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いふくべ たかひこ【伊福部 隆彦】『老子眼蔵』1953



『老子眼藏 改訂版』

昭和28年1月10日 池田書店発行

331p/21.0cm 上製函/\600

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  序

 著者は、日本で只だ獨りの老 子の弟子だといつてをる。だか ら老子の研究にいて従来の見方 と異ってるものがあるやうだ。
 自分は老子について親しく研 究したものでないから多くを語 る資格はない、ただ老荘の思想 と禪とは密接な關係があって、 禪書にはよく老荘の語句が轉用 されてをる。
 なかんづく無爲といふ言葉は 老子の教への中心をなすもので あるが、この言葉は佛典にも禪 書にもよく使用されてる。言葉 の同じであるといふことは思想 の上においても混同を来たす恐 れのあるもので、自分は若い時 代に禪と老荘の思想においてど こに両者の別があるのか迷った こともある。
 しかし老荘は支那の偉大なる 哲人ではあるが宗教家ではな い、こゝに宗教であるところの 禪と明白な相違があることを認 めることができたのであった。

 著者は老子を参究して更に正 法眼藏の著者である、道元禪師 の道に参ぜんとしつゝある人で ある。「老子眼藏」の書名はこ れを物語るものである。老子と 道元禪師とを對照してこれを研 究することはよほど興味の深い 問題ではあるがなかなか容易な ことではあるまい。
 道元禪師は宗教家ではあるが 一面に哲人の風丰を多分に備へ てをらるゝので、老子の無爲の 大道と、禪師の道環の行持とは 一線相ひ通ずるところがあるや うである。

 老子の無爲といふ意味は無條 件といふことであって大道は無 條件でどこでも圓通してゐるの に人間は常に條件なしには動か ない、だから無爲の大道が現成 せないのである、いな大道はい つでもどこでも現成してをるの だが無爲の自覚がないから、そ の現前してをる大道に気がつか ないのだといふのが老子の教へ の眼目ではないかと思ふ。
 師の力説さるゝ只管打坐とは 無條件に只だ坐せよと仰せら るゝのであるが人間はなにか所 得を念とせずにはなかなかに坐 禪をせないのである。

 だがこの「只」の一字意味甚 深で「只」ほど高いものはない といふ諺さへある如く、この只 こそ功徳無量であることに氣が つかないのである。
 「莫圖作佛」とはこの只だの 極致をいつたもので、禪師は随 聞記のなかに──諸佛菩薩に随 喜せられんことを思ひ、佛果菩 提を成ぜんことを思ふも我欲名 利の心なほすて得ざる故なり、 此等まではいまだ百尺の竿頭を 離れずとりつきたるが如し、只 身心を佛法になげすてゝ更に悟 道得法までをも望むことなく修 行するを以て是を不染汙の行人 とは云ふなり、有佛の處にもと どまることをえず、無佛の處を も急に走過せずと云ふは此の心 なり――我欲名利の心をなげす てるところに佛教の無我の理想 も實現し、老子の無爲の大道も 現前する。

 禪師の宗教は坐禪の一行にか ぎらず、日常の行持の上に我欲 名利の念を解脱することが眼目 である。この點において老子と いはずすべての教へと共通する のであるが、禪師や老子の如 く、人情に堕せずに極端に無所 得の行持を説き、無爲の大道を 力説した哲聖は罕れであるやう に思はれるのである。
 それゆゑに老子の無爲の大道 は高蹈的で現實の生活に即應せ ないとか、禪師の宗旨は餘りに 深遠にすぐるとか評せらるゝの である。孔子は人情を基調とし て人道を説き、老子は大道を中 心として眞の人間道を説いたと も見ることができると思ふ。

 法然上人の語に、淺きは深き なりといふ語があるが、この半 面には高きは卑しきなり、遠き は近きなりともいへるのであつ て、禪師の行持も老子の大道も 實に日常の平凡事を説いてをる のである。
 大道といふものは平凡な日常 生活のなかに現前してをるので あつて、行住坐臥のところに佛 行は現成し、大道は行爲されて をる。餘りにも親しいから會得 し難いのである。
 禪師の語に、しらるゝきはの しるからざるはこのしることの 佛法の究盡と同生し同参するゆ ゑにしかあるなり──とあるは この意味である。

