(2000.06.01up / 2015.09.20 update) Back

四季派の外縁を散歩する   第四回

忘魚の歌・風の歌

隠棲する青森の抒情詩人たち――村 次郎について (付:和泉幸一郎、一戸謙三)


 戦前の詩誌『四季』の弟分のやうな位置にあった同人誌『山の樹』において、他の学徒詩人たちと切磋琢磨しながら、ほどなく家業の旅館を継ぐべく郷里に舞ひ戻り、そのまま詩の発表を止めて隠棲してしまった、村 次郎(1915-1997本名:石田実)といふ風変はりな詩人がゐます。

 ここに掲げた二冊は、詩壇に訣別する前の数年間、青森県八戸で彼が企画刊行した「あのなっすそさえて」叢書のなかに収めた自身の詩集の復刻版です(昭和60年村次郎詩集刊行会刊行)。 原本は僅か50部、彼の小学時代からの恩師の手になる孔版(謄写刷り)によって印刷されたといふことですが、復刻版では活字にされてしまひ本来の風合ひが失はれ、にも拘らず原文の誤植をそのまま留めたといふ残念な編集方針によって、復刻の意義が、原型保持の点でもテキスト公開の点でも損ねられてしまったことが惜しまれます。

 詩人生前の聞書き集『村次郎先生のお話』(平成12年朔社刊行)においても、心安い後輩詩人を相手に、本にされることなど予定せず放談された「人物月旦」がそのまま活字にされてゐます。八戸で詩人の顕彰活動を長年続けてをられる圓子哲雄氏(同人雑誌「朔」主宰)による編集ですが、果たしてこれも「製作者としての思考でなく読者としての思考であるよりほかない」編集上の配慮であり計算だったのでしょうか。

 といふのも、斯様な引用符無しの活字化が一般読者の感情を逆立て、反発をもって迎へられるところの人間像――「田舎の一言居士」で彼があるのかどうか、といふと、決してさうではないからです。人物評の当否については措きます。しかし『詩論編』における、「詩とは何か。詩とは行分けである」といふ、一見すると常套固陋にさへみえる言挙げの裏に用意された、腰の据わった論旨に今少しく耳傾けてみると、そこには表向き詩人を廃業宣言したとはいへ、やはり捨てきることなど出来るはずもない反骨詩人の志が、並々ならぬ「読書人」の決意となって見え隠れしてゐるのです。

 「行分けとは意味で繋ぐのではなくイメージで繋ぐこと。極言すると詩の一行一行が一つの作品だということ。その一行一行が本質的に異ならなくてはならない。」

 「詩とは行分けなのだ。このことから、散文はどんなに長くとも一行なんだ。(中略)散文詩とは結局のところ、一行詩のことだな。」

さらに曰く、

 「散文詩は文体の発見なのだ」「散文詩とは詩は詩だという自負なんだ。」

 「散文の場合、対象があって表現している。詩は対象がなくとも表現できる。つまり製作者の精神を表現しているのが詩である。」

 「風景を描写するのではなく、精神を風景化する。そして上澄みを書くというのが日本の詩の伝統だろう」

 「思想でも何でも、沈殿させることだ。詩はその上澄みだけを書く。小説家は逆にがんがん撹拌して底の方のどろどろを書く。」

 「どろどろしたものを書かなくとも、どろどろした事を解らせなければ。(中略)上澄みでいて底が見えるようでなければいけない。」

 「詩というものは気体だな。散文は固体。流体は短歌だな。」

 「支那の詩は志を述べる。(中略)日本の詩は思いの詩だ。」

 「必ず感動して書くのだが、感動を書くのではなく、感動は内容ではないのだ。」「普通の人は言語で書いていない。内容を言語で書いているのだ」

 つまるところ詩人村次郎が憶ひ描くのは「知性で書き、感性や感情に訴えるものとしての詩」といふことになりましょう。ここには、「四季派」の中では丸山薫や杉山平一に親愛を寄せる、詩と詩人の生き方に対する嗜好や理念を読み取ることができます。つまり雑誌『四季』についても彼は、

 「『四季』などのようなものが大衆に好まれ、素朴な美しさ以外何も要らないという人が増えてくると戦争になるようだ」

 「『四季』の作品が短いのは、短歌とか、俳句の伝統に立っているからである。」

 と批判的に語ってゐますが、彼自身の心情は、基本的には四季派抒情のシンパなのであり、否、これら復刻された詩集において云ふ限りでは、彼を四季派の詩人と括っても決して間違ひではないのですから事情は錯綜します。それは「人物譚」で、少しでも体制寄りの詩を書いた詩人たちを斬って捨てる一方で、「詩論編」では今日の「現代詩」を容赦なく弾劾するといふ姿勢を見ても判ります。

