梅雨晴れに碍子かがやく庇かな 投稿者:やす 投稿日:2007年 6月15日(金)08時23分41秒 |
丸山薫研究会(豊橋市文化市民部
文化課)より会誌「ランプの灯りに集う」Vol.3 個人向けに送って頂きました。ありがとうございました。 「月の輪書林古書目録15 三田平凡寺」目録の域を越えた内容。写真も豊富なので職場の図書館で資産外の寄贈資料として登録させて頂きました。ほかに「石 神井書林古書目録」Vol.72「新村堂書店古書目録」89号到着、『春と修羅』\89,250(難波田龍起旧蔵)は早速売れてしまったとか。(・ω・ `) 「日本古書通信」935号到着、川島さんから今度出される古本雑誌『初版本』についての予告。対談形式でおもしろく紹介されてゐます。すでに予約〆切され てゐる雑誌ですが、どうしても手に入れたい人は、さきの石神井書林目録から何か買って希望すれば先着20名限定で申し込めるさうです♪ |
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『評伝・山岸外史』にことよせて 投稿者:アクレー ノスケ 投稿日:2007年 6月10日(日)00時53分39秒 |
やすさま 碓井雄一さま こちらではすっかりごぶさたしております。そのあいだに大変なことになってるんですね……。やすさんには拙ブログの1コーナーにリンクを貼っていただい たようで、恐縮しています。ありがとうございます。 池内規行さま 遅ればせながら、はじめてのご挨拶をおゆるしください。愚生が碓井さんのおっしゃるサーニン、やすさんが参考としてあげてくださったブログの管理人、悪 麗之介と申します。愚生もご高著『評伝・山岸外史』から大きな感銘を受けたもののひとりです。以下、少しばかり自分語りのスペースとお時間を頂戴できます でしょうか。 --- 愚生がはじめて山岸外史の著作を手にしたのは、ご多分に漏れず『人間太宰治』でした。これは、ぽやぽや頭の高校生にかなり密度の濃いショックを与えまし た。さっそく書店で入手可能な山岸の本を探したところ、新刊で入手可能だったのが、太宰治論2冊をのぞけば、木耳社版『人間キリスト記』と第四次『四季』 のBN(欠号あり)でした。それらはとにかくすべて入手して、そのころようやく勝手がわかりかけてきた古書店で、偶然(奥付が欠けていたため均一台で)入 手したのが『煉獄の表情』だったのです。 これにはすっかりノックアウトされました。もうとにかく山岸の他の著書はずべて読まないと――と思っていたところ、大学受験のため上京中に立ち寄った神 田の古書店(田村書店です)で入手したのが、『評伝・山岸外史』でした。1986年ころのことなので、ご高著が刊行されてしばらくのことだったのでしょう か。本当に、むさぼるように拝読させていただきました。ところどころの表現などは血肉化してるかも……というほどです f(^_^;) 大学入学後はもう授業などには出ず、もっぱら図書館で資料探しかアルバイトばかりしてたのですが、その大学には山下肇氏が勤務していることを知り、ご高 著を携えてお話をうかがおうと押しかけたことも思い出されます(その顛末についてはちょっとここには書けないのですが……)。 とにかく愚生なりに、よたよたと、ご高著『評伝・山岸外史』を手に、山岸の著作や掲載誌を探し求めたり、またその父・山岸薮鴬への関心を深めたりして、 のちに京都の大学院に入院したあとは、ある研究会で発表したりもしました。そうした際にも、ご高著はいつも、文字通り愚生の座右の書でした。愚生は詩につ いてはまったく門外漢なのですが、(やすさんもレヴュウされていますが)四季派をはじめとするさまざまな詩人を知り、自分自身の裾野が広がった思いがした ものでした。 愚生もいちおう研究者のはしくれ(だったの)ですが、池内さまのお仕事に追いつけ追い越せの気持ちで、なにか書き残すことができれば、そのときあらため てご連絡させていただくなり、あらためていろいろご教示いただけたらなあ、などと都合のいいことを思いつつ、紆余曲折あって現在にいたってしまった次第で す(現在は大学の研究者ではありません)。 このような機会に、なにか庇を借りて云々の気もなくないまま、ずうずうしく自己紹介をさせていただきました。