 佛教では、聞思修の三慧とい ふことを説くのである。法を聞 いて得る知慧、法を聞いて思惟 する知慧、修慧といつて修行に よって得る智慧、それゆゑに修 慧とは行知である。
 行知とは行観不二の知慧であ り坐禪の行によりて得たる知慧 である。世間では體驗といふ言 葉で現はしてをる。老子は無爲 の大道を説くといへども、いか にしてその大道を行得するか、 修道の方法が明白に傳へられて ないやうに思はれるのである、 この修道法が佛教以外の教へに はどうも第一の主眼として傳へ られてないやうに思ふ。これが 大きな缺點ではないかと考へら れる。老子のやうな尊い無爲の 大道も、それがために傳承者が なくて世に弘通せずに偉大なる 思想として観念的に世の學者の 遊戯にして終ふてゐるのであ る。
 この邊のところ、この著者に よってはじめて老子の教が行と しての把持修道の功夫として表 現されてゐるのを見るのであつ て、そこに著者の創意のあると ころ、苦心のあるところがうか がはれるのである。そしてここ にこの書の新らしさがある。

 昨年から、ある因縁で著者伊 福部氏と道交を得るやうにな り、永平寺で二度も會見したの であつた。氏の求道心の深いの と、既に数部の著書に、或は毎 月の「人生道場」雑誌の刊行 に、その精進ぶりには全く心さ せられてをる。
 此度「老子眼藏」刊行につい て何か序文をかけとのことだか ら愚懐の一端をかきつらねたの であるが、老子についてなんの 造詣もない自分のことだから、 全くその人ではないのだが、著 者と因縁所生のつながりに引き づられて禪餘草々筆をとること 如是。

  昭和十七年二月涅槃會の日
             永 平寺僧堂裡  足羽雪艇


 序

 「老子」と佛教とが始めて接 觸したのは、すでに西暦第二世 紀頃のことであつて随分古いこ とである。當時は佛教が印度か ら支那へ渡来した頃であつて、 佛教側としては、佛典を支那語 に翻譯したり、支那人に理解さ せたりする為に、支那に於て最 もその手がかりになり得るやう な佛教と類似なものを覓めよう とし、支那側としては、佛教を 理解する爲に、從來支那にある 佛教類似なものに拠らうとする ことは極めて自然なことであ る。
 その場合に最も條件にかなふ ものは、孔子ではなくして老子 である。
 そこで老子の思想から佛教を 理解しようとする所謂格義佛教 なるものが起った。牟子とか道 潜とか支遁とかいふやうな人人 は、その格義佛教者の代表的な ものであつて、彼等は、佛教の 般若の空や菩提や涅槃を、老子 の無や道や無爲と同一視し、老 子によって佛教を理解しようと したのである。
 この考へ方は、更に極端に なって、釋迦は老子と同一人で あるとさへ考へられるに至っ た。
 しかしかやうに、佛經中の事 を佛教以外の書に擬配して理解 するといふやうなことは、間も なく「先舊の格義、理に於て違 ぶこと多し」とて道安やその弟 子の慧遠などによつて批判さ れ、更に又、鳩摩羅什や僧肇に よつて「老荘は未だ覚位を得ざ る凡夫のみ、眞の發足點をすら 知らずして孟浪の言をなすの み」として斥けられるに至り、 佛教の理解は、老荘の立場から 脱却して、龍樹や羅什のやうな 佛教者自身の中に覚められるや うになった。
 しかし日本に於ける佛教と神 道とのやうに、支那に於ては佛 教と老子とは以後も常に習合し 易く、時には老子のみならず孔 子をも加へて三教一致説さへ唱 へられるに至つた。

 しかし、かやうな習合説にし ては、日本に於てもすでに道元 は「正法眼藏深信因果」に於て 「もし衆生死して性海に帰し、 大我に帰すといふは、ともにこ れ外道の見なり」といひ、「正 法眼藏四禪比丘」に於ては「い ま大宋國のともがら、おほく孔 老と佛道と一致の道理をたつ、 僻見もつともふかきものなり」 とか、「孔老莊子惠子等はただ これ凡夫なり」「學者はやく、 佛法と孔老と一致なりと邪解す る解をなげすつべし」と戒し め、夢窓も「夢中問答」中に 「莊子等は、前世の業因によれ ることをしらざるが故に、貧富 貴賤はみなこれ自然なりと思へ り」とて、老莊を佛教と同一視 する考を斥けて居る。
 かやうに古来、佛教を老荘な どに擬配して理解することを多 くの者が斥けては居るものの、 老子と佛教とが、はつきりとた やすく辨別され得ぬ程類似して 居ることは、道元と雖も「孔老 のほかに佛法すぐれいでたりと 暁了せる一人半人あらず、ひと り先師天童古佛のみ佛法と孔老 とひとつならずと曉了せり」と いつて居るのを見ても明かであ る。

