も どる

2017年 日録 掲示板 過去ログ


良いお年を

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年12月31日(日)15時58分4秒
  年 末は日常生活から些末事を追ひ出すことに専念したかったのですが、介護の件を発端に、不便を感じなかっ た携帯電話をスマートフォンに買ひ替へてより、その機能に驚くわ、自らの情弱ぶりに呆れるわ、休暇を ゆっくり読書に勤しむ時間はなくなりさうな気配。
毎年恒例で晒してきた購入古書も、懐具合もさることながら未だに放置中。今年は五点記すに留めます。

『星巌絶句刪』天保6年(とても探してゐた梁川星巌の第2詩集。)
『絶対平和論』昭和25年(とても探してゐた保田與重郎の筆になる無署名本。)
『現代詩人集』全6冊 山雅房 昭和15年(第2巻は田中克己を収めたアンソロジーの一冊。今年は他に も先生の本で買ひ残してゐたものを揃へてゆきました。)
『村瀬秋水 巻子軸』(「憶昔相逢歳執徐・・・甲子夏日臨書 秋水七十叟 老朽故多誤字観者 宜恕之」 恕すも何もまったく手つかず状態。)
『奎堂遺稿』乾坤 明治2年(刈谷で出された最初の版。森銑三翁による評伝も一緒に購入。)

みなさま良いお年をお迎へ下さいませ。
   
 

『イミタチオ』58号 「芸術の限界と限界の芸術」

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年10月21日(土)20時38分40秒
    金沢近代文芸研究会、米村元紀氏より『イミタチオ』58号の御寄贈に与りました。ここにても御礼申し上 げます。ありがたうございました。

 保田與重郎を論ずるライフワークも四回目。今回は、初期の『コギト』同人たちが創作理論の眼目として 重要視した「リアリズム」について。それが解体期の左翼文壇とどのやうな関りをもってゐたのかを第一章 に、そして当時のソビエトにおけるスターリン独裁体制の現実を、保田與重郎がどのやうに理解し評してゐ たのかを第二章に、二つに分けて論じられてゐます。

 先づ第一章「ナルプ解体と社会主義的リアリズム」では、昭和8~9年にかけての、プロレタリア文学運 動が解体してゆく過程を説明。その理由として、小林多喜二虐殺を象徴とする国家暴力といった外的要因だ けでなく、
「昨日までの正しかった創作理論(唯物弁証法的創作方 法)が突然誤りとされ、(創作精神の個々に自立を要求する社会主義リアリズムといふ)新理論が登場 したのである。」39p ※( )内中嶋
といった内的要因の大きかったことが指摘されてゐます。そして昭和9年に日本プロレタリア作家同盟(ナ ルプ)が解散し、左翼文学者たちが見舞はれた混乱を紹介。
そんな最中、「反帝国主義」を掲げた学生運動の気運のもとで、昭和8年4月創刊された雑誌『現実』に 集った同人の一人として、保田與重郎の姿を追ってゐるのですが、雑誌の中心人物であった田辺耕一郎の回 想はなかなか意外なものでした。

 保田与重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく 知っていた。
 その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとし た優雅でねばりのある文章で、 東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。
 文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情 とをもつ珍らしい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じ「コギト」の人 たちとも親しくした。
 三木清、豊島与志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵 抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。
 彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメム バーになって手伝ってくれたりしたのである。」 (田辺耕一郎「学芸自由同盟から「現実」まで」) 


 雑誌『現実』はしかし、折角「リアリズム」を問題意識として共有しながらも僅か半年五冊をもって廃刊 してしまひます。こののち象徴的なナルプ解散を経て、左翼陣営の文学者たちは、「人民文庫陣営」・「日 本浪曼派陣営」へと分れてゆくことになる訳ですが、その過程において、内外でものされた批判の応酬を紹 介しつつ、保田與重郎と左翼系文学者との関係(友情と齟齬と)に即した省察がめぐらされてゐます。(森 山啓に対して行はれた批判の応酬が、日本浪曼派に合流する亀井勝一郎からのものとともに詳述されてゐる のですが、私の荷に余る話題なので措きます。)

 当時『コギト』の内部では、保田與重郎とは異なる考へ方をもつ高山茂(長野敏一)が突出して左翼思想 を標榜してゐました。彼は東大在学中の昭和7年、構内でアジ演説を行った廉で退学処分となり、コギト同 人では唯一学生運動の犠牲者となりますが、その際、演説を聞いてゐて共に警察に検束された田中克己は、 一晩泊められた拘置所で正義感の表明方法に対する反省をし、文芸の指向も以後モダニズムへと傾斜してゆ きます。文中この演説事件のことが触れられてゐますが、当時を記した日記がこの期間のみ残ってゐないの は残念でならぬことです。
『コギト』同人の中でもすぐ頭に血が上る正義漢だったのでしょう、長野敏一・田中克己の二人は、高校時 代の同盟休校ストライキの際の行動においても急進派らしい振舞をしてゐますが、イデオロギーより人間を 重視し、しがらみも無視しなかった保田與重郎にしてみれば、さぞ付合ひに苦慮するクラスメートだったこ とでありましょう。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣 野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一 とわたしが「再起しよう。今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだ が、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。(田中克己『コギト』解説:昭和59年臨川書店復刻版) 

 さうして左翼陣営の人々の「抵抗する生きざま」には共感を示しつつ、保田與重郎が具体的な政治的課題 を責任を以て担ふことができぬ自分の弱さを認め、軽率な行動をいましめていった要因には、実はこの身近 な友人たちの決起に逸った顛末も、大きく影響してゐるやうに思はれてならないのです。

 ★

 さて第二章の表題「芸術の限界と限界の芸術」は、保田與重郎の『コギト』寄稿タイトル。
マルクス主義が実践されてゐるロシアの文学者、ゴーリキーが言挙げる「社会主義的リアリズム」。その任 務と、彼が夢見た芸術の将来像について、そしてそれを完膚無く裏切った独裁者スターリンによる「ソ ヴェート的現実」に対して、保田與重郎がめぐらせた思惑についてが語られてゐます。

 そして恐怖政治の実際を実見して一転、ソビエト批判に転じたフランスのジイドについて、彼の言葉を信 じない左翼陣営の教条主義者たちを嗤ったのはもちろんですが、個人主義者ジイドの西欧ヒューマニズムに も加担せず、保田與重郎は「ソヴェート的現実」の本性から目を背けようとする左翼ヒューマニストたちに 対して、政敵を次々に粛清してゐる「スターリンに感心する」と殊更に言ひ放ってみせたりする。自身の良 心にも匕首を当てつつイロニーを弄する、これが保田與重郎ならではの立ち回りとは云ふものの、誤解の危 険の代償ある言挙げであるといへましょう。

苛烈な政治の場で芸術がどうあるべきか、また何を背負はされるかを自問する彼にして、これよりさき「芸 術の力を用いて人民を功利的に思想教育するプロパガンダ」といふものに対する拒絶反応といふのは、右左 に関係なく、物事や人物の善し悪しを見分ける際にほとんど生理的な嗅覚となって発動し、働くやうになっ たもののやうに思はれます。

 さうして独裁者のもとで華ひらく芸術の様相を比較してみる際にも、ふと豊臣時代に成った桃山文化の豪 壮を念ひ泛かべるなど、まことにこの時期の彼の言辞には、米村氏が冒頭に引いた高見順の言葉、「彼の 「精神の珠玉」を信ずる」ことのできる人とは、如何に時代と自分の弱さとに絶望した人でなければなけれ ばならなかったかと、そんなことを思はされたのでありました。

 ★

 このたびも冊子の過半頁を占める力作ですが、これまでの分量から察して『イミタチオ叢書』の一冊とし て単行本にまとめられる予定も立てられて来たのではないでしょうか。広く戦前文学を研究される方々に報 知させていただきたく目次を掲げます。

