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四季派の外縁を散歩する 第29回

崑崙の石 伊福部隆彦



「眼を開けて見よ、山も溪聲も堂宇も伽藍も茅屋も宮殿も曠野も大海も、悉くただ一つの生命のあらはれにあらざるなく、その生命の生命として在るところの道(の)現成[げんじょう]ならざるなしではないか。」 『老子眼藏 改訂版』41p

 近代詩の界隈で「直情径行」の詩人として数へ得る人に、わが先師、田中克己があります。一克(いっこく)と呼ぶべき詩人は他にも多々居るのですが、 『四季』や『コギト』に拠ったひとたちの中では、中原中也のほか見当たらなささうです。 ただ常々私が思ふところ、日本浪曼派の外縁に、詩壇はもとより社会思想や東洋哲学の世界にもはみ出した、スケールの巨きな孤高のロマン派詩人があって、 そのひと伊福部隆彦(本名隆輝1898年 明治31年5月12日 − 1968年 昭和43年1月10日)の晩年に書かれた詩篇を愛読してをりました。
 このたびは、書道界においても「文人の書」として異彩を放った詩人の筆蹟(掛軸)を得るに至り、満を持して紹介を思ひ立った次第です。

 さて奔放不羈の人柄・生き様に私が敬服するこの詩人ですが、後ろに掲げた自伝や家族の思ひ出からもわかるやうに、とにかく何事に臨んでも一所懸命、一徹の姿勢を崩さず、 その末に昭和12年、40才の時に突如として天地と吾が身が一体となる「見神体験」に至ったといひます。 それが所謂「無為の境地」と同一であることを知ってより老子に傾倒、 治安維持法で検束されるほど薫染してゐた左翼アナキズムの立場を去って無碍を啓く「道」へと導かれ、性格が陶冶されて全く怒らない人に一変しました。
 『老子眼藏』は、磊落に寛ぐ当時の近影を掲げた彼の主著ですが、 内容には「覚り」を体得するために道元禅をも取り入れた一種教典の趣きが感じられます。 刊行にあたり寄せられた高徳者の序文と自序を掲げます(久松眞一はわが地元岐阜長良の人です)。

序  足羽雪艇(永平寺) (昭和17年)
序 久松眞一 (昭和27年)
自序 (昭和17年)
改訂再版の序 (昭和27年)


伊福部邸「貧賤是至上無為」掛軸の前にて大野出氏と。(1987年2月15日)

 序文の紹介にもあるやうに、名を隆輝から隆彦にあらため「人生道場」なる道徳実践コミュニティの経営を創めた詩人ですが、 道場は詩人亡き後、次男高史さん御夫妻が箕裘を継がれました。 そして何を隠さう、私も今から30年以上前に一度、 初めての職場下町風俗資料館で席を同じくした、書道剣道の練達の士で後に荘子の研究家として名を成した畏友、故 大野出氏に連れられて、 石神井の閑静な住宅街にあった詩人の旧居にお邪魔したことがあったのでした。
 大野氏とのなつかしい思ひ出はひとまづ措き、当時の私には伊福部隆彦といふ名は、天才少年詩人増田晃を見出したそのお師匠さん、といふ認識しかありませんでした。 だれからも質問されるといふ「怪獣映画音楽の伊福部昭さんとは近い親戚ではないのです」といふ話を伺ったのち、 私がその増田晃について、『コギト』の後輩として当時師事してゐた田中克己先生がたいへん彼に目を掛けてゐたことをお伝へすると、 高史さんはおもむろに、保田與重郎が『定本無為隆彦詩集』の礼状に送ってきた書簡を奥から出してこられ、コピーして下さいました。 私はおどろくとともに、この詩人もまた浅野晃と同じく、敗戦後にふたたび詩を書くやう開眼に至った真性ロマン派の一統であることを実感したものです。 これも最後に掲げたく思ひます。

 しかしながら、詩歴は大正期に始まって大変長いものの、自ら述べるやうに曲折を繰り返し、真の己の詩を発見するまで、その鑑識眼は自作よりも人物発掘の才能として発揮されました。
 前述した増田晃の他にも、これは戦後の話ですが、たまたま私が古本屋の店先で見つけた守屋主一郎といふ詩人の『昔日』(1955東洋社・非売)といふ詩集、 こんなに良い詩が話題にもならず、どこの図書館にも納められることなく今なほ埋もれたままであることに驚いたのですが、 上梓に至る経緯をこの人が跋文に記してゐるのを読んで、たとい名を成さなくとも璞(あらたま)を見抜く活眼の士であることに感銘しました。
 漢詩においては『西湖四十字詩集』といふ、明治時代にマルクスに会った最先端すぎた知識人、 飯塚西湖の五言律詩を尊重してゐるのを知って、ちいさなその漢詩集を探し求めたものでした。
 さらにアナキズムから脱却して老子へと移る過渡期には『日本詩歌音韻律論』といふ理論書を著してをり、 なんと佐藤一英が興した「聯」の作詩理論に賛同してゐたことを知って、 このたび御縁のできた青森の聯詩人一戸謙三とも同世代の詩人であることにあらためて驚いてゐる次第。 つまりは同じく「池袋モンパルナス」に住んでゐた一英や福士幸次郎を通じての交流が思ひあはされるのです。(『聯』第3巻第7号 昭和15年7月1日発行)
 『聯』誌の同人、辻晉堂(陶芸家)とは出身地の鳥取を同じくします。これまた何某かの誼があるかもしれません。

 とまれ、生田長江門下にあって癩病に冒された師のもとを最期まで去らなかったといふ硬骨の人柄に、 私はなにより尊敬の念を抱いてゐます。 病を忌避して距離を置いた兄弟子たちの一人、佐藤春夫が自筆版の『無為隆彦詩集』冒頭に、 伊福部隆彦の破格の文人たる姿勢について意を尽くした序文を認めてゐますが、 佐藤春夫の一番弟子である保田與重郎も、おそらく色んなエピソードを聞き及んでゐたに相違ありません。 それゆゑ「どうして保田與重郎が斯様の文言を綴ったのか」を思へば一層、敬愛や親しみの情は増すのでした。

