く、
先人は久しく門下に在りて冞遇(※高誼)を蒙る、敢へて一言を請ひて以て其の墓に題せんと。
按状す。加納文学、長戸氏、諱は譲、士譲は其の字、得齋と号す。曽祖の諱は恭忠、始めて永井氏に仕ふ。祖の諱は意清、子無く、郡上藩士小林武助の第三子副恭を養して嗣と為す。井上氏を娶り士譲を加納城中に生む。
士譲、七歳にして父を喪ひ、母氏及び一姉と與に居家して太だ貧、既にして(※やがて)姉、尾藩士安藤正修に適(ゆ)く。
士譲、齢十三、始めて仕途に就く。母氏亦た歾(※死)し、孤煢益(ますま)す寠(やつ)る、文政二年、命ぜられて江戸邸に移る。
一日慨然として曰く、丈夫の立志読書は方に少壮の時に在るべし。而して区区たる賤役、安んぞ志業を成すこと得んやと。遂に仕を固辞し、尾藩冢田氏の門に遊ぶ。既にして其の学の不純を厭ひ、江戸に来り昌平黌に寓し、後また吾が快烈の門に入り、親しく一齋佐藤翁の薫炙を受く。学、弥(いよい)よ進み、名声、頗る彰(あらは)る。
本藩の加納侯、再び挙げて儒員と為し厚く俸禄を貽(おく)る。時に齢三十有一、是に於いて城東築地に下帷(※開塾)す。従遊する者、日(ひび)履を進め衆、門に盈つ。
諸藩亦た延いて聴講を請ふ、業は頗る劇しく而して性は澹宕、暇有らば則ち吟花酔月、朋と与に文酒を好みて歓会、相ひ娯しむ。
然れども其の夙く怙恃を失ふを以て、也(ま)た常に風樹の感(※孝行の念)に勝へず、屡(しばし)ば美濃に抵(いた)り先壟(※墓地)を掃く。
又た煙霞の癖(※旅行好き)有り、名山勝区、足跡殆ど遍く、遊ぶ毎に必ず記及び詩有り、翩翩として皆な誦すべし。
著す所『得齋詩文鈔』『北道遊簿』已に上梓し、『遊奥志(※二巻、所在不明)』、詩文遺草の若干巻、家に存す。
初め林氏を娶り、後に野中氏を配す。二男一女を得、長子謙、家伝の業を承け、次子泱、吾が家塾に寓す。女、未だ笄せざる皆は林氏の出なり。
享和二年壬戌六月三日に生れを距ちて、齢五十有三。城南三田村功運寺の域に葬る、追称して懿(※懿徳)を懐ふ。
*泱・・・・得齋次男、名は泱、号は東海。長殤す。
*皆・・・・小諸藩に仕え、女祐筆(書記)となる。明治大正期に産婆となる。
予、曩(さき)に墓に銘せんと欲するも、官事鞅掌(※多忙)にして、諾を宿(とど)むること三年、爰に大祥(※25ヵ月祭)に値(あ)ふ。
因って概略を叙して以て銘に係る、銘に曰く。
其の学や純。而して雑なし、其の行や謙。而して冲和(※沖和の気)。其の発して詩と為り文と為るや平淡。而して彩華。山水に徜徉し月花に吟詠す。其の平素養ふ所、また嘉すべき也。
安政三年、歳次丙辰十月二十一日、従五位下、大学頭、林韑(※林復齋:林述齋四男1801-1859)、撰文す。
門人、関研(※関藍梁)書す。
不肖謙、石を立つ。
まくり (2009年07月入手)
宮商一曲入空傳
細聴非関管与絃
忽似波濤来捲地
又如環佩去朝天
山人多師紅塵外
野鶴栖寒皎月前
最是清宵堪愛處
茗煙相和鼎吹煙
松聲 得齋長戸譲
宮商一曲、入りて空しく伝ふ
細かく聴けば関するにあらず、管と絃とに
忽ち波濤の似(ごと)く地を捲いて来り
また環佩の如く天に朝して(※拝謁して)去る
山人は師多し、紅塵の外
野鶴は寒きに栖む、皎月の前
最も是れ、清宵愛するに堪ふ処
茗煙(※茶を沸かす煙)相ひ和して鼎、煙を吹かん
(※宮・商・爵・子・羽:中国の5音階)
松聲 得齋長戸譲
長戸得齋 『得齋詩文鈔』
1852 嘉永5年 全3冊
本文は早稲田大学蔵公開データを参照のこと。
【一】
表紙 見返し
得齋詩文鈔序 1 2 3 4
詩文之於道。雖小技而非有所自得。則不能陶冩性情。以發諸翰墨也。若其徒粛依仿古人。未能脱窠臼者。曷足与語之哉。然士之處世。或翺翔乎廟廊之上。或考槃乎溪山之間。其遭遇個不同。而所自得亦各異。於是體有臺閣有山林。勢使然也。加納藩文學長戸士讓頃日携所著得齋詩文抄本見示。且請之序。其文暢達而和平。其詩閑雅而流麗。得皆従自得中流出。率類所山林之體。即士讓身在士籍。志存山水故然歟。方今操觚之士。刻詩文亦多闘靡競新。或冠誌評於簡端。沾々自好。殊可咲耳。特此編不褻其例。自謂臧否付之閲者之公論。是則可嘉也。士讓學於吾快烈之門。為亡兄檉宇所奨誘。予亦花晨月夕文酒相娯。殆為丗載之交。士讓下帷城東。筑洲有年。問奇者履接踵而猶自脩業不倦。其長進不可涯涘。而今此編之行。讀者皆可以窺其才學矣。士讓曩刻北道游簿。請亡兄而叙之。今則邈然不可獲。人生存没之感。為何如哉。故予弁一言。不啻交之故。其亦尋亡兄之意者也夫。
嘉永壬子歳六月下澣 藕潢林韑題 月堂柳原成書
『得齋詩文鈔』の序 (※林復齋1801*-1859)
詩文の道に於ける、小技と雖も、自得する所に有らざれば、則ち性情を陶冩し、以て諸(これ)を翰墨に發すること能はざる也。
若し其れ徒らに粛(きび)しく古人に仿(倣)ふに依れば、未だ窠臼を脱する能はざる者。曷(なん)ぞ与(とも)に之を語るに足らん哉。
然るに士の世に處する、或は廟廊の上に翺翔し、或は溪山の間に考槃す。
其の個(※個々)に遭遇するは同じからず。而して自得する所もまた各(おのおの)異なれり。
是に於いて、體は臺閣に有るも山林に有るも、勢ひ然らしむる也。
加納藩の文學、長戸士讓。頃日著す所の『得齋詩文』の抄本を携所へ示さり、且つ之の序を請ふ。
其の文、暢達而して和平。其の詩、閑雅而して流麗。皆な自得中より流出するを得て、率(おほむ)ね類する所は山林の體なり。即ち士讓の身は士籍に在るも、志は山水に存する故に然らんか。
方今の操觚の士、詩文を刻する、亦た多く靡(※贅)を闘はせ新を競ふ。或は冠に簡端に評を誌し、沾々として自ら好くす。殊に咲(わら)ふ可きのみ。
特(ひと)り此編は其の例を褻(けが)れず。自ら臧否(※善悪)を謂ふに、之を閲者の公論に付す。是れ則ち嘉すべき也。
士讓、吾が快烈の門(※林述齋)に學び、亡兄檉宇(※林檉宇1793-1847)の奨誘する所と為る。予また花晨月夕、文酒相娯しむこと、殆んど丗載の交を為す。
士讓、城東筑洲(※築地)に下帷して年有り。奇を問ふ者、履(はきもの)踵を接し、而して猶ほ自ら業を脩むること倦まざるごとし。其の長進は涯涘(※際限)あるべからず。
而して今、此の編の行。讀者皆な以て其の才學を窺ふべし。士讓、曩(さき)に『北道游簿』を刻し、亡兄に請ひて之に叙せしむ。今は則ち邈然として獲るべからず。人生存没の感、何如に為すかな。故に予、一言を弁ず。啻に交りの故のみならず、其れ亦た亡兄の意を尋(つ)ぐ者也とせんか。
嘉永壬子歳(※五年)六月下澣(※下旬)
藕潢 林韑 題す 月堂 柳原成 書す
得齋詩文鈔敘 1 2 3 4
