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『若い日に読んだ詩と詩人』

2018年 木菟山房出版部  亀井俊介著
139p 19.7×13.7cm 限定21部 非売品


 amazon、そして拙サイトにもupした『日本近代詩の成立(2016 南雲堂刊)』の書評ですが、著者の亀井俊介先生のお目に留まり、そのおかげだと思ひますが、このたび『若い日に読んだ詩と詩人』といふ一冊のエッセイの御寄贈に与りました。おそらくこのやうな新刊があったことなど、どなたも御存じないでしょうし、今後も手に取ることはおろか目にすることもない本となるでしょう。なぜって奥付には信じられない発行部数が「限定21部」と印刷されてゐましたから。

 しかしながら、カバーこそ即席デザインですが(愛書家としてこれだけは残念でした)、A5版139pのコンテンツをしっかり印刷・製本されたこの本が、たった21冊しか造られなかったとはやっぱり信じられない。不審に思ひつつ早速「あとがき」に目を通すと、中身の文章7本のエッセイのいずれもが、亀井先生がアメリカに留学される前、東京大学大学院時代に友人と興した文芸同人誌『状況』『浪曼群盗』等に発表した、1958年当時の執筆にかかる“若書きエッセイ”をまとめたものであるということ。そして昨年まとめられた『亀井俊介オーラルヒストリー(2017 研究社刊)』の、謂はば余勢をかった副産物として、岐阜女子大学大学院で教鞭を執られた亀井先生をかこむ英米文学愛好サロンの人々により、その強力な要望に応へるかたちで作成されたプライベートプレス本であるらしいといふこと。

 本書のかうした成立事情、つまり超稀覯本ができた理由と、タイトルとなった「若い日に読んだ詩と詩人」の背景、当時の同人誌をめぐる興味深い懐旧譚とが「あとがき」に綴られてゐました。僅かに十数冊が届けられたと思しきそのうちに、ゼミ生でも教へ子でもなかった私を選んで頂いた幸せをかみしめた次第です。

 さて、であるならばです。さきの書き下ろしの大著『日本近代詩の成立』の冒頭で、亀井先生が日夏耿之介の『明治大正詩史』を引き合ひに出して述べられた若き日の詩観のこと、芸術派だけでなく難解な現代詩に対しても飽き足らぬ思いを詩作者として抱いておられたといふ当時の先生が、その時点のその立場で、いったいどんな文章を実際に書いてをられたのか、これは興味深いことです。読みはじめて、前半の日本の抒情詩について論じられた部分、「立原道造」、「津村信夫」、そして四季派の末裔変種として戦後、発芽しただけで熄んでしまった「マチネ・ポエティク」を論じた3本に早速瞠目しました。

 例へば立原道造の項では、「僕はこのごろレトリックなしになりたい」との告白を「彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎない」と喝破。そして津村信夫については、西欧に夢見た物語から妻の在所を通じて日本の(信州の)物語に回帰してゆく過程で、語り部として「触媒のような存在になって」しまった詩人に対して食ひ足りなさを表明し、「たとえば堀辰雄が隠しもっているような果敢さはほとんどないといってよい」と言及。また彼が「自然、自然」と言ひながらも「自然美ということには大して関心を示さなかった」と、立原道造との差異を指摘された条り、などなど。

 「露骨な反感の表現は反省する」と回顧された「マチネ・ポエティク」論のなかで「生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだ」との詩観を開陳されてゐる亀井先生ですが、60年前の当時、新進気鋭だった同時代人、大岡信や田中清光といった人々が、これらのエッセイを読んだかどうかわかりません。ですが、私が詩を書き始めたころ、彼らの評論を通じて再確認することのできた、四季派と呼ばれる詩人たちの生理について、詩作者として悩み、進路を模索してをられた若き日の亀井先生が、同じく彼らの詩に魅力を認め、その問題点とともに探ってをられたといふこと。「自身の詩的態度の検証のために書いた」と仰言るエッセイに、それが、短くも的確に分かりやすく説明されてあることに吃驚しました。そして、これまで多くの関係論文を読んできた私ですが、半世紀以上前の創見に瞠目の思いを新たにし、この3エッセイを“若書き”だからという理由だけで、たった20人に供するだけでは、あまりにももったいないのではないかと思ったのでした。

