も どる
2005年5-8月 日録掲示板 過去ログ

山川弘至の遺稿集について  投稿者: やす  投稿日: 8月29日(月)23時02分27秒
 中村一仁さま
 残暑も当地ではひと段落してやうやく秋の気配です。フォローをありがたうございます。
 本日山川京子様より、山川弘至の遺稿歌集『山川の音』および遺稿詩集『こだま』をお送り頂きました。和歌の良し悪しが判定できない凡骨ゆゑ、桃の会をめ ぐる歌壇の現況等についても詳しくありませんが、さきに同会より刊行された『書簡集』では、詩人の最後の手紙に滲んだ無念に、粛然と息を飲む思ひ致しまし た。
 このたびも、特に郷土とのつながりにおいてどのやうに美濃の自然を心のふるさととして享けてゐるのか、といったところを興味の中心に、ゆっくり時間を割 いて繙きたく(実はまだ小山正孝遺稿集について感想を書いてる最中。汗)、また紹介だけでなく一言なりとも感想が書けましたらここに掲げ、パソコンをされ ないと仰言る京子様にもお知らせ申上げたく存じます。

【照会先】 桃の会:〒167-0051東京都杉並区荻窪3-29-16
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『山川弘至書簡集』1991/桃の会/351p/17.6×10.5cm/非売
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『山川の音(遺稿歌集)』2005/桃の会 /182p/17.6×10.5cm/非売
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『こだま(遺稿詩集)』2005/桃の会/281p/17.6×10.5cm/非売
編集済

ご存じかもしれませんが…  投稿者: 中村一仁  投稿日: 8月28日(日)04時06分1秒
やす様

時下ご清祥のこととお慶び申し上げます。
もう少し、終戦が早ければ、この人は生きて戦後、その才能を開花させてゐたであらうに…と思はせる人の一人に、山川弘至がゐます。折口信夫門下であるとと もに、保田與重郎に傾倒した彼の文業が、書物の形で少しでも多くの人に知られるのは喜ばしいことだと思ひます。

ご存じかもしれませんが、この夭逝した詩人の御令室が歌人の山川京子氏です。「桃の会」の主宰者として、淺野晃とも交流のあつた成田れん子に短歌を指導し た方でもあります。敗戦後、その山川京子氏のもとを一人の青年が訪れます。青年は「保田與重郎先生に活動していただくために雑誌を出します」と告げまし た。占領下であり、言論は抑圧されてゐる上、費用はどうするのか。山川氏がそのことを尋ねると、青年はひるむことなく「石鹸を売ります」と答へたさうで す。保田與重郎のためなら、そして祖国のためなら何でもするといふ覚悟をこの青年から受けた山川氏は「(雑誌は)何冊でも引き受けます」と即座に回答した とのことです。山川氏を訪ねたこの青年こそ、後年、奥西保氏とともに保田を支へて新学社を創立した高鳥賢司さんであり、その「雑誌」がかの「祖國」でし た。平成13年8月、高鳥さんの葬儀に山川京子氏が参列してゐたことが、名状しがたい感慨とともに思ひ起こされます。山川氏は戦前から保田と交流があり、 これまで断片的に何度か、保田についての思ひ出を書かれてゐますが、女史御本人による本格的な保田論を、特に歌人の立場から書かれた単行本の形で、いつか 拝読したいものです。「昧爽」の定期購読者の女性に山川氏のお弟子さんがをり、その方のご紹介状をいただいた上でお許しが得られたら、山川氏に保田や淺野 のこと、そして若くして逝かれた御夫君のことについて、インタビューをさせてもらひたいとも考へてをります。

末筆ながら、残暑やら台風やらで体がをかしくなりさうですが、御自愛専一に願ひ上げます。

詩人山川弘至について  投稿者: やす  投稿日: 8月25日(木)22時50分44秒
 今年は戦後60年、つまり敗戦間際に無念の死を遂げた詩人たちの60回忌でもある。
 郷土出身の日本浪曼派詩人、山川弘至もそのひとりで、今年になって遺歌集・詩集が刊行された由、未見の方からメールにてお知らせ頂いた。さきに書簡集を 刊行した桃の会からといふことで、続いて遺文集も出るらしい。
 奥美濃の郡上郡高鷲村には 記 念館もでき、遺品資料が公開されてゐるといふ。
 書誌など詳細が分り次第、また紹介したいと思ひます。

詩人高林清一について 2  投稿者: やす  投稿日: 8月19日(金)12時55分54秒
>高林ゆきよ様
 さうですか、佐藤惣之助門下!
 この掲示板を覗いてゐるひとで「詩の家」と聞けば俄然モゾモゾし始める御仁が何人もゐるんですよ(笑)。失はれた資料は実に惜しいことをされました。詩 集こそ出てゐませんが、当時の雑誌「詩之家」にはかなりの作品と文章が載ってゐるやうですね。昨日のレスで触れた吉川則比古、瀬尾貞男といった詩人たち と、まさに毎月作品を競ひ合ってゐた仲間であったことも今更ながら気づきました。
 『現代詩誌総覧』(日外アソシエーツ刊)索引をもとに、確認できる収録詩文を拾ってみました。お祖父さまの足跡を探索される際の御参考になれば幸ひで す。

「詩之家」より
第3年第4輯(1927.4)「父と子」18p
第3年第4輯(1927.4)「入家の言葉(『詩之家』壁書)」18p
第3年第7号(1927.7)「上庄川畔にて」24-25p
第4年第1号(1928.1)「水上の影」25-26p
第4年第1号(1928.1)「蟹」26p
第4年第1号(1928.1)「新しい生活者(壁画)」46-47p
第4年第4号(1928.4)「百姓」33p
第4年第4号(1928.4)「跪く者」33-34p
第4年第6号(1928.7)「一つの円の中へ」13p
第4年第6号(1928.7)「春の景色」13p
第4年第6号(1928.7)「展望」13p
第4年第9輯(1928.10)「美映」20-21p
第4年第9輯(1928.10)「美映」20-21p
第4年第10輯(1928.11)「半獣神」34-35p
第5年第1輯(1929.1)「半獣神(『詩之家』十一月号寸評)」42p
第5年第1輯(1929.1)「感動思情集」48-49p
第5年第1輯(1929.1)「扇子と蝿と少女」49-50p
第5年第7号(1929.7)「氷見鰯」5p
第5年第7号(1929.7)「オレンヂ色の風景」5p
第6年第4号(1930.4)「西方・丸亀市にて」9p
第7年第1号(1931.1)「上野の風景」66p
第7年第1号(1931.1)「首振り人形」66p
第7年第1号(1931.1)「秋」66p
第7年第4号(1931.4)「小卒男の歌☆失業する宗教 血の火花」34p

