『続々・中部日本の詩人たち』投稿者:やす 投稿日:2010年 6月23日(水)00時09分34秒 |
このたび多治見在住の織部研究家、久野治様より詩人伝記シリーズ第3弾『続々・中部日本の詩人たち』の御恵送に
あづかりました。 さきの二作に於いてもさうでしたが、地元中部詩壇の生き証人としての翁(御歳87歳)に、私が一番求めて已まぬのは「あの詩人はこんな恰好でこんな顔を してこんな風に喋るこんな癖のある人だった」といふ、詩人が遺した著作からは窺ふことのできない印象記でありました。このたびも翁の「肉声」を探しながら の拝読でしたが、3冊目ともなると直接交流のあった人も少なく、この点は憾みとして残ったかもしれません。一方これまで出番なく隠れてゐた詩人が、今回も ビッグネームと同等のページ数を割かれて紹介されてをり、同人誌の連載だったからでせうが、地元で刊行された意義に感じたり、また連載が一人に余る分量の ときには、周辺の詩史や所縁詩人の紹介もふんだんに挿入して「道草」してをられるのを、執筆の御苦労として偲んだ個所もございました。もとより翁御自身の 一大伝記をこそ書き起こして頂きたい気持ちは今も変りませんが、かうして今3冊を揃へて並べて見ますと圧巻の観を禁じ得ません。 稲川勝次郎詩集『大垣の空より』のテキストが、何篇も印刷に付されるのはこの本が初めてでありませうし、一方詳しく書いてほしかったのは「詩文学研究 会」の大所帯を率いてゐた梶浦正之の、戦前戦後をまたぐ消息でした。詩文学研究会の 叢書詩集からは、書かれてゐるやうに木下夕爾の『田舎の食卓』のやう な、後世に残る名詩集も輩出してゐますが、多くは無名で、それも出版事情が悪くなる戦時中、同人達が戦地へ赴く際に遺書のやうな気持をこめ て刊行した、地 味ながらつつましい小菊のやうな印象を与へる詩集が多いやうに思ひます。最後はガリ版刷で刊行が続けられた事情の一切を、主宰者であ る梶浦正之は把握して ゐる筈であり、感慨もつきぬものがあったでせうから、戦後、実業界に転じたのち回想が残されてゐないのは残念と云はざるを得ません。一体何冊刊行されたの か、書誌の全貌さへ未だにわかってゐないので気長に採集してゆきたいと思ってゐます。 ここにても新刊のお慶びとともに篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 『続々・中部日本の詩人たち』中日出版社:2010年 05月 367p 収録詩人:金子光晴・福田夕咲・稲川勝次郎(敬高)・佐藤經雄・浜口長生・錦米次郎・春山行夫・梶浦正之・稲葉忠行 『続・中部日本の詩人たち』中日出版社:2004年 01月 309p 収録詩人:伴野憲・中山伸・長尾和男・鈴木惣之助・中条雅二・坂野草史・和仁市太郎・吉田曉一郎 『中部日本の詩人たち』中日出版社:2002年 05月 322p 収録詩人:高木斐瑳雄・亀山巌・北園克衞・佐藤一英・日夏耿之介・丸山薫・殿岡辰雄・ 平光善久 |
感謝投稿者:kiku 投稿日:2010年 6月 8日(火)01時15分37秒 |
詳細な
書誌情報、ありがとうございます。早速注文したいと思います。 “鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた”あたりの事情も面白そうですけど、やすさま仰るように、講演やインタビューでの発言に結構な本音が垣間見れ るんじゃないかなァ、なんて思ったものですから。 「燈下言」もわざわざアップしていただき、ありがとうございました。 三好の論評はまさしく正論ですね。どれほど機智に富んでいようと、それを“これ見よがし”に示し、己が機智を誇るために詩をつくる詩人なんてつまりません からね。杉山氏が指摘された「浮薄の手つき」は所謂若書き故でしょうし、こうした叱咤激励、薫陶を受けたからこそ、詩人杉山平一として確固たる軌跡を刻む 事ができたのでしょう。 それにしても、「懼れてもなほ懼れ足りない、夢寝にも忘るべからざる金戒であらう」との提言、時代やキャリアに関係なく、今なお(否、今だからこそ)以て 銘とすべき言説だと思います。 って、話がちょっと脱線しちゃいましたネ。妄言多謝。 |
(無題)投稿者:やす 投稿日:2010年 6月 7日(月)10時28分12秒 |
kiku
さま、こちらではおしさしぶりです。 書誌を記し忘れてをりました。まだamazonにはupされてゐないやうですが、 安水稔和著 『杉山平一 青をめざして』価格:2,415円 :編集工房ノア :2010 年6月:235ページ/20cm ISBNコード:9784892711831 です。 旧「モダニズム防衛隊」(過去ログ参照 笑)としては「鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた」なん一文は聞き捨てなりませんよね。その後に続き、 三好達治から創刊間もない「四季」で自分の初期の投稿詩が没にされた上、誌上でダメだしされた思ひ出を語ってらっしゃるんですが(130p)、そこで先生 が反省されるところの「これ見よがし」のウィットや「手振」なんてのは謂はばモダニズムの表情であって、それを矯めるなんてのは、それこそ 「詩と詩論」から決別した当時の三好達治の事情ではあっても、新人にとってはモダニズムの芽を摘むことに他ならない訳です。まあ、小賢しい機智を弄する二 流のモダニズム詩人なんかにはなるな、と、入選ラインを高くすることで若者を惹きつけてゆく三好達治の「師」としての手振が一枚上手だったといふことなん でせうが、先生そのあとに、「本当の意味がわかるのに数年かかりました」なんて殊勝に仰言ってます。もちろん「四季」の詩人として自分のスタイルを見定め 得たからのことですからね、杉山先生の言葉は大阪弁の簡単な一言に含蓄がひそんで居ったりする、講演はそこがいいですね。 |
(無題)投稿者:kiku 投稿日:2010年 6月 7日(月)02時39分35秒 |
大変ご
無沙汰しております。 ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。 ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか? |
『杉山平一 青をめざして』投稿者:やす 投稿日:2010年 6月 6日(日)23時07分18秒 |
『伊東静雄日記 詩へのかどで』投稿者:やす 投稿日:2010年 6月 2日(水)13時17分32秒 |
昨日
はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。 用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノート を、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光 雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生 とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同 情するところです(笑)。 此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に 関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資 料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるもの かどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現 代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係って そこにありませう。しかしながら編者が、 「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と 相違点とに、 なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これは とてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、 (十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編 集後記522pより) と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。 詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から 1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京 都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることが できるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年 にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時 代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。 「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書かれた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は 山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。 このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中 略) 本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、 坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略) (編 集後記より) 『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行 内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日 ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日 ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日 ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日 ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日 編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏 ¥7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1 【参考】asahi.com(朝日新聞社) 2010年5月13日記事リンク |
『遊民』創刊号投稿者:やす 投稿日:2010年 6月 2日(水)12時14分49秒 |
職場の図書館まで資料レファレンスにお越 し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 4〜15p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。
岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後
は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現
代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にも
なった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレ
ゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味
した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往
生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。 とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76歳(!)、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げま
す。ありがたうございました。 |
10万アクセス御挨拶投稿者:やす 投稿日:2010年 5月 7日(金)09時45分28秒 |
サイ
トのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、こ
の10年間で10万ア
クセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さま
には厚く感謝を申し上げます。 顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、 先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者 や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース 的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事 業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流に フォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。 電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野です が、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの 分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大 な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばか りか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれ た先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自 身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いで す(笑)。 このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様 ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文 化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方 が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません。 感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。 読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま 写しました。ご覧ください。 |
ニュース 三つ投稿者:やす 投稿日:2010年 5月 2日(日)10時37分5秒 |
目下
『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定
との進捗状況をお知ら
せ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるの
でせうか、たのしみです。 さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目 録』(1986年)があるかもしれません。今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興 味津 津です。ただし全ページ高価 な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。(2010.8.31編集済) ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万 人・・・是亦感無量哉 |
連休週間投稿者:やす 投稿日:2010年 4月29日(木)19時21分6秒 |
さき
に二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文
(『清廿四家詩』について
「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読
ませて頂いてをります。 さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には 藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。 また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。 連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。 『幼学詩選』 序 某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不 便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首 をも加へ、而して之に授く。 一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如 何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる 所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶 を好めり。唫唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂 「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。嘿[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やが て)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、 是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。 跋 余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜 牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世 は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、 幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に 先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽 薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地 下にて破顔するべし。 時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月) 藤城山人(村瀬藤城) |
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追悼投稿者:やす 投稿日:2010年 4月22日(木)22時50分33秒 |
