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3. マチネ・ポエティクの詩人たち

                                    亀井俊介

 「マチネ・ポエティク」が現代の若い詩人たちの真剣な話題に上がることは、ほとんどなくなってきたような気がする。少なくともこのグループの試みが私たちのこれからの新しい詩の創造に何らかの積極的な結びつきを持つものだとは、ほとんど誰も思わなくなってきたようだ。「マチネ・ポエティク」の運動はすでに戦後詩史の一頁に押し込まれてしまったように見える。

 しかしそれは彼らに真にふさわしい運命であっただろうか。──この稿を書くにあたって私が心に抱いていたのはその疑問であった。およそ詩を書こうとする者にとって、定型という事は一つのあこがれであり、目標であるはずだ。韻律を激しく斥ける北川冬彦氏の文章にも、私はそういう意味のことを読んだ覚えがある。とすれば、現代に定型詩を確立しようという「マチネ・ポエティク」の試みは決して簡単に否定されうるものではない、と私は思ったのだった。そして私は彼らの仕事を結集したものといえる『マチネ・ポエティク詩集』を、無理して手に入れて読んでみたのである。しかしはっきり言って、私は言うに言われない失望を感じた。いや、失望と言っては間違いになる。何か、いても立ってもいられないような焦感の感情だ。一方で確かに私の心にふれるものを待ちながら、この詩集はとんでもなく私から掛け離れた存在で、私には面白くも何ともないのである。それはなぜか。

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 その問いに答えるためには、まず「マチネ・ポエティク」なるものの成り立ちを一応見ておかなくてはならない。

 「マチネ・ポエティク」とは、戦争の最中の昭和17年(1942年)の秋頃、当時ようやく学窓を出るか出ないかの年令に達していた若い文学者たち──中村眞一郎、窪田啓作、加藤周一、福永武彦、原條あき子ら──何とすばらしい学者・批評家たちの集団か──によって企てられた文学研鑚会の名である。(その名の由来は、フランスの俳優・演出家ジャック・コポーの劇場で、公演の始まる前の昼の時間に詩の朗読会を行い、それを「マチネ・ポエティク」──直訳すれば詩による昼興行──と呼んでいたことに因むという。つまり公演の前の試演という謙遜表現だ)。

 そして彼らが最も力を注いで追求し、その信条としたのは、定型押韻詩の制作であった。彼らは「われわれの文学の瀕死の衰弱と、更に、わが国語そのものの絶望的な混乱と」を感じ、文学者として「言葉それ自体に対する根本的な反省」と「語そのものの可能性を追求すること」とを自らの使命とした。そこで彼らは範を主として西欧のソネットにとり、この「無双の音楽的詩型」を日本に確立することによって、新しい詩の秩序をこの国に導入しようとしたのである。

 この会は毎月一回集まって、各自の作品を朗読の形で発表し、研究し合っていた。その後、戦争の推移と共に同人が国の内外に分散するという事態を生じ、集会は戦争末期に一時中絶のやむなきに至ったが、戦後、彼らは雑誌『近代文学』や『詩人』などにその主張や作品を発表し、昭和23年7月、単行本『マチネ・ポエティク詩集』を発行して世の脚光をあびたのであった。B6判に近いほぼ真四角の変型判で並製だが和紙に印刷し、全174頁。750部限定出版の、当時としては豪華本である。

 いつであったか雑誌『詩学』にのった戦後十年の詩壇回顧の座談会で、関根弘氏が戦後に一つのまとまりを持った詩のエコールとして最初に記憶されるのは「マチネ・ポエティク」だという意味のことを語っていたのを、私は記憶している。「マチネ・ポエティク」の明確な主張が、とにもかくにも、世の注目をひいたのであろう。

 しかしその世評は必ずしもよくなかった。というより、徹底的に悪かった。北川冬彦のような「散文詩」派が彼らの試みを嘲笑し一蹴したのは当然だが、彼らの最も良き理解者であるはずの三好達治のような人でさえ、完全に彼らの仕事を斥けてしまったのだ。三好氏は彼等の意図は称揚しようとした。しかしそれだけに却って厳しく彼らの弱点をついたのである。

 三好氏は、雑誌『世界文学』の昭和23年8月号に「マチネ・ポエティクの詩作に就いて」を書いて、彼らの作品が「例外なく、甚だ、つまらない」「読者の意慾をかきたてるところの魅力がない、全くない」ときめつけ、その理由として、

