序文の紹介にもあるやうに、名を隆輝から隆彦にあらため「人生道場」なる道徳実践コミュニティの経営を創めた詩人ですが、 道場は詩人亡き後、次男高史さん御夫妻が箕裘を継がれました。
そして何を隠さう、私も今から30年以上前に一度、
初めての職場下町風俗資料館で席を同じくした、書道剣道の練達の士で後に荘子の研究家として名を成した畏友、故 大野出氏に連れられて、
石神井の閑静な住宅街にあった詩人の旧居にお邪魔したことがあったのでした。
大野氏とのなつかしい思ひ出はひとまづ措き、当時の私には伊福部隆彦といふ名は、天才少年詩人増田晃を見出したそのお師匠さん、といふ認識しかありませんでした。
だれからも質問されるといふ「怪獣映画音楽の伊福部昭さんとは近い親戚ではないのです」といふ話を伺ったのち、
私がその増田晃について、『コギト』の後輩として当時師事してゐた田中克己先生がたいへん彼に目を掛けてゐたことをお伝へすると、
高史さんはおもむろに、保田與重郎が『定本無為隆彦詩集』の礼状に送ってきた書簡を奥から出してこられ、コピーして下さいました。
私はおどろくとともに、この詩人もまた浅野晃と同じく、敗戦後にふたたび詩を書くやう開眼に至った真性ロマン派の一統であることを実感したものです。
これも最後に掲げたく思ひます。
しかしながら、詩歴は大正期に始まって大変長いものの、自ら述べるやうに曲折を繰り返し、真の己の詩を発見するまで、その鑑識眼は自作よりも人物発掘の才能として発揮されました。
前述した増田晃の他にも、これは戦後の話ですが、たまたま私が古本屋の店先で見つけた守屋主一郎といふ詩人の
『昔日』(1955東洋社・非売)と
いふ詩集、 こんなに良い詩が話題にもならず、どこの図書館にも納められることなく今なほ埋もれたままであることに驚いたのですが、
上梓に至る経緯をこの人が跋文に記してゐるのを読んで、たとい名を成さなくとも璞(あらたま)を見抜く活眼の士であることに感銘しました。
漢詩においては
『西湖四十字詩集』といふ、明治時
代にマルクスに会った最先端すぎた知識人、 飯塚西湖の五言律詩を尊重してゐるのを知って、ちいさなその漢詩集を探し求めたものでした。
さらにアナキズムから脱却して老子へと移る過渡期には『日本詩歌音韻律論』といふ理論書を著してをり、 なんと佐藤一英が興した
「聯」の作詩理論に賛同してゐたことを知っ
て、 このたび御縁のできた青森の聯詩人一戸謙三とも同世代の詩人であることにあらためて驚いてゐる次第。
つまりは同じく「池袋モンパルナス」に住んでゐた一英や福士幸次郎を通じての交流が思ひあはされるのです。(
『聯』第3巻第7号 昭和
15年7月1日発行)
『聯』誌の同人、辻晉堂(陶芸家)とは出身地の鳥取を同じくします。これまた何某かの誼があるかもしれません。
とまれ、生田長江門下にあって癩病に冒された師のもとを最期まで去らなかったといふ硬骨の人柄に、
私はなにより尊敬の念を抱いてゐます。 病を忌避して距離を置いた兄弟子たちの一人、佐藤春夫が自筆版の『無為隆彦詩集』冒頭に、
伊福部隆彦の破格の文人たる姿勢について意を尽くした序文を認めてゐますが、
佐藤春夫の一番弟子である保田與重郎も、おそらく色んなエピソードを聞き及んでゐたに相違ありません。
それゆゑ「どうして保田與重郎が斯様の文言を綴ったのか」を思へば一層、敬愛や親しみの情は増すのでした。
詩人は無為自然の境地を深めるに至って、ふたたび詩心に目覚め、筆を執ってそれを墨跡にも顕し、専門書『書と現代』なる一家言を書道界に投じてをります。
私には書の良し悪しは分かりませんが、このたび手に入れた掛軸(録老子聖語「谷神不死」)はその傑作のひとつではないかと惚れ惚れと見入り、 老荘思想の受容史研究に生涯を捧げた大野氏に是非見てもらいたかったものだと、
何も知らない田舎者の私を伴って東京各所を江戸庶民文化の見聞を深めるため、色んな所へ連れて行ってくれた彼のことを偲んでゐます。
たしかに「悟りの境地」に一般人が到ることは難しいことでしょう(私の乏しい理解では「道」とは「時の本体」であるかのやうな読解に留まってゐます)。
しかし「道」を得た結果、詩人に訪れた雄渾な詩境は、だれにもわかる易しい言葉で綴られ、実に滋味深い自然の讃美となってをります。
佐藤春夫が云ふやうに「平凡に他奇なく、素直に自由に、品格賤しからざる」墨蹟で綴られた自筆の折本詩集には、
それが手にとるやうに感じられますので、これもまた画像で紹介したいと思ひます。
『無為隆彦詩集』1961/
無為隆彦詩集刊行会 折本1冊 200部非売
さて最後に「人となり」の紹介ですが、彼が愛した飯塚西湖の人物評「游道極廣。爲人簡易坦率。不拘禮節。尤喜爲詩。(山田松堂)」にぴったりと重なるものがあります。
幸ひにも詩人自身による遍歴記と、そして長男舜児氏の回想につぶさに語られてゐますので、詩一篇とともに、以下に引いて責めをふさぎたいと思ひます。
(それにしても舜児氏の回想の中にある、「その頃、詩を志して岐阜の山奥から上京した青年が内弟子として私の家にいた」といふのは一体だれのことでしょうね…。)
崑崙の石
私は玉性を深く秘めた崑崙の巨巌である
千年この山中に私を掘り出す玉探しを待つてゐるが
私とは比較にならぬ小さな璞(あらたま)を掘り出すものはあつても
私に気づくものはない
苔蒸した私の上に腰をおろして
高質の璞のないのを嘆く玉探しどもの嘆きが
私をどのやうにいらいらさせて来たことか
しかしなほ私は希望をすてなかつた
必らず私を見出す玉探しが何時か来るにちがいないと
私はその日までこの玉性を深く養うて待たうと
ところが或る日 喜びの日とともに絶望の日が来た
私を知る玉探しが遂ひに来たのだ
彼は私を見て私の秘めてゐる玉性のすばらしさをただちに見た
そして嗟嘆して言った
このすばらしさはどうだ
しかし残念なことには あまりにも大きく そして深く埋れてゐる
これでは掘り出して運ぶことも出来ない
「石よ」と彼は言った
「お前は永遠に世に出ることは出来ない
お前は人々に愛玩されるにはあまりに大きくそして深く埋れすぎてゐる」
かくて私の絶望の日がつづいた
ところが或る日 私は
私の上に立つて驚きの声をあげてゐる一人の詩人の声を聞いた
「これは何といふすばらしい巨大な玉だ
こいつは人の匱(はこ)の中などには入れられはしない
崑崙よ お前こそ玉中の王者だ
超然として人慾の外に琢出してゐる
お前をみがき出したのは造物主だね」
私は驚いて私をいだいてゐる崑崙を見た
見よ 紫金に輝やく山巓が
雲霧の上に なるほど神の如く琢出してゐるではないか
私は私の矮小さをはじめて知り
今迄の不平が恥しくなった
ああ
雲霧の上に超然として
日月とともに永遠に生きてゐる崑崙よ、わが父よ
爾にいだわれて私は永遠に埋れよう
そして今はもう何ものも羨やむことはない
一九六三、一、二七