『イミタチオ』58号(2016.10金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート4「芸術の限界と限界の芸術」米村元紀……37-91p

第一章 ナルプ解体と社会主義的リアリズム
  1. ナルプ解体声明書
  2.森山啓と社会主義的リアリズム
  3.保田與重郎と社会主義的リアリズム
  4.学芸自由同盟と『現実』創刊
  5.新たな友情
  6.「委托者の有無」
  7. 森山啓の反論
  8.保田の再批判
  9.亀井勝一郎の森山批判
  10.森山啓の「転向」

第二章 芸術の限界と限界の芸術
  1.「ソヴェート的現実」と芸術の将来
  2.十九世紀文学の死滅とロマン
  3.ジイドと「ソビエトの現実」
  4.スターリンと「ソビエトの現実」
  5.保田與重郎と「ソビエトの現実」
  6.「誰ケ袖屏風」
 

『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年10月13日(金)21時57分26秒
編集済
    青森県つがる市の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』の寄贈に与りま した。

 今回は詩人が代用教員をしてゐた黒石高等小学校時代(大正9,10年)22,23歳の、詩を発表し始 めた当時のことをとりあげてゐます。親戚・思ひ人・文壇・教へ子と人間関係を幅広く紹介してゐる内容が 興味深いのですが、東北の詩壇にも土地勘にも事情の暗い私においては、刊行された分もふくめてこれまで の目次を下記に掲げて公開するに留めたいと思ひます。
 ひとつだけ記すとして興味深く思ったのは、私は常々「詩 人の出発あるある」と称して、魅惑の女性との破局が詩人のトラウマとなってゐるこ と、そして母方の叔父に変人が居て詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へてゐること、この二点をいつ も注目しながら伝記を読んでゐるのですが、一戸謙三に於いてはその両つともが該当してゐたといふことで す。

 さて今回、わが詩集サイトとして内容からとりあげたのは、職場のガリ版印刷機を使ってたった二十三冊 印刷されたといふ第一詩集『哀しき魚はゆめみる』。 冊子では書影の紹介のみですが、晃様の許可を得ましたので今回、全文のPDF画像を公開させて頂けるこ とになりました。
 https://shiki-cogito.net/library/0i/ichinohe-kanashiki.pdf

 当時の詩壇を風靡した萩原朔太郎や室生犀星の影響が色濃い、「詩人の出発期」を感じさせる一冊です が、語感の滑らかさや言葉の抽斗・繊細なその選択は、単なる摸倣から一歩抜きん出た様相をみせてをり、 詩人の天稟を感じさせます。

 いったいに詩風に幾変転はあっても、所謂駄作を残さない、知的で潔癖な印象を読者に与へ続けて来た詩 人ですが、この処女詩集にまでさかのぼって見てみても、いとけない情感はさりながら、さうして朔太郎の 語感、犀星の語調の痕はありながらも、完成品として眺めることが可能であり、その審美眼が確かであった 証拠品といへるのではないでしょうか。そしてまたこれはテキストに翻字してしまふより、かうして詩人の あはあはしい筆跡のままに、より強く感じられるところのデリケートな原質を大切にしたい。そんな風にも 思はれたことです。

 またこれを読んで考へさせられたのは、さきに『玲』163号でも公開されたパストラル詩社時代の添削 詩稿のことです。福士幸次郎からの先輩詩人としての指摘は、摸倣を脱するようにとの真っ当な助言である とともに、彼に理知を以てまとまってしまふ危険を感じて不満を呈した、世代の差異によるところがあった かもしれません(『玲』163号より抄出↓を参照のこと)。

 この利発さはこののち、ガサツに過ぎるプロレタリア文学ではなくモダニズム文学へと彼を誘ひ、さらに その利発さにさへ自己嫌悪を覚えた挙句、折角身につけたモダニズム手法を破産・放棄させ、郷土詩や定型 詩といふ古典的な「殻」を身に纏って防禦的な決着へと彼を導いていったやうに思ひます。エロチシズムに も領されながら、ここにみられる一種の端正な佇ひは、謂はば詩人の原初にしてその最初からの発現ではな かったかと思はれてならないのです。

 潔癖に過ぎる審美眼が、この初期作品群を羞恥とみなし、在世中には長らく纏められることもなく、坂口 昌明氏によって『朔』誌上に於いて再評価されるまでそのままにあったことは残念なことではありましたけ れど、その純情で知的な詩心は、時代をもう少しだけ下ってゐれば、(戦争中の詩作がそれを証してゐるの ですが)、必ずや含羞をこととする『四季』のグループに交はってゐたものとは、私の常々直感するところ です。

 一方、朔太郎のエロチシズムや犀星の望郷調が語彙語法として盛り込められなかった歌の方には、詩人の 素質としてのオリジナリティが、純情な感受性と共にそのまま豊穣に感知されます。

草色の肩掛けかけて池の辺に鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの葉陰にさびし尾をふれる馬

月のした輪をなしめぐる踊り子の足袋一様に白く動けり

うす苦き珈琲をのみつしみじみと大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

鏡屋の鏡々にうつりたる真青き冬のひるの空かな


 東北の一角より個人的に刊行され、中々手にすることの難しい冊子でありますが、昭和前期を中心に、詩 人が遺してきたモダニズム文学・郷土文学の業績に対して真摯な思ひがおありの方には、まづは書簡等にて 挨拶申し上げて送付を乞ひ、この奇特な私家版らしい風合を身上とした詩人顕彰の営みにふれてみられるの も、資料的側面にとどまらずまことに有意義のことのやうに思ひます。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。


『詩人一戸謙三の軌跡』(非売品)


第一集 平成28年11月3日発行

詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し(少年時代)」 5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い)」 77-104p
 

第二集 平成29年4月25日発行

方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p


第三集 平成29年8月18日発行

第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p


第四集 平成29年9月30日発行

第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 1-122p

すべて著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11


映画評

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年10月 5日(木)00時19分43秒
編集済
    期待したモダニズム雑誌や稀覯本が次々に繰られるものの、戦前の知性的な詩は目で味はふ要素が強いから 朗読はそぐはず、BGMの前衛ピアノも(昔のNHK「新日本紀行」みたいに陰気で)いただけなかった。

 本場シュルレアリストの絵画作品とのコラボや、フィルムの逆回しといふ古典的手法による新たに追加さ れた映像も、この映画の主人公たち──『椎の木』に拠った楊熾昌(水蔭萍)にせよ、『四季』執筆者には 名前がみつからなかった林永修(林修二、南山修)にせよ──彼らとは気質を異にするもののやうに、私に は思はれた。

 監督の手腕にかかるドラマ演出部分であるが、役者の顔が見えないのはよいとして、ならば西川満をしっ かり役に入れ、日本人との交流、日本人による日本語を絡ませてほしかったところ。何より詩人の実生活が (食卓と子供が纔かに描写されてゐたものの)殆ど描かれてゐないことが惜しまれた。後半の歴史的事実が 告げるやうに、さうして監督がパンフレットのインタビューのなかで語ってゐるやうに(これは読みごたへ あり)、この映画は、単なるシュルレアリスム的手法によりかかった芸術映画であってはいけない内容だか らである。

 画面の中で、当時の彼ら学生らしい視点を垣間見せてくれてゐるのは、同世代人である師岡宏次といふ孤 独な青年写真家によって切り取られたアングルの視覚的効果に拠るところが大きい。これだけは成功してゐ た。

 もろ手を挙げて好意的に迎へたい内容であるだけに、期待が大きすぎたのだらうか。パンフレットにおけ る巖谷國士氏の解説も、あらためてよく読み返してみれば、「ああ、確かにさうとも言へるなあ」と、苦笑 をさそふ誉め方において関心させられたことであった。★★☆☆☆

東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 9月 4日(月)17時04分35秒
  【四 季派の外縁を散歩する】
第22回 東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって をupしました。
   

