(2018.08.11up / update)Back

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2. 戸隠山の詩人 津村信夫

                                    亀井俊介

 前章で論じた立原道造と同じく、雑誌『四季』で活躍した詩人に津村信夫がいる。彼の名は立原道造ほど一般には知られていないし、また名は知られていても、彼ほど一般には愛読されていないようだ。立原道造にはすでに再度ならず全集が出ているのに、津村信夫にはそういうものがないし、いろんな詩の入門書や解説書に立原道造は必ずと言ってよいほど論じられているのに、津村信夫はほとんど登場しない。では彼の詩は立原道造の詩に劣るかというと、そんなことはない。

 私は彼等二人の交友関係がどのようであったかまったく知らないが、前章で紹介した立原道造の「はじめてのものに」という詩中、「人の心を知ることは……人の心をとは……」という感嘆とも疑問ともつかぬ句が、津村信夫の詩「花樹」中の「人の心を知ることは、その心を把へることは……」という句から借りていることは明らかだ。立原道造は津村信夫の詩をよく読み、高く評価していたのではないか。それにもかかわらず津村信夫の詩は一般には妙に敬遠されているらしいのである。それはなぜか。私は津村信夫について、まずその事から考えて行きたい。

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 この場合、問題は立原道造の詩が読者の感情になめらかにしみ込んでくるのに対して、津村信夫のはそこにちょっとした抵抗をよびおこすことにあると私は思う。いったい、一般の読者の心は、たいていは淡く弱々しいものなのだ。それで立原道造の詩を読んだ場合、淡い、弱々しい、などと批判がましいことを言いながら、実はその淡さ、弱々しさに馴れ親しんで、いや時には愛してもいるのである。津村信夫の詩には、一見したところそれがない。まず第一に彼の表現は強い散文性を持っている。彼には『詩と詩論』の人たちによってなされた新散文詩運動のたぐいが強く影響しているのではないか。それについてはこれから例示して行く作品を見れば明らかであろうが、悪くするとこの特徴が、例えば、

「少女が、少女の建音が明確に私の心の梯子を降りて行く」  (「鶏影」)

 といった式の、現代詩に氾濫しているもってまわったレトリックの表現となってしまう。立原道造ならこんな嫌味な表現はまずしなかった。

 第二に津村信夫の詩は知性でなしたスケッチであることが多い。それもたっぷり色をぬった絵ではなく、点々と色を点じただけのスケッチだ。うまくいった場合、それは非常にモダーンであって気持ちよい。最初の詩集『愛する神の歌』の巻頭の詩「小扇」のように、絶妙な心の風景も現出する。

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指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

ここには、表現を省きに省いた果ての「詩情」がある。だがすぐ次の「衿持」と題する詩に行くと、「一つの衿(ほこり)を持つ」思いをうたうかのようだが、思わせぶりな言葉が連なるだけで、意味ありげに見えて意味なく、変に気障で「詩情」は感じられない。またすぐ後に来る「鴉影」という詩は、自分の心に落ちる少女の影をうたうかのようだが、先にも引用したもってまわった表現の後、さらにこんな一行がある。

夕方、それに何の不思議があるものか、私は発熱する。

 この行の前半と後半との間にべつに詩的必然性があるわけではない。それをあるように見せかけてこう書いたところに、知的表現の不尊さが感じられる。気の利いたつもりの表現が、実は中身のない分裂した表現に終わっている。立原道造の場合は、知性は彼の詩に微妙な調和をもたらしたが、津村信夫の場合は気障なポーズの外観で終わりがちなのである。

 彼の詩が読者を斥けようとする原因は、探ればまだいろいろあるだろう。しかし私が今ここで強調したいのは、彼の詩のこういう「現代詩」風の取っ付きにくさを乗り越えて、その作品の中に入って行くと、そこに思いがけず魅力的な世界が開けていることを発見するということである。表現もよく読めば整っていて、さらに清潔なのである。一つ、例を示そう。

  ローマン派の手帳

その頃私は青い地平線を信じた。

私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温もりにはグレーチヱン挿話がひそんでゐた。
不眠の夜が暗い木立に、そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。

 やっぱり気取ったような表現が目立つ。青い地平線とは何か?キリスト復活の日の白鳩とは?また藁蒲団の温もりにひそんでいるグレーチヱン挿話とは?分からないことが多く、この詩を捨ててしまいたくもなる。しかしこの作品全体に、まったく何となくだが、一つの豊かな想像の世界がひろがっていることを感じるのである。

