明治三十二年(1899) | - | 十月一日、名古屋市東区中市場町3丁目の老舗薬種商「伊勢 久」の五代目寅太郎、志ようの長男として生る。本名久一郎。なほ戸籍上の表記は「木」である。 |
- | - | 大成小学校(現名城小学校)、名古屋学院中学卒業、同志社 大学経済学部中退。ミッション系の学校であった。 |
大正十年(1921) | 22歳 | 大垣の稲川勝次郎と角笛社をつくり詩誌「角笛」を創刊。 |
大正十一年(1922) | 23歳 | 処女詩集「青い嵐」を刊行。春山行夫、井口蕉花、佐藤一英、斎藤光次郎らと詩誌「青騎士」を創刊。ホイットマンに私淑す。 |
大正十二年(1923) | 24歳 | 第二詩集「昧爽の花」刊行。青騎士の同人他広くとはかり名古屋詩人連盟を結成。 |
大正十三年(1924) | 25歳 | 「日本詩話会」に推薦され会員となる。また「青騎士」の終 刊後、佐野英一郎、高木、中山伸を中心に「風と家と岬」を創刊。のち「清火天」と改題。 |
大正十五年(1926) | 27歳 | 野々部逸二、中山伸、伴野憲と詩誌「新生」を創刊(四人の 伊良湖旅行はこの1月)。また東海詩人協会を結成し、「東海詩集」1、2、3集(大正15年、昭和2年、昭和3年)の刊行にも携はる。 |
昭和四年(1929) | 30歳 | 第三詩集「天道祭」を刊行。 |
昭和五年(1930) | 31歳 | 南外堀町10丁目にモダ ンな本社社屋ビルを竣工。「伊勢久」株式会社となる。初代社長を父寅太郎が就任。 |
昭和六年(1931) | 32歳 | 中山伸、伴野憲等と詩誌「友情」を創刊、昭和四年暮れに夭 折した盟友野々部逸二の遺稿詩集「夜の落葉」を三人で編集、刊行する。 |
昭和十三年(1938) | 39歳 | この頃、信州上林温泉に逗留、詩風の変化を試みる。 |
昭和十六年(1941) | 42歳 | 第四詩集「黄い扇」を小部数刊行。戦時中は文学報国会に関連した「中部詩人連盟」の幹部として活動。 |
昭和二十年(1945) | 46歳 | 3月12日の名古屋空襲により、本社ビル西隣にあった木造 住居を焼失。これに伴ひ夫妻は念願の田舎暮らしを愛知県丹羽郡大口村野田野山にて開始する。 |
昭和二十二年(1947) | 48歳 | 高木斐瑳雄、中山伸、亀山巌等と「新日本詩人懇話会」結成。 |
昭和二十五年(1950) | 51歳 | 父寅太郎の逝去(昭和24年1月)に伴ひ、義兄観弥より「伊勢久」社長職を譲らる。 |
昭和二十六年(1951) | 52歳 | 丸山薫を会長に中部地区の詩人を集合した「中部日本詩人会」が結成、呼掛人の一人であった彼は顧問として留まった。 |
昭和二十七年(1952 | 53歳 | 愛知県警察学校校歌選定にあたった。 |
昭和二十八年(1953) | 53歳 | 中山伸、伴野憲等と「中部詩人サロン」結成、詩誌「サロン・ド・ポエット」を創刊する も、脳溢血のため九月二十六日、自宅にて急逝。 |
昭和三十四年(1959) | - | 没後、遺稿詩集「寒ざらし」一巻が、盟友中山伸、伴野憲、落合茂の手によって編輯刊行された。 なほ、斐瑳雄夫妻には子がなかった為、再び観弥氏が社長職に就き、以降三代、「伊勢久株式会社」は化学薬品・セラミック ス材を扱ふ大商社に成長した。昭 和5年竣工の本社ビルは今なほ同地に現存する。 |