 「四季・コギト・詩集ホームぺージ」という名前のサイトを開設し、四季派や日本浪曼派に括られそうな詩人たちの詩と詩集の紹介にいそしんできた私ですが、これまで立原道造・津村信夫(そして伊東静雄)といった中心人物については、あまりにも多くの論者によって分析的研究がなされてきたこともあって、生中なコメントを書くことが躊躇はれ、これまで正面からコメントすることを避けてきました。亀井先生のこれらの文章を、許諾を得て全文を紹介させて頂くことが出来たのは、まことに名誉なことで、これまで「四季」の名を冠しながら彼らに言及してこなかった拙サイトの正に両眼に点晴を得たやうな思ひもしてゐるところです。

 各原稿の転載を快く許諾くださった亀井俊介先生、そしてこの本を企画して作ってくださった犬飼誠先生、日比野実紀子さんに深甚の謝意を表します。ありがたうございました。


『若い日に読んだ詩と詩人』 亀井俊介著 2018年 木菟山房出版部 139p 19.7×13.7cm 限定21部 非売品

目次

第一部  懐かしい「小さな詩人」たち

1.『萱草に寄すの詩人』 立原道造 全文テキスト
2. 戸隠山の詩人 津村信夫 全文テキスト
3. マチネ・ポエティクの詩人たち 全文テキスト
4. 空と血の詩人 村山槐多

第二部  心躍った西洋の詩と詩人

1. ロレンスの「死の船」
2. ディラン・トマス 犬の如き芸術家
3. オーデンとリルケ

 あとがき

 ここに集めたのは、私が若い日に書いた詩や詩人についてのエッセイ類(一篇は翻訳とそれについての感想)である。どれも稚拙な若書きで、今となってはとても人に読んでいただける作品と思えない。ではなぜそんなものを本にまとめる気になったのか。どっちみち個人的な本なので、個人的な事情をここに記しておくのも一興かもしれない。

 今から二、三年前、2015-2016年頃でなかったろうか、岐阜女子大学のデジタル・アーカイヴ活動の一環として、私の「オーラル・ヒストリー」を記録することが企画された。私の学問史的な回想話をDVDに撮影して、大学のアーカイヴに収めておこうというわけである。作業は2012年度から2014年度まで、三年越しに行われ、DVDの編集がすむと、その語りの部分を文字化して 『Oral History亀井俊介パーソナル学問史』(岐阜女子大学、2014-2015)という全三冊のパンフレットも作られた。このパンフレットはさらに編集し直して『亀井俊介オーラル・ヒストリー 戦後日本における一文学研究者の軌跡』(研究社、2017)という市販の本にもなるのだが、いま語ろうとしているのは、パンフレットが出来た頃のことである。

 DVDが出来、パンフレットも出来たので、私の著作類も(どんなに価値の乏しいものだろうと)揃えて一緒に収録しておくのがアーカイヴの役目ではないか、といったような発想が大学側から出され、私の方もできるだけその要望に応えたいと思い、手伝ってくれる人たちが私の研究室に集まり、著作の整理や選定の作業をした。その時の話である。

 岐阜女子大学で長い間私の若き同僚だったが今は定年退職しておられる犬飼誠氏もその一人だった。だがこの人に手伝ってもらう仕事もないままに、氏はしようことなく、手近の雑誌を聞き、読んでおられた。私はちらっと見て、すぐそれがもう五十数年前、自分が大学院に入りたての頃に書いたイギリス詩人ディラン・トマスについての短い文章であることに気がついた。