一、日本語の声韻的性質は常に一子音一母音の組み合わせが無限に連続して成るものだから、平板で、脚韻の効果は上がらない。
二、日本語の措辞法は主語客語の次に動詞が来るから、原則として動詞が脚韻の位置を占めるのだが、その動詞が日本語では非常に少く、そのため脚韻が単調になる。
三、今の日本語は従来の文章語脈、現在の国語脈、それに翻訳語脈の三つが混在していて不調和だ、

 の三点をあげ、彼らの押韻定型詩は絶対に不可能なことを可能にしようという試みだと説いた。中村眞一郎は『近代文学』の22年9月号で、「マチネ・ポエティク」は「短い一篇の詩が無限の可能性を孕んだままで、詩人の精神の全的な表現となる」ことをめざしていると主張したが、概念は漠然とし、詩感は浮動的な日本語で果たしてそういうことが可能であろうか、と三好氏は言うのである。

 三好氏のこの論文は「マチネ・ポエティク」に対する批判の最も代表的な、そしてまた最も典型的なものと言ってよいだろう。そして私はこの批判に積極的に賛成するものである。いったい、日本に最初にソネットを輸入したのは明治30年(1897年)春、まだ二十歳にも達していなかった薄田泣菫と思われるが、彼は一行を八六音に構成する工夫をしつつも、「而も彼の押韻のみは詮なし」と言って捨ててしまっている。そして泣菫の後、十四行の詩体を借りる詩人はいても、押韻を試み、それに成功した者はなかったと言ってよい。「マチネ・ポエティク」の試みも、その大胆さは買うのだが、不可能を可能にしようという大それた野望に終わったと言わざるをえない。

 しかし「マチネ・ポエティク」批判は、このような日本語の性格の批判で終わるべきものだろうか。なるほど彼らが雑誌『詩人』22年8月号に「マチネ・ポエティク作品集 第一」を発表した時、その解説において福永武彦氏は

「マチネ同人の詩は何れも内容的にフランス象徴詩、或は純粋詩運動の影響の下に立ってゐるが、そうした内容を論じる前に、詩型(フォルム)に関して大方の批判を仰ぎたいと思ふ」

と述べている。しかし彼らの詩が内容的にフランス象徴詩風によって支えられている時に、その表れである詩型だけを取り出して成否を論じるのは、上っ面だけの仕事と言わざるをえない。

 思うに、三好氏が「マチネ・ポエティク」について「読者の意慾をかきたてるところの魅力が全くない」という感想を持ったのは、その定型と押韻に魅力がないということと同時に、その内容にも魅力がなかったからに外ならないであろう。そして本当の問題は、むしろこの後者にあるのではなかろうか。といって、内容が形式に束縛されてしまっているとか、語の分断が多くてイメージが統一されていないとか、そんな皮相のことを言うのではない。問題はもっと根本の、彼らの詩精神ということにまでさかのぼるのである。

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 まず、ここに一篇の詩をあげてみよう。

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  詩法

北の座を示すしるべは乱れ
ここよりは人知らぬ海の道
韻律はかなしい星に生れ
象(かたち)はあこがれる未来の位置

この夢を織るたくみのわざ 我
日と夜とをつなぐ潮路に立ち
みかへれば 清い想ひを語れ
遠い時劫に眠る言葉たち

花はくちびるに笑み 褪せる赤
美は空のもとに泯(ほろ)びる歌か
いな 無辺にひらくいのちを祕め

響きあふ影の無双の世界
巣立ち行く鳥は彼岸に向ひ
象徴の渦はひろがりはじめ

 これはフランスの象徴派の偉い詩人の作品の翻訳ではないし、また日本の明治30年代の終わりから40年代にかけての、蒲原有明が活躍した頃の、当時は無名であったが近頃になってようやく発掘された大詩人の作品でもない。これは先頃の大戦中の昭和18年、大学を出てまだいくらもたたない25歳の青年(福永武彦)によって書かれたものである。この幽玄深遠な詩法の秘密をうたった詩が──と人は驚くかもしれないが、やはりそこには25歳にふさわしい内容の希薄さが見られるようだ。

 それには、まずこの詩の内容を理解してみなければならない。まず、この作者(詩人)はある海辺に立っているものと想定するのがよいだろう。その海は同時に詩の世界をも意味しているのであるが、そして時は夜の暗くなって行く頃。その境に立って彼は、ほろび行くごとく見えながら実は「無辺にひらくいのちを秘め」た「美」を想うのである。そして彼は韻律に、象(かたち)に、また言葉に呼びかけて、その美の詩という形に結晶することを願う。──と、私はこの作品を、何とか、このように解した。