 「現代詩というのと現代の詩とは違うのだ。現代詩といえば、戦後出た詩のことで、要するに敗戦の荒れているところの一つのジャンルなんだ」

 「人生とは何か、戦争とは何か、平和とは何か、現代とは……現代詩というものに、どうしても詩を感じないのだな、散文の行分けにすぎないから。大きな事を言って、答えられないからなんだ。(中略)読む人には解らないような譬喩の仕方でやっている。そしてそういうものを、切り口の好いのを現代詩といっている。」

 さらに「方言詩」や「詩の朗読」など、ともすれば地方でこぢんまりと社会的な居場所をみつけてしまひさうな「ものの考へ方」についても彼は批判の手を緩めません。所謂御当地詩人による地域文化の手放しの賞揚ではない訳で、安藤昌益といふ地域の大先人についても、時代離れした進歩的な虚像には疑問を投げかけます。つまりこの村次郎といふ詩人は、地方の名士になることなどひとつも望まなかった人であり、文学する姿勢についてはこんな老練な言も残してゐます。

 「読者は自己変革を好まない。作者の持ち味を好むものなのだ。(中略 しかし)自分の持ち味に居座ったら駄目。」

 「諷刺で相手をやっつける書き方は性が悪いものになるから気をつける。(中略)小気味を利かせた書き方になって来たら要注意だ」

 「対象に正座すること。他者がないことは致命的だ。他者がないことは自己がないことだから。(中略)誠実さとは多謝との繋がりの中にあるもの。(中略)他者と繋がらなくなったら何も書くことはないわけだ。」

 まことにこれら評言の一々が快く、同時にここまで一家言を呈して評論家然となってしまふと、実作もおいそれと発表などできなくなってしまふのも無理からぬことと納得もするのです。

 では彼を第一級の「読書人」と規定し、慧眼の持主であることを認めるとして、自らの作品にはそれがどのやうに現れてゐるのか。『忘魚の歌』には三好達治、田中冬二、丸山薫といった人々のあからさまな影響が見られますし(装幀は『山羊の歌』を髣髴)、『風の歌』に至っては立原道造の面影がちらついて仕方ありません。ならば作品にオリジナリティがないかといふと、決してそんな風にも断定ができない。そしてここのところが鑑賞迂遠の私には一番ひっかかって判らないところでもあります。集中から私の好きな詩をすこし紹介します。


 暮季

霜の庭 そのみえる玻璃窓
玻璃の感触冷たく
ああ 冬蝿一匹
透明な消化器のなかに
かすかに赤きもの動く

            「忘魚の歌」より


 昼

路地を入ると 阜莢の樹の下に
昔埋めた馬骨が眠り
白き花の下に骨董舗があつた
刀のやうに磨かれた木目を
拭いてゐる老人
花散れる飾窓に古き仏像あり
太陽は燦爛と光った

            「忘魚の歌」より


 路

祖父の洋杖が弧をゑがき 水平にとどまる
私はみた 少年はみた
洋杖の先に
夕暮のひとときを
野の起伏を
   この路を おまへの年頃
   おぢいさんは
   よく歩いたものだ 測量台を持つて
   そしてこの畠を買つた
   いつかおまへときて
   さしたポプラも
   こんなにのびてゐる

次郎!
祖父の声、路傍の雉子の啼(こゑ)

            「忘魚の歌」より


 村次郎は思想的には反権力と反権威の姿勢を崩さず、これらの詩を書き終はってゐた昭和17年当時も、大東亜戦争を称揚する戦争詩を書いたりすることはありませんでした。あと数年早く生まれ、出征を前にして詩集を当時の出版管理下で公に遺すことになってゐたら、事情は変はってゐたかもしれません。しかし彼の詩人としての位置がとても特殊なのは、(それが地元で持ち上げらる本質的理由だったかどうかは分かりませんが)、世代的にアプレゲールに属しながら発表の場から遠ざかった、といふ特殊な事情にあります。

 確かに、彼の作品の全てには意味の断絶にこめられた「思ひ」をそのまま言葉にしてぶつけたやうなところがあります。読者がそれを読み取ることが出来るか、できないか。できなければそれは誰の責任なのか。それをしも詩の「深み」と呼ぶべきか、単なる「思はせぶり」なのか。詩のラストの締め方など、体の好いポーズにすぎないと私などには見える時もあります。先輩詩人の節回しの影響が露骨に感じられる場合には溜息もつきます。しかしその行間の断絶に、切実な「喪失感」といったものを感じることも多く、詩人謂ふところの、

