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『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート(続々) 伊藤信著 大正14年 梁川星巖翁遺徳顕彰会[西濃印刷株式会社内]刊行


【ノー ト13】頼山陽との永訣 江戸へ

 天保三年五月、頼山陽は彦根に来游、小野田寛齋の東道のもとに梁川星巌と共に十日余を過ごして帰京、幾許もなく六月十二日に喀血して臥床、再び立ちませんでした。
九月には今度は星巌が京都に疾を問ひますが、江戸で一緒に一旗揚げんとの約束が水泡に帰したことを嘸かし悔しがったでありませう。 これが永訣となるのは両人よく承知してゐて、 最後の応酬を交はすと星巌はその足で東海道を東上、途中掛川で畏友の訃に接します。山陽の易簀に係り「美濃家臣団」にまつはる資料のみ引きます。

 九月九日(重陽) 星巌は神田柳溪(7歳少)、牧百峰(12歳少)、岡田鴨里(16歳少)と飲み、ともに山紫水明処を見舞ひました。 もとより近所に居を構へる百峰は日参して見舞ってゐましたし、岡田鴨里やここに名の挙がらなかった村瀬太乙(15歳少)ら高足は塾内にあったと思はれます。

  九日同梁公圖牧信侯岡周甫飲鴨河酒樓、晩問山陽翁病、時公圖將赴江都

  九日、梁公圖(梁川星巌)牧信侯(牧百峰)岡周甫(岡田鴨里)と同に鴨河酒樓に飲み、晩に山陽翁の病を問ふ、時に公圖将に江都に赴かんとす。

落木蕭蕭水急流 落木蕭蕭、水急流
滿城風雨共投樓 満城風雨、共に楼に投ず
長卿抱病常高臥 長卿(司馬相如)は病を抱き常に高臥
王粲依人欲遠遊 王粲は人に依りて遠遊せんと欲す
松菊園荒三徑晩 松菊の園は荒れる、三径の晩
關山雁度八州秋 関山に雁は渡る、(関東)八州の秋
酒醒愈覺吟場冷 酒は醒め愈よ覚ゆ、吟場の冷ゆるを
獨立蒼茫不耐愁 独り立ちて蒼茫、愁ひに耐へず

【頭注】僕再入京師山陽翁墓木已拱 老兄病不能来 僕眞乃獨立蒼茫
    (僕[村瀬藤城]再び京に入れば師山陽翁の墓、木すでに拱く[ほど成長し時が経った] 老兄[神田柳溪]病みて来る能はず、僕まことに乃ち独り立ちて蒼茫たり)
    後云 二聯錯ン 照應奇創 (後藤松陰云ふ 二聯錯綜、照すにまさに奇創なるべし[司馬相如に擬したを云ったものか])
    牧云 時出腕力一新人目 (牧百峰云ふ 時に腕力を出し人目を一新せしむ)

                            神田実甫『南宮詩鈔』巻下3丁

 (九月十三日 親友篠崎小竹とその養子(猶子?)となった後藤松陰、そして「廣瀬」なる人物とともに大阪より駆けつけ、三日ほど滞留したとのこと。 けだし廣瀬が旭荘なら彼は菅茶山の臨終前にも偶然立ち会ってゐるんですね。)

 九月十七日 星巌が再び出立の挨拶に来ました。山陽は病を押して一絶を贈ります。

  與星巌話別
  星巌と別れを話す

燈在黄花夜欲分 燈は黄花に在り、夜、分たんと欲す
明朝去榻信州雲 明朝去榻、信州の雲
一壺酒竭姑休起 一壺酒竭きるとも姑らく起つを休めよ
垂死病中還別君 垂死病中、還た君と別る
                            頼山陽『山陽遺稿』

  余將東遊、入京問子成疾、子成時已沈緜、曰千里之行不可無言、遂賦一絶句見贈、輒次其韵以酬、時天保壬辰九月十七夜也
  余将に東遊せんとし、入京して子成の疾を問ふ。子成時已に沈綿、曰く千里の行に言なかるべからず、遂に賦して一絶句を贈らる。輒ち其の韵に次いで以て酬ゆ、時に天保壬辰九月十七夜也

談山話水到宵分 山を談じ水を談じて宵分に到る
大堰奔流函嶺雲 大堰大井川)の奔流、函嶺箱根)の雲
翻恐郵亭孤枕夢 翻って恐る、郵亭孤枕の夢
屋梁落月見夫君 屋梁落月、夫君を見んことを
                            梁川星巌『星巌絶句刪』丙集19丁

 九月二十三日 頼山陽、『日本政記』は獲麟に及び、関藤藤陰ら弟子たちに見守られて永眠。享年五十三。すでに江戸へ向かってゐた星巌は掛川の宿で訃音に接したと云ひます。

  聞子成訃音、詩以哭寄 三首
  子成の訃音を聞く、詩以て哭し寄す 三首

秋風暮雨滿城闉 秋風暮雨、城闉じょういん:都を指す)に満つ
話別喃喃和病呻 別れを話して喃喃、病呻に和す
燈在黄花纔昨夢 「燈は黄花に在り」は纔かに昨夢
訃傳東海已前塵 訃は東海に伝へて、已に前塵たり
史才長處應無敵 史才長ずる処、まさに敵なかるべし
吟骨癯來倍有神 吟骨癯や)せ来って倍ますます)神有り
闔E一枝囘也筆 闔Eす、一枝回也顔回)の筆
修文從此屬斯人 修文、此れより斯の人に属す黄泉の修文郎の役はこれより顔回からこの人へ移った)

萬事悠悠付逝波 万事悠悠、逝波に付す
哲人無命欲如何 哲人、命なく、如何せんと欲す
憂懷略似長沙哭 憂懐ほぼ似たり、長沙の哭
樂府如聞勅勒歌 楽府聞くが如し、勅勒の歌
生硬骨將同北地 生硬骨は将に北地と同じからんとす
瑰奇才殆亞東坡 瑰奇の才は殆んど東坡に亜ぐ
一編政記盡心血 一編の「政記」心血を尽くす
灑到民痍痕更多 灑いで民痍に到れば痕あと)更に多し

東山六六峯何處 東山六六峯三十六峰)は何処ぞ
雲鎖泉臺慘不開 雲は泉台を鎖して惨として開かず
歳在龍蛇爭脱厄 歳は龍蛇壬申:賢人がよく没すると謂ふ年)在り、いかでか厄を脱せん
人傳麴蘖遂爲災 人は伝ふ、麴蘖酒)遂に災と為ると
一朝離掌雙珠泣 一朝掌を離れて双珠子供たち)泣き
五夜看巣寡鵠哀 五夜一晩中)巣を看て寡鵠妻)哀しむ
彼此撫來最惆悵 彼此撫し来って慰撫するも)最も惆悵たり
海西有母望兒來 海西には母有り、児の来るを望めり
                            梁川星巌『星巌集』丙集巻七2丁

 さて、頼山陽が星巌に贈った「燈は黄花に在り、夜、分たんと欲す」といふ句ですが、最初は夜分まで話し込んで明け方に至ったのかな、とも思ったのですが、 病人相手にそんなことをする筈がない。わけが分からなかったのですが、次に引く、江戸に着いて巻菱湖の家に寄寓する際に詠んだ詩にも出てきてピンと来ました。

  抵江戸、寓巻先輩致遠宅 二首
  江戸に抵り、巻先輩致遠(巻菱湖)の宅に寓す 二首

廿年重到故人堂 二十年重ねて到る、故人の堂
一笑依前具酒觴 一笑、前に依りて酒觴を具す
且喜座中多舊雨 且つ喜ぶ、座中に旧雨旧友)多きを
共驚頭上帶新霜 共に驚く、頭上に新霜を帯びるを
摩天皁鶚何其氏@天を摩す皁鶚(そうがく:黒いミサゴ)、何ぞ其の獅ヘげ)しき
委地黄花也自香 地に委したる黄花菊花)もまた自ら香し
莫向侯門頻説項 侯門に向ひて頻りに項を説く自分を売り込む)ことなかれ
老來心怯近聲光 老来、心怯るるは声光に近づくこと

