(2007.11.19up /2023.03.19update) Back
やまもと のぶお【山本信雄】『木莓』1933
夜
冬
氷雨
茶亭
寒い日の公園
栴檀花の咲く頃
藤棚
日永
木いちごの庭
裏町にて
霧の時節
荒蕪地
秋夜
おそ夏
檪林
少女
十二月の公園
湯河原
湯河原
藤木橋
途上
段々畠
山道
冬の雨
みぞれ
昧爽
山村の夕暮
青菜畑の雨
蜜柑畠の上の海
湯河原
冬の温泉村
伊豆街道
新秋
枯草山 1
2
月夜
葡萄畑にて
狐火
おいちの實
川原
川原
菊圃
夏の朝
西洋婦人
海
虹いろの風景
沙羅の木
廃家
雨
青葉と病鬱
雨
衣裳
花氷
苜蓿
夏帽子
拾遺詩篇 (雑誌「椎の木」より)
有加里(ユウカリ)の大木の頂辺(てっぺん)に蝉が啼いてゐる
さしあげる子供等の竿はとどかない
夕風がその簇葉の中に涼しい吊床を作る頃
蝉は見えない空の一方へさびしいその翅を拡げていった
紫陽花 ──病後のある日
山のホテルの前庭のあぢさゐ
テニス・コートに飜る虹のやうな裳裾(スカート)
ああ 噴上みたいに高く打ち揚がる白球
その影だけがあぢさゐの上を横切(よぎ)って
遠く海の方へ堕ちて行く
──耀く六月の陽は麦藁帽子の下に支へ切れず・・・
青葉のトンネル
小さな城趾の松の木に凌霄花の絡んでゐる町、川が一筋静かに流れてゐる。その川べりにある木造建ての古い中学校に僕は通ふ。
青葉がトンネルをつくってゐるその下を潜って・・・・・・。
蝶
夏になると長い川土手に鬼薊の花が簇生する。白い昆虫網で蝶を掬ふ僕を蝶は少女のやうに邪揄(からか)ふ。
夏
混擬土(コンクリート)張りのプール。
藤棚の下で僕等は毎日丸裸で体操をする。それから水に飛び込む。
白い飛沫。白い水泳帽。最後に僕等が笑ふと歯並だけがキラキラと白く輝く。
夏期休暇
僕は山椒魚のゐる寂しい谿谷(たに)の方へ出かけたり、烏の枕の赤い実が垂れてゐる不気味な竹薮の側を通ったりする。植物採集と宿題。 麦藁帽子までが陽焼けして田舎の太陽の匂ひがする。
虫
物嬾い午後の物理教室の窓からヂキタリスの花卉が倦んだ眼に映る。
──その茎にいつも匐ってゐる婬らな一匹の虫。
悪い季節
川土手の桜並木やアカシアが教室に沿ふて柔い影と光りとの縞柄を編んでゐる。
それらの青い季節に僕等は一度に早熟になって仕舞ふ。皮膚から樹液のやうなものが滲みて出る。
僕等は上級生に隠れてタバコを吸ふ。
秋旻
十年振りに田舎に帰って見ると、空が湖水の底のやうに澄んでゐて、自分は魚のやうにさびしかった。
──山の中腹に帝大の地震予測台が建って、その下で蒲萄圃が老婆のやうに醜くちぢかんでゐた。
【参考資料 1】
かつて本詩集の装釘は、井伏鱒二の『随筆』(椎の木社1933刊)を唯一の下敷きヒントにしてゐるものとばかり思ってゐた。
ところがこのたび、詩人が主宰者となって出してゐた昭和初年の詩誌がみつかり、「稀覯本の世界」管理人の大坂透氏よりお送り頂いた。
これにより、詩集に「木苺」なる詩篇が集中に収められてゐない理由と、以
前に言及したこの特殊なサイズと詩集のタイトルが、
刊行以前に遡って永らく詩人の中に温められてゐたことが判明した。
雑誌が何号続いたかは知らない。けだし彼の代表作である「紗羅の木」一篇を世に送り出したことに、意義を認める。
今後は家蔵の詩集と運命を共にすることであらう冊子の内容を以下に掲げる。
『木いちご』 第1号 1929.04.15 20.7×18.0 cm [14]p 編輯兼発行人山本信雄 (大阪市南海沿線玉出町新町道)¥0.10
目次
紗羅の木 山本信雄
美しき回想 蘆原敏信 1
2
空しき春 中田忠太郎
百日紅 勢山索太郎 1
2
放心 黒田秀雄 1
2
日傘 山本信雄 1
2
田中祥介 名高かからぬものの中から 1
2
後記
裏表紙
【参考資料 2】
「山本信雄への手紙」 安住敦 (『春燕集』より)
山本信雄詩兄
いまごろ、このようなことを言うのもなにかことさらめきますが、じつはぼくは山本信雄の名を、詩集「木莓」の著者として知っていました。その詩集「木莓」は昭和八年、
百田宗治先生の椎の木杜から刊行され、当時「水々しい情緒と古風な感傷」の詩集として喧伝されたものです。ところで同じ年、相前後して同じ椎の木社から高祖保の詩集「希臘十字」も刊行されました。