余弱冠入昌平黌。得交天下俊髦之士。而長戸君士讓。才學文章。表表乎儕輩中。士讓不暇棄余。締交尤親。マ夕切磋。時亦取天下古今成敗得失。反覆辨論。未嘗不發憤慷慨也。數年士讓遊四方。余亦漫遊而還。受業於一齋佐藤先生。因登快烈林公之門。則士讓已在其門。俱入百之寮。亦復同窓切劘。心交更鞏。既而士讓業成。下帷於築地街。而余謬為師門都講。住林公邸内。是時師門老宿。先後凋謝。具存者落落如晨星。而士讓以後進之秀。往来幾無虚月。相與商確経史。縦論劇談。未甞不與昔年同也。何其締交之愈久而愈深也。士讓詩文極冨。近者抽其数百篇。釐為三卷。曰得齋詩文鈔。将以攻梓。而属余介其首。余一讀。乃益嘉其才捷學博。駸駸乎進而不已也。昔人有言。非憤無以成其志。非志無以洩其憤。故有志之士。必先跋渉四方。困心衡慮。勞筋骨。餓體膚。以發其憤。而壮其氣。然後學可以成焉。士讓加納人。少時登仕籍。一日慨然曰。有志之士。何以此簿書為。乃固請辭仕。負笈求師。間關於京攝勢尾之間。而後来江都。時又跋渉四方。幽邃遐僻之境。恠奇絶特之觀。悉莫不探討焉。想其祁寒暑雨。困頓流離。千辛萬艱。必有不堪者矣。乃與其胸中之奇相觸。激昂感憤。蘊蓄已久。發為文詩。則風月窈窕。霜露悽愴。憂樂愉戚。洋洋滔滔。溢於楮墨間者。不亦為宐乎。迨士讓住都。再仕藩為儒官。學益進。業益廣。挟策請教者。屨滿戸外。藻壇赤幟。屹然已樹矣。而思其所以成之者。未甞非發憤立志。慨然跋渉四方之所致也。余亦好游者。四方山川之奇。頗捜討焉。然不能及士讓足跡之半。是其所以不能無愧於士讓也。士讓有游記数部。甞鍥其北道遊簿。余既序之。則今日介首之屬。亦豈有可辭耶。因舉其締交之由。與其所以成業者。書之簡端。若其措辭之巧。布字之精。則曷俟余揄揚也哉。
嘉永五年歳次壬子季夏 藻海 河田興 撰
『得齋詩文鈔』敘 (※河田迪齋1806-1859)
余、弱冠にして昌平黌に入る。交りを天下俊髦の士に得る。而して長戸君士讓。才學文章、儕輩中に表表乎たり。士讓、余を棄てる暇あらず、締交、尤も親し。マ夕切磋し、時にまた天下古今の成敗得失を取りて反覆辨論、未だ嘗て發憤慷慨せざることなき也。
數年、士讓四方に遊ぶ。余もまた漫遊して還り、一齋佐藤先生に受業す。因って快烈林公(林述齋)の門に登れば、則ち士讓すでに其の門に在り。俱に百之寮(※佐藤一齋)に入り、亦た復た同窓切劘、心交、更に鞏(かた)し。
既にして(やがて)士讓業成り、築地街に下帷す。而して余は謬って師門の都講と為り、林公の邸内に住まふ。是の時、師門の老宿、先後して凋謝、具存する者も落落として晨星の如し。而して士讓、後進の秀なるを以て、往来幾たび、虚月なく、相ひ與に経史を商確し、縦論劇談す。未だ甞て昔年と同じならざるはあらざる也。何ぞ其の締交の愈よ久く而して愈よ深からんや。
士讓の詩文、極めて冨む。近者、其の数百篇を抽き釐(おさ)めて三卷と為し、『得齋詩文鈔』と曰ふ。将に攻めて以て梓し、而して余に属するに其首に介させんとす。余一讀すれば、乃ち益(ますま)す其の才の捷く、學の博きを嘉みす。駸駸乎として進み而して已まざる也。
昔人に言有り、憤り非ずんば以て其の志成ること無し。志非ずんば以て其れ憤り洩すこと無しと。故に有志の士は、必ず先づ四方を跋渉し、心を苦しめ衡(かんが)へて慮り、筋骨を勞して、體膚を餓えさす。以て其の憤を發せしめ、而して其の氣を壮んにし、然る後に學は以て成るべしと。
士讓は加納の人。少時、仕籍に登る。一日慨然として曰く、有志の士、何ぞ此の簿書を以て為さんと。乃ち固く辭仕を請ひ、笈を負ひて師を求む。京攝勢尾の間を間關(※流離)し、而して後、江都に来る。時に又た四方を跋渉す。幽邃遐僻の境。恠奇絶特の觀。悉く探討せざるは莫し。其の祁寒暑雨、困頓流離、千辛萬艱を想へば、必ず堪へざる者有らん。乃ち其胸中の奇と相ひ觸れて、激昂感憤。蘊蓄已に久しく、發して文詩と為れば、則ち風月窈窕、霜露悽愴、憂樂愉戚、洋洋滔滔として、楮墨の間に溢る者、亦た宜しきと為さずや。士讓、都に住むに迨(いた)りて、再び藩に仕へ儒官と為る。學益(ますま)す進み、業益す廣し。策を挟みて教へを請ふ者、屨(※履物)戸外に滿ち、藻壇(※詩壇)の赤幟、屹然として已に樹(た)つ。而して其の以て成す所の者を思ふに、未だ甞て立志を發憤せずんばあらず。慨然として四方の所致を跋渉する也。余も亦た游ぶを好む者にして、四方山川の奇。頗る捜討す。然れども士讓の足跡の半ばにも及ぶ能はず。是れ其の士讓に愧づる無きこと能はざる所以(ゆえん)也。士讓に游記数部有り。甞て其の『北道遊簿』を鍥(※刻)す。余、既に之に序せり。則ち今日介首の屬、亦た豈に辭すべく有らんや。因って其の締交の由を舉げ、其の業を成す者の所以と與に、之を簡端に書しす。其の措辭の巧も、布字の精の若きは、則ち曷ぞ余の揄揚するを俟たんや。
嘉永五年歳次壬子季夏(六月)
藻海 河田興 撰す
『得齋詩文鈔』目次 1
2
詩
五六七言絶句 合 二百三十七首
五七言律及五言排律 合 百四十首
五七言古詩及詩餘 合 三十三首
通計四百首
文
序 十首
記 十一首
論 二首
墓銘 四首
題跋雑文 合 九首
通計三十六首
『得齋詩文鈔』巻一 加納 長戸士譲
詩
古風二首
本邦十一物詠。檉宇林公の原押に次す。
秋柳
帰雁
閑中富貴。原潜玉の韻に次す。
将に江都を発せんとす。口占。
筥根(箱根)関を過ぐる作。
尾州沓掛に伊藤民卿を訪ふ。
帰郷有感。
将に郷江都を発せんとす。口占二首。(此の行、飛[騨]加[賀]二越[越中越後]より奥州を歴て江都に入る。『北道游簿』二巻を著し、以て游迹の概ねを紀す。又、詩七十首を得るも『游簿』既に刊行さる。 今乃ち詩若干首を抄出す。)
掃展先塋住數旬。貂裘敝盡帶緇塵。十年未遂平生志。跼蹐乾坤奈此身。
東奔西走幾冬春。久慣浮萍斷梗身。負郭無田歸亦客。不妨重作遠遊人。
先塋を掃展して數旬住む。貂裘敝れ盡し帶は緇塵。十年未だ遂げず平生の志。乾坤に跼蹐して此の身を奈(いか)んせん。
東奔西走、幾冬春。久しく慣るる浮萍斷梗の身。負郭に田無く歸れば亦た客たり。妨げず、重ねて遠遊の人と作るに。
上内(こうづち)の村瀬士錦に贈る。
赭圻蒼壁欝成環。中有騒人掩草關。日夕唯親賢聖籍。匹如蘇子在眉山。
赭圻(しゃき:赤い境)蒼壁、欝として環を成す。中に騒人(※詩人)の草關を掩へる有り。日夕唯だ賢聖の籍に親しむ。匹如たり(※類したり)蘇子[蘇軾]の眉山に在るに。
上内を発する。途上の作。
飛州の山路所見。
高山。
少林寺橋を過ぐ。
白糸瀑。
荒木川上に河伯宮(※荒城神社)に謁す。
藤橋。高原川に架かる。長さ三十六丈。濶さ三尺。一の橛(杭)も用ゐず。呉船録(※范成大の紀行文)の載せる所縄橋とともに相類す。險甚だしく、余、度(わた)る能はず。
斫石(わりいし)
籠渡(かごのわたし)。飛越二州の界。牛崎河の上に設ける。其の制、巨木を立て亘すに大縄を以てす。長さ十六、七丈。人を藤蔓の籠に盛りて以て之に駕す。両岸人有りて相ひ汲引し、之を游動往来せしむ。詳細は余の著す所の游簿の中に載す。
富山客舎。立山の游を図る。主人云ふ。此の山は八月以後、風雹ときに発す。変は測るべからず。故に嶽霊に香火する者は七月中を以て限りと為す。其の餘は則ち廟祝(※神主)人を路に要し、深く濫りに陟(のぼ)るを誡めると。余、之の為に惘然(※呆れる)たり。乃ち此を賦して憾みを志(しる)す。
富山に加藤士武を訪ふ。既にして(※やがて)大野子文、来たり会す。
神通川の浮梁。
栗柯(くりから)嶺を踰ゆ。木曽宣公(※源義仲)を懐ふ有り。
金澤城下の作。
金澤に毛受伯亀を訪ふ。
不知親(をやしらず)
能生(のう)驛、海を望みて太だ壮なり。
桃川、佐渡を海を隔てて望む。(原と二、一を録す。)
林泉寺に上杉霜臺公(※上杉謙信)の遺像を拝睹す。遂に春日山の古墟に登る。
福島古城趾。