 「燈は黄花に在り、夜、分たんと欲す」これは「いずれ天皇家の御世となる、夜明けも遠くはないことぞ。」との意味だったんですね。黄花は菊の御紋章。 皁鶚といふのは江戸から世の中を辟睨してゐる幕府の謂ひなんだと思ひます。しかしこんな「あてこすり」を以て『星巌集』を発禁にすることは、流石のお上も出来なかったらしい。 或は気が付かなかったのかも知れません。面白いですね。 もし頼山陽があと数年を生き存へることができたら「体制側の学究」として昌平黌の教授になったんぢゃないか、 と中村真一郎氏は『頼山陽とその時代』の中に予想されてゐるのですが、こんな応酬を見てゐると、やっぱりそれは当らないんぢゃないか、といふ風に思はれてなりません。尤も、 山陽の句は星巌の意気込みを写しただけであったかもしれないし、星巌自身、江戸へ向かふ道中では、 天竜川の渡しに書かれた柴野栗山の詩とそれに毒づいた市河寛齋の詩を見て「何を苦しんで昇沈を較べるか」なんて言ってゐて(※参照)、政治と学問は切り離して評価してゐるところはあったやうです。 さらに次の詩でも口を極めて貴顕の人脈には近づくな、と自戒を述べてゐます。

飲酒論文夕復晨 飲酒、論文、夕また晨
偶然萍寄五経旬 偶然にも萍を寄したり五たび旬を経る
名流一代無多子 名流一代、多子なく
知己千年有幾人 知己千年、幾人か有る
臺閣鵷鸞非故舊 台閣の鵷鸞は故旧にあらず
滄洲鷗鷺是交親 滄洲の鷗鷺こそ是れ交親
掃門乞火吾何敢 門を掃いて火を乞ふ自分を売り込む)は、吾れ何ぞ敢へてせん
擬買煙波卜釣隣 煙波を買ひて釣隣を卜せんと擬す

 しかしパトロンでもないのにかみさん共々居候五十日は多すぎですね。結局この12歳年長の先輩に、八丁堀に新居(夷白庵:いはくあん)まで世話をしてもらふことになるのですが、 アウトロー同士よほど馬も合ったのでせう。幕末の三筆にも数へられる巻菱湖といふ人は、圭角が強くその死には「謀殺」の疑ひも浮かぶほどの、侠気の強い、磊落不羇の人だったやうです(天保14年没 67歳)。

※参照

 天竜川の渡し場に書き付けられた柴野栗山の詩(天明8年1月 1788)

鳳暦天明第八年  鳳暦天明第八年
維正月吉渉龍川  維れ正月の吉、龍川(天竜川)を渉る
東風挾雨川雲黒  東風、雨を挾みて川雲黒し
知是天龍飛上天  知んぬ、是れ天龍の飛びて天に上るならん

 それに付された市川寛齋の詩(文化6年1月 1809)

天龍川上天龍躍  天龍川上天龍躍る
龍已升天雲不從  龍すでに天に升(のぼ)るも雲従はず
至竟天龍成底事  至竟(畢竟)天龍、底事(なにごと)をか成す
江湖只合作潛龍   江湖、只まさに潜龍と作るべきに

 さらにそれらに対する星巌の詩(天保3年10月 1832)

 旅壁讀栗山西野二先生渡天龍河舊題、因書其後
 旅壁に栗山(柴野栗山)西野(市河寛齋)二先生の天龍河を渡る旧題を読み、因りて其の後に書す

天龍川大河流急  天龍川大にして、河流急なり
逝者悠悠成古今  逝く者は悠悠として、古今と成る
至竟人生均是客  至竟、人生は均しく是れ客
二翁何苦較昇沈  二翁、何を苦しみて昇沈を較べるか

2009年2月12日


【ノー ト14】 江戸で 美濃の人々との再会

 といふ訳で、関西で大受けして気を良くした漫才師が根回しもなく東京へやってきたらば鳴かず飛ばずだった、みたいな感じでせうか。二人は八丁堀に新居を構へるのですが、 江戸での新生活は、そこを「夷白庵」と名付けざるを得ないやうな極貧生活に始まります。(夷白の夷は貧に安んじ、白は涅して緇まず、南史隠逸伝にみえる蔡休明のことをさういったらしいです。)翁の曰く、

  十二月望日、賃宅於八丁溝貧甚、作五絶句以自戲

  十二月望日(15日)、八丁溝に賃宅して貧甚し、五絶句を作りて以て自ら戲る

遊縦歴歴幾山川  遊縦歴歴たり、幾山川
破費弓鞋也可憐  弓鞋女性の靴)を破費す、また憐れむべし
又是旅庖煙不得  又是れ旅庖旅の台所)も煙得ず炊かない)
脱君裙衩抜君鈿  君が裙衩を脱して君が鈿を抜くそして質屋へもってゆく…)

 そして妻君もまた、文雅の世界ではあくまで痩せ我慢。

 客居  張紅蘭

客居新賃兩三椽  客居、新たに賃す両三椽3間ほどの小家)
竈額多寒稀見煙  竈額多く寒くして煙見ること稀なり
反舌寧嗔翁子拙  反舌 寧ぞ嗔らん、翁子朱買臣)の拙
同心夙得白鸞賢  同心 夙に得たる、伯鸞と孟光)の賢
林泉啼鳥春來也  林泉、鳥啼いて春来たり
門巷無人晝寂然  門巷、人なく昼寂然たり
慵役尖頭臨乞米  尖頭筆)を役して「乞米顔真卿の乞米帖)」を臨するも慵し
裙衫送盡抜花鈿  裙衫送り尽くして花鈿を抜く(そして質屋へもってゆく…)

 さて、当時の江戸には、頼山陽の葬式に駆けつけることのできなかった無念の人物が二人居りました。ほかならぬ、山陽が一番最初に儲けた子である聿庵(いつあん)、 そしてもう一人は山陽の弟子に一番最初になった美濃の村瀬藤城であります。山陽との最後の面会の様子を、この二人に会って星巌が真っ先に語ったのは疑ひやうがない。 聿庵が西帰するにあたって、星巌は次のやうな詩を贈り餞別としました。

  ョ承緒西歸賦長句以爲贐
  ョ承緒(頼聿庵)西帰するに長句を賦して以て贐けとなす

鵑啼催得發征車  鵑啼き催し得て征車発す
留滯江城兩歳餘   江城に留滞す、両歳余
曾擬承歡爲コ逸   曽て、承歓機嫌取り)「徳逸孝子の名:『晋書庾袞伝』)」にならんと擬すも
豈圖泣血是皐魚  豈に図らんや、泣血して是れ「皐魚不孝者の名:『韓詩外伝』)」
愁邊新樹客衣冷  愁辺の新樹、客衣冷やかに
望裏白雲親舎虚  望裏の白雲、親舎虚し親を思ふ望雲の情「吾親その下に舎(居)る」:『唐書狄仁傑伝』)
行到琵琶湖水畔  行き到って琵琶湖水の畔
知君弔影重歔欷  知る、君、影を弔して重ねて歔欷するを  
                 承緒の東するや、翁送りて湖上に至り一別遂に永訣と成る。

 そして村瀬藤城については、彼は当時美濃上有知(こうずち)の庄屋代表として、下流との水の利権をめぐり白黒つけるべく訴訟活動に奔走してをった訳ですが、 当時のお役所仕事は待つのが仕事みたいなものですから、その間にはいろいろ見聞や交際もひろめ得たことと思ひます。殊にも江戸にはもう一人の師である美濃岩村藩出身の昌平黌儒官、 佐藤一齋がをりましたから、研鑽には余念がなかったはずです。この『梁川星巖翁』の本には、後に藤城遺稿の編集時には既に紛失してゐた「東行日記」の一部が、 著者伊藤信翁によって幸運にも引用されてゐて、今となっては村瀬藤城の事迹を辿る上でもたいへん重要な本になってゐるのですが、記事の全ては逐次ここに録して置きたいと思ひます。

