も どる

2010年1-6月 日録掲示板 過去ログ


『続々・中部日本の詩人たち』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 6月23日(水)00時09分34秒
   このたび多治見在住の織部研究家、久野治様より詩人伝記シリーズ第3弾『続々・中部日本の詩人たち』の御恵送に あづかりました。
 さきの二作に於いてもさうでしたが、地元中部詩壇の生き証人としての翁(御歳87歳)に、私が一番求めて已まぬのは「あの詩人はこんな恰好でこんな顔を してこんな風に喋るこんな癖のある人だった」といふ、詩人が遺した著作からは窺ふことのできない印象記でありました。このたびも翁の「肉声」を探しながら の拝読でしたが、3冊目ともなると直接交流のあった人も少なく、この点は憾みとして残ったかもしれません。一方これまで出番なく隠れてゐた詩人が、今回も ビッグネームと同等のページ数を割かれて紹介されてをり、同人誌の連載だったからでせうが、地元で刊行された意義に感じたり、また連載が一人に余る分量の ときには、周辺の詩史や所縁詩人の紹介もふんだんに挿入して「道草」してをられるのを、執筆の御苦労として偲んだ個所もございました。もとより翁御自身の 一大伝記をこそ書き起こして頂きたい気持ちは今も変りませんが、かうして今3冊を揃へて並べて見ますと圧巻の観を禁じ得ません。
 稲川勝次郎詩集『大垣の空より』のテキストが、何篇も印刷に付されるのはこの本が初めてでありませうし、一方詳しく書いてほしかったのは「詩文学研究 会」の大所帯を率いてゐた梶浦正之の、戦前戦後をまたぐ消息でした。
詩文学研究会の 叢書詩集からは、書かれてゐるやうに木下夕爾の『田舎の食卓』のやう な、後世に残る名詩集も輩出してゐますが、多くは無名で、それも出版事情が悪くなる戦時中、同人達が戦地へ赴く際に遺書のやうな気持をこめ て刊行した、地 味ながらつつましい小菊のやうな印象を与へる詩集が多いやうに思ひます。最後はガリ版刷で刊行が続けられた事情の一切を、主宰者であ る梶浦正之は把握して ゐる筈であり、感慨もつきぬものがあったでせうから、戦後、実業界に転じたのち回想が残されてゐないのは残念と云はざるを得ません。一体何冊刊行されたの か、書誌の全貌さへ未だにわかってゐないので気長に採集してゆきたいと思ってゐます。

 ここにても新刊のお慶びとともに篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『続々・中部日本の詩人たち』中日出版社:2010年 05月 367p
収録詩人:金子光晴・福田夕咲・稲川勝次郎(敬高)・佐藤經雄・浜口長生・錦米次郎・春山行夫・梶浦正之・稲葉忠行

『続・中部日本の詩人たち』中日出版社:2004年 01月 309p
収録詩人:伴野憲・中山伸・長尾和男・鈴木惣之助・中条雅二・坂野草史・和仁市太郎・吉田曉一郎

『中部日本の詩人たち』中日出版社:2002年 05月 322p
収録詩人:高木斐瑳雄・亀山巌・北園克衞・佐藤一英・日夏耿之介・丸山
薫・殿岡辰雄・ 平光善久

感謝

 投稿者:kiku  投稿日:2010年 6月 8日(火)01時15分37秒
  詳細な 書誌情報、ありがとうございます。早速注文したいと思います。

“鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた”あたりの事情も面白そうですけど、やすさま仰るように、講演やインタビューでの発言に結構な本音が垣間見れ るんじゃないかなァ、なんて思ったものですから。

「燈下言」もわざわざアップしていただき、ありがとうございました。
三好の論評はまさしく正論ですね。どれほど機智に富んでいようと、それを“これ見よがし”に示し、己が機智を誇るために詩をつくる詩人なんてつまりません からね。杉山氏が指摘された「浮薄の手つき」は所謂若書き故でしょうし、こうした叱咤激励、薫陶を受けたからこそ、詩人杉山平一として確固たる軌跡を刻む 事ができたのでしょう。
それにしても、「懼れてもなほ懼れ足りない、夢寝にも忘るべからざる金戒であらう」との提言、時代やキャリアに関係なく、今なお(否、今だからこそ)以て 銘とすべき言説だと思います。

って、話がちょっと脱線しちゃいましたネ。妄言多謝。

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2010年 6月 7日(月)10時28分12秒
編集済
   kiku さま、こちらではおしさしぶりです。
書誌を記し忘れてをりました。まだamazonにはupされてゐないやうですが、
安水稔和著 『杉山平一 青をめざして』価格:2,415円 :編集工房ノア :2010 年6月:235ページ/20cm ISBNコード:9784892711831
です。

 旧「モダニズム防衛隊」(過去ログ参照 笑)としては「鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた」なん一文は聞き捨てなりませんよね。その後に続き、 三好達治から創刊間もない「四季」で自分の初期の投稿詩が没にされた上、誌上でダメだしされた思ひ出を語ってらっしゃるんですが(130p)、そこで先生 が反省されるところの「これ見よがし」のウィットや「手振」なんてのは謂はばモダニズムの表情であって、それを矯めるなんてのは、それこそ 「詩と詩論」から決別した当時の三好達治の事情ではあっても、新人にとってはモダニズムの芽を摘むことに他ならない訳です。まあ、小賢しい機智を弄する二 流のモダニズム詩人なんかにはなるな、と、入選ラインを高くすることで若者を惹きつけてゆく三好達治の「師」としての手振が一枚上手だったといふことなん でせうが、先生そのあとに、「本当の意味がわかるのに数年かかりました」なんて殊勝に仰言ってます。もちろん「四季」の詩人として自分のスタイルを見定め 得たからのことですからね、杉山先生の言葉は大阪弁の簡単な一言に含蓄がひそんで居ったりする、講演はそこがいいですね。


(無題)

 投稿者:kiku  投稿日:2010年 6月 7日(月)02時39分35秒
  大変ご 無沙汰しております。

ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。 ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか?

『杉山平一 青をめざして』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 6月 6日(日)23時07分18秒
   杉山 平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂 きました。最初手にし た時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御 自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してな りませんでした。このたびの一冊は実に、この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあ まり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達 のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘は れ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら 同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社 会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。

「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんで すね(95p)」
「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね (108p)」


 などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は 「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんは それを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程 (76p)」
 と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、
「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」 
 とか、
「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思想がね、ぼくは一部にある んですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」
 との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読 んで、杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、 25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の 関西詩壇の先人たち

山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳) 、杉山平一(47歳)

 に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3 号所載)でなく、当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく 回想してきた話に時間を割かれ、初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。(217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なん て説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。

 「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをりま す。先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが 四半世紀前のことにして、先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
 お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。

『伊東静雄日記 詩へのかどで』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 6月 2日(水)13時17分32秒
   昨日 はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。
用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノート を、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光 雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生 とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同 情するところです(笑)。

 此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に 関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資 料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるもの かどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現 代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係って そこにありませう。しかしながら編者が、