 私は犬飼さんがディラン・トマスの愛好家であることを、前から知っていた。私の小文はまったくの素人が何かのはずみで書いたもので、とても犬飼さんの評価に堪えないことは明瞭だ。が、すぐに脇に投げおかれるかと思ったら、犬飼さんは最後まで読み終えたらしい。続いて同じ雑誌の別の号に載った記事も読み始められた。それはオlデンとリルケについての、いささか長いエッセイだ。さすがにこれは途中で投げ出されるだろうと思っていたが、これも最後まで行ったらしい。が、この人らしく何の感想ももらされない。その頃には私たちの作業も終わりに近づいていた。それからしばらく、たぶん一、二か月たって、犬飼氏と私は岐阜市内のある居酒屋で向き合い、差し差されつ、ではなく犬飼さんはビールのジョッキ、私は手酌で杯を傾けつつ、とりとめもない話をしていた時、犬飼さんが不意に、あの古い同人雑誌類に書かれていた詩と詩人についてのエッセイを本にまとめませんか、と言われ出した。私はいやあ、あんなとりとめもない内容で、下手くそな文章のもの、とても人に読んでいただけませんよ、とかなり真剣に答えたのだが、答えているうちに、心中、とにかくそれらを、自分でも読み直してみたいと思い始めていた。なにしろアーカイヴに収めるために著作を整理中なので、詩と詩人につての文章を選び出して読み返すことは簡単だった。問題は、自分がそれらにどう反応するかであった。

     *

 こういう次第で、私はたっぷり半世紀以上前の自分の作品を、読み返すことになったのだった。もちろん、自信をもって人に読んで下さいと迫れる体のものは一篇もない。けれども、何か自分としては愛着のようなものを覚える作品もなくはなかった。あ、これ夢中になって書いたんだ、といった思い出も甦ってくる。そういう中から、多少とも読んでいただきたい気持ちの動く作品を集めてみたのが、この本である。「初出一覧」といった感じで、そのタイトルと発表誌を本書での配列順に並べてみる。

『萱草に寄すの詩人』 立原道造   『状況』第1号 1958年1月
戸隠山の詩人 津村信夫       『状況』第2号 1958年4月
マチネ・ポエティクの詩人たち    『状況』第3号 1958年7月
空と血の詩人 村山槐多       『状況』第4号 1958年10月
ロレンスの「死の船」        『SÉSON』第9号1955年7月
デイラン・トマス 犬の如き芸術家  『浪曇群盗』第13号1958年3月
オーデンとリルケ          『浪憂群盗』第16号1958年11月

 日本の詩と詩人を論じた文章を前に、西洋の詩と詩人についての文章を後に配したが、ご覧のように時期的には混在している。しかしD・H・ロレンスの「死の船」の翻訳を別にすれば、すべて1958年の文章だ。私は大学院で比較文学を勉強していた。そして1959年にアメリカ留学に出発している。その旅立ちの前年にこうした文章を書いていたわけだ。

 ここでそれぞれの雑誌について、ちょっとだけ説明させていただく。一番古い『SÉSON』というのは、東京大学でだいたい同じ学年の詩の愛好家が集まって「東大詩学研究会」という恐ろしく立派な(あるいはぶきっちょな)名前の会を作り、『詩学研究』という同人雑誌(1953年6月創刊)を出したが、その名のいかにも東大的、あるは学生的な臭気に嫌気を覚えてきて、第七号から改題したのだった。「季節」などのはっきりした意味を持つスペリングにせず、単に発音だけの名にしたのは、無意味な響きに何かを託したかったのだろう。