 まづは星巌との七年ぶりの邂逅。やっぱり気まづかったのか文政12年に帰省した時には両者会ってないらしく(笑)、 こんな遠地だからこそ(そして山陽逝去といふきっかけがあれば猶のこと)旧交が復活するといふのも自然で、これはよく分かりますね。

  七月九日源士錦見訪、遂相攜汎墨田川、酒中話舊   梁川星巌
  七月九日源士錦(村瀬藤城)訪はる、遂に相ひ携へ墨田川に泛かび、酒中旧を話す

萍縦同泛木蘭橈   萍縦同じく泛ぶ、木蘭の橈かい)[遊覧船の謂]
豈料天涯見久要   豈に料んや、天涯久要を見んとは
萬事不囘成往夢   万事回らず往夢と成る
一尊對酌又今朝   一尊対酌また今朝
受風蘆葉碧掀舞   風を受けて蘆葉、碧、掀舞し持ち上がって舞ふ)
借酒面皮紅上潮   酒を借りて面皮、紅、上潮す
莫倚舩窗弄斜景   船窓に倚りて斜景を弄ぶ莫かれ
分明照出髪蕭蕭   分明に照出す、髪の蕭蕭たるを

  墨江舟中次韵梁君伯兎見示       村瀬藤城
  墨江舟中、梁君伯兎の示さるに次韵す

廿載家江舊畫橈  二十載20年)家江の旧き画橈[遊覧船の謂]
忽然斯地又招要  忽然として、斯地にまた招要す
悠悠墨水當藍水  悠悠たる墨水もまさに藍水長良川)なるべし
眷眷今朝猶昨朝  眷眷たる今朝も猶ほ昨朝のごとし
船納新涼衣怯薄  船、新涼を納めて衣薄きに怯ゆ
座談昔事酒將消  昔事を座談すれば酒、将に消えんとす
依依風月同商略  依依たる風月、商略を同じくすれば
須慰三杯彼采蕭  須らく慰すべし、三杯、彼の蕭よもぎ)を采らん彼の蕭を采らん、一日見(あ)はざれば三秋の如し:『詩経』采葛)

 【村瀬藤城「東行日記」抄出記事】221pより。

天保四年癸巳(1833)

七月九日。晴。暑甚。訪梁川(星巌)、長戸(得齋)。
       與星巖夫妻同泛舟墨江。遂觀燈北里。  (星巌夫妻と同に舟を墨江に泛べ、遂に燈を北里吉原遊郭)に観る。)

  十日。晴。從北里還。  (北里より還る。)

  十七日。陰。梁伯兎來。置酒。出其前日舟中之詩見示。 (曇り。梁伯兎星巌)来る。置酒。其の前日舟中の詩を出して示さる。)
      墨江舟中次韵梁君伯兎見示。(有詩略之)

  十八日。陰。終晴。往八代洲河岸。遂訪梁伯兎於南八溝。伯兎置酒。 (八代洲河岸に往き、遂に梁伯兎を南八溝八丁堀)に訪ふ。伯兎置酒す。)

  十九日。陰。同伯兎往吹屋町觀場。夜三鼓後歸館。  (伯兎と同に吹屋町市村座)に往き観場。夜三鼓三更:真夜中)後に帰館。)

  廿六日。晴。往八代洲河岸。訪梁川。

八月十日。晴。晩雨至。同一齋先生次韵。奉和常藩藤田(東湖)君迎公駕於臨江樓。謝賜其題詠之作。

  常藩常盤:水戸藩)藤田(東湖)君の公駕(徳川斉昭)を臨江に迎へ、其の題詠を賜るに謝するの作に、和し奉る。

樓臺霽孤月  楼台、孤月霽れ
寰宇去千魔  寰宇、千魔去る
涼思搖h樹  涼思、h樹を搖らし
清輝入素波  清輝、素波に入る
時迎鳴玉轡  時は玉轡の鳴るを迎へ
且和歩虚歌  且つ和す、虚しく歌ひ歩むに
滿郭蟾華在  満郭、蟾華月光)在り
君家影最多  君の家、影最も多し

十一月廿七日。晴。早梁川(星巌)來。往廻向院觀角力。
十二月晦日。晴。午飯後上兩國橋。至廻向院。又往南八(丁堀)。訪梁星巌宅。晩飯。
      歳除愛日樓(佐藤一斎)守年不寝。與諸君劇談。竣其明。將去應天門外觀列侯賀正之儀衛也。偶用梁公圖近製韻。

  歳除大みそか)愛日樓佐藤一斎)年を守りて寝ず。諸君と劇談、其の明けに竣る。将に應天門外に去りて列侯の賀正の儀衛を観んとする也。偶ま梁公図近製の韻を用ふ。

漏盡鐘鳴送故年  漏臘:十二月)尽きて鐘鳴り故年を送り
滿城佳氣欲明天   満城の佳気、明けんと欲するの天
擬觀春駟擁侯伯   観んと擬す、春駟の侯伯を擁するを
坐向夜窓談聖賢  坐して夜窓に向ひて、聖賢を談ず
旭影熹微芸閣外  旭影は熹微たり、芸閣の外
松香浮動碧溝前  松香は浮動す、碧溝の前
書生報國領歌在  書生の報国、領歌在り
摸寫驩虞硯墨邊  模写せよ、驩虞歓娯)、硯墨の辺

天保五年甲午(1834)

正月廿五日。晴。煖甚。午後往八重洲。往築地。經長戸(得齋)。訪詩禪(梁川星巌)而還。

 ああ、さうさう江戸には長戸得齋も居ったんですね。【ノート8 補遺】で述べましたが同じく美濃の人で、文政12年に、大垣に居った梁川星巌から村瀬藤城への「御無沙汰手紙」を(多分)託され、 それを藤城に渡すとそのまま北上。飛騨高山・富山・金沢・新潟と、大いに見聞を広め、遊んだのち江戸入りし、昌平黌で類書の校勘の仕事に従事することになった加納藩の学究です。 当時まだ32歳ですが、在野詩人の星巌や、苗字帯刀を許されたとはいへ庄屋身分の村瀬藤城にすれば、地元の藩士の若きエリートであり、 上方文化と縁が切れてゐる点では文化的にも異なった後輩世代の出現であります。この後、美濃の藩士の人々から、やがて小原鉄心を中心とするやうな幕末動乱に活躍する第三世代のグループが輩出されてゆく訳ですが、 この当時はまだ世の中も平穏で、長戸得齋はその中間世代の代表。北陸をめぐる卒業旅行を終へ、あとは幕藩体制のなかで研鑽を積んで、出世も約束された前途洋洋たる少壮学者として、 私にはなんだか北條霞亭のやうなイメージがあります。村瀬藤城の弟弟子にあたる訳なんですが、佐藤一斎の昼間の弟子が長戸得齋なら、放課後の弟子が、 訴訟活動に奔走する陽明学的な民間学者の村瀬藤城といふところでせうか。
 一方、さらに自由な野に在る星巌とは云へば、水戸藩の若き要路の人、藤田東湖(28歳)と家族ぐるみの付き合ひが始まり、彼を介して早速徳川斉昭公に詩を捧げてゐます。 以て江戸での尊王活動の第一歩と云ふべきでせうか。村瀬藤城(上述)や長戸得齋にも同様の詩が見えてゐますが、 藤城の日記に佐藤一斎と藤田東湖と両方の名が出てくるところは、なるほど頼山陽直系の弟子なんだなぁ、といふ感じがします。