これはまた端麗典雅な抒情を盛った詩集でしたが、時を同じくして処女詩集を刊行したこの二人の新進詩人のため、その年の秋、盛大な合同出版記念会が、銀座の明治製菓階上で催されたということを、
今にしてぼくは一つの因縁とも思うのです。もとよりそのころのことにしてぼくが、大阪在住の詩人山本信雄とも、東京在住の詩人高祖保とも面識あるはずもありませんでした。
ぼくが高祖保と相識るようになったのは、その後、ぽくが日野草城先生の「旗艦」に参加してからのことです。たぷん、
近江の詩人井上多喜三郎の「月曜」という詩誌が仲介ではなかったかと思いますが、さだかなことは記憶がありません。高祖保の風貌が、
いつも早春の風に鳴る竹林と二重になってぼくの脳裡にのこっているところからすると、はじめて会ったのは相模の青柳寺の庫裡だったかと思います。
そこの住職八幡城太郎は高祖保の親しい友人でしたから……。
その後、戦争の末期、ぼくは「多麻」というささやかな雑誌をもつようになりました。そして高祖保は乾直恵や木下夕爾とともにその「多麻」に交替で詩や文章を寄せてくれたものです。
想えばあのささやかな「多麻」は、戦争においつめられたぼくたちのぎりぎり一ぱいの拠りどころでしたが、やがてその高祖保は招集され、そしてビルマの野戦病院で戦病死してしまいました。
さて、ご承知の通り、戦後ぼくは久保田万太郎を擁して新しく「春灯」を創刊しました。むかしの仲間でぼくと行を共にしてくれたのは木下夕爾、高橋鏡太郎、鈴木楊一、
加藤覚範などほんの数えるほどのものでした。その「春灯」を二十年間守りつづけたと言えば立派ですが、ありようはその二十年間はあっという間に経ってしまったというのが実感です。
ことに昭和三十八年、久保田先生の急逝にあって以来の三年間というものは、ぼくは夢中で「春灯」をつぷさないようにとそのことばかりにつとめてきました。それにつけても、
その「春灯」に、従来ほんの一、二の投句を数えるにすぎなかった阪神地方から多くの作家の参加を得たことはどんなにか心強いことでしたろう。
そしてその中にぼくは図らずも山本信雄の名を見出したのです。
その山本信雄の名がはじめて「春灯」にのったのは久保田先生の亡くなる前の年の暮のことでしたろうか。しかしぼくは正直言って、それが往年の「木莓」の著者の山本信雄だと思いもしませんでした。
それを知ったのは実は、久保田先生が亡くなって、そのあとの「春灯」の句が一切ぼくの手に委ねられてからのことです。そしてそのことにぽくは、かっての詩誌「文芸汎論」の発行者、
そして「春灯」発足以来の同行者岩佐東一郎からきいてはじめて気がついたのでした。まえに明治製菓での合同出版記念会を不思議な因縁と書いたのはこのことです。爾来、貴兄は、
かって高租保が「多麻」の協力者であったように、今「春灯」の協力者として丸三年間、ぼくとともにありました。これからも渝りはないと信じます。
山本信雄詞兄
この「春燕集」は昭和八年刊行の「木莓」につぐ貴兄の二冊目の家集でしょうか。最初は「椎の木」の詩人としての「木莓」、そしていまは「春灯」の俳人とし
ての「春燕集」、その間、あの戦争の時期を中において茫々三十余年の歳月が経っています。感なきを得ません。貴兄の「春燕集」について書こうと思って執っ
たペンが、いつにないことに横に走って、結局、貴兄についてよりも、ぼく自身について語る仕儀になったことをお許し下さい。
昭和四十一年六月
あとがき (『春燕集』より)
私が処女詩集「木莓」を出したのは昭和八年、第二詩集「灯下」の草稿を編んだまま三十有余年がまたたく間にすぎてしまった。今更、旧志を世に問う気持もなく、その頃から、
見様見真似で俳句を作っていたが、昭和三十七年の暮れ、思い切って久保田万太郎先生の「春灯」に投じたのがきっかけで、爾来安住敦先生についてひたすら教えを乞うている。
また「春灯」にはたびたび私の文章を載せて下さった。それらを集めて漸く一巻となすことが出来た。
……にも拘らず、拙著を春灯叢書の一冊に加えて下さると云ふ。これも私の還暦に免じての先生の暖いお心尽しに外ならない。
また集中の版画は川上澄生氏のご厚意によるもので、これ以上の喜びはない。
終りに上梓に際して阪神春灯会の山下峰人・藤井箕子の詩友にご面倒をおかけしたことを厚くお礼申し上げる。
昭和四十一年初秋
山本信雄
「セレニテの詩人 山本信雄句集『春燕集』」 田中冬二 (随筆集『妻科の家』1970所載)