 このことに関連して、さらに私本位の回想をさせていただく。私は高校二年生の頃に北川冬彦の『詩の話』(宝文館、1949)という本にすっかりはまり、島崎藤村的な持情詩の流れを否定する「現代詩」に夢中になり、北川氏の主宰する詩誌『時間』の会員にまでなっていた。たぶん大学一年生の時だったと思うが、その『時間』で会員から詩の懸賞募集をしたことがあり、私は応募して三等賞だった。それがどういう詩だったか、今はまったく覚えていない。覚えているのはその時一等賞だった安在孝夫という人の受賞作で、はるかに「詩」になっていた。すごいな、と思っていたらその安在氏から葉書が来て、どうやら私と同年の人らしく、東北から出て来てどこそこに勤めているという自己紹介の後、一緒に同人雑誌を作らないかと誘ってくれた。そんなことから付き合い出し、急速に私は安在君を大学の仲間とまったく同じく親友とするようになった。そして『詩学研究』を『SÉSON』に脱皮させる時、安在君に参加してくれるように呼びかけたのだ。東大生でない安在君が加わって、東大詩学研究会は「詩」の雑誌らしくなった。いやさらに述べておけば、『SÉSON』の最終号(第14号、1957年3月)とその前の号とは、発行所が東大詩学研究会ではなく、東京雑司ケ谷の安在君のアパートになっている。安在君は同郷の魅力的な女性と結婚していて、私はそのアパートを訪れて一緒に『SÉSON』の編集をしながら、夫人手造りのご馳走にあずかることを最高の幸せとしていた。

 ともあれ、安在君といると、あるいは安在君の作品を読むと、本物の「詩」が感じられた。私自身のは、詩の形はしていても、とても詩魂が淋しかった。そして私は、『詩学研究』時代には、「現代詩の方法(」第4号、第5号)とか、「詩と大衆」(第6号)とかと、今では題を見ただけでも顔をそむけたくなるような、魂の抜けた評論文を書いていた。そこで『SÉSON』に誌名を変えたのを契機に、私はもっと魂のこもった文章を書きたいと思い出し、私としては着実な「詩」研究の産物であるD・H・ロレンスの代表的な長詩の翻訳を寄せた。翻訳に付した「感想」は、未熟な内容と表現ではあるが、へンな評論文よりはもっと入魂の作品のつもりだった。

 『詩学研究』(と『SÉSON』)は名前の立派さに反して、謄写印刷とタイプ印刷の間を行ったり来たりする貧弱な体裁の雑誌だったが、次に登場する『浪曼群盗』は小柄ながらちゃんとした活字印刷で、見た目がはるかによい。奥付に編集人・新城明博、発行人・内田良平(個性的な俳優としてご存知の人もおられよう)とあるが、これは新城さんの謙遜した表現で、実質は新城さんが費用を全部負担して出しておられることは明らかだった。新城さんは後に『詩でしかとらえられないもの』(文芸旬報社、2003年)という、しみじみとした味わいのある現代詩史の本を出される詩論家でもある。前記安在孝夫君は福島県本宮町の高等学校でこの新城先生の教えを受け、詩心を育てられた(と私は思う。)

 私は本宮町に安在君を訪れた時、新城先生に引き合わせてもらい、それ以来同人でもないのに、『浪曼群盗』への寄稿をすすめていただくようになった。本書に収めたディラン・トマスや、オーデンとリルケについての文章のほかに、下手くそな詩も載せていただいたが、この際特筆しておきたいのは、エイドリアン・リッチの訳詩二篇(『ダイアモンド・カッターズ』より)にも発表の場を与えていただいたことだ。(第17号、1959年6月。)リッチはその後フェミニズムの主張で有名になったが、私は抒情詩人として惚れるところがあり、彼女に自分で翻訳許可を求める手紙を出したことまで覚えている。そして彼女を(たぶん)初めて日本に紹介する栄誉をになったのである。