2009年2月17日


【ノー ト15】 火事で焼け出される

  中秋無月、士錦期而不至
  中秋、月なく、士錦(村瀬藤城)期するに至らず

誰共清吟把一盃  誰と共にか清吟して一盃を把らん
暮陰黯澹鎖亭臺  暮陰、黯澹として亭台を鎖す
故人與月同羞澀  故人、月と同じく羞渋す
拍遍欄干喚不來  遍く欄干を拍いて喚べども来らず

  夜將半雲破月來、重賦寄士錦
  夜将に半ばならんとして雲破れ月来る、重ねて士錦に賦して寄す

午夜殘雲一綫開  午夜残雲、一綫ひとすぢ)開く
勅厨火急具樽罍  厨に勅して火急に樽罍そんらい:酒樽)を具せしむ
果然清影落吟席  果然として、清影は吟席に落つるも
惆悵月來人不來  惆悵たり、月来て人は来らず

 平易な詩で、約束に違った藤城を重ねて詰ってゐるところを見ると、日頃の負目は反対に星巌の方にあったのかとも思はれることです(笑)。さて、江戸での星巌・藤城御両人の動向は、 相撲を見たり、芝居を観たり、果ては隅田川に船を浮かべて吉原へ繰り出したりと、極貧をかこちながらも微笑ましい限りの「その日暮し」振りですが、明けて天保五年、 人生の貧乏時代の底を打つやうな最後の事件が星巌夫妻を見舞ひます。この夷白庵、2月7日に起こった大火事に巻き込まれ、あとかたもなくさっぱりと焼けてしまふのです。藤城の「東行日記」から、

二月七日。晴。風甚。是日未牌二點。神田佐久間町二丁目。出火。延燒南八丁堀、佃島、大川西畔及兩國而止。馬喰町四丁目少不燒。通白金町、十軒店、東片側皆燒、 南及南傳馬町一丁目而止。此火燒者九時。至八日天明而滅。
(二月七日。晴。風甚し。是の日未牌二點不詳)。神田佐久間町二丁目の出火。延燒すること南は八丁堀、佃島、大川西畔、両国に及びて止む。馬喰町四丁目は少しで焼けず。通りは白金町、 十軒店、東片側は皆焼け、南は南傳馬町一丁目に及びて止む。此の火、焼くは九時にして八日天明に至りて滅す。)

当事者の星巌は、詩に斯く記してゐます。

  火災紀事。八首(うち二篇録す)

烈焔須臾欲滿城  烈焔、須臾にて城に満たんと欲す
爆聲相和警鐘聲  爆声、相ひ和す、警鐘の声
天跳地踔渾闔磨@ 「天跳び地踔み乾坤顛ず:韓愈の詩句」は渾て闔
只恐三光不復明  只恐る、三光日月星)の復た明らかならざるを

東阡纔熄又南陌  東阡わずかに熄めば又南陌阡陌:市街)
火氣兼旬殊未銷  火気、旬十日)を兼ねるも殊に未だ銷えず
何暇心情管春事  何ぞ心情の春事を管するに暇いとま)あらん
百花生日是今朝  百花生日2月15日)是れ今朝

 このとき救援に駆け付けた村瀬藤城の「うさぎ救出」の逸話が面白い。けだし、子供のなかった紅蘭小母さんは小動物が大好きだったやうで、 後年安政の大獄の厄に遭った際にも「鳩の世話を誰がするんぢゃ!」と騒いで獄吏を悩ませた話は有名ですが、江戸では貧乏暮らしの慰みに白うさぎを飼ってゐたらしい。 さしづめ「本当に、すぐどっかに跳んで行っちゃって世話かかるんですよ。ここにも人偏の付いた白うさぎ(伯兎)ゐますけど(ヂロリ)。」とか言って、 やってくる客人皆に憂さ晴らししてたんでせうね(笑)。

  訪梁星巖於向島   村瀬藤城「東行日記」より

 二月七日之災及梁星巖家。余走赴其家。既不可救。勸之亟逃。星巖家有愛畜白兎一。忽忙中苦其處置。余遽拉之而走。爾後星巖寄書云。向島鴉子隱居畔。有所知而寓焉。 越其廿一日。與宮子淵、藤強哉謀。買舟昌平橋。泛墨江而訪之。載兎以送還之。
 (二月七日の災、梁星巌の家に及ぶ。余、走りて其の家に赴くに、既に救ふべからず。之に亟すみや)かに逃るを勧む。星巌の家に愛畜白兎の一1匹)有り。忽忙の中、其の処置に苦しむ。 余、にはかに之を拉して走る。爾後、星巌書を寄して云ふに、向島鴉子の隠居畔に知る所有りて寓すと。越えて其れ二十一日。宮子淵(宮原節庵)藤強哉(藤井竹外)と謀りて、 舟を昌平橋に買ひ、墨江に泛べて之を訪はしめ、兎を載せて以て之を送還す。

鶏犬圖書欲委塵  鶏犬、図書、塵に委せんと欲す
世間烟火及仙津  世間の烟火、仙津にも及べり
葛洪急急移家去  葛洪道士:星巌の謂)も急急に、家を移し去る
留箇兎兒長寄人  箇の兎児を留め、長らく人に寄す
訪君鴉子隱居邊  君を訪ぬ、鴉子隠居の辺り
墨水閑泛送兎船  墨水、閑かに泛ぶ、兎を送る船
避火亦知避奏似  火を避くるはまた奏を避くる※に似るを知りたり
桃花灣外認炊煙  桃花湾外、炊煙を認む※            ※「桃花源之記」)
映杯碧水縠紋[巡?]  杯に碧水を映じて、縠紋ちりめんのやうな波紋)の[巡?]り
弱柳生風翠欲顰  弱柳、風生じて、翠は顰まんと欲す
爲是尋人撥橈去  是れ人を尋ねるを為して、橈かじ)を撥ねて去り
却看濹上一番春  却って看る、墨隅田川)上一番の春

 この佳話は、本によると読売になって江戸中のニュースになったさうで、かつて駱駝の詩がニュースになったやうに、鴛鴦詩人星巌夫妻の話題性は、 ゆくところマスコミが放っては置かなかったらしい。田舎住みの村瀬藤城が、山陽門下の後輩、宮原節庵や藤井竹外とこんなところでしっかり横のつながりを確認しながら発揮してゐたことも分かって、 嬉しいかぎり。

  災後就某侯邸中借一小舎詩以紀事二首
  災後、某侯邸中に就きて一小舎を借る、詩以て事を紀す、二首

餘燼炎炎氣未沈  余燼、炎炎として気未だ沈まず
破箱殘簏倩誰尋  破箱、残簏箱)、誰を倩やと)ひて尋ねん
打頭纔借一間屋  打頭頭を打つほどの)纔かに借る、一間の屋
焦尾兼亡三尺琴  焦尾※、兼ねて亡ぶ、三尺の琴 ※後漢の蔡邕(さいよう)が半分焦げた材で作ったといふ名器。焦尾琴。)
湖象焚來縁有齒  湖象※、焚し来るは、歯有るに縁り※象は牙あるが為に焼き殺される。)
池魚災及或無心  池魚、災ひ及ぶも、或ひは無心ならん ※「池魚之禍」
爨炊未害姑因熱  爨炊さんすい)、未だ害せず、姑らく熱に因る
世路何之不火林  世路、何ぞ之れ(何くに之くとも)火林ならずやいや世の中どこも火宅である。)

 某侯邸は水戸藩向島小梅邸。「湖象」「池魚」は何か暗示してゐるのでせうが、不詳です。

驚慌稍定首重囘  驚慌、稍や定りて首重ねて回らす
殆是人間小劫灰  殆んど是れ、人間の小劫灰
數掩籬先添竹補  数掩の籬は先づ竹を添へて補ひ
半弓地未乞蔬栽  半弓半歩)の地は未だ蔬野菜)を栽うるを乞はず
室慳不易容雙膝  室妻)慳にして、陶淵明のやうには)双膝を容るる易からず
市遠無由沽一杯  市遠くして、一杯を沽買)ふに由無し
幸有小窓明近水  幸ひにして小窓の明、水近きに有り
金龍山色送青來  金龍山色浅草寺)、青を送り来る