「詩神」より
第3巻第8輯(1927.8)「空・雲」55p

「椎の木」より
第3年第4号(1934.4)「春」55p

 残念ながら復刻が未だ無い雑誌なので、どんなものか知るためには所蔵の神奈川近代文学館まで出向くかコピー依頼をする必要 があります。しかし東京にお住まひでしたら近いですね(私は出身は岐阜(出生のみ名古屋)なのですが富山の大学を経由して上京、再び故郷へ戻ってきた「変 形Uターン組」です)。
 また、当時の同人誌活動が“現代の「バンド活動」みたいに若者の間ではカウンターカルチャーの一つとして捉えられていた”とは、云ひ得たりです。富山時 代には「裏日本」といふ雑誌を編集され、2輯までは出てゐたやうですが(「詩之家」第3年第3輯(1927.3)、および「詩魔」10輯(1927.9) 掲載広告より)、昭和2年3年の発表活動をみるに、実にはじけてます。もっとも上京してからは失意も経験されたとのこと、役所勤めを通じて、たとへばシャ ルル・ルイ・フィリップにあこがれた詩人大木実のやうに、詩風も順次落ち着かれて行ったものでありませうか。ともあれ経歴に謎のあるお祖父さんをもってる のは、一寸した優越感でもありますね。失はれた資料は実に惜しいことをされましたが(くどい)、お祖母様の苦労も偲ばれるやうです。それでは。

高林清一について  投稿者: 高林ゆきよ  投稿日: 8月19日(金)09時47分7秒
>やす様
お返事ありがとうございます!やす様も富山ご出身とは!私は氷見出身(現在は東京です)
なので、あまり岐阜に行くことはなかったのですが、実は近いんですよね。岐阜と富山。

昨日祖父の年譜を見てみますと、東海詩集に投稿したまさに翌年、上京している
ようです。14歳ぐらいから地元で詩や文芸の同人をやっていたよう。

昔の子は早熟なんですねぇ。それとも、詩というのは現代の「バンド活動」みたいに
若者の間ではカウンターカルチャーの一つとして捉えられていたのでしょうか?

市役所の書記をしつつ詩を書いていたようです。東京に来てからは都庁の小使い(?)
をやりながら、詩人で身を立てることを目指していたようですが。
しかし、様々な挫折感からか2年足らずで京都に行き、東本願寺に勤めたそうです。
小僧さんか何かでもやっていたのでしょうか・・・。謎です。

昨日のわたしめの書き込みに、大きな誤りがありました(汗)

×佐藤春夫門下に
○佐藤惣之助門
※↓

です。惣之助は学校に行けなかったような若者に「詩の家」という同人会を作って
作品を発表させていたようで、祖父もそこに参加したそうです。
祖父が富山に帰ってきてからは、惣之助が2回訪問しています。

『東海詩集』と「東海詩人」  投稿者: やす  投稿日: 8月18日(木)18時04分5秒
>高林ゆきよ様
 はじめまして。管理人の中嶋康博@【やす】です。
 戦前の東海詩集(東海詩人協会刊行 第三集)所載詩人、高林清一氏の御遺族であられます由、ここにあらためて掲載につきまして事後承諾をお願ひ申し上げ ますとともに、このたびはホームページの管理者冥利につきます御挨拶を賜り、現在閲覧が難しいこのアンソロジーを公開してよかったと、たいへん喜んでをり ます。今後ともなにとぞよろしくお願ひを申し上げます。
 巻末を見ますに、富山県からはこの第三集刊行時のただひとりの新会員として紹介されてゐますが、住所は氷見のままですね。この後、詩心やまず単身上京さ れたものでせうか。当時の東京が“ヒリヒリするほど刺激的でもありながら、同時に劣等感と対峙せざるを得ない場所”だった、といふのは世代を超えて、(出 身は岐阜ですが)卒業後あてもなく同じく富山から上京した私にとっても、切ない実感です。お祖父様もまた、思ひつめて先生の門を敲かれたのかもしれません ね(それ私でした 笑)。
 ありがたうございました。


>中村一仁さま
 淺野先生に書き送つた葉書・・・。うう。そんなもの捨てられずに残ってゐたんですか。たしか封書も『随聞日本浪曼派』の感想を、対話者とのちぐはぐなや りとりを、小賢しく論って認めた覚えもあります(赧顔)。


 さきに“モダ隊隊長” JINさまより、貴重な岐阜市の戦前詩誌「東海詩人」をお送り頂きました。御礼とともにここに謹んで公開致します。ありがたうございました。尤も詩誌は、 東海詩集・東海詩人協会とは縁もゆかりもありません。・・・過去の栄光にあやかったのかな。モダニズム系の吉川則比古(高山)や杉浦伊作(愛知)を招待詩 人に迎へ、またこれも同人に名を連ねてゐないのに、瀬尾貞男が後記のトップで「さて何を書かう」なんて格好つけてるけど、結局2号以降は出たのだらうか。 ともあれ岐阜詩壇の特徴である歌謡調、を脱しようと「まーんまかまか・・・♪」表紙のカットがいしいひさいち風でかわいい(笑)。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/gifu/tokaishijin1.html

編集済

(無題)  投稿者: 高林ゆきよ  投稿日: 8月18日(木)11時14分59秒
中嶋さま

はじまして!突然の書き込み、失礼いたします。

本日、祖父の名前で検索をかけましたところ、貴サイトの
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/00/toukaishishu3.html
「東海詩集」にて、私の祖父「高林清一」の詩が掲載されていることを
発見しました。

私の祖父は、昭和のごく始め、若いときに上京し
て佐藤春夫※↑の主催する詩の会に
入門したようです。
貧しさのため尋常小学校しか出ていない祖父にとって、高校生、大学生が闊歩する
東京はヒリヒリするほど刺激的でもありながら、同時に劣等感と対峙せざるを得ない
場所だったようです。

その後故郷の富山に帰って公職につき立身出世し、富山で同人活動をしておりました。

祖父は私が8歳のとき(1984年)に他界しましたが、死ぬまで文芸、とりわけ詩への
情熱を失いませんでした。74歳でした。
祖母は非常に嘆き悲しみ、見るのも辛いと手書き原稿などを祖父の衣服や私物とともに
処分してしまったそうです。

私が成長して祖父の詩が掲載されている同人誌や、原稿、ノートなどを見たいと
思ったときに、ほとんど残っていないと聞かされて非常に残念な思いをしました。

「おじいちゃん子」だったためか、今でも時々、思い出したように祖父の名前を
検索しているのですが、祖父の詩がのっている同人誌(しかも初期の物)の存在を
知っただけでなく、実際の詩まで読むことができて本当にうれしく思っております!