とりいそぎ投稿者:やす 投稿日:2010年 4月21日(水)23時49分38秒 |
もう帰
らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。 存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。 匿名氏の二宮佳景[鮎川信夫ペンネーム]さん、お報せありがたうございました。 http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm |
追悼 堀多恵さん投稿者:二宮佳景 投稿日:2010年 4月21日(水)21時07分28秒 |
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宵島俊吉『惑星』投稿者:やす 投稿日:2010年 3月10日(水)00時54分39秒 |
山中富美子の年譜と、高祖保の評伝投稿者:やす 投稿日:2010年 3月 1日(月)20時59分3秒 |
さき
に刊行をお知らせした『山中富美子詩集抄』所載年譜の追加訂正につい
て、坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子:西日本文化443号」に記述がありましたので転載します。お手許にお持ちの方は印刷して貼り付けておくと
よいかもしれません。 「1914年(大正3年)1月15日 岡山県倉敷町に堀内喬・さわの二女として生まれる。四歳のときに、山中馬太郎・伊勢夫妻の養女となる。養父の仕事 (鉄道省勤務)の関係で岡山に居住、養父の本籍地は高知市南新町(現・桜井町)。1931年(昭和6年)四月、福岡県小倉市篠崎へ移転。その後、城野 (現・北九州市小倉南区城野四丁目)に養父が自宅を購入、長く住む。1963年(昭和38年)6月養母、1967年(昭和42年)12月養父と相次いで死 去。養家に兄弟姉妹なく、岡山の縁戚関係も断ち、天涯孤独となる。2001年(平成13年)2月、認知症などで小倉北区内の病院に入院、2005年(平成 17年)6月26日、同病院で老衰のため死去」坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子」《西日本文化》443号(2010.2)37-43p より。 また同じく「椎の木」ブランドの抒情詩人である、高祖保の初めての評伝が刊行されてゐることを知りました。早速注文、モダニズム抒情詩の愛好家にとって 必携の一冊となりませう。装幀・内容ともに掬すべき限定本です。 『念ふ鳥』(外村彰著 2009.8 龜鳴屋刊。A5変型上製 424p 限定208部 ¥8000)。 なほ、刊行元の龜鳴屋では、わが職場岐阜女子大学の卒業生でもある金子彰子さんの処女詩集『二月十四日』が、続く最新刊として発売中です。一緒にどうぞ。 【その他 古書目録記事より】 扶桑書房より100号目録が到着。 『宮澤賢治全集』 文 圃堂版3冊揃 (11p) 札幌の弘南堂書店2010年国際稀覯本フェア出品目録より 四季萩原朔太郎追悼号原稿 (7p) |
『躑躅の丘の少女』投稿者:やす 投稿日:2010年 2月11日(木)23時47分31秒 |
さて 随分ひっぱって予告しました四季派の閨秀作家の遺稿集ですが、Book Reviewにupしました。後日また書き足すかもしれません。 |
近況:『山陽詩鈔』ほか投稿者:やす 投稿日:2010年 2月11日(木)23時45分52秒 |
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出張帰還投稿者:やす 投稿日:2010年 1月31日(日)20時34分17秒 |
奥平
さま、御無沙汰してをります(「なんとかテレビ」…(^∀^;))。 購入した本は古書でしたので、正誤表は入ってをりませんでした。年譜をみればどちらが正しいのか判断つくことなので心配ないと思はれますが、もちろん誤 植は当事者にとっては居たたまれない関心事です。追ってこの掲示板で御紹介する予定の本も、編者の方がたいへん気を揉んでおいででしたが、私などはそれに 懲りてこのやうなホームページを公開形態に択んだといってもいいかもしれません。 さてこの週末は再び遠地への出張でした。年明けには在京の人々と合流、久闊を叙すことが叶ひましたが、今回は北陸転戦の途次、金沢で大正詩研究の竹本寛 秋先生と蓋かたむけて語り合ふ機会を得ました。口語詩の成立過程を専門にされる竹本さんで すが、大学では文学ではなく教育系情報学のエキスパートとして重宝されてゐる由、学部改組をめぐる状況は国立も私立も変はりがないやうです。 また日常の移動は自転車に限るとか。Linux系を能くするインターネット草創期からのエンジニア。でありながら、仕事(飯の種)とは別に今どき文化に 熱中する時間も惜しまない。そんな別々のベクトルを共通項として持ってゐるハイブロウな人がすでに自分の周りにはこれで三人も居り、もはや符合ではなく世 代交代が進みつつあることを思ひ知った感じです。 とまれ一陽来復づくしの竹本先生には、今春の故郷北海道への喬遷を控へての得難い歓談となりました。ありがたうございました。 一方、北国の風にあてられたものか体調をくづして帰ってきたら、家では年越しのごたごたが待ち構へてゐました。こっちはうすら寒い春を迎へさうな予感 に、もう滅入りさう。 |
日塔聡詩集について投稿者:桜桃花 投稿日:2010年 1月31日(日)00時40分49秒 |
こんば
んは、いつもいろいろ教えていただいてありがとうございます。 「日塔聡詩集」をお贈りしようかと思いながら忘れてしまって申し訳ありません。 私も安達先生から教えていただいて20冊ほど土曜美術社から送ってもらいました。 さしあげなければならないかたをメモしながら、小屋改築、荷物の引っ越しなどに追われ忘れていたのを中嶋さんのホームページを拝見して思い出しました。 この出版により「鶴の舞」と「鶴の舞以後抄」そのほかのいろいろな詩に出会えて、とても貴重なお仕事をしていただいたと思っています。 お気づきとは思いますがP139にある日塔貞子死去の年が昭和49年となっています。 どうしたらいいかと迷いましたが、土曜美術社に連絡したところ正誤表を入れたいということでしたが入っていましたでしょうか。 娘が「東京かわいいテレビ」拝見したそうです。私は見逃しましたがインターネットで見せていただきました。 これからもどうぞよろしくお願いします。 |
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上京報告その他投稿者:やす 投稿日:2010年 1月11日(月)21時37分44秒 |
上京
中、古本連との楽しい語らひの他、小山正孝ご子息正見さまと大変有意