本掲示版の読者のみなさまはじめ、お目汚し の点はあらためてお詫び申しあげます。 『評伝・山岸外史』をこの20年近く愛読して参りましたものとして、いろいろとお伺いしたいことなどもあり、もしもご迷惑でなければ、今後ともご高配賜れ ば幸甚に存じます。あらためましてどうぞよろしくお願い申しあげます。 --- 余談ながら、レヴュウ欄に掲出された山岸の著作一覧で『正岡子規』がありませんが、これは未刊だったのでしょうか? 愚生の手にある山岸外史の著作は、 『新イソップ物語』初版(戦後版はあるんですが)と『眠られぬ夜の詩論』の再版(?)以外はすべて揃っているようで、すこしばかり安堵したことでした…… f(^_^;) |
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出張より帰還致しました。 投稿者:やす 投稿日: 2007年 6月 1日(金)17時40分11秒 |
>池内規行さま 「Salon de書痴掲示板」が終了してからHNによる表立っての書き込みは歇みましたが、過去ログをみて頂ければ分かりますとほり、「該博」など云はれるとコレク ターや古書店主達の失笑が聞こえてきさうです。著書で紹介されてゐた長篠康一郎氏が今年逝去された由、御冥福をお祈り申上げます。 >碓井雄一さま 上野の聚楽にてコーヒー一杯で二時間も話し込んだこと(笑)すっかり失念してをりました。1998.2.22・・・もう十年も以前のことになるのですね。 米倉巌氏の著書では他にも『四季派詩人の思想と様式』のなかで、杉山平一先生のことを対談とともに取り上げてをられるのが貴重に存じます。 思ふに山岸外史、林富士馬、田中克己と三者三様、イッコク故に世間と扞格をきたした述志の文人を選んで師と仰いだことが、結局は自身に対する支へとな り、また新しい出会ひのきっかけともなってゐるといふのは、誠にいみじき縁しであるやうに存じます。今後ともよろしくお願ひを申上げます。 出張先で立ち寄った古書店では、戦後まもなく刊行されたにも拘らず、徒花のごとく増田晃への愛慕を表明してゐる奇特な詩集に遭遇しました。 詩人は庭園史研究第一人者の血統。詩集の表題は萬葉集冒頭の御歌に喚起された詩篇からでせう か。 |
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『評伝・山岸外史』 投稿者:やす 投稿日: 2007年 5月28日(月)00時11分51秒 |
このたび林富士馬のお弟子さん
である碓井雄一様との御縁を通じ、山岸外史に私淑された池内則行様か
ら御高著『評伝・山岸
外史』をお送り頂きました。現在書きかけのまま進まない別稿の作文を措いて読み始めたところ、面白いので読み通してしまひました。さういへばこの山岸外史
といふ人は、四季・コギト・日本浪曼派の人脈を考へる上でのキーパーソンであります。悪麗之介さんも大推薦の散文詩集『煉獄の表情』は
未見ですが、自意識の強い癖のある文体は、批評家の立言と云ふより詩人の述志と称すべく、彼を一躍有名にした『人間太宰治』のほか折々にものされた人物月
旦など、地べたゼロメートルから放たれる切り口・語り口がまず破格です。「太宰はしか」に罹ってゐた大学生の時分、『人間太宰治』を読んで、はぁー、これ
が文士といふものか(ハートマーク)、彼と檀一雄こそ一番の親友だ、特にこのひとがも少し「おせっかい」であったら太宰治は死ぬことがなかったのぢゃない
か、とさへ思ったものでした。一切の権威を無視してなされる彼の不逞な「断定」のすぐ裏にはしかし、同時にサムライに類する「はにかみ」があって、例へば
イエスキリストに対する牽強付会が立原道造に対してはそのもろい美しさに理解を示したりする。その育ちの良い禀質には学識と贅沢が助長させた甘えが癒着し
てゐて、近親に対して居丈高であると思へば、仲間に喝破されると年長であらうが忽ち軽んぜられることとなる。田中克己先生は「山岸」と呼び捨てにして太宰
治か
ら窘められたさうですが、晩年の先生から、さきのキリスト論に呆れ返ったことや、萩原葉子さんとの恋愛(?)を醜聞として聞かされたことでした。文章でも
「いい人だが、何をたのみに生きてゐるのかと心配でならない。」などと書かれてゐるのですが、つまりは憎めない(笑)。けだし日本浪曼派グループの中でも
