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田中克己日記 1981


【昭和56年】

 10月4日、高校からの文学の盟友であり、創刊した同人誌『コギト』をホームグランドとして共に活躍した保田與重郎が肺癌のため逝去します。
 昭和10年代、モダニズム・左翼文芸の退潮とすれ違ふやうに文芸復興の旗手となり、折から戦地へ駆り出される青年読者層の心をとらへて戦時期文壇の寵児と目された「日本浪曼派」の総帥です。
 戦犯文学者の筆頭に挙げられるも節を枉げず、戦後社会にはびこるやうになった物欲onlyの功利主義(アメリカニズム)と、対して文壇を席巻するルサンチマンに盲いた革命思想(共産主義)と、その両者を批判し、日本古来の農に宿る皇国の理念にこそ絶対平和の礎があるとの文芸上の立場を墨守しました。

 小林秀雄とならぶ昭和を代表する評論家ですが、田中克己とは、戦後は雑誌『祖国』の同人として(『日本浪曼派』の時には迎へ入れられませんでした)、生活上も住居の世話をするなど、両家はしばらく親しい間柄でした。盟友たる初めに二人が編集した大阪高校時代の同人誌『かぎろひ』が、 神田神保町の山口書店の山口基氏によって複写され、各人に手渡されたのは昨年の事でした(『田中克己初期文集』および『保田與重郎選集 巻の一(私家版)』)。
 しかし昭和の詩人から挙げるべき3人に「伊東静雄、蔵原伸二郎、宮沢賢治」と、自分が外されたショックもあって、やがて保田與重郎のカリスマ性(ジャーナリズムとは無縁でしたが一目置かれる人物として周りに人が集まって来ました)――その呪縛から、詩人は逃れるやうに離れてゆきます。上京、そしてキリスト教に帰依したあとは、疎遠になった彼との宿縁を、ともすれば腐れ縁と思ひなすこともあったやうです。
 通夜・密葬にゆかなかったのは、教へ子の仲人として松本で行はれる結婚式参列が事前に決まってゐたからでしたが、名古屋を経由しての帰りに弔問しませんでした。
 日を開けて挙行された本葬にも「病気」を理由に欠席した詩人でしたが、盛大だった葬儀の場で自分の弔電が数百通の中から三番目に読まれ、典子夫人が主人と田中克己との関係を特別視してゐたことを知ると考へを改めます。上洛して、キリスト者でしたが般若心経を上げ、次男悠紀雄氏が東京在住と知ると、帰還後にコンタクトを取って早速会ってゐます。気後れするやうな朋友とは、本人よりその家族と仲良くなる、謂はば「お勝手口の友情」は詩人の得意技でした。

 さてこの年、23年勤務してきた成城大学にて話柄がもう一つ。
 本年度を以て定年退職となる詩人に「寄附入学」斡旋の依頼が舞ひ込みます(1月23日)。
 1980年代にもなると存命人物の名が出て来て気を遣はざるを得ませんが、(※名A)が詩人の外戚で(※名B)が依頼者(受験生の親)と、実名を伏せました。
 さらにもう一人別に(※名C)とあるのは昔の教へ子で、やはり娘を入学させたかったやうですが、こちらは受験番号を知らせて来ただけで、結果は不合格になってゐます。
 親の資産によって明暗を分けた二者について、詩人は苦い思ひを味はされた筈で、2月17日の日記には「文部省より禁止されゐるや否や不明にて不快なり。いつにても止めんと思ふ。」とあります。
 「寄附入学」については同僚高田瑞穂の許にも「第2次特別入学」として同様の記述あり(3月5日)、当時の私立大学の慣例として、教職員が素性を担保し相応の金額を寄付させることを条件に入学許可する定員枠が内規としてあったことが分ります。
 4月23日の教授会で山田学部長からあらためて、「来年より○付やめ、来年より入試1回にいたし云々」と発言があるのは、マスコミが「裏口入学」との風評を囃し立てるやうになったからでしょう。※この年5月22日付けで文部事務次官の通知「大学入学者選抜の公正確保等について(文大大第163号)」が出てゐます。

 またゼミ生を自宅に呼び、食事も供してみっちり指導するという善意も、今日では学生から「セクハラ」「アカハラ(アカデミック・ハラスメント)」と呼ばれかねない時代となりました。連泊指導したゼミ生の、親御さんからは感謝歓迎されるも、本人から一時的に距離を置かれるようになったのは、 彼女の前で無防備になりすぎた不用意のみならず、それまでの大学に漂ってゐた「古き良き時代」すなはち、「大学生=インテリゲンチャ」といふ社会的なコンセンサスが、大学に入り易くなったこの頃より失はれ、さきの「寄附入学」同様、通用しない時代に入ってきたことを表してもゐるやうです。


 この年の出来事

1月 男子学生より非難文を受け取る。
1月〜2月 親類より寄附入学の斡旋を依頼され苦慮。
5月 執筆中の「蘇東坡」原稿500枚に達す。
   また蔵書を処分、岩森書店に伊東静雄・保田與重郎の資料等を売却、球陽書房とは絶交。
   麥書房に詩集刊行計画を話す(翌年『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』と成る)。
   また西垣脩夫人と話し『山の樹』同人達に対する誤解解く。一方で伊東静雄の妹からの手紙に閉口。
6月 「躁」極まり歌唱癖・浪費癖を夫人に窘めらる。近所の靴屋と喧嘩し警察に愁訴。
   都丸書店に伊東静雄・保田與重郎の葉書売却。
   麥書房堀内達夫氏に所蔵の立原道造書翰2通未発表と指摘さる。
   長尾良未亡人とゼミ鳥海生と3人で桜桃忌にゆく。
   鳥海生の実家に一泊、歓待さる。
10月4日、保田與重郎死去。夫人より6月に書いた絶交状(草稿?)見せられるも覚えなく、翌5日松本に教へ子荻村生の結婚式に仲人として列席。
  30日、保田邸を弔問。典子未亡人と話す。
11月 鷺宮在住の次男保田悠紀雄氏を訪問、のち追悼文書く(『近代風土』)。


昭和56年 1月 1日〜昭和56年10月3日
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


1月1日
7:00さめる。9:00賀状来る。親類ユキ子宛39枚、教へ子と父兄170枚、商売17枚、親友等返事いるもの231枚(内既出約100枚)、 ユ30枚あまり書き我も書きて15:00投函にゆかす。
諏訪依子より年賀の電話ありしと。夕方弓子より電話「あす来る」と。

1月2日
8:00さむ。10:00山住邸(※山住医院)に年賀にゆけば美津子先生出て『福沢諭吉選集3』を主人(※山住正己)からと賜ふ。
閣下(※山住克己)もみな出したまはず門外にての挨拶なり。
午后3時、史2女孫つれて来り、弓子夫婦3孫つれて来り、淳一の塾より来るをまちて去る前、千草、咲耶来り、伊勢スミエ玲子つれ来る。(※省略)
小林の3孫、われと将棋さし負く。(※省略)
史、Gelbe Sorte3箱もち来る。えらいものなり。例のhairの件もその発案となり。(※不詳)

1月3日
(※省略)睡眠感なく2:00さめ5:30さめ上厠、7:00ユを起し臍あたためまた厠にゆき最後の一滴出す。16:30まで絶食。粥少々食ふ。
賀状3度来りしと。立原の手紙の件、昭和44年大学院国文科教へし時のことなるべし(手帳検) (※不詳)17:30賀状、知友親戚の分終る。

1月4日(日)
6:30起床。簡木桂(※東豊書店店主)に野原四郎の訃伝ふれば夫人、娘出てけさ帰台と。弔電打てとすすむ。
礼拝にゆく。聖餐式あり、先生数へ74才となりたまひしと。すみて東武の古本市素通りして帰宅。長島昭君、五加皮酒飲み15:00わが本もちて来る。入れ違ひに和田統夫来り、(※省略)
 江間章子氏に
 夏来れば尾瀬のきみをば思ひ出す我は老いたりきみもしからん(賀状)
 先生(竹森牧師)は「数への74となり」たまひためなる問ひに答へましけり
 地震(なゐ)ふりて獄屋にありしパウロはも獄吏と家族信者となしぬ(使徒25-34)
 「主イエスをば信ずるならば救はる」とパウロはいひき「われら(ユと吾)信ずる」
 この朝け感謝をもちて餅くらひ感謝にみちて食ひをへけり(昨夜下痢。カステラ。朝おもゆ)
20:00前、伊勢夫婦(※弟建夫夫婦)来訪。22:00辞去。伊勢氏、西印度のこと台湾のことくはしく話し、われに話させず。

1月5日
6:00さめ7:30ユさむ。卒論見て腹立てしところへ苑子(※船越苑子)来り、ユと話す。
重久(※重久武志)来り粕漬もち来り、博士課程修了の論文書くと匆々去る。(※省略)
(※西島)寿一来る。胃潰瘍と。(※省略)