義な歓談に時を過ごすことができましたこと、あらためて御礼申し上げます。ありがたうございました。 ではこの連休、東京で1泊した収穫を御報告。 『日塔聡詩集』 (2009土曜美術社)。やはり一年に一度は神保町界隈を歩かないといけませんね。刊行 を知りませんでした。詩人については詩集『鶴の舞』をのぞけば、雑誌「曠野」での追悼号(1984)、そしてさきに安達徹氏によってまとめられた『雪に燃 える花 詩人日塔貞子の生涯』(2007改版)において触れられてゐることが情報の殆どだったのですが、件の雑誌追悼号の入手が困難な現在、編者によるあらたな解 説を付したコンパクトな決定版の刊行は意義深く、多くが自費出版とおぼしき新叢書ラインアップにあって抜きんでた一冊となるものと思ひました(『鈴木亨詩 集』もさうですが、旧「日本現代詩文庫」の一冊として刊行して頂きたかったです)。 『北方の詩』高島高詩集 (1938ボン書店)。ボン書店らしからぬ凡様の装釘と思ひきや、表紙は2種類の紙を使用。復刻版(1965)とは似て非なるものでした。(田村書店に て) 『山中富美子詩集抄』 (2009森開社)。これまた刊行を知りませんでした(田村書店に立ち寄ってよかったナァー)。 1983年に『左川ちか全詩集』を刊行した森開社の快挙 ですが、左川ちかの方も拾遺を収めた改訂版が再び計画中なのだとか。かたや乾直恵が恋に落ち、かたや伊藤整に恋に落ち、と詩人の恋愛ゴシップが有名です が、ともに成就しなかったのは知的抒情とはおそらくちっとも関係ない理由からなんだらうなと、かつて『左川ちか全詩集』や上田周二氏が著した評伝『詩人乾 直恵』に載せられた写真を見るたびに思ったことでした。ところが今回の刊行の後日談と して、病弱を恥じて文学上の知友と会ふのを拒み、突然筆を折っ て行方知れずになってしまった薄 倖の佳人山中富美子が、実は2005年、北九州の病院で老衰のためひっそりと息をひきとってゐたといふ事実が分かったのだといひます(享年91歳)。夢を 抱いて上京し病魔に斃れた「おちかさん」に対する追悼が、24歳の文学的才能に鍾るものであるのと同時に、文学と縁を切り地方に埋もれることを覚悟したこ の詩人の謎の後半生もまた、明らかになって欲しい気がする反面、謎のままでも良いぢゃないかと思ふのは、夢を封印した彼女の意思を尊重するといふより、 やっぱり私がつまらぬ男であるからかも知れません。とまれ初の集成は208p限定300部¥3800、知らずに買へなかった人、恐らく後悔します。 雲のプロ フイルは花かげにかくれた。 手巾が落ちた。 誰が空の扉を開けたのか。 路をまがつて行くと石階のあるアトリヱだ。 いつもの方角へかたむいて、扉までとどいた日影が、のびて行く所は昂奮する氣候を吐き出す白い海岸だ。 そこはすつかり空つぽだ。そこで海はおとなしい耳を空へ向けてゐる。(後略) (「海岸線」より) 「モダニズム詩人荘原照子聞書」 さて、この詩集を編集された小野夕馥氏は、左川ちかとの対比とともに謎に包まれた晩年を送った荘原照子との類似を指摘されてゐます。しかしこのたび手皮小四郎様よりお送り頂いた雑誌「菱」の連載「荘原照子 聞書」では、山中富美子が為し得なかった結婚と出産と生活の苦労について多くのページが割かれてゐまして、ここからは前回掲示板で触れた所にさかのぼりま す。 雑誌「菱」168号(20101.1詩誌「菱」の会発行) 手皮小四郎「モダニズム詩人荘原照子聞書」第9回「鎌におわれて故郷をたつ」38-47p 妻子ある牧師男性との結婚は、初恋の人に対する当てつけの気 持が働いてのことではなかっ たかといふ疑念。そして姓が変ったといふことは、病弱な前妻は二人の子を彼女に託し入院ののち亡くなったといふことになるのでせうか。罪ふかき彼女自身が 生んだ子供の名についても「どんな漢字を当てたのか知らない」と書かれてゐることが、すでに非常な不吉な次号以降を予感させるものです。そして詩人はこの 「できちゃった婚」によって故郷山口を追はれ、牧師失格の夫と岡山で新聞屋を始めるのですが、彼女自身あまり健康でないのに、子供たち3人を抱へての家業 の切り盛りに堪へうる筈もなく、加へて出奔直後の父の急死に際しては、おそらく葬儀には参列できなかったであらうといふ客観的な考察も下ります。この時代 に「後年のモダニズム詩の対極にある作品」が書かれたといふ事実、それは彼女のモダニズム精神が山中富美子とは異なり静謐な生活に育ったものではない証左 ですけれども、さらに新しい職を求めて一家が金沢へ発ってゆくところで今回は終了してしまひます。 小兎よ わたしの草原を飛び去って もう帰らぬと思つてゐた おまへの姿を 今朝 わたしはみいだした わが子の 愛しい身をおほへる うす紅色のアフガンに ※嬰児を包むおくるみ (「兎模様のアフガン」より) 普通の伝記とは異なり、年譜が謎だった人物に関 する「新事実」と「稀覯作品」とが次々に明らかにされ、また敢へて距離を置いた視点で考察してゆく様は、 今回特にスリリングです。ハラハラさせられるとともに次号が待ち遠しく、毎回連載で部分的に紹介されてゐる初期作品たちの完成度の高さを見るにつけ、こち らもいづれ全体がまとめて公刊される機会の来ることを、祈らずはゐられなくなって参りました。作品だけ公刊されて伝記が謎のままとなってゐる山中富美子と は正反対で、小野氏がブログで「恨めしい限り」の運命と白されてゐること、よく分かります。 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 さてさて新刊の『山中富美子詩集抄』ですが、検索しても書誌や書評の類の情報はあんまりヒットして参りません。刊行元ほか一部の書店にしか販路を持たな いからでせうが、茲に検索結果が全く出て来ない、四季派マイナーポエットと呼んでも差し支へない無名の閨秀小説家の遺稿集の一冊があります。(おそらく) 昨年編まれました。正月明けに御遺族からその500ページにも亘る一本をお送り頂き、先週の出張往復の車中ずっとその集成に読み耽ってをりました。感慨一 入、御礼状さへ未だ認めてをりませんが、次回以降に紹介したいと思ひます。 |
寄贈御礼投稿者:やす 投稿日:2010年 1月 5日(火)21時52分6秒 |
年明
けまして、皆様方から忝くしましたご寄贈を前に大変恐縮してをりま
す。このささやかなサイトを通じて賜りました御縁に対しまして、あらためて深甚の謝意を表すべく厚く御礼を申し上げます。 石井頼子様、棟方志功カレンダーをありがたうございました。早速和室に掲げさせて頂きました。さういへば今年は保田與重郎生誕100年祭ですね。 手皮様、富田様、明日より週末一杯出張のため、来週以降にゆっくり御報告させて頂きたく、取り急ぎのお礼のみここにても申し上げます。 ありがたうございました。 |
謹賀新年投稿者:やす 投稿日:2010年 1月 1日(金)09時39分25秒 |
今
年もよろしくお願ひを申上げます。 (元画像は匿名氏より) |