長浜道中。
有間川。
長岡より舟を買ひ、科野川(※信濃川)を下る。
新潟。
新潟に巻菱湖翁に見(まみ)ゆ。余、今夏菱湖と江都に相ひ別れ、意はず此に相ひ逢ふ。同(とも)に市楼に飲む。
寶川道中。
磐梯山を望む。
束松嶺(たばねまつ)。
稚松城(※若松城)東、天寧温泉に浴す。
白川(※白河の関)。
旅中雑詠。(原と三、一を録す。)
陳希夷の長睡図に題す。
有年。
松を咏む。
竹を咏む。
落花を咏む。(原と三十、二十を録す。)
江都を発す。口占。(此の行、奧の松島金華山に游ぶ。而して往来道を異にす。『游奧志』二巻を著し、また詩六十餘首を得る。今、乃ち二十餘首を鈔出す。)
木卸(※木下きおろし)、船を買ひ利根川を下る。
舟、神崎(こうさき)に抵る。二首。
香取。
利根川新田。畫(※区画)水中に在り、早生みな熟す。村人舟を泛べて之を穫る。
潮来二首。
鹿島。
水戸城下の作。
西山に義公(※水戸光圀)の兎裘(※隠棲)の遺迹を観る。竦然として感じて賦す。
神岡に至る。土人、嘖嘖と平潟の勝(※勝地)なるを説く。乃ち路を枉げて一過す。果たして聞く所に爽(たが)はず。此を喜びて志す。
黒浦以東、塩田相ひ望む。
磐城に松本士賢を訪ふ。
仙臺に大槻平泉先生に謁す。
瑞鳳寺に古梁禪師(※南山古梁)を訪ふ。
宮城野を過ぐ。
櫻田九徳(※櫻田膽齋)の聚勝園に題す。
千賀浦(※千賀ノ浦)。
松島舟中。
御島。
富山。
金華山。
仙臺を発す。景田可久(※影田蘭山)の送るに郭門の外に至り、別れを叙す。
瀬上驛。
恭しく晃山(※日光山)の閟宮(※霊廟)を拝す。
大堤村に熊澤蕃山の墓を謁す。
松聲。
櫻。
春日、富嶽を望む。
一齋佐藤先生と同に冠山老侯(※池田定常)の鱺皐隠栖に倍す。(※韻を)分けて「尤」を得る。
本藩に帰仕。喜びを志す。
源将軍(※源義家)の勿来の関に落花を咏むの図に題す。
荷銭(※蓮)。
科斗(※おたまじゃくし)。
新築、事を書す。
高槻侯の世子、譲を徴(め)す。講書の嘱有り。此を賦して以て左右に呈す。
穀日(※吉日)、檉宇林公の翡蘭軒の席上。「春風微和を扇ぐ(※陶淵明「擬古」)」を分かつ六韵。
爐を置き、梅を養ふ。二首。
畫竹。二首。
春烟。
檉宇林公に陪して谷口別墅に游び、海棠花を賞す。分けて「麻」を得る。
春晩。
春牛。
春睡。
菊を咏む。一關侯大夫夫人五十誕辰を祝す。
秋琴。
秋帘(※酒旗)。
水藩老臣藤田君(※藤田東湖)の楼、江滸に在り。参議公臨まる。國歌一章を賜ふ。君、詩を賦して恩を謝す。乃ち其の韻に次して以て贈る。
牛蠱(※丑の刻参り)行。
李白の図。
杜甫の図。
寒村の梅綻ぶ。
盆梅。
温石を咏む。
美人臥病の図に題す。二首。
富嶽図。
仙臺の宗室(※本家)石川君の男を挙げるを祝ひ奉る。
秋元厚載(※秋元甲山)の春星堂の席上。
東台(※寛永寺)大慈院の盛集。牡丹を賞す。養玉院主の韵に次す。
山田士栗の唐津城に省親するを送る。
隣家の竹を咏む。
漁楽図に題す。
凶荒。
松間の月。
仲秋後の二夕。梅簷依田公の玉壺楼席上。陳簡齋「秋夜」の韵を用ふ。同に賦す。
藕を踏む(※蓮根収穫)。
雪龕、経を誦す図。
雪屋、句を求む図。
春雪、韓文公の韵を用ふ。
本藩の世子の講筵に侍す。既にして園地に獲る所の魚を割いて宴に賜ふ。即ち賦す。
藕潢林公(※林復齋)清集に陪す。分かちて「尤」を得る。
溪山春雨図に題す。(以下三首。飯田侯の世子の嘱に応ず。)
楠公、讖文(※天王寺未來記)を読む図に題す。
秋夕雨晴。
将に美濃に帰墓せんとして江都を発す。口占。
福島、武井禮甫を訪ふ。
郷に還る。
井上氏の招飲。
松波大本の晩翠館の招集。
藤田子楽、三宅廣業、同徳夫、佐藤如玉、相謀り、余を玉吟松園に邀へて飲む。
松本侯、先の世に加納城を治む。時に梁田蛻巌仕へて教職と為るも、志を得ずして去り、明石侯に事(つか)ふ。其の宅の趾なほ存す。悵然として感じて賦す。
加納城の西清村。孔道の衝に當る。昔、一大古松有り。数畝を蔭にして、行人佇みて賞す。呼んで曰く「徂来松(ゆききのまつ)」と。松本侯の先世、加納より封を移しての後、其の藩宰の某氏の隷、川井次兵衛安重なる者、國歌一章を咏み、以て遠想の意を述ぶ。歌詞は儁永、辱(かたじけな)くも九重に徹し、特に御賞を加ふ。是に於いて徂来之松の名、一時世に噪がし。縉紳諸家の寄詠太だ多し。近歳、松、雷火を経て枯死す。余の幼時、諸(これ)を故老に聞く。乃ち今、此の地を経て感なきに能はず。(安重國歌に曰く「明け暮れにながめし松をふるさとの人のゆききの便りにぞきく」。) 因に賦す二首。
岐阜懐古。二首。
篠山璋峰公子、出でて同族の郡上侯の後を嗣ぐ。譲、侍講すること年有り。此を賦して恭賀す。
静妓(※静御前)の図に題す。
佐々木、柁原の二将(※佐々木高綱・梶原景季)、菟道河の先渉を争ふ図に題す。
會津藩の丹羽大夫の攬勝亭十景。其の五を賦して以て需めに応ず。
臘月(※12月)下旬大雪。梅檐公と同に李義山(※李商隠)の「雪を喜ぶ」十韻に和す。
畫兎。
盆松。
山水の畫幅の後に題す。此の巻、尾州大鐘雨村の蔵する所。密緻精巧、實に絶品と為す。相傳するに王叔明の造る所と。或は然らん。
七月既望(※16日の月)。篠山藩の金森君子勲、及び池田士靖、二木士剛、澤井士美、大道寺淡齋と與に、墨水に舟を泛べ十二絶句を得る。(六を録す。)
田邉淇夫(※田邊恕亭)、嵒村侯(※岩村藩公)の聘に応じ、治むる城に赴くを送る。
鶯、谷を出る。六韻。
高槻老臣、服部君信の里游郊作に和す。(原と三、一を録す。)
元禄中、赤穂侯、長矩(※浅野内匠頭)の封除、本藩の先世、正功公、其の後を食む。而して老臣篠原君之先世の某、大石良雄の遺第(※邸)を賜ふ。其の厨壁に一の貼紙有り。記して曰く、「篤行豉(※味噌)」之法。必ず諸を後の人に傳へ、且つ其の調和の量を詳かにす。故を以て家は歳歳之れを製す。今に至る百五十年なりと。頃日、君、其の豉を恵まる。因って此を賦して鳴謝す。所謂、篤行は、当時書くに國字を以てす。今、字を擇びて之れを填む。
首夏十三日、野田子明(※野田笛浦1799-1859)、大槻士廣(※大槻磐渓(1801-1878))、河田猶興(※河田迪斎1806-1859)、關克精(※關藍梁か?1805-1863)、川崎叔道(※川崎也魯齋1805-1876)、草堂に来聚す。
東台の豁如上人の山房招集。
夏日即事。
夏夕即事。
主君の承緒(※先代の業を継ぎ)。始めて暇を賜ひ、治城に赴き、恭しく長律を賦して奉送す。
隺(鶴)を咏み、唐澤養真翁の六十初度を賀す。
【二】
『得齋詩文鈔』巻二 加納 長戸士譲
詩
福寿草。
首春漫吟。
墨堤見花。二首。
白燕。
白雁。
林快烈公(※林述齋1768-1841.7.14天保12年)輓詩。
政子。
諸葛武侯。
繼華夕(※不詳)、海叔尚(※不詳) 關克精、訪はる。是の夕、風雨驟(には)かに至る。韻を分かちて同に賦す。
同前。克精の韻に次す。
一齋佐藤先生、七十誕辰の壽言。
冬至の夕。關克精宅の招集。(※韻を)分かちて「冬」を得。
同前席上。秋元甲山の詩、先づ成る。又た其の韻に次す。六首。(四を録す。)
東坡集を読む。「歳を餽る」「歳に別る」「歳を守る」の作有り。此れ間(まま)時俗と相ひ似る。因って其の韻を用ゐて之に倣ふ。