 詩人は無為自然の境地を深めるに至って、ふたたび詩心に目覚め、筆を執ってそれを墨跡にも顕し、専門書『書と現代』なる一家言を書道界に投じてをります。
 私には書の良し悪しは分かりませんが、このたび手に入れた掛軸(録老子聖語「谷神不死」)はその傑作のひとつではないかと惚れ惚れと見入り、 老荘思想の受容史研究に生涯を捧げた大野氏に是非見てもらいたかったものだと、 何も知らない田舎者の私を伴って東京各所を江戸庶民文化の見聞を深めるため、色んな所へ連れて行ってくれた彼のことを偲んでゐます。
 たしかに「悟りの境地」に一般人が到ることは難しいことでしょう(私の乏しい理解では「道」とは「時の本体」であるかのやうな読解に留まってゐます)。
 しかし「道」を得た結果、詩人に訪れた雄渾な詩境は、だれにもわかる易しい言葉で綴られ、実に滋味深い自然の讃美となってをります。 佐藤春夫が云ふやうに「平凡に他奇なく、素直に自由に、品格賤しからざる」墨蹟で綴られた自筆の折本詩集には、 それが手にとるやうに感じられますので、これもまた画像で紹介したいと思ひます。

『無為隆彦詩集』1961/無為隆彦詩集刊行会 折本
1冊 200部非売

 さて最後に「人となり」の紹介ですが、彼が愛した飯塚西湖の人物評「游道極廣。爲人簡易坦率。不拘禮節。尤喜爲詩。(山田松堂)」にぴったりと重なるものがあります。 幸ひにも詩人自身による遍歴記と、そして長男舜児氏の回想につぶさに語られてゐますので、詩一篇とともに、以下に引いて責めをふさぎたいと思ひます。

 (それにしても舜児氏の回想の中にある、「その頃、詩を志して岐阜の山奥から上京した青年が内弟子として私の家にいた」といふのは一体だれのことでしょうね…。)








   崑崙の石


私は玉性を深く秘めた崑崙の巨巌である

千年この山中に私を掘り出す玉探しを待つてゐるが

私とは比較にならぬ小さな璞(あらたま)を掘り出すものはあつても

私に気づくものはない

苔蒸した私の上に腰をおろして

高質の璞のないのを嘆く玉探しどもの嘆きが

私をどのやうにいらいらさせて来たことか

しかしなほ私は希望をすてなかつた

必らず私を見出す玉探しが何時か来るにちがいないと

私はその日までこの玉性を深く養うて待たうと

ところが或る日 喜びの日とともに絶望の日が来た

私を知る玉探しが遂ひに来たのだ

彼は私を見て私の秘めてゐる玉性のすばらしさをただちに見た

そして嗟嘆して言った

このすばらしさはどうだ

しかし残念なことには あまりにも大きく そして深く埋れてゐる

これでは掘り出して運ぶことも出来ない

「石よ」と彼は言った

「お前は永遠に世に出ることは出来ない

お前は人々に愛玩されるにはあまりに大きくそして深く埋れすぎてゐる」

かくて私の絶望の日がつづいた

ところが或る日 私は

私の上に立つて驚きの声をあげてゐる一人の詩人の声を聞いた

「これは何といふすばらしい巨大な玉だ

こいつは人の匱(はこ)の中などには入れられはしない

崑崙よ お前こそ玉中の王者だ

超然として人慾の外に琢出してゐる

お前をみがき出したのは造物主だね」

私は驚いて私をいだいてゐる崑崙を見た

見よ 紫金に輝やく山巓が

雲霧の上に なるほど神の如く琢出してゐるではないか

私は私の矮小さをはじめて知り

今迄の不平が恥しくなった

ああ

雲霧の上に超然として

日月とともに永遠に生きてゐる崑崙よ、わが父よ

爾にいだわれて私は永遠に埋れよう

そして今はもう何ものも羨やむことはない

            一九六三、一、二七



「敍」   『無為隆彦詩集』(無為隆彦詩集刊行会 1961 折本200部 非売)より

 伊福部隆輝は先師生田長江の愛した青年の一人であるから、わが同門の後輩といふわけであるが、先師の晩年に最もよく仕へ、その薫染の最も多い者である。
 彼は社家の出で少年にして郷関を出で、同国の先覚長江先生をたよって上京したらしい。 先生はその才気を愛しこれを導いて詩人もしくは批評家たらしめようとした。その資質を最もよく洞察されたものであったらう。 当年のこの少年は才気喚発、気を負うていささか夜郎自大の風無きにしも非ざりしも、彼には亦才気は超克すべきものであることを知る聡明もあった。
 この少年は中年に達して經世を志し、また老子に傾倒し、姓名を改めて無為隆彦と自称するようになった。 この頃であった、亡き高村光太郎が唐突に僕に問を発して伊福部君の近状は如何といふ。 僕は反つて怪しみこの唐突の質問の故を反問すると、光太郎は温容にいささか厳粛の色を加へて、 実は亡妻智恵子の弟は無思慮で無頼の傾があり憂慮の種であったが近時伊福部君の家に出入して、その言行の大に改まるものを見、心私(ひそか)に彼の感化力の大に驚嘆してゐるといふのであつた。 即ち僕は伊福部が近来道を見出してこれを楽しむ人となつてゐることを述べると、感激癖のある光太郎は深く肯綮して、 この漢、眞に敬すべしと称してゐた。
 隆彦は近来書道に凝って自ら日本一と言ふ。曰く天下の書家みな日本一を以って居り、天下日本一に満つ。 何ぞ憚らん我も亦日本一而已と、今自筆の詩稿を影印して上梓せんと稿を携へ来つて僕に示して敍を求める。
 僕もと書を学ばず天性の悪筆は何ら鑑識眼もないが、一見するに、その書は予想に反して平凡に他奇なく、素直に自由に書かれて品格賤しからず、 彼が弱年の衒氣の如きはみじんも影をとどめない。詩も亦温雅淡懐、 初心を失はぬは愛す可く、古典のやうな洋洋たる趣のあるのを見て、彼が能く自らを導いて呉下の旧阿蒙に非ざるを知るとともに、 彼の知己光太郎があまりにも早く泉下に去ったのを隆彦のために惜しんだ。
 書道に詩に明るい光太郎が世に在つたならば必らずやもつと光彩のある敍をこの集のために与へたであろう。
 先師と知己既に世に亡く今僕をして不文を巻頭に草せしめるのは思うに僕の誉であつてこの著者の不幸であらう。