『絶対平和論』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 7月 4日(火)21時32分5秒
編集済
    このたび保田與重郎の本で、永らく探し求めてゐた一冊を入手しました。『絶対平和論』といふ本 です。

 そのむかし大阪の『浪速書林古書目録32号』で「保田與重郎特輯」が組まれた際(平成13年11月) にも、入手困難で有名な『校註祝詞』や『炫火頌歌巻柵』など珍しい私家版本が現れ目を瞠りましたが、世 間に訴へるべく刷られたこの市販本は載ってゐませんでした。
 自分が現物を目にしたのも、その更に10年以上も前に神田の田村書店で一度きり。笑顔で「それ珍しい よ」とわざわざ店主が教へて下さったのに、同じ祖国社から同時に出された函入り上製本の『日本に祈る』 の方だけ買って、並製本のこちらは「また今度」といって手を出さなかった。以来三十年です(笑)。
 雑誌『祖國』での無署名の匿名連載が本になったものであり、表題も政治的なら内容も純粋な保田與重郎 の著作としては認められぬまま、古書市場に残らなかった事情があったのかもしれません。

さて『浪速書林古書目録』は毎度特輯にまつはり専門家による一文が巻頭を飾ることで有名ですが、この特 輯でも「保田與重郎の「戦争」」と題して、鷲田小彌太氏の読みごたへある一文が掲げられてゐます。さう して「絶対平和論」のことにもふれ、最後にかう総括されてゐます。

「国防であれ戦闘であれ、その実行ならびに精神はつねに実用を基盤とする。それは、絶対平和を体現 するとされる米作りが実用を基盤とするのと、変わるところがない。喫茶や稲作をはじめ、実用(技術 神経)を無視、ないし放棄した精神は、ついに、虚妄にいたる、という生活の仕方をしたのは、戦後の 保田自身であった、と私は考える。保田の光栄の一つである。」 


 保田與重郎は実用を「無視、ないし放棄」した。そのアナクロニズムこそが彼の「光栄」だったと皮肉っ てゐるのですが、たとへば“新幹線をなくせと云ってゐるのではない、あるならあってもいい、ただなくて も一向構はない”、といふ処世を、私はアナクロニズムとも無責任な放言とも思はない。実用を決して「無 視」はしないし、「放棄」したのは実用(利便性)そのものでなく、利便性に胡坐をかくことだと云ってゐ るにすぎないからです。

 鷲田氏の一文においても言及されてゐますが、保田與重郎は口を酸っぱくして「共産主義とアメリカニズ ムとを“一挙に”叩かなくてはならない」と日本の針路に対する警鐘を鳴らし続けてきました。そんな彼が 敗戦を経てたどり着いた、近代生活を羨望せぬ、米作りを旨とした社会に道徳文明の理想を託した「絶対平 和論」。
 これを現代に活かして具現化するとならば、少人数ながら、つましくサステナブルな、平和で平等なエコ ロジー文化国家を守り続けること、につきるのではないでしょうか。
 保田與重郎はもちろんその眼目として天皇制の意義を説いてゐるのですが、彼の農本主義がアナクロニズ ムならば、とまれ過去の遺産だけでなく、生きて居る日本人そのものが (卑下するなら人倫の見せ物として、自慢するなら人倫の手本として) 観光資源になってみせる位の、“世界に対して肚を括りなさい”といふ意味のことを、彼は戦争に負けてまづ最初に提言してゐるわけであります。

 日を追ってキナ臭い袋小路に迷い込みつつあるやうな今日の日本。まじめに2025年問題も心配です。
 今年(左翼フェミニストである筈の)上野千鶴子氏が「み んな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」公言して物議をかもしました。が、 さういふコンセプトが国民にひろく認知されるやう、左右の思想を越えた「非コマーシャル」な文化運動が 興らなくては(起こさなくては)ならないと、私もさう思ってゐたところです。「絶対平和論」の覚悟の立 ち位置とはさういふものです。
 日本が国柄(アイデンティティ)を保ちながらグローバル世界の中で生き残るにはこれしかありません。
 里山の田圃が消え、国民統合など眼中にない移民がなし崩しに許可され、原発事故が連発してからではも う遅い。日本はアメリカのやうな移民格差社会になり果ててはもらひたくありません。

  現在の左・右のリベラル勢力はグローバリズムとコマーシャリズムを是とし、彼らに支へられてきたマスコ ミと経済界は、企業や富裕層の富が非正規雇用者へ再分配されること、過疎化してゆく地方を都会から護り 助けようとすることを、実のところ望んでゐません。さうして肝心の日本政府もいったい何処に顔を向け、 国益の何を守ってゐるのか全く判らないといふのが現状です。
 弱肉強食を本分とするグローバリズム(安易な移民受け入れ)とコマーシャリズム(浪費社会)と、その 両方を“一挙に”叩き、リベラル勢力と政府に今一度反省をうながしてもらふこと。
 保田與重郎の絶対平和論を担保したのは「天皇制」でしたが、老鋪看板の権威を担保するのは政府ではな く、国民の総意であることを「日本国憲法」はうたってゐます。

 棟方志功の装釘で飾られた述志の一冊をながめながら、よせばいいのに皆さんに不評な床屋談義をまた一 席ぶってしまひました。


杉山美都枝「高原の星二つ 立原道造と沢西健」

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 6月26日(月)00時24分24秒

    先日購入した古本雑誌『ポリタイア』第4号(昭和43年12月1日発行)。特集とは銘打ってゐないもの の編集後記には、
「本誌の同人にゆかりの深い師友先達についての心のこ もった寄稿を中心に編集した。」
 とあり、『四季』や『コギト』に拠った詩人たちについて論考と回想が並んでゐました。

 なかんづく杉山美都枝(若林つや)氏による立原道造の回想は、『四季』追悼号で有名になった“5月の そよ風をゼリーにして”ほかのエピソードの詳細を、親しく詩人と交はった著者にしてさらに細かく、複雑 な心情を交へて吐露してゐて、そのためか以後の「特集誌」で再録の機会もなかったやうに思はれるので、 報知かたがたここに紹介したいと思ひました。

杉山美都枝(若林つや)「高原の星二つ 立原道造と沢西 健」92-100p

 文中「誰かの出版記念会」とは『詩集西康省』の出版記念会のことであ り、「『四季の人々』
という誰 かの書いたもの」も、立原道造入院中の「ベッドのわきの弥勒菩薩の思惟像の写真」も田中克己からのもの なのですが、この文章が書かれた当時、『ポリタイア』の創刊同人である芳賀檀と田中克己とはすでに折合 が悪かったらしく、名前が伏せられてしまってゐます。
 逆に芳賀檀については、立原道造の親炙する様子が、油屋での“首吊りびと”のエピソードなどとともに 面白く活写されてをり、ことほど左様にいろいろな忖度がなされた上で当時の思ひ出が書かれてゐるやうで す。
 立原道造詩集の刊行を、没後最初に堀辰雄に相談したのは出版社「ぐろりあそさえて」
に勤めてゐたこの 杉山氏であったといふことですが、その場で“きっぱり”反対されたことも書かれてゐます。
 「新ぐろりあ叢書」で展開された、日本浪曼派を象徴するやうな棟方志功による装釘が、堀辰雄や立原道 造の「このみ」に合はなかったのは確かでしょう。しかし思想的に峻拒したからと考へるのは、戦後リベラ ル派らしい付会にすぎるのではないでしょうか。
 一番弟子であった立原道造が自分と決別して傾倒していった先に待ってゐたのは若きカリスマ文芸評論 家、保田與重郎でした。ぐろりあそさえて顧問だった彼の用向きを社員として彼女が携へてやってきたとな れば、さうしてその内容が自分の影響下で育った愛弟子の詩業集成を、商業出版にしてまるごともってゆく といふことであってみれば、反対するのは無理からぬ気がいたします。
 彼は結局、山本書店版『立原道造全集』3巻本の刊行に、用紙の手配から腐心するとともに、逆に弟子に よって理由付けされた自分の詩集を出版することまで行って、立原道造と共に創り上げた四季派の抒情世界 を戦時下の世相から激しく守ら
う と尽力します。
 『四季』と『日本浪曼派』と両方の気圏にもっとも気安いかたちで住んでゐたといへる彼女は、彼らの無 防備な日常会話や挙措のうちにも顕れる心の機微を、女性として感じとる機会が多々あったといへるでしょ う。堀多恵子夫人をのぞき周りがすべて自分たちより年長の師友であること――室生犀星や中里恒子やの言 動に対しても、同様に憚りつつ、羸弱な詩人を慮るやうに草されてゐるこの回想は、『四季』同人のマ
ナーポエットである沢西健の消息を伝へる貴重な回想とともに、まことに興味深い行間を味はった一文にも 思はれたことです。