 つまりこれは「一篇の詩が無限の可能性を孕んだままで、詩人の精神の全的な表現となる」というあの言葉の、象徴を駆使しての高度な表現を志したもの、と言えそうなのである。そしてこの詩は、また、各行がすべて十五音から成り、しかも脚韻をABAB、ABAB、CCD、EEDと整えて、ほとんど完璧なソネット形式を踏んでいる。

 だが、さらに子細にこれを味わおうとする人は、この詩に対してたいへんに空虚なものを感じないだろうか。一言に言って、これは読者の魂と触れ合うところがない。いったい現在の私たちのうちで誰が「韻律は悲しい星に生まれ/象(かたち)はあこがれる未来の位置」などということを実感を持って思うであろうか。フランスの詩人たちならば、こういう言い廻しも何ということもなく使ったかもしれない。あるいはそれを一生懸命にまねたひと頃の日本の象徴言人たちもいるだろう。しかし戦後の世代の私たちにはこれはむしろ噴飯ものであるほどなのだ。

 『マチネ・ポエティク詩集』には、もう一つ「詩法」と題する詩がのっている。これも作られたのは戦中の昭和19年で、作者は25歳の加藤周一である。

  詩法

塔は 崩れる 頂(いただき)に おお
満天の星は 夜を 流れ
地平にとどく翼搏つ彼
犠牲(いけにえ)を待つ優美の魔王

花咲く窓は 地に堕ち 已まう
轟く海に 劫を洗はれ
滅びゆく時 心よ さはれ
夢 愛の旗 はかなき虚妄

今は 眠れ ただ 千の期待
薔薇よ 想出に飽く眠り
死を 流れ去れ 時の波間を

見ずや 星は逝かず 幾世代
伝へた銀の夜の冠
掲ぐるは 彼 久遠の魔王

 この詩はイメージが次から次へ噴出して来るばかりで、全体の想いは私には一向に捉えられないのであるが、時はやはり夜で、場所もやはり空がいっぱいにひろがる海を想像するのがよいらしい。そこにあって詩人は「はかなき虚妄」のこの世に、永遠に亡びざる星、すなわち「幾世代/伝へた銀の夜の冠」を掲げた「優美の魔王」、玄妙な詩神の力を思っている(らしい)のである。

 しかし、ここでもまた私は堪えられないほどの空虚を感じざるをえない。「薔薇よ 想出に飽く眠り/死を 流れ去れ 時の波間を」いったい、こうした想念は現実に生きた人間の魂の奥底から生まれて来るものなのであろうか。

 この詩人たちの「詩法」とは要するに、「永遠」の「美」の定着であった(らしい)。そのために彼らは全力をつくして言葉の可能性を追求した(らしい)のである。しかしそうして表現されたものがこのように空虚であったのは、そこに単に言葉の問題だけではすまない、ある致命的な欠陥があったからだと思わずにはいられない。そして、それは彼等の詩精神が借りものであったことによると私は思う。

 「マチネ・ポエティク」の同人は自ら認めて「フランス象徴詩、或は純粋詩運動の影響の下に立ってゐる」と言う。私はそのこと自体は何ら批難すべきことではないと思う。象徴詩、純粋詩を有明以後40年もたつた昭和17、18年頃に試みようというのは、時代感覚の欠如も甚だしいという議論も成り立つかもしれないが、私は必ずしもそうは思わない。

 むしろ社会の諍乱が激しく、『大いなる日に』とか『をぢさんの詩』とかいうような詩的想念とは無縁な詩集がもてはやされ、私たち当時の小学生(国民学校生徒)でさえ戦記物以外の読み物はいかなるものも読むことを禁じられていた時代に、一群の若い青年が毎月一回集まって、純粋美に想いをこらしていたということは、私にはたいへん有難い、心の安まることである。それは単に戦争に対する反動であったかもしれないけれども、その反動こそ人間の魂の尊さを示すあらわれだと、そんなロマンチックにさえ私は考える。しかし彼らはその純粋美を彼ら自身の存在の苦しさでもって鍛え上げようとはしなかった。そのためその美が空虚になってしまったのではなかろうか。

 こんなことを言うと、あるいは、生活の要素の入った詩はもうすでに純粋詩ではないという反論が出るかもしれない。しかし私が求めるのは、生活の要素が詩の中に入ることではない。そういう詩はむしろ概してつまらないものだという事は、私も知っている。私が言いたいのは、生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだということである。「我々も亦、マルラメから始めなければならない」と彼らは言う。その美意識に私は何の異議もさしはさまない(私はマルラメとまったく無縁に生きてきたけれども)。ただこういう言い草そのものに、私は頭で練り上げた理論の空しさを感じる。