元旦作。
穀日、祭酒檉宇林公の宴に陪す。分かちて「灰」を得る。
孟陬(※正月)十七日。藕潢林公席上。「水生看欲垂楊到:水の生ずるを看て垂楊に到らんと欲す」を析(さ)いて韻と為し「欲」字を得る。
春水生ず。
子(ね)の日、松を採る歌。(※長寿・繁栄を願ふ)
木曽の武居文甫(※武居用拙)を寄懐す。(原と二、一を録す。)
首夏、出遊。二首。
六月の望(もちづき)。柴田君磐阿、清川君梧陰と同に墨江に舟を泛ぶ。六絶句を得る。(二を録す。)
盆蘭。
建暦中、和田平太胤長、罪を北條氏に獲て、奧(※陸奥国)の岩瀬郡に放たる。夫人某、思慕に堪へず追尾して来る。其の近く稲村に在りと聞き、喜び甚だし。齎らす所の鏡を出だし、自ら残粧を理(おさ)む。忽ち人の告げる有りて云ふ。良人死して已に久しと。夫人慟哭して地に伏し、遂に其の鏡を抱き、投水以て死す。化粧原と曰ひ、鏡沼と曰ふは其の迹地なり。稲村古石塔有り呼びて「平太佛」と曰ふ。蓋し胤長の戮に遇ひし處と云ふ。頃日、鏡沼の人、常松仲遷(※常松菊畦)、『磨光編』一巻を著す(※天保13年)。其の事迹を表章して且つ遍く海内諸家の寄詠を乞ふ。乃ち此に賦して以て贈る。
寒菊。
暮春、井部香山、柴田香雨と同に松下𥎰齋(※まつしたほうさい)公を沙村の別墅に陪す。九絶句を得る。(五を録す。)
祭酒林公、(※将軍の)大駕に陪して晃山(※日光山)に赴くを送る。
大橋淡雅(※1788-1853)の蘊真堂に聚まり其の蔵する所の古書画数十幅を観る。實に清玩なり。席上、關克精の詩、先づ成る。乃ち其の韻に次して以て賦す。(原と四、二を録す。)
關克精、侯駕に陪して膳所城に赴く。兼ねて郷里に省親するを送る。
花亭岡本公(※岡本花亭1767-1850)司計隊長に陞(のぼ)り、俎橋の官舎に移住す。時に仲秋に属し、新居賞月の作有り。吾が師檉宇林子に贈られ、兼ねるに賤子輩に及ぶ。乃ち其の韵に次して奉答す。二首。
國分士達の奥州に還るを送る。五首。(三を録す。)
偶述。
穀日、翡蘭軒(※林檉宇邸)の清集。病ひ有りて赴く能はず。夜に入りて此を賦し悶を遣る。
松を咏み、都澤翁齋水の六十初度を賀す。
夜坐、瓶中の水仙花に対す。真光寺主の至粛師の韵に次す。
安積君思順(※安積艮斎あさかごんさい1791-1861)、學問優良を以て大殿に謁を賜ふ。實に詞林の盛事と為す。余、久しく同社の交りを辱(かたじけな)くす。此を賦して賀を伸ぶ。
秋元厚載の席上。大槻士廣、關克精、春雪の詩を唱和す。余、また倣ひて賦す。(原と四、二を録す。)
蚊。
櫻井叔蘭(※櫻井石泉1807*-1853)、上州に赴き脩堤の役を督す。賦して贈る。
仲秋初五(※8月5日)上程口占。(此の行、郷里に省墓し、遂に上國に游ぶ。丹の天橋(※丹後の天橋立)を歴(へ)て帰る。詩七十有余篇を得る。今、乃ち若干首を鈔出す。)
熊谷堤の所見。
新田左中将公(※新田義貞)の像の後ろに題す。(太田の人、橋本某の需めに応ず。)
新田大光院に詣づ。昭代発祥の處と為す。敬ひて賦す。(※徳川家康が建立。)
福島に武居父子(禮甫・文甫(※武居敬齋・武居用拙))を訪ふ。是の夕、實に仲秋と為す。月下、舊を話し、席上、賦して贈る。
加納に還り、北川氏に宿す。
湖上雑咏。六首。(三を録す。)
京に入る。
洛北の二瀬(※二ノ瀬)村。林氏の奉先堂に謁す。文敏公(※林羅山1583-1657)の始めて仕ふや、邑を此に食む。今に至って林氏の采地と為す。堂は文敏公
鞍馬山に游ぶ。
鴨堤晩帰。
三條栢葉亭の所見。
梅辻春樵(※1776-1857)翁を訪ふ。席上、賦して呈す。三首。
牧信侯(※牧百峰1801-1863)に贈る。
初めて神伯友(※神 晋齋:じんしんさい)に梅辻氏にて見ゆ。遂に其の廬に造(いた)りて賦して贈る。
貫名海屋(※貫名菘翁1778-1863)翁を訪ふ。席上、賦して呈す。
海屋翁と同に池内陶所(※池内大学1814-1863)に及ぶ。畑柳平の宅に聚まる。畑氏の先世は法眼に叙さる京洛の名家なり。且つ多く古書畫を貯ふ。
此の歳、日野公(※日野資愛:ひのすけなる1780−1846)の東下するや、辱(かたじけな)くも龍口の邸館に謁を賜ひ、屢ば尊厳を冒す(※言葉を交すことを得た)。故を以て槐門(※公のもと)に趨走し、(※自分の)名を命を将(おこな)ふ者(※取り次ぎ者)に聞く。會(たまた)ま、公、病に臥すること数旬にして、再次(※ふたたび)、牋(てがみ)を上し、傳奏の職(※取り次ぎ者)に解く(※説明する)ことを乞ふも、謁を賜ふ能はず、特(ただ)、左右に其の意を通ぜしむのみ。悵然として私(ひそ)かに賦す。
三條の逆旅の寓懐。往年、關克精と唱和せし所の韻を用ゆ。
丹波の道中。
出石に櫻井東門(※1775*-1856伯蘭、叔蘭の父)翁を訪ふ。賦して呈す。
丹後の天橋。三條の逆旅の詠韻を用ゆ。三首。
𣾇川(※淀川)の舟中の作。二首。
浪華。
浪華の客舎。人有り、来りて往年の鹽賊の變(※大塩平八郎の乱)を説くに頗る詳し。
蕞然小醜欲何為。妄擧還招族滅資。一笑蚍蜉徒撼樹。黄巣本是讀書兒。
蕞然(※微小)たる小醜、何を為さんと欲す。妄擧、還た族滅の資を招く。一笑す、蚍蜉の徒らに樹を撼(うご)かさんとするを。黄巣(※※唐末の反乱子)は本と是れ讀書の兒。※※塩の密売人であり名前にも掛けてゐる。
後藤世張(※後藤松陰1797-1864)を訪ふ。
櫻井伯蘭(※櫻井石門1798*-1850)と同に篠崎小竹(※1781-1851)翁を山崎江楼に邀へ飲む。此に賦して以て呈す。
再び京に入り東福寺に游ぶ。
嵐山に游ぶ。
京を発つ。
江州の八幡山に登る。
八幡の客舎。小島春屋、田中裕軒(※ともに不詳)来訪。
安土懐古。
占春山人の畫梅歌。山人は濃州の人にて尾城に僑居し、醫をもって業と為す。繪事を好み、専ら梅を畫く。余、大鐘氏に於いて知る。此の行に過ぎりて訪へば、我が為に一幅を寫し贈らる。乃ち係るに此れを以てす。
尾州沓掛に舊友の伊藤民卿(※伊藤両村1796-1859)を訪ふも値(あ)へず。黯然として此の一首を留めて去る。
大磯。
家に帰る。喜びを志す。二首。
漁歌子。三闋(※詞)。
雪中帰樵。
雪山行人。
金森君子勲(※不詳)、園の梅、數枝を斫(き)りて貺(たま)はる。此を賦して鳴謝す。
大郷浩齋(※1793-1855)の早春の作に和す。
鯉を咏む。
薪を賣る女。
上巳(※3月3日)、祭酒檉宇公の讌(※宴)に陪す。分かちて「覃」を得る。
美人、奕に対す図。
緑珠(※西晋の富豪の寵姫)の怨。
刺繍の図。
小景。
關克精の父、呉雪翁、淡海に在り、齢、古稀に躋(のぼ)る。北堂(※母)また高年なり。克精遥かに二親の慶を伸べんとして余に詩を求む。乃ち之れを賦して以て贈る。翁、平日、謡曲を以て娯しみと為す。
江馬細香(※1787-1861)女史の畫竹に題す。
水風、秋の如し。(和歌の題。)
月下、筝を聞く。
老将。
備後三郎高徳(※児島高徳)
二喬(※三国時代の大喬・小喬姉妹)、兵書を讀む図。
史を讀みて感有り。
茶採(つ)み女。
八月初六(※六日)。藕潢林(※林復齋)先生の宴に陪す。分かちて「侵」を得る。
鵙(もず)が群蟲を磔にする図に題す。