 この号には他にも、浅野晃による増田晃の紹介、小田嶽夫による蔵原伸二郎の回想、そしてこの年の8月 に亡くなってゐる木山
捷 平については、小山祐士、村上菊一郎、野長瀬正夫3名の追悼文を併載して ゐるの で、合せて紹介いたします。
浅野晃「増田晃、その『白鳥』」117-122p
小田嶽夫「随想・蔵原伸二郎」122-131p
小山祐士「木山捷平さんのこと」141-145p

村上菊一郎「夏の果て 木山捷平追悼」145-147p
野長瀬正夫「木山捷平と私」148-157p


野長瀬氏の一文は面白い書き出しで始まってゐます。

 昭和二十四年の秋頃のことである。当時私の家には五歳 と三歳になる女の子がいた。毎日部屋じゅう人形や玩具やぼろきれをひきちらかして、 ままごと遊びに夢中の年頃であったが、ある日、その二人の子供が、

「ねえ、木山さんごっこをしようよ」
「うん、しよう」
 と隣りの部屋で話し合っているのが、ふと私の耳にはいった。それきり声は途絶えたが、二人は何か もそもそやっている気配である。「木山さんごっこ」とは何だろう。私は軽い好奇心にかられて、そっ と覗いてみた。(後略)
 

豆馬亭訪問記

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 4月25日(火)10時21分8秒

  「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。 夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」   『芸窓日録』明治十四年 四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで 果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したの が明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽 りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の
予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向き をお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメ ラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当 時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も 訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊 下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。

 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各 街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前 にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに 暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の 「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場 所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍し た浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は 明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げ られてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますか ら、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額 (同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による 「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時
代 の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろい ろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19 日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じて をり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、 まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参 りました。( 『芸窓日録』に追加up した他の写真とともに御覧下さい。)

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351
 

『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 4月11日(火)12時20分32秒
編集済
    愛知大学丸山薫の会代表の安智史様より、会の編集発行に係る非売品の新刊『丸山薫の世界(丸山薫作品 集)』(2017.3.31発行 149p,21cm)の寄贈に与りました。
故八木憲爾潮流社会長との御縁を以て、私のやうなものにまでお送り頂き感謝に堪へません。ここにても厚 く御礼を申し上げます。

 内容ですが、「初期作品より」「詩集より」「豊橋関連エッセイより」「インタビュー、講演筆記より」 と4つに分けて詩人の作品が収録され、「丸山薫作詞団体歌・校歌」「略年譜」が資料として付録されてゐ ます。

 主たる分量を占めるのは「詩集より」ですが、戦前に刊行された7冊の詩集 の殆ど全てに、戦後山形県岩根沢での生活を写した『仙境』を加へた陣容は、エッセンスといふより全詩集 に近いものであり、丸山薫のやうなゆったり余白を活かした詩篇も、2段組になれば全体が100ページに 収まってしまふものであることを知っては、意外にも思はれたことでした。

 編集のみせどころは「詩篇」以外からの選択に表れてゐるといってよいでしょう。
 すなはち冒頭の「初期作品より」の2編「両球挿話」「オトギバナシ文学の抬頭」は、旧全集しか持って ゐない多くの人々が初めて目にする文章であり、丸山薫が花鳥風月の抒情詩を嫌った“物象詩人”とならざ るを得なかった消息を、稲垣足穂との気質的な親和性や既存文壇への不満を綴ることによって示したもの。
 また後半の「エッセイ」2編は、後半生を豊橋で暮した詩人にゆかりの、地元ならではの文章が選ばれて ゐるのですが、

 戦後、ふたたびここに12年間も住みつづけた現在、曾 住の地のどこよりも親しみは感じるけれども、ここが自分の故郷だという、胸を締めつけるような愛情 は湧かない。むしろ親しみと同時に、多分の反発感や冷淡な感情を持ち合わせている。そんな事を言う と、土地の人達の不愉快を買うだろうし、みずからの不利益になることは解っていても、それが偽りの ない気持であるなら仕方ないではないか。(中略)
 その代りいつしかエトランゼエの思いがはぐくまれていた。私は、いつも近くに在るものを無視して 遠方だけをあこがれる子供になっていた。(「伊良子岬」『岬』1960年11月刊) 110-111p 


 といふ、中京文化圏に対する“よそ者”感、中部日本詩人連盟の頭(かしら)に担がれることに対して も、当初
辞退しようとしたのも解らうといふ述懐に思はず目 がとまります。この文章を 肯へて選ばれたところに編者の見識を感じないではゐられません。豊橋は、子供のころ暮したことのあった 縁故の地には違ひありませんが、戦後、疎開先から上京する繋ぎに一時の落着き先と思ひなしてゐた場所で した。そのまま“大いなる田舎”名古屋の文化圏に居ついてしまふことになったのは、「オトギバナシ文学 の抬頭」にみるやうに、最初に私小説の理念を否定して詩人一本で立った彼が、外国語にも手を染めなかっ たために、小説や翻訳といった原稿料での生活の目途が立たなくなってしまったことにあったと思ひます。
 そんな彼を特別待遇を以て手を差し伸べてくれた愛知大学は、恩誼の対象であるとともにそれ故にこそ、 彼を慕ってやってくる素質のよい文学青年たちを前に、本心複雑な思ひは欝々として抱いてゐたのではない かと忖度するものです。
 コスモポリタンの夢を抱く故郷喪失者であるとともに、同時に日本人たる自覚を強く持してゐた彼は、や はり
東京か、それとも“先生”と呼ばれる職業に尊敬が 無条件に集まるやうな、人 心の純朴な僻村か、そのどちらかに本来定住すべき詩人であったと、私には思はれてなりません。

 巻末には、新修全集でもお蔵入りにされたといふ「私の足迹」と題された最晩年の講演の様子(1973 年6月17日
第 13回中日詩祭にて)が収められてゐます。
 中京詩人たちの前で話すのですから、地元が悲しむことは言ってませんが、その代りに、心の中で大切に してゐた岩根沢の風景が、経済優先の世相の中で変はり果ててしまったことに対する、もはや面に表すこと が許されない嘆きや、第四次の潮流社版『四季』をこれまで五年続けてきたものの、若い詩人たちは『四 季』より『現代詩手帖』を好むことが語られてゐます。
 岩根沢だって教へ子たちの心は変りなく先生を敬ってゐる。また当時は詩と詩集のブームの時期でありま した。しかしながら詩人にとっては、尊敬の結果として詩碑が建てられることに抵抗し、もはや詩とは言っ てもフォーク“ソング”の世代からは結局、立原道造や津村信夫のやうな詩人が現れなかったことに対する 自嘲といふか、もはや諦めのやうなものが窺はれる気もするのです。

