(平成11年4月『絨毯』43号初出 / 2015.08.15update) Back
四季派の外縁を散歩する 第一回
田中冬二の周辺
日本の戦前抒情詩人についてもの云ふとき、「戦争詩を書いたか、書かなかったか」といふ単純な指標をもって、 彼らの詩業に一方的な断罪評価を下してきた戦後「現代詩」詩人たちの不当については、 これを正面から取り上げる人は今も少ない。「反戦詩を書かなかったことも許されることではない」といふヒステリックな様相を呈するに至っては「魔女狩り」であったとさへ云ふべきだが、 たまたま爼上の詩人が自分たちに毒づくやうな立場も魂胆もなかったとして、例へば田中冬二と似通った詩風であったといふだけで、 単なるエピゴーネンとして一括りにその存在を頭から否定してきた詩史といふのも、私はこれをくつがへしたく思ってゐる。 思ふに温恭の人格者詩人であった田中冬二ひとりを詩史に迎へ入れることによって珍重する風を見せながら、 日本の伝統風物自然を謳った多くの抒情詩人たちについて、つひに冷淡でありつづけてきたのが、戦後現代詩批評家兼詩人の態度ではなかったか。 田中冬二の後に田中冬二なし、田園抒情詩は日本から消滅したと、現実の伝統風物の消滅とともにそれとなく無責任に宣告すれば事足りるからである。 一体、田中冬二を敬愛し、そのエピゴーネンと呼ばれたやうな詩人の詩といふのは、それならどういふものを指すのだらうか。
実は私こと、この度やうやく「山鴫」を筆頭に「山鷄」「木莓」といふ憧れの三冊の詩集を手にすることが念願かなったのだが、 著名な冬二の「山鴫」はさておき、残りの二冊、まづ「山鷄」といふ詩集からいま試みに一篇を抄出してみる。
秋夜
一瀬 稔
秋も深くなつたこのごろ
まい晩のやうに
片ちんばのバツタやすいつちよや
羽根のぼろぼろになつたきりぎりすが
電燈の下へやつてくる
歌はなくなつた
年老いたこの哀れな生きものたちは
夜おそくまで
書きものをしてゐるぼくの傍らにゐて
何かもの思はし気なやうすで
だまり込んだままぢつと踞つてゐる
やがてぼくは
この部屋の灯りを慕つてきた
年老いたかつての歌ひ手たちのために
わざとあかりを点けはなしたまま
寝床へ這入るのだが ・・・・
彼らはさうして夜の明けるまで
電燈の下に踞つたまま
何ごとかをしづかにかんがへ
何ごとかをひそかにささやき合つてゐる
確かにこの詩は田中冬二の「山へ来て」といふ詩の感興をヒントに得て作られたものには違ひない、しかしここにあらはれる頼りなげな虫たちの醸す雰囲気は全くユニークなものであり、 心なしか当時の切迫した時代に身をさらす詩人自らの象徴のやうにも思はれ、また譬へればメーリケや水木しげるの作品にただよふユーモアのごときも思はれて、 詩に親しんで十年になんなんとする私には、まことに愛着の深い一篇なのであった。これを収録した 『 詩集山鷄 』は、戦時中の出版といふこともあり、酒粕の板の如く薄いが野趣に富んだ一品。 先日私はまもなく卒寿を迎へんとする作者を、ゆくりなくも甲州におとなふことが叶った。短く貴重な時間であったが、 詩人は突然の推参者を温かくもてなして下さったが、戦中に親しく交った太宰治や井伏鱒二といったビッグネームの話でも聞きに来たファンの来訪とでも思はれたらうか。 矍鑠たる居住ひを前にして、私はただ輓近の自撰に係る決定版集成詩集から、「林」「麦秋」「寂び寺」といった作品のすばらしさについて、 まはらぬ舌で賛嘆の程を申し上げるのが精一杯であった。
林
草を鳴らして
誰かが通っていった
見かえると影はなく
道の両側
まだら陽がこぼれ
幹が閑か(しずか)にならんでいた
麦秋
山つつじが咲いている
誰もいない農家の庭先
時おり老人が
どこからか麦束を背負ってきては
簷下へこっそり置いていく
一ト月おくれの節句がすんだのに
まだ鯉のぼりが樹っている
矢車が風にからから鳴っている
寂び寺
くづれかけた石段をのぼり
古びた扁額をかかげた紅殻塗りの門をくぐった
藁葺きの庇のふかい庫裡の前
媼がひとり呉座の上の豆がらを叩いていた
美しいみほとけのすがた像が秘められてあるという
歳ふ古りたこの寂び寺の堂宇は
ひっそり障子が閉まり
そのお堂の傍
丈ののびた唐黍が素枯れていた
方丈の裏手のあたりで鶏が啼き
境内につづいたうしろの雑木山の嶺近く
昼の月がかたむいていた
平成八年『故園小景詩鈔』より