現在私の手元にある祖父の作品といえば、有志の皆様に出していただいた遺稿集と晩年
富山で出されていた同人誌への寄稿分ぐらいしかありません。

晩年の祖父の作風は、郷土愛あふれる落ち着いた叙景詩ですが、遺稿集で読む限り、
若いときの作風はかなり屈折した「朔太郎風」です。
「東海詩人」での詩も、そういう若者くささが滲みでていていました。
優しい人格者の祖父、昔話や世界の童話を読んでくれた祖父、という記憶しかない私
にとって祖父の青春の屈託を垣間見ることができるのは、非常に感慨深いのです。

長文になりましたが、本当にありがとうございました!
これからも、お邪魔させてください。

mayamaya6@excite.co.jp

哀悼 平野幸雄氏  投稿者: 中村一仁  投稿日: 8月15日(月)00時37分14秒
やす様

平野さんへの追悼文、謹んで拝読致しました。本当に、あの方こそ現代の畸人であつたと今にして思ひます。「昧爽」の第9号には間に合ひませんが、第10号 あたりで追悼文を書かうかと考へてをります。保田與重郎の高弟で新学社元社長の高鳥賢司さんの一年祭の前日、JR京都駅で目印の保田文庫の『日本に祈る』 を持つた私を迎へてくださつた、あの小柄で痩身の平野さんの姿が今も忘れられません。駅の隣のホテルのロビーで伺つた、伊東静雄夫人の花さんが保田を偲ぶ 「R火忌」に数年前まで参列してゐたといふ氏の証言を、今日に到るまで自分の手で明らかにしてはゐませんが、淺野晃を批判する梅原猛氏への反感などは、戦 後といふ時代を耐へて生きてきた人の言葉と受け取つたものです。「日本及日本人」に日本浪曼派論あるいは保田論を書かれてゐるので、できればそれを「昧 爽」に再録する形で追悼したいものと考へてをります。それにしても、こんな言ひ方は失礼かもしれませんが、亡くなつた日にちすら明らかでないといふのは、 実に謎の多い人であつた平野さんらしい御最期と思はれます。

話は変はりますが、穂別町の淺野晃資料室に、やすさんが昭和末に淺野に書き送つた葉書がありました。その他にも、芳賀檀や清水文雄、蔵原惟人や門屋博から の書簡に興味深いものがありました。次はまた冬に行つてくるつもりです。勇払時代の苦渋と悲哀がしみこんだやうな詩稿ノートには言葉もありませんでした。 これらもやはり翻刻せねばと思ひました。乱筆乱文ご容赦ください。

平野幸雄氏と「絨毯」のこと  投稿者: やす  投稿日: 8月14日(日)23時10分42秒
 京都の平野幸雄氏がなくなられた。日にちについてさへ今つまびらかにしない。音信が途 絶して二年近くなるが、その後中村一仁様より消息を仄聞して秘かに 安堵してゐたことでもあった。追悼の意を表するとともに、茲にあらためて思ひ出されることを書いてとりとめもなく偲ぶこととしたい。
  13年前の平成4年、東京から帰郷して間もない頃にさかのぼる。「自分の雑誌でぜひ田中克己先生の追悼号を出したい、ついては師 の晩年に一番近くあっ た者としてあなたにも何か回想を書いてほしい。自由に、何枚でも構はないから。」との趣旨で、ある日突然、未知のひとから手紙が届いた。電話だったかもし れない。その際自己紹介代はりに送られてきた雑誌(?)は、定型封筒に収まるやうレイアウトされた片々たる縦長のパンフレットで、であるにも拘らず、小高 根二郎、浅野晃とすでに刊行された追悼号への寄稿者が、中河與一、森亮、中谷孝雄といった錚々たる人たちであったこと。またたった100部余りを年に 1,2冊のペースですでに30号余りも出してゐるなんて、なんと息の細い長い雑誌なんだらう、と、ライフワークであるその風変はりなリトルマガジンの存在 に驚いた。そして当時「田中克己追悼」と銘打って全特集を組む気配のなかった巷の詩誌に慊らぬ思ひを抱いてゐた私は、迎へて下さるところがあるなら一度思 ひの丈をすべて吐き出してみよう、といふ気になり喜んで書かせて頂いたのだった。この寄稿は結局連載となって四回続き、以後文のみならず詩の依頼も受け、 おだてられた私は、浪曼派作家および戦中派世代の不遇を切々と喞つ手紙とともに、この奇特な非売雑誌「絨毯:じゅうたん」の寄贈に与る「若い客人」待遇と なったのである(序でながらいふと、印刷所だった文童社も、かつて詩誌「果樹園」を印刷してゐた浪曼派と縁深い印刷社であった)。
  それから平野さんは、私が担当することとなった『田中克己詩集』編輯の際に、短歌をどうして収めないのか、自費で印刷するから既 刊分だけでも「栞」と して綴込ませて頂けないか、と態々申し出され、詩以外を他日に期すつもりだった私の方針をゆさぶった。この御厚意に甘えることで結局、全歌集について中途 半端に已んでしまった責任は、お世話になった刊行元潮流社の八木社長が不快の意をもらされるまでもなく、全て編者の私に帰するものであって、亡き先生、御 遺族のみならず平野さんにもお詫びしなくてはならぬ不明についてあらためて記しておきたい。
  しかしながらこのリトルマガジンに寄せた文章が、その後拙サイトを立ち上げる際にはコンテンツの核となったのである。二冊の詩集 を出しても反応は続か ず、同人誌の参加にも意欲がもてなくなってゐた私に対して、さらなる作品を求めて下さったのも実に平野さんだけであり、寄稿詩に恥じぬものを選り抜き掲載 して頂くことでピリオドを打ち、私は自らを孤独な詩作から解放させる方途としてその後インターネットにひらかれていったのである。パソコンとは無縁の方 だったが、その際にも平野さんは「ホームページを宣伝しませう」とて「絨毯」の裏表紙に大きく紹介文を載せて下さったのだった…。
  平野さんとの通行が途絶えたのは52号を出された平成14年の春以降のことである。微々たる小額の借用と律儀な返済を何度も繰り 返されるので、私がこ れで終りにしませう、今までお世話になってゐるのですから返却はお気遣ひなく、との返書を認めたからであった。古書価の暴落がはじまりいろいろな全集が安 くなって古書店の店頭に出てゐると、矢も盾もたまらなく買ってしまはれるらしかった。さりとて物に執着される風はなく、「この新刊まだ御存知ないでせう」 と、浪曼派関連の恵贈本を突然送って下さったりする。だから無心のことも、或は手紙を寄せる口実だったのかもしれない。その以前にも一度、半年ほどのブラ ンクの後に電話で、しばらく入院してゐたことや、「実はガンなんですけど歳だから薬で抑へてをれば平気なんです」と明るく笑って話される平野さんだったか ら、中村一仁さんから、その後も「絨毯」が刊行されてゐる事とともに、平野さんが相変らず元気である様子を知らされる機会を持つやうになると、私は平野さ んとの疎隔にはじめて気付くとともに、しかしむしろこれを汐に、後は新しい若い友に頼むこととして、私はホームページで広がり始めた新しい繋がりのなかへ 進んで、深刻に気遣ふこともなくなってしまった。平野さんの好きな話題について書けることが少なくなったので、自分は用済みとなりそれでよかったのだと一 人合点したのである。
  二度も直接お会ひして話し込む機会があっにも拘らず(一度は京都駅で、一度は岐阜まで来られ、山寺の庵にご案内したかと思ふ)、 家庭の事情に立ち入る ことをしなかったから、御家族のことは存じ上げない。一兵卒として帰還された後、戦後は京都撮影所関係のお仕事に就かれ、今は年金暮らしの気楽な独居であ ることをお聞きしたが、その遺志と蔵書の行方を知るすべは無く、長らく「編輯中」と予告されてゐた御自身の歌集『マレオテイスの野』もどうなってしまった かわからない。先達て古書展で関西の古本屋さんから大量の詩集歌集句集が出て、なかに私の詩集を発見したと報じて下さる方があり、もしや平野さんの蔵書で は、とも案じられたが、いったい何を案じたものか理由も資格もわからぬままに、今は御冥福をお祈りするばかりとなった。明日は毎年のやうに手紙で平野さん が不満をもらされた「大東亜戦争」の「敗戦記念日」である。
編集済