 この録音は、本書冒頭の「初期作品」への自註になってゐる稲垣足穂に対する回想や、中盤からの、自ら の感想をさしはさみながら萩原朔太郎からもらった手紙を読んでゆく条りが何ともいへず可笑しい読み物で すが、戦後のみちゆきを、何か掛け違ってしまったかやうな旧世代の日本人のさびしさが、詩壇の中心に あった当時の回想を振り返るたびに、笑ひのうちににじみ出てくる、そんな談話になってゐる気がします。
 それはまた「四季派」といふカテゴリー・レッテルに対しても、当事者として微妙なスタンスで話してゐ ることからも窺はれます。
 戦後昭和28年の時点で編まれたアンソロジー『日本詩人全集』(創元文庫)における解説においては、 「詩壇」など詩を書く当事者の主観の中にないことを前提に、『コギト』との密接な関係に言及しつつ「い わゆる「四季派」と呼ばれたオルソドックスの流れ」や、「いわゆる四季派の精髄」として中核をなした詩 人の名を挙げることに躊躇のなかった詩人が、いざ『四季』が復刊されて自分が親分に祭り上げられた現状 での意識表明となると、一歩引いた様子がみられるのです。

 旧世代らしさは、現在の政治家の講演だったら新聞記者が食ひつきさうな表 現にもあらはれてゐます。表現に対して大らかだったこの時代、詩人ならではの拘りない気宇の感じられる 話ぶりですが、この講演筆記を本書に収録することを決めた編者の選択をやはり買ひたいです。金子光晴は 抵抗詩人ではないと言って、おそらく聴衆をドキッとさせたでしょうが、そんな彼の、戦前には人権や平和 に対する、戦後は国威や伝統への目配り・配慮を欠かさない、「ポリティカル・コレクトネス」とは異なる 「中庸」の面目が随所に躍如した、貴重でなつかしい詩人の俤に触れ得た気持ちがしました。

 装釘も「暮しの手帖」っぽいロゴが可愛らしい。詩人夫妻の自宅の縁側での睦まじい姿をとらへた表紙写 真と共に、愛読者にはぜひ一冊手許に欲しい出来上りとなってゐます。

 非売品なので、罪なことにならないか心配ですが、ひとこと報知させて頂き たく、ここにても御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


【追而1】昭和17年12月~昭和18年9月までの戦艦大和の艦長が丸山薰の義弟であったことも初耳で
した。
【追而2】金華山と岐阜城の事が書かれてゐるのは、管理人にとってはうれしいところなので、最後に ちょっと引かせていただきます。

 いま私の住む近くで知っている城を語るなら、先にも ちょっとふれたが標高330米、金華山のピークに屹立する稲葉城への道は、数年前に架設されたロー プウェイのお蔭で、登るのに骨は折れない。城は山の峻嶮と高さと、その山麓を流れる長良川とのゆえ に、上からの展望も下からの眺めも絶佳だ。
 そういえば、これらの山と川との美しさによって、岐阜という都市の全休が、いや、その空までが
どんなに品格を挙げていることか。有名すぎる鵜飼の情調はともか くとして、山麓河畔一帯の町のニュアンスまでが、なにか京都を連想させるものをもつ。(「城の在る 街と豊橋」『市政』1958年11月号)108p


 

『芸窓日録』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 4月 5日(水)20時10分50秒
編集済
  新 年の掲示板で予告してをりました、明治期の漢詩人戸田葆逸の写本日記『芸窓日録』で すが、ながらく図書館勤めをしてをりました記念に、職場の研究機関である地域文化研究所の紀要に「資料 紹介論文」として載せて頂くことになりました。
写本の原画像とともに公開いたしますので御笑覧ください。
(Twitterフォロワーの鸕野讃良皇女様から早速御教示を賜り、旧蔵者が杉山三郊と判明しました。 ここにても御礼申し上げます。)

 

八木憲爾潮流社会長を悼む

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 3月31日(金)09時07分40秒
編集済
    八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親 者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り 続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務 の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂き ましたが
、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧 に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であ ることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電 話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、 発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子 氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お 電話のたび
に 仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望 されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人 こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りし た最初の詩
集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上に あった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近 くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態 だったにも
拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩 人 の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして 私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を 冠 する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩 壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐ さめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありませ ん。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、 わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とす ることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 

「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマル クス主義民族論―」

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 3月26日(日)16時50分14秒
編集済
 
 西村将洋様より雑誌『昭和文学研究』74集抜刷(42-56p)「アフリ カからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」をお送り頂きました。

 ここにてもあつく御礼を申し上げます。

 保田與重郎が『コギト』を始めるにあたって問うたのは「何を文学する(マルキシズム)」でも「ど のように文学する(モダニズム)」でもない「なぜ文学を始めた」といふ問題意識でした。それを鮮明 に他者へ伝へるために発動された「イロニー」は、読者の偽善や安穏を暴き、当事者性を掻き立てる、 挑発的な表現手法といってよいでしょう。

 今回、俎上に上げられたテキストは、ペンネーム「松尾苳成」名義の保田與重郎の一文「文明と野蛮 についての研究──ダホミーのベベンチュ陛下の物語の解説」(『コギト』昭和13年1月号)です。

 このなかで「解説」が施されてゐるのが、いつもの日本の歴史や古典、或ひはドイツロマン派でもな く、アフリカの一王国の野蛮な逸話であることに、先づ驚きがありました。しかし蘊蓄を封印した分、 一文のイロニーも直截です。さうして斯様な表現をするためには、自身が先づ「過剰な読解者」でなけ ればならなかったといふことを西村さんは指摘します。けだし表現と読解とはコインの裏表である筈 で、過激な表現で読者に噛み付く彼は、いったい何を読み取った上でそのやうな言挙げをしてくるの か、その剥き出しの表現の手前でおさめてゐるものは何なんだ、それこそが問題なんじゃないかとの洞 察に感じ入りました。

 一文の趣旨は、列強視点の「野蛮人」を擁護するべく、宗主国への反証を敢へて試みたものなのです が、他者を自分の尺度で「野蛮人」として見くびる「文明人」のことを非難する論者自身は、ならば文 明人なのか野蛮人なのか。謂はば「上から目線」で彼らのことを勝手に忖度する矛盾を犯してゐるのを 指摘したところで、「だからペンネームなんです」と逃げ道の絵解きがされてをり、なるほどと、再び 驚いた次第です。

 中盤には「何が文明で、何が野蛮か」といふ同趣旨で開陳を試みた、スペイン人民戦線が冒した野蛮 行為を嫌悪する一文(「文芸時評 法王庁の発表」『日本浪曼派』昭和11年10月号)が上げられて ゐますが、教会への破壊行為を敢行する彼らの野蛮と、やはり当時党員の粛清を始めたスターリンの野 蛮とは、新たな文明のために払はなければならぬ犠牲といふ意味において何ら変るものでないと言及、 まんまと挑発にかかって噛みついてきた、人民戦線を擁護する三者(林房雄・亀井勝一郎・三波利夫) を、犠牲者に寄り添ふ濃度によって色分けをし、斬り捨ててゐます。

 しかし保田與重郎が三者のなかで同情を寄せた林房雄が語った、犠牲物でなく犠牲者に心を寄せる 「庶民の血」とは、言ってみればポピュリズムそのものではないでしょうか。さうして「何が文明で、 何が野蛮か」「何が犠牲者で、何が侵略者か」の議論は、ポピュリズムにおいてどちら側にも横滑りし てゆく危険があることを、西村さんは「マルクス主義民族論(植民地解放闘争)の問題意識を共有して いた」中野重治との意識の差異を通して明らかにしてくれました。中野重治と保田與重郎と、世代の異 なる両者が意識するところの「植民地(犠牲者)」が、日本に対する朝鮮なのか、欧米に対するアジア 諸国なのか、そこから発動される倫理は「他者(の立場)を想像せよ」と傲慢を弾ずることなのか「た やすく他者(の心)を想像するな」と軽佻を戒めることなのか。

 左翼思想が後退を余儀なくされたインテリゲンチャ世代の心情が、自他ともに対する厳しい自己責任 論の上に立ち、当事者として「命がけの立場に立つか、さうでないか」「命がけの立場に立てば犠牲者 が出ても仕方がないのか、そんな犠牲がでるようなものは正義でも何でもないのか」の決意表明や選択 を次々に迫られていった時代下でのお話です。