1月6日
何もせず。賀状の返事かきし。

1月7日
6:00さむ。寒し。9:00まへ山住dr.にゆく。咽喉洗ってもらひ涙出る。(※省略)
午食のあと佐伯(※古本屋)に電話すれば『シルクロード』来てありと。ゆきて払ひし、棚見れば『和漢三才図会(13,500)』あり。
3,500の借金と夫人にいひ包み呉る。(※省略)
山川京子より「亡夫(※山川弘至)立教をやめ麹町高女の講師たり。門馬先生(※校長)に教義上の苦痛から辞職を願ふ手紙のこりをり云々」。
20:00賀状399枚書きハガキなくなる。100枚買ひこれまた返事かき投函。
プティ・パレにゆく。正月夜、鎌倉へ夫婦にてゆきし由。福地夫人も来り茶菓子出す(280)。
高橋重臣氏8:20来着。whiskyのみ水炊き食ふ。マリちゃん田中マリとなりしと。

1月8日
6:00さめ9:30高橋氏と小高根(※太郎)訪問。夫人、嬢と外出とて茶を出され恐縮す。
(※成城大学)図書館へゆき「殺生石」を謡曲にて見、なすなくをり14:00の教授会(※省略)、山田爵氏の専任きまり早くすみ急いで帰る。漬物もちて渡部生来る。(※省略)
高橋氏「14:00熱海に帰りし」と電話ありし。卒論みな誤字かく。(※省略)
成城堂にて新書『神の民俗史』、『万葉群像』買ふもよむひまなし。

1月9日
6:00さめ登校。高田君最後の講義をし、ばらの花束2回もらふ。
われ卒論返却。14:40まちて12Cへゆき5人に鳥山東洋史をよまし、漢すみて餡蜜食ひにゆく。
(※省略) 瀬見氏紀州蜜柑もち来り、ユより返しに茶。そのあと大来り、栄西の『喫茶養生記』ありやと。国会図書館へゆけとすすむ。
桑原武夫氏televiに出、野田又夫氏哲学史御進講と新聞夕刊に見ゆ。(※省略)

1月10日
6:00さむ。午前中無為。(※省略)筑摩書房より『堀辰雄全集別巻2』の印税(※省略)。
午后卒論一冊見てプティ・パレで紅茶のみ高円寺へゆき瀬見氏に礼いひ『外国から来た新語辞典(500)』、『アヘン戦争と太平天国(300)』買ひて一旦帰宅。
佐伯へ欠本書付もちゆく。買ふ本なし。(※省略)

1月11日(日)
6:00さむ。ユも礼拝にゆかず。卒論見てガッカリす。(※省略)
大岡昇平『俘虜記』再読。

1月12日
6:30さむ。一休みして10:30出発、月曜の顔ぶれ珍しく話相手もなし。卒論返却後、木下の卒論とりて帰る(13:30)。
(※省略)卒論13部みな副査終りしこととなる。(※省略)
近江詩人会よりわが詩のせしを送り来り350要求さる。めでたし。(※省略)

1月13日
7:00さむ(よべ2服のむ)。10:00出て登校。12:30より大学院。杉山、重久欠席。朝鮮の婚姻すます。早くすみて帰宅。
(※省略)(※諏訪)澄より新宅の写真来り(※省略)。

1月14日
8:00前さむ。ユ10:30出てゆかんとし(三鷹)われも出て散髪。
プティ・パレにて午食。(※省略)
中村浩『植物名の由来』よむ。方言・古語を駆使して牧野博士を訂正す。
ユ、弟夫婦の土産とフランスタバコcrtier2箱もち帰る。

1月15日
9:00さむ(よべ2服のみし也)。12:30昼食、14:00すぎて教会。竹森先生御夫婦40年の布教祝となり。
森田先生記念文集を呈され奥さん花束贈呈。(※省略)寒くて帰宅。
向ひに留守中来しと堀内達夫氏より菓子と『ゆふすげびとの歌(複製)』わが「コギトの思ひ出」のりし『果樹園』と預けあり。

1月16日
けふも遅く起き9:30。寒く外出せず。10:00渡辺登美子生来る(※省略)16:00ごろまでをり「縁談せはせよ」となり28才にて共稼ぎいやとかむつかしさうなり。
ユのclass-mate吉岡(佐藤)みどりさん死に、ユあす11:30葬儀にゆくとなり。
『桃』わがうたのせて来り。武田明氏より本の受取り来る。

1月17日
8:00前起きユ、吉岡さんの葬儀にと出てゆく。12:00プティ・パレにて昼食、紅茶のみ、ユの18:00帰宅まへ愛場君来り、福島県郡山の出身とて局報見せる。
竹内、武田などに感心しをり。夕食して20:00ごろ去る。貴ノ花引退と。鈴木首相東南亜訪問。(※省略)

1月18日(日)
8:00さめ(よべ2服のむ)礼拝夫婦とも休む。われ無為。

1月19日
やや暖く午食してのち近江詩人会へ「詩の歴史」と350郵送にゆき、佐伯に寄れば『日本人と日本語』、『日本人の神さま』(計2,000)注文と渡さる。おぼえなし。
貯めこみし本よむ。あす試験監督に登校なり。Iranの米人囚解放となりしらし。

1月20日
8:00さめ何もせず12:00午食すまして出、14:30よりの東洋文化史の試験。男生わが非難をかく。16:00出て帰宅。

1月21日
8:00まへさむ。批判よみ反省すれど仕方なし。
昼食後、高円寺まで歩き現金為替袋(20)買ひ来る。高橋重臣氏より『東方学紀要』3冊来りしがためなり。(※省略)

1月22日
10:00出て準急にて成城。03教室に167人来り、助監督つきて14:15に名を書き忘れし女生にてすむ。
万才、万才となきし満点約束の男生あり(※問題を)甘くすればつけ上がることを身に沁みて感ず。帰りまた準急に立ちてのり帰宅。
神田先生(※神田喜一郎)より年賀の御返事あり。
 来む年はわれが最後の教へなりよもゆるまじと堅く思へる。
(※省略)

1月23日
睡眠感なきも高橋重臣氏の便りありしゆめ見てさむ。7:30なり。登校。(※省略)
古宮生つれて小森来り、家へつれ帰れば、(※名A省略)翁来り「知合の医師の娘(※名B省略)寄附入学を」と。手続教へて返す。
古宮・小森夕食旨がりて食ひ(且つ飲み)吉祥寺の映画へと出てゆく。けふ麥書房堀内達夫君より「電話にが手」と手紙。

1月24日
ユに母のもとへ1.5万もちゆくとて、堀内君へのことわりのハガキ渡す(※内容不詳)。
午食して佐伯へゆけば天理本『杜詩 上(12,600)(※集千家註批點杜工部詩集)』来をり。
プティ・パレにゆき喫茶す。けさ増田正元の兄より「菊池眞一氏いまだ学長なりや」との問合せの電話あり。不快。
京よりも電話あり「禎子元気」となり。

1月25日(日)
よべねしも風邪気味とて礼拝休み。ユ、午食はして弓子のところへ出てゆく。
我、佐伯に払ひし(12,500)、帰りて『中国通史』よむ。大学院の「東洋歌謡史」はやめて「北京の民俗」と改めんと決意。やや暢気となる。 (※省略)
木下生への質問の要領もすみて気楽となる。(「殺生石」にて大方苦労す。これも神経症なり)。

1月26日
7:00さめ9:00まへ家を出、地下鉄立って9:30成城大。10:00より卒論面接。鎌田女史多弁、ごきげん良し。
(※省略)午後もつとめ、わが副査すみしところにて切上げ、阿佐谷にて汁粉食って帰宅。
(※省略)瀬見氏より「横田少尉の奥さん上京、巣鴨にあり。会はぬか」と。忙しくて会へぬと答ふ。
(※省略)(木下、西山博士に一喝され参る)。

1月27日
7:00さめ8:50家を出10分前につき午前中ずっと坐りをり。(※省略)
12:00すまし、風邪と新城博士にことわり、出て狐うどん(500)食ひ、南阿佐谷でまた汁粉食って帰れば鳥海母子来てをり。
今のままゐることとしたと。他人の世話を焼くものでなしと痛感。
夜、天理の『東方学紀要1-3』5,500+〒400高橋氏へ送る旨かく。

1月28日
7:00さめ最後の面接。(※省略)16:00すみ新副手近くの女子選び、そのあと採点。(※省略)いやになりて帰り来れば「あす堀内氏来る」と(※翌日に記述なし)。(けふ高橋君に6千円送りしと)。
(※名A省略)へ(※名B省略)生の特別入学たのむと電話ありしと。

1月29日
8:00すぎさむ。11:00すぎ出版社来り(中国地名大辞典出さんとせし)トルコ関係の大著、護雅夫監修で出すと也。うやむや帰りしあと2D磐長谷生、英文の2人つれ来り、西山semiとせしと安心す。
無為にて落ちつかぬ日なり。

1月30日
7:00さめ9:30登校。総務部長来客中とて会へず、教授会の間に杉山の論文よみ了へ、
昼食の間に(部長との面談となりしと)山田部長に会へば「(※寄附入学希望者との)関係は」と問はれ(※省略)といふ。
「5日13:30つれ来れ。受験(※願書?)ももち来よ」とのことなりし。
卒論の点もいらずなりし様にてとまどふこと多し。(修士の面接に30分つきそふも民俗学にてよしと森岡氏の説なり)
(※省略) 佐伯氏、小倉進平『南部朝鮮の方言』もち来り、わが本2冊ほしとなり。
「中国の婚姻――法と慣習」初校来をり、でき悪きも校正半分すます。