「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と 相違点とに、 なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これは とてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、 (十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編 集後記522pより)

と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。

 詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から 1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京 都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることが できるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年 にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時 代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。
 「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書か
れた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は 山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。 このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中 略)
 本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、 坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略) 
 (編 集後記より)

『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行

内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日
   ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日
   ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日
   ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日
   ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日

編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏

¥7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1

【参考】asahi.com(朝日新聞社)  2010年5月13日記事リンク

『遊民』創刊号

 投稿者:やす  投稿日:2010年 6月 2日(水)12時14分49秒
 

職場の図書館まで資料レファレンスにお越 し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 415p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。

 

  岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後 は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現 代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にも なった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレ ゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味 した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往 生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。

とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76()、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げま す。ありがたうございました。

同人誌『遊民』創刊号108p ¥500 遊 民社 


10万アクセス御挨拶

 投稿者:やす  投稿日:2010年 5月 7日(金)09時45分28秒
   サイ トのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、こ の10年間で10万ア クセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さま には厚く感謝を申し上げます。

 顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、 先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者 や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース 的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事 業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流に フォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。

 電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野です が、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの 分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大 な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばか りか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれ た先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自 身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いで す(笑)。

 このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様 ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文 化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方 が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、
著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません

 感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。


 読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま 写しました。ご覧ください。

ニュース 三つ

 投稿者:やす  投稿日:2010年 5月 2日(日)10時37分5秒
   目下 『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定 との進捗状況をお知ら せ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるの でせうか、たのしみです。


 さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目 録』(1986年)があるかもしれません。今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興 味津 津です。ただし全ページ高価 な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。(2010.8.31編集済)


 ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万 人・・・是亦感無量哉

連休週間

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月29日(木)19時21分6秒
編集済
   さき に二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文 (『清廿四家詩』について 「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読 ませて頂いてをります。
 さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には 藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。
 また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。

 連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。


『幼学詩選』 序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不 便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首 をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如 何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる 所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶 を好めり。唫唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂 「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。嘿[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やが て)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、 是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。

 跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜 牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世 は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、 幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に 先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽 薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地 下にて破顔するべし。
 時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
  藤城山人(村瀬藤城)

追而

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月24日(土)21時46分26秒
編集済
  本日、『躑躅の丘の少女』を刊行された富田晴美様よりお電話を いただきました。そして堀多恵子様 とは、亡くなる前の週に電話でお話をされ、此度の出版についてあらためて労ひの言葉を賜るとともに、なんと4月14日には追分への訪問も約束されてゐたと いふことを聞いて吃驚。その後に自宅で転んで額を怪我され、治療に入院した病院で肺炎に罹ってしまはれた、とのことです。それでも約束の14日の時点では 自宅から、「少し延期すれば大丈夫」との御返事だったと云ひますから、大事になるとは思ってをられなかっただけに、逝去と事の顛末を知らされたときには驚 かれたさうです。御母堂の遺稿集『躑躅の丘の少女』と、多恵子様の序文(2009.7.3)と、両つながらいみじき形見になってしまったことについて、さ ぞかし感慨の尽きぬ胸中かと拝察申し上げます。以上御報告まで追書きいたします。

追悼

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月22日(木)22時50分33秒
   堀多恵子氏が逝去された。96歳といふから天寿を全うされたといってよいのだらうが、図書館 に勤めてをりながら知らずにゐた。迂闊であった。
 四季派といふ、エコールといふより氛囲気と呼んだらいいやうな現象を、基底から醸成してゐた堀辰雄。その職業文筆家らしからぬ、詩的で知的に洗練された 西洋風の有閑を愛する資性と、また実際に植物のやうな有閑でなくては身が保てなかった健康を、夫人として側らから理解し支へ、亡きあとは遺影を抱いて、時 代とともに「青春の記憶」と遠ざかりゆくイメージに殉ぜられるままに、操を守られた。夫婦の有り様、ことにも結婚について私がことさら引き合ひに出して 思ったのは、日夏耿之介である。生涯の頂点となる仕事を成し遂げたのち、そのままそこに留まると連れて行かれさうな精神の高みから、再び現世に生身の作家 を引き戻し、子のない余生の充実に貢献したのは、実に年の離れた包容力のある夫人の坤徳に与るところが多い、といふ気がするからである。
 もっとも当の夫君が、頭脳明晰の後輩達から先生と慕はれたのも、書かれたものと書いたひとから立ちのぼる悠揚迫らぬ香りと人徳に他ならない訳であって、 さしずめ野村英夫を馬鹿にしたり、堀辰雄の芳賀檀への親近を訝しげに眺めて、四季・コギトの気圏から最も遠い所に位置してゐる加藤周一などは、頭脳明晰の 後輩の雄たる存在だが、堀辰雄が好もしいと思ったのはもちろん血筋ではなく、育ちの良さにありがちな正直で向日的な詩人的資性に対する親近なんだらうと思 ふ。彼自身は下町の出身だが、さういふ「生存力からみた本質的な弱者」への労はりが、若いころは才気走ったものが好きだった、この穎才の心情の基底には (己が身にも引き付けて)あるやうな気がしてならない。加藤周一が中村真一郎とともに多恵子夫人と行った『堀辰雄全集』最後の月報での鼎談で、夫人が野村 英夫をフォローする発言を何気なく繰り返してゐるのは、さうした夫の心情の一番機微のところを、敏感に察して彼女自身のスタンスとしても受け継いでゐる証 しなのである。さうでなければ、彼らとは文学的立場も社会的立場も対偶にあったやうな吾が師、田中克己が堀辰雄とともに夫人をも徳として仰いだ理由は説明 できない。同じキリスト者でもあり、戦後の抒情詩否定の風潮のなかにあって、この人は全てが分かって下さってゐる、といふ安心があったのであらう。

 私自身も、自らの詩集をお送りした際の受領のご返事として、厚情のこもったコメントを附した御葉書を二度、多恵子様からは頂いてゐる。今は亡い先生達か ら頂いた礼状とともに生涯の宝物である。また田中先生が亡くなって形見分けに御自宅に呼ばれた際、すでに末期がんで臥せってをられた悠紀子夫人を見舞ひに 訪れた多恵子様と、偶然御挨拶を交す機会にめぐまれたが、それが最初の最後となってしまった。いづれも20年も昔の話になるのですが、今更ながら御葉書を 掲げさせて頂き、個人的な思ひ出とともに偲び、茲に追悼いたします。

とりいそぎ

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月21日(水)23時49分38秒
  もう帰 らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。
存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。
匿名氏の二宮佳景[鮎川信夫ペンネーム]
さん、お報せありがたうございました。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm

追悼 堀多恵さん

 投稿者:二宮佳景  投稿日:2010年 4月21日(水)21時07分28秒
   作家 堀辰雄の妻多恵さん(筆名・堀多恵子)が96歳で他界された。 
 堀辰雄は昭和28年5月に信濃追分で亡くなつた。病気と戦争で十全な創作 活動ができなかつたのは不幸だつたが、その死後ある時期まで、10〜15年に1 度の割合で全集が大出版社からコンスタントに出たのは、漱石を除けば、おそらく近代日本の文学者では堀辰雄だけだつたのではないか。
 生前、すでに角川書店が作品集を出して居たものの、最初の全集は没後すぐ に企画され、新潮社と角川が激しい綱引きを演じ、角川源義の師である折口信夫が 仲裁に登場する一幕もあつた末に新潮社が出版した。角川は10年待つた後で、河上徹太郎に解説を書かせた全集を刊行。さらにその後、堀の愛弟子といふべき 中村真一郎と福永武彦が編集した決定版全集が筑摩書房から世に送られた。
 大学生の頃一時期、堀辰雄にイカれて居た。あの生と死を見つめた甘美でありながら強靱な精神が確乎として存在する世界にあこがれてやまなかつた。バイト 先の古書店で、上品な白い箱に濃緑の帯がついた筑摩の決定版全集を羨望の眼差しで見つめて居たが、結局学生時代はあまりにも高価で入手できなかつた。この 完全版全集は後に、堀の著作権が消滅する直前に筑摩から復刊され、この時やうやく新刊の形で手に入れることができたのだつた。
 書物の世界だけでは満足できず、バイトで貯めた金を使つて、信州まで足を伸ば
した。「美しい 村」に登場した岩や、エッセーで書かれ た石仏を直接目にでき たのは嬉しかつ たが、軽井沢も堀の終焉の地となつた信濃追分も、やはり高度経済成長の波に洗はれて見事に俗化して居た。強 く失望して、その後、軽井沢には 足を踏み入れて居ない。
 その際、堀ゆかりの油屋に宿泊したが、その際主から「多恵さんならこの前おみえになつて、しばらく青森で過ごされると仰つて居た」とのことだつた。夫人 がお元気であることに一抹の安堵を覚えた。また、この時は足を伸ばさなかつた「風立ちぬ」の舞台となつた旧富士見高原療養所は現在、農協の施設になつて居 ると聞いた覚えがある。ただ、信濃追分の森の中の、澄んだ空気にはなるほどここは療養にはふさはしい場所だと強く感じたものだつた。
 その多恵夫人が書いたエッセーの数々だが、病人や病気、その看護を描いたものであるにもかかはらず、決して暗くならず、明るいユーモアを湛へたもので、 読後こちらが元気になるやうな文章だつた。書き手のお人柄といふものを強く感じさせる文章であつた。多恵さんはどこかで「堀は戦後、中村さんや福永さんの 書いたものの中で生きてきた」と書いてをられたが、ご自身の著作の中でも、夫である堀は生き続けたのだ。産経新聞に連載されて角川書店から出された『堀辰 雄の周辺』は、連載当時から本当に愉しく読んで、続きが楽しみで仕方
なかつたものだ。連載には、後に中央大 学の学内誌を編集されたT記者が尽力したのだつ た。そのTさんか
「多恵子さんはまだ元気なんだろ? 年賀状送るのに確かめようと思つてさ」
 と新井薬師に住んで居た頃、突然電話をもらつたことがあつた。今回改めて、多恵さんによる「あとがき」を読んで、これが本になるにあたつて、風日舎のY さんが編集にあたられたのを知つた。角川時代の最後のお仕事だつたのか。単行本になる際に併せて収録された中野重治や福永武彦への追悼文もいい文章だつ た。小林秀雄が死んだ時に『文藝春秋』に、小林と堀が旧制一高の頃、野球やキャッチボールをする間柄だつた云々と短い文章(談話?)が掲載されて居たはず だが、その文章は収録されなかつた。
 ある時、著名な批評家の夫人が多恵さんについて、
「あの方は文章家ですもの」
 と感に堪へないといつた口調で言はれたことがあつた。そして、
「堀さんは、あの方(多恵さん)だから結婚されたのでせう」

 とも仰つた。夫人と多恵さんはほぼ同じお年だつたはずだ。妻は妻を知る、 といふことかと思つたものだつた。
 堀辰雄の死後、半世紀以上も一人歩み続けた多恵さんの偉大な足跡を目にする時、はるかなるものを仰ぎ見るやうな気持ちがする。矢阪廉次郎氏の学会発表の 際に紹介していただいた竹内清巳氏から、江藤淳の「幼年時代」批判を気にした多恵さんが、はるばる九州まで足を伸ばして、堀の養父であつた上條松吉の工場 で働いて居た弟子のところに、堀と上條の関係を聞きに出かけたと聞いた。夫とその作品の名誉を守らうとされたのだなと少なからぬ感動を覚えたものだつた。 何より
も、堀未亡人ではなくて、随筆家堀多恵子の書くものに、常に敬意を払つてきた。それは今後も変はることはあ るまい。
 堀多恵さんの逝去に、心から御冥福をお祈りいたし
ます。 
 


荘原照子聞書  第10回目 金沢時代

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月10日(土)21時02分27秒
   鳥取の手皮小四郎様より『菱』169号を御寄贈いただきまし た。

 詩人荘原照子の聞書、第10回目となる今回は、彼女ら一家が岡山で食ひ詰めて金沢育児院に移住した1ヵ年半の出来ごとについてです。ともすれば主観に流 れ、思ひ込みに固執する聞書が、手皮さんのフィールドワークと稀少な地元文献の博捜によって補強・訂正され、伝記的事実として明らかにされてゆく様は、毎 度のことながら説得力に富んで聞書の域を超えてをります。
 この昭和6、7年といふのは詩人にとって、中央詩壇にデビューする直前の最も暗鬱な時代、といふ位置づけが「結果的に」なされるやうですが、後年のモダ ニズム詩人が生活苦のあげく、伏字の施されたプロレタリア詩さへ書いてゐたといふ事実はまことに衝撃的で、当時はモダニズム系の詩誌でも、例へば「リア ン」のやうにマルクス主義を標榜するやうになるグループもあるにはあったのですが、彼女がキリスト者であったこと、羸弱であったこと、さうして末尾の年譜 で手皮さんがおさへてをられるやうに、この年の「詩と詩論」に左川ちかや山中富美子が華麗なモダニズムを挈げてデビューしてゐる事実を思ふとき、ルサンチ マンの極にあった詩人の精神生活が、革命思想に向かふことなく、むしろ一種の頽廃を宿したモダニズムの美学を許容してゆくことになる、この時代は正にそん などん底の分水嶺、蛹の時代であったのかもしれない、と知られるのです。

 これは何といふ哀しい馬だ
 骨と皮ばかりの
 何といふかなしいゆうれいり馬らだ!
  (中略)
 これらよはいものたちの吐息をはつきりきいた
 否!否! じつにそれことは
 サクシュされ利×され 遂にはあへぎつつゆきだほれる
 わたしたち階級の相(すがた)ではなかったか!

 その日
 第××××隊がガイセンの日!
 わたしは病む胸を凍らせる
 北国の氷雨にびしよぬれ乍ら
 とある町角に佇ちつくしてゐた!
 ふかい ふかい 涙と共に!