 ここに「ローマン派」というのは、作者自身のことであろう。そう思うと、作者のロマンチックな夢がぼんやり見えてくる。リンネルの襯衣(シャツ)の少女が実在の女性であるかどうかは知らない。だが「不眠の夜」「暗い木立」の下の淋しい家の中で、いつも一種の哀詞をかなでるオルゴールに耳を傾けながら、詩人は少女と胡桃を割りながら、キリスト復活の日の白鳩を讃えてい──というその情景には、どこか北欧あたりの静かな、また敬虔な生活が感じられる。この詩はそうした生活への思慕をうたっているような気がしてくる。すると、俄然、先にわずらわしく思った「青い地平線」や「グレーチヱン挿話」が、作品の中で生きて来ることを感じないだろうか。日に映えて赤や黄や白に輝く地平線ではない。素朴な、いささか暗い、宗教味を帯びた青い地平線。運命に奔弄され、ついに牢に入れられ藁の中にねる身となりながら、至純の心を失わないで昇天するフアウスト伝説中のグレーチヱン。いずれもこの詩の世界に美しい意味を付け加えるに充分であろう。

 津村信夫の空想の世界はこのようにかなり高度な言葉の密度をもって構成されている。そして今見たように童話的であるにもかかわらず、立原道造のいわゆるメールヒェンが持つほとんどはしたないほどの弱々しさがない。両者は繊細な感受性という点では共通するところを持っているが、詩の格調としては信夫の方が活気があり、男性的だ。

 ここにもう一つの例をあげてみたい。

  可愛い妖怪(トロル)

少女よ、お前は成長を知らない。

夕暮がすっかり白樺の小径を化粧する、
もうもうお前に残つて居るものはランプの下の縫物と夜の御祈祷(おいのり)。

少女よ 今夜はマリア様になんとお祈りを捧げるのか。百舌が林に鳴く頃になつても、もうあんまり不幸な目には逢はぬ様に、谿問には美しい物語(ロマン)が落ちてゐる様に、鹿の感情がいつもながらに優しくそれで居て眸に憂愁(うれひ)の波紋があるやうにと。

そして小声で付け加へるだらう。

「シンネェヴェは何日になったら樅丘(グラリンデン)に嫁きますか」と。

少女よお前は可愛い妖怪(トロル)。

 トロルは普通、北欧の巨大な妖怪の呼称であるが、信夫はそれを「可愛い」存在に仕立て直している。そしてここにシンネェヴェというのはビヨルンソンの小説『日向が丘の少女』の若いヒロインであってみれば、全体としてこの詩もやはり北欧的生活への思慕のうたということができる。そして読者はこの世界、特に詩の中にうたわれた少女の御祈祷の美しいことに驚嘆するであろう。それはこの詩の中心であって、同時にこの詩の雰囲気をいっそう夢幻的にしている。しかもそれは散文でもって、まるで点描によるスケッチのように書かれている。私が先に読者を斥けるものとしてあげた彼の詩の知性が勝った表現が、ここでは美しい愛の世界の定着に非常に役立っているのだ。もしこの詩を立原道造のように「詩的」に書いたら、たぶんこれは陳腐な作品になってしまったことだろう。

 津村信夫の詩には、彼によってしか、また彼の方法によってしか、表現され得なかった夢がある。しかもそれは、立原道造のように「追憶」の夢ではなく、「思慕」の夢であった。私はまずそのことを強く感得しておきたい。

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 さて、「ローマン派の手帳」や「可愛い妖怪」が書かれたのは、作者が詩を書きはじめた21、22歳頃であった。そして彼はその後も詩を書き続け、昭和10年11月、25歳の時に第一詩集『愛する神の歌』を四季社から自費出版した。この詩集の背景になっているのはすでに述べたような寒く澄んだ北欧的雰囲気であるが、テーマとしては彼が恋して「ミルキイ・ウェイ」と名づけた少女や、また彼が愛した若くして逝ける姉道子が中心となっていた。先に引用した詩の中の少女は、空想上の人物としても、たぶんこの「ミルキイ・ウェイ」と重なるところが多いだろう。しかしこの頃から、彼の詩はしだいに信州を、それもとくに戸隠山をうたうことが多くなって行く。

 津村信夫は学生時代からずいぶん信州を愛したという。彼は明治42年1月5日、神戸市に生まれ、神戸一中を経て昭和3年4月、慶応義塾大学経済学部予科に入学したが、在学中に肋膜炎を病んで二ヶ年休学し、鎌倉や別府温泉で療養した。彼が詩を書き始めたのはこの頃であった。また彼はこの頃から兄の秀夫(映画評論家)と共によく軽井沢で夏を過ごすようになり、さらに千ケ瀧と追分を愛し、転じて戸隠山を恋うるようになった。そして彼は昭和9年3月に大学を卒業し、11年11月に妻を迎えたのであるが、この妻もまた信州長野の人であった。しかもなお彼の信州旅行癖はやまず、ひとり瓢然として戸隠を訪うこともあり、夏には妻を伴って追分や戸隠で暮らすのを常とした。