最も向日的なドイツロマン派気質を持ったタイプとして、芳賀檀とともに双璧のやうに思ひます。著者に対する芳賀檀氏からの礼状コピーも拝読させて頂
きました。戦後あれほ
ど悪罵の中にあった芳賀氏の許へ、同志の監視員(?)付きで久闊を辞しに来たとのこと。なるほどあまりに破天荒すぎて、共産党に入ったことさ
へ(その後のなりゆきを見ましても)自身をもてあました奇行癖の結果と呼びたくもなります。尤も文壇から嫌はれた東京生まれらしからぬ「非スマートさ」
も、約
めてみれば江戸っ子の向日性と含羞から発したものには違ひなく、もともと陰にこもったものがないから、かうして実害の無くなったところで(?)必ず擁護者
も表れる訳であります。冒頭太宰治論をめぐっては、井伏鱒二の側に立つ余り山岸外史に噛み付いた相馬正一氏に対する反駁が快く、また当の井伏鱒二に対して
も、山岸外史自身では弁解できないところを第三者である長尾良(コギト同人)等の回想文など援用して、謦咳に接し得なかった師の身の証しを両者並び立つ形
で立てられておられます。 続きはまたブックレビューに場を移して書き直したく、とりいそぎこの場にて御礼の一報まで申上げます。今週は出張でまたしばらく留守にする予定です。 |
ごぶさた近況報告 投稿者:やす 投稿日: 2007年 5月20日(日)20時24分27秒 |
仕事や家のことで何かと気忙し
く、コンテンツの更新も滞ってをりますが、比較的元気でをります。 歌誌「桃」五月号(No.624)を、主宰の山川京子様より御寄贈にあづかりました。ありがたうございました。毎号末尾に山川弘至にまつはる書簡、書 評、断簡零墨が掲げられ、歌の分らぬ私にとっては大変興味深い文献です。さういへば久しく絶版となってゐた「日本浪曼派」「文藝文化」の復刻がオンデマン ドで再刊される由(雄松堂出版)。各々\68250、\94500であります。 「日本古書通信」No.934到着。 川島さんが「本の保存法」について、名高いナフタリンペーパーの使用をやめた経緯など含め面白く解説されてゐま す。蔵書家の最大の敵は光・埃・虫・泥棒でもなく家族だとか(さきの再刊にしても結構有名な人々の家族が分らないやうになってるみ たいです)。 家族はともかく(笑&汗)目下、私も和綴本の保存(配架)についてはどうしたものか苦慮中。雰囲気は良い慳貪箱も隙間だらけだし、 あら隠しに最適なグラシン紙も、酸性紙であってみれば保存に良いのか悪いのかわからぬなんて聞くと訳がわからなくなります。 さうして今月は宿願、といふか寧ろ生涯手許に置くことは諦めてゐた四季派の稀覯詩集の入手が叶ひました。本屋さんに感謝、献呈先に吃驚。これ以上云ふと またバチが当りさうな気がします。ほかにも富岡鉄斎の複製書軸など、さても五月は物入り月となる気配。 (この掛軸といふヤツ、書籍と違ひ、複製であっても図書館のDBに「書誌」がまとめられてゐるといふことはないやうです。ちなみに鉄斎のものは何社から 何種類位出てゐるのでせう。複製とて正価では手が出ない代物ですが、今回たまさか手に落ちたのはこれまた僥倖です。) 「あ・ほうかい」4号を鯨さんより寄贈にあづかりました。ありがたうございました。客間の事を「でえ」と呼ぶのですね。知らなんだです。 |
奥居頼子遺稿詩文集『和光』 投稿者:やす 投稿日: 2007年 4月22日(日)11時12分55秒 |
詩人増田晃が少年の頃、上野図
書館に通って閲覧、密かに恋してゐたといふ夭折少女奥居頼子の遺稿詩
文集『和光』
(1927.7奥居彦松編 非売私家版1000部)が偶々ネット書店に出てゐた。どんな本だったのか興味があって早速注文したのはよかったが、届いた仏壇