 そして最後に『状況』。この雑誌刊行の意図については、『詩学研究』から『SÉSON』へ飛躍しようとした時と同じ思いを、第1号の、「はじめに」と題する文章で述べている。「学校仲間の文学青年の道楽仕事から脱却しよう」、「もう一度立ち直って、私たちの内にひそむものを表白し、表白しつつ活路を見出して行きたい」というわけだ。同人の多くは『SÉSON』の仲間と同じだったが、私が比較文学の大学院で知り合った一年先輩の平井照敏氏(東大仏文科出身で、当時は熱心な詩論家だったが、後に俳句で名をなし、氏の編集した河出文庫の『新歳時記』全五巻には、私も随分お世話になっている)が新たに加わり、中心的な活動をして、質を高めてくれたように思う。体裁は謄写印刷で一貫し、新味はなかったが、本郷の東大に近い妻恋町の「いずみ堂」が誠実に作ってくれて、きれいな出来上がりだった。(私はその店の主人の息子さんの家庭教師をしていた。)

 『状況』は1959年4月、第6号で終刊を迎えた。その「編集後記」を見ると、「亀井が渡米することに決まって、『状況』始まって最大の危機が到来した」と言い、しかし「亀井に言いたい……安心してくれ」と、『状況』を必ず続ける決意を述べている。だが結局、続かなかった。

 私はこの雑誌に情熱を注いでいたように思う。それで創刊号から、「小さな詩人たち」というシリーズ名をつけて、立原道造、津村信夫、マチネ・ポエティクのグループ、それに村山槐多を論じる文章を、毎号掲載した。何度も繰り返すが、いま読み返すとまことに稚い文章だ。が、ある種の愛着を覚えもする。何か心に期するものをもって書いたのだろう。その何かを語るには、ここでちょっと呼吸を整えなければならないようだ。

     *

 ここに集めた七篇のエッセイ、私は古い雑誌類を読み返しながら一冊にまとめておきたい文章を選び出しただけなのだが、いまこの「あとがき」を書いていて、それらが一篇を除いて1958年の執筆に集中していることを知った。驚くと同時に、なるほどなあとも思った次第だ。

 すでにちょっとふれたことだが、私は1955年に大学院に入り、学問で身を立てようと思ってはいたが、生活問題、男女間の問題などもからみ、いろいろが中途半端に揺れていた。詩の勉強はその中の大きな部分を占めていたが、先に述べた北川冬彦の影響が根を残していて、いわゆる「現代詩」、つまりモダニズム的な詩の可能性をまだ模索して、自分でもその種の詩を作る努力をしていた。だが、はっきり、自分は本質的に詩人でないことを見極め出してもいた。かりに詩人に必須な二大要素として詩魂と詩才があるとすれば、私には十分な詩魂がない、それなのに詩を作ろうとするから、詩才の末路、つまり詩の「方法」などということにうつつを抜かしている──といったことを感じ出していた。

 私が日本の詩人たち――それも大詩人ではなく、いわば身近な「小さな詩人たち」に積極的な関心の目を向け、たとえばどういう表現がいいの悪いのと具体的な評価を試みたのには、ほとんど私自身の詩的態度を検証する趣があったのではないかと思う。私はこれらの詩人の気負った複雑な表現を批判することが多く、単純素朴な表現を見つけると共感を示していたようだ。それはたぶん私が当時、自分の学問的研究のテーマとしてホイットマンに入れ込んで行っていたことの反映でもあろうが、私自身の詩作が「現代詩」の亜流の辺りをうろうろしていることに情けない思いをしていたことの反映だったかもしれない。