 のみならず、佛教も支那に入 つては事實上老荘の影響を受 け、老荘も佛教の影響を受け て、両者が相互に習合して相接 近して来たことは爭へない。随 つて両者の内容も意味も變つて 来て居ることは明かである。こ こに原始的なあり方から遠ざか る惧れもあるが、又内包量の拡 充と洗練とによる發展もあるの である。

 かやうなことは、日本に於て も佛道と神道との習合によって 起り、西洋に於ても、例へばギ リシャ哲學とキリスト教との間 にも起つたことである。この相 互に聯関して揉み合ふことは、 両者をお互に批判し、その差別 面を止揚して、一體の新しいも のに綜合的に發展せしめること にもなり得るのである。必ずし も歴史的原始性に拘泥せずし て、そのあるべき筈のものに発 展させて行かうとする態度は、 専らそれを狙ふものである。

 伊福部人生道場主座の「老子 眼藏」即ち老子と道元との習合 もかかる意圖のものとして、老 佛一致の新しきあり方として注 目すべきものである。所謂道 冠、儒履、佛袈裟三家を和會し て一家となす底のものであら う。
 主座は多年老子を知識として 知ることよりも生活として體得 することにつとめ、無爲を體驗 して幾度となく見眞の妙境に入 り、それに導かれて、更に道元 の佛道に参入して修證一等の妙 理を自覚し、かくて老佛不二を 證得し、これに拠つて老子を新 釋して二千年来の誤讀や誤解を 正し、茲に新しく老子の眞道を 樹立し、自らも行じ、他をも行 ぜしめようと人生道場無爲修道 會を創立して立教を宣言された のである。
 私はこの主座の無爲道が、果 して客観的に老子や道元自身の 本意に合ふかどうか、又兩者の 發展的習合にしてもそれである かどうかを、今弦に内容的に論 究する準備と餘裕とを持たない のであるが、東洋獨自のものと されて居る老子が、従来大多数 の研究がさうであつたやうに、 只單に對象知的な研究に終るこ となく、主座によって極めて稀 に主體知的に眞参實究されて、 老子五千言が、その出て来た源 泉である生き生きした無爲から 平明自在に解明され、且つ行じ られるに至つたことは、眞實な 生活關心からは固よりのこと、 西洋から對決を迫られて居る東 洋の特性を高揚する上にも寔に 快心事といはねばならぬ。
 私は更にこの「老子眼藏」の 出現を道縁として、老子體得者 の日に多からんことと、道釋の 比較研究並に総合的研究の益々 盛ならんこととを期待して止ま ない。

  昭和二十七年十一月一日
                  於洛西草庵 久松眞一


 自序

 この「老子眼藏」は老子知識 の書としてよりも、より多く老 子體得の書として書いた。これ は私がこの頃、ものを知識とし て知ることよりも生活として體 得することの更らに上なること を痛切に感じて来てゐる為であ る。
 だから、この書は客觀的に老 子を知るの書ではない。むしろ 自己が老子になり切る為の書で ある。
 その為にいさゝか文章の形式 にも苦心し、道元禪師がその 「正法眼藏」に於てとられてゐ る表現形式──行的文章表現 ──を出来るだけ學んで見た。
 この書を「老子眼藏」と名づ けた意味の一半もそこにある。 それに兎に角この書が老子道體 得の書として最初の試みである に於て、道元禪師の「正法眼 藏」の佛道に於けるありかたと 同じであることを聊さか自負す るものである。
 勿論この書は、私の卑淺を表 現して卑淺である。しかし乍ら それが誰人かを憤せしめて起た しむる好機ともなれば、それも よからうではないか。

 なほ今日老子ほど誤解されて ゐる書はない。或は東洋無政府 主義の書であるやうに見られた り、或は虚無思想の書であるや うに見られたり、或は支那的な 功利主義の書であるやうに見ら れたり、或は人生を逃避した隠 遁の書であるやうに見られたり してゐる。悉く誤讀であり誤解 である。