孟光が案を捧げる図。(※「挙案斉眉」の故事)
早梅。
寒流月を帯ぶ。
林靖恪公の輓詞。(※弘化3年12月6日死去した檉宇のことか。)
早春、鯖江侯の宴に侍す。
落梅、感有り。
華頂法親王(※知恩院門跡7代目尊超親王1802-1852)の東下。始めて龍口の邸にて謁を奉る。此を賦して執事に呈下す。
華頂法親王の平安城に還るを送り奉る。
首夏(※四月)十八日。榊原月堂公(※1798-1858)の盛宴に陪す。二首。
薩摩守忠度(※平 忠度)。
梅辻春樵先生の七十誕辰の壽言。
戯れに布袋和尚の像に題す。
五月廿日。清川君梧陰、澤子敬および余を拉して玉川に魚を観る。十首を賦して示さる。乃ち其の韻に次して以て答ふ。(五を録す。)
池五山翁(※菊池五山1769-1849)の不忍池の観蓮會に赴く。
榊原月堂公の五十初度を祝ひ奉る。二首。
秋雨荷敗(※破れ蓮)の便面(※団扇)に題す。
江都を発つ。口占。(以下『二毛(※白髪)游詩略』。)
早く大宮を発つ。
伊香保客舎。
鷹巣山に登る。
岩鼻に縣吏の金原台溪を訪ふ。台溪もと濃州の人。余と里閈(※郷里)を同じくし、家の好(よし)み有り。
宗像蘆屋(※不詳)に贈る。
下奈良邑(※熊谷地名)の吉田市右衛門氏に宿す。吉田氏は世(よよ)施與(※ほどこし)を好み窮民を賑恤す。官しばしば褒賞有り。
足利。
家に帰りての作。
楠公正成の子に訣れる図に題す。
小督(※こごうの局)。二首。
巴姫の木曽公(※義仲)と別れる図に題す。
落葉を咏む。二首。
野菊。
新羅三郎(※源 義光)、足柄山で笙を吹く図に題す。
河邉東景翁、藤凌雲畫師と同に雪居中島君(※ともに不詳)の餘慶堂に聚まる。
唐津の明山公子の先考の霊源公、菊を愛し数十種を栽(う)う。公子その志を継ぎ歳々これを増植す。先考の廿七周忌辰に属してその儒臣、山田士栗(※山田寛?)をして「菊に対しり感有り」の作を懲せしむ。乃ち此を賦して以て呈す。
初冬、兒泱(※得齋次男)を拉して王子に游ぶ。
溪琴山人(※菊池海荘1799-1881)の僑居を訪ひ、賦して贈る。
常盤(※常磐御前)の雪行の図に題す。
文覺上人の図に題す。
兼好法師の像に題す。簡齋秋山君(※不詳)の嘱に応ず。
大橋周道(※大橋訥庵1816-1862)の新居落成を賀す。
元日夜。
春暁、園を渉る。
暁窗、鶯を聞く。大久保秋岩公(※不詳)の席上。
項王。
蕭何。
韓信。
賈生。
鼂錯(※晁錯ちょうさく)。
嚴子陵。
王導。
謝安。
陶淵明。
馮道。
木南溟畫師(※春木南溟1795-1878)の呑山楼に聚まる。二首。
M苑尹木村君(※不詳)の招集。是の日十月の望(※もちづき)。
唐津の曽根寸齋(※不詳)に贈る。
小春、祭酒壮軒公(※)林壮軒1828-1853)に陪して巣鴨別業に游ぶ。二首。
欧陽公(※欧陽脩)の「雪詩」に和して原作に倣ひ「玉月梨梅練絮白舞鵞鶴銀」等を用ゐるを禁ず。
河邉東景翁の八十の誕辰。令嗣東山、壽觴を膝下に侑(すす)め、盛んに賓客を招く。余また與(あづか)る。乃ち此を賦して賀を伸ぶ。
菅公(※菅原道真)の九百五十忌辰。近く壬子の歳在り。恭しく一律を賦し、遥かに大宰府の神廟に獻ず。
田家の苦。
田家の樂。
秋夜即事。
八月十四日。参政の敦賀侯に高輪の別業に陪して二律を賦し、以て左右に呈す。
漁。
樵。
耕。
牧。
溪橋紅葉。
小野小町の老困して食を乞ふ図に題す。
除夕(※大晦日)。
【三】
『得齋詩文鈔』巻三 加納 長戸士譲
文
祭酒述齋林公の七十誕辰を恭祝する序。
不盡嶽(※富士山)志(※誌)の序。
吉村麗明の藝州へ還るを送る序。
『慎夏漫筆(※西島蘭渓1780-1852)著1847』序。
『醫事纂要』序。(※桑名藩侍医、洞君信甫(※不詳)著)
『観省録(※大橋周道(※大橋訥庵1816-1862)著)』序。
『嘯臺遺集』序。(※宮田嘯臺遺稿集:刊本書誌不詳)
吾郷嘯臺翁。天保甲午之歳。年八十餘而終。翁少時游於江北海龍草廬之間。二子愛其詩才俊逸。争欲ゥ(※置)之門下。
北海之編日本詩選也。収其二詩。既而二子相踵淪謝す。翁亦還郷。温習舊得。一以習字賦詩為娯。其書體妍秀。別開一格。尤耽詩。
自少至老未甞一日廢吟哦。其終身所得。盖不下一萬。可謂夥渉矣。然翁毎得一詩。書諸故紙。以収嚢中。不復推敲改竄。故玉石混淆。
有不易採別者。嗣子惟孝。與其姻松波大本胥謀。抜若干首於嚢中。欲壽諸梓。遥問序於余。憶余在郷日。與翁相識。其形貌清癯如鶴。
而為人温厚謙抑。至其説詩。則諄諄盡其有而止。其音容恍在眼前。如昨日事。而距今殆三十年。翁墓木已拱。而余亦忽忽将老矣。今昔之感。
可勝道哉。抑吾郷之人士。近日有知讀書賦詩者。而其實皆起於翁之餘風。則固不可忘其所繇。况若余甞得與聞其説詩。
則欲致一辨香之日久矣。幸今逢其遺集之出。而得掛名巻端。以述其平生。則可謂償素願也已。故不辭而序之。翁名維禎。字士祥。宮田氏。
吾が郷の嘯臺翁、天保甲午(※五年)の歳、年八十餘りにて終る。
翁、少(※わか)き時、江(※江村)北海、龍草廬の間に游ぶ。二子、其の詩才の俊逸を愛し、争って之を門下に置かんと欲す。北海の『日本詩選』を編むや、其の二詩を収む。既にして(※やがて)二子、相ひ踵(つ)いで淪謝(※死去)す。翁また郷に還。もと得たものを温習(※復習)、一に字を習ひ詩を賦すを以て娯しみと為す。
其の書體は妍秀、別に一格を開く。尤も詩に耽り、少きより老いに至るまで未だ甞て一日も吟哦を廃せず。其の終身得る所は、けだし一萬を下らず。夥しきに渉ると謂ふべきかな。
然れども翁は一詩を得るごとに、諸(これ)を故紙に書し、以て嚢中に収めて、復た推敲改竄せず。故に玉石混淆、採別の易(やす)からざる者あり。
嗣子の惟孝。其の姻の松波大本と與(とも)に胥(あ)ひ謀り、若干首を嚢中より抜きて、諸を梓(※印刷)して壽(ことほ)がんと欲し、遥かに余に序を問ふ。
憶ふ、余が郷に在りし日、翁と相ひ識る。
其の形貌は清癯、鶴の如し。而して為人(ひととなり)は温厚謙抑。其の詩を説くに至りては、則ち諄諄として其の有を盡して止(や)む。其の音容、恍として眼前に在り、昨日の事の如し。而して今に距たること殆んど三十年。翁の墓木は已に拱き(※時が経ち)、而して余もまた忽忽として将に老いんとす。今昔の感。勝(あげ)て道(い)ふべけんや。
抑(そもそ)も吾が郷の人士、近日、讀書賦詩を知る者の有るは、其れ實に皆な翁の餘風に起きれば、則ち固(もとよ)り其の繇(したが)ふ所を忘るるべからず。况んや余の若(ごと)き、甞て其の詩を説くを與(あづか)り聞き得。則ち一辨香を致さんと欲するの日、久しかな。
幸ひ今、其の遺集の出づるに逢ひ、而して名を巻端に掛くるを得。以て其の平生を述べ、則ち素願を償はんと謂ふべきのみ。故に辭せずして之に序す。翁の名は維禎。字は士祥。宮田氏なり。
『伴鴎楼印譜』序。(※西島大車(不詳)著)
『香雲楼詩鈔』序。(※菊池三渓1819-1891著)
『古今印例二編』序。(※曽根寸齋1798-1852著)
樅堂の記(※森樅堂1798-1870)
蕉雨堂の記(※宮原蒼雪[君章]1803*-1876)
小雲岫の記(※篠山藩、金森子勲(不詳)の所持奇石)
尚友堂の記(※松下𥎰齋ほうさい(不詳))