1月31日
8:00起き一休みしたあと校正すまし、12:00まへ駅前の〒へ簡易速達しにゆく。
佐伯へ小倉本の払ひにゆけば、わが本2冊と差引600円呉る。
午食後、散髪にゆき(櫛呉る)、高円寺まで歩き痔らしくて困る。瀬見氏「本一冊与へしも横田夫人来らず云々」。
プティ・パレで紅茶のみをれば(※名C省略)母子来をり「文芸4635と。娘中学へ入れたし云々」、奇遇なり。鬱とれず。

2月1日(日)
7:00すぎさめ、みぞれの中を夫婦して礼拝にゆき、天ぷらうどん(280)食ひ、阿佐谷にても買物すまして帰宅。鬱なり。

2月2日
晴。7:00さめ午食後プティ・パレにゆく。高橋重臣氏より『東方学紀要』は成城大学に寄贈とて、(※省略)
船越苑子寄りゆく。(※省略)

2月3日
曇。寒し。13:00(※名B省略)氏同伴して(※名A省略)氏来られ、5日13:30山田部長に(※省略)会ふこと承知さる。
医師の息にして大正12年生、(※省略)写真家の由なり。
東洋文芸史の採点いやいやしをへる。

2月4日
よべ22:00眠り4:00さむ。(※省略)プティ・パレで喫茶。(※省略)
美紀子に電話すれば淳一、京都大学付属中に入学(※省略)と。
(※省略)ユ、名古屋へ電話すれば望出て、いま5年何事にも熱心と。主のみ志なり。

2月5日
よべ不眠。8:00まへユ起きて驚かず。11:00出て採点呈出。(※省略)
(※名B省略)氏来るまへ部長とちょっと会ひ13:30登りゆき(※省略) 300万円の寄附申込みすみ、共に帰りかければ(17日発表と)、「お茶のみませんか」といはれ「病院は戦災にてdr.3人(父兄2人)みな爆死」ときく。気の毒なり。餡蜜代払はせ別れて15:10帰宅。
(山田部長の室にわが『白楽天』おきあるを見し)
角川より文庫の払ひチェック来る。(※省略)22:00入湯、発作おこる。

2月6日
8:00さめ朝食後ゐねむりし13:00さめて夕食し、プティ・パレにゆき高円寺。瀬見氏より『地名(650)』買ひ、しるこ屋さがして高円寺銀座歩いて帰宅。何もする気なし。

2月7日
よべもよく眠り、7:00さめ、急ぎて登校。9:00修士の面接。
杉山生、案外評判わるがりしも優となる。細野生は良。哀れなり。
タバコ忘れ、杉山生と高田君(講師室に来合はす)より1本もらひ、その送別会「3月8日17:00より新宿京王プラザホテル42階富士の間にて、 会費1万円」(※省略)
帰れば田中栄太郎夫妻来をり、次男万平の結婚式に史呼ぶとなり。(※省略)

2月8日(日)
7:00さめ礼拝にゆくユと12:30吉祥寺駅にてと約し11:00すぎ出て地下の天丼食ひ12:15吉祥寺。
(※省略)清瀬へ出て京のところへ14:00着き、禎子見る。片言少し出るやうになりをり我が横になりをり。16:00出て18:30帰宅。

2月9日
7:30さめ(※省略)、午すぎプティ・パレにゆき(※名C省略)夫人来合はせしに「息子の(※受験)科名19:00知らせよ」といふ(芸術学科と電話あり)。
佐伯に寄り『富士五湖(100)』買ひcard買ひして帰宅。
「川柳と中国」の続きかく気あり。弓子来り、まだ片づかぬ様子。
17:20奥井(岡林)夫人・石塚真弓2生来り、魚屋へユ買ひにゆき夕食旨がりて食ふ。
ユの意見にては石塚、医者との見合に来しならんと。

2月10日
炬燵消えて4:00ユ起し、変へさすもあと眠れず。7:00起く。
ユ画展へ出てゆきしあと阿佐谷歩き例の2階にてしるこ食ひ帰り来る。
ユ16:00帰りてすぐ菊地ほなみ生来る。やせて眼大きくなりをり。(※省略)うれしきは木下生、津田沼高校にきまりし手紙かいたと返事の電話ありしことのみ。
鬱ややとれ「川柳と中国」の続きかきたくなりをり。(※省略)

2月11日
8:00さめユ起きるを待つ。14:30ユの杉並展にゆくを見送り、プティ・パレにて紅茶(神経性下痢2回)。福地夫人の来しを見て退去。
「蘇東坡」かきたくなりをり。ユ16:30帰宅。
 本よむを好みしをとめとつぎ来て老いれば口のうるさくなりぬ(ユ、けふpermaにゆきしなり)

2月12日
ユうろうろし、午すぎ出てゆく。我プティ・パレにゆき佐伯にゆき、18:00うろちょろとユ帰り来しをどなる。
「隔簾花影」8回までよむ。つまらず(木下雅夫より就職通知ありしのみ)

2月13日
けふも下痢。炬燵にをり。蘇東坡かきたし。ユ画展へ画とりにと夕方出てゆく。

2月14日
下痢。9:00すぎ山住dr.にゆき薬もらふ。ユ、中沢恵子(武蔵野日赤)へ出産祝にゆき夕方まで帰らず。我「蘇東坡」の波にのり切れず退屈す。
夜、治子(上京中)より礼の電話あり(雨来ず)。

2月15日(日)
目をさませば9:00礼拝夫婦ともに休む。15:00chocolateもち高野郁子さんと森山泰寿君と来り、3月15日東条会館の披露宴にと案内さる。
(※省略)戸田画伯の会へと15:00まへユと3人去りしもユ、17:00会場見つからずと帰宅。
けふ「中国の婚姻──法と慣習」校正(再校)12:00し了へしも日曜とて書留出せず。

2月16日
8:00起さる。快晴。9:00すぎ駅前郵便局へ簡易書留速達出しにゆく。午后プティ・パレにゆき喫茶。高円寺にゆけば瀬見氏不在。
売本ありと伝言たのみ帰り来れば19:00ごろ電話して来り『鳥居龍蔵全集』12冊を5.5万で買ひ呉る。(※省略)

2月17日
7:40起され、あはてて仕度し8:30降る雪の中を出、9:30成城着。
ちらしずしあつらへ10:20よりの山田部長の前日の入試委員会の決定を聞く。
(※名B省略の娘)(※省略)補欠入学許さる。芸術の名簿に(※名C省略)の名見えず。(※省略)
学科会。平山博士、鎌田女史に怒り、西山博士これを調停す。12:30ちらしずし食ひ大学院の会に出ず帰宅。
雪止み夕食まへ(※名B省略)氏に電話。寄附金のことも念押す。文部省より禁止されゐるや否や不明にて不快なり。
鬱やみ、いつにても止めんと思ふ。

2月18日
6:00さめる(よべ少し眠りがたかりし)。
10:00(※名B省略)夫人より電話あり「けふ伺ひたし」と。「14:00お越し」といへば、(※名A省略)と同行、喜んで寄附入学する由。
夫婦椀もらひ、下にありし薄謝返し、嬢に祝として仏語(又は独語)辞典贈るといふ。
16:00すぎ帰りしあとプティ・パレにゆき福地夫人に(※名C省略)君ダメといふ。紅茶とパンとにて450と安し。
『満族簡史』よみ了る。(けふ『東洋学報』61来りしのみ)。

2月19日
7:00さめる。ユ起き来り、うろうろせしあと我の髭そり傷つけて出てゆく。12:00プティ・パレにゆく。
福地夫人に(※名C省略)出来のわるきをいふ。lunch食ひ、ユ鍵もたざる故帰宅。15:00出て汁粉屋さがして食ふ(350)。
card屋ゆき帰宅。ユ17:00帰宅。太田夫人、わが恋愛のこと知りをるらしと。
ユ、(※名A省略)氏に電話すれば(※省略)。不快なる一日。

2月20日
ユ12:30同窓会幹事として学芸大前へゆく。われ20分おくれて出、高田に会ひ、けふ下痢にて出席せずといふ。
高田、古稀記念論文集「大正文学」にsignして頒ちをり。4年への判定すみ、われ汁粉屋により、
ユ帰らざるを待ち、せんべい買ひにゆかす。矢野兼三閣下、老衰のため死去。84才と新聞に見ゆ。小林より「あさって200万貸せ」と電話。

2月21日
ユ、9:00母のところと銀行へ出てゆく(小林へと200万の切手作りし)。(※省略)午食後プティ・パレに寄り高円寺。
Romila Thapar『History of India(600)』、尾形仂『森鴎外の歴史小説(1,700)』買ひて帰宅。(※省略)
都丸支店瀬見氏にBuriat Mongolsの字引(1.3万円)予約す。(※Buriat-Mongolian-Russian Dictionary)

2月22日(日)
ユと礼拝にゆく。竹森先生のお話殆どきかず、すみて阿佐谷へ帰り佐伯へ寄りしも本来をらず。15:00電話かかり、
小林夫婦、孝行をつれて来り借用証おき200万円の小切手もち善一郎かえり、弓子孝行もまもなく帰りゆく。