   「我蒼き馬を視たり」部分(『詩人時代』2巻12号1932.12)



 「利×」が「利用」とわかっても、「第××××隊」について「育児園近くの出羽町練兵場で上海事変から帰還した歩兵第七連隊の兵士を迎えた時のものと思 う」とさらっと書くには、調査の労と教養の下地の程が思はれるところです。物語は次回、いよいよ一家で上京、さらに夫・子供たちとも別れて独り横浜に移っ た彼女が中央詩壇にデビュー、といふことになる由。一体どういふ事情なのか、さうして詩がどのやうに変態を遂げて羽ばたいてゆくのか、手皮様からの報告を 見守りたいと思ひます。

 さて新年度を迎へて慌ただしいなか、「季」の先輩舟山逸子様より「季」92号を、富田晴美様からは図書館用に『躑躅の丘の少女』をもう一冊御寄贈にあづ かりました。

 御挨拶も不十分で申し訳なく存じますが、ここにても再び皆さまに対しあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

蔵書刊行年記録 更新

 投稿者:やす  投稿日:2010年 4月 4日(日)23時08分1秒
   オークションでおとした『再遊紀行』といふ古本が届く。見返 も刊年記も無い本ながら、大きな版 型(27.4×19.2cm)と江戸中期以前の漢詩集独特の文字体がなんとも古めかしい。東海道中の紀行漢詩集ですが「萬治時己亥季春嘉再遊于東 都・・・」の自序があり、予め刷り重ねた風の朱線が「嘉」の字の真ん中に入ってゐて、調べると山崎闇斎だと分かります。巻末にも「二條通松屋町武村市兵衛 刊行」とあって、ネット上で

「武村市兵衛は初代二代ともは闇斎門人で、三代目が享保十四年に没して廃業したらしいが (藤井隆『日本古典書誌学 総説』158p)、元禄十一年『増益書籍目録』などを見る限りでは、闇斎・敬斎・直方・慈庵などの崎門学派の書のほとんどが武村市兵衛の出版にかかるよう である」

 との 記述に遇ひました。しかし「万治」って…万延ぢゃないですよ。吾が「ごん太に 小判蔵書」の刊行年記録が、これまでの『蛻巌集』(寛保二年)から、またさらに百年遡及して更新されたのですが、こんな稀覯本が、私ごとき一介の図書館員 のお小遣ひで買へる国って…絶句です。
 

歌誌『桃』終刊 号

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月29日(月)00時47分43秒
編集済
   歌誌『桃』の641号をお送り頂きました。終刊の実感が湧か ないのは、毎号お送り頂いてゐた事 を空気のやうに思ひなして居った私などでなく、もちろん主宰者の山川京子氏自身が一番さうであるには違ひなく、氏が雑誌の終焉にあたって最後にしたためた 文章(「桃」のはじまり)は、56年前の創刊当時を回顧され、その心情を忖度するになんとも云へぬ気持になるのですが、またこの雑誌を起こすやう強く勧め られたといふ、作家松本清張が父方の従兄であったことなど、初耳の御関係にも驚かされた、貴重な回想文でありました。

 とまれ、此度の終刊に際しては、折口信夫、保田與重郎、中河与一夫妻ほかの諸先達をはじめ、本来なら創刊当時の同人も一言なりとも感想を寄せられるべき ところ、主宰者を除きそろって幽明境を異とする有様。代はってたまさか私ごとき後学が蕪辞を草し、伝統ある雑誌最終号の誌面をはしなくも汚すこととなっ た、その忝さと晴れがましさに、胸の詰まるやうな感慨、および御縁の不思議を覚えてゐるところです。

 由来、私は和歌といふものに迂遠で、『桃』誌上における京子氏の選評も、作意のありありと現れたものより顕れないものを称揚される「保田與重郎ゆずり」 の姿勢であることに、一種の畏れを抱いてをりましたから、夫君の山川弘至のことを詩人として祖述する文章はともかく、今回ばかりは拙劣な歌でも添へねばと 思ひ四苦八苦しました(笑)。いざ自分で作ってみると、詩と同様にこねくり回さないと気が済まず、短いですから煮詰まって自分でもよくわからぬものに凝っ てしまふ。歌詠みとして、さうして歌の鑑賞者としても失格(こちらは古典の素養がないから)であることは自任してゐましたが、同人の方々の、日本人として 当たり前の日常を淡々と詠み重ねてゆかれる姿勢には、ですから本当に頭が下がります。ぜんたい私がインターネットといふ時代の利器を使って過去の詩人達を 好き勝手に祖述しようなどといふ試みが、自身の作意と成心の表れに過ぎない訳ですが、顧みて営々たる歩みの「桃」にはさういふ邪心が一切ない。久しい前か ら世間では、短歌俳句ブームによる多くの歌誌や句誌が乱立してゐますが、茲に「あざとい個性の発現」を善しとしない国風の短歌雑誌が、創刊当時のまま棟方 志功の表紙絵を掲げ、半世紀もの歴史を脈々と保ってきたことに、本当に格別な感慨を感じるのです。つまりその歴史が閉じられたことに際会してゐる自分を も、大切にしてゆかなくてはと、「実在する伝統」の終焉に際して思ひ至りました。「胸の詰まるやうな」とはさういふことです。
 その奇しき際会の思ひを主調低音に、滔々と歌ひ上げられたのが、今回末尾に掲げられた野田安平氏の長歌でありませう。氏にはメールで「今後を託されてゐ るといっていい野田様の述懐には、皆さんの注目が集まりますから」と、何を書かれるのか期待したのですが、なんの、万感極まる念ひの丈を一首に託し、この ひとが未だ回想モードに入ってゐないことに、却って伝統が途切れることなく託された様子をみて、頼もしく思った次第です。

 巻末に、京子氏は亡き夫君の詩作の中から二編の詩を掲げられました。けだし詩人の絶唱のなかからさらに選ばれた極めつけの二編として、これは山川弘至の 代表作と京子氏自らが認定したことを意味しませう。今後、昭和の詩をアンソロジーに編む際には逸することのできない、まことに戦慄を秘めた抒情詩、心に迫 る作品と私も思ひましたので、詩に関する掲示板として、あらためてご紹介したいと思ひます。( 『詩歌集 やまかは』1947所載)

  君に語らむ        山川弘至

君に語らむみんなみの
荒き磯辺に開きたる
名知らぬ花の紅の

波高き日はその影を
寄せくる潮に砕きつつ
波しづかなる夕ベには
その美はしき花影を
ひた蒼き水に映すかな

ああ荒磯の岩かげに
はかなく咲きし紅を
君知り給ふことありや
大和島根を遠く来て
このみんなみの荒磯に
北にむかひていつの日も
ひそかに咲きし紅を
君知り給ふことありや

夕荒潮の鳴るなべに
雁の使も言絶えし
この岩かげの潮の間に
かつがつ咲きし紅の
花の色香はいつの日も
高くにほひてかはらねば
ことしげき日もみんなみの
かの岩かげを忘れ給ふな



  ふるさと        山川弘至

そこに明るい谷間があり
そこに緑の山々まはりを取りまき
そこに深き空青々とたたへゐたりき
おほぞらを渡りて吹きし風のひびきよ
あかるく照りし陽の光よ木々のそよぎよ
雲はしづかに 白く淡く
かの渓流のよどみに映りゐたりき