 昭和三十六年三月十五日
   東都目白坂にて
      佐藤春夫 誌す



 巻末に  ―わが詩的遍歴略記 ―    『定本無為隆彦詩集』(神無書房 1966 297p 500部)より

 私が詩に志したのは、先師生田長江先生の下で赤松月船君等と佐藤春夫氏を先輩として詩誌「月光」を出した頃であるから 二十三、四才の青年時代であるが、私は詩に於ては、余程晩成で、この詩集に収めてゐる時でも、最も早いものでも四十九才の春の桃源抄一聯である。
 それ以前のものは、心もちだけあって詩としてはあまりにも形式も内容も未完成で、且つ思想的夾雑物が多く収録し得ないのである。
 この事実には、自分でも驚く。二十三、四才から詩をはじめ、詩の雑誌だけでも、 「月光」「感覚革命」「第二感覚革命」「詩の問題」「詩文学」「羅曼」「現代詩」と主宰し、詩論及び批評で詩壇をおしまくり、 傍若無人の振舞いを大正十年頃から昭和十年頃まで、約十五年間為してゐたのに、その間に今、収録しようと思うものがまるでないのである。 その間、結局私はほんとうの自分の詩は一篇も作ってゐないことになる。わがこの詩的徨のながさに驚くのである。
 と言っても私は誰の模倣もしてゐたのではない。私は私の詩的鉱脈を掘りあて得なかったのである。 それらの時代の詩を今とり出して見ると、私はただ私の才気で詩のごときものを書いてみたに過ぎない。 しかしそれらの中にも流石に無意識的彷徨感の寂寥があるのを今、見る。

 扨て私は、はじめにも言うように、長江先生の下で詩に出発したが、然し「月光」は二号までで辞し、先生の影響の外に出てプロレタリア時に転じた。大正十一年の春、私の二十五才の年である。
 尤もそのプロレタリア文学へ参じたのも、先生の示唆によったのではある。 先生のところで松本淳三の『二足獣の歌へる』という詩集を見せられ、先生の激称もあり、文壇詩壇への野心のはげしかった私が、 一夜のうちにプロレタリア文学派に転じたことは、今から思うと微笑ましくもあるが、然し先生の薬がいささか利きすぎたとも言へようか。
 とまれそんなことで「月光」派の、現実生活にヴェールをかけたような詩風にあきたらず、現実生活に正面から取組んだ詩が書きたくなり、「月光」を去ったのである。 そして私は私の周囲に来た富田常雄、川崎秀夫の二青年を仲間に入れて、プロレタリア詩雑誌「感覚革命」を出した。
 この「感覚革命」という名は、新潮社の「文章倶楽部」の編集者であった加藤武雄氏のところで、ニワカ仕込みのプロレタリア詩論を一席まくし立てると、 加藤氏が「結局先づ感覚から革命せぬと駄目ということになるね」と言ったのにヒントを得て、この名を得たのである。 創刊号の雑誌をもってゆくと加藤氏はニンマリわらい「伊福部君はジャーナリスティックな才能があるね」と称揚とも皮肉ともつかぬことばを与えて呉れた。
 この「感覚革命」は四号まで出たが、この雑誌によって兎に角、日本プロレタリア詩運動の草創期に一役買ったことになった。 当時のプロレタリア詩誌は、萩原恭次郎、岡本潤、壺井繁治、川崎長太郎四人の「赤と黒」、松本淳三、重広虎雄、村松正俊等の「鎖」の三つが鼎立して中心を為した。
 この三誌が中心になって詩の街頭進出として神田、銀座、本郷等での展覧会を開き、プロレタリア詩人連盟をつくったが、 その展覧会中に、萩原恭次郎が詩話会編集の年刊詩集『日本詩集』に参加したのを既成詩壇への降伏として私が非難したことから「赤と黒」の諸君は連盟から脱退、 そこで残留組はあらためて無産詩人聯盟をつくり、「無産詩人」を出すことになった。
 この雑誌は三号まで私は関係したが、ようやく自らが階級的なプロレタリア感情のもてぬことを知り、 ここで無産詩派から足を洗うことに決めたのであった。この間四年ほど、慥か大正十四年頃である。

 このプロレタリア詩人時代の私の時は、プロレタリア・イデオロギーに無理に立ったようなもので、 今、筐底に秘めてみるものを時たま見る度に、顔があからむようなおもひである。
 自分の本性に合はないことを知って、プロレタリア詩をやめて後、私は後期自由詩派を提唱した。 これは真に、自己の現実感を的確に表現しようというので、万葉の柿本人麿の長歌の発想法を採用し、 又当時文壇の新感派の諸君と連関して、感覚的新表現を考えたもので刹那的心象把握を本詩として書き、それに客観的感をもって反詩をつけるという詩法であった。
 この立場で「第二感覚革命」を出し、又「現代思潮」という文芸雑誌を出した。 橋爪健、鈴木彦次郎、川端康成等が執筆し、私は東洋的重農主義革命を考えてゐた。 この期の詩作品には、「わが母は来ます」「父死に給へり」その他、見るに足るべき作品がないでもない。
 後期自由詩から、私は更らに、中村漁波林組んで出した第二次「詩文学」誌上で、文化史詩派の提唱にすすんだ。 これは私が重農主義の立場から都市の社会学的研究に入り、都市起原論に血道をあげてみた頃で、文化人類学に興味をもち、 文化史的にものを見るようになったので、その立場から詩も亦、文化史的感情内容をもたうとした為である。
 この期には、「鉄砲をはじめて見た日の種ケ島時尭の日記」「コロンブスに西海探険の印可を与えた日のイスパニヤ皇后イサベラの日記」「チッペワイ酋長の請願書」等の一連の面白い詩がある。 但しこの文化史詩派は追随者共鳴者が一人もなく、私の試作だけに終ったが、私自身もこの頃から詩壇的活動そのものに興味を失い、 身をしばらく詩壇から遠ざけると共に、詩作からも遠ざかった。そしてただ只管に都市起原研究と、権藤成卿翁を中心の日本重農主義運動の思想活動に専念した。