 「マチネ・ポエティク」の詩集は、こうして、一面では時代に見失われていた美のひそやかな探求の試みが実はなされていたことをわれわれに知らせて、私の心には深くふれるものがあったのだが、その探求の態度にわれわれの「生」と根底においてつながるところのなかったことが、私の心にいても立ってもいられないような焦感の感情をもたらしたのである。

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 『マチネ・ポエティク詩集』には「詩の革命」と題する壮大な詩論を展開した序文がのっている。それはまず現代までの日本の詩の展開を説き、それからフランス象徴派の理論を紹介して、われわれもまた浪漫派や高踏派的な心象風景の描写の域に止まっている詩から脱して、語の視像と音楽性とを新しく発見し、その新しい可能的な配列から、未知の詩的世界を喚起し点ければならない、と主張している。彼らは「魂の舞踏の生けるままの喚起」を問題とするのだ。

 しかしこの主張にとって致命的なことは、その「生けるままの喚起」されるべき「魂」そのものの実態が少しも問題とされていないことである。まるで魂は表現することによって創造されると信じているかのようである。私は本末まったく転倒していると思う。表現することが創造に結びつくことは確かにあるが、それは表現する魂が根底において生きている限りにおいてのことだろう。立原道造にしろ津村信夫にしろ、一個の生きた人間としての情なり知なり、あるいはその合体した「生」(生活、生命)を以て表現した。だからまことに弱々しげだが、生きた魂の創造につながった。だがここに言う魂には、個々の人間の生とのつながりがなく、抽象的で「未知の詩的世界」に拡大するかのようだが、実は拡散してしまって、空しさが残るのである。

 このことに関連して私の興味をひくのは、『マチネ・ポエティク詩集』に三年遅れて出版された『荒地詩集1951年』の序「Xへの献辞」という文章である。これは「現代は荒地である」と、われわれのおかれた位置を想定する。そして、この荒地に生きるという暗い経験世界の終末的な幻滅感から一條の光線を摘みとるためには、われわれの中に「人類の遺産と罪の伝統」を認めなければならないという。これは言うまでもなく第一次世界大戦後のイギリス詩人の説いたところであり、今次の大戦後にも多くの詩人の実感しているところである。

 「荒地」の考えはその発想もその措辞もエリオットやオーデンの輸入であるところが多く、時々、私は彼らの詩にも他人の蓑を借りたポーズを感ずる。しかし「マチネ・ポエティク」がマルラメから始められたのに対して、「荒地」が現実のわれわれの精神の風土から出発しようとしたことは、文句なしに大きな可能性を約束し、また私たちの心をひきつけるのだ。

 「Xへの献辞」はまた言う。

「どうして僕等の生活のすべてが絶えまのない詩作課程ではないのか。僕等が思索し行為する。その生の普段の契機のうちに、一つの調和への希求と、一つの中心への志向なくして、どうして僕等は思索したり行為したりすることに意義を認めることが出来よう」

 と。こうした観点から彼らは「言葉を肉体にすること」こそ現代の詩人の使命と自覚し、「言葉を高い倫理の世界へ押しすすめて」行こうとしたのである。

 思うに「Xへの献辞」は『マチネ・ポエティク詩集』の序「詩の革命」に対するアンチ・テーゼとしての意味を多分に持っている。「詩の革命」は「言葉をその概念的符号としての役割から解放する」と言う。それは正しいことに違いない。しかしそのことがさらに、苦闘する魂と無縁の世界に言葉を解放するということになった時、たとえその世界を純粋美と名づけようとも、現代の現実に生きる私たちにはたまらなく空疎に思われるのだ。

 「マチネ・ポエティク」の場合、言葉の象徴的使用そのことが彼らの現実を凝視する眼を弱らせ、彼らを一種の判断中止に導いている。いわば表現だけが幽に玄に浮動しているのだ。これこそ彼らの詩をもっとも致命的にしていることだと思う。

     〇

 以上で私は「マチネ・ポエティク」の試みが、その意図に反して、読者に何の感興も呼ばないで終ったことの原因を、その詩精神ということに関連して、少しばかり考えてみたつもりである。さらに私は、詩精神からの表現の遊離、あるいは詩精神が未確立なところからの表現の展開ということが、その象徴的語法のかくれ蓑にもかかわらず、彼らの詩の世界の中身の稀薄さを露呈していることをさまざまな例をあげながら述べるつもりであった。しかしもう私はそれを走り書きで終わらせることにしよう。