山上銷夏  投稿者: やす  投稿日: 8月 9日(火)20時13分17秒
今夜は信州鉢伏山の山荘にて一泊。むかし詩を書きに来た山に十余年ぶりの来訪です。食事 どきには鹿の親子に窓から覗かれ大喜び。しかのみならず(笑)山小 屋のワンちゃんとはお友達になったりして。

(無題)  投稿者: やす  投稿日: 8月 4日(木)12時47分41秒
新宿京王古書展の均一台(?)に拙詩集あらはるとの彭城矯介様よりの情報。
出品は関西の古書店で・・・ほかにも「詩集歌集句集がかなり沢山」といふことは・・・平野翁の蔵書が処分されたのかもしれない。

『朔』156号  投稿者: やす  投稿日: 8月 3日(水)19時25分0秒
八戸の圓子哲雄様より『朔』156号をお送り頂きました。前号につづいて、特輯は青森の 郷土詩人一戸謙三(筆名:一戸玲太郎)。「もはや忘れたい過去」と して「詩人自らの手で葬られた」初期の未刊詩篇の数々。『ねぷた』の郷土詩と『詩鈔』におけるモダニズム詩しか知らぬ私にとって、もうひとつの(そして もっともなじみやすい)横顔でありました。言及されることが少ないマイナーポエットの詩史上における位置や意義について、新出資料に基づき坂口昌明氏が解 説される手際に敬服します。ありがたうございました。

後記にて平野幸雄氏の訃を知りました。いつ亡くなられどのやうに伝はったのか、圓子様にお聞きしたいと思ひます。

『保田與重郎の維新文学』  投稿者: やす  投稿日: 8月 1日(月)22時44分28秒
『保田與重郎の維新文学 私の述志案内』古木春哉著--白河書院, 2005.1, 193p.非売

 先達て中村一仁氏を通じてご恵送頂いた本書は、著者が一期の決算として、自ら旧著(『わびしい来歴』1976)に増補改題を施したものが、そのまま遺稿 集として刊行されることとなった、非売品の一冊である。
跋文で、谷崎昭男氏が在りし日の著者について、日本浪曼派の研究者ではなく「あくまでそれを恢復といふかたちで行為しようとしたひと」であったと偲び、ま た「厄介な氏の稟質」が凝ったやうなその文章に至っては、「読者はその難解をむしろ労はるのがつとめである」とまで書かれたのは、四十年来の友情に応へて 最も本書の意義を伝へるくだりであらう。それほどにも著者が信奉した保田與重郎の文体に擬へた本文は、しかし述志の気迫が含羞の韜晦をともなひ、たいへん に読みづらい。日本浪曼派へのオマージュであったればこその「姿勢」なのだが、けだし「研究者ではなく、あくまでそれを恢復といふかたちで行為」すると は、作家を分析するのではなく、作家とともに世間の俗を暴き立てるといふ、日本浪曼派独特の批評流儀のことを指すのであらう。ならば、保田與重郎のやうな 述志と韜晦を極めた批評それ自身に対するオマージュとは、同じ方法によってはあり得なく、むしろ師の自らに対する架空の批評に鼓舞されつつ、歌なり詩なり の実作によって鬱屈を昇華させるのが素直な発露ではなかったかと、その文章から立ちのぼる人となりを思って惜しんだのである。ひとから「日本浪曼派運動 史」を書くやうにすすめられて憤ってみせるところ、清貧の私小説家の父を持つといふ運命のもとに出発した非職業文筆家(ディレッタント)たる著者におい て、確かにいろいろなことが秘匿・優遇・免責されるかもしれないところに、一種の「甘え」はなかったらうか。
と、云ふは易いが、翻って私にとっても切実な課題が横たわってゐるから敢へて云ふ。「日本浪曼派」を「四季派」なり「戦前抒情詩派」とすれば、かうした批 判はそっくり自分に突き刺さるからである。
もっとも私かに歌集や詩集はおもちだったかもしれない。
著者が自らの中学校時代を振り返り、戦中は自分のことを戦争協力に協力的でない要注意人物と刻印したやうな校長のことを、戦後、数を恃んで押し寄せてきた 同級生達から弾劾されようとした時に、反対に擁護に働いた、といふエピソードを興味深く読んだ。ここには「より公共的な戦争協力を当為と感じてゐるやうな 狷介年少の詩人」――いつでも多数派の中に俗悪を見出さざるを得ない宿命としての「天の邪鬼」たる著者の面目が躍如してゐる。彼が味ははなくてはならな かった失意、天性の浪曼派ゆゑに陥らざるを得ない敗者の誇りとその結末について、もっともっと身近の言葉で語って頂きたかった気がする。
冥福をお祈りします。


