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1. 『萱草に寄す』の詩人    立原道造

                                    亀井俊介

 『萱草に寄す』の詩人立原道造は、大正3年7月30日、東京日本橋の箱製造業の家に次男として生まれた。幼時よりたいへんなはにかみやの秀才で、府立三中(現東京都立両国高校)から一高へと進み、昭和9年、東京帝大工学部建築科に入学し、同12年に卒業した。卒業設計(論文)は「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」という。それより前から、彼は堀辰雄らを中心とする詩誌『四季』に参加し作品を発表していたが、卒業の年に二冊の詩集を自費で出版した。その一つが『萱草(わすれぐさ)に寄す』であり、もう一つが『暁とタの詩』である。その頃から彼は胸を病んだ。そして昭和14年3月29日の早暁に死んだ。年わずか24歳と8ヶ月である。

 まことに短い一生であった。しかしまた、いきなりヘンな言い方をするが、まことに「詩人」らしい一生であったようだ。

 第一に彼は屋根裏部屋に住んでいた。「屋根裏といっても床に古びたテエブルや椅子を置き、針金を渡して黒いきれを下げた仕切りの向こうに本箱や寝台の置いてある本格的な屋根裏部屋で」(高橋幸一「屋根裏の立原君」)、そこに堀辰雄の詩や外国雑誌のゴチック活字の装飾が配されていたという。

 そして彼は旅を好んだ。軽井沢から追分辺には始終行っていたが、それ以外にも、木曾路へ行き、紀州路へ行き、京都へ行き、東北へ行き、奈良へ行き、最後に九州へ行った時に、長崎で病に倒れた。

 それから彼には三つの恋があった。しかもそのおのおのが夢見るような物語として今日に残されている。そして彼は美しい清いソネットを書いた。まことに彼はどこからどこまでも「詩人」であった。

 私が立原道造の詩を読もうと思い立ったのは、ほかでもない。人に聞く彼のこの「詩人」らしさを、その詩についてもう少しはっきりと知りたかったから、と言えそうだ。本当は、私のような田舎者は、こういういかにも詩人らしい詩人は嫌いな筈である。何か鼻につくものがある。それが、近頃は何のとりとめもないような、読んでも読んでも表現に詩的な脈が見出せず、内容も混乱していて、こちらの感情が破滅させられるだけのような、いわゆる「現代」的な詩の氾濫に閉口して、もっと純んだ、整った実体のある、いわば古典的な味わいのようなものを詩に求め出した。それで、ひとつ立原道造の詩集を読んでみよう、と思ったのである。

 そして読んだ結果はといえば、一口で言って、私は一種の安堵感を覚えたのであった。しかしそれについては後からまた述べることとして、まず立原道造の詩集そのものに立ち入ってみたい。私はまったく素朴に、私の感想を書きしるしていくつもりである。

     〇

 最初に読んだのは、もちろん、第一詩集『萱草に寄す』である。これは昭和12年5月、立原道造が23歳の時に出したもので、もとはセピア色のうすく大きな版で、楽譜のような装幀をしていたというが、私が読んだのはそういう美しい版ではない。戦後に出た数種の立原道造詩集のうちでもたぶん最も安直な文庫版の詩集である。

 しかし内容は甘美なエレジーであった。収められたのはたった十篇のソネットで、それがいずれも失った恋に対する追憶と心の痛みの詩であった。その恋というのは、彼の年譜によればこうだ。道造は昭和9年8月頃、軽井沢から追分辺に旅した時にある少女と知り合い、ほのかな愛情を抱くようになった。そしてその少女を、時に彼の愛した花の名によって「ゆうすげびと」と呼び(夕菅はユリ科の一日花で、夕方開いて翌日午前中にしぼむ、)また西洋のうた物語式にアンリエットと名付けた。だがその愛は実らなかった。いや、実らなかったというより、実らせる努力もしなかったという方が正しいかもしれない。

 というのは、彼の小説「ちいさき花の歌」や「鮎の歌」を読むと、彼はほとんど彼の頭の中だけでこの少女との心の結びつきを強めていたようなのだ。「僕は、恋していたのは僕の恋人、僕自らで、アンリエットをこしらへあげた僕の少年の夢だった」と彼は「ちいさき花の歌」の中で言っている。だからこの恋が実らないのは当然だった。しかもなお、彼としてはこの恋に彼の少年の夢を結集していたのである。だからその相手がよそに嫁いでしまったことは、彼の青春の崩壊を意味した。そこで彼は繰り返し繰り返し、この少女との別離を追想し詩にうたうのである。