 「マチネ・ポエティクの詩人たち」への私の露骨な反感の表現は、いま読み返すと汗顔のいたりで、日本の詩の現状への彼らの不満や、それを是正するために彼らがやろうとしたことを、もっと理解し、共感できるところはもっと共感を表明すべきだったと思う。また中村真一郎とか福永武彦とかいった人たちは、当時すでに若手評論家として世評高く、東大だか学習院だかの講師なんぞもされていたのではないか。私はもし許されればその講筵に連なりたいとも思っているほどだった。だからこそ『マチネ・ポエティク詩集』を買い求めもしたのだろう。が、一読して、これを否定しなければ自分の存在がない、と思うほどに抵抗感をもった。私は自分に詩魂の薄弱を感じて悩んでいた。が、この人たちはそんな悩みはまったくなく、フランス文学の知識を開陳し、「我々も亦、マルラメから始めなければならない」などと言っている。頭でっかちの才人たち、と私は感じたのだった。だからいま、露骨な反感の表現は反省するが、あれはあれでしょうがなかったのだ、とも思う。

 西洋の詩と詩人を語った三つの文章は、どちらかと言えば学問的関心をもとにして書いていたように思う。ロレンスの詩は、私の東京大学英文科の卒業論文のテーマであり、リルケは場違いのようだが、比較文学の大学院で富士川英郎先生のリルケについての授業をとらせていただき、これはその学年末のレポートをもとにしたものなのである。

 だから学問的関心があっての翻訳であり、エッセイであるのだが、たとえばロレンスの詩を訳したり論じたりしていても、関心の中心は、ロレンスの「生」にあり、それが私の「生」のあり方とどうつながるか、というようなことを探る姿勢があったように思う。ドイツ語を私は得意とせず、リルケは本来は縁遠い詩人であった筈だが、富士川先生に『ドゥイノの悲歌』を読んでいただきながら、少しずつ自分と通うところを見つけ、彼をさらに自分に引き寄せるためにオーデンを介して比較文学的な読みを試み、レポートにしたのだった。だからもちろん、「詩才」(詩表現)の問題もからみ、「詩魂」のあり方をいろいろ考えもした──エッセイの表面に出てはいなくても。

 ディラン・トマスについての小エッセイは、まさに詩人の「生」のあり方に思いをめぐらせた感想文と言えよう。

     *

 さて繰り返すことになるが、本書収録の七篇の文章について、執筆当時のことどもをふり返っていると、ほとんどが私のアメリカ留学直前の仕事であり、ぶざまな文章を連ねながらも、私が詩を書くことをぷっつり止め、これからは学問に打ち込んで、学問として詩を勉強しようと決意していく、準備期の仕事であったことが見えてきた(アメリカ留学は、そういう決意をさらに生活とか人のあり方とかをひっくるめて飛躍させる試みだったように思う。)これらの文章に自分が「愛着のようなもの」を覚えるのは、自分がそういうcriticalな時期にあったことが関係するのではなかろうか。

 そんなわけで、今回本書にまとめるにあたり、雑誌に発表当時の事実の誤りやテニヲハの不適切さなど以上の修正は、最小限に留めた。率直に感想を述べたり、無骨に突っかかっていったりするところなどは、そのまま残すように努めた。文章の稚拙さが当時の私の思考の反映だったと思うのだ。

 そういう内容であり表現であるので、本書は公刊して広く読んでもらえるものになろうとはとても思えない。それでも私と長年つき合ってきてくれた友人や教え子は、本書に興味を示してくれる(あるいはそういうふりをして励ましてくれる。)それでごく少部数の私家版を作ることにしたのである。

 初出の原稿は、たいていが粗末な酸性紙に印刷されているので、半世紀以上たった今、コピーするといちじるしく読みにくく、文字が消えている個所も多い。そういうコピーに朱を入れると、原稿はますます読みにくくなったが、それを(この「あとがき」も含めて、)『亀井俊介オーラル・ヒストリー』の文字化にも全面的に協力してくれた日比野実紀子さんが全部ワードに打ち直してくださった。その原稿を前記の犬飼誠氏が田中印刷所に持ち込んで下さり、同印刷所の全面的な協力によりご覧のような形の本になった次第である。こんな小さな、まったく個人的な本でも、暖かい気持ちに支えられて日の目を見ることになった。皆さんに心からお礼を申し上げる。

                                                     2018年4月25日     亀井俊介


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