の如き壮麗な装釘と、いたいけな内容とのギャップに少なからず驚いた。 第一勧銀の支店長だった父親が自身のコネクションを総動員して、画家から慰撫の絵画を、親戚友人からは追悼文を集め、編輯する自分の後ろ姿も一緒に、将 来の嫁入費用を全額遺稿集出版につぎ込んだらこんな本になってしまった、といふ感じの本である(90,210,190p ; 23cm上製函)。収められた遺稿も断簡零墨のすべてに亘ってをり、一寸他愛無い程だが、それだけに普通は窺ひ知ることの出来ない同年輩の少女の心のうち が隅々まで晒されて、可憐な遺影とともに多感な少年の詩心に強烈な灯を点しただらうことは想像に難くない。後年詩人は詩集『白鳥』に収められた当時の所産 となる初期詩篇について疎隔の意を漏らし、日本浪曼派の古代禮讃へとのめりこんでゆくことになるが、伊福部隆彦をして天才出現を叫ばしめたそれら殉情詩篇 にこそ、私もまた強く惹かれる。詩人の出征中、新婚の利子氏は、伝へ聞くこの本を同じ上野図書館でアルバイトの最中に発見し「ドキドキしながら頁を繰って みた」。詩人の戦死広報を受取るのはその夏のことである。 「花束の思出」 奥居頼子 どれがいいかしら── これもあれもみんな お友達から送られた花束です もう一ツのはヤドリ木 第三番目のはカーネーション 月見草! でした 赤いバラは美しき愛 ヤドリ木は接吻を乞ふ カーネーションは 月見草! 沈黙せる愛情 私がまよって居るときに ちいさい聲が言ひました 月見草が一番安全ですよ──と 私は従ひました 小さい聲に ちいさい聲が言った通り 私はいつまでも幸福でした |
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『緑竹園詩集』復刻版 投稿者:やす 投稿日: 4月12日(木)12時21分0秒 |
角田錦江特別展の資料協力をさ
せて頂いた折、主宰の資料館に在庫を無心した故村瀬一郎先生畢生の編
著のうち、
『緑竹園詩集』復刻版全3冊と遺墨資料1冊(冠峰先生顕彰研究会,1990.11)を、このたび冠峰顕彰会の宮崎惇様よりお贈り頂きました。この場を借り
まして厚く御礼を申し上げます。 前に記しましたが、翁はその全詩に解釈を付し『緑竹園詩集訓解』(2001.11)として刊行。か つて江村北海に 「冠峰をして身都下に在って藝苑に馳聘せしめば、すなはち其の詩歌の名、方今の赤羽(服部南郭)、蘐 洲の諸子(徂徠の弟子達)に讓らざるべし、惜いかな」 と評せしめた詩人伊藤冠峰の詩業が、私のやうな初学者にも明らかになりました。これはその原本の復刻。翁の後記によれば、刊本ながら今では日本に二、三 冊しか現存しないと云はれる『緑竹園詩集』のコピーを京都大学図書館からとりよせ、一丁一丁に語句の校訂、印字の補修、原寸大への拡大を施しながら「全行 全字全線空間まで殆ど手を加えない箇所は無いと言っても過言ではないほど」労力を傾けられた由。こちらの250冊の復刻は古書店にも現れず、一本を愛蔵し たいと長ら く念じてゐたのでした。 しかし斯様なまでの苦労をされてゐることを知れば、亡き翁には詩集の実物を一度手にとって御覧頂きたかった気も致します。図書館では直接コピー機に当て ることを拒絶され、送られてきた写真撮影なるものにさきに述べた御苦労が三年間に亘って課せられた由。当時は天下に二冊と思ひなしてゐた刊本も、今ネット で調べてみるとなんと近場の、愛知大学の豊橋図書館(菅沼文庫)に もある様子。1989年12月の調査とありますから、もとより復刻作業に資すべくはなかったかもしれませんが、残念なことは2001年の『緑竹園詩集訓 解』後記のどこにも新しく刊本と出会った事実が記されてゐないことです。正式な目録もまだない貴重書文庫のやうですから、結局は御存知なかったのでせう。 愛知大学でも名古屋図書館の方には復刻本の寄贈があったのですから、利用者と図書館の双方のすれ違ひは、コピーの件といひ、罪作りなことであり ます。 つまらんこと記しました。 |
『生き残りの記 嫁菜の記その後』 投稿者:やす 投稿日: 4月 8日(日)15時39分18秒 |
先日アップした【四季派の外縁を 散歩する】で、「このところ戦争中に詩的開花を遂げた夭折詩人について、復刻・ 回顧の出版が続いてゐる」と書いたのですが、以前に刊行予告を頂いてゐた『生き残りの記 嫁菜の記その後』を鈴木利子様からお送り頂き、思ひはピークに達 してをります。山川弘至についてはさきの回に記しましたが、文庫版『大東亜戦争詩文集』に同じく収められた、新生活を絶たれたもうひとりの戦没詩人が増田 晃です。山川弘至の場合と同様、申し分ない才能と手放しの愛情表現を兼ね備へた詩人らしい夫君に文学的素養を培はれ、共にあった短い日々がそれ故に殊更消 しがたい生涯の傷痕となって焼き付けられたのは、戦後再婚された利子氏にあっても同じこと。