 第一詩集『愛する神の歌』に続いて、信夫は昭和17年2月に第二詩集『父のゐる庭』を、19年2月に第三詩集『或る遍歴から』を出したが、いずれも前記の土地をうたった詩が圧倒的に多い。さらに彼は、生前に一冊、死後に二冊の散文集を残しているが、それらもまたすべて信州をテーマとしている。昭和15年10に出た、信夫の言葉を借りれば抒情日誌(タアゲブッフリリック)ともいうべき『戸隠の絵本』、昭和20年12月に出版された児童向きの散文集『善光寺平、』および兄秀夫の編になって23年1月に出た遺稿短編小説集『初冬の山』がこれである。
このようにして、信夫は、その生涯においても、またの文学においても、信州に、なかでも戸隠に、切っても切れない結びつきを持っていた。まことに兄秀夫が言ったように、彼は「信濃の詩人」「戸隠の詩人」であった。だが、ではなぜ彼はその土地にそんなに結ばれたのだろうか。

 私はその理由は簡単だと思う。ぞれは、彼がその初期の詩において思慕し空想した北欧的情緒が、信州に、とくにその戸隠という土地に現実に見出されたからに外ならない。その証拠に、彼はこの土地の風景、自然美という事には大して関心を示さなかった。これは同じく信州を愛しても立原道造とは本質的に違うところである。信夫が愛したのはこの土地の生活であり、またその生活のかもし出す雰囲気であった。

「私は一体、田舎に来ても、風景と云うものには飽きやすい」

 と彼は『戸隠の絵本』で述べている。それよりも「物を云ふ自然」の方がよほど面白いと言うのである。
ここに、彼の戸隠に対する気持ちを最もよくあらわしていると思われる詩があるので、引用してみよう(やはり『戸隠の絵本』中の一章である。)

  爐

主人(あるじ)は最後に お社の後ろで真紅(まっか)な鳥を見た さう云つて話すと一息入れた
──もう話はみんなです 山がお気に入りましたか
──もつと話して下さい 自然のことを
──さてなんだらう 自然と云つて 私達初め まるで立木のやうだで
──ああ さうです あなた方の あなた方のなかにある自然を……

主人は答へず 榾火(ほだ)を掻いた
母親の傍で 末つ子は眠つてゐた 今のいま乾燥(はしゃ)いだ子が もう虫声を枕にして

 この「爐」の持つ雰囲気は、あの暗い木立の下、グレ|チエン挿話の潜む藁蒲団のしかれた家の雰囲気と呼応するものではあるまいか。ただしそれが、いまや西洋文学・文化の知識などなくても、身近に感じ取られるのである。そこで詩人は「あなた方のあなた方のなかにある自然を」聞かせてくれと頼む。つまり彼が求めたのは、人の中にある自然、逆に言えば自然を中に持った人なのである。

 信州戸隠が信夫にこのような意味を持つものである以上、信夫がこの土地を現実と空想とが混交した境地において把えているのは当然である。ここにもう一篇、第三詩集『ある遍歴から』に収められ、かつ『戸隠の絵本』の序ともなった詩をあげてみよう。

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  戸隠姫

山は鋸の歯の形
冬になれば 人は往かず
峰の風に 屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ
「そんなに こうこうつて鳴りますか」
私の問ひに
娘は皓(しろ)い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」

初冬の山は 不開(あけず)の間
峰吹く風をききながら
不開の間では
坊の娘がお茶をたててゐる
二十(はたち)を越すと早いものと
娘は年齢(とし)を云はなかつた

 この詩の中心は、戸隠という、天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)をまつって、かつては修行者たちもこもって大道場を作っていた霊山に生きる少女の生活にあるのだが、生活そのものをうたうというよりはそれを非常に空想的にして、つまりその雰囲気において把えてうたっている。われわれはこの詩に、かつてのリンネルの襯衣を着て胡桃を割っていた少女、ランプの下の縫物と夜の御祈祷をしていた少女の面影を見ないだろうか。この戸隠姫もまたやっぱり「可愛い妖怪」なのである。それがただ、ここでは現実に存在し、生活している少女であるのだ。

 すでに、津村信夫の詩には思慕の夢があると言った。それを彼は現実のうちに探し求めた
のだが、今やこのようにして、彼は信州に、戸隠にそれを発見したのであった。そして彼は、その現実の中の夢をうたい続けたのである。しかも彼は徹底的にそれをなした。ということはつまり、徹底的に思慕に生きたということである。この間に、彼の言葉は現代詩の知的外国臭を見事に脱して、すっかり素直な日本語になり、多くの作品で散文詩と呼ぶべきものになっている。