2月23日
雪降る。下痢2回。外出せず。夜、Buriat語とりにゆけずと瀬見氏に電話す。(※省略)夜「蘇東坡」の原稿検す。237枚にて了りとす。
河出書房新社より『新名将言行録中国篇』に我が呂后(『中国后妃伝』)のせたしと。「可」と答ふ。
豊橋に丸山薫詩碑建つと。一口5,000の申込みをす。
山本書店より書目来りし故『万暦武功録』と『粤閩巡視紀略』と注文す。いづれも稀本なり。売れをらずと番頭の声に喜ぶ。
武部利男逝去。53才と。李白、白楽天の訳ありしなり。ユ若しといふ。
けふPope Johanne-PauloU(※ヨハネ・パウロ2世)来日。

2月24日
8:00起床。9:45高円寺まで歩きハガキ投函。瀬見氏不在。『ブリアート-露語辞典(1.3万円)』買ひて帰宅。
午后、船越苑子寄る。美紀子より電話あり「風邪ひいてゐる。そのうち来る」と。けふ「蘇東坡」500枚検し了る。
辻芙美子、東Berlinより13日出しの航空便。わが教へしLied知らざりしと。依子に電話通ずれば「3月14日上京」と。

2月25日
寒し。下痢す。pãoと粥とが朝・昼食。ユ、塩入dr.と柏井へゆき、(※省略)17:00ごろ帰宅。
教皇、広島へゆき平和message発表。山本書店より注文の『万暦武功録(16,000)』と『粤閩巡視紀略(13,600)』着く。
『山前実治全詩集(5,000)』来る。
 とことはに生きんねがひの日々つよく夜はも昼はも祈りてをれり
成城大学卒業生一同より「3.23の謝恩会に出席するや」と。「出席できず」と返事かく。

2月26日
9:00すぎ山本書店、29,600送りに駅前郵便局へゆく。帰り築島謙三氏より帰国とのハガキ見る。1月の電話料1.8万に近し。
15:00伊勢母子来り、ジュン我が「年老いし」との言に泣く。18:30帰りゆく。不快なりし。Pope長崎よりRomeへ帰る。

2月27日
晴。寒し。(※省略)築島博士へ「お会ひしたし」とのハガキ出しにゆきプティ・パレ。そのまま帰り来る。
文童社へ5,000「(※山前実治の)御霊へ」と包む。天野忠より詩集。

2月28日
ユ、母のところへゆき12:00帰宅。
われユの画にゆきしあと晴れをる故、クラタ理容店へゆき(2,300)、汁粉を南で食ひ(300)て帰り来る。蘇東坡かく気あり。

3月1日(日)
7:30さめ夫婦にて礼拝にゆく。竹森先生のお説教聞えず。躁なり。帰りて15:00すぎ梅田章君の来るを待つ。(※省略)

3月2日
よべ雪降る。午后(愛場君、郵便配達に来る)出て汁粉食ひにゆき帰宅。春来りしらし。「蘇東坡」考へゐるも山本よりの催促なく書けず。
旅大市が大連と改称せし由、新聞に見ゆ。21:00すぎ塩沢生より電話、「あすはダメ。近々来よ」といふ。

3月3日
7:30さめ8:30家を出、3月分の交通費もらひて喫茶。
修士入学3名とも落第ときめ、博士2人は可、あと2人を会議にもち込む。鎌田女史折れ(※省略)と三倉(いま夫人)2人は不可となる。
ケさん漢文出来ざりし責め負ひ、われにあやまる。をかし(けふ山田俊雄氏に(※名B省略)の礼いふ)。
暖かければ南新宿で下車。東豊書店へ久しぶりにゆき簡君より馬之驌『我國婚俗研究(1,500)』買ひ、もはや来ずときめて国鉄にて阿佐谷。
汁粉(350)食ひcard買ひて帰宅すればユ、15:30帰宅と。禎子(※省略)雛壇買ひ2歩ほど歩くやうになりしと。
『Poets School』来り、我詩巻頭へのせ700未払ひと。未解放部落を3チャンネル(※NHK教育)にてやる。

3月4日
7:30さめ雨音をきく。曇にて午后追出されてプティ・パレ助手として老女来り、鈴木写真館ものいふ。
切手60×12買ひ近江詩人会鈴木寅蔵氏に送り詩「祈り」を大野新(守山市住)氏に送る。
(※省略) 辻芙美子(東ベルリン在)へハガキ出しにゆく。帰り斎藤茂太『長男の本(780)』買ひ一銭もなくなる。
和田さんより電話「田中正俊、本受取り、よい本といひをる由」。羽田(※羽田明)のことユと話し、川久保に電話し「暖き日来よ」といふ。(※省略)

3月5日
ユ、税務署にゆき7万円余返還と決定されて12:00まへ帰宅。12:30出て成城大学へゆけば進級会議あすと。
栃尾(※栃尾武)、田中宣一2君と話し、高田の第2次特別入学(※寄附入学斡旋?)のため来りしを見て出、桜子(※甘味処)にて汁粉(400)食って帰宅。(※省略)
DeGaulleと毛沢東のことteleviで写す。犯裁者むなし。(※省略)

3月6日
国鉄st.。けふ及第会(2年)にゆかず。51:00まへ塩沢生、区役所前より電話かけ来り、迎へにゆき革命の定義を書かせ、
鈴江『孫文伝』貸し「辛亥革命とせよ」といふ。利口なり。きのふより国会自民党独断とて少数野党ゴネをり。

3月7日
晴。やや暖かくプティ・パレにゆき福地夫人に好悪甚しきを云ひて高円寺。
瀬見氏不在。『中国基督教史』(佐伯好郎著4冊4万円余)たのみて大石書店にて深作光貞『海上の道他界への道(700)』買ひて帰宅。(※省略)50点位なり。(※省略)

3月8日(日)
やや暖し。壮年会いやとて礼拝休む。ユ13:00まへ帰宅。我、荻窪へ散歩に出て『謡曲(岩波文庫)』探せしもなし。
「先生、本お売り下され」と岩森支店の女主人。GelbeSorteゆきに見つけしを買ひ(330)汁粉食ひて帰宅。
杉山に電話かからず(鎌田、西山らま教授の外国語出来ざるに思ひ当る)。ユ、失ひしMont Pencil清水生よりもらひしと出しくる。
具志堅championの坐より離る。(※省略)  (宮崎康平の詩碑に5千円出さんかと思ふ。荻窪の岩森にては500円にて売りゐし也)。

3月9日
よべ早くねて早くさむ。一日家居(午后より雨)。成城より時間割来り、火曜学科あり水曜3時限1年東洋史、3時限semiと。松本信広博士逝去84才と。

3月10日
朝、便まっ黒なり。ユ、山住dr.に云へばあす河北にて検査うけよ、内科小笠原dr.宛の書賜りし也。風寒く、西島治子13:30来るをまつ。
「宝国寺にきけば、これん母の骨は西島家先祖代々の墓に入り供養しゐる」と。しず江母の利己主義知りをり。苺呉れて海苔もちて帰る。
televi3月10日の大空襲を劇とす。美紀子より電話「一家水疱瘡」と。

3月11日
7:30朝飯くひ、ユ8:00河北病院に順番とりにゆく。われ9:00出て山住dr.の手紙もちて内科(副院長)小笠原先生に会ふ。「金曜レントゲン検査受けよ」と也。
午飯もちて弓子・孝行来る。土地売れざる様子。

3月12日
ユ、河北病院へ便もちゆく。午后ユ、三鷹へゆきしに我も出てプティ・パレ。ついて高円寺へゆき瀬見氏に謡の本いへば積みし中より3冊本出し来る(4,000)。
借りて帰宅。川久保より電話「来る」と。まてばすぐ来て岡正雄の呆けしをいふ(松本正の思ひ出のみ話すと也)。我、基督者の覚悟をいひ、
ユの帰るまでにwhiskyのまし、娘のこと夫人にまかせよ、学(Tungus)に励めといふ。ユ帰宅。茶と菓子を出す。
(依子、土曜同窓会のあと来り、史のところへゆくと也)。

3月13日
8:30家を出てバリウムのみRentgen検査受けて帰宅。2度にてbalium下し、パン食ひ、餅食ひ、夜飯食ふ。
染原(涌井)夫人より電話(※省略)144点でダメと。先生つてなしや」と。「つてなし。あきらめよ」と答へ憂鬱となる。
『桃』にわが歌(正月吟)2首のりをり。

3月14日
8:30家を出、河北病院の小笠原dr.に会ふ。Rentgenに異状なきも胃、小さすぎる。18日胃カメラ呑むべしと決定。
15:00泰、望土産多くもちて来る。泰15才にて高校へ進みしとなり。依子22:00着。(※省略)