『春燕集』の著者の山本信雄君は、私がパンテオンやオルフェオンに詩を発表していた頃からの最も古い友人──詩人である。
君からの手紙や葉書は今手許にあるものぱかりでも五十余通ある。それは昭和四年に始まっている。以来三十七年、其の間太平洋戦争等もあり、散逸したものも多いから、
それらを合わせたら、たいへんた数に達するであろう。そうした長い年月の間に、私の住居は東京の大井滝王子、世田谷新町、ついで信州の善光寺の町長野、湖畔の温泉の町諏訪、
日本のシカゴの称ある東北の郡山、そして再び東京と転々した。しかし其の間にあっても、私は君の手紙や葉書は大切に保存して来た。
何故なら君の手紙は何れもリリカルでそのエスプリが花のように匂っていて、手放し難いものがあったからである。事実その手紙自体がリリックと言ってもよい程美しいのである。
私が君にはじめて会ったのは、慥か昭和八年秋も十月頃の夜、東京銀座の明治製菓の二階で、君の処女詩集『木莓』と、
併せて今は亡き詩人高祖保君の詩集『希臘十字』の出版記念の祝賀会が催された時であった。当時の君は百田宗治さんの「椎の木」の同人の一人であったようだ。
「椎の木」は「四季」に先だつ詩誌で、同人として阪本越郎、伊藤整、春山行夫、高祖保、乾直恵、山村酉之助、江間章子、左川ちか等の詩人を擁していた。
『木莓』上梓後の君はどうしたものか、杳として其の作品を発表することもなく、ブランクの時代がづづいたようだ。それにつれ君との文通も疎遠となってしまった。しかし私はいつも山本信雄の
名は忘れることはなく、かげながらその作品に接する日を期し待望していたのである。ところが図らずも数年前「春燈」誌上に、君の名を見て限りない歓びを覚えた。
詩人として俳人として優れた作品の数多くを遺された木下夕爾君今やなく転た寂寥を感じる今日、「春燈」に寄る君の存在はきわめて大きい。安住さんも、
きっと君に多大の期待をして居られることと思う。
詩人としての君を紹介するには、しばし昔に帰らねばならぬ。そこで私は『木莓』の上梓当時、君に関して書いた拙文をここに誌させていただくことにする。
Raspberry Soda Water
しその葉、菊の葉、葡萄の葉。
ヴァージニア産の莨B.V.Mをつつむうすい銀紙。
和蘭セント・ゼームス会杜のラム酒のレーベル。
詩集「木莓」の栞に私は何れを挿もうか。
この詩集は、侘しさ、傷心と云ったような内気な日本の美しき感情を多く有している。
孟宗の葉に消えてゆく霧をながめたり、真新しい白い障子を立てられた茶亭に、青い茶を嗜んだり、故園のおおきな寂びた門のある家、おとめが走馬燈に灯を入れたりしている家にかえってゆく、この枯淡な詩人よ。
しかし君は時にまた南欧風のあかるいカラーとくっきりした感覚をもっている。たとえばカモアンの「水浴の女」やオットマンの「夏の頃」にみるような。 (中略)
椋鳥の群が庭へ来た日の夜。
しずかな澄んだ夜。
私は硝子戸近くおいたランプのほとり、この詩集を繙きながら思った。何と云う秋の夜に相応しい詩集だろうと。
青いやさしいへりとりの頁の一枚一枚は果物皿のようだ。この詩人のヴォカピュレールは水々しい葡萄の粒のようにそろっている。
これは決して容易なことでない。
この詩人の清例性(セレニテ)である。
初夏のゆうぐれの散歩。
アヴェニウのともったばかりのガス燈の下。
露店の簾椅子に憩い、ものを思いながら、しずかにラズベリーソーダ水を飲んでいるようなひと
──山本信雄君。(後略)
凡そ詩や俳句には、ダイヤモンドの要件4Cのように、Cut(カット) Carat(カラット)
Clarity(クラルテー)Colour(カラー)が大切である。
なかんずくカット──トリミングの巧拙こそ詩の手法として最も重要である。
この点君はこのきびしい手法を充分マスターして居る。『春燕集』の散文詩の、早春の庭のモノローグ、大阪風物抄、冬・洋燈・パイプはそれぞれ面白く何れも見事な出来栄である。
ジュール・ルナールの博物誌を思わせるが、それとはまた別の君独自の好みが窺われる。詩としてもこうしたものは、非常に危険な綱渡りである。
ウィットやサタイアにばかり頼るべきものでない。そんなことを君は百も承知の筈だ。
詩と俳句の二道をゆくことは容易なことではない。木下夕爾君はこれを立派になし遂げられた。今第二打者としてのバッターボックスの君も必ずクリーンヒットで塁に出られることと信じ、
私はそれをひたすら切願してやまない。