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村瀬太乙 (1803 享和3年〜 1881 明治14年)
編著 『幼學詩選』
(ようがくしせん)
嘉永二年 1849
小林新兵衛(江戸), 永楽屋丈助(江戸), 風月庄左衛門(京),河内屋喜兵衛(大坂),
永楽屋東四郎(名古屋), 永楽屋太助(名古屋), 萬屋東平[慶雲堂](名古屋), 上梓
3, 95, 78, 2丁; 8×18cm
村瀬藤城 跋
序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不便なり。先生、
之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如何。
懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ)らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。
先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、
録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶を好めり。唫唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。
所謂「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。嘿[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やがて)徐ろに眉を展ばし、
頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、是れ(わが)『幼学の詩選』なり。
弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。
跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜牧)、是れ其の最なり。
然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世は小杜を以て之を宜しと目す。
偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。
回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、
名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、
童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地下にて破顔するべし。
時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
藤城山人(村瀬藤城)
該書のコピーを二松學舎大学の日野俊彦先生より提供頂きました。(2010.4.12)