3月15日(日)
7:30さめ9:00ユに京より電話かかる。(※省略) 9:00出て我は散髪。ユはperma、2孫は渋谷西武へとゆく。12:00ごろ皆集り、ユ三鷹の父上一周忌にゆき、
帰り来り、14:00写真とりてユは東条会館へ。依子らは史宅へとゆく。我14:40出て地下鉄にて四谷(120)。歩きて東条会館へ。
喫茶。ユと会ひしのち森山マリ子女史に久しぶりに会ふ。(※森山泰寿・高野郁子披露宴) 19:00了り、高野叔父上の案内にてhyre賜ひ、新宿三丁目下車。帰宅。
留守中、愛場君来しらしくパンフレット入れあり。

3月16日
よべよく眠れず0:00追加のみ7:30さむ。午后高円寺へ謡曲(4,000)の払ひにゆく。夜、高野夫人よりユに電話。堀口大学逝去と。
3月17日
よべよく眠る。外出せず、豊田(庄田)泰子・ヒッキー(田中)久子2生より退官祝にAlbum来る。(※省略)
稲田氏より昨日の見合の相手考慮中と、ユ、伊勢家へその旨いふ。
山住正己氏らの「平和と革新をめざす杉並懇話会」より「結成総会」に出欠問ひ来る。「老輩欠」と答ふ。(※省略)

3月18日
よべよく眠り7:30さめ8:30まで湯茶も飲まず10:00胃カメラのまさる。11:20まで飲食できず、本日昼夜2食のみ。稲田翁より「三石氏交際承知」と電話。
本日も無為。散歩もせず。暖し。

3月19日
よべ早くね、3:00さめて眠れず。終日無為。ユに云はれて佐伯へゆきしにしめをり、汁粉(400)食ひて帰宅。躁らしくて困る。(※省略)

3月20日
8:30出て登校。10:20より第2次入試判定。少人数とる(但し第1次の辞退50%を越す)。午食して帰り来る。(※省略)
高橋重臣君19:30かっきりに来り、酔って長男の癌いふ。22:00就寝。0:002服目のむ。
(けふ「川柳の中国」山田君より文句出、そこより引用の文字消すべしと。山田は故事かかざりし也)。

3月21日
8:00さめ8:30起く。高橋君9:00起きし朝食し10:00出てゆく。ユ、画へと出、我出んとすれば雨降り来る。山田君の字引探せしもなく、ユにきけば小林にやりしと。

3月22日(日)
7:30さむ。ユ、上野へ美展見にとゆき12:00帰宅。15:30南隅夫人母子にて来り、(※省略)帰りゆく。(※省略)

3月23日
家居。築島先生より電話、ユ居留守をいふ。夜、電話して「胃カメラのみにゆき卒業式に出ず」といふ。(※省略)

3月24日
晴。午「柳樽に見える中国」の校正来る。山田俊雄の名消し14:30「再校を」と駅前郵便局。
佐伯へ寄れば『集千家註杜工部詩集(1.4万×0.9)』来りをり、あとにてユ払ひにゆく。「常用漢字」に「朕」など出る。

3月25日
雨。7:30起き9:00河北へゆき1時間半まち小笠原dr.「異状なし」と山住dr.へ手紙かき玉ふ。
中山正子夫人より「紫大根の花咲きて思ひ出す」とハガキ。終日雨とて出ず。

3月26日
晴。暖し。午后プティ・パレにゆき帰れば美紀子3孫つれ来る。淳一に入学祝5万円やる。暁子「主の祈り」を行ってみせる。
木下来り、礼として箸と茶碗とくれ、飯くって帰る。津田沼高校新設校の由。小松副手6月結婚と。古宮ならんと臆測す。

3月27日
外出せず(よべ追加のむ)。寒し。高原弦太郎翁より転居通知(矢野蓬矢(※矢野兼三)閣下2.19逝去と)。

3月28日
晴。9:00すぎ築島博士に電話すれば「3時小田急dept.14階で」と。14:20出て丁度14階につき満員の中teaたのみて待てば築島博士来られ、
「Noelに感心した。滞仏中Vietnam人と間違へられし。貴下は客家(潮州人)そっくり」など。
われ成城の話し、おごらしてもらひ京王plazaへの途教へてもらひ、17:00前つけば栗山、池田、臼井などの名誉教授、重久をり。 17:20(※成城大学謝恩会)開会。
今井氏開会の辞。坂本浩氏の祝辞につぎ松村達雄玉川学園教授の祝辞、臼井氏の乾杯の辞などつづき、18:30ぬけ出して帰宅。(※省略)
書原の踏切より大林太良博士と同行。わが本買ひくれし也。戸田さんの通りにて別る。

3月29日(日)
8:00近くさめ夫婦とも礼拝休む。ユに叱られて佐伯にゆき『本朝食譜(4.5)』たのみ帰り来る。15:00高野夫人と森山新夫婦と来訪。(※省略)
高野仁氏と友人とよみたしと我が本代2冊(1万円!)置きゆく。「そのうち新家庭訪ぬる」こととユ。

3月30日
9:30出て登校。図書館へ『インド史』2冊返却。佐伯『支那基督教史』1-2あるを検し、講師室にて立沢みよ子氏に茶一杯もらひ卒業album一瞥して成城堂。
「教科書の注文をしろと初講の時いふ」と店主に一言して帰宅。(※省略)午后いろいろ考へて4月1日より何かやることとす。(※省略)
『満和辞典』の誤訳多きに気づく。

3月31日
Reagan大統領暗殺未遂と。寒く、あすより仕事ときめる。夜、伊勢夫妻来り、この間の見合の相手、父親ももひとつ気に入らず断りなり。
あすより仕事と思ふ。(京より「あす2児つれ来る」と電話ありし)。

4月1日
時々小雨。寒く、一日家居、Manju語の草木よむ。ユに高野さんの親友の息子の縁談にて(※省略)
鈴木寅蔵氏より「近江詩人会の会費と詩は大野氏へ送れ」と。

4月2日
同じく雨。ユ漸く池上由岐江女史の女河野明子との連絡あきらめる。(※省略) Manju語の草木かきぬきひまをつぶす。
21:00池上さんの次女よりユへ「あす午后追悼文もちて来る」と電話あり。

4月3日
ユ13:00那須ユミ子氏と会ひ、追悼文ぬきずり25枚もらひ来る。現生天国の到来を信ぜし也!
ユの帰りしあと佐伯にゆき『日本神話の比較研究(1,800)』買ひ来る。そのあとManju語少しやる。

4月4日
ユ9:00permaしてclass会へと出てゆく。(※省略)プティ・パレに久しぶりに午飯くひにゆく。ユ18:00帰宅。
夜「Im Westen nichts Neues(※西部戦線異状なし)」televiにて見る。

4月5日(日)
夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 「礼拝休むな、歌大声で」とさとされる。阿佐谷までユ渡夫人と話す。別れてユは母のところへゆき、われ駅ビルにて昼食。
鰻入り玉子丼(500)なり。帰りて「巴里の屋根の下」見る。母、大と別れて独立するつもりありと。呆けし也。(※省略)(※名B省略)に「フランス語の辞書やる」と約束す。

4月6日
よべ0:00に2服目のみ9:00さむ。一日中眠く無為。『詩人学校』368来りわが3行詩「祈り」のせ残金0と。

4月7日
晴。午后ユに散歩といはれ、大林家へ太良博士に「マンジュ族の殉死」の抜刷とどけ、GelbeSorte(330)買ひ汁粉たべて帰宅。
美紀子「女子用の古衣を京にもちゆく」と。ユ「来週」といふ。

4月8日
晴。『満和辞典』ちょっとやる。眼医者へゆく。午后高円寺へゆき切手(60×10)買ふ。瀬見氏不在。プティ・パレに寄らず。「とこしえの命」詩人学校にと作る。

4月9日
晴。9:30詩人学校へ600円切手入りの原稿送る。佐伯休みをり。「筍もって美紀子来る」と電話あり。津端生より「15:30来る」と。「華僑」やめんかと。「止めざれ」といひ3冊貸す。
16:00美紀子来り「筍みな好かず」と。「淳一もう就学、教科書3年分買はされし」と。その去りしあと淳一にユ「Mammaすぐ帰る」と電話す。
(※省略) 

4月10日
ユ風邪にて山住dr.にゆく。『満和辞典』みなよみユに促されて川久保に電話して訪問。満洲史のことにて筑波大学にゆき吉林大学の某氏よりの手紙見しと。
『ツングース語辞典』やらんといへば反対せず。夜、村上氏より電話「あす午后来る」と。(※省略) 宇宙連絡船Columbia号打上げ延期とて入浴。
今中十九期会へ「欠席」と通知かく。

4月11日
8:00前ゆめ見てさめる。満洲語ほとんどすませ午となり、14:00ごろ村上正平君来り、法律の話す。(※省略)
中国婚姻法のことかきしをcopyし呉るといふに喜びてプティ・パレにつれゆき500円渡しcoffee2杯のませ駅まで送る。(※省略)

4月12日(日)
よべ2ケのみ茫然と7:30さめ礼拝休む。ユも風邪とて休む。午后ともに出て弓子宅へゆけば広くなりをり、(※省略)桜見つつ上水沿ひに三鷹駅へ出、
佐伯へゆけば『本朝食譜』4-5来をり(3,240)。21:50、Columbia号上る。