かうした閉ぢた抒情の透明度、言ひ換へれば風景の中に孤立した自分の生と向き合ふ心構へに「詩の本分」を見い出さうとする抒情詩人の姿が、 今日では広義の意味での「四季派」と呼ばれてゐるやうである。それは雑誌「四季」と実際にどう係はったかといふ事実とはもはや関係なく、 温和な戦前の詩人たちを、現代詩詩人たちが思想的にひと括りにして排斥するのに都合よく使用したレッテルとして、あるひは、 それを踏まずには身の潔白を証明させぬといったところの「踏み絵」として機能した、戦後詩史の中で生まれた不幸な言葉であったかもしれない。 しかし今は同じ「四季派」といふ言葉をそのまま反対に、黙殺された詩人たちを再びもらさず一括りにしてすくひあげ、 失はれた抒情詩の系譜のアウトラインを示す手がかりとして考へてゆければと考へてゐる。 「四季」に拠らずして「四季派」として扱はれ否定され、また「四季」に拠らなかった為に再評価もされぬまま忘れられつつある多くの戦前の口語抒情詩人たち。 だれに媚びを売る必要もない、気楽な立場で、私はさういふ抒情に殉じた人々の足跡を顧みて行きたいと思ってゐる。
次にもう一冊の「木莓」といふ詩集からも、少し作品を紹介したい。
沙羅の木
山本信雄
わたしは覚えてゐる。わたしの母が育てられた旧家の庭に
一本の沙羅の木がまじつてゐたのを。・・・ 今でも数百年
を経るやうな老木の垂れ込めてゐる暗い植込の蔭に、昔は
槍装束の泥棒が忍んでゐた。・・・ その古庭に、わたしは
覚えてゐる。一本の沙羅の木がまじつてゐたのを。青白い
その木の肌に水のやうなさびしい秋陽がいつも斜めに流れてゐたのを。
昭和八年『詩集 木莓』より
昭和の口語抒情詩を語る上で「四季」「コギト」に先んじて重要だった雑誌に「椎の木」がある。先行世代の大家詩人である百田宗治が主宰者となって、 佐藤惣之助の「詩の家」とともに積極的に新しい抒情の模索に尽力したが、折からのモダニズムと共産主義文学の機運が高まる中、「詩と詩論」へ活動の場を移す者、 政治主義に走る者と、潮流としてはまとまりなく、後世の評価が定まらなかったことは惜しまれる。モダニズム詩人でも左翼詩人でもない一群が、 「椎の木派」詩人と呼ばれることはあまりなく、まさしく前述した「四季派」詩人としての相貌を備へたまま、詩史上の海図に沈んだ岩礁のやうに点在孤立してゐるやうに見える。 彼、山本信雄なども、田中冬二と親交はありながら「四季」に参加するでなく、「四季」の主力詩人たちが登場する前史に一冊の瀟洒な詩集を残し、 今は忘れられんとしてゐるマイナーポエット(注)として、私の中では久しく伝説上の人物のひとりであった。 念願かなって手にした詩集のところどころには、「消炭をかきながしたやうな空」だの「草の上に羽虫のやうにたかる風」といったオリジナリティに富んだ譬喩表現があって、 同時代詩人の作品の中にそれらと同様のモチーフがみつかるとき、感興もひとしほ深まるのである。 次にあげる詩なども三好達治や田中克己の詩篇「雷蝶」「かはせみ」などとそれぞれに呼応してゐる。
川原
山本信雄
曇り日・・・・
土手の上のあの薊の花にとまつてゐる、かみなり蝶の羽が、風にちぎれさうに見える。
昧爽
山本信雄
あけぼのの山峡を
音もなく流れてゐる渓川
うす紫の木槿の花の咲く家のそばで
白鷺のやうな女が洗ひ物をしてゐる
ともに『詩集 木莓』より
どちらが先に発表されたか、などいふ詮索は措きたい。「新しい」といふことの本当の意味が日常生活の日々における再発見の中にこそ存すること、 そして言語の制約のなかに生まれた詩人が、誠実さを唯一の拠りどころとして手綱を放さず歩き続けてきたとき、各々の時代における詩人の「個性」といふものは、否応もなく立ち現れてくる。 ――文学の歴史といふものにさういふ気持で接するやうになったこの頃である。
さて、この詩集は内容だけでなく、外見も「椎の木社版」らしい滋味掬すべき装釘を有してゐる。あんまり素晴しいからだらうか、表紙の文様を紗綾型から市松に違へ、 兄事する詩人田中冬二の詩集「山鴫」の方形に近い装丁の上にほぼ踏襲されてゐる感がある。そして今度は「山鴫」のタイトルがまた、 彼を慕ふ一瀬稔の処女詩集の名前である「山鶏」に受け継がれてゆく、といった塩梅。なかなか当時の抒情詩人をめぐつて詩集の意匠・タイトルに関する「本家取り」の様子を探ることは愉しい。 私の、詩集といふ原質へのこだはりもつきつめたら大凡、かういふたはいもないところに帰着するのだらう。 ゆくりなくも吾がまづしき書棚に於て巡り会った三冊の詩集は現在、旧友のやうに含羞の面持ちを寄せあひ、
「何ごとかをしづかにかんがへ、何ごとかをひそかにささやき合つてゐる」やうにも見える。
(注)マイナーポエットと記したが、一瀬翁も詩人山本信雄もそれぞれ甲州、 畿内において各々中央とは関係なく同人雑誌を興し迅力された著名の地方文化功労の人であることをことはっておく。