 全集では「室慳不易容雙膝:部屋が狭いので…」と解釈してゐますが、ここはやはりヤイノヤイノ騒ぐ十五歳年下のかみさんを尻目に星巌先生、超然吾が道を行くといった感じの方が面白いですね。
 さて、われらが村瀬藤城先生は訴訟を聴き届けられたをもって帰郷します。別れを惜しむべく旗亭に入るも、酒を出し渋る店に入っちゃったところがまたわびしさを醸し出してゐます。

  三月廿四日。與梁巖。別飲愛宕山。次韵其近製。   村瀬藤城「東行日記」より

告歸攜手思紛紛  帰るを告げ、手を携へるに、思ひ紛紛
落日憑高瞰夕曛  落日高く憑りて夕曛を瞰る
緑酒唯慙映華髪  緑酒良い酒)唯だ慙づ、華髪白髪)を映ずるを
碧樓復曷酔紅裙  碧楼、復たなんぞ紅裙花妓)に酔はん
鷗波棲古濃原水  鴎波、棲み古りし、濃原の水
鴈影行殘海道雲  鴈影、行き残る、海道の雲
杯榼未傾談未止  杯榼酒樽)未だ傾かず、談未だ止まず
山僧許否燭三分  山僧、許すや否や、燭三分するを夜半に至るを)
  鷗波星巖在濃時別號。愛宕有旗亭。但禁轟飲至夜、故云。
  (「鴎波」は星巌の濃美濃)に在りし時の別号なり。愛宕に旗亭あり。但し轟飲、夜に至るを禁ず、故に云ふ。)

 これに呼応する星巌の詩が認められないのが残念です。星巌はこの後、年末の天保5年11月まで藤田東湖に世話をしてもらったこの仮住まひにあって(「向島鴉子隠居畔」もこのことか)、 名士たちと交を訂します。しかし江戸の両碩儒のうち、松崎慊堂には会ってゐますが、東道すべき村瀬藤城が身近に居りながら、どうやら一度も佐藤一斎には会ってゐない様子であるのは、 やはり昌平黌のアカデミズムに含むところがあったものでせう。林述齋の嗣子である檉宇には詩も贈ってゐるのですが、やがて起こる蛮社の獄の対応をめぐって流れた渡邊崋山助命嘆願に係る噂に対しては、 町の人々と思ひを共にしたのかもしれませんね。

2009年2月18日


【ノー ト16】玉池吟社

 さて不運続きの星巌先生でしたが、この年「華頂王」なる貴顕にお目通りが叶ひ、精神的には喜びの絶頂を迎へてもゐるやうです。このひと、これ以降も詩題に度々現れてくるひとですが、 尊超親王(諱:福道、号:玉龍)と云ひます。徳川家が帰依する浄土宗の総本山、京都は華頂山知恩院の門跡(7代目)なのですが、出生は有栖川宮織仁親王の[8]男にして、さらに将軍徳川家齊の猶子なんだとか。 そもそも「猶子:ゆうし」ってのがよくわからない親戚づきあひの身分でありまして、公武一体どころか「徳川(儒)・門跡(仏)・朝廷(神道)」三位一体の象徴みたいな御方(笑)。 幕府(現政権)のおえら方が大嫌ひの翁にとっては、かつては皇位継承者でもあられた人物(光格天皇の養子として幼称「種宮」ってのが意味深長)が、去年から徳川家菩提寺である増上寺に駐駕されてゐると聞き、 もとより文雅にも明るく当時眷顧を被った数少ない文人が大窪詩仏・巻菱湖の両先輩と聞いては何をか躊躇ふべき。おそらく無頼の酒呑みである菱湖の派手な口添へなんかが呼び水となり、 布衣たる一尊王詩人の名が知られ、嘉せられることになったのでありませう。余程名誉のことに感じたらしく、道服を下賜された喜びを綴った詩の後には、先輩に感謝する詩や、 「木俣子仁、大冢子乾の諸子、大窪天民(大窪詩仏)及び余を邀(むか)へ、舟を墨田川に泛ぶ、時に余と天民、並んで華頂王賜る所の道帽を著る、第五句故に及ぶ」なんて詩も律儀に載っけてをります。 そつないんだなあ(笑)。言ってみれば京都に於いて、ヤンチャな先輩頼山陽と日野資愛すけなる)卿の間にちゃっかり居場所を見つけた時とおんなじです。 これで尊王の念ひは不動のものになったに違ひなく、この華頂王、星巌翁が安楽に身を終へるためには正に貴顕(危険)人物であったとも云へるのではないでせうか。

華頂王賜道服、副以叡藻一章恭紀    華頂王、道服仏教在家信者の服)を賜ふ、副へるに叡藻一章を以てす、恭しく紀す

袞褒併忝又何加  袞(衣)・褒(詩)併せ忝かたじけな)くす、また何をか加へん
野客風儀始見華  野客の風儀、始めてを華を見る
三幅畳成玄水浪  三幅畳ね成す玄水の浪 ※
一重襯出赤城霞  一重襯あらは)し出す赤城の霞 ※天台山の仏教遺跡、赤城山
栄多翁子昼披錦  栄は翁子(朱買臣)の昼に披く錦※より多く  ※「富貴にして故郷に帰らざるは錦を衣て夜行くが如し」
恩過武甄春挿花  恩は武甄の春に挿す花※に過ぎたり  ※「ぶけん:嵩山に隠れ唐の中宗に召された博学文人」
亦有芳心向軒曜  また芳心の軒曜※に向かふ有れども   ※「星の名。軒曜=軒轅は、また黄帝、つまり皇威の謂。」
不応小草漫抽芽  応に小草の漫りに芽を抽くべからず

 まさに小草の漫りに芽を抽くべからず・・・「尊王の志は誰にも劣るものではございませんが、私のやうな身分の低い詩人をそんなにお引き立てなされては・・・」晴れがましさ一杯です。

贈巻致遠、致遠以書優待於 華頂王、数羞吐茵之愛    巻致遠に贈る、致遠書を以て華頂王に優待せられ、数ば吐茵之愛※を羞かたじけな)くす
                                                    ※「吐車茵:酔って貴顕の車の敷物に吐いても怒られないほどの眷顧」

張旭由来草聖伝  張旭は由来、草聖草書の聖)として伝はる
従他酔後語尤顛  従任ま)かす、また酔後、語の尤も顛するに
雲煙一紙何其貴  菱湖の揮毫した)雲煙の一紙、何ぞ其れ貴き
博得王宮萬斛泉  博し得たり、王宮万斛の泉

 万斛の泉はもちろん酒の泉ですね。

 ちなみに華頂王が駐駕した増上寺の真乗院(港区芝公園2丁目11-9)は現在あとかたもなく門に名のみ残れる由、正に門跡。そしてこの天保五年の11月に星巌翁が興し、 江戸詩壇を席巻することとなった世に名高い「玉池吟社」もまた、これをを建てるにあたって先輩大窪詩仏が栄華を極めた詩塾である「江湖社」の跡地を求めたものの星巌は探し出すことができず、 さうして翁亡きあと明治の頃にはすでに、今度は玉池吟社の行方が分からなくなってゐたのだといひます。なんとも、はや。

「玉池吟築記」 『星巌集丁集』巻頭序文)