 しかしそれだけならば、人はこの詩集に読み耽りはしないだろう。たいていの文学青年は自己流に青春挽歌をうたっているものだ。問題はそれをどのようにうたうかということだ。そのことにおいて、立原道造はなかなか凡庸の人ではないことを私は知ることになったのである。ここに
 『萱草に寄す』の最初の詩「はじめてのものに」をあげてみよう。

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  はじめてのものに

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(この窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑い声が溢れてゐた

──人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 これは言うまでもなく、道造が「ゆうすげびと」とはじめてしり合った時の思い出の詩である。「ささやかな地異」というのは、そこが信濃の追分であってみれば、浅間山の噴火のことをいうのであろう。その煙の灰が静かに音立てて降りしきるのである。そこにあって、ある夏の月の明るい夜、道造は「ゆうすげびと」と窓に凭れて語り合った。彼女はその時、ひらひらと灯を慕ってとんで来た蛾を、そのたおやかな手でついと追った……。そういう情景である。

 だがそんな、言ってしまえばありふれた情景が、何と微妙にうたわれているかに私たちは注目しなければなるまい。灰、ひとしきり、灰、降りしきった……というふうに「ハ行音」を連ねながら、音によってかすかな調べを表して行くのもさることながら、用語もまた最大限に雅で、「浅間の噴火」と言わずに「ささやかな地異」と言う。「恋人と」とか、あるいは「女と」とかうたわずに、「ひとと」と言う。「人の心を知るとは……人の心とは……」と、感嘆とも疑問ともつかぬ言葉をそっとさし出しておく。そしてまた、蛾を追う窈窕とした娘の姿態にも、「何かいぶかしかった」という言葉を附して、その帰結をぼかしてしまう。こうして弱々しい、淡い、それでいていかにも清い一つの風景を現出するのである。

 立原道造の詩を際立たせているのは、このように、対象とぶつかってしまうのではなく、そこから一歩身を引いて、かすかな調和をもたらす、その人工性にあるのではなかろうか。

 この詩の最後の聯にしてもそうである。ここでは道造は、藤原定家の

「いまぞ思ふいかなる月日のふじのねの みねに煙の立ち初めけむ」

 という歴史回想の和歌と、エリーザベトという少女とのほのかな清い恋を追想風に語ったテオドア・シュトルムの小説「インメン湖」(Immensee)──私なんぞも大学に入ってドイツ語を習い始めた時、最初に読んだ短編だ──とをふまえて、彼もまた同じように「はじめてのもの」を追憶することをうたっている。しかもそれを言葉足らずに、ほとんどおずおずと表現することによって、この聯の人工性は二重になり、単なる感傷的な思いがいかにも奥行きあるうたとなっているのである。

 世に「立原風景」と言われるものはこうして生まれた。それは横溢する詩魂が生んだものというより、詩人の内向きで純んだ心と、つつしみ深い詩法とが生んだものではないか、と私は思う。立原道造自身は「僕はこのごろレトリックなしになりたい」(昭和11年9月杉浦明平宛書簡)と言っているが、それは彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎぬ。恋人と別れた後の孤独の道を、

その道は銀の道 私らは行くであらう  (「またある夜に」)

とうたい、恋を失った当時の自身の心の生々しさを今のそれに比べては、

逝いた私の時たちが
私の心を金(きん)にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと  (「夏の弔ひ」)

 とうたったあたりの金と銀との用い方などにも、巧まざる巧みのうまさがあるのではなかろうか。
(蛇足かも知れぬが、最後の行の「愎る」は、道造は「なおる」とでも読ませるつもりだっただろうか。実際は無理だが。)

     〇

 それから、私は第二詩集『暁と夕の詩』を読んだ。これも先と同じように、楽譜の装蹟で、半年おくれて昭和12年の12月に出たという。そして内容はやはり十篇のソネットを収めて、「ゆうすげびと」との別離が中心になっていると言ってよい。しかしここでは、もう『萱草に寄す』のように過去への追憶ばかりでなく、より多く現在の自分をうたっているようだ。大袈裟に言えば、実りのない追憶をすて、現在の自己の存在を確認するところから再出発しようという態度である。だが、大袈裟に言ってしまっては立原道造の詩はわからないような気がする。彼自身としては、もっと控え目に、つつましくうたっているのだ。彼が導師としたドイツ詩人、リルケのような、忍耐と存在の凝視のはげしさは彼にはない。