ああ思ひ出づ かの美 はしき時の流れを
ああ思ひ出づ かの遥かなる日々の移りを

かしこに 我が古き日 の幸は眠りたるなり
かしこに かの童話と伝説は眠りたるなり
思へども思ひ見がたき かの遠き日は眠りたるなり

かの山深き谷峡の村に我が帰らむ日
かのふるさとなる古き大きなる家に我が帰らむ日
太陽はげに美はしく四辺を照らし
あまねく古き日のことどもよみがへられ

あまねく遠き日の夢は よみがへらむ

げに 古く久しく限りなきものよ
汝! そはふるさと
げに 常に遠くありて思ふものよ
汝! そはふるさと
我 かのしづかなる山ふところに いつか
常とはに帰り休らはむ日
そこにこそ かの背戸山の静かなる日溜りに
幾代もの祖先ら温かくそのしたに眠りたる

かのなつかしき数基の 墓石
我が やがて帰らむ日を 待ちてあらむ


 戦前の生き方を節操として体現し、示し続けてこられた世代も、京子氏のやうな数奇な運命に翻弄された当時の若者を最後に、この日本から消えようとしてゐ ます。国ぶりの変貌を、なほすこやかな言霊を信ずることで、些かでも回避することができればといふ願ひ。
 雑誌は終刊しても京子氏を中心とした歌会は、引き続き行はれるとのことです。『桃』の歴史を閉じるにあたって、ここにても御礼かたがた、京子氏の御健康 を切にお祈り申しあげます。
ありがたうございました。

【追而】
 また、山川京子氏も執筆してをられる、『保田與重郎選集・全集・文庫』に付せられた月報の文章を纂めて成った『私の保田與重郎』といふ浩瀚な回顧本が、今月新学社より刊行されました。最 初に出た南北社版の著作集には、月報執筆のトップバッターとして檀一雄と田中克己先生が書いてをり、その意義を編者の谷崎昭男氏がいみじくも後記で次のや うに記してをられます。

生前の出版にかかる「著作集」と「選集」には、装偵がいづれも棟方志功の手になつたやう に、収録作品の選定から月 報の執筆をたれに依頼するかについて、編集者の考へ方はそれとして、当然著者の意向が反映されてゐなければならない。「著作集」の月報の最初を檀一雄と田 中克己の文が飾ったのは、他の何といふより、友誼を重んじた保田與重郎の為人を偲ばせる(654p)。

 偶然知った新刊本ですが、合はせて宣伝させて頂きます。

『私の保田與重郎』谷崎昭男編 -- 新学社, 2010.3, 658p.¥4200
 

お薦め一般書

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月20日(土)11時28分7秒
編集済
   漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ (一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
 神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』 (2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていっ て一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でです が)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
 『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使 ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して 冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」 を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
 ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき 世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を 拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を 「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなった のでここまで。)

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではあ りません。「私には師がい る」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とは このブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p

 貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込 み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁 みて感じている。『昭和のエートス』68p




WEBサーバ復旧しました。
 

【おしらせ】

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月19日(金)11時37分22秒
編集済
  停電に関連しWEBサーバを停止します。この間ホームページが みられません。

3/19 19:00 〜 3/20 10:00の間を予定してゐます。

よろしくお願ひを申し上げます。
 

文圃堂版『宮澤賢治全集』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月14日(日)01時06分35秒
編集済
   ついでにもう一丁。これは昨年オークションで落札した不揃ひの旧版全集。なかになんと最初の全集である貴重な「文圃堂版」が一冊混じってゐました。けだしこの装釘で当時の詩人たちは宮澤賢治を読んだわけです。昭和10年といふ出版文化のピーク時にあって、造本、サイズ、装釘すべてが出色の出来。その後を引き継いだ「十字屋版」にどう受け継がれていったかもよくわかります。参考まで。  

『春と修羅』の製本について

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月14日(日)00時48分12秒
   この『春と修羅』ですが、初版本を手にしてみて初めて気付いたことがあります。研究者や古書店の間では知れ渡ってゐることなのでせうが、まず16ページではなく8ページ分を一枚の紙に刷ってゐるらしいといふこと、それに合せて製本が普通の本のやうな「糸かがり」ではなく、「打ち抜き」と呼ばれる原始的な方法に依ってゐるといふことです。
打ち抜き製本とは、一冊分の丁合をとった束にブスブス穴をあけて紐で綴ぢたもので、図書館で雑誌を合冊製本するときなんかに使ひます。小倉豊文氏は「『春と修羅』初版について」のなかで、地元花巻の印刷屋には手刷の小さな機械しかなかったことに触れてをり、もちろんそれが原因でせう。
ではなぜこの田舎の印刷屋を使ったかといふことになるのですが、同じ町内のよしみで、とか、風変りな段組や使用字の指定には一々指示を出す必要があったから、とか考へられはしますが、費用節減のためといふのが一番の理由でせう。丁合作業はたいへんですが手伝へばいいのだし、小さな印刷機で刷れ、綴じる手間もこの方法が一番安く済む…なにしろ私自身が田中克己先生の日記を刊行する際に採用した方法ですから(笑)。
 小倉豊文氏の文章で「殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い」とあるのは、だから「殆ど毎日、印刷現場に立ち会ひ、丁合をとる手伝ひにもこの印刷屋に通」った、といふことではないでせうか。「往復の途次には校正刷を持って関登久也の店に立寄り」とありますが、もしかしたら校正刷りではなく、近世活字本のやうに順次刷りあがっていった現物を持って行ったのかもしれません。だって毎日「校正」に通ったにしては、あまりにもこの「心象スツケチ」、誤植が多いですから(笑)。でもって誤植があまりにもひどいページだけは切り取り、そこだけ一枚あとから差し込んで繕ってあったりする。或は同じページを2度印刷しちゃったんでせうか。ここ(202-203p)には「製本後に」切り取られた紙が残ってゐるのですが、落丁ではないのです。
 目立つことなので、すでに誰かが書いてゐることだとは思ふのですが、詩人の作品については語る言葉をもちませんので、どうでもよいことを一応紹介しておきます。
 

詩集『春と修羅』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月13日(土)18時09分21秒
編集済
   本日わが家に宮澤賢治の詩集『春と修羅』の初版本が到着しました。
 正月に上京した際、神保町の田村書店の御店主に「欲しい本はまだあるの?」と尋ねられ、欲しい詩集で私が買へるやうなものはもう…と言葉に詰まり、ただどんな状態でもよいので、もし私に買へそうな一本が入荷したら、この詩集だけは是非御連絡して頂けたらと、それまでにも方々で話ししてゐた高嶺の花を口にしたのですが、その天下の名詩集がたうとう我が目の前に。私有物として手に取ることはないだらうと諦めてゐただけに、望外の喜び・感慨一入、雀躍してをります。状態もどうして分不相応に良好(笑)です。
 この本、日本近代文学館から何度も刊行されたので、復刻版を持ってゐる人は多いのではないかと思ひます。とても感じよく出来てゐるので、私も若いころはぶらり旅に携行して、山稜や高原に寝転がって披いてゐました。中原中也ぢゃないですが、安く売ってると買ってきて何度かプレゼントにもしました。私が「詩といふもの」に出会った最初の詩人にして、今でも一番に尊敬する自然詩人「石こ賢さん」。その生前に刊行された唯一の詩集です。生涯の宝物として大切にします。本当にありがたうございました。
(ただしかし、妹を思ふ詩を、斯様な今、読み直す破目に陥らんとは。苦笑)