 江城の東隅、北に迤[ななめに]ゆ)けば柳原に至る。市塵稍々疎、旧も)と一泓の水有り。号して玉池と曰ふ。郷者さきに)西野[市河寛齋]・天民[大窪詩仏]の両詩老有り。 相継いで此に居る。並びに亭榭[見晴らし亭]花竹の勝有り。以て壇站を張る。一時の才俊、靡然として之に従ふ。号して江湖杜と称す。海内艶慕す焉。曽て幾何時ぞや、 累に大災に遭ひ、風流蕩然たり。往事を追憶すれば、恍として隔世の如くにして都門の文雅遂に寥落を致せり。歎くに勝ふ可けんや。
 吾が友美濃の梁公圖、少時江湖社の盟に預り、詩名既にして[やがて]著はる。其の後遠游、殆ど二十年にして還る。居未だ定まる所有らず。今茲秋遂に此の地を相し、嚮の池を求むるも識る可からず。 乃ち別に一池を開き、竹樹を環らし植ゑ、屋を其の上に構へて、名づくるに其の旧に依って玉池吟築と曰ふ。
 余謂ふ、公圖は江湖の浪士也。飄然漫遊して拘束を受けず。其の遊踪の及ぶ所を詢と)へば、東は筑波に至り、南は筑石に至り、多く名山水の境を渉り、会心の処有る毎に、 輙ち琴書を寓す。然れども久しき者数年、近き者数月、棄て去って顧みず。雪泥鴻爪の若く然り。今乃ち一池を眷顧し、冥飛の翼を屈し、下つて之に居り、拮据経営、 将に身を終らんとする者の如きは何ぞや。亦夫か)の詩派の出づる所なるを以て也。夫れ詩派嘗て此に出で、都門に流衍し、海内に波及す。誰か知らん、此の池、涓涓の小にして、 其の沢[余沢]は乃ち此の如きを。是れまた天下の上游のみ[一流の地にほかならぬ]。豈に其の竭涸けっこ)荒廃を聴ゆる)すべけんや。
 今、公圖を得て拠りて之に居れば、廃者は将に興らんとし、涸者は将に流れんとし、前日の盛も将に復すべからんとする也。然るに今の園地は嚮さき)の園地に非ず。 今の亭榭は嚮の亭榭に非ず。而して公図の詩派も又稍々嚮の二老に異なる。是れ名は旧に依ると曰ふと雖も、実は則ち創新也。猶ほ之れ少康の夏に於ける、 文叔[光武帝]の漢に於けるが如し[中興の祖である]。名は同じくして実は異なる。公圖其れ勉めざるべけんや。
 今池は已に開け、築も已に就れり矣。人皆な領を引いて目を刮こす)り、将に大に公圖に望む有らんとする也。其の記を索むるに及び書して以て之を勗つと)む。

天保甲午五年)南至冬至) 鐵研學人 齋藤正謙撰 (原漢文)

「玉池吟社の遺蹟」  坪谷水哉

 刀圭を以て本業としながら、寧ろ副業の詩と書の大家として知らるる永阪石埭翁は、明治初年、郷里名古屋より上京し世俗に於玉ケ池と称する神田区松枝町に居宅を定め、 其所に住むこと四十年にして旧臘再び郷里へ退隠し、専ら詩書に依って風月を楽しむことと為った。其の松枝町二十三番地番宅の前に、 東京府庁は今回新たに梁川星巌等の玉池吟杜蹟といふ標札を樹てて、其所が市内に貴重なる名所なることを表彰した。之に就いて数多の逸話が伴ふのだ。

 梁川星巌は幕末の勤王家で、殊に其の詩に於ては天保弘化の頃には天下に宗と仰がれた。郷里は美濃で、江戸に出て神田の於玉ケ池の地に住んだ。之より前に文化文政の頃、 大窪天民、詩を以て覇を天下に称し、号を詩仏と謂ひ、江戸神田於玉ケ池に住み、其頃の詩人は多く其所に会して江湖社と名づけ、星巌もまた其の社中に在った。天民没して後、 家は火災にに遭ひ、亭樹泉石とも烏有に帰して了ふたが、星巌は其頃年若く未だ居所を定めず、其妻紅蘭女史と共に四方に遊歴すること殆ど二十年、 天保五年江戸に帰りたる頃は既に天下の大詩人と仰がるゝ様になったから、江湖社を尋ねて其所に住まうと思ひしに、火災の後で池も築山も一切分からなくなった故、別に其の近傍に土地を買ひ、 庭に池を設け、竹や樹も植ゑて家を池の岸に建て、玉池吟社と呼んだ。スルと英名忽ち世に広まり、教へを請ふ者、門前に市を為すといふ景況で、幕末より明治に通ずる名高い詩人は多く玉池吟社の社員である。 小野湖山、大沼枕山、森春濤、岡本黄石、鱸松塘、江馬天江、遠山雲如等の名士が皆な其だ。

 星巌夫妻が於玉ケ池に住んだとき、佐久間象山も其の隣家に住して常に往来、星巌夫人の紅蘭女史が、また一個の女丈夫である所から、時に良人と意見が衝突、 星巌が怒って紅蘭を郷里へ還すとて、門人小野湖山を随はせることになり、湖山が象山の家へ告別に行った為に、象山は驚いて星巌を説いて其事が中止と為ったといふ伝説もある。 が、星巌夫妻は其後江戸を引き払ふて京都に移り鴨川の東北に棲んで鴨沂小隠と号し、是も星巌の友であった頼山陽が其の少しく前に鴨川の西岸に住んで文名天下に鳴ったに対して、 星巌は続いて詩壇の宗と仰がれた。其後の星巌は、表面には詩に托して、香を焼き書を読んで優遊自適に風月を楽しむ様で、実は窃かに勤王の志士と往来して大いに国事に力を尽くして居たので、 安政五年秋、閣老間部詮勝が幕命を奉じて京都に赴き、山陽の子、三樹三郎等を首として、大に勤王の志士を捕縛したとき、星巌を以て巨魁と目指したが、幸か不幸か星巌は大捕縛の三日前に年七十で歿した。 其の死後幕吏は未亡人紅蘭女史を捕へて獄に下したが、女史は暫時にて釈された。

 話頭一転、永阪石埭翁は明治の初年に東京へ出て、於玉ケ池の辺りに家を捜し、庭もあり池もある一邸宅の安物があったから買ひ求めて住み、医業を以て門戸を張って居ると、 同県人で曽て尾張藩の督学になり後に判事または司法省大書記官となりし鷲津毅堂が来訪して、庭や池を眺め、

『先生此家は以前星巌が住んだ玉池吟社の跡で無いか。私は師の藤森弘庵の使で数回来たことがある。確かに此所だと思ふ』

p2

と話されて、主人石埭翁は始めて自分の宅が玉池吟杜の跡と知ったが、当時尚ほ半信半疑であったので、其頃の詩友岡本黄石翁が玉池吟社の社友だったから、 一日訪ふて其事を質した。然るに黄石翁は元と彦根藩の家老職で、其頃の時勢は濫りに他人の家を尋ねることなど出来ざりし為に、 詩人として玉池吟社に籍に置いたが其の家は一回も訪ふた事が無かったから自分は知らないと言はれて、未だ十分に確かめることが出来なかった。

 其の頃、石埭翁はまた東京医会の幹事となり、医会の本部が日本橋区阪本町に在ったので、一日本部から小使を使として急に来て呉れといふ請求に、 往って用を了へて別室に憩んで居ると、茲に偶然にも玉池吟社の遺蹟を確かめる意外の人物が現はれて来た。其れは先刻迎へに来た小使だ。彼は石埭翁を尋常の医者とばかり知って、 詩書の先生とは毫も知らずして

『時に先生の御宅は梁川星巌といふ詩人が住んだ家だが御存知ですか』と問ふたから、『左様な事も聞いて居るが、足下はまた何うして其れを知って居るか』と反問すれば、

『イヤ、然うお尋ねになれば面目ありませんが、元と私の父は金座の役人で相当な身分の者でありまして、閑暇の折には詩を作って、星巌先生から添削して貰ひ、 私は何時も其の使ひに参ることを楽しみと、阿父さん未だ詩は出来ませんかと催促する位にて、出来ると直ぐに持って参った者であります。 といふのはお恥ずかしいが其の頃私は道楽に於玉ケ池に居た月琴の師匠の許へ窃かに稽古に参りましたが、父が矢釜しくて容易に出らませんから、 星巌への使に仮托けて其れで度々大っぴらに行かれるのを喜びましたが、其の道楽の末が、今は此所の小使で居る様な始末です』
と頭を掻きながらの懺悔話に、更に委しく彼が記憶する星巌邸内の模様を聞きて、始めて玉池吟杜の遺蹟たることが明白と為ったのだ。