>中村一仁さま
といふわけで、北海道より帰還しました。入れ替り、ウニ丼食べに出発されたでせうか。私もおいしいもの食べすぎでたいへんなことになってゐます。「札幌の 印刷所」…とは、青磁社などのことですね。
弘 南堂書店には『山羊の歌』函付90万円也が飾ってありました。
「かつては全く見ない本だったのに、ここ何年かで十冊ほど出たんですよ」とは御店主のお話。函欠瑕物ながら今年我が蔵儲に帰することとなった一本も、その どさくさのおこぼれに与ったといふわけであります(♪)。

仕事や受贈の御礼などひとつひとつ片付けてゆきます。暑くて死にさうです。

思ひ出の弘南堂書店  投稿者: 中村一仁  投稿日: 7月27日(水)23時35分34秒
やす様

ご無沙汰致してをります。北海道旅行の最中でせうか。どうぞよいご旅行とならんことをお祈り申し上げます。

北大前の弘南堂書店、本当になつかしいですね。学生時代、毎日のように店を冷やかしてゐたのが思ひ出されます。正門近くの南陽堂書店とはご主人同士が兄弟 といふ、北海道を代表する古書店ですね。私は昔、弘南堂で角川の『丸山薫全集』を購入しました。桶谷秀昭氏の『中野重治 自責の文学』や『保田與重郎』 を、当時としてはずいぶん高い値段で買ったのもここでした。

もし時間があるなら、札幌の石川書店や並木書店など、丹念に廻られることをお勧めします。敗戦後、東京の印刷所が焼けてしまつたため、札幌の印刷所で刷ら れた文学書が少なくないせゐもあり、黒つぽい本に意外な拾ひ物があるかもしれません。それと、北海道は淺野晃の友人知人が多い場所だつたせゐもあり、歌集 『廣原』や詩集『光の中に歩む』など、淺野の稀覯本が信じられない廉価で売られてゐたりします。『幻想詩集』なんかも、どこかに転がつてゐるかもしれない ですね。

私は8月上旬に、北海道に足を伸ばして小樽で寿司やウニ丼、海賊蒸しなんかをたくさん食べてくるつもりです。淺野晃宛書簡翻刻のことは「昧爽」に書くつも りです。ではまた。

北海道より  投稿者: やす  投稿日: 7月27日(水)00時09分17秒
本日、札幌弘南堂書店をめぐる。収穫『近世儒林編年志』昭和18年ほか。にこにこ。

業務連絡  投稿者: やす  投稿日: 7月22日(金)11時41分44秒
小山正孝氏の御遺族より『未刊ソネット集』小山正孝著 -- 潮流社, 2005.7, 451p.
をお送り頂いた。本日よりしばらく家を留守にするので、帰還後には感想を記したい。取急ぎ御礼を申し上げます。ありがたうございました。

日本古書通信912号  投稿者: やす  投稿日: 7月14日(木)23時03分48秒
日本古書通信912号本日落手。人魚の嘆き様連載「続署名本の世界」の余談として、近来 の“大発見”について詳細が報ぜらる。偶々オークションで手に入れ た『一握の砂』並本の、何故か糊付けされてゐた見返しをはがしたら、なな何と、啄木の尾崎行雄宛とおぼしき署名が現はれたといふもの。前の所蔵者は気がつ かなかったのかしら? それとも由来に曰く付きの本?? 当の人魚の嘆き様は「いーや、曰くがつくなら此度の連載をミューズに嘉せられた我に付くべし」な どと(笑)。しかしこんなこともあるんですね〜。ますますオークションに参加したくな・・・我慢がまん(汗)。

目録では新村堂書店からコギト1〜131号(123号欠)130冊の合冊が \136,000。
また新岐阜百貨店からも古書目録届いたけど・・・今回はみるべきものなし。しかも会場の新岐阜百貨店は今年で廃業。近鉄に続き、岐阜で古書展をするデパー トが潰れてゆく。来年からどこでやるのかな。

(無題)  投稿者: やす  投稿日: 7月11日(月)12時24分28秒
梁川星巌の掛軸。例の、 『梁 川星巖先生印譜』未掲載の二顆を捺したものが、Yahooオークションに出てるのを発見。
印の組み合わせやサインの筆跡までそっくり。
こんなの見てるとオークションに参加したくなります。

http://page10.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m16358227

編集済

追悼  投稿者: やす  投稿日: 7月10日(日)16時50分29秒
 串田孫一氏の訃 報(8日)を新聞で知り、昔頂いた詩 集の礼状を取り出してながめる。
 最初の詩集はいろいろな詩人に献呈したが、現在高名にして、温かいメッセージを添へて励まして下さった先輩はすくなく、封筒が再生手作りのものだったこ とも含めて、とてもカンゲキしたことだった。思ふに二十代のみぎり、わたしが霧が峰高原や那須岳周辺まで足繁く散策に通ったのは、すでに信濃追分では感じ られなくなった戦前の四季派的山麓風景を、戦後の山岳地帯の自然に置き換へて、その詩情の開拓者であった串田氏や尾崎喜八の著書を通じて索め、慕ったから ではなかったか。それは未知なる追体験といふより、かつて幼年時代、父の持ち物だったスキーの革靴やチクチクするセーターやの、ワックスの匂ひがする想ひ 出にまで繋がる。謂はばいみじくもこの手でつかみ得た四季派詩情の尻尾でもあったのである。
慎んで哀悼の意を表します。
編集済

「立原道造賞」  投稿者: やす  投稿日: 6月30日(木)22時39分49秒
立原道造記念館から館報34号と企 画展の 御案内をお送り頂きました。ありがたうございました。企画展では来簡として保田與重郎や田中先生(全集未収録)も展示されるとか。とまれ館報の誌面後半を 飾り、本草書誌学的薀蓄を全開するりょくと様の一文「詩集の彩り 風信子追録」に瞠目です(書影があったらなほ楽しめるものになったでせう)。また日経 アーキテクチュア主催の「立原道造賞」はすぐれた意匠の設計を応募した若手建築士に与へられる新設の賞。職場の大学の住居学の学生およびOGの皆さんには 是非チャレンジしてほしいですね。
編集済