一句。 春が来て心象スケッチ修羅も来ぬ。

宵島俊吉『惑星』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月10日(水)00時54分39秒
  宵島俊吉詩集『惑星』大正10年抒情詩社刊行

 著者は関東大震災前夜の東京で「若き天才詩人」の名をほしいままにした、東洋大学系の詩派(のちに「白山詩人」と呼ばれる)の初期の中心人物。ただしそ の「天才」は詩才といふより、多分に早熟にして奔放な詩的人格に冠せられたものだったやうです。昔、『航路』といふ昭和22年発行の詩集を読ん
で その抒情詩を好ましく思った私は、その前の昭和8年に出た詩集『白い馬』なら、おそらくもっとよい詩が並んでゐるに違ひないと踏んで探し回り、見つけだした本の瀟 洒な装釘に感嘆したものの、その期待が過剰であっただけに内容には却って失望した、なんてことがありました。今回縁あっ てさらに溯り、大正10年に刊行さ れた文庫版の処女詩集に出会った訳ですが、そこで表白されてゐる、大正口語詩人特有の(といふよりまだ二十歳の青年特有の、といふべきですが)感傷と欲 望、ことにも季節に仮託した表現が印象的でした。夏は欝屈した恋愛に汗ばむ狂奔の季節として、秋はその対極から観照を喚起する明澄の季節として、春は朗ら かに爆発する生命力謳歌の季節として、そして不思議に冬だけがありません。つまり若々しい。 で、若い娘のことがいっぱい出てきて、コンタクトはとれないん だけど、彼女らにも仮託して内から身もだえてみせる。こんな詩を衒ひなく書いて見せるところが、当時の青年にはカリスマに映じたのでありませう。詩人はこ の後、もう一冊詩集を出して社会人となり、本名の「勝承夫」に戻って前述の詩集『白い馬』を出して(おそらく)評判を落とすかたはら、むしろ民間作詞家と して佐藤惣之助のやうな名声を博します。さらに戦後は母校東洋大学の学長も歴任して当路の人に化けるのですが、詩風にとどまらぬ生きざまの変遷はともか く、最初に読んだ『航路』の堅実な抒情詩について、同じく大正期にデビューした詩人達が刊行した戦後詩集と等し並みにして軽視してゐたのは私の間違ひだっ たと悟った次第。これは苦労して人格陶冶した結果のぼりつめた詩境だった訳です。さういへば勝承夫は河出書房版『日本現代詩大系』でも、第6巻の大正民衆 詩派ではなく、第9巻に昭和抒情詩として紹介されてゐます。同巻にはやはり処女詩集を無視されて茲に編入されてゐる野長瀬正夫もゐて、なるほどと思った次 第。

 今回、詩集の中になぜか「大垣」と題された「御当地ソング」がありました ので紹介します。布袋鷺山といふのは楽焼師の名らしいです。当時の大垣といへば 稲川勝二郎と高木斐瑳雄が起こした角笛詩社があった筈ですが、東海詩人協会の面々が「東都で評判の若き天才詩人」を呼んで一晩語り明かしでもしたのでせう か。このあとに名古屋の客舎に病臥する詩が3篇並んでゐるので、当時の詩誌を丹念に調べ上げたら何か記事が出てくるかもしれません。

山中富美子の年譜と、高祖保の評伝

 投稿者:やす  投稿日:2010年 3月 1日(月)20時59分3秒
   さき に刊行をお知らせした『山中富美子詩集抄』所載年譜の追加訂正につい て、坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子:西日本文化443号」に記述がありましたので転載します。お手許にお持ちの方は印刷して貼り付けておくと よいかもしれません。

「1914年(大正3年)1月15日 岡山県倉敷町に堀内喬・さわの二女として生まれる。四歳のときに、山中馬太郎・伊勢夫妻の養女となる。養父の仕事 (鉄道省勤務)の関係で岡山に居住、養父の本籍地は高知市南新町(現・桜井町)。1931年(昭和6年)四月、福岡県小倉市篠崎へ移転。その後、城野 (現・北九州市小倉南区城野四丁目)に養父が自宅を購入、長く住む。1963年(昭和38年)6月養母、1967年(昭和42年)12月養父と相次いで死 去。養家に兄弟姉妹なく、岡山の縁戚関係も断ち、天涯孤独となる。2001年(平成13年)2月、認知症などで小倉北区内の病院に入院、2005年(平成 17年)6月26日、同病院で老衰のため死去」坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子」《西日本文化》443号(2010.2)37-43p より。

 また同じく「椎の木」ブランドの抒情詩人である、高祖保の初めての評伝が刊行されてゐることを知りました。早速注文、モダニズム抒情詩の愛好家にとって 必携の一冊となりませう。装幀・内容ともに掬すべき限定本です。

『念ふ鳥』(外村彰著 2009.8 龜鳴屋刊。A5変型上製 424p 限定208部 ¥8000)。

 なほ、刊行元の龜鳴屋では、わが職場岐阜女子大学の卒業生でもある金子彰子さんの処女詩集『二月十四日』が、続く最新刊として発売中です。一緒にどうぞ。


【その他 古書目録記事より】

扶桑書房より100号目録が到着。
『宮澤賢治全集』 文 圃堂版3冊揃 (11p)

札幌の弘南堂書店2010年国際稀覯本フェア出品目録より
四季萩原朔太郎追悼号原稿 (7p)

『躑躅の丘の少女』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 2月11日(木)23時47分31秒
   さて 随分ひっぱって予告しました四季派の閨秀作家の遺稿集ですが、Book Reviewにupしました。後日また書き足すかもしれません。

近況:『山陽詩鈔』ほか

 投稿者:やす  投稿日:2010年 2月11日(木)23時45分52秒
   最 近の買物は『山陽詩鈔』天保4 [1833]の(おそらく)割と初めの頃の版本。
この天下のベストセラー は明治に至るまで何度も版を重ねてゐて、見返しや奥付に「天保四年新鐫」と刷ってあっても信
用できません。 古書目録の記載書誌だけではどんなだか判断でき ないことが多いのです。状態が悪くても刷りのよい古いものを買はうとずっと機会を窺ってゐたのですが、このたび意を決して注文。届いた本は歴代の旧蔵者に 繙かれて「くたくた」になった、河内屋徳兵衛以下6者による版本でした。赤字で補筆してある頭註は増訂版から書き写したものでせうか。嬉しいです。

追伸:
 詩人山口正一関係の資料も、無事愛知県図書館へ(『太鼓』は茨城県立図書館へ)寄贈されましたので御報告いたします。旧臘手許にやってきた貴重資料、す べて収まるべき処へ収まってホッとしてをります。