それがさきの『嫁菜の記』に続き今回刊行された限定二百冊の非 売本のなかに、傘寿の視座から生涯の縁しを俯瞰するやうな、穏やかな筆致で認められてをります。戦時中の同人誌「狼煙」追悼号を中心に、詩人を愛惜する諸 氏の文章を後半に収めてをり、読んでゆくと突然若い日の師友の言葉に出会ふ巧まぬ構成が、資料の復刻意義とは別に読むものをして「時の感慨」に駆り立てま す。家族を収めた数葉の写真のなかで唯一当時のもの、結婚挙式時の写真にはページを繰った誰しもが息をのむことでせう。また私は本書のおかげで田中克己先 生の拾遺詩一篇とゆくりなくも邂逅を得、冒頭『大東亜戦争詩文集』に係り自分のことが引かれてあるのには冷汗を流しました。 つづきは再び後日の書評に て。 さてこの本の中でも回想されてゐる林富士馬は、山川弘至や増田晃と同様、育ちのよさの面でもいかにも日本浪曼派の第二世代を代表する詩人のひとりです が、戦争をくぐりぬけてのちは、「文学を何故するのだ」といふ青臭さを大切にし、ディレッタントの生涯を貫き通した辛口文芸批評家にして町のお医者様で す。晩年のお弟子さんであり、雑誌『近代文学資料と試論』を独力で主宰してをられる碓井雄一様から此のたび第六号の寄贈に与りました。前号に引き続き「林 富士馬・資料と考察(三)」のなかで、戦後期に詩人が主宰した同人誌『玻璃』について目録に沿って論及をされてゐます。戦後文壇において日本浪曼派の出自 を持つ自分のやうな者は、おのれの文学観に殉じて後日の審判を待てばよいのだとする自負。ジャーナリズムの渦中に去った後輩三島由紀夫を意識したともみえ る、敢へて万年文学青年を標榜するかの姿を抄出したり、また寄稿者山岸外史の随想に独特の感傷をみようとする碓井氏の視点は、「サムライ」好きの私にして も全く同感であります。毎度思ふことながら、同人誌といふより大学国文科の紀要に比して遜色ない学術雑誌といふべき。CiNiiで全目次を閲覧できます。『近代文学資 料と試論』(「近代文学資料と試論」の会 〒358-0011 埼玉県入間市下藤沢653-1-408 碓井方) さらに活動拠点を関西から九州に移された西村将洋様よりは、雑誌「昭和文学研究」第54集をお送り頂きました。保田與重郎の多岐にわたる研究動向につい て、各論文の意義を比較検証した短評を下されてゐます。私なんぞの読みとは濃度・次元が違ふなあ(汗)。しかし西村様始め、知遇を忝くする近代文学研究者 の皆様から一様に喬遷・転封のお知らせを頂くことに驚いてゐます。 皆様方にはこの場にても健筆ご活躍を祈念するとともに厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 |
週間報告 投稿者:や す 投稿日: 3月31日(土)11時52分50秒 |
○ 頂きもの 鯨書房さんより詩誌「あ・ほうかい」(まづは一里塚の第三号おめでたうございます。といって文章には古本屋さんの苦しみが切々と綴られてゐるのですが。) 横浜市大庭様より『李太白』の縦書きpdf文書ファイル。 ともに御礼申し上げます。ありがたうございました。 ○ 購入もの 後藤松陰の直筆折帖を入手し ました♪ しかし一体なんの理由があってこんな手習ひものを認めたのでせう。国会図書館の所蔵本とところどころ同じ文句がありますが、もとより「世話千字文」なるものについて不詳です。どなたか御教 示頂ければ幸甚です。 ○ また歳をひとつ重ねました。 「偉さうにすることもされることも嫌ひ」で来たせゐか、いまだに年かさの自分だけ君付けで呼ばれます。人徳なければただ軽んぜられるだけです。 |
詩集『私の墓は』, 評伝『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』再刊本 投 稿者:やす 投稿日: 3月21日(水)17時58分5秒 |
山形県寒河江市の奥平玲子様よ
り、日塔貞子の詩集『私の墓は』および彼女の評伝で同じく稀覯となってゐる安達徹氏の『雪に燃える花