掛軸の解読  投稿者: やす  投稿日: 6月25日(土)21時51分47秒
吟愁和(帶)酔半瞢騰

時(坐)待林梢殘月昇

一陣飛香竹(春)影閃

風花亂撲水晶燈

  吟愁、酔ひに和して半ば瞢騰(ぼうとう)
  時に待つ、林梢、殘月の昇るを
  一陣の飛香、竹影の閃めく
  風花乱れ撲つ、水晶の燈

( )は版本(『黄葉山房集』:嘉永元年12月〜2年8月)所載時の字
『梁川星巌全集』第二巻 94-95p:伊東信編著、昭和32年刊より
編集済

【今週の受贈書目】  投稿者: やす  投稿日: 6月24日(金)23時34分1秒
『保田與重郎の維新文学 私の述志案内』古木春哉著、平成17.1白河書院刊、非売品 (中村一仁様より)
「近代文学・資料と試論」4号(碓井雄一様より)
 中村さま、碓井さま、ありがたうございました。
ほかに明 治古典会七夕大入札会目録、扶桑書房目録など。
古木春哉氏の遺著については、追って思ふこと書きたいです。

 さて購 入の掛軸。箱はもちろん風帯・一文字もなければ軸先すら欠けてる逸品です(\8,500だもの 笑)。
関防印が合致してホッとしたものの、残りの印は真贋をどうかういふ前に印譜には未掲載(!)載ってない!うーん、困った。けだし“西征”中には、方々の止 宿先で揮毫してゐる間に失はれて伝はらない落款の一、二顆があっても不思議ではない。こりゃ世紀の発見だ、わあい。などと都合のよい想像。ともあれ150 年ぶりかに“里帰り”した掛軸を眺めては、ひとり北叟笑んでをります。実に、その、良い・・・「なんとか瞢騰ゴニョゴニョ水晶の燈」読めない(爆)。県立 図書館に行って全集を見てきます。
編集済

出張先より  投稿者: やす  投稿日: 6月22日(水)22時56分29秒
今夜より姫路はゆかた祭とか、屋台で大変な賑はひでした。浮かれた勢ひでせうか(笑)骨 董屋さんの店先で星巌の軸を発見、破格だったので買っちゃひまし た。印譜照合の結果は帰宅後発表。乞ふ御期待。皆で笑ひませう。

業務連絡  投稿者: やす  投稿日: 6月20日(月)12時27分36秒
今週から三週間断続的に出張に入ります。レス遅れましたらあしからず御海容ください。
編集済

(無題)  投稿者: やす  投稿日: 6月17日(金)22時45分30秒
日本古書通信No911号到着。人魚の微笑様の予告通り「続署名本の世界」は今月をもっ て最終回。年内に単行本化される「署名本は語る」は100部限定で \8,000(販売は50部のみ)。抽選応募は一人一枚往復葉書で人魚書房まで。(〒171-0022東京都豊島区南池袋3-9-5-912)

石神井書林目録No.66号到着。
『山上療養館』昭和14年コギト発行所\15,750、『校註祝詞』昭和19年私家版\73,500、『岩魚』カバー欠昭和39年「陽炎」発行所 \4,200、『浚渫船』見返欠昭和12年由利耶書店 \8,400などなど。

「絨毯」主宰者平野幸雄氏消息不明の由、中村一仁様のお便りにて知る。氏と通行が無くなって久しいが、私に代はって中村様のやうな浪曼派の血脈を継いだ若 い友を得たことを知って、かげながら安心してゐたことでもあった。以前、文通の当時にも連絡が途切れたことがあって、そのときはしばらくして「実は入院し てたんです」などと電話口で大笑された翁であったが、独居に加へすでに宿痾を薬で抑へる身であった。「絨毯」もその後何号まで刊行されたかを詳らかにしな い。まずもって無事を祈る次第にて、皆様からの情報提供を募ります。

(無題)  投稿者: やす  投稿日: 6月 9日(木)21時16分57秒
購入の漢詩集、本日到着。
“御隠居ポエット”の詩集、表紙裏は“三都書林発兌(天保庚子=11年春新鐫)”となってゐて、『月瀬幻影』で紹介されてゐる“天均堂蔵(天保10年)” とは異なる後刷りと思しきもの。目録には天保10年と記載されてゐたから、てっきり紹介通りの地方の私家版と思って注文したんだけどちとガッカリ。
『柳湾漁唱』は、以前かわほり堂から売って頂いた端本と合はせて、三冊揃ふのを夢見るやうになりました(♪)。
編集済

(無題)  投稿者: やす  投稿日: 6月 8日(水)19時59分42秒
岡部さま、はじめまして。
おたづねの作品は
『水 浴する少女』壺田花子 第三詩集(昭和22年12月10日 須磨書房刊) 23-24p
に歴史的仮名遣ひで載ってゐました。
御指摘の部分は「花根」(ルビなし)となってをります。
とりいそぎ御報告まで。レファレンスありがたうございました。

壷田花子作「夏河」についてお尋ねし ます  投稿者: 岡部悦子  投稿日: 6月 8日(水)15時57分32秒
詩の出典と、詩の表記について教えて下さい。
故中田喜直氏が女声合唱に作曲されています。
花根(かこん)が辞書に見当たらず、仮根(かこん)ではないかとの
疑問を持っています。よろしくお願い申し上げます。

「夏河」
水の底なる
オフェリャ様
お優しい姿が映ります
摘みとられ
流されてゆく
水ヒヤシンス

川上では
蛇が首を持ちあげて
上手に泳ぎます
裸の黒い天使が
水音を立てて
浮ぶ花根(かこん)を
じゃまがります
小さな魚を
掬うために

http: //www.ongakunotomo.co.jp



新村堂書店古書目録  投稿者: やす  投稿日: 6月 7日(火)07時51分5秒
新村堂書店古書目録到着。
相変はらず手の出ない美濃の漢詩集に加へ、この度は新顔に北條霞亭の詩集が写真入で登場(『嵯峨樵歌』\89,250)。また『雲嶺樵響』は、以前読んだ 『月瀬幻影』(大室幹雄著、中公叢書2002)冒頭で、一章を割いて紹介されてゐる静岡・藤枝の“御隠居ポエット”の詩集だ。岐阜でいふなら山田鼎石のや うな詩人かな。
近代詩では再びあらはれた『詩集西康省』の署名本(今度は三好達治宛 \29,400)にドッキリ。 報告をはり。


(無題)  投稿者: やす  投稿日: 6月 3日(金)17時57分34秒
図書館に毎月送られてくる広報誌は、目次には目を通すやうにしてゐる。

「學鐙」Vol.102(2) 18-21p「立原道造と建築」鈴木博之氏は今度の新全集の編集に係ってをられる一人。
例の「ヒアシンスハウス」のことを、“とてもとても純粋ではあるけれど、少年らしい欠点だらけの小屋”で“隠者の庵ではなく、少年の秘密基地に近い”と記 されてゐる。云ひ得て妙なり。