すべてが不確かにゆらいでゐる
かへつてしづかなあさい吐息のやうに……
(昨日でないばかりに それは明日)と
僕らのおもひはささやきかはすであらう    (「やがて秋……」)

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 これは現在の不確かさと、またやがて来る秋にも期待を持っていない気持ちをうたったもののようだが、彼はむしろこういう気持ちを自ら楽しんでいたような気がする。彼は求道者でも実在主義者でもなく、自己の弱さと淋しさをひとり味わい、それを表現することによって心を育てていたのではなかろうか。

 ただ、前にも述べたように、それを凡百の陳腐な感傷詩に終わらせなかったのは、その表現の調和にある。感情が知性によって和らげられ、支えられていることにある。そのよい例として、「失はれた夜に」と題する詩を読んでみよう。この詩は別れの時の女の瞳をうたったものであるが、その最後の聯ははじめ

灼けた瞳が 叫んでゐた!
太陽や海藻のことなど忘れてしまひ
僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻つてゐた

となっていたのを、後に

灼けた瞳は しづかであつた!
太陽や香りのいい草のことなど忘れてしまひ
ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

 と改めたものだという(田中清光『立原道造』。)この二つの詩稿を比べる時、私たちは後者が前者の高揚した調子の言葉をいちじるしく和らげ、それでいてより味わい深い表現にしていることに気付く。

 もっとも、立原道造にも、こういう調和した表現が得られない時もしばしばあったようである。それは生前の詩集に収められていない作品に多いが、『暁とタの詩』の中でも、たとえば詩集最後の「朝やけ」という詩には、次のような表現がある。

昨夜の眠りのよごれた死骸の上に
腰をかけてゐるのは だれ?
その深い くらい瞳から 今また
僕の汲んでゐるものは 何ですか?

 こうした詩句には、私は戦後の詩人たちに通弊のむやみとひねった不安や絶望の表白に通ずるものを感じて、なじめないのである。私が立原道造を特に『萱草に寄す』の詩人と呼んだのは、この詩集ではその弊がほとんど見られないからに外ならぬ。

 しかし『暁とタの詩』以後の彼の、みずからの生を確認し、それを一人で生きようとする念いも、決して単に表現の玩具であったのではない。彼は中原中也の有名な「汚れちまった悲しみに」についてこう言っている。

これは「詩」である。しかし決して「対話」ではない。 また「魂の告白」ではない。このやうな完璧な芸術品が出来上がるところで、僕ははつきりと中原中也と別離する。詩とは僕にとつて、すべての「なぜ?」と「どこから?」との問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問ひを問ふ場所であるゆゑ。僕らの言葉がその深い根源で「対話」となる唯一の場所であるゆゑ。     (「別離」)

 ただ、この問いによって道造は恐らくどれ程の答えも得なかったであろう。(リルケのようにその答えを得るためには、彼には強靭さがかけていた)

 そこでかれは弱々しくも憑かれたようにさすらいの旅を繰り返すのであるが、昭和12年の秋の作らしい「晩秋」と題するソネットは、彼のその漂泊の心を最も凝縮した表現でうたった一傑作であると思う。

  晩秋

あはれな 僕の魂よ
おそい秋の午後には 行くがいい
建築と建築とが さびしい影を曳いてゐる
人どおりのすくない 裏道を

雲鳥(くもとり)を高く飛ばせてゐる
落葉をかなしく舞はせてゐる
あの郷愁の歌の心のままに 僕よ
おまへは 限りなくつつましくあるがいい

おまへが 友を呼ばうと 拒まうと
おまへは 永久孤独に 餓えてゐるであらう
行くがいい けふの落日のときまで

すくなかったいくつもの風景たちが
おまへの歩みを ささへるであらう
おまへは そして 自分を護りながら泣くであらう

 感傷寸前、というより感傷にもうひたってしまいながら、その感傷を支えとして、みずからの生をひとり生きようとする思いをうたにしているのである。

     〇

 私はさらに、計画されていた詩集『優しき歌』を読んだ。これは昭和13年の8月に草稿を中村眞一郎に見せただけで、著者の生前には刊行されなかったものだが、一篇の「序の歌」と十篇のソネットとから成る。それから私は連作『風に寄せて』を読んだ。これもまた十篇のソネットを集めて詩集にするつもりであったのだろうが、ついに5篇だけしか完成しなかったものである。(これらの作品は戦後の昭和22年になって、ほかの作品も加え、詩集『優しき歌』として出版された)また私は「ゆうすげびと」との恋物語に次いで、さらに二つの彼の恋物語を知った。それらはいずれも甘美な、夢見るような恋として伝えられている。