 この間二ケ年、昭和八年頃から又再び私に心が甦ってきた。キッカケは少年天才詩人増田晃と邂逅したためである。
 彼を私に紹介したのは赤松月船であった。 当時、増田は十九才の武蔵高校の三年生で、紅顔の少年であった。然しその詩は全く類例のない清純な詩で、繊細にして典雅、全く結晶体のような詩であった。 先師に彼の詩を私が読んで聞いて貰うと、先師は「ダンテ・ガブリエレ・ロセッチのような詩人ですね」と評して私の天才説に和して下すった。
 私はこの詩人を世に出すことが私の使命であると思ひ、その結果が今一度私の詩壇活動の必要となり、それが雑誌「日本詩」の創刊となった。
 この編集同人は赤松月船、大木惇夫、井上康文、勝承夫と、それに私の五人で、その第二号に巻頭十六頁を彼の詩の為に割いた。 昭和九年、私の三十七才の年の十月である。
 その詩壇への推薦紹介は「白秋以後の天才」の折紙をつけて私がした。それに対して川路柳虹氏が「時事新報」紙上で私の天才論の裏書きをして呉れた。 その文中に先師の名が出、生田長江氏は天才発見の得意な人であったが、その門下の伊福部君もまた天才発見がすきらしいというような言葉があった。

 とまれ、この増田晃の発見によって、私に詩神は再び来訪し、私はここで新たに新韻律主義詩論を展開した。 これは恰度、私が詩壇から遠ざかってゐた期間に、春山行夫氏等によってシュール・リアリズム運動が盛んになり、 詩壇は無韻律主義で蔽はれてしまってゐたので、それへの反撥でもあった。
 この新韻律主義は、私と大木惇夫と佐藤一英の三人が中心となってそれぞれ運動を展開したが、 そのうちで実を結んだのは一英の創唱した「聯」という詩型で、これは一行十二音の四行詩で、今日でも私達はこの詩型で詩作している。 私のこの詩集の中にも、この詩は約百篇ある。但し当時の作ではない。
 「日本詩」は四号で一応解散し、私は「羅曼」によって新韻律主義を主張しつづけた。 この間に私は記記歌謡的古代語によって日本武尊詩集等の多くの抒事詩を書いたが、それらの一部は史詩『日の皇子』なる抒事詩集に収めてある。

 これらすべては、私の三十八、九才頃のことである。 そして四十才の六月(昭和十二年)、私の人生観上に一大変化が来て、私は意を文学に絶ち、インテリ的生き方をやめ、文明批評の筆も折り、老子無為の教徒となり切り、自然、詩からも遠く離れた。

 それより十年、四十九才の春、流行の発疹チブスに罹り、死生の間を十日間彷徨した後、熱が三十九度六分に下った時、 「桃の花のこの国土にある限り、わが詩また亡ぶことなし」の語を囈語の如く吐くとともに桃の花の詩を十数篇数日のうちに作りあげた。 しかもそれはその以前の古代語でなくて現代語であった。
 然しそれだけで又、詩神は私から約十年去り、五十八才の秋になって私ははじめて全く従来とちがった角度から詩をはじめたのである。
 では従来の角度とどういう点が異なるか、それは自己を詩人という角度からの詩ではない。 詩的、又は詩史的角度から、立派な詩を書かうという野心的角度でなく、私は私という人間を、真に人間的により深めようというのである。 自己を人間としてより深めるために作詩という方法をもたうというのである。

 というのは、実はこの年(五十八才)になって気のついたことは、 四十才以降、老子・道元等の宗教に身を投じ、自己を宗教的により高めることにのみ努力して来たのであるが、高さばかりを問題にしてみて、自己を人間的に深めることを忘れてゐたのである。
 老子や道元等は、単に高い境涯にゐるばかりではない。まことに深い人間心の岩盤の上に立ってゐるのだ。 私なんかは頭ばかり、道元老子の高さにゐて、足は彼等の胸のあたりをばたばたしてゐて、地についてゐないのだ。 彼等の足は地につくどころか、地中深くその岩盤まで達してゐるのだ。 従って私が今日まで思ってゐたわが高ささえ、それは真の高さではない。 これはどうしても人間的深さに沈潜し、真の人間性の上にわが宗教の建築をせねばならぬ、 ニヒルの深淵、悪魔の世界にまで、わが足を下ろさなければ、真の神を語ることは出来ぬ、真の宗教を云々することは出来ぬ、 老子や道元と斉肩することは出来ぬ、と感じて来たのである。

 その人間性のどん底に足をつける道、それは宗教的精進では駄目で、どうしても文学でなければならぬ、 それには小説や戯曲等が一等よいが、その時間的余裕がない。そこで詩をもってこれに代えようと考えたのである。
 兎に角、詩なら昔とった杵柄である。何とかなると軽く考えて、詩作をはじめて見た。 ところが驚いた。作って見ると、詩みたようなものになるが、自らゆるす詩にはならないのだ。 あってもなくてもよいような、結局、無駄な言葉の遊びになってゐて、これこそ自分の詐らぬ自己だというようなものにはならないのである。