 しかしこの誤解は、何處から 生じたか。魏の王弼以来、老子 正文の正しい讀法を喪った爲で ある。

 蓋し王はその老子道徳經を註 するに當つて、第一章「道可道 非常道、名可名非常名」の語に して、「可道之道、可名之名、 指事造形、非其常也、故不可道 不可名也」と書して、老子のこ こに特記した常道否定の本旨 (道の無爲にしてつねに千變萬 化し、生々化々やまざる實體を 知らしめんとする)を轉倒し て、道を観念的原理的なものと して受取つてしまつたのであ る。

 以來所謂、一犬虚に吠えて萬 犬實を傳ふの状態となり、今日 まで滔々としてこの誤讀誤解の 上にわが老子の道が考へられて 来たのであつた。そしてこの爲 に、老子は正直なる學究の徒に よつては哲學化して生活から遊 離して干からびたものとなり、 性急に實生活に資せんとする徒 によつては、例へばかの道教の 如く全く迷信化して堕落し、こ の釋尊イエスと並ぶべき偉大な る人類の教師大老子の道は、そ の正統を失つてゐたのである。
 この點に於て、私はいさい か、東洋二千年の誤讀を正した 自負をもつものである。

 なほ、本書「老子難語解」ま でを前篇とし、老子現代語譯全 文をもつて後篇とした。原文は 王弼本を底本として武内義雄、 馬叙倫、蔣錫昌、其他先人の校 訂を参照し私見をもつて改訂し たものをもつてした。
 譯文は前著「老子精髄」に収 めたものに其の後の参究によつ て多少改訂を加へたものをもつ てした。
 最後に、この貧しい書の為に 序文を賜った永平寺後堂足羽雪 艇老師に深甚の謝意を表する。
  昭和十七年一月十八日
                  池袋の僑居にて
                       著者


 改訂再 版の序

 本書初版を出したのは、今よ り十年前、昭和十七年の秋で あった。その後、原版紙型を二 十年、戰火の爲に烏有に帰した ま絶版となり、今日に至つたも ので、この間、既知未知の道友 諸彦よりの切なる入手の需めに も應じられず、徒らに淺念のみ してゐたのであるが、この度池 田書店の好意によつて、ここに 改訂増補して再び江湖に見える 機會を得たことは、著者として これに越す喜びはない。
 特に本書は著者としては自ら 生涯の主著と自負するものであ り、この感一層である。

 老子の生活精神は、今や私の 主宰する「人生道場」の同志に よつて、一つの生ける新生活精 神運動となつて展開してゐる。
 この意味に於て老子は既に單 なる東洋的古典ではなくて、現 代生活の苦悩を解決し、新しい 安心に到達する燈臺的經典とな つてゐるのである。そしてその 使命をどれだけか、より正しく 果させたいとするところに、本 書再版の微意もあるのである。

 なほこの再版に當つて、これ を著述した十年前とは私自身の 心境の上にも多少の變化が出来 てゐるので、それによつて削る べきは削り、加ふべきは加へ、 改むべきは改めた。
 その最たるものは、前篇『老 子眼藏』第七「不言之教」の 章、及び第十一「王」の章の二 つで、前者に於ては、その章執 筆當時より遙かに進んだ著者の その後の見眞の體驗を書き加へ てその章意を一層明らかにし、 後者に於ては、これを全文削除 した。理由は、この章の主張た るわが皇室に對する道的認識乃 至その評價に於て、私自身、當 時と考へを新にしたものをもつ に至ったからである。その他の 章に於ても、この二つの道的認 識及び評價の變化は、自らにし て、その道への認識を冷徹深刻 にし、行的態度を悛嚴苛辣に し、爲に道そのものへの全體的 認識表現をも、いさいか改めし めるものがあったことを告白す る。

 後篇の『老子道徳經』の譯文 の方は、これはほとんど各章完 膚なき迄に改訂した。十年の歳 月は私の古文辭反譯觀に於て根 本的に近い變化を生じたからで ある。
 すなはち、前版では章句の意 味を一般に通ずることを主にし て、文が冗漫に失することを顧 みなかつたが、この改訂版で は、文をなるべく原文のもつ簡 古の感じを出すことに努めて、 その原書の文意は文章上の餘韻 によつて傳へることに苦心し た。それでもなほ困難と思ふも のには(  )を附して註語を 入れた。

 最後に本書の爲に著者の請を 容れて懇切なる序文を賜った京 大教授久松眞一先生及び跋文を 戴いた老子無為の事業的實踐者 吉岡覺太郎氏に深甚の感謝を捧 げる。

  昭和二十七年十月
                  蟲の音すだく武蔵野の僑 居にて
                       無爲隆彦
                          合掌




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