 其の家は、後に石埭翁が更に手を入れて、庭には池に臨んで星舫、寿篷、祭詩龕といふ何れも支那風の建物が三棟並び、舫と篷は池に因んで船に擬し、 室内の装飾も一切支那から取り寄せ、清朝の大儒楊守敬は玉池仙寰と書いた額を贈り、同じく兪曲園や其他の名士から貰った額や聯も数多掲げられ、 竹樹泉石とも宛然支那風に配置せられて如何にも詩人の住宅と首肯かる。で、石埭翁が名古屋へ退隠するに際り、此の遺蹟を保存することに就いて甚だ苦心すると聞きて、 茲にまた東京史蹟の保存に熱心なる東京鰹節問屋の巨擘イ号(にんべん)の主人高津伊兵衛氏は、曽て曲亭馬琴の住宅蹟を求めて保存しけるが、今また石埭翁の事を聞き、 之も譲り受けて永久に保存せんことを申し出で、交渉は直ちに纏まり室内の装飾から庭の樹木まで総て現状の侭で引き継ぎ、斯くて支那にまで聞えた遺蹟は安全に保存せらるることに為り、 偖こそ東京府庁は警視庁に交渉の上、門前の路傍へ新たに標札を樹てて其れを表示したのだ。(昨年の大震災で荒廃したのは惜しい事である。)

 現在のお玉稲荷(千代田区岩本町2-5-13)は、もと筋向ひの岩本町2-6-3から移されたものと云ひますが(鶴岡節雄氏『房総文人散歩』52p)。 google地図はもちろん、当時の地図を睨んでも永阪石埭翁の邸宅だった位置は確定できさうにありません。。

2009年3月16日up / 4月6日 update 


【ノート17】天保の大飢饉

同梁公図、宮士淵泛舟墨水次公図旧題韵   
 梁公図、宮士淵[宮原節庵]とともに舟を墨水に泛べ公図旧題の韵に次す  神田柳溪

満江流水泛軽橈  満江の流水、軽橈けいじょう:軽舟)を泛べ
三両同人相共要  三両同人、相ひ共に要す[待つ]
万里不期来此処  万里期せず、此処に来たるを
一杯且以永今朝  一杯、且つ以て今朝を永うせん
俯波簾幕燈斉上  波に俯す簾幕に、燈は斉しく上り
近海風潮酒半消  海に近き風潮に、酒、半ばは消えたり
欲向橋辺分手去  橋辺に向ひて分手して去らんと欲すれば
不堪楊柳晩蕭蕭  堪へず、楊柳、晩蕭蕭たるに
                         『南宮詩鈔』巻之下14丁

 牧百峰が「一気呵成風致多少見伎倆於次韵不知公図云何:一気呵成にして風致の多少[多いこと]、次韵に伎倆を見る、公図は何を云ひしや」と頭評してゐます。

 さて星巌の賦すらく、

同神實甫、宮士淵、泛墨田川。賦長句兼贈二子
 神實甫[神田柳溪]、宮士淵[宮原節庵]とともに墨田川に泛ぶ。長句を賦して兼ねて二子に贈る

川色揉藍欲染衣    川色、藍を揉んで衣を染めんと欲す
一篙唖[口軋]破煙霏  一篙の鴉軋舟の軋る音)、煙霏を破る
銀絲掠水雨師過    銀糸は水を掠るて雨師雨の神)過ぎ
彩暈彌天虹女飛    彩暈、天にあまねく虹女虹の神)飛ぶ
沙歩笛聲桓子野    沙歩の笛声、桓子野晋の笛の名人)
江城詩句謝玄暉    江城の詩句、謝玄暉李白の詩句「敬愛する謝眺の北楼は絵のやうだ」を踏まへる)
風華今古燦相暎    風華今古、燦として相映ず
不得君曹誰與歸    君が曹ともがら)を得ずんば誰とともに帰らん

 天保五年帰還した村瀬藤城に代って上京してきた郷友神田柳溪と翌六年に詩酒徴逐を尽くし、玉池吟社門人も次第に増えていった筈の星巌翁ですが、詩をみる限り生活は苦しさうな感じであります。
 もとより時は天保の大飢饉に当たり、食べ物が払底してゐたのは日本中のことであって、当時の多くの漢詩人も窮状を詩にしてゐます。牧百峰
 もちろん食道楽の翁には耐えがたかったに相違なく、雅趣掬すべき庭園もしばらくは、門人達の手によって野菜畑にされた模様です。

余郷産一種佳蔬、名潮江菁。視之壬生小松諸菜、脆美勝遠。会星巌翁、園中有余地、遥取其実蒔之。以寄郷園之想。亦所謂有小佳趣者。乃賦数詩以歌之。
 余が郷、一種の佳蔬を産す、潮江菁と名づく。之を壬生(菜)小松(菜)諸菜と視るに、脆美(柔らかさ)勝ること遠し。たまたま星巌翁、園中に余地有り、遥かに其の実を取りて之を蒔く。 以て郷園の想ひ寄す。亦いはゆる小佳趣有る者なり。乃ち数詩を賦して以て之を歌ふ。(もと6首中3首)

                                          森田梅礀(名は居敬、通称簡夫、土佐の門人)

贏利青銭三万緡  贏利は青銭の三万緡[利益は青銅貨の銭さし三万金に値する]
可医菜色在黎民  医やすべし、菜色は[庶民]に在り
荷鉏亦是英雄事  鋤を荷ふも亦是れ英雄の事
未必樊須是小人  未だ必ずしも「樊須は是れ小人」ならず[農作業を賤しむ論語の故事には当たらない]

「微物を詠ずるも亦大いなる関係あり、尋常の詞人に非ず」と頭註するのは同年輩の門人大沼枕山。

新芽嫩甲緑全開  新芽、嫩甲[若芽]、緑、全開
試摘秋烟筐裏堆  試みに秋烟[の様にけむる芽]を摘めば筐裏に堆し
未敢我私収上番  未だ敢へて我れ私ひそ)かに上番[収穫の最初]を収めず
先輸地主当税来  先づ地主に輸おく)る、当に税の来るべし[まづ地主の星巌先生に差し上げます、税金を納めるやうなものでせう]

一味杯羹愛軟柔  一味の杯羹、[歯ざはり]軟柔を愛す
歯牙先覚滑香流  歯牙先づ覚ゆ、滑からに香流るるを
甘菁不是淮南橘  甘菁、是れ淮南の橘ならず[淮水の北に植えたら枳になってしまふやうな橘とはちがふよ]
異土能成故土秋  異土能く成す、故土の秋

 星巌翁の十首のうちから2編を録します。

余玉池之寓、隙地皆種蔬。亦貧家小經濟也。今茲十月五日、以冬蔬命題。同諸子賦、兼抒衾臆。得十絶句 (録七)
 余が玉池の寓、隙地皆な蔬を種う。亦貧家の小経済[節約]也。今茲十月五日、冬蔬を以て題を命ず。諸子と同に賦し、兼ねて衾臆を抒ぶ。十絶句を得。(七つ録す)

十月林園液雨滋  十月の林園、液雨滋し
煙芽露甲緑参差  煙芽[煙る様な細かい芽]露甲[露にぬれた芽]、緑、参差しんし:不揃ひのさま)たり
庾郎三韭李侯二  庾郎[庾杲之]の三韭さんきゅう:3×9=27種の菜)、李侯[李崇]の二韭:2×9=18種の菜)
未害貧厨併薦之  未だ害さまた)げず、貧厨併せて之を薦むるを