藤城書屋の記。(※村瀬藤城1794-1853)
吾濃州渡長良川。東北行六七里。得一名山。曰藤城山。卓立剌天。特有殊姿。村瀬士錦。家於其下。因取山名。命其書屋。屬余記之。
士錦甞游於山陽頼子之門。與上國諸彦。角逐周旋。既歸。教授郷之子弟。近郡之士来上塾者亦多。諷誦之聲。連於日夕。可謂盛矣。余與士錦相得日久。
故西歸之次。屡訪其家。或至談論累日。固識其學之所至也。然余論士錦之學。謂其於藤城山之助得之者為多。試取其平生比之。有太相類者。
盖得諸意料外。而不自知也。請舉而陳之。夫士錦之行。修於郷。為衆人所崇。則有藤城山之尊者也。其嚮導人士。使各成其材。則藤城山之興雲雨。
以利百物者也。其詩文之縦横百出。不可端倪。則猶藤城山之朝嵐暮翠。不可方物。而其書法之遒勁雄逸。不失楷法。則猶籐城山之秀削抜起。鎮於一方也。
盖士錦平日與名山相對。其清淑之氣沁於肺腑。淪於肌膚。故發而為學問行義。有不期然而然者矣。不然何以得至於此哉。
嗟呼自古有土之君。名山峻嶺之在其封内者。以謂可以傳百世有之。殊不知顛沛生不測。則忽然失之。朝不及夕。
若士錦者収名山静淑之氣。以為已有。發諸學問行義如此。則傳之身後。而有人所不能争者。其勝有土之君遠矣。然則藤城書屋之名。不為虚取也。
吾が濃州、長良川を渡ること、東北に行くこと六七里。一の名山を得。藤城山と曰ふ。卓立、天を剌し、特に殊姿有り。
村瀬士錦。其の下に家す。因って山名を取り、其の書屋に命じ、余に屬して之を記せしむ。
士錦、甞て山陽頼子の門に游び、上國の諸彦と與(とも)に角逐周旋す。既にして歸り、郷の子弟に教授す。近郡の士の来りて塾に上る者また多し。諷誦の聲、日夕に連ね、盛んと謂ふべし。
余と士錦と相ひ得る日久し。故に西歸の次には、屡(しばし)ば其の家を訪ひ、或ひは談論の日を累(かさ)ぬるに至る。固より其の學の至れる所を識る也。然り、余の士錦の學を論ずるに、謂(おも)へらく其の藤城山の助けを之に得る者、多きと為す。
試みに其の平生を取りて之に比するに、太(はなは)だ相類する者あり。盖し諸(これ)を意料の外に得て、自ら知らざる也。
請ふ、舉げて之を陳べよとなら、夫れ士錦の行。郷にて修め、衆人の崇める所と為す。則ち藤城山の尊き有る者也。其れ人士を嚮導するに、各(おのおの)の其材を成らしむ。則ち藤城山の雲雨を興り、以て百物を利する者也。其の詩文の縦横百出は、端倪すべからず。則ち猶ほ藤城山の朝嵐暮翠のごとく、方物(※区別)するべからず。而して其の書法の遒勁雄逸にして、楷法を失はず。則ち猶ほ籐城山の秀削抜起して、一方に鎮まる也。
盖し士錦の平日、名山と與に相ひ對す。其の清淑の氣、肺腑に沁み、肌膚に淪む。故に發して學問の行義と為る。然るを期せざるして然る者有り。然ざれば何を以てか此に至り得ん。
嗟呼、古へより有土の君(※地方名士)、名山峻嶺の其の封内に在るは。以謂(おもへ)らく、以て百世を傳へて之に有るべし。殊に知らず、顛沛の不測に生ずるを。則ち忽然として之を失ふ。朝は夕に及ばず。
士錦の若き者は名山静淑の氣を収め、以て已有と為す。諸を學問行義に發すること此の如し。則ち之を身後に傳ふ。而して人の争ふ能はざる所の者あり。其れ有土の君の勝(※勝地)は遠きかな。然らば則ち藤城書屋の名、虚はりて取るとは為さざる也。
兩村書屋の記。(※伊藤両村1796-1859)
香雪齋の記。(※山内香雪1799-1860)
錫難老軒の記。(※佐藤一齋1772-1859)
遅遅園の記。(※中島雪居:中島嘉右衛門1796-1853)
順正書院の記。(※新宮凉庭1787-1854)
古木魚の記。(※玉川泉龍寺所蔵)
諸葛武侯論。
寇準論。(※北宋宰相)
佚齋丹羽君の墓碣銘。(※丹羽佚齋:白河藩1760*-1836)
幽山水野君の墓銘。(※水野幽山:筑前藩1771-1841
村山賢娥(※井上四明1730-1819の娘1819*-1837)
吉田宗之の墓銘。(※熊谷慈善家の吉田市右衛門1816-1868の長子1821-1836)
『重刻通鑑擥』の後に書す。
菱湖翁(※巻菱湖1777-1843)『行書千字文』刻本の跋
『坤齋詩存』跋。(※西島蘭渓1780-1852)著)
『牧野天嶺書帖』の後に題す。(※巻菱湖の弟子)
蕃山先生の真蹟に題す。(※熊沢蕃山1619-1691)
『詠史詩』巻後に題す。(※新宮凉庭1787-1854)
『越海漁篷』(※吉田梅齋の著1850)
御嶽の游記。
馬の蹄囓(※蹴ったり噛んだり)するものは善く走るの説。(※柳公綽763-832の故事につき)
題得齋詩文鈔後 1 2 3
佐藤大道一齋翁。舊相識也。其弟子長戸士讓。新相識也。士讓庇林祭酒之門蔭。而立一齋翁之籬下。與翁名如同門兄弟。而其實為師弟也。予少時游江戸。識翁于祭酒之寮舎。是為識東方人士之濫觴焉。至今憶之。殆五十餘年前矣。士讓之入京。僅為七八年前之事。懇々訪予。傳翁之言。致翁之意。翁之不渝于故舊。實出望外。
予亦託言士讓。以謝年来[闕]書信之罪。又託以寄詩。則翁亦託詩士讓而見酬。士讓受二託於中間。周旋不憚其煩。洵可感也。盖翁與予之交際。前此則東西睽隔。茫々雲迷。繼此則天涯縮地。不待魚與鴈。藉士讓之口與手。以聴翁言笑。是得新識之扶助。而了舊識之囙緣也。近時東方有名人士輩。悉皆凋謝。特極老極榮者。莫若翁也。尋而榮者誰耶。予遥卜以士讓焉。頃日将
刻其所著詩文鈔三巻。千里寄其稿本。見乞一言。予受而讀之。果是才學識兼備之詩文。非可與世之浮華無根之文字。同日而語也。予甞讀翁之詩文。而今士讓之文鈔。頗覺與翁之體裁髣髴相近。其弟子而肖類其師。固所不怪。惟高古老熟之妙。在其師。而雅健流暢之美。在其弟子。至各有典實。不失倫理。則一而二。二而一。予不復能定其妍媸也。乃濫目曰。元方季方方之人
品為二難。宜評彼兄弟。大道士讓之文章。為一體。宜止此師弟耳。是為跋。
嘉永壬子夏六月 春樵隠士琴希聲 撰 藍梁關研書
『得齋詩文鈔』後に題す (※梅辻春樵1776-1857)
佐藤大道一齋翁は舊き相識也。其の弟子長戸士讓は新しき相識也。士讓は林祭酒(※林述齋)の門に庇蔭され、而して一齋翁の籬下に立つ。翁の名と與に同門兄弟の如し。而して其の實は師弟と為す也。
予は少(わか)き時、江戸に游ぶ。翁を祭酒の寮舎に識る。是れ東方人士と識るを為すの濫觴なり。今に至りて之を憶ふ。殆んど五十餘年前なり。
士讓の入京は、僅か七八年前の事と為す。懇々と予を訪ひ、翁の言を傳へ、翁の意を致す。翁の故舊に渝(かは)らざるは、實に望外に出づ。予また言を士讓に託す。以て年来の書信を闕(欠)くの罪を謝す。また託すに詩を寄せるを以てすれば、則ち翁も亦た詩を士讓に託して酬ゆらる。
士讓、二託を中間に受け、周旋して其の煩を憚らず。洵に感ずべき也。盖し翁と予の交際、前は此れ則ち東西に睽隔(乖離)したれば、茫々雲迷たり。此に繼ぐに則ち天涯を縮地して、魚と鴈と(※手紙)を待たず。士讓の口と手を藉る。以て翁の言笑を聴く。是れ新識の扶助を得、而して舊識の因縁を了する也。
近時、東方の有名人士の輩。悉皆凋謝す。特に極めて老にして極めて榮えたる者は、翁に若(し)くは莫き也。尋(つい)で榮えたる者は誰か。予、遥かに卜するに士讓を以てするなり。