 西村さんは最後に己の決意の純粋のみによりかかる保田與重郎のレトリックを、「決断の修辞学」 「野蛮の倫理学」と呼び、時代によっては「極めて危険な言葉」となって飛び出すと心配してをられま すが、──さて警鐘は時を隔て、現在の日本でも鳴らされる可能性があるものかどうか。

 現在の日本は、金権政治家とマスコミとが反目しつつも一致して掲げるグローバリズムへと巻き込ま れてゆくやうにもみえます。このまま欧米と同様の格差社会・分断社会への途を進んでゆくのではない か、本当に不安ですが、もしも保田與重郎が再び現れ、イロニーを弄してタブーの告発を行ったとし て、飽食文化と自虐史観に馴らされた国民が「炎上」し、目醒めることなどあるでしょうか。このたび はポピュリズムによって潰されてしまふのではないでしょうか。


 

『敗戦日本と浪曼派の態度』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 3月20日(月)12時42分19秒
編集済
    同人雑誌『コギト』の事務的・経済的サポートを唯一人で負ってゐた発行者、肥下恒夫の初めての評伝『悲 傷の追想』(2012.10ライトハウス開港社)が出たことには、本当に驚きましたが、その後、続篇といふべき『敗戦日本と 浪曼派の態度』(2015.12同)が刊行されてゐたことを知り、先師田中克己の盟友であった肥下氏の 数奇な生涯が、さらに詳しく明らかにされ、そして顕彰されてゐるのを目の当たりにしました。

 前著同様、引用されてゐる日記と原稿は、著者澤村修治氏のフィールドワークによって発掘された肥下家 に遺されてゐた初公開資料であり、日記には保田與重郎や田中克己の名も頻出してゐます。
 喜びと、不思議な懐かしさも伴っての読後感を、遅まきながら澤村様にお便り申し上げたところ、折返し の御挨拶と、わがライフワーク(田中克己日記)に対する 激励のお言葉を賜りました。そして、肥下氏の御遺族とは現在もやりとりが続いてゐること、またこのサイ トの存在についてもお報せ頂いたとのことに恐縮しました。
 けだし肥下氏の「戦後日記」の内容は、当然ですが「田中克己日記」の記述と符合するものですし、戦前 の「コギトメモ」の方は、 恰度詩人が日記を書かなかった時期にあたり、文学史の中心に『コギト』があった時代の、貴重かつたいへ ん興味深い証言資料です。
おそるおそる澤村様を通じてお尋ねしたところ、二冊の著書に引用されている「肥下恒夫日記」の“田中克 己の出て来る個所”について、「田中克己日記」に併記する形でネット上に転載してもよろしい、との許可 を頂いて、御二方に感謝してページを更新、喜んでゐる次第です。

 当時の肥下恒夫、田中克己、保田與重郎(そして中島栄次郎・松下武夫・服部正己)らは、旧制高校らし い友情のむすびつきにおいて、今ではみることのできない、濃い文学上の同志関係を築いてゐました。
 なかでも一番の富裕で年長者でもあった肥下氏は、学業からも創作活動からも離れ、自分たちが興した雑 誌『コギト』の編集・発行者として自ら黒子に徹することで“共同の営為”の舞台を支へ、保田與重郎と二 人三脚で戦前文学史に於いてノブレスオブリージュを果たしたと呼ぶべき奇特な同人でした。その驕ること のない穏健な性格には、君子然の視線が感じられ、年少の庶民階級出身の田中克己を、才気煥発の直情詩人 として終始大らかに見守ってくれてゐた様子は、例へば『大陸遠望』のゲラを読んでの感想(昭和15年9 月8日)にも、

「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気 付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」(『敗戦日本と浪曼派の態度』154p) 

と、偽らざるメモ書きのうちにも表れてゐます。
 ところが田中克己の方では、彼らの伯父叔母同士が夫婦であった遠戚の気安さも手伝って同級の肥下氏に はぞんざいなところがあり、敗戦間近の昭和19年4月9日には、『コギト』の存続問題に関して談判に いったものの意見が容れられず、癇癪をおこして一方的に絶交を突き付けてしまひます。

「15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申 渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。」(田中克己日記) 

 もちろん肥下氏は絶交するつもりなどなかったのですが、二人はそのまま出 征。生きて帰国した後も、近くに住みながら、会ひに来ない往かないといふ気まづい事情がしばらくわだか まってゐたやうです。
その肥下さんの、昭和22年4月16日の日記に記された「夢」の一件が面白い。

「今暁田中の夢を見る。保田の家に泊つて寐てゐると田中 が来る。ベッドに腰を降して寐てゐる身体に手をかける。こちらは前から知つてゐるので少し笑ひたく なつたが眠つた振をしてゐると身をもたせかけて来るので目を開くと彼の顔が間近にあつた。福々とく 肥えてゐた。抱き合つて横たはると二人は期せずして目から涙が流れ出て来た。」(『敗戦日本と浪曼 派の態度』89p) 

 復縁への期待が深層心理に働いてゐるのでしょうね。「コツ」と綽名された田中克己が夢の中で太って現 れたのは、復員した保田與重郎に遭った時の驚きが投映されてゐるのかもしれません。事実、田中先生も別 人のやうな頑丈な姿で家族を驚かせたさうですから。
 結局昭和22年になって田中克己が反省し、旧交は無事復活したのですが、農地解放で資産を失ひ、学業 を中途放棄したため再就職もままならず、『コギト』の復活が自分の元ではできなくなってしまったことに より、戦後の肥下さんの周りからは文学的な交遊が消えてゆきます。
 帰農した肥下さんの立場がふさがる一方で、田中克己は出世街道を歩む旧友たちに伝手を求めながら、大 学人とし
てなんとか「社会に順応」してゆきました。尤も縁 戚である二人は他の友人等 とは異なり、気の置けない間柄は両者の日記からも窺はれはするのですが、次第に二人が疎遠になっていっ たには、お互ひの生活に手一杯だったことに加へ、気心の知れすぎた気安さもこの際には仇となり、却って 無関心で済ますことができたといふ事情もありはしなかったか、そんな思ひを日記を翻刻しながら肥下さん の名が現れるたびに私は感じてをりました。もし田中克己が上京 せ ず、帝塚山もしくは関西の大学に残って居ればどうなってゐたでしょうか。

 引き続き一年一年の日記に解説を付すにあたっては、澤村氏と同じく、私も田中克己長女の依子さんと連 絡をとり、断片的な記述を御遺族の記憶によっておぎなふことで、出来るかぎりの正確を期すべく心掛けて ゐます。そんな日記も只今1959年までの公開を了へました。肥下さんの最期を伝ふるまであと3年。本 日は山川京子様と日を同じくしての祥月命日です。
 御冥福をお祈りするとともに、ここに澤村修治様、肥下里子様に対し、厚く御礼を申し上げる次第です。 ありがたうございました。

追而
澤村様からは別途、編集に携はる論壇誌『表現者71号』と御著『八木重吉のことば』もお送りいただきま した。『表現者』には対談「今こそ問われるべき日本浪曼派の意味」が載せられ、一世代前の研究者たちが たどりついた共通認識を踏まへた論点が、再確認されながら総括されてゐます。『コギト』の意義について 話して下さった澤村氏の発言が、日本浪曼派に対する関心を『コギト』の同人にまで拡げ、無償の営為に殉 じた肥下恒夫の生涯に思ひを致してくれる人が一人でも増へてくれればと期待いたします。
 