思ひ違ひ  投稿者: やす  投稿日: 6月 1日(水)23時29分24秒
本日「岩手の農民詩人の状況」到着。あれれ、鈴木伸治と鈴木信治は別人なるべし。
『傾斜ある感情』もってるけど、穏和な抒情詩なので、をかしいと思った。
・・・恥ずかしい。


(無題)  投稿者: やす  投稿日: 5月30日(月)20時57分21秒
【江戸漢詩情報】
図書館に毎月送られてくる「創文」といふ広報誌に、日本漢詩人紀行(林田愼之助)といふのが連載中です。
 これまでの細目は以下のとほり。単行本になるのかな。

1.「淡 窓の筑遊」(No.469,2004.10 ,p1-4)
2.
「蘇 峰の碑」(No.470,2004.11 ,p12-15)
3.
「菊 舎と費晴湖」(No.471,2004.12 ,p11-14)
4.
「光 圀と六地蔵寺」(No.474,2005.4 ,p15-18)
5.
「茶 山の紅葉夕陽村舎」(No.475,2005.5 ,p15-18)
6.
「醒窓の遠帆楼詩集」(No.476,2005.6 ,p7-10)
7.
「鵬斎藤の磊落」(No.477,2005.7 ,p23-26)
8.
「如亭の風狂」(No.478,2005.8 ,p25-28)



鈴木伸治の評伝  投稿者: やす  投稿日: 5月28日(土)12時25分36秒
本日図書館宛に岩手出版より「廃業に伴う書籍の販売について」なるダイレクトメールが 着。
裁断処分される本の案内である。なかに東北の詩人、鈴木伸治の 評 伝を発見、
\4000→\700(〒\300)とのことなのでここにお知らせいたします(在庫は只今23冊。私も注文しました 笑)。ははん、こんな本が出てるせゐ もあって詩集がバカ高くなっただな。
ほかに啄木の文 学編年資料集(\5,300→\1,600 残部13冊)も。

岩手出版(〒023-0889 岩手県水沢市高屋敷89-7 Tel:0197-23-8485)


『昧爽』第8号  投稿者: やす  投稿日: 5月25日(水)21時59分16秒
 中村一仁・山本直人さま共同編輯同人誌『昧爽』第8号をお送り頂きました。厚く御礼申 し上げます。
「特集 遥かなる明治」「追悼古木春哉」の各寄稿文のほか「浅野晃ノート」連載もはや4回を数へ、雑誌の充実ぶりに目を瞠るばかりです。ここにても皆様の 御健筆をお祈り申し上げます。ありがたうございました。

 先週は私事にて青森まで一っ飛び。むかし恐山や斜陽館を旅した学生時代から実に20余年ぶりのことにて、もう感無量。
 宿で「トゲクリガニ」といふ蟹を食べさしてもらひました。こぶりの毛ガニみたいので、この時期にしか採れないらしく、「ははん、太宰治が『津軽』の中で 山盛り堪能したと書いてた”蟹田のカニ”だな。」と直感。あとは近代文学館や棟方志功記念館、寺山修司記念館など、ブンガク的な見所は一切パスしてのとん ぼ返りでした。圓子哲雄さん、お会ひしたかったなあ。今村どの、どうしてるかなあ。

最後に【江戸漢詩情報】
『江 戸の儒学』(うーん、またもやペリカン社。高いなあ・・・思案中です。)


(無題)  投稿者: やす  投稿日: 5月16日(月)20時24分1秒
続いて福地書店の目録から『五山堂詩話』8冊揃 \28,000 むむむ・・・(汗)。

『得齋詩文鈔』  投稿者: やす  投稿日: 5月15日(日)20時05分19秒
県立図書館でどんなだか実見。扉、序跋、「上内贈村瀬士錦」(七絶)、「藤城書屋記」 (文)などコピーして帰還。所有欲歇めり。


 上内(こうずち)村瀬士錦(村瀬藤城)に贈る。

赭圻蒼壁鬱成環 中有騒人掩草關 日夕唯親賢聖籍 匹如蘇子在眉山

赭き圻(さかい)、蒼き壁、鬱として環となる。 中に騒人(詩人)の草関を掩ふ有り。
日夕、ただ親しむ、賢聖の籍(書籍)に。 たぐふに蘇子(蘇軾)が眉山に在るが如し。


(無題)  投稿者: やす  投稿日: 5月14日(土)21時19分29秒
【日本古書通信 Vol.70 No.5】
人魚の嘆き様の連載は次回が最終回の由(残念、でもおつかれさまでした)。
また目録のページからは、新村堂から長戸得齋の『得齋詩文鈔』が\42,000とな…(タメイキ)。

【高円寺西部古書展】
『定本 木下夕爾詩集』1966函帯が\10.000で出てゐます(星野書店:03-3398-3150)。でも“署名入り”って誰の? 私はふくやま文 学館の『在郷の詩人木下夕爾』\500といふパンフレットをネット検索でみつけて興味津々。

【近況など】
今週は津村信夫宛の『詩集西康省』と、かつての宿願(?)だった『井口蕉花詩集』を入手。
競合したひとたち御覧になってたらゴメンナサイ。

TNX FR UR QSL  投稿者: やす  投稿日: 5月11日(水)07時29分15秒
昨日、フランスから届いたぐれむん様の
絵 葉書。だれだらう。あ、こ のひとだ。知らないや(笑)。
道中お気をつけて。メッセージ有難うございます。


『保田與重郎書簡集』  投稿者: やす  投稿日: 5月10日(火)09時01分38秒
 中村一仁さま、こんにちは。
 浅野晃の連載順調の由、また『保田與重郎書簡集』といふ嬉しい企画を聞かされて喜んでをります。
 膨大な量が遺されてゐると思しき保田與重郎の書簡については、若い頃の書簡、ことにも戦争や事件について言及した書簡、女性や少年に宛てた書簡など、興 味つきませんが、いったいどれだけの分量がどのやうな人々から集まる目算のたつものか、御本人は文学者の書簡を発表することに対し、至って慎重といふか自 他にわたり否定的であった訳ですが、おそらく書簡集があの全集に収められなかった一番の障礙となった原因は、収集作業が茫漠・多岐にわたる困難な事業であ ることが、編輯に携はったどなたにも容易に見渡せたからぢゃなかったかと憶測されます。
 もっとも雑誌「イロニア(新学社)」においてまとまって公開された平林英子宛の書簡が、彼の著書の文体から一般に想起される人間性を、(期待通り)嬉し く裏切ってくれる内容と書きぶりだっただけに、この度の谷崎昭男氏の企画が同じい意向を踏んだ、かゆいところに手が届くやうな配慮をもって実現すれば、 (例へば伊東静雄の日記・書簡集とは違った切り口から)日本浪曼派の生成の現場を伝へる、文学史上の第一級の文献となるのに相違ありません。といふか、当 節、日本のアイデンティティに対して外からの誤解、内からの暴発が懸念されるなか、もっとも柔軟性がもとめられる言論界における“慶賀すべき事件”となっ てほしいものです。ほんたうに待ち遠しいですね。