4月13日
京よりユに「けふ友来る」と電話、ユ、山住dr.にゆきし留守に大林太良博士訪問、「文身と他界観」ほか1篇copy賜ひ『古今図書集成』に目止めて去らる。(※省略)
集英社より「5月7日18:00より帝国ホテルにて創業55周年記念謝恩パーティー」の出欠問ひ来る。(※省略)
夜、川久保より「古稀祝を金曜18:00にする故来よ」と。拒みてもきかず。野口武徳博士より「帰りし」と電話。

4月14日
8:00さめ9:30散髪にゆき、(※省略) 詩人学校の大野新氏より「受取り清算した。今後は自分あてにて宜し」と也。
あすの「東洋史」の予習して疲る。中国の考古学の進歩は教はらざりし也。

4月15日
よべ3:00さめまた眠り8:00さめ9:30いやいや地下鉄、(※省略) 高田瑞穂来をり退職手当3,000万以下なるに感心す。講師控室にゆき鈴木(国文)と話す。
高田来り、すぐ去る。(※省略) 成城堂『フランス語辞典(上製4,000)』丁寧に包みくれしゆゑ(※名B省略)に電話すれば夫人出て「娘に伝へる」と。
(※省略)講師室にをれば(※名B省略)来り「話面白きゆゑもっとつれ来る」と。困ったことなり。
東豊書店にゆき茶のまされ『中国新昏姻琺』とりよせたのみやむを得ず北平関係の本(1,000)買ひ、阿佐谷にてしるこ食ひて帰宅。(※省略)

4月16日
雨の中を登校。Skey女史に復活祭のcardの礼いふ。semiにおくれてゆけば男生2人をり4女生の吾家に来ざりしを咎め、21日4月分のsalary渡すとの掲示見る。
(※省略) 夜、川久保より電話「あす17:30来よ。丹波(※丹波鴻一郎)も呼びし」と也。

4月17日
晴。8:00さめユ、母よりの電話にて出てゆきし。(※省略)
Russia語の百科事典にてIndia Indonesiaなどよみ、ユ午食してくれしあとプティ・パレにゆき紅茶こぼして帰宅。
着かへて高円寺へゆき村上正平君にcopyの礼状出し、(※省略)瀬見氏呼びキリスト教史いらずといひ『大世界史20眠れる獅子(500)』買ひて帰宅。
17:00出て丹波出迎へに川久保ウロウロするを見てのち、(※古稀祝に)ゆきて丹波の心臓わるきをきき21:00退出。(川久保わが躁症の時のこといふ)。

4月18日
丹波を我家に案内する夢を見てさめ(3:00)また眠り7:30さむ。ユ13:00戸田画伯にゆく。15:00まへ迎へにゆきプティ・パレで喫茶。
帰り来てIndiaの歴史はやれさうもなく絶望す。咲耶の歌の先生より『詩集』来り「批評せよ」と。これもかなはず。(※省略)
日永くなる。なるこゆりふえて芽ふきをるを知る。(※省略) 東方学会の5月16日の京都の会に「出席」の返事出す。(※省略)

4月19日(日)
8:00さめ傘もちて復活祭にゆく。トヨ先生入院、けふ退院の予定と。(※省略)東急にて買物して帰宅。(※省略)
安達氏(※安達遂)より成城のOBと野球するや否や「御苦労様」といへば耳遠しとて夫人代りてすむ。

4月20日
8:00さめ、よべの大雨知らず。色々と庭の草芽ふきをり。あすの講義、出たとこ勝負ときめる。

4月21日
7:00さめ9:00出て成城、図書館にてIndia史3冊借り出し、文2の文化史早々にすませ午食、栃尾君と食ひ、尾形教授より「鴎外」について『東方学』のprintもらふ。
(※省略)大学院にゆき、ゆっくり出れば磯岡、外池と河野夫人、東洋音楽とりやめ、(※省略) 時間一杯となりL2Dにゆけば一杯をり、
「必修なれど来年きけ」といへば1人つき来り、長野高校より来し小山雅之?竹内好のこときく。親友代表といふ。武田泰淳の事も知りをり。
salaryとりにゆけばもとのまま。山中正剛君にさそはれ餡蜜くひにゆく。敬老精神となり。(380×2)

4月22日
8:00さめ11:00出て登校すれば「私鉄st.7:00までに解決せざりし故休校」と。(※省略)餡蜜くひて帰宅。昼食す。巌南堂より『東洋学報』来りしのみ。(※省略)

4月23日
8:00さむ。晴。咲耶へ『詩集』送り返す。大学講師控室へ電話してきけば、(※省略)「教授会14:10あり」と。(※省略)
12:40出て成城大学へ着き、(※省略)  14:10よりの教授会にtobaco吸はずものいはず。
「来年より○付(※寄附入学)やめ、来年より入試1回にいたし云々」山田学部長苦しげなりし。
16:00すみて駅へゆく途、栃尾氏に遭ひ桜子へ誘ひ餡蜜供し『蘇東坡集』の刊年しらべたのむ。『民間伝承320』来り、わが会費3,194円と。不明。

4月24日
8:30さめ9:00朝食。『東洋学報』払ひにゆき、佐伯に寄りプティ・パレで喫茶、帰宅。午后となりまた佐伯へ『東京大學東洋文化研究所漢籍分類目録(16,000)』注文に行く。

4月25日
終日雨。ユ、戸田画伯にゆく。われ『牧野植物図鑑』の漢名怪しきに半日かかり疲る。大学の講義いやなり。
和田久徳氏より電話「東方学会に出ず。6月沖縄にゆく」。「その内御茶ノ水大へ伺ふ」といふ。

4月26日(日)
6:00さめ6:30起床。9:30の電車にて礼拝にゆく。主の復活を信ぜぬがユダヤ教と。すみて69名にて信者総会。(※省略)
飴買って帰る。(※省略)佐伯に寄り『余は如何にして基督信徒となりし乎(200)』買ひ来りてよむ。日曜は安息日となり。

4月27日
9:30さめ(よべ23:00半服足す)朝食。ユ、医者にゆく。南村裕子「4月4日結婚、安田姓になりし」と。午后あすの予習に疲れ果つ。
森克己博士死去、77才と。咲耶より電話「手紙みた。困った」と。

4月28日
6:00旨くさめ8:30出て9:05の小田急急行にのり成城大学。教務の鈴木氏に『台北歳時記』のcopyたのめば数しらせ、費目はあとにてと。(※省略)
高田、入学試験の手当とりに来り、向ひに坐りし川田女史(われを詩人ならずや『山の樹』の同人と)(※川田靖子)と話す。仏語の講師にて玉川学園が本職と。
高田、駒沢の短大2時間となりしと喜ぶ!(※省略)16:30立沢みよ子さそひて「桜子」へゆき、われは汁粉、彼女は餡蜜食ふ。(※省略)
夜、小包として「中国の婚姻(※『日本常民文化紀要』)」の抜刷20部来り、大林太良氏に先づ1冊を献ぜんとし誤植訂正に疲る。

4月29日
8:00さむ。叙勲に勲2等瑞宝章に菊地真一(72)、澤井種雄(70)、鈴木朝英(72)、野田又夫(70)の諸先輩顔を並べをり。
勲3等瑞宝章に板倉鞆音(74)、田中楠弥太氏(70)通産行政の功労者として名見ゆ。天皇80才の誕生日とて各televi放送す。中国の人口9.8255億人!

4月30日
8:30さむ(よべ22:00前ねし)。10:30出て登校。図書館にてしらぶれば『鳥居龍蔵全集』あり。
野口君「Malaya,Singapoleにて華僑にと合はざりし」と。外人?聴講ありとて許可す。
森田晃一生、わが『李太白』手に入れしといふにsignす!
semiの教室あかず講師室にて抜刷くばり、「天理の参考館4人にて見し」云々。津端生写生し来れり。出て桜子へつれゆけば津端生午食まだと握飯注文す。
他は甘党にて1,850払ふ。15:00より大雨との予報に帰り来れば降らず。杉山博文・安田(南村)裕子にハガキかく。
和田夫人、仲人せしとてうるさく電話かけ来る。21:00「大英博物館Orientの部」見了り就寝。

5月1日
よべ21:00就寝してねいらんとするに和田夫人また電話。22:00眠り3:00さむ。あとねられず8:30起床。ユ朝食くはし10:00出てゆく。
和田夫人より電話(※省略)われ「仕事中」と切り、(※省略)川久保に遭ひ「顔色悪し」と。佐伯にゆき『韓国(100)』買ひ「そのうち学校の分注文す」といふ。
八戸の圓子氏に詩集の返事かき投函かたがた山住正己氏に抜刷もちゆきプティ・パレ。(※省略)けふより暑し。
15:00すぎ高円寺へゆき『玄奘三蔵(150)』、『インドとイギリス(150)』と岩波新書『ガンジスと三日月(500)』買って帰る。
大野新氏へ「小さい庭」包む。(※省略) 夜、古宮新喜より「小松と結婚す。式には呼ばず」と。

5月2日
よべ早くねてけさ7時間してさむ。和田久徳氏に抜刷送り大野新氏に詩送る。ユ、山住dr.に和田夫人のこといひ、(※省略)
咲耶より「歌見てくれ」と。民研より「9日13:30来れ」と。