 そのような悲観と焦躁の三ケ月ほどを經て、私はやっと詩集『嘘と真実』の巻頭に収めてある「漬物石」という一篇を得たのである。
 この詩を得て、私ははじめてギリギリの、詐らぬ私をそこに見た。よくもわるくも私の人間のこれが岩盤である。 それは浅く小さい岩盤だが、その浅さがいつわらぬ私の浅さであり、小ささであるのだから仕方がない、この作が出来た時には、私はこれを浅いとも小さいとも思はなかった。 真実の私をそこに見て、私はうれしかった。ここには不必要なかざりの言葉はかけらもない、真実の私そのものだ。
 書けた、作れた、という喜びで一ぱいであった。 すると堰が切れたように私の心は活動し出し、「牛蒡」「楽焼の茶碗」「茶の花」「高村光太郎」「武者小路実篤」「石川三四郎先生」「良寛」「つまらない小男」「私は知ってゐる」「U子よ」「女性について」「ありたい」の十三篇の詩が数日の間に出来てしまった。 私はこの十三篇に理想という字に「なりたい」とルビをつけて題とした。 これが兎に角、新生私の第一歩であった。出発点である。

 この後、私は自画像の題で九篇書き、ここではじめて「夢」の総題で頭韻四十七篇の聯詩を書き、 更に「嘘」の題でその一、その二、その三、その四の四篇で構成する組詩を書き、この詩と更らに「おもひで」という詩によって、私の人間的岩盤は、もう一段深まった。
 私はここで人生に於ける嘘と真実との表裏一体である真実に肉迫した。
 そこで「夢」「聖」「永遠」「さびしさ」四篇、「幸福」十三篇を得、これに四十九才の時の桃の花の詩に「挑源抄」の総題をつけ加えて一巻とし、 『嘘と真実』の題名でわが第一詩集として世に問うたのである。これが昭和三十二年七月で私の六十才の夏である。

 この第一詩集「嘘と真実」を出して後、私の自らにつかまんとして来たものは、ニヒルであった。 嘘と真実の今一つ奥にあるものはニヒルである。 詩集『暁闇』は、その序詩にしてゐる「私ははじめて私を見た」という詩に於て、はじめてニヒルの一端に自ら触れた。但し今日見ると甚だ甘い。
 「虚無」「鶏」「自画像」「神と悪魔との間」、それに前著『嘘と真実』に収録しなかった旧作「幽心抄」の数篇を加え、 これを『暁闇』の題名で第二詩集として出した。この題名を撰んで呉れたのは同門の先輩佐藤春夫である。 昭和三十六年の晩夏に編み、出たのはその年末であった。時にわが年六十四。
 この詩集では、兎に角、私は神と悪魔の一部に触れ得た。
 なほこの年、私は毛筆自書の詩集、『無為隆彦詩集』を影印して出版した。 収録したのは「桃源抄」の詩のほか「嘘と真実」の数篇であったが、 この詩集を芳賀檀氏をとほして、ヘルマン・ヘッセに贈ったところ、ヘッセ翁より礼状として「Alle tode」と題する詩を贈って来た。 その訳を芳賀氏にわずらはしたが、この「すべての死を」という詩は、私を魂の奥底から揺り動かした。 私はこの詩によって、はじめて真の詩の開眼を得た。否、詩人としての開眼を得た。
 その結果が先づ「老鶴」一篇となってあらはれた。次に、「ニルバーナ」、そして「冬」この三篇は私の真の詩への開眼を証するものである。

 かくて詩集『老鶴』に収めた一巻の詩は、私の六十七才の一月には既に出来てゐた。
 私はこの詩集『老鶴』によって、はっきりとニヒルの深淵に到り得たと自信する。又神と悪魔との正体にも、兎に角、その一部には触れ得たと自信する。 然し未だその首根っこをつかんではない。 私は更らに、この神と悪魔を生んだより深いものに、すなわち老子の所謂東洋的道(タオ)そのものをわがものとせねばならぬ。 道(タオ)そのものにわれがならねばならぬ。そこから新しい詩を、自然のごとく創造し出したい。私の今後にかけられてる詩人としての仕事はそこにある。

 然し、それにしても、それらのものをつかむ具体は、何時でもわが郷里に於ける二十才までの生活体験そのものである。 事実これら、ここに収められてゐる一切の詩が、私を生み育てた郷里山陰道の山の中の智頭といふ山の町の美しい山河の生活記憶以外のものではない。 人は何時でもその郷里に於ける二十才までの生活体験、何とも気づかずに生活したあの幼少年期の生活体験の中に、 その人自身のもち得るその最も深く高いものを既に生活してゐるのである。 それをただ知らずにゐるだけである。それを自覚的に認識する、それを創造と呼ぶのである。 この人生の神秘の限りなき深さよ!私は今、齢七十に垂んとしてはじめてこれを知った!

 一九六五年歳晚二三日
                         無為艸房にて著者



【保田與重郎の『定本無為隆彦詩集』への礼状】

【封筒表】
東京都練馬区上石神井二ノ一二三一
伊福部隆彦様

【文面】
拝啓御健勝大慶に存じ
ます。今度ハ定本の詩集
いたゞき感銘してをります。
日本民族文明の為、慶
賀いたしをります。目下
世上の文芸失墜の折から
反而この集の如き文業の
出版さるハ今日の文運
が変則の形で盛事大ナル
の証と存じ万年ののちを
期してわが民族の為心意強
く感じられます。今日の文芸
の盛事大ナル所以につき小生
昨歳秋一文を草し、その
大ナル証ハ大兄の詩集と申延お き
ました。小生三十年来の
恩恵を拝謝しとりあへ
ず御礼申上げます。この
三十年の恩恵ハ、小生忘れ
ませぬ。春眠人を■■つつ
時々暖氣不順、十分の
御自愛祈ります。敬具
三月廿三日
京保田與重郎
伊福部先生机下

【封筒裏】
昭和四十一年三月廿三日
ホノミ山写真※ノ説明ニ
シテ詩集の佳品ト存じつつ
保田與重郎
京都市右京区太秦三尾町一番地
拝謝


おまけ「管理人所蔵葉書」【昭和18年 細田源吉宛10月10日消印】  【同 11月10日消印】



「父への回想」
                         伊福部舜児

       (1)