『日本近代詩の成立』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 2月 6日(月)10時51分11秒
編集済
  市 立図書館の新刊コーナーに、職場の大学院にも出講される亀井俊介先生の『日本近代詩の成立』(南 雲堂 2016)をみつけました。アメリカ文学とその受容史に取り組んでこられた比較文学界の泰斗にして、このたびは日本の明治大正詩人を縦横に解釈されてゐま す。近代詩に縁の深いフランス詩のみならず、漢詩にまで踏み込まれた内容に興味津津、早速借り出してき ました。

600頁にものぼる内容の約半分が、80歳以降に脱稿された書き下ろしであることに先ず驚かされ、当 ホームページの興味を惹く章から繙き、残りは半ば勉強のつもりで読んでゆきましたが、七五調の文語詩に 疎い上、翻訳の機微に触れる考察等にも歯が立たず、果たして他の部分も理解できたかどうか怪しいとこ ろ。ですが目をつむって拙い紹介を試みてみます。

『日本近代詩の成立』といふ、たいへん大きなテーマのもとに各章が配置されてゐますが、浩瀚な分量かつ 広範なジャンルにわたる文章は、執筆時期も半世紀にわたる著者のライフワーク集成であります。
序章に述べられてゐるやうに、そもそも岐阜県は東濃の田舎町から詩人を志されたといふ先生、若き日には 日夏耿之介の大著『明治大正詩史』を読み、多大な感化を蒙られたと云ひます。そして学識と主観とを前面 に打ち出した、あの佶屈聱牙な「入念芸術派」の論旨に対して信頼と敬意とを払ふ一方、切り捨てられた詩 人たちについてはやはり納得ゆかない気持を持ち続けてこられたとのこと。ならば自らは「入念芸術派」で なく「シンプル自然派」の感性を以て、その補完を試みてみたいと謙遜の辞を述べ、過去に書かれた論文を 集めて時代ごとに配し、足りない部分は書き下ろして、ここにやうやく完結をみた本であるといふことで す。

なるほど島田謹二を介して日夏耿之介とは専門を同じくする孫弟子にあたる亀井先生ですが、『明治大正詩 史』を「補完」するといふ趣旨に極めて忠実、忠実すぎるといふべきか、かの大冊において詳述されてゐる 「浪曼運動」から「象徴詩潮」の条り、近代詩の立役者といふべき薄田泣菫・蒲原有明、北原白秋・三木露 風、そしてトップスターの萩原朔太郎さへもすっぽり省略されてゐる目次を、まずはご覧ください。

『日本近代詩の成立』亀井俊介著 2016.11南雲堂刊行  B6版574p ¥ 4,860

序 章 日本近代詩の展開 書き下ろし(平成27年2月脱稿)

第1章 『新体詩抄』の意義 書き下ろし(平成27年12月脱稿)

第2章 草創期の近代詩歌と「自由」 (昭和51年2月『文学』岩波書店)

第3章 『於母影』の活動 書き下ろし(平成25年11月脱稿)

第4章 北村透谷の詩業 (昭和50年4月『現代詩手帖』思潮社)

第5章 近代の漢詩人、中野逍遥を読む (平成25年10月『こころ』平凡社)

第6章 『若菜集』の浪漫主義 (昭和32年2月『比較文学研究』東大比較文学會)

第7章 内村鑑三訳詩集『愛吟』 (昭和57年1月『文学』岩波書店)

第8章 正岡子規の詩歌革新 書き下ろし(平成25年7月脱稿)

第9章 ヨネ・ノグチの英詩 (昭和48年10月『講座比較文学5』東京大学出版会)

第10章 「あやめ会」の詩人たち (昭和40年8月『英語青年』研究社)

第11章 『海潮音』の「清新」の風 書き下ろし(平成26年5月脱稿)

第12章 『珊瑚集』の官能と憂愁 (平成15年3月『知の新世界』南雲堂)

第13章 「異端」詩人岩野泡鳴 (昭和48年7月『講座比較文学2』東京大学出版会)

第14章 昭和の小ホイットマンたち (昭和44年11月『東洋の詩・西洋の詩』朝日出版社)

第15章 『月下の一群』の世界 書き下ろし(平成26年7月脱稿)

第16章 安西冬衛の「春」 (昭和52年11月『文章の解釈』東京大学出版会)

参考文献 初出一覧 あとがき

もちろん近代詩の歴史は、謂はば西欧詩摂取の歴史でもありますから、著者の専門とする「訳詩」の考察に は重きが置かれてゐます。『於母影(明治22年)』、『海潮音(明治38年)』、『珊瑚集(大正2 年)』、『月下の一群(大正14年)』とエポックメイキングな訳詩集の4冊が、詩壇へ及ぼした影響もふ くめ、詳しく論じられてをりますが、しかし何といっても気になるのは、その影響下に名を連ねるべき明治 大正詩人の重鎮たちが、批判対象としても俎上に上ってゐないことではないでしょうか。
一方それとは反対に、北村透谷や内村鑑三、野口米次郎、岩野泡鳴といった、明治以降日本に持ち込まれた “自由”の問題と何らかの意味で格闘して、敗れた感じのある人々ばかりが論はれてゐます。
(先生と同郷の島崎藤村が芸術派で唯一、章を立てられてゐますが昭和32年の旧稿。また変ったところで は、漢詩ゆゑ一般には敬遠されてゐる中野逍遥にも一章を割き、畑違ひにも拘らず、日夏耿之介も認めた 「新体詩以上の詩的エフェクト」が論じられてゐます。)

そして読みつつ気づいていったのは、『明治大正詩史』から発せられた無視や批判を「まったく逆転させて はじめて正鵠を射る(435p)」やうな、「品位なるものに支配されない」表現力にあふれた詩集を中心 に拾ひあげてゐることであり、「日本近代詩史は、一般に主流的考え方を正統としてうけいれてしまってい るので、こういう詩集を無視してきたが、これを検討し直し、再評価することは、近代詩史そのものの内容 をどんなにか豊かにすることになるのではなかろうか。(263p)」と、全体を通して各所に説かれてゐ る点でありました。ことにも、

「詩人の骨法を持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を欠いてゐるやうであったが、その点が 却って我々の心に食ひ入る」(230p)
「これは失敗訳であろう。ただその失敗によって、内村鑑三の思考の在り方は鮮明になっている。」 (247p)
「結果だけとらえて批判することは、何の役にも立たぬ。」(418p)
「非「詩的」な表現(=あけすけな「自己」の告白427p)のほうになんと胸に迫るものがあること か。」(425p)
「やがて日本近代史の背骨となるべき現実主義的精神と詩法をもっともよくつかみ、もっとも大胆に実行し てゐた詩人」(433p)

と、内村鑑三の訳詩集『愛吟(明治30年)』、岩野泡鳴の口語詩集『恋のしやりかうべ(大正4年)』に 対しては、惜しみない言辞が贈られてゐます。

つまりは日本の“近代詩の詩史”における“詩”が、これまで「芸術性」に偏って評価されてきた弊害を匡 し、あらたに「現実性」を基にした“近代日本の詩史”を論じようとしたところに本書の眼目があります。 「抒情詩」の歴史ではなく「思想詩」の歴史といってもいい。

斯様な詩史を私は読んだことがありませんでした。といふのはそれが、左翼リアリズム史観から放たれる、 芸術派への軽侮否定を伴った批判とも異なってゐたからです。さう、これはあくまでも『明治大正詩史』の 「補完」。当時の詩壇を決して否定するものではなく、その点では確かに、詩史本流が影響を蒙った訳詩を 比較文学者の視点から考察を加へることにより、その歴史性を明らかにしようとしてゐるのです。むしろ詩 史の傍流として消えていった詩人たちに対しては、軽侮の念で眺めるのではなく、「思想詩」を開花させら れなかった弱さと同時に、可能性を抱へたまま取り残された時代の必然性の問題として保留し、彼らの営為 に対しては寄り添ふ姿勢が感じられます。