 校山陽詩鈔刻成題其後

詩抄鐫成人已仙 焚香先奠玉楼魂
菲才甘受陰陶誚 大匠何用字句論
筆底万珠持世道 腰間一剣報君恩
髯蘓風節誰能続 整頓全編過邁存
此翁風節誰能続 回首京城泪眼昏  後藤機


 山陽詩鈔を校して刻成、其後に題す

詩抄、鐫成りて人すでに仙 香を焚いてまず奠す、玉楼の魂
菲才は甘受す、陰陶[魯魚陰陶(誤字のこと)]の誚りを 大匠[山陽先生]に何ぞ用ゐん、 字句の論
筆底の万珠[詩篇]は世道に持し 腰間の一剣は君恩に報ず
髯蘓[蘇東坡]の風節、誰か能く続ける 全編整頓されて[時が]過ぎ邁(ゆ)き て存す
此の翁の風節、誰か能く続ける 京城に回首すれば泪眼昏し  後藤機
[後藤松陰]

【追伸】『山陽遺稿』天保12 [1841]端本の詩篇3冊揃ひも入手できまし た。(2010.2.16追加)

 


『馬の耳は馬耳 ならず』

 投稿者:やす  投稿日:2010年 2月11日(木)23時37分13秒
   八戸の圓子哲雄様より『朔』167号、および新詩集『馬の耳 は馬耳ならず』の御恵贈に与りまし た。今号の『朔』は、青森詩人和泉幸一郎の未発表詩ほかに、小山正孝の若き日(昭和15年、16年)の堀辰雄宛書簡(下書き?)2通が、奥様の手で紹介さ れてゐます。興味深かったです。
 圓子様の詩集は、これまでお送り頂いてきた『朔』巻末の名物コーナーで、「第二後記」と思って毎回なにが書いてあるのか最初に目を通してゐた文章がまと められたものでした。エッセイ風の散文詩なのですが、長い雑誌の歴史のなかから斯様に厳選され、今回詩集の名のもとにまとめられたものを拝見すると、裏表 紙に3段組みだった作品が大いに面目を新たにしてゐることに驚きます。後半にはすでに読んだ記憶のものもあるのですが、前半の、かなり意識して作られた頃 の散文詩に注目しました。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 北国
今年も林檎が実り ずしりと手応えのある実を頬張る 青々とどこまでも拡がりいく空 遠く甘い日が口の中から奔り出てくる
僕達が熊谷に住んでいた頃 父や母の里から送られてくる林檎は 童謡の国の主人公のように 広々とした香りを運んできた 杉の木箱も 北国の冷たい山の香 りを運んでいた 母の語る北国 父の物語る北国は いつしか僕の中に深々と育っていった 僕達は 戦災で家を焼かれ 父母の故里《北国》に移り住んで 北 国はそのまま僕の中で 甘く醸し出されていった
秋になると 幸せだった子供の国が 再び季節の中から甦ってくる (12p)

出張帰還

 投稿者:やす  投稿日:2010年 1月31日(日)20時34分17秒
   奥平 さま、御無沙汰してをります(「なんとかテレビ」…(^∀^;))。
 購入した本は古書でしたので、正誤表は入ってをりませんでした。年譜をみればどちらが正しいのか判断つくことなので心配ないと思はれますが、もちろん誤 植は当事者にとっては居たたまれない関心事です。追ってこの掲示板で御紹介する予定の本も、編者の方がたいへん気を揉んでおいででしたが、私などはそれに 懲りてこのやうなホームページを公開形態に択んだといってもいいかもしれません。

 さてこの週末は再び遠地への出張でした。年明けには在京の人々と合流、久闊を叙すことが叶ひましたが、今回は北陸転戦の途次、金沢で大正詩研究の竹本寛 秋先生と蓋かたむけて語り合ふ機会を得ました。口語詩の成立過程を専門にされる竹本さんで すが、大学では文学ではなく教育系情報学のエキスパートとして重宝されてゐる由、学部改組をめぐる状況は国立も私立も変はりがないやうです。
 また日常の移動は自転車に限るとか。Linux系を能くするインターネット草創期からのエンジニア。でありながら、仕事(飯の種)とは別に今どき文化に 熱中する時間も惜しまない。そんな別々のベクトルを共通項として持ってゐるハイブロウな人がすでに自分の周りにはこれで三人も居り、もはや符合ではなく世 代交代が進みつつあることを思ひ知った感じです。
 とまれ一陽来復づくしの竹本先生には、今春の故郷北海道への喬遷を控へての得難い歓談となりました。ありがたうございました。

 一方、北国の風にあてられたものか体調をくづして帰ってきたら、家では年越しのごたごたが待ち構へてゐました。こっちはうすら寒い春を迎へさうな予感 に、もう滅入りさう。

日塔聡詩集について

 投稿者:桜桃花  投稿日:2010年 1月31日(日)00時40分49秒
  こんば んは、いつもいろいろ教えていただいてありがとうございます。

「日塔聡詩集」をお贈りしようかと思いながら忘れてしまって申し訳ありません。
私も安達先生から教えていただいて20冊ほど土曜美術社から送ってもらいました。
さしあげなければならないかたをメモしながら、小屋改築、荷物の引っ越しなどに追われ忘れていたのを中嶋さんのホームページを拝見して思い出しました。

この出版により「鶴の舞」と「鶴の舞以後抄」そのほかのいろいろな詩に出会えて、とても貴重なお仕事をしていただいたと思っています。
お気づきとは思いますがP139にある日塔貞子死去の年が昭和49年となっています。
どうしたらいいかと迷いましたが、土曜美術社に連絡したところ正誤表を入れたいということでしたが入っていましたでしょうか。

娘が「東京かわいいテレビ」拝見したそうです。私は見逃しましたがインターネットで見せていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
 

御礼

 投稿者:やす  投稿日:2010年 1月20日(水)07時36分40秒
   山川京子様より『桃』一月号の寄贈に与りました。お手紙に添 へた拙詠を載せていただき赧顔の至り。 また次回の雑誌終刊を前にされた後記を、感慨をもって拝読しました。

 さきに山口融様よりお送りいただいた『薊』ほかの戦前同人誌ですが、さらに書誌研究家加藤仁様より、当時の雑誌バックナンバーの画像の提供を受け、追加 公開させていただきました。【明治・大正・昭和初期 詩集目録(名古屋戦前詩誌)】より御覧下さい。

 皆様にはここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

上京報告その他

 投稿者:やす  投稿日:2010年 1月11日(月)21時37分44秒
   上京 中、古本連との楽しい語らひの他、小山正孝ご子息正見さまと大変有意 義な歓談に時を過ごすことができましたこと、あらためて御礼申し上げます。ありがたうございました。
 ではこの連休、東京で1泊した収穫を御報告。