 父について述べる機会がこうも早く来るとは全く予想していなかった。 健康で、明るさにみち、いつも大きな声で談笑する父には死は、到底考えられなかった。

 その年の一月十日、私は仕事のため、ある事務所に出張し、そこで何人もの人々に順次、会って話をしていたが、その最中に妻から電話連絡があった。 突嗟に信じきれなかった。その上、相談に来た何人もが順番をまっているので席をたつわけにはゆかなかったが、 妻から再度の電話をうけ、早々に話を切り上げて父の家へ出向いた。半信半疑で、途上に何回も父の家に電話をかけたが、全然通じなかった。 それで、やはり本当らしい、という気持がかたまってきた。
 父の家についた時、大勢の人がではいりしていた。 間もなく、私の妻や長女も駆けつけてきた。 広い父の家は、どの部屋も私の知らない人達でごったがえして、私達は所在なさを感じた。 息子にとって、父の死というものが、寒々としたものであることを知った。

 その日の夜、あらためて父の詩集をひらいた。 宗教の世界に入った父であるから、励ますようなものがあるだろうと思った。しかし、父の詩は期待を裏切っていた。 常に死と向いあった、寒々とした静けさと明るさ、そうした心境の詩であった。 思い出してみると、父がこの詩集をヘルマン・ヘッセに贈り、その謝辞としておくり返された詩「統ての死を」という作品も、死に向いあった明るさであったようである。 ついでなら、父がこの詩をおくられて、数日後の新聞でヘッの死を知ったから、この作品がおそらくヘッセの最後の詩であっただろう。

 父は二つの人生を生きた。一つは、私達と別居するまでの人生で、評論家として詩人として文壇の一角に位置していたのであるが、 当時私は幼かったのでそれを知る筈もなかった。父と接した範囲の、しかも断片的なことしか記憶に残っていない。
 私達と別居するようになり、第二の人生に移ってから、父は文壇を去り、宗教の世界に入っていった。 私も時折父を訪ねていったが、父の思想を知り、影響を受けるようになったのは、かなり後になってからであり、生活そのものについては他人に語るほどのものではないのである。
 ただ、最後の詩集の巻末に記した自伝を読み、それと私の記憶とをつづりあわせることはできる。

 父が郷里の鳥取県から上京したのは大正十年頃、二十二、三歳の頃であったらしい。 上京すると、同郷の生田長江先生の門下に入ったが、五里霧中で、しかも激しやすい父は長江先生という偉大な師によって指針をうることができたし、 また同門では佐藤春夫という兄弟子や、赤松月船、生田春月という知己も得られた。 (眉目秀麗で、性格が暗く、孤独な春月と、色が黒く明るい父とは非常に親しかったらしく、春月が自殺してから後までも、父は春月の思い出を語っていた。)

 長江先生の指導で「月光」という詩誌を主宰したのが父の詩歴の初めであるが、 その頃、松本淳三(後に社会党の代議士になった)の詩集『二足獣の歌へる』に強い刺戟をうけ、「感覚革命」というプロレタリヤ詩の雑誌をも主宰するようになった。 富田常雄もこの雑誌の同人である。 ただ、プロレタリヤ詩といってもマルクス主義に基づくのではなく、重農主義、ないしアナーキズム的立場から物質文明やその上にあぐらかいたブルジョアジーに憤りをむけていたようである。

 当時、プロレタリヤ詩では、「感覚革命」のほかに、萩原恭次郎らの「赤と黒」、松本淳三、村松正俊(現日大教授)らの「鎖」の三誌が鼎立していたが、 合同してプロレタリヤ詩人連盟を結成し、銀座、神田、本などで詩の展覧会という全く新しい試みまでするに至ったが、 この最中に父が萩原恭次郎を正面から攻撃し、そのため「赤と黒」の同人は席を立ち、連盟は解散してしまった。 この時に限らず、父の攻撃は相当激しかったらしく、会合の帰途など、「殴ってしまえ」と取り囲まれたことも何回かあったようである。 また自宅に押しかけて来た者と玄関で激論し、追い返したこともあったように記憶する。

 文壇では新鋭評論家として知られ、講演会やラジオで文学評論を行ない、「三十歳にして名をなさざれば人間にあらず」と豪語したそうであるが、それを私が知る筈はなかった。
 また、時折、私をつれて外出し、会う人ごとに「これは俺の縮刷版だ」と紹介したそうであるが、それとてもおぼえているわけではない。 私が多少思い浮かべられるのは、机に向かっては何かを書いている父の姿、大勢の来客を相手に談笑している父、そして私をしばしば叱った父であり、深夜、酔って帰った父である。

 家計は貧乏のどん底にあった。というのは、原稿料は殆ど同人や仲間達との飲代になったということが大きな原因らしい。 米が買えず、じゃが芋を常食にしていたこともあったし、ある時は、私の就学前であるが、私の胸の真中が急に熱くなって泣き出したところ、父が急いで戸外へ行き餡パンを買って帰った。 それを一つ食べると胸の熱さはおさまったが、後日聞くと、その時は家族がみな三日ほど食べていなかったのだそうである。 遊びほうけていた私には判らなかったのである。
 引越しも十回近くあったが、家賃が滞ったことが主な理由らしい。 子供である私にとっては環境のかわることが面白くもあったが、昭和初期までは貧乏生活のできる時代であったといえよう。

       (2)

 叱られた記憶や、貧しかった、という記憶は多く残っているが、今考えてみると、初めの頃とでは家の中の空気が違っていたようである。

 私が小学校一年生の頃までの二三年間は、当時、まだ郊外であった中野に住んでいた。 家は、広々とした原っぱを見渡す崖の上にあり、日当たりはよく、子供の遊ぶには好都合なところであった。 父から加藤清正の虎退治の話をきき、弟と二人で野原に猫退治にでかけたり、近所の悪童と一緒に父につれられて川に入って一日すごしたこともあった。 私の一生を通じて、陽光を満喫できたのはこの時代であったかもしれない。 父につれにれて近くの北野神社のあたりでメンコを買って貰い、その帰途、夏草のかおりのむせぶような草原道で、親子でメンコをして遊んだのは今でもあざやかな印象で残っている。