 「詩は言葉自身の美である」

 といふ主張を思ひ合はせ、格闘の後に残された言葉が、我々読者にも同じい格闘を強いて指し示す抒情のありか――、ある詩に於いてはそれがありありと風に吹かれてゐるのが感ぜられ、またある詩に於いてはそれが全く伝はらず、平易な表現に留まってゐるといふはかなさを思ふのです。そしてその際に「読みが足らぬ」とさらに読者をテキストに向かはせるやうな、「それはただ凡庸に映っているにすぎないのだぞ」、と思はせるやうな、何かしらカリスマ性の萌芽を感じさせる東北詩人の立ち姿に驚かされます。復刻の栞で中村真一郎氏が次のやうな言葉で彼を語ってゐます。

 「生粋の八戸弁をあやつる天使は、その心をしめつける苦痛と悲哀とを、少ない口数の詩行に閉じ込めて、その小詩は我等、生まれながらの都会児の軽妙な、時に軽佻な冗舌の交換の上に一瞬、惧れを孕んだ沈黙を通過せしめたものであった」

 戦前の抒情詩が絶滅すべき運命の「恐竜」になぞらへられ、現代詩がどこへ飛んで行くのか判りもしない「鳥の類ひ」だったとするなら、彼の作品に見るたどたどしくも途切れとぎれにみえる飛翔は「始祖鳥」のそれにも比せられましょうか。

 村次郎はしかし、夭折した幻の「伝説詩人」ではありません。よんどころない事情で帰郷せざるを得なかった「不遇」と、そのまま発表を絶ってしまった潔よい「世過ぎ」によって、そして地元の後進に対し、教壇に立つでもなく文学の中央標準を示し続けた「教育者」として、隠者としての伝説を帯びることになってしまった詩人です。発表しなくなったとはいへ、筆を折ってしまった訳でもない。小山正孝氏が「石田城本丸」と呼んだ詩人の実家である旅館の一室、書籍・文献が堆く積まれた書斎の片隅の筐底には、膨大な未刊詩篇が編集された状態のまま大切に秘められてゐたといひます。近年それらの未刊詩集を含めた集成詩集『村次郎全詩集』(平成23年 村次郎の会刊行)が刊行されました。たうとう伝説の実作が明らかにされる時がきたのです。

 思ふに村次郎の場合、発表しないと宣言したことがきっかけとなり、年を追ふごとに、さうして「先生、先生」と地元で慕はれるごとに、詩人を孤高へ孤高へと押し上げ追ひ詰めるやうに働いていったやうにも思はれます。功成り名を遂げた盟友文学者たちからも天才と偲ばれ、そのため後進からは一層強く仰がれることで醸成されたカリスマ性は、彼の詩名をベールによって包み、守る作用をしたと同時に、詩人が再び生身で打って出てゆくためには、立ちはだかる己れ自身の青春の亡霊として大きくなりすぎたのだ、とはいへないでしょうか。

 全詩集刊行によって一区切りがついた今、その大部分を占める「未公開詩篇」が現代詩において今なほ起爆力を保つ不発弾であり得るかどうか、全貌を顕した村次郎の再評価のためにはその検証も大切ですが、「発表しない詩作」が詩人のなかで占めた意義を明らかにすべく、客観的な視点で描かれる評伝も俟たれます。書かれたものには必ず書いた人物の裏書を必要とするとした倫理観を大切にし、公的には沈黙を貫いた詩人の生き方とその内実に対して、信奉者の方々にはぜひエピソードとともに迫っていただきたいものです。

 伝説的詩人の謦咳に接することの無かった自分は、東北地方の師弟関係に通有する方言を介した篤い人情を羨ましく憶ふばかり。そして同じやうに土着と知性とを存分に表象して凝ったといへる御当地の詩集を2冊、ついでながら紹介を試みたいと思ひます。

 一冊は村次郎が編輯に携はった、一世代上の先輩にあたる夭折詩人、和泉幸一郎の遺稿詩集『母の紋』(「あのなっすそさえて叢書」昭和24年)。そしてさらに一世代上の、青森詩壇草創期から地元で活動を続けてきた一戸謙三の自選詩集『歴年』(「浮彫叢書」昭和23年)。いづれもやはり戦後間もない時期に青森県で印刷刊行された詩集です。

