2004/11/15update
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つぼた はなこ【壷田花子】『水浴する少女』1947


水浴する少女

詩集 『水浴する少女』

壺田花子 第三詩集

昭和22年12月10日 須磨書房刊

112p 12.5×9.0cm 並製 ¥30

限定部数不明

p1


花子さんに

女流詩人 壷田花子の名もずいぶん久しいものである。それだけに、彼女のこの頃の活躍はうれしいけれど、その実力と労苦に比べて報いられるところ必ずしも充分でないのは不満なことであり、 こうした事実はたしかに詩界全体の不満であるべきだと思う。

 世に女流詩人もすくなくない。しかもそのすぐれた人性と作品とが、一分のすきもなくぴつたりしていること、花子さんの如きは全く珍しく、 その点かねてから私は花子さんを誰にもまして敬愛している。

花子さんが処女詩集『喪服に挿す薔薇』をだされたのは、何でも佐藤惣之助氏等の詩の家華やかなりし時代のことで、およそ二十年余は経つだろう。私はそれを手にして、 紅いメリンスの帯でもしめた娘を想像したくらいにういういしいものを感じた。ほんとにそれは純情はつらつたる娘の詩集であつた。しかもその中に、 何かしらゆだんのならぬ不逞なもののあつたのを忘れることができない。そうした傾向は、花子さんの第二詩集『蹠の神』においてもはつきり見ることができる。第二詩集において、 花子さんは驚嘆すべき飛躍をとげていた。すでに成熱した一人の女性としての濃艶な体臭がユニクな手法をとおしてこぼれるばかりに匂い、そこに三分の不逞さ、 私はここでもそれをいうことができる。

この度、花子さんには第三詩集に当る『水浴する少女』の上梓にさいし、私に序をかくようたのまれたのだけれど、いまさら壷田花子の詩集に序文でもあるまいと、 久しい交友をとおして思いいずるままを記したこの小稿をもつて、敢て花子さんのせつかくの依頼をはたそうとしたわけである。

 まず『水浴する少女』を読んで下さい、と云いたい。それだけで蛇足は一切無用だと思う。どんな立場においても、詩人から真実の二字をとりさつたならゼロである。 花子さんの詩は全く一言一句が真実の結晶なのだ。何ら思わせぶりなポオズもなければ珍奇な芸当もなく、たま高みから訓すようなひとりよがりもない。ただこれ詩道と四つに組み、 真実そのものから紡ぎだされる寂寥、喜悦、希望、理想等々の切なく美しい音楽である。その和音となつている花子さんの苦悩をおもえばほんとに涙ぐましい。花子さんが罹災者として、 まずしい一室に家族五六人とおしあつている、といつたことは世間大方の事実だとしても、その中でせちがらい敗戦の主婦の生活を片手にひたすら詩を生むことに生けるしるしを求めてやまぬ花子さんのすがたが、 いずれの詩にもにじみでている。第二詩集においておどろくべき飛曜をとげた花子さんの詩業は『水浴する少女』にいたつて地下水の深さと、ほろ苦さをさへ加えた。 水火の大試煉がまさしく彼女を鍛えたのである。鍛えぬかれた彼女の愛は透徹の境地においてすべてを歌い世界を抱擁する。まず巻頭におかれた“愛の碑文”の深さと美しさ、 この一篇にフランスの愛の女詩人、ロズモンド・ジエラールを凌ぐほどの磁気を感じたのは、決して私一人ではあるまい。

 私は落葉を踏みしめてゐる
 昔の私の髪の毛は長かつた
 昔の私の声は甘くやはらかく細かつた
 昔の私の胸は向ひ合つた白鳩の
 愛らしい巣だつた

と歌い、

 やさしくすぎていつたものよ

と謙虚に歌う花子さんは、また十二月において

 またしても天国には
 鵞鳥料理がはじまります

と皮肉りもするゆだんのならぬ不逞さを掘りさげている。

 謙虚と不逞、清楚と凛烈、これらはみな花子さんを表明する端的な言葉である。その作品において。その人性において。 私は常に花子さんの謙虚に学びたいと念願して能わぬものであることを告白しておきたい。

 世には一流詩人とか、二流、三流詩人とかいつたような鑑定があるようだけれど、問題にもならぬようなものは別として、そんな品さだめが詩神ならぬ人間の誰にできるというのだろう。 この小稿においても私はそうした文字が用いたくない。ただ花子さんの、このいのちをこめた真実と謙虚の花束を、詩神は必ずや嘉納され、正壇におかれることを信じる。 神に対して傲慢をおそれる花子さんの詩業の永遠の勝利を、私は信じてうたがわない。

 『水浴する少女』が須磨書房の処女出版として世にだされるそのことにも、大きな意義のある事実を附記しなければならない。この書房は、 これも女詩人の岡村須磨子さんが、詩を熱愛するあまりにはじめた、いちかばちかの献身的仕事である。『水浴する少女』を中にして、 そこにからまる友情のこまやかなことも今日では珍しくありがたいものといわねばならない。岡村さんのこうした詩生活と、詩業についても書くべき多くがあるけれど、 それは他日を期したい。

 ともあれ、油絵の適材をおもわせるような壷田花子の、このみずみずしく新鮮な『水浴する少女』と共に、私たちも心から詩の泉に清められよう。 真実と謙虚の詩の泉『水浴する少女』が時も時、このよごれた巷に点滴の虹をかかげる仕合せを衷心祝福して、花子さんへの交驩に代えたい。

 花子さんよ、頑張つて下さい。暴風雨は決してすぎさつたのではない。暗雲低迷のこの小康、私たちは闘いぬかねばならないのだ。 たくましい経済力と生産力を根底とするゆるぎのない社会、その上層にうちたてられる至高の精神文化に、あまねく詩の鉄筋を入れるために! おたがいに自重しましよう。

一九四七・秋       高田老松町の仮寓にて      深尾須磨子


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