5月3日(日)
よべ0:20追加のみ7:30さむ。ふらふらと礼拝にゆけば、長島君の長老認証式なし。ユ清水嫗と会ふ。帰りて昼食。
15:00来りし三郎兄、俊子姉、すみ子と也。ユの絵2枚もちて去る。(※省略)
花井夫人に長き電話し「和田夫人、思ひつめると変となる」となる。昨日けふと暑し。(けふ咲耶へ歌返送す)。

5月4日
8:30さむ。外出せず。12:00来るといふ青木生まてば鳥海生とともに来る。(※省略)青木生semi定まらず鳥海生「七夕」ときめしあと「阿片戦争」とす。
『人民中国』も来りて江青の裁判のす。

5月5日
7:30さむ。10:00より東洋史の予習、12:00和田統夫夫妻Melonとおはぎもち来る。柏井留守と。墓参りの帰りと。(※省略)

5月6日
8:00さむ。津島佑子televiに出てをり。十人並み(※省略)、2児をもちて離婚と。
10:00すぎ出て登校。鈴木さん『台北市歳時記』51冊こさへをり「午すぎのマイク学生にとりに来させよ」と。榊原副手に売ることと取寄せとたのむ。
栃尾氏『七月七日』賜ふ。(※省略)午食するとて去りしあと只一人ゐる講師に自己紹介し青山学院大の九頭見一士教授とかいてもらふ。珍しき苗字なり。
(※手当計算 省略) 阿佐谷でしるこ(300)食ひ、ユ帰らざる故プティ・パレにゆき、(※省略)
ハガキ、羽田と大野新氏へかく。『詩人学校』来りわが詩トップにのり、下手なるに恐れ入る。

5月7日
眠れず0:00すぎ入浴、7:30さむ。ユ朝食くはず山住dr.帰り来り、血圧高くなしと。10:30薄雨のなかを出て登校。栃尾君に返礼の本与へ、(※省略)
尾形教授の室にてsemiせんとすれば青木と塩沢のみ。歌教へ来週より卒論の進度きくといふ。(※省略) 教授会、中西進氏帰国。
けふ全学懇親会とて山田部長ゆるゆるとやる。14:30すみて大雨の中を置き傘もちて帰宅。

5月8日
7:30さむ。よべ大雨なりしも止みて晴天。午后「台北市歳時記」の予習し佐伯へゆく。
(「阪本越郎を偲ぶ会」31日12:30より平河町海運ビル会費6,000と「出席」の返事投函)。
『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録(1.6万×0.9)』と『シルクロード6(1,700×0.9)』と来てをり。
『日本語のしゃれ(250)』買ふ。著者鈴木常三氏は我と同年生れにて国学院出の文献民俗学者なり。広くよむ。プティ・パレにゆき喫茶。(※省略)
夜、山住dr.より「奈良嬢断り来りし故、和田さんに断ってくれ」と。ユ、和田収一君に電話すれば「面子つぶれた」と怒り長電話せし故、我出て「山住先生に云へ」と電話切る。

5月9日
6:30さむ。晴。ユ山住dr.にゆき(※省略)。都丸支店へゆき学校へ8万円ほど。われにと『帝国主義(100)』、『水滸后伝(上中下)』、『沖縄ノート』、『伝統中国の完成(200)』、『インド教』、松田寿男『アジアの歴史(300)』、『インドの現代思潮』、『騎行車行の歴史』、『インド民族史』などにて7,000買ひ、瀬見氏さそひて喫茶(『ソヴィエト百科辞典索引』くれし也)。プティ・パレにて13:00昼食す。(※省略)
和田久徳氏より「論文見た。一度来る」と。ぎょうせい社より『精選日本近代詩全集』に詩4篇のせてよきやと。
17:00桑原武夫博士のteleviききをれば和田夫人より電話あり、腹立てて「ユ不眠、病院へゆきし」といひ、
(※省略)ユ帰りて「和田節子おかしきゆゑかまふな」と。
夜、河野夫人に電話し「聴講願書出せ」といへば「先生このごろまともゆゑ宜し」と也。(※省略)

5月10日(日)
早起し夫婦にて礼拝にゆき、帰り吉祥寺の古本屋にて1万円近く本買ひ、佐伯にて3万円近く買ひして帰宅。
大林太良博士の抜刷『骨から見た日本人の起源』投函しあるを見、昼食後電話すれば来たまふ。甘いもの食ひ、茶のみたまひ一見旧知の如くなる。
double本2冊進呈、帰りゆきたまひしあと、佐伯へ寄れば主人入浴と。柏井へゆき尚子のよくなりかけを見、(※俊子義姉の)田中家へゆき女たち話すを見てtelevi。
17:30出て佐伯へ寄り12万円の本、大学へと注文し、わが買ひし本の金とりかたがた届けたまへといふ。佐伯さん18:30来られ27,750払ふ。
佐伯さんよりの買入、今永清二『近代中国革命史(800)』、小野川秀美ら『辛亥革命の研究(6,300)』、中村義『辛亥革命史研究(3,600)』、木村雅昭『インド史の社会構造(6,000)』、武部良明『漢字の用法(1,000)』、宇井伯壽『日本仏教概史(750)』、井上靖ら『中国の美術と考古(1,800)』、嶋田襄平『イスラムの国家と社会(1,400)』、鄭大聲『朝鮮食物誌(1,300)』、辻直四郎『ヴェーダ学論集(4,800)』。
夜、幸田さんより電話。われ鈴木明『その声は戦場に消えた(650)』よむ。こは北口千章堂にて買ひしなり。ユ、我を「躁」と認む。(※省略)
和田久徳氏に「一度成城大学へお出でを」とかく。

5月11日
9:00さめ朝食pão食ひをれば、和田収一氏より電話かかりし故「夫婦してゆく」といひ、羽織着て(※省略)探し探しして和田家。
和田夫人腫れし顔し、ふるへる手にユ病気と思ひ、わびつつ事情いひ収一氏と内緒の話する内、画類などもち出して見す。
12:00近くなり関東busの下井草停まで送られ、高円寺行に乗りユは天沼車庫で下車。われ終点まで乗り都丸本店のぞき瀬見夫人我を知りをり。
(※省略) 山本達郎『印度史(1,000)』買ひ支店にてまた『蘇軾(2冊1,200)』、『先史時代のインド文化(1,000)』買ひ、帰宅すればユ帰らず。
船越苑子訪ひしゆゑ、あげて茶いれさし柏井へ電話すれば尚子出て「いま着かん」と。13:00帰着。炒飯くはす。
苑子14日来て15,16両日の〒新聞とりのけ承知す。昼寝せしと16:30さめてユに山住dr.にゆかせれば、和田夫人電話かけ来て、テンカン治りし様子也。(※省略)
午后来し宮本馨太郎氏の遺著『東京都の民俗』の礼を瑞夫周子夫婦に書く。
(研文出版より松浦友久『詩語の諸相』来りし故、山本實君に受取り電話かけ「来週あたり来て(※「蘇東坡の」)かきかけ500枚見てくれ」といふ。)

5月12日
6:00さむ。7:30朝食。9:30出て登校。(※省略) 中西博士アメリカにてわが詩披露せしと。『古稀記念論文集』進呈を約す。(※省略)
出んとすれば沖田憲に遭ひ、ともにしるこ食ひ、(※省略)駅にて別れ下北沢(※省略)、池ノ上駅におりれば(※省略)タバコ屋、吉越氏店番しをり。
「まあまあお上り」と。長男ゐるを知らず大きな声出す。(※省略)出て満員の井の頭線、(※省略)
小高根太郎氏に電話すれば夫人出て「どなたですか」と。太郎とfictionかけといひ笑ふ。

5月13日
8:30さむ。(※省略)過度の喫茶店でtea(250)飲んで登校。成城堂に本注文、(※省略)石川図書館長と久しぶりに話す。
栃尾君来しに『楊貴妃とクレオパトラ』と『学芸手帖』の「西王母の歴史」copyさす。(※省略)
帰り東豊へより『古都北京(800)』、『鴉片戦爭前中英交渉文書(2,200)』、『鴉片戦爭文献彙篇6冊(1.8万)』借る。
(成城堂にてタキトウス『年代記2冊(550×2)』、『民法入門2(530)』買ひ(借金)、駅前本屋にて『インド大反乱1857年(480)』、『日本の南洋史観(380)』、『人類の創世記(1,600)』買ふ。重きカバンもち東豊へゆきし也)。
南新宿に引返し帰宅。(※省略) 夕食の時、和田夫人の愁訴つづく。(上村肇『空手富士』来る。明治43年生れと。ハガキかく)。(※省略)

5月14日
6:30起床。ユ9:30数男迎へに駅へゆく。佐伯に電話すれば「けふ学校へ本もちゆく」と。10:00依子より電話「ユ血圧高きゆゑゆかず」といふ。
数男、山住dr.にゆき「タバコ止められた」と。われ姉弟のこして出11:00登校。高田瑞穂「名誉教授任命祝酒のむ」と11:30学長室へ去る。
中西、栃尾氏と会ふ。平山博士「酎金の律」について聞く。「ちょっと待って」といひ『アジア歴史事典』しらべて返事す。(※省略)
(※semi生と)桜子、(※省略)鳥海生と南新宿で下車。東豊書店に1.8万の払ひし、茶2杯出され中央線に乗り阿佐谷下車。
金子書店で『イスラム社会の性と風俗(900)』買ひ、帰宅すれば電気屋来てをり、鳥海生のsemiはじめ夕食すましてまたsemi。ついてくるのがうれし。
21:00semiすみ22:00すぎ就寝さす。われちょっとねにくかりし。