庾郎=庾杲之(ゆこうし、庾鮭)は『南斉書』の列伝にみえる清貧の士。: 清貧自ら業とし、食するは唯だ韭葅・生韭等三種雑菜有るのみ。 或ひと戯れに曰く「誰か庾郎を貧しきと謂へり、鮭[調理した菜]を食らふに常に二十七種[の菜]有り。」[これに答へて]言はく「三韭3×9)也。」と。因りて「庾鮭」を以て貧苦生活を喩ふ。

李侯=李崇(りすう)は北魏の尚書令[宰相]。原註に引かれた故事は以下の通り。:『洛陽伽藍記』に、陳留候,李崇、尚書令,儀同三司[准大臣]と為り、 富は天下を傾けり。而して儉吝多く、悪衣粗食、食らふに常に肉無く、止ただ)韭薤きゅうかい:ニラ)有り。崇が客・李元祐、人に語りて云へり「李令公は一食十八種。」と。 人其の故を問ふ。元祐曰く「二韭2×9)十八」と。聞者大笑す。

玉本纔殘又玉延  玉本[大根]纔わづ)かに残すれば[ほとんどなくなれば]、また玉延[山芋]
朝昏牙頬響鏘然  朝昏、牙頬、響き鏘然たり[シャキシャキ]
不成一事頭斑白  一事をも成さざるに頭は斑白
咬菜仍須二十年  菜を咬みて仍な)ほ須ま)つ、二十年 [人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做(な)すべし『菜根譚』]

 この年は大風、霖雨のほかにも、獣の毛が空から降ってきたさうで、塾をきりもりするおかみさんは慨然として逆切れ、先生は達観の面持ちです。 籾山氏は誰であるか詳らかにしない。けだし『玉池唫社詩』に収録の門人いづれかの旧姓ではないでせうか。

丙申之秋大饑書感 適籾山生餉新穀故第四句及之  張紅蘭
 丙申[天保七年]の秋、大いに饑え、感を書す。 適たまたま)籾山生、新穀を餉らる。故に第四句、之に及べり

平居猶見甑中塵  平居、猶ほ見る甑中の塵[貧乏の様]
況乃淫雨饑荐臻  況んや乃ち淫雨、饑え荐りしきり)に臻いた)るをや
久矣挙家皆食粥  久し、挙家、皆な粥を食ふこと
恵然一担幸嘗新  恵然一担、幸ひに新[新穀]を嘗な)む
応縁黎庶疎生業  応まさ)に黎庶[庶民]の生業に疎なるに縁るべし
豈是蒼旻好殺人  豈に是れ蒼旻そうびん:天)殺人を好まんや
滄海為田争供得  [たとひ]滄海、田と為るも争いかで)か供するを得ん
滔滔天下足游民  滔滔たる天下、游民足れり[怠け者が多すぎるのです]

歳晩書事五首(録一)
 歳晩事を書す、五首(録一)

鶉衣露肘釜生魚  鶉衣じゅんい:ボロ着)肘を露し釜、魚を生ず
雨雪藨藨逼歳除  雨雪飆飆ひょうひょう:降るさま)歳除(年末)逼る
自己饑寒猶不彀  自己饑寒するも、猶ほ彀[弓を]はら)ず[まだまだ大丈夫だ]
晨昏枉誦活民書  晨昏、枉げて誦すは活民の書

 年明けて天保八年、餓莩がひょう)路に横たはる飢饉の果てに、大阪では中齋大塩平八郎が義挙を起こします。徳富蘇峰翁や伊東信先生がそれを詠んだものに相違ないと仰言る「詠史」は次の二編。

蒹葭無際水悠悠  蒹葭、際無く、水悠悠
二百年來覇氣収  [豊臣滅亡して]二百年来、覇気収まる
尚剰金湯爲保障  尚ほ金湯[金城湯池:堅牢な守り]を剰あま)して保障と為す
誰名仁義弄戈矛  誰か仁義を名として戈矛を弄せん
清平有事是天警  清平の有事は是れ天警なり
合党雖多非國讐  合党、多きと雖も国讐には非ず[国家の逆賊とは云へない]
君子原情定功罪  君子は情を原たづ)ねて功罪を定むなり
賈紘妄誕豈春秋  賈紘の妄誕[世迷言]、豈 に春秋[の筆法:正しい歴史の評価]ならんや

 賈紘といふ人物が不明です、朱子を讒言した胡紘の誤記かとも思はれます。「体制べったりの奴の批評なんて信用ならん」といふことでせうか。

驀地風濤舞老鯨  驀地風涛、老鯨を舞はしむ
礟車迅発百雷聲  砲車迅発、百雷の声
石頭從昔例縦火  石頭[石頭城]昔より例に火を縦ほしいまま)にす
京口於今能用兵  京口今に於て能く兵を用ふ
爲惜先生空講道  為に惜しむ、先生空しく道を講ぜしを
可嗤竪子漫成名  嗤ふべきは、竪子の漫らに名を成せしこと
捷書只報孫歆死  捷書[勝報]は只だ報ず、孫歆死すと
不道冥鴻萬里行  道い)ふなかれ、冥鴻[夜空を飛ぶ大鳥]萬里行くと

 石頭城も京口も三国志の呉の地名、孫歆はその呉国滅亡に際しての郡都督です。
 「冥鴻萬里行く」とは、屍体が判別できずに当時広まった「大塩の旦那は闇夜に逃れ外国へ脱出した」といふ流言を指すのでせう。
 しかし蜂起を「天警」大塩平八郎を「鴻」に擬へ、「合党、多きと雖も国讐には非ず」と庇ひ、「嗤ふべきは、竪子の漫らに名を成せしこと」と敵に回った区区たる与力仲間を揶揄するなど、 批難するより惜しむ口吻であることは明らかであります。

 同じく二月には、嘗てお玉が池で詩塾の帷を下ろし、天下に名をとどろかせた大窪詩仏先輩が長逝しました。「詩は詩仏 書は米庵に 狂歌俺 芸者お勝に料理八百善」。 詩聖堂の経営と異なり、こちら星巌先生の玉池吟社吟社は、時代が悪かったとはいへ、かつてない規模の詩塾だったといふに拘らず、束脩と潤筆料にうるほった形跡があまり感じられません。 都講にすべてを任せての銷夏か、さらに「公図」を画策する秘密基地にこもりたかったのか。お玉が池より大きな不忍池の畔に一夏、居を移したのは天保十年のことであります。

2009年4月13日up / 4月14日update


【ノート18】(書きかけ)

拝啓久闊の至ニ御座候。秋冷の候、倍々萬福賀し奉り候。小生も当夏初より伏枕、此頃は稍や平癒ニ向ひ申し候。実に黄泉へ趣き申し候程の処、幸ひニ回復仕り候間、 憚り乍ら安堵下さるべく候。扨て、此度拙著「丙集」刻成候ニ付き、呈上仕り候、御清覧下さるべく候。「五山堂詩話」も五山病気にて、彼是延引ニ及び申し候処、 今年は脱稿上木致すべきに候、出来次第差し出し申すべく候。○江戸表も比年荒凶、種々騒動に及び、右に付、文人も寂寥の至りに御座候。小生は幸ひニ、此頃ハ大分門生も集り、 繁昌に向ひ申し候、先々御安心下さるべく候。然し乍ら江戸は久住の地にも之なく、何レ京都へ趣き申すべきに候、其砌には拝晤と楽み居り申し候。時下寒候ニ向ひ申し候、 御自愛専一祈り奉り候。草々頓首。

 (天保九年)九月七日        梁緯

烟漁老兄 梧下

  尚々貴境諸君へも、御次手ニ、宜敷く御伝声煩はせ奉り候。○近頃書画文房ハ如何、承り度く候、以上。

【ノート19】へ続きます


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