詩人日塔貞子の生涯』の、各再刊版を御寄贈頂きました。厚く御礼を申し上げます。 昭和24年に亡くなった詩人の遺稿詩集が出たのが昭和32年のこと。晩年を看取った四季同人の日塔聰はその後再婚して山形を去ります。遺された日記をもと に安達徹氏 が書き綴った評伝の初版が出たのが昭和47年、それからさらに35年の時を経て、当時感銘を受けた奥平様ほか友人四人の自称「主婦のグループ」の手によっ て、このたびその評伝が甦ったのです。有志はそのためだけに立ち上がり出版に奔走された由(いつの世も美しいものはやはり誰かが抛っては置かないものです ね)。さうして昨春刊行された、この28歳で夭折した純正抒情詩人を紹介した本は地元でも話題を呼び、おかげで詩集自体も再刊の運びとなり、なんと現在3 刷とのこと。地元の公共図書館以外、まだ大学図書館にも寄贈されてゐない様子で、研究者といふより詩を愛する読書家の間で詩人の伝説が流布され続けてゐる のです。 詩集の瀟灑な装釘は、サイズや版組みだけでなく、カバーを取ると一層初版本へのリスペクトを感じるもの。評伝の方は新聞連載だったせゐでせう、最初、時 系列が不分明なところや、脚色過多ではないかと感じる冒頭を過ぎると、次第に面白くなってきます(こちらは近く著者自ら補筆して再再刊される予定)。唯一 残念なのは・・・詩人仲間の誰もが感嘆したといふ閨秀詩人の容姿が、今回の再刊本どちらにも写真で紹介されてゐないことでせうか。 つづきは後日の書評に て。 お問ひ合せは 991-0023 山形県寒河江市丸内2-4-19 桜桃花会 まで。 詩集『私の墓は』 \1800 (紀伊国屋サイトでも購入可) 『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』 \1500 |
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寄贈御礼『緑竹園詩集訓解』ほか 投稿者:やす 投稿日: 2月23日(金)21時04分49秒 |
笠松町歴史民俗資料館から『緑
竹園詩集訓解』村瀬一郎著。 著者は伊藤冠峰に私淑してその顕彰に退職後の余生を捧げられた岐阜市出身の最後の古老です。学芸員の方の説明で、これまでに「冠峰先生顕彰研究会」から 出た本がすべて個人資金によるものだったことを知りました。笠松および御在所岳山上の石碑も、村瀬氏一人の尽力に係る建立と聞き、晩年身寄りなく老人ホー ムの一室を終の栖処と卜され、そこから先哲の面影にむけて終生敬慕の念を発し続けた翁に、崇敬の念を抱くに至りました。 また鯨書房さんより詩誌「あ・ほうかい」第2号。 >モーニングセットてんこ盛りの茶店林立するこの岐阜を怖れよ(山口省三氏「日常」より) なるほど明日はそれをば頂き、岐阜駅ビルの古書展初日でもめぐりませう(笑)。 |
角田錦江展 投稿者:や す 投稿日: 2月23日(金)11時45分58秒 |
本日職場に笠松町歴史民俗資料
館から学芸員がおみえになり、拙蔵の 村瀬太乙・角田錦江合作掛軸を借りてゆかれました。3/1よりはじまる角田錦江の特別展に展示される由。毎度
「授業料」払って研鑽を積んでをります(苦笑)漢詩の掛軸ですが、今回のみは僥倖といふべき歟。展示の概要は以下のとほり。見学記はまた追ってupの予定です。 平成19年3月1日〜3月30日 笠松町歴史民俗資料館企画展 「笠松の 儒学者 角田錦江」 |
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『李太白』 投稿者:や す 投稿日: 2月12日(月)11時56分39秒 |
『李太
白』、やうやく全ての校
正を終へテキスト化終了しました。休み明けにup致しますので、同好
の皆様方には御覧頂けましたら嬉しく存じます。なにぶん初版再版ともに印刷が古く、文字化けに悩みましたので、校正もれの御指摘などございましたら嬉しく
存じます。 さて田中克己先生の中国詩人「評伝三部作」ですが、残り二冊も久しく絶版となってをります。これらについてサイト上にテキスト復刻してよいものか、刊行 元へ許可を願ひ得た上で、順次『杜甫伝』『蘇東坡』と計画中です(むづかしいかもしれません。絶版書籍についてのネット閲覧可能に関する著作権法改正は来 年になるやうです)。 不肖の弟子ではありますが、これらの著作の顕彰を終へぬかぎり、江戸にせよ郷土にせよ漢詩を云々する資格がないことに気がついた次第です。なほ『李太 白』の抄出詩には現代訳がなく、『杜甫伝』『蘇東坡』は反対に訓読が読み飛ばされてをります。この点、口語抒情詩人の真骨頂をしめすべく不取敢『李太白』 には後年発表された口語訳を付与して鑑賞の助けに供したいと存じます。すべて今年の宿題として更新を気長にお待ち下さい。 |