 しかし私はそれらの詩や、あるいはそれらの物語について、もはやあまり言うべきことがないような気がする。私が立原道造について言いたいことはすでにほとんど言ってしまった。それはつまり、つつましさの美しさ、あるいはその力ということである。

 立原道造が詩を書いた頃──昭和12、13年──は、支那事変が勃発し、日独伊防共協定が調印され、さらに国家総動員法が公布されて、社会は日一日と緊迫を加えた時代であった。文学界もそれに呼応して変貌していたに違いない。その時代を田舎で戦争ごっこなどをして過ごしていた少年の私は、もちろんその風潮を知らないのであるが、小さな文学史をめくってみても、その頃、「文学と政治」の問題が問われ、「民族文化主義」(中河与一)が提唱され、報告文学とか、戦争文学とかが説かれ出したと書いてある。青年時代をその時流の中においた人は日ごとに大きな動揺を味わっていたことだろう。ところが立原道造の詩は、そういう時代の奔流とは隔絶して、純粋に自己の世界を守っているのである。

 田中清光氏によると、彼もまた、当時しだいにファシズム的傾向を帯びていった「日本浪曼派」に接近して行ったようであるが、今この小文を書きながら読んだ限りの詩においては、彼は騒然たる社会に完全に背を向けて、ひたすらに追憶をうたい、自己との「対話」を重ねているのである。彼が好んで用いたソネットという詩型の意味合いについては、また別の機会にあらためて考えたいところだが、とにかく西洋詩の整然とした、しかしつつましいこの詩型が、彼の内向きな感情、思考、そして表現に、ぴったり合ってもいた。そして何度も言うようだが、「限りなくつつましく」彼は、詩を生きたのである。

 これは今の私たちにとって一つのありがたいことではないだろうか。彼の世界はたしかに非常に小さく、そしてそのうたはいつも悲しげで弱々しすぎる。リルケのように、読者をして生の在り方にふれさせるような力はない。彼はマイナー・ポエットと言わなければならないだろう。彼をどんなに愛する人もそのことは否定しないと思う。しかし彼は小さいながらも、堀辰雄が言ったように「純金の心」であった。

 そしていかに世の中が嵐に荒れ狂っても、いや狂えば狂うほど、彼はその「金」であることを貫いた。すべての金属が兵器になって行った時に、彼は「金」としての立場を守り、無限に小さくだが、美しく輝いていたのである。

 私は最初に、立原道造の詩集を読んで一種の安堵感を覚えたと言った。もうその意味はわかっていただけたと思う。私は嵐の中に彼が小さくも輝いていたことを知って、喜び、ほっとしたのである。そして、どこからどこまでも「詩人」らしく彼が出来上がっていることに対してほのかに覚えた反感も嫌らしさもきれいになくなって、彼のような人を愛そうという気持ちが私の心に浮かんで来たのである。

僕は愛されてばかり生きて来た。──ほんたうにわがままに! 愛されないことなんかゆめにもおもはなかつた。

 これは彼が死の直前に、長崎でひとり熱を発して入院した時にベッドに中で書いた言葉だそうだ。彼のこの思いは今でも裏切られてはいない。

 そしてこれからもいっそうたくさんの若い愛が彼に注がれることだろう、と私は思う。
                                                         昭和32(1957)年11月17日

テキスト
中村眞一郎編『立原道造詩集』角川文庫、昭和27年5月
『立原道造全集』(全三巻)角川文庫、昭和25年11月―26年6月
三好達治他編『日本現代詩大系 第9巻』河出書房、昭和26年10月 『萱草に寄す』『暁と夕の詩』を全収録、『優しき歌』を抄録。

参考文献
田中清光『立原道造』書肆ユリイカ、昭和29年11月


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