「昧爽」第8号について  投稿者: 中村一仁  投稿日: 5月 9日(月)20時36分58秒
やす様へ

大変ご無沙汰致してをります。御健勝のこととお慶び申し上げます。

「昧爽」第8号が本日入稿になりました。今月25日ごろにはお手元にお送りできるかと思ひます。今回は、明治の特集です。山本直人君の田山花袋論などが収 録される予定です。また、淺野晃についての拙稿や山本君の西田・倉田論など、今回は新しいものも含めて、連載も多くなつてをります。何卒ご叱正賜りたく存 じます。

さて、先日神保町の古書店で、中国大陸から帰還した頃の保田與重郎が大鹿卓・淺野晃・牧野吉晴の三人に宛てて書いた一枚の葉書を発見。敗戦後の保田の心情 と感慨、再起にかける思ひが短い文面から強く伝はり、胸の底から揺さぶられるやうな感動を覚えました。迷はず購入するとともに、新学社から刊行が予定され てゐる『保田與重郎書簡集』の編集を手がけてをられる谷崎昭男先生に、コピーを提供する所存です。書簡集収録の暁には、書簡集の目玉の一つとなるだけでな く、今後保田の伝記などが書かれた時、敗戦後の心情を伝へるものとして、必ず執筆者に引用されること間違ひなしの資料だと確信してをります。著作権の関係 で、その文面を紹介できないのは残念ですが、三人(揃つて尾崎士郎主宰の「文藝日本」の同人だつたはずです)の行方が分からなかつたためか、あて先は大鹿 の住所となつてをり、発信地は「大和国桜井町」となつてゐます。

末筆ながら、どうぞ御自愛ください。

国 民の休日に  投稿者: やす  投稿日: 5月 4日(水)10時26分54秒
 このホームページの公開をはじめてまもなく6年にもなりますが、ずっとふしぎに思って ゐることがあります。それは、このサイトがやってゐること、やらう としてゐることは、おそらくよその人たちによって次々になされ、こんな中途半端なへなちょこサイトは直にインターネット検索結果にもかかりづらくなるだら うと思ってゐたのに、そのやうな状況になかなかならないことでした。尤も、ここが中途半端な書誌公開を中心とするへなちょこ論考サイトであることは的はづ れでない。しかし四季派をはじめとして昭和初期の抒情詩人達をテーマに据えて顕彰・研究をはかるホームページの数が、日本の大学で近代文学の研究をしてゐ るだらう先生方、院生、学生達の数のことを思ふと、あまりにも少ない気がしたのであります。大学における研究成果の一般公開はこれから先どんどん進むもの と考へられます。 CiNiiか ら検索をかければ題目名だけでなく、リンクされた論文本体に直接たどりつく機会も、今後ますます増えてゆくことでせう。しかしそれはあくまでも一度印刷に 付されたものが著者の許可を得て公開されてゐるのであって、つまりそれを書かなければゐられなかった著者に即した理由が、直接彼の手を通じてインターネッ ト上で公衆に対して問はれてゐるわけではありません。私にはそこのところがなんとももどかしく感じられてなりません。一般に研究者業績としてインターネッ ト上の論考が参入されることはないのでせうし、ホームページ掲示板といった、顔の見えない相手とのインタラクティブな交流の場を設けてあげく筆禍に遭ふよ り、上下関係にある学生相手に直接持論を吹聴してゐる方が楽なのには相違ない。また、論文対象について云っても、思想的に攻究できないやうな戦前抒情詩人 たちの文業は、詩史的、書誌的、統計学的に追っかけてゆかなくては研究成果とはなりにくいものだし、それを誰でも閲覧できるところに逐次的に公開してゐた のでは、学術的な実績にもならない訳でせう。逆に云へば、インターネットにおける好事家・アマチュアの出番がそんなところにあるわけで、以前古書店主のあ らわした書誌学的な著書が掲示板上で研究者と思しき人たちから散々に叩かれたことがありましたが、あの内容もインターネット上に無料で閲覧できるやうな形 で公開されてゐたのだったら何も問題にはならなかったに違ひありません。ことほど左様に「印刷に付す」といふことの権威・権益といふものは大変なものなの であります。

 九州地方の文学資産データベースをめざして「ス カラベの会」を たちあげられた亡き花田俊典さんが、御自身のサイトを「ゆるやかに相互連携しあう情報収集と発信のシステム」と位置づけられてをられますが、そのやうな不 文律として成り立つ、当初のインターネットの理念であったらうところの連合に寄せる信頼を私もまた共有できたらと思ひます。

「(前略)それならいっそ情報上の架空の図書館をつくろうというのである。つまり、判明している限りの情報(人名・雑誌名・その他各分野の項目に及ぶ)を 網羅し、その現物の所蔵場所なり人名の詳細文献リストなりを各項目に逐一付記していくのである。将来的にはこのデータを各地の公共図書館で閲覧に供し、同 時にインターネットでも公開する。いずれかの方法でアクセスし、現物が見たかったら、その所蔵者(公共図書館、あるいは閲覧に応じる個人)に申し出て、そ れを手にしたらいいのである。これが全国各地のブロックで実現したら、どんなにわくわくすることだろう。とくに珍しい資料は、(中略)著作権とか版権とか の問題がクリアできるなら、インターネット上のホームページで写真版公開すればいいのである(後略)」(ス カラベの思想より)

 今後の私は、いろいろな理由から古書を買ひ足すことは少なくなってゆくのぢゃないか。ただ現在手持ちの戦前の詩集については、江戸時代の漢詩読書と並行 して、著作権にも配慮しながら書誌と抄出の公開を再開してゆきたいと思ひます。職場〜日本〜地球にいたるまで、なんだか日々すべてが世知辛く生き難くなっ てゆく環境のなかで、この連休、少しく正気と初心をとりもどした頭をゆっくり休めてゐるところ。おかげさまでワン公も無事恢復しました。U^ェ^Uゞ「ご 心配お掛け致しました〜。」