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いずみ こういちろう【和泉幸一郎】『母の紋』1949


函  母の紋

詩集 『母の紋』

和泉幸一郎 遺稿詩集
[あのなっす叢書 4]

昭和24年12月9日 あのなっすそさえて(青森県)発行

114p 21.6×18.5cm 謄写刷 上製函 非売

限定150部

表紙 肖像  

目次 1   2   3   4   5    中扉

題詞

刊行の栞

【姉】





手巾


生活

【一家】

一家
  同原稿

【時雨】

時雨
時雨  同原稿

月魄
日向

鞦韆

【鵯の馬鹿】

鵯の馬鹿
夢中の人
一年
流れ
山の神

【天の府】

天の府
往還
秋冷


道標
辛夷
野火

【秋風帳】

挿話
秋風帳
母の凧
 々
 々

暮春

【旅にて】

旅にて
拾遺

【小園歌】

小園歌
母の紋

年譜   1   2   3   4   5   6   7

和泉幸一郎に就いて (後藤峰夫)    1   2   3   4   5   6   7

奥付

広告   1  2   3   4   5   6   7   8   9

裏表紙


同人誌「朔」(圓子哲雄氏編集)巻頭に於いて、しばしば掲げられる原稿について、茲に紹介させて頂きます(資料提供者 石橋元生氏)。

「朔」172号(2011.9) 時雨  ふたたび時雨(未発表)     (未発表)


【参考資料】 和泉幸一郎について

            圓子哲雄 (『圓子哲雄詩集(1993土曜美術社刊行)』より)

 私たちは小詩誌「朔」を出した。当初から私たちの指向したものは、地方文化の向上とか、新しい文学活動を主張するということではなしに、詩を書く以外に能はなく、 ただ詩を書かずにはいられないといった者たちだけで、ささやかではあるが永続性のある同人誌の発刊をめざした。その反面、郷土の埋もれた詩人の紹介に力を入れたいと思った。

 悪しき地方性の一つの特徴としては、中央評価のあまり、地元出身の先人の仕事に背を向けるということではなかっただろうか。それで私たちはまず「和泉幸一郎」の作品を取り上げ、 彼を顕彰することをはかった。なぜ最初に和泉を取り上げたかというと、たまたま私が読んだ本に、遺稿詩集『母の紋』が記憶に強く残っていたからで、 彼の詩にたまらない魅力を感じたからである。その言語の織りなす一つ一つの色合いが実に美しいのである。彼の詩はなんという、仄々とした情感を抱かせているのだろうと思った。 今もなお生き生きとその時代に生きた彼の詩業が、今日的な意味においても私たちに迫って来るからである。

 和泉幸一郎は明治四十二年生まれだから、生きていればことし六十二歳である。強度の近眼鏡をはずすと、二つの眼球は飛び出すようで、大きな瞳はギラギラと異様に光り、 五尺一寸五分の猫背の背中を一層丸めて、顔は衝立のようにきりっと前に立てていたそうだ。人はそんな顔を「イズミ」と言わず「ネズミ」と呼んだという。

 最初、短歌、俳句をやったが、次第に詩に転じていった。そのかたわら弟と一緒に郷土史を学んだ。十九歳で郷土研究会の会員となった。小学校の頃妹を失い、 中学にも家庭の都合で進学出来なかった彼は、ひどく人生に絶望していたようだ。彼は精神的な動揺を受け、下番町の聖公会の教会に通い始めた。そして三年目に洗礼を受けている。 彼は旧家の血を残燭の焔のように再び燃え上がらさねばならなかった。彼はひどく焦ったようだ。東奥日報杜、階上銀行、藤金タクシーと転々と職業を変えた。 彼は大家の出である不幸な母を幸せにしたかった。彼はよく母を思慕する詩を書いている。母を思えば尽きることがないようであった。晩年に作品「母の紋」を書いている。

 昭和十三年十一月。ふとした風邪をこじらせて三日後あっけなくこの世を去った。急性肺炎であった。享年三十一歳。八戸の生んだ天才的な詩人が、身を焼き尽くして燃焼させた詩の大半は、 死後惜しくも散失していった。友人であった村次郎、石橋正一郎、後藤峰夫、中村謙太郎氏等が中心になって、「あのなっす・そさえて」が創られ、昭和二十四年十二月、 『母の紋』となって世に出た。これは当時入手可能な小範囲の発表詩のみをもとにして、わずか四十一篇を収録したもので、彼の全作品の何分の一にも当たらないものであった。 しかも孔版印刷の百五十部出版であったが、中央の詩壇からも彼の詩に対する業績が高く評価された。

 「あのなっす・そさえて」の『母の紋』が刊行されてほぼ四分の一世紀を経た今日、一度は時代の脚光を浴びた和泉であったが、いつしか月日が再び過去の中に連れ去ろうとしている。 私はそれが残念であった。「和泉」を調べていく程にその魅力に惹かれていくのである。最近までの調査では、彼の身内は現在一人もなく、そのため彼の資料は日ごとに埋もれていっている。 (デーリー東北新聞一九七二年八月十一日)


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