    ★

 和泉幸一郎(1909 - 1939)は、昭和初期の『四季』『コギト』が台頭する時代に、八戸から一歩も外へ出ることなくひっそりと、知的抒情詩を書いてゐた抒情詩人です。村次郎にとっては、自身のデビューと入れ替はるやうにして昭和14年に夭折した、立原道造とならぶ先輩詩人であり、立原の如く『四季』のやうな中央の舞台に立つことを得なかったこの郷土詩人に対しては、よほど強い思ひ入れがあったやうで、その詩業に相応しい、立派な集成詩集で彼の不遇な生涯を飾ってあげたかったのに違ひありません。

 もちろん出版事情は最悪でしたがそれだからこそ、装釘には神経が注がれ、村次郎自身の詩集と同様にこの一冊においても、帯から栞から奥付の広告に至るまで、活字に全く劣らぬ孔版技術を見て取ることができます。劣らぬどころか、作者と製作者とを共に慈しむやうな手作り感覚にあふれた謄写技術で印刷された風合は、限りなく端正な造本となって凝り、村次郎の繊細なプロデュース感覚が、先人へ寄せる思ひとともに手づから伝はってくるやうで、私は初めてこの本を手にしたとき、世に斯様な本が存在することに正直戦慄しました。叢書名の「あのなっす」とは、東北弁で「あのなぁ」といった意味。それをひらがなで綴った社名からは戦時中、多くの日本浪曼派文献を刊行した「ぐろりあそさえて」を皮肉にも髣髴させます。

 狐          宮原元平に

目が覚めた。
暗い座敷に一人ねむつてゐた。
障子に仄かに隣の燈が洩れてゐる。
燈にはまだ榾がいぶつてゐるだらう。
今、何時であらう――
目が冴えて来た。
この障子をつきぬけ、その向ふの障子をつきぬけ戸を通し、ただ明るい外(おもて)。
庭が、垣が、畠が、――浮いて来た。
その畠の上にあざやかにうつるものがある。
月にけぶり――
一匹の狐が口をかたくしめものみな透して凝つと私を睨んでゐた。

            『母の紋』より

    ★

 また一戸謙三(1899 - 1979)は、大正8年、青森県で初めての詩人団体「パストラル詩社」を結成した地元詩壇黎明期から活躍した立役者的人物ですが、彼こそは昭和初期にエスプリ・ヌーボーの影響を蒙り「椎の木」の同人となり、知的観照性の高い散文詩を書いて、和泉幸一郎や村次郎ら地元の後進たちを刺激し、鼓舞した存在だったといへるでしょう。彼はまた地方主義文学運動を主唱した福士幸次郎を師表に仰ぎ、自覚的な方言詩を書いたことで高木恭造とならび津軽方言詩人としても知られるようになりましたが、聯詩運動に身を投じ、近代ドイツ詩人の訳詩を試みるなど、その幅広い詩風と詩歴と高潔な人柄により、青森県詩壇のなかでも特筆すべき郷土詩人の位置を占めてゐます。

 『歴年』は、そんな自らの半生の詩業を顧みて多岐にわたる詩篇からこれだけ残せればよい、といふ思ひをこめて編んだ選詩集です。その装釘は『母の紋』と同じく、期せず以前の論考で取り上げた詩集『木莓』『山鴫』との類比も許されるやうな、謂はば「食パン」型の形状を呈してをり、活字の組み方も「椎の木」時代に刊行された多くの限定本詩集を範にとり、「古き良きモダニズム」といふ言葉が適切かどうかわかりませんが、戦後まもない時代にしては猥雑な世相にこびることなく、瀟灑な雰囲気を能くこの時期に保ち表現したものだと感心するほかないやうな装釘です。内容は遺族の許諾を得て公開させて頂きましたが、この詩人もまた、あまりに潔すぎる選択基準によって自らの詩業を総括したために、文芸評論家の坂口昌明氏は、作者に顧みられずに捨てられた初期詩篇の重要さを説き、さきの圓子氏が主宰する同人誌『朔』誌上において、全6回の特集を組んで詳しく紹介の労を執ってゐます。けだし村次郎と同じく青森の隠れた抒情詩人であるといへるでしょう。

『忘魚の歌』 『風の歌』

(『風の歌』撮影協力 葵の家氏)

『母の紋』  『歴年』


【参考サイト】

「青森県近代文学の名品」 Vol.101 村 次郎詩集 『忘魚の歌』
青森県近代文学館 企画展 「詩人・村次郎 展」平成23年10月8日〜11月20日
イベント広報隊 「詩人 村次郎パネル展」  (八戸ポータルミュージアムはっち) 平成23年12月19日〜24年1月9日


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