頃日、将に其の著す所の詩文鈔三巻を刻さんとす。千里、其の稿本を寄し、一言を乞はる。予、受けて之を讀むに、果して學識兼備の文。世の浮華無根の文字と與(とも)に日を同じうして語るべきに非ざる也。予、甞て翁の詩文を讀む。而して今、士讓の文鈔は、翁の體裁と頗る髣髴相ひ近きを覺ゆ。其の弟子にして類ひ其の師に肖る。固より怪しまざる所なり。
惟(おも)ふに高古老熟の妙は、其の師に在り、而して雅健流暢の美は、其の弟子に在り。各(おのお)の至って典(のり)有り、實(まこと)に倫理を失はず。則ち一而して二。二而して一(※結局は同じもの)。予、復た其の妍媸を定む能はざる也。
乃ち濫りに目して曰く、元方季方の(※優劣つけ難い)人品を、二難(※難兄難弟:賢兄弟)と為し、宜しく彼の兄弟を評すべし。大道士讓の文章を一體と為し、宜しく此の師弟を(※後世に)止(とど)むべきのみ、と。是を跋と為す。
嘉永壬子(※五年)夏六月
春樵隠士琴 希聲 撰す 藍梁 關研 書す
書得齋詩文鈔後 1 2 3
實徳弸於中。而英華彪乎外。此之謂文。故文也者各發其所自得本色。而切世用饜人心而已矣。造語巧拙毎口殊異固非所軽重也。勿論於六経四子皆開物成務。雖如老荘・管晏・刑名縦横家。莫非各述。其獨得千古不抜之見。是以其言的切。而精彩閲千載不泯。於世所謂経國大業不朽盛事者。豈不在於茲乎。今世所謂文人者則不然。率多喋々辨侮高談倫理綱常。而行實不能相顧。或詼詭滑稽陽擬淳于髠東方朔。而陰則諛鬼怕婦。見利忘義者亦復有焉。諸如是類満帋R。然雖足怡俗眼。本之則無影響勦説。蓋頭竊尾。極力装緝。醜態百出。精光枵焉。譬之玉巵無當雖美乎。其将何用。其癈棄湮滅。可立俟也。不淪此流弊者其士讓乎。士讓脩身倹飭能治室。家亦教子弟。長男未弱冠。而学術制行如成人。閨門輯睦靡。或間言其發為文辭者。雍容而警勅。平淡而切至。皆出於其實際。則歴乎。所謂不朽者。吾甞於交友中特推士讓者以此故也。頃者其詩文抄刻成見示。因序一言于巻末。使後生志於不朽者。知其所従事焉。
嘉永壬子季夏 昌谷碩撰 中山直道書
『得齋詩文鈔』後に書す (※昌谷[さかや]精渓1792-1858)
實徳、中に弸(み)ち、而して英華、外に彪(あきら)かなる、此れを之れ文と謂ふ。
故に文也(な)る者は、各(おのお)の其の自得とする所を發して本色とし、而して世用(※能才)を切に、人心を饜(※飽満)せしむるのみ。
造語の巧拙は口毎に殊異なるも、固より軽重する所に非ざる也。
六経、四子(※聖典)に於けるは勿論、皆な開物成務(※物事の成就:「易経」)なり。
老荘、管晏(※管仲)、刑名の縦横家(※韓非子)の如きと雖も、各の其の獨り千古不抜の見を得て述べるに非ざるは莫し。
是(ここ)を以て其の言は的切(※適切)、而して精彩千載を閲しても世に泯(ほろ)びず。
所謂(いはゆる)経國の大業、不朽の盛事なる者は、豈に茲に於いて在らざらんや。
今世の所謂文人なる者は、則ち然らず。率ね喋々たる辨多く、高談、倫理、綱常(※三綱五常の道)を侮り、而して行實は相ひ顧る能はず。
或(あるもの)は詼詭(※諧謔)、滑稽、陽(うはべ)を淳于髠・東方朔に擬す。
而して陰にては則ち鬼に諛(へつら)ひ婦を怕(おそ)れ、利を見て義を忘るる者、亦た復た有りて、諸(もろもろ)の是の如き類、帋に満ちてR(ひけらか)す。
然りと雖も俗眼を怡(よろこば)すに足る。之を本とすれば則ち、勦説(※剽窃)の影響無し。
頭を蓋ひ尾を竊み、極力装ひ緝め、醜態百出、精光枵焉(※空虚)にして、
之を譬ふれば玉巵の當(そこ)無く(※玉巵の底なく:「韓非子」)、美なるかなと雖も其れ将に何の用ならんとす。
其れ癈棄湮滅して可立俟也。
此の流弊に淪(しず)まざる者は其れ士讓か。
士讓は脩身倹飭、能く室家を治め、亦た子弟を教ふ。
長男未だ弱冠ならざるに而して学術制行、成人の如し。
閨門輯睦(※夫婦相ひ睦み)、靡 或ひは間(まま)言は其れ發して文辭の者と為す。
雍容(※やはらぎ)而して平淡、警勅而して切至(※ゆきとどく)、皆な其の實際に出で、則ち歴乎たり。
所謂不朽なる者は、吾れ甞(かつ)て交友に於ける中、特に士讓を推す者は此の故を以て也。
頃者、其の詩文抄の刻成り、示さる。因って一言を巻末に序し、後生をして志を不朽の者にならしめ、其の従事する所を知らしめんか。
嘉永壬子季夏(※五年六月)
昌谷碩 撰す 中山直道書す
長戸得齋 『北道游簿』 (ほくどうゆうぼ)
1839 天保10年序 乾・坤 全2冊 芳潤堂(須原屋源助)刊行
本文は早稲田大学蔵公開データを参照のこと。
扉
【乾・巻上】
北道游簿敘
古人有云。天下山川勝㮣之地。好之者。未必能至。至者未必能言。言者未必能文。盖兼此三能。而後可稱為篤好者矣。門人長戸士譲。有濟勝癖又富勝具。動輒行縢。飄然褁粮出遊。遐探䆳討必窮其奇。悉能以文發之。歸則成袠。項日眎其北道游簿。受而讀之。自濃而騨而加而二越及奧。其所經歴。山川道里。民風土俗。琳宮梵宇。廢關故墟。井然條列。[瞭]如指掌。殆使讀者若身至其境。乃所云三能兼得者耶。盖非其好之深且篤。則焉能如是乎。余宿同其癖。具亦不乏。而一官縛身。不能如意。往年遊觀熱海函嶺。今茲攀拜晃山 閟宮。囙得略窺山川勝㮣。自謂在儕輩中頗能至者。但其言之不文。不足以發揚其恠偉特絶之觀。心凝形釋之適。此則可恧矣。士讓曩遊於豆之石廊。奥之松島。皆有記。余囙慫惥俾續刻云。
天保十禩星次屠維大淵獻南呂月 培齋 林 皝 題 菱湖 卷 大任 書
『北道游簿』敘 (※林培齋:林述齋三男1793-1846)
古人の云ふ有り。「天下山川勝概の地(※景勝地)。之を好む者。未だ必しも能く至らず。至る者は未だ必しも能く言へず。言ふ者は未だ必しも能く文にせず。盖し此の“三能”を兼ねて、而して後、篤好の者と為すと稱すべきなり」と。
門人の長戸士譲。濟勝の癖有り、又た勝具(※済勝の具:旅行道具)に富む。動(やや)すれば輒ち行縢(むかばき:旅装)して飄然、粮(※携帯食)を[裹](つつ)んで出遊す。遐かに探ね[邃](とほ)く討(たづ)ね、必ず其の奇を窮む。能く文を以て之を發し悉(つく)し、歸れば則ち[帙]と成る。
項日、其の『北道游簿』を眎(み)る。受けて之を讀むに、濃より而して騨、而して加、而して二越、奧に及ぶ。其の經歴する所、山川道里、民風土俗、琳宮梵宇(※仏閣)、廢關故墟。井然條列(整然と列挙)さる。[瞭]として掌(たなごごろ)に指すが如し。殆んど讀者をして身を其の境に至らしむが若し。乃ち所云(いはゆる)三能、兼ねて得る者か。盖し其の之を好むこと深く且つ篤く非れば、則ち焉んぞ能く是の如からんか。
余、同じく其の癖を宿し、具も亦た乏しきとせずも、而して一官、身を縛りて意の如く能はず。
往年、熱海函嶺(※箱根)を遊觀し、今茲は晃山の閟宮(※日光東照宮)を攀拜し、[因]って山川の勝概を略(ほぼ)窺ふを得。自ら儕輩中に在りて頗る能く至る者と謂ふ。但し其の言の文とならず。以て其の恠偉特絶の觀、心凝形釋(※自己忘却)の適の發揚に足らず。此れ則ち[忸]づるべきかな。
士讓の曩遊は、豆の石廊(※伊豆の石廊崎)、奥の松島、皆な記有り。余、[因]って[慫慂]して續刻を俾(たす)くと云ふ。
天保十[年] 星次 屠維[己]大淵獻[亥]南呂月[八月] 培齋 林 皝 題 菱湖 卷 大任 書
北道游簿序