『日塔聡詩集』 (2009土曜美術社)。やはり一年に一度は神保町界隈を歩かないといけませんね。刊行 を知りませんでした。詩人については詩集『鶴の舞』をのぞけば、雑誌「曠野」での追悼号(1984)、そしてさきに安達徹氏によってまとめられた『雪に燃 える花 詩人日塔貞子の生涯』(2007改版)において触れられてゐることが情報の殆どだったのですが、件の雑誌追悼号の入手が困難な現在、編者によるあらたな解 説を付したコンパクトな決定版の刊行は意義深く、多くが自費出版とおぼしき新叢書ラインアップにあって抜きんでた一冊となるものと思ひました(『鈴木亨詩 集』もさうですが、旧「日本現代詩文庫」の一冊として刊行して頂きたかったです)。

『北方の詩』高島高詩集 (1938ボン書店)。ボン書店らしからぬ凡様の装釘と思ひきや、表紙は2種類の紙を使用。復刻版(1965)とは似て非なるものでした。(田村書店に て)

『山中富美子詩集抄』 (2009森開社)。これまた刊行を知りませんでした(田村書店に立ち寄ってよかったナァー)。 1983年に『左川ちか全詩集』を刊行した森開社の快挙 ですが、左川ちかの方も拾遺を収めた改訂版が再び計画中なのだとか。かたや乾直恵が恋に落ち、かたや伊藤整に恋に落ち、と詩人の恋愛ゴシップが有名です が、ともに成就しなかったのは知的抒情とはおそらくちっとも関係ない理由からなんだらうなと、かつて『左川ちか全詩集』や上田周二氏が著した評伝『詩人乾 直恵』に載せられた写真を見るたびに思ったことでした。ところが今回の刊行の後日談と して、病弱を恥じて文学上の知友と会ふのを拒み、突然筆を折っ て行方知れずになってしまった薄 倖の佳人山中富美子が、実は2005年、北九州の病院で老衰のためひっそりと息をひきとってゐたといふ事実が分かったのだといひます(享年91歳)。夢を 抱いて上京し病魔に斃れた「おちかさん」に対する追悼が、24歳の文学的才能に鍾るものであるのと同時に、文学と縁を切り地方に埋もれることを覚悟したこ の詩人の謎の後半生もまた、明らかになって欲しい気がする反面、謎のままでも良いぢゃないかと思ふのは、夢を封印した彼女の意思を尊重するといふより、 やっぱり私がつまらぬ男であるからかも知れません。とまれ初の集成は208p限定300部¥3800、知らずに買へなかった人、恐らく後悔します。

雲のプロ フイルは花かげにかくれた。
手巾が落ちた。
誰が空の扉を開けたのか。

路をまがつて行くと石階のあるアトリヱだ。
いつもの方角へかたむいて、扉までとどいた日影が、のびて行く所は昂奮する氣候を吐き出す白い海岸だ。
そこはすつかり空つぽだ。そこで海はおとなしい耳を空へ向けてゐる。(後略)     (「海岸線」より)




「モダニズム詩人荘原照子聞書」
 さて、この詩集を編集された小野夕馥氏は、左川ちかとの対比とともに謎に包まれた晩年を送った荘原照子との類似を指摘されてゐます。しかしこのたび手皮小四郎様よりお送り頂いた雑誌「菱」の連載「荘原照子 聞書」では、山中富美子が為し得なかった結婚と出産と生活の苦労について多くのページが割かれてゐまして、ここからは前回掲示板で触れた所にさかのぼりま す。

 雑誌「菱」168号(20101.1詩誌「菱」の会発行)
 手皮小四郎「モダニズム詩人荘原照子聞書」第9回「鎌におわれて故郷をたつ」38-47p

 
妻子ある牧師男性との結婚は、初恋の人に対する当てつけの気 持が働いてのことではなかっ たかといふ疑念。そして姓が変ったといふことは、病弱な前妻は二人の子を彼女に託し入院ののち亡くなったといふことになるのでせうか。罪ふかき彼女自身が 生んだ子供の名についても「どんな漢字を当てたのか知らない」と書かれてゐることが、すでに非常な不吉な次号以降を予感させるものです。そして詩人はこの 「できちゃった婚」によって故郷山口を追はれ、牧師失格の夫と岡山で新聞屋を始めるのですが、彼女自身あまり健康でないのに、子供たち3人を抱へての家業 の切り盛りに堪へうる筈もなく、加へて出奔直後の父の急死に際しては、おそらく葬儀には参列できなかったであらうといふ客観的な考察も下ります。この時代 に「後年のモダニズム詩の対極にある作品」が書かれたといふ事実、それは彼女のモダニズム精神が山中富美子とは異なり静謐な生活に育ったものではない証左 ですけれども、さらに新しい職を求めて一家が金沢へ発ってゆくところで今回は終了してしまひます。


小兎よ
わたしの草原を飛び去って
もう帰らぬと思つてゐた
おまへの姿を
今朝 わたしはみいだした
わが子の
愛しい身をおほへる
うす紅色のアフガンに    ※嬰児を包むおくるみ (「兎模様のアフガン」より)


 普通の伝記とは異なり、年譜が謎だった人物に関 する「新事実」と「稀覯作品」とが次々に明らかにされ、また敢へて距離を置いた視点で考察してゆく様は、 今回特にスリリングです。ハラハラさせられるとともに次号が待ち遠しく、毎回連載で部分的に紹介されてゐる初期作品たちの完成度の高さを見るにつけ、こち らもいづれ全体がまとめて公刊される機会の来ることを、祈らずはゐられなくなって参りました。作品だけ公刊されて伝記が謎のままとなってゐる山中富美子と は正反対で、小野氏がブログで「恨めしい限り」の運命と白されてゐること、よく分かります。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



 さてさて新刊の『山中富美子詩集抄』ですが、検索しても書誌や書評の類の情報はあんまりヒットして参りません。刊行元ほか一部の書店にしか販路を持たな いからでせうが、茲に検索結果が全く出て来ない、四季派マイナーポエットと呼んでも差し支へない無名の閨秀小説家の遺稿集の一冊があります。(おそらく) 昨年編まれました。正月明けに御遺族からその500ページにも亘る一本をお送り頂き、先週の出張往復の車中ずっとその集成に読み耽ってをりました。感慨一 入、御礼状さへ未だ認めてをりませんが、次回以降に紹介したいと思ひます。

寄贈御礼

 投稿者:やす  投稿日:2010年 1月 5日(火)21時52分6秒
   年明 けまして、皆様方から忝くしましたご寄贈を前に大変恐縮してをりま す。このささやかなサイトを通じて賜りました御縁に対しまして、あらためて深甚の謝意を表すべく厚く御礼を申し上げます。
 石井頼子様、棟方志功カレンダーをありがたうございました。早速和室に掲げさせて頂きました。さういへば今年は保田與重郎生誕100年祭ですね。
 手皮様、富田様、明日より週末一杯出張のため、来週以降にゆっくり御報告させて頂きたく、取り急ぎのお礼のみここにても申し上げます。
 ありがたうございました。

謹賀新年

 投稿者:やす  投稿日:2010年 1月 1日(金)09時39分25秒
編集済
  今 年もよろしくお願ひを申上げます。

(元画像は匿名氏より)