 この当時、父は講談社に籍を置いていた筈であるが、通勤=帰宅といった勤人的な父の姿は記憶に残っていない。 思い出せるのは、何人もの客を相手に談笑している父の姿であり、父と客とつれだって出たあとで、火鉢をのぞくと煙草の吸殻が何十か、それ以上灰につきささっていたことなどである。 私と弟とはこの火鉢を囲んでね「何トカデゴワスナー」「ゴスナー」「ポンポン的に(根本的にの意)」などと父や客を真似たことも母から聞いておぼえている。

 私が病気にかかり、その病気の種類をしらべるため漢方医が私の左腕に蛇毒を塗って一日後の反応をみることにしたが、疼きと痛みで一晩中眠れなかった。 このとき、添寝をした父は、関羽という支那の英雄は、腕に毒矢が刺さり、その手術のため骨を削るとき、体を縛らせて、碁を打った、という話をした。 多分、私がそれでも泣きやまないので、父はそのうち怒りだしたような気がするが、その辺まではおぼえていない。

 この頃、私は、一度は「右」と「左」の区別がつかないため、もう一度は時計の針が読めないため、父にひどく叱られたことを憶えている。 しかし、父はこれを生田長江先生に報告したところ「天才は得てしてそういうものですよ」といわれ、すっかり譏嫌をよくして帰ってきた。 余談になるが、長江先生の感化か、伊福部家の伝統なのか、父にはいわば天才コンプレックス的な面があり、これが私自身にも影響を残している。

 ともあれ、この時代は、叱られるにしても明るさがあった。 詩人の赤松月船の近所の子供達は、駈ケッコの時「オン・ユア・マーク・ゲセット・ドン」といわず「アカマツ・ゲセット・ドン」といって駈け出すという話を聞いたのも多分この頃であったろうし、 父につれられて外出し、訪問先の玄関先で、余り綺麗でない肥った人とお互いに手をあげて挨拶し、「これがサトーハチローだよ」と紹介されたのもこの頃である。
 やはりこの頃に、父が私を伴って銀座あたりまで出かけ、知人に出会うと「これが俺の縮刷版だ」と紹介したそうである。が、これは私の記憶にない。

 今でも記憶に残っているのは、自宅から近くにあった法政大学の野球場(現在は新井薬師駅前で、喫茶店や住宅が並んでいる)で野球の練習をみたこと、その後、文学同人誌相互の野球対抗試合をみたことである。 練習を見た日、空は晴れ、私達家族はガランとした三塁側の木造スタンドのかなり上の方に腰をおろした。練習を見ても私には何のことか判らなかった。 打った球よりも早くベースに駈け込むのだ、と聞いたが、そんなことができるものか、と不思議に思った。 突然打った球が、弟の頭のすぐ上をかすめ、うしろの座席を転々とした。 ぼんやり者の私は平然としていたが父は球をとりに来た青年を怒鳴りつけた。青年は平謝りにあやまっていた。次に野球をみたのは場所もはっきりしていない。 そう晴れ上がった日ではなかったように思う。 どこが一番強いか、と聞いたところ「地上」(多分、同名の題の小説を発表した島田清次郎が主宰した文芸誌であろう)との父の答えであった。 そして、父は「歌と評論」を応援しているとのことで、ゲームはまるで判らないが、私が立上って大声で応援した。 第一回戦は「歌と評論」が勝った。第二回戦は「地上」との試合で、結局、「歌と評論」が負け、「地上」が優勝した。

 その後、私達は今の北区検察庁の近くの町中に転居した。狭い家ではなかったが、庭の桜の大枝のせいか階下の部屋は暗かったようである。
 私は小学校の二年になり、弟をつれてバスで通学していた。 たまたまある日、買って貰ったばかりのバス回数券を学校で紛失し、私と弟とは池袋からとぼとぼ歩いて帰った。 (私はうっかり者で、失敗ばかりしていた。)  その日の夜、父は刀を手にして激怒した。 もともと性格が烈しかったが、この頃の父は文芸評論から社会評論に移行し、その原稿が思うように売れず、イライラしていたのではないかと思う。 当時の私はいつも父にビリビリするものを感じていた。

 父の所説は、最近になって知ったのであるが、当初は、現代芸術は都市文明からの逃避手段、いわば麻薬的なものにすぎない、その意味で、より新しい、健康な芸術に期待をかけ、仲間を糾合して文芸誌を発行していたのだが、やがて、芸術という上部構造よりも、これを規定する下部構造、特に「都市」に対して鉾先を向けるようになった。 その頃、詩を志して岐阜の山奥から上京した青年が内弟子として私の家にいたが、食事の時、私がうっかりこの青年に「田舎ものは・・・」といったところ、この時は父にひどく叱責された。 重農主義の立場の父には、田舎を軽侮することは許されないことであったのであろう。

 この頃も多くの人達が出入りしたこと、長逗留の客やら居候がいたことは以前と同じであったが、話し方は以前のような談笑ではなく、激論であった。 当時は日本全体が不況の底にあり、文学者も(いわゆるブルジョア文学者以外は)先鋭化していた。 父は権藤成卿の教えで重農主義の立場であり、共産主義者とは膚があわなかったが、無政府主義者や右翼の思想家とは親交があったらしい。 今の人達は奇異に感ずるかもしれないが、当時は都市には失業者が溢れ、農村は極度に疲弊しているのに、職場のある幸運な組織労働者だけを戦力と考えるマルキシズムには論理的矛盾を感じ、失業者や農民も闘争に加わるべきだ、と考えたらしい。 特に疲弊した農村を救おうという気持は無政府主義者、右翼思想家と共通していた、といえる。