 第一に言いたいことは、彼らは「未知の宇宙の創造」ということを主張するけれども、実はその創造された世界は案外に陳腐なものだということである。先に引用した福永氏の「詩法」という詩にしても、25歳の青年の作とは思えないほどの意味ありげな言葉が並びながら、

みかへれば 清い想いを語れ
遠い時劫に眠る言葉たち

 などというのは、何とまあ古くさい発想の裏返された表現に見える。原條あき子という詩人は、

花は褪せてお前の頬に融け
星は堕ちてお前の眼に沈み
愛の嵐に生れ雪を踏み     (「頌歌」)

などという何とも流行歌的な表現をつらね、窪田啓作という後の『異邦人』の訳者は、

息絶える暁に 花はひらく
処女(きむすめ)は羞らひの胸に百合   (SONNET XIII)

 というような詩句を作っている。その他、例をあげるのはもうよすが、「海」とか「夜」とか「薔薇」とか「死」とか──そういう彼らの得意の言葉にしても、常に固定した観念を従えているように見えるのである。

 そして次に言いたいことは、すでになした引用からも明かだと思うが、彼らも実は感傷的なロマンチストだったということだ。たとえば原條あき子の「髪」という詩は『マチネ・ポエティク詩集』の中では佳品に入るべきものだと私は思うが、ボオドレエルの影響を大きくうけ、その用語をふんだんに取り入れながらも、

わたくしのこの髪 想ひに透かし
仰げば生を編む望みのかげに
くしけずる朝ごとに花花かざし

 と結んだのは、何とまあ23歳の文学女性らしいことだろう。また中村眞一郎にしても、

森よ、御寺よ そよ風よ、
燃える緑の明日のかた、
仄かに香る想ひ出よ、
炎に歎く愛の旗。──         (「朝の風」)

 というような表現を氾濫させている。

 断っておくが、私は詩における感傷を斥けようなどとは少しも思っていない。窪田啓作の

過ぎてゆく波のほとりにただふたり
過ぎてゆく光をながめ

 云々と続く「水のほとりに」という題の徹底的にセンチメンタルな詩(この詩集では例外的にソネット形式ではない)など、私はむしろほほえみをもって読んだし、雑誌『詩人』の22年2月号に発表された福永武彦の「晩い湖」も、湖における少年の所信があざやかに美しくうたわれた詩として感心して読んだ(なおこの詩は2行を1聯として6聯から成っているが、この場合は、AA、BB、CC……と続いた脚韻がかなり成功していると思った。)

 問題はむしろ、少数の例外をのぞいて、彼らがその感傷を発展させなかったところにあるような気がする。彼らはみな「ヨーロッパの詩に通じてゐた」と自ら言っているが、そのことがかえって彼らの感傷の純化を妨げたのではないか。ヨーロッパの詩のかくれ蓑は、彼らの生活に対する眼を遮ると同時に、彼らの詩情を鈍化もさせたのではなかろうか。そうでなかったら、彼らの詩の世界は彼らのすぐれた知性に支えられ、もっと内容豊かになりえたと思えてならない。

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 私はいま、芸術の創造ということの難しさをつくづくと思う。「マチネ・ポエティク」の同人は大部分がすぐれた学者であり批評家であり小説家でもあったのだが、彼らの詩は結局、魂の芸術から遠いものであった。彼らが本質的に詩人であったかどうかというような議論はここでは意味がない。彼らの詩の試みは完全に失敗であった、ということがここでは問題なのだ。

 しかも彼らの意図したところは少しも正しさを失ってはいない。

「マチネ・ポエティクの同人は、詩は日本語に於いても定型詩に限ると言うのではなく、ただ、自由詩(その多くは散文を行列に並べたに過ぎない)の作者達の無研究、無批判な独善的態度に対して、日本詩の未来の一方向を指示したいと思うばかりである」

 と福永武彦氏は言う。

 ではわれわれはどうしたらよいのだろうか。私にその解答はない。しかしあるとすれば、それはもっともっと素朴なところから、「言葉を肉体にする」努力を絶えずつみ重ねて行くところから、得られるのではないかと思う。

 だがそれが、エリオットやオーデンの直輸入によってではないことは勿論である。もっとつつましい、私たちの「生」をもとにした、もっと原初的な言葉への愛──それが今の私たちには何よりも必要なのではないだろうか。

テキスト
『マチネ・ポエティク詩集』眞善美社、昭和23年7月

参考文献
三好達治「マチネ・ポエティクの詩作に就いて」『世界文学』昭和23年


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