峻峯絶壑。嶕嶢而㟹嶆者。猶文之有抑揚起伏也。大河長江。浩瀚而洑者。猶文之有跌宕雄偉也。平流漫波。猶其紆餘也。怪巖危巘。猶其機雋也。
土石草樹之點綴鋪叙。與夫雲煙風雨之出没開闔。亦猶其斡旋與奪。變化百出而不可窮者也。
夫東山道之為地。東海為之腹。北陸為之背。濃江為首。奥羽為尾。而層復隆高。至飛騨而極矣。其間山川。概皆嶻嶪秀抜。洶湧衝激。盖亦文之最壮而奇者歟。
然以其在於僻境且絶嶮也。探討而記述之者。亦已罕矣。友人長戸士讓甞一探討。得記二㢧。題曰北道遊簿。近者将紋之於版。徴予序。受而閲之。其躅従濃至騨。經加越奥而来江都。其所云天下山川之最壮而奇而文者。莫不悉收而詳録焉。且所在家國之興廢。與事蹟之泯没者。歴々具載。無或遺漏。則不啻著其奇。而又将補史氏之闕也。不亦偉乎。如此者。雖以士讓之才之文。抑亦非造物者。默相冥助而然耶。雖然。文之為文。豈徒山川与詞翰已云哉。将必有大於茲者焉。夫經緯人道。黼黻一世。燦然斐然。用宏茲賁。即造化之文。亦藉以立。孰若斯為大乎。然其事綦囏。匪易輶言。[苐茅]志則不得不然耳。
余之於士讓。甞為同窓。固知其志不止於區々詞翰也。且勖以遠者大者。亦友道之宜然歟。
天保己亥仲秋上澣 讃岐 川田興撰
『北道游簿』序 (※河田迪斎:佐藤一斎女婿1806-1859)
峻峯絶壑の、嶕嶢而して㟹 嶆なる者は、猶ほ文の抑揚起伏有るがごとき也。大河長江の、浩瀚而して洑なる者は、猶文の跌宕雄偉有がごとき也。平流漫波は、猶ほ其の紆餘のごとき也。怪巖危巘は猶ほ其の機雋のごとき也。
土石草樹の點綴鋪叙、夫れ雲煙風雨之出没開闔と與(とも)に、亦た猶ほ其れ斡旋與奪のごとく、變化百出して而して窮めるべからざる者也。
夫れ東山道、之を地と為せば、東海は之を腹と為り、北陸は之を背と為り、濃江は首と為り、奥羽は尾と為らん。而して層復隆高(※重なり高まる)するは、飛騨に至って極まれり。其の間の山川、概ね皆な嶻嶪秀抜にして、洶湧衝激するは、盖し亦た文の最も壮にして奇なる者か。
然れども、其の僻境且つ絶嶮に在るを以てまた、探討して之を記述する者は、亦た已に罕なり。
友人長戸士讓、甞て一たび探討して記二[巻]を得る。題して『北道遊簿』と曰ふ。
近者、将に之を版に紋(かざ)らんとして、予に序を徴す。受けて之を閲す。
其の躅(※痕迹)、濃より騨に至り、加越・奥を經て江都に来る。其の所云(いはゆる)天下の山川の最も壮にして奇にして文なる者、收めて詳録を悉(つく)さざるは莫し。
且つ家國の興廢の在る所は、事蹟の泯没する者と與(とも)に、歴々として具へ載す。或ひは遺漏の無くも、則ち啻(ただ)に其の奇を著すのみならず、又た将に史氏の闕を補はんとする也。亦た偉ならずや。
此の如き者は、士讓の才の文を以てすと雖も、抑も亦た造物者に非ざれば、冥助を默[想]して然るか。
然りと雖も、文の文と為すは、豈に徒らに山川の詞翰に与るのみと云はん哉。将に必ず茲より大なる者有らんとす。夫れ人道を經緯し、一世を黼黻して、燦然斐然、用ゐて茲の賁(かざ)りを宏うす。
即ち造化の文と、亦た藉(か)りて以て立つ(※得齋の文章と)と、斯の大と為すは孰若(いずれ)か。
然り、其れ綦囏(※艱難)に事(つか)へて、易輶(※軽率な)の言に匪ず。[苐茅]志、則ち得ずんば然らざるのみ。
余の士讓に於ける、甞て同窓と為る。固より其の志の區々たる詞翰に止まざるを知る也。且つ勖(つと)めるに遠者大者を以てす。亦た友の道の宜しく然らしむか。
天保己亥仲秋上澣 讃岐 川田興撰
『北道游簿』 美濃 長戸譲士譲著
文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。
還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]なり。
路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。
乃ち其の行程を記し、以て他日の臥遊に供す。
七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。
織田黄門秀信の岐阜に在るや、其れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。
土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒(かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。
飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。右に折れて二里、関村に出るべし。
昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。
左に転ずれば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。
市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。
夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、及び族太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。
士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教授す。就学する者、稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。
管理人の蔵書は鼇頭に朱書が遺る。すなはち会津藩士の杉原凱(1805*-1871)の旧蔵書と思はれる。
「凱案。紀行者。紀行路之景勝耳。如荒城遺跡者。間入於其一端。豈別論興敗乎。如此乾巻。則大概特無景勝佳観。而有興敗論話。是可諾紀行乎。」
「凱、案ず。紀行なる者は紀行路の景勝のみ。荒城遺跡の如き者は間(まま)其の一端に入る。豈に別に興敗を論ぜんや。此の乾巻の如きは、則ち大概が特に景勝佳観無く、而して興敗の論話有り。是れ紀行と諾ふべきか。」
【坤・巻下】
[後序]
文人好為漫遊。必有行記。能模冩山川。刻畫勝概。讀之足一快矣。然率皆?冩焉耳。刻畫焉耳。何實用之有。今讀士譲此簿。不第如躬到目撃。往々覈研事蹟。■■典故。頗可以資攻據。此則異乎無用之撰。遊於是乎不徒矣。余一寓目。乃書此遂之。
己亥中秋後一日 一齋老人 坦 書於愛日楼南軒
[後序] (※佐藤一齋)
文人好く漫遊を為し、必ず行記有り。能く山川を模冩し、勝概を刻畫す。
之を讀めば一快するに足る。然れども率ね皆な摸写のみ。刻畫のみ。何ぞ實用、之れ有らん。
今、士譲の此の簿を讀むに、不第如躬到目撃。往々事蹟を覈研し、典故を■■す。頗る可以資攻據。此れ則ち無用の撰と異ならんか。
遊も是に於いてや徒(いたづ)らならず。余、一に寓目すれば乃ち此を書して之を遂ぐ。
己亥中秋後一日 一齋老人 坦 書於愛日楼南軒
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