これは著者が詩文学を評価する規範として掲げた“自由”の概念が、プロレタリア文学の叫ぶ政治的“自 由”よりも大きな、ホイットマンが掲げたやうな、全人的な“自由”であったことに由来してゐるのだらう と思ひます。
(本書では訳詩者としての有島武郎や富田碎花も萩原朔太郎同様にスルーされてゐますが、ホイットマンの 受容史については、別に『近代文学におけるホイットマン の運命』(1970研究社出版)といふ、若き日の著者が心魂を傾けて成った一冊があり、そ ちらを読んでほしいといふことになりましょう。)

書き起こしこそ、どの通史でも嚆矢に挙げる『新体詩鈔』から論じられてゐるものの、ホイットマンを持ち 得たアメリカとは異なる近代日本における“自由”をめぐる問題を、「近代詩」が取り組むべきだったなま なましい歴史的課題として据ゑ、表現が担った意義や切実さによって、論じられる(再評価される)詩人が 選ばれていったのではないでしょうか。
この基準は、通常の詩史では問題にもされない、自由民権運動と呼応しつつ消えていった新体詩草創期の歌 謡詩人たちの動向や、ホイットマン熱が冷めていった昭和初期の詩壇激変期に、自然に返る生活を固守し続 けた「小ホイットマン」たちの動向を紹介する条りにおいて、彼らが無名に終ってゐるだけに一層強く感じ られるところとなってゐるやうです。

ですから本書の『日本近代詩の成立』といふタイトルが、内容を示すに果たして適切な命名だったのかどう かは、正直なところ意見が分かれるのではないでしょうか。『日本近代思想詩の可能性』とでもいふ題名 だったら、とさへ思へる著者の強い反骨の気構へが私には感じられました。

このホームページに関するところで申し上げると、日夏耿之介が勝手に癇癪を起こして絶交した堀口大学の ために、一章が新たに書き下ろされ、これまた専門外のフランス文学にも拘らず、訳詩集『月下の一群』が 俎上に上されてをります。

著者は堀口大学について、名前こそ「大学」といふものの、官立大学とは縁も ゆかりもなく、長きにわたる海外生活のなかで「自由人」として「筆のすさび」の訳業を愉しみながら取り 組んだ『月下の一群』の成立事情のことをとりあげてゐる訳ですが、これとて「ほとんどの文章がエロチシ ズムとウイチシスムを強調している。私もこれに同感だ」と従来の評価をなぞりつつも、世界大戦と対峙し たヨーロッパモダニズムが背負った問題意識を翻訳上に表現することを、彼は決して忘れた訳ではなかった と指摘。堀口大学を「いろんな批評でいわれるよりはるかに広い詩的世界を包み込み、精神的なたかまりを もっている」詩人であったと評してゐます。次世代のモダニズム詩派のウィットや、四季派の主知的抒情の 揺籃としての役割にとどまらぬ、その訳業から継承されずに終った精神面を強調する切り口が提示されてゐ る訳であります。

最後には安西冬衛の短詩「春」一篇をもってモダニズムが論じられ、現代詩への移り変りへの感想が示され てゐますが、こと現代詩については、少年時に『詩の話』といふ啓蒙書で世界を啓いてくれた北川冬彦につ いても、恩は恩として「北川冬彦は日本における現代詩の興行師的なところがあり、自分たちの詩的実験を いつも「運動」に仕立てた。(527p)」となかなかに手厳しい。日夏詩観だけでなく、戦後史観に沿っ たおざなりの詩史を書くつもりも無いことが、あらためて伝はってきて私は嬉しくなりました。


巻末に添へられた「参考文献」も、書名をただ列記するでなく、各文献の特徴を一言で評しながら、ものに よってはその装釘にさへ言及する独特の手引きとなってゐます。ことにもこれまで数多く発表されてきた詩 史についての、「私は個人による詩史に積極的な関心をそそられる。532p」と断った上で記された、感 想の数々が興味深いです。さうしてこの参考文献に自著を挙げられた章、そして参考文献がないと述べられ てゐる章などは、著者の創見が打ち出された一番の読みどころかもしれないと思ったことです。

ふたたび申しますが、タイトルと本冊の厚みによってこの本を、東京大学名誉教授のオーソリティーが教科 書的・辞書的なテキストと
し てまとめ上げたもの、などと判断するのは早計、かつもったいないことに思はれ、是非手に取って中身を御 覧いただきたく、ここに紹介・宣伝をいたします。

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『コギト』79号「松下武雄追悼号」

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 2月 5日(日)16時55分32秒

 

旧 制大阪高等学校関係者の御遺族より、『コギト』のバックナンバー47冊の御寄贈に与りました。
ついては頂いた雑誌をまじへて『コギト』総目録の書影を 更新しましたのでお知らせします。毎年表紙のデザインは変ってゐますが、昭和19年、雑誌統合に抗 してたった8pで出し続けた最後期の「甲申版」には表紙がなく、後継誌『果樹園』の装釘がこれをな ぞってゐることがわかります。

ま た『コギト』の『コギト』らしさ、旧制高校の友情が芬々と感じられる一冊といへる79号「松下武雄追悼号」を画像にてupし ましたので合せてご覧ください。
 恩師・学友が居ならぶ、当時の“共同の営為”を一覧するや うな目次ですが、なかに立原道造が客人として上席に、伊東静雄は年 長の同人ですが此度は親友等より後方に遇せられてゐる配置が興味深いです。

毎日のアクセスが10件に満たぬやうなサイトを、いったいどなたが御 覧になって下さってゐるのか、いつも心許ない気持で更新をつづけてゐますが、開設者冥利に尽きるこ のたびの御厚情に対し、ここにても篤く御礼を申し上げます。

ありがたうございました。



謹賀新年

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2017年 1月 3日(火)20時05分27秒

  あ けましておめでたうございます。

酉年ださうですが、今年は明治時代の大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌』の編集長であった戸田葆逸 (1851 嘉永4年~1908 明治41年)の自筆日記を入手したので、その翻刻と紹介を試みたいと思ってゐます。

「鷃笑(あんしょう)」とは荘子の故事で、鵬(おおとり)の気概など感知しない斥鷃(せきあん)と いふ小鳥が嗤笑するとの謂であり、雑誌のタイトルが示すところは、葆逸の祖父、大垣藩家老だった小 原鉄心の鴻図を仰ぎ、同時に、また彼が身上としてゐた低徊趣味に倣って、旧詩社の名を継いで新しい 雑誌の名に掲げた、といふことでしょうか。
毎号、同人の作品の他、小野湖山や岡本黄石など幕末を生き残った著名詩人からの寄稿も受け、十丁ほ どの小冊ながら、一地方都市からよくも斯様な雑誌が毎月欠かさず発行されたものと感嘆します。こち らの雑誌も稀覯ながら1~11巻までの合冊を幸運にも入手してゐました。或ひはそのことがあったの で、編集長の日記を天が差配して私に入手させたのかもしれません。


さてこの日記が書き継がれた明治14年3月24日から15年12月18日までといふ期間が、恰度こ の『鷃笑新誌』の創刊(14年9月)を挟んでゐて、読んでゆくと単なる覚書ではなく、地方の漢詩サ ロンの中心にゐた彼をめぐって、同好の士との交歓の様子がつぶさに、ありのままに記録されてゐるこ とがわかるのです。
なかでも興味深かったのは、明治の初期に「雑誌」を印刷するために使用した活版機械や活字について 記されてゐること。そして当時の漢詩壇において賓客として遇せられてゐた中国人、つまり鎖国が解か れた日本に清国からはるばるやってきた「本場の漢詩人」との交流が詳しく写し取られてゐることでし た。

日記にさきがけて、雑誌『鷃笑新誌』の方は すでに公開してゐます。このたび目次を付しました。また日記も翻刻発表と同時に原冊の画像を公開し ますので(3月予定)、研究者には自由に活用していただきたく、御教示をまって補遺・訂正に備へた いと考へてをります。しばらくおまちください。

今年もよろしくお願ひを申し上げます。

も どる