     〇

 さて、以上で私が津村信夫について言いたいことは終わる。前章の立原道造について考えた一文を読んで下さった方はお分かりだろうが、私はこれらの文章を、詩人研究として、あるいは詩人批評として書いているのではない。私はただ彼らの中にあって私(たち)にないものを、一つでも二つでも探ろうとしているだけなのである。立原道造の場合には私は「つつましさ」ということを強調した。そして今度は「思慕」ということ、あるいは「夢」ということを、詩人の生きた姿だけでなく、詩の技法、詩の用語にも関連して、探り出してみたのである。

 今日の詩人が今日の詩の混沌状態に満足しているのならば言うことはない。津村信夫は彼らにとってすでに過去の詩人である。しかしもし詩の中に何らかの夢、何らかの美の世界の展開を求めるならば、津村信夫はまだ生きているはずである。なぜなら彼はあの暗黒の時代のさ中の昭和19年6月27日、アディスン氏病という不治の奇病(百科事典によると、現在は慢性原発性副腎機能低下症と言うのだそうだ)によって亡くなるまで、それを求める姿勢を失わなかったのだから。

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 しかしここに、私は一つの不安をつけ加えておかなければならない。それはこの夢というやつが、ともすれば人間の批判力と創造力をにぶらせてしまうことである。その故にこそ、これは気難しい現代詩人たちに斥けられているのであろう。この点より見れば、われわれは津村信夫に対してもいろいろと不満を持ち得る。

 ここに一つの面白い評言がある。それは萩原朔太郎が信夫に向かって

「津村君、どうも君の描く女の人は、みんなろくろ首のやうだね。行い澄ましたやうな綺麗な顔をしてゐて、夜になると、首がのびて、油をなめる」

 と言ったというのである。言われてみればその通り、と私も思う。彼の詩の中に出て来る女たちは、いずれも「可愛い妖怪」ではなかったか。そして小説集『初冬の山』の中では、「最終の人々」における戸隠山は旧観修院別当職の娘なる、どこか高貴なところのある女、「碓氷越え」における「笑ふと白い歯の見える、どこか快活なところのある」姉の姪、それからまた「荒地野菊」(この作品ははじめ「怪談」と題された)における眠り薬を求める女性など、いずれもどこかにこの世ならぬ美しさをたたえていて、しかしそのどこかに陰があって、まさに夜になればろくろ首になりそうな気がするのである。

 ただ、萩原朔太郎の真意は知らぬが、私はこのことを批判する気はまったくない。それは一つの立派な美の創造なのである。しかしこういう人間の捉え方が一つの類型になる危険は多分にある。その証拠に、詩と散文の両方を通じて、信夫の作品にあらわれる戸隠の少女はすべて同じような少女であり、少年はすべて同じような少年であり、また神職はすべて同じような神職なのだ。人間はもっとさまざまではないか。

 これは彼が「夢」をもって彼らに接したからであり、彼自身の「生活」をもって彼らに接しなかったからであろう。彼は戸隠の生活をあんなに愛しながら、その生活の中に侵入してはいない。彼はあくまでも雰囲気として、観照的な態度でそれに接したのである。彼は彼自身の家庭をうたった詩もかなりたくさん作っているが、子供をうたった詩を除くと、それらも多くは彼の愛する雰囲気としてうたっている。彼は立原道造に対比して生活の詩人と言われる。しかし彼の作品に彼自身の生活の力がにじみ出していることはまことに少ないと私は思う。その結果、彼には立原道造のように、

弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ

 というたぐいの、魂の叫びをあげた詩は見つけ難い。

 このことは彼の作品を時々平板にしてしまっているように思う。たとえば『戸隠の絵本』では、ここに登場する「私」(つまり信夫)はまことに生彩がなく、ただ戸隠の村人からその生活と感情とを引き出す触媒のような存在になっていて、読者はしばしば退屈を感ずる。またその小説類にしても、たとえば堀辰雄がかくし持っているような果敢さはほとんどないと言ってよい。津村信夫は夢に生きた。私はそのことを非常に勇ましいことだと思う。われわれには夢が許されていない、などと言うのはさかしらな懦者の言にすぎない。ただ、その夢を絶えずわれわれの生活によって鍛冶しないと、夢はその存在の力を失って、せいぜいろくろ首の美人ほどのものになってしまう、と私は思うのである。

                                                        昭和33(1958)年3月14日

テキスト
津村秀夫編『津村信夫詩集』角川文庫、昭和27年3月
三好達治他編『日本現代詩大系第九巻』河出書房、昭和26年10月  『愛する神の歌』『父のゐる庭』『ある遍歴から』を抄録。

参考文献
津村秀夫「弟信夫の追憶」(前記『津村信夫詩集』に収録)


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