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よく分かりました 投稿者:o.kumazaki 投稿日: 2月10日(土)18時02分17秒 |
ご指摘ありがとうございます。 尾張と氏、名を分けなければいけないですね。 はた かなへと したいと思います。 |
をはり・はた・かなへ 投稿者:やす 投稿日: 2月10日(土)16時27分31秒 |
尾
張秦鼎は、尾張の国の秦(はた)氏、名は鼎(かなへもしくはテイ)と読ませるのではないでせうか。 秦氏について詳しくは田中先生の「始皇帝の末裔」まで(笑)。 貴重な掛軸、もしできますことでしたら写真を大きく掲げて頂けましたら眼福 です。 |
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秦滄浪について 投稿者:o.kumazaki 投稿日: 2月10日(土)12時57分15秒 |
ご指導いただいたことから、秦滄 浪(尾張秦鼎)は、江戸時代中期の儒者、尾張藩校明倫堂教授 (1831年没)であることが分かりました。おかげさまで大変参考になる情報が得られました。赤田臥牛と秦滄浪は深い親交があったようですね。 |
尾張秦鼎 投稿者:や す 投稿日: 2月10日(土)11時56分20秒 |
尾張秦鼎つまり尾張の秦鼎は『臥牛集』の序文を書いてる秦滄浪で
あります。 レファレンスありがたうございました。この件につきましてどなたか御存知の方はよろしくお願ひを申上げます。 |
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とりいそぎ 投稿者:や す 投稿日: 2月10日(土)09時32分26秒 |
はじめまして。 1、赤田臥牛について知るところは公開しました『臥牛集』の限りです。どなたか御存知の方はよろしくお願ひを申上げます。 2、画像が小さいのでよく分らないのですが「尾張泰胤」は「尾張秦鼎」の記し間違ひといふことはないですよね。 以上管理人よりはとりいそぎ。 |
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『桃』1月号 投稿者:や す 投稿日: 1月17日(水)23時41分23秒 |
山川京子様より『桃』1月号
(622号)をお送り頂きました。山川弘至記念館の拝観記(野田安平
氏)をなつかしく拝読。そして後記につづられた京子様の回想。 昭和19年、前線へ送られることが決まりそれが最後の面会となった折に 「お帰りになるまで東京へは帰りません。郡上でお待ちします」 の言葉に対して詩人が放った 「よして下さい。そんなことをされたら、僕が忘れられてしまふ」 といふ一言。その一言にこめられた滲むやうな思ひと、その一言に殉じてこられた年月の重みに今更ながらうろたへる私です。記念館落成式の際にも感じたこ とですが、御遺族はともかく「桃」社中の方々が詩人を慕ってこられた心情には、京子様の存在を通じて仰がれる象徴としての日本の姿があるやうに存じまし た。 とりいそぎこの場におきましても御礼認めます。ありがたうございました。 |
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『漢詩閑話 他三篇』 投稿者:やす 投稿日: 1月 8日(月)23時28分29秒 |
この連休、さきに掲示板で紹介
いたしました中村竹陽翁の遺文集『漢詩閑話
他三篇』を読み、その魅力に惹き込まれてをりました。書評コーナーにて御紹介致します。
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御挨拶 投稿者:やす 投稿日: 1月 4日(木)01時17分17秒 |
今年もひきつづき郷土漢詩の修養
ならびに「田中克己文学館」の充実に力を注ぎたく。 本年もよろしくお願ひを申し上げます。 |