 私が「ルンペン・プロレタリヤ」という言葉を覚えて得意になったのもこの頃である。 (実は、学校で、言葉のしりとりをして「る」という言葉でつまった友人に、この言葉を教えて喝采をえたのである。)  誰かの企画で富士の裾野のあたりで農村青年たちの成人学級を開設し、父がそれに出向いたのも確かこの時分であったし、 NHKで文芸講演をしたところ(私の家には当時ラジオはなかったが知合の小母さんの話では、検閲のためか)一言も放送されなかったのもこの頃だと思う。

 また父が治安維持法で検束され、帰宅した時の姿はまだ私の眼に残っている。 相変わらず強気のままであったが、家の中が何か暗いようであった。いわゆる五・一五事件が起きたのはこの前後であった。と記憶している。
 やがて、ここにいては危険だ、という知らせがあり、わずか一、二年位で位この家から去って早々に立教大学の近くにある、かなり大きな家に転居した。 社会評論から文芸の方へ戻ったのもここへ転居してから後であった。

       (3)

 立教大学の近くの大きな家に私たちが引越したのは私が十くらいの時であった。
 この頃から父は、社会評論家として都市文明を批判するよりも、文芸評論ないしは詩作によって東洋の文化、東洋的ロマンチシズムを主張するようになった。 ペルシャの英雄ルステムとその息子ソラブとの戦いなどを父から聞いたのはこの時分の筈である。 父自身、叙事詩などをものにしたようであるが、かくれた天才を見出して世に出すこと、特に没落すべき西欧的都市文明でなく、復興すべき東洋の文化の天才的芸術家を育てることが、評論家の使命であると父は考えたらしい。 文学青年とか若い芸術家が何人も出入りしていたようなおぼえがある。

 構造社(彫刻)の鈴木章もその一人で、父は天才と称していたが間もなく夭折した。 “歩み”と題する裸婦の雕像が父の家にあるが、この人の作である。また、増田晃という少年が、父を訪れたのも、あるいはこの頃であったかもしれない。 父は早速、生田長江先生にひきあわせ、天才という折紙を頂戴した。 父は彼を自分の芸術上の息子に育てるつもりであったが、その後何年かして、日支事変で戦死してしまった。 (後日、この詩人の詩集『白鳥』を読んで、こんなに美しい日本語があるのか、と私も驚いた。月光尊者とかゴッホへの讃歌の詩とか、とても十七、八の少年の詩とは信じられなかった。

 しかし幼かった私には、そうしたことはまるで知らなかった。 退屈すると庭にでて、刀で庭木の枝を切っていた父を覚えているし、 また、夜中に父がまるくなってねている真黒な飼猫を、行火と間違えて火のついたたどんをのせた──勿論、猫はとんで逃げたが、翌朝腹の毛を焦がした猫をみて私達は大笑いしたこともある。 白井喬二先生の鎌倉の別荘を一夏つかわせてもらったのもこの頃である。

 その後、父は第二の人生に這入って、私達は父と別に生活するようになった。 父は池袋の要町に住み、私達は雑司ヶ谷の小さな家に移った。それでも月に一回か二回、私は弟と手をとって父のもとへ出かけた。 ただ、この頃は、父は経済的にも精神的にも最も苦しかったらしい。 僅かの間に何回も住まいをかえ、アパートに間借りしていることもあった。 父は中国の古代詩想に精神的なよりどころを求めていたらしく、列子の処世訓のようなものを聞かされた。 内容は一笑に付したくなるような話であったが、いたいたしく思え、そうはできなかった。

 私の義妹や義弟たちには、父のそうした苦しみを理解できないであろう。 私が中学の何年生であったか、父から老子の「道可道非常道※」の説明を聞いた。 私は、またか、と思って反撥した。私が生意気になりかけていた頃であったし、現代ばなれをした中国古代哲学に父が関心を持つこと自体、私には無意義だと思った。
 しかし父が老子を発見してから、人柄がすっかりかわった。 真の意味で第二の人生に這入ったのはそれからであろう。名前もその頃から隆輝から隆彦に改めた。 いつも大きな声で話すとか、酒が好きであるとか、かわらない面も多々あるが、もちまえの短気はまるでなくなり、おだやかで、他人を攻撃することがなくなった。
 それからのことは私の弟妹や、従兄弟にあたる霧林道義(※詩人)、江口勝之の諸兄の方がよく知っている筈である。 時折盃を重ね、碁に興じたが、私が意気込んで話すベルグソン哲学や西田哲学は全然相手にされなかった。 父は私の知的理解を越える存在となっていた。私の帰途、父は椎名町の駅のあたりまで送りながら、人生訓のようなことを語りきかせた。 知らずのうちに私の人生の指針はこうして得られたのであろう。
 その頃であった、と思う。父が発疹チフスにかかり私は何日か遅れて病院に見舞に行った。「今頃まで何をしていた。」と私は久しぶりに怒鳴られた。 そして足を揉め、といわれ、熱ぽい両足の先をもんだことを記憶している。父はすぐに気嫌をとりなおした。

 やがて父は上石神井に転居し、私は上石神井の駅から父の家まで田と畑の間をたどって訪ね、その帰りには、さっき来た道を父が送ってくれた。 その後、私は妻と一緒に訪ね、やがて長女と三人で訪ねるようになった。 長女もそれを楽しみにしていたが、父は相好をくずして私の長女の相手をし、そこにはかつての烈しい気性は見当たらなかった。

 葬儀の日は冬晴れであった。 寒風の中を多くの人々が訪れた。刷上ったばかりの最後の著書(『都市論−新しき文明の礎石を求めて』)が棺に収められた。 私に、哀しみの方が多かったことはいうまでもない。
 しかし千人をこす人々から弔問、弔電を受け、そして棺の前で泣く多くの人々を眼のあたりにして、私は感謝の気持にあふれた。 宗教、書、芸能論、都市論の各領域で思いのこすことのないまでに仕事をした父、そしてその父を心から惜しみ、悼んで集ってくれた人々をみて、私は、葬儀は人生の最後の、そして最大の式典であることを知った。


(詩人については2018年12月1月10日著作権保護期間満了済ですが、御遺族の文章引用に関して引き続き連絡先を確認中です。)
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