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もりや しゅいちろう【守屋主一郎】『昔日』1955



詩集『昔 日』

守屋主一郎 詩集

昭和30年10月25日 東洋社発行 97,5p

20.0×15.4cm 上製函 非売200部

中込 旻(山梨県萬屋醸造六代目当主) 装 全文PDF公開し ました(Mb)。


  「昔日」上木に代へてー

 昨年の秋だったと思ふ。一日私は中込旻(あきら)氏を甲州青柳のお宅に訪ね、その夜、同家の銘酒「春鶯囀」の美味を例の如く味ひ乍ら、 書や美術の ことについて話して居るうちに、談、たまたま詩のことに及ぶと旻氏は、「詩と言へば」と言って一篇の詩を私に示した。

 私は何心なくその詩を手にとって一讀するや、そのなみなみならぬ詩品であるに驚 き、「これはどなたのです」と聞いたものである。

「いや僕の旧い友達のですよ」

「旧い友達って何といふ方です」

 私の話気の異常さにやや驚き乍ら氏は

「守屋主一郎といふのですがね、どうかしましたか」

「守屋主一郎?聞いたことがないですね、どんな人です」

「どんな人って中学時代の級友で、実業家ですよ」

「ヘエー、それでわかい時、誰に師事したのでせう」

「誰にも師事しませんよ」

「これは不思議だ、信じられませんね」

「といふのは、どういふ意味です」

 そこで私は、私の驚きを言はねばならなかった。それはその一篇の詩を見ただけで、 この詩人が当然に、わが詩壇に立派に独自の位置を占めるべき詩品を示してゐるのである。

「もつとありませんか」

「ありますよ」

 そして私はなほ数編の詩を見せて貰つたが、いよいよ私は確信をもった。

 立派な堂々たる詩人である。

 しかし私がこの詩人の名を知らないことが、私には不審である。

 何故といふに、この詩人は中込さんと同年といふのであるから、従つて私と同時代で ある。私は青年時代から詩を作り、且つ詩の批評を書いて来たので、大正八九年から昭和十一、二年までの日本の詩人で、多少とも才能を示し た詩人なら、南は琉球台湾の端から、北は北海道樺太の隅まで知らない詩人はないと自信してゐる。

 その私が知らないといふことは、私には不審である。一たいこの詩人は誰の系統で何 処にゐた人であらう。

 詩風から見れば北原白秋氏の系統に多少似たところもあるが、あの人の結社の中にも この名の記憶はない。詩格の高さからいつても、どうしても当時の詩壇にあらはれてゐなければならない。しかし慥かにゐた覚えはない。

 それなら別なペンネームがあったらうか、そんな筈はないと要氏は言ふ。

 兎に角、これは私にとって一つの驚きである。

 そこでこの驚きを率直に私は披瀝し、守屋さんに氏と寄せ書きでその来歴をたづねる 手紙を書いて、その翌日歸京した。

 それから二ヶ月後、今年になつて再び中込さんを訪ふた。そしてあの手紙の返事につ いて訊くと何とも言って来ないと言ふ。私は何か一寸不快になった。何かこちらの批評家的殉情を無視されたやうな気がしたのである。

 ところがそれから又二ヶ月後、四月になって氏を訪ねると、「守屋に逢ひましたよ。 そして詩をあづかつて来ましたよ。見て下さい」と言って一綴りの詩が私の前に置かれた。

 きくところによると守屋さんは二高時代から詩は書いて来たが、独り書いて来て全く 師承はなく、私の称讃の手紙を受取っても何だか自分のことのやうには思へず、それで返事も書かずに失礼してみたといふのである。更に氏 が、そんなにすぐれた詩なら、整理して一つ詩集にまとめたらとすすめても、自分ひとりでたのしんで書いて来たものだから、別に世に問ふ気 は毛頭ないと言って相手にもせぬ。

 そこで旻氏は、今度は傍らにゐた夫人を説きつけた。「奥さん、兎に角、お出しに なった方がいいですよ、守屋君が整理しないならあなたが一つ整理して清書して下さいよ。そして出さうぢやありませんか」

 この氏の友情に夫人が先づ共鳴してその気になられ、そこで今ここに綴られてゐる一 冊の詩集となったといふのである。

 私は胸おどる思ひがして、すぐ手にとり、むさぼるやうに讀みはじめた。そして一篇 一篇、私は私の豫想の全くの的中に会心の微笑をもらさずに居れなかつた。それは実に、ユニークな香気に富んだ作品である。

「豫想どほりですよ。立派なものです。これほどの詩が詩集にならずに、筺底に埋めら れてしまふといふことはない。出さるべきですよ」

「さうですか、貴方がさう仰有れば出しますよ、出させますよ」

 旻氏はうれしさうに力をこめて言った。

 それから二週間ほど後、私は旻氏につれられて、はじめて守屋さんを荻窪のお宅に訪 ねた。それまでに旻氏が夫人とともに守屋さんを説きつけて、詩集刊行の決意をやつとさせたから、編集等の相談に私にも一役のれとの事であ る。

 その夜のやうな美しい友情の光景を、私は見たことはない。私達主賓三人は夫人の心 からのもてなしの中に、たのしく和やかな晩餐を共にしながら、この詩集の体裁その他について話し合つた。

 その結果、守屋さんの意見で、「中込君のすすめでこの詩集はだすのだから、表紙や 見返し、口絵等の絵は中込君の絵でやつて呉れよ」といふことになり、又私には、「この詩集の出るやうになったキッカケをつくつた人として 跋はあなたに願ひますよ」といふことになつたのである。

 このやうにしてこの詩集「昔日」は世に出ることになった。だからこの詩集は多くの 詩集のやうに野心をもつて世に問うといふやうな詩集ではない。美しい友情の結実が自らにこの詩集になり、縁につながる人々に、その美果を くばらうとするのみである。

 だが、この美果の饗宴はたのしい。おそらく人々は私と同じに、春の夕日のやうなや はらかい香気をもつた、このすぐれたユニークな詩人をわれらの詩史の中にもつことをよろこばずにけ居れないだろう。私自身何よりもその喜 びの中にゐる。

 いささか本詩集上木の由来をつづつて跋の責をふさぐ。

  昭和三十年七月梅雨の将にあがらんとする十日、上石神井の居にて

                        伊福部隆彦


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