5月15日
3:30さめ放尿、またねて7:30起床。鳥海生8:30起きる。10:00ともに出て花屋の前で別れ、クラタで散髪(2,300)。11:00 帰宅。
午食13:00プティ・パレにゆき定年後画をやる伊藤氏と話し(福地女史不在)帰宅。傘もちて古本屋にて『■■の文化(350)』買ひ、
新宿にて京都往復(※切符)買ふ。(※省略)15:00ユあらはれ忘れし薬もち来る。ありがたし。「帰りて眠る」となり。
名古屋まで35才の出張の係長と話しcoffeeおごる。名古屋より下関の海産社長と話す。(※省略)
京都着。駅の案内所にて「京都第3タワーホテルに空室あり」と案内され、ゆきて717号室の鍵もらひ、(※省略)
一階の食堂にて3,000のdinner食ひ、19:30羽田に電話すれば「bus2.9に乗りて来れ」と。(※省略) 別のtaxiにてゆき羽 田父子の迎へに来ると同行、夫人出てもてなさる。母上健在と。whiskyのみ23:00次夫君の運転にてTower Hotelまでのせてもらひ23:30入室、眠剤2服のみて眠る。

5月16日
8:00まへさめ日記つける。ユに電話してけふ帰るといふ。レジにゆき払ひすます(夕食3,600室代5,500+550(チッ プ)+350(税)+電話110)。
地下道にて朝食800。17:29のひかりの5,500買ひ東山通りへゆくため地図(500)買ひ、東山通りへbus(130)10:10着く。
貝塚、小川兄弟(※貝塚茂樹・小川環樹)、日比野幹事(※日比野丈夫)などに挨拶し2列目に坐り、
Duquenne Robert(ベルギー人)の「即身成仏思想について」きき、質問時間に「郎」と「暇」の誤字訂正をす。
ついで中国科学院自然科学史研究所主任の講演「(気の概念と)中国の天文学」通訳付きできき「ハレー彗星の出現は次いつか」ときけば1986年となり。それまで生きたし。
次いで昼食。羽田(平岡氏とは大台ケ原登山のこといふ)(西田龍雄博士に西夏語のこといひ名刺もらふ)、三田村泰助(野間光辰只一人和服で来てをり。中村幸彦元気と)、佐伯富(佐中壮氏わが『悲歌』もちをりと)、山田信夫らと對食。
妙法院の国宝庫裡見、宝物殿はやめて待ち、三田村氏らと歩く途中、京都女子大でわが「聊斎志異」の話ききしといふ関学大の児玉新次郎教授の名刺もらふ。
(神田先生(※神田喜一郎)「蒲松齢はAbu(※父)といはれ、われ「蒲寿庚の末裔」と考証せし也」)
『京都市街地図(500)』、土産3ケ(3,500)にて『ßoletin (2,500)(※不詳)』買へば1,000札なくなりし也。
三田村氏に「茶おごる」といひ断られて助かりしと思ひbusに乗りて京都駅(130)。milkcoffee(80)のみ(※省略)17:29にのれば隣席の男感じ悪く(※省略)名古屋で空席に坐り独り歌ふ。20:20東京着。新聞よみpão食ふ。夕食は茶3杯(80×3)と焼売(200)なりし。

5月17日(日)
6:30さめる(よべ2服のむ)。夫婦とも礼拝休む。小雨寒し。衛藤長者に「婚姻法」(※「中国の婚姻」日本常民文化紀要抜刷)包む。ユ戸田画伯にゆく。土産を画伯に、2千円を謙介氏に贈る。
雨中1万円もちて出、封筒10枚(120)、佐伯にゆき『古書の見方・買い方(800)』、『琵琶湖水底の謎(200)』買ひ『酉陽雑俎3』催促す。うつぎ書房より『女の民俗誌(700)』買ひ「原語ある唱歌集を」といへば『世界合唱曲集(500)』探し呉る。
(※省略)帰宅。11:20なり。(※省略) 榎・貝塚両博士に「婚姻法」包む。
午后、英文『燕京歳時記』の訳す。元宮を了りしところ(20:30)和田久徳氏より電話「26日15:00成城大学へお越し」と。関学児玉教授に「婚姻法」包む。

5月18日
5:30さめ佐伯富教授に「婚姻法」包む。西田龍雄氏に「マンジュ族の殉死」「満洲語漢字」(※紀要抜刷「漢文資料にみるマンジュ語」)包む。
(※省略)佐伯にて太宰治『津軽(50)』、『豊臣秀吉(200)』買ひ、ユが描くといふカスミソウ(300)買ひ来る。
山住dr.に数男の診断結果をユがきけば「異常なし」と。
川久保に「土産あり来よ」といへば「13:00ごろ来る」と。山本實氏「16:00来る」と。川久保来り「ツングース語辞典」やる気となりし様子。15:30出てゆきしあと高円寺へ駈足。瀬見氏をらず。「来た」といひネール『父が子に語る世界歴史3冊(300×3)』、『司馬遷・史記の世界(500)』、『中共雑記(300)』、『人類学(300)』計2,000買ひ駈足にて帰宅。
16:00ちょっとして山本實氏来り「蘇東坡」500枚(※原稿)もち帰る。
(※省略)田村博士に「婚姻法」包む。ユ18:30出てゆく(吉祥寺で見合さすと也)。築島博士に「婚姻法」包む。平岡武夫先輩に同。ユ21:00帰宅。

5月19日
0:00、1服足してのみ3:30放尿に起き7:00「日本歌人」の会に出席の夢見て覚む。
堀敏一氏に「婚姻法」包む。宮崎市定先生にも同。9:30出て杉並郵便局(※省略)
10:00着き、川田靖子女史と『山の樹』の批評をし、栃尾氏より『玉造小町子壮衰書の研究』もらふ。
(※省略)「柳樽に見える中国」の校正来をり。文化史特講は空にてやり、早めにすませ宮崎博士ピシャッと扉しめる(はじめてその怒るを見し也)。
元旦すみ元宥は河野女史訳し呉る。ともに下りて入学願書に印捺し教務にゆかせれば「短大より大学院はダメ」と。マッチのあき箱与へ鴎外関係2冊貸し、2万5千円もうけしといふ。
(※省略) 「桜子」へゆき「しるこ」あつらへて飲まんとするところへ3人現はれ、名を問へば1F吉越と門馬と、も一人は仏語にてわが講義きけずと。ふと気づき吉越生に「相撲のteleviみせよ」といひ同行して池ノ上下車。
(※省略)吉越家、父母兄そろひをり。角力高見山勝つを見て喜び、すみて出れば笑子生、新宿まで送りに来る。
帰りて校正すまし抜刷30部をたのむ。(※省略)

5月20日
6:00さむ。出席表つくり著作card作る。寒し。9:30出て杉並郵便局。
(※省略) 成城堂にて野原四郎監訳『中国近代史1(2,600×0.95)』、『日本の唱歌 上(380)』買ひ、控室にて歌ふ。
(※省略) 吉越生より「貰ひ物」と茶と粽ともち来り、頒けてほぼ食ふ。
(※省略) 東豊へゆき32万円の残りをこさへてもらひ、京大中文大学院修士明清小説専攻の大木康君、わが簡さんとの対話をききをり。
学校へ栃尾君に頼まれし『聖経(2万円以上)』など9万何千円買ひ、1,000円ものこらずなる。
わがためには『笙楽理論及演奏(4,000)』、『西湖遊覧志』、『仝余(1,860)』、『Singapore(2,040)』、『湖西苗族考察調査報告 上下(9,000)』、『百越源流与文化(1,260)』、『人々文庫5冊(80+270×4)』買ひ、『三国遺事2冊』を4,000×0.7で売り大木君に「来よ」と名刺与ふ。駅まで包もってくれ「横浜へ帰る」となり。
18:30card買ひて帰宅。(※省略)豪徳寺で下車。古本屋82才と。『中国革命の先駆者(600)』買ひ、成城堂にても吉川『阮籍(200)』買ふなど躁のtopなり。
(吉越生『ハイネ恋愛詩集(170)』買ひ来りsignさす)。
21:00簡木桂に電話し『義和団文献叢編2』の混入いひ「とりかへよ」といへば「承知した」。
そのあと財布なくあはてしに畳みし蒲団の中にありとユ、予言す。
23:00すぎ眠剤のみ荒木中尉に「婚姻法」包む。

5月21日
2:00放尿に起きまた眠り5:00さめ歌うたへばユ怒る。8:00杉並郵便局に荒木氏への郵便出し、愛場君読んでもらへば「欠勤」と。
帰り只一つあけゐしChat noirに入り紅茶(250)飲む。(※省略)
登校、Skey女史にわが詩見せCanadaの地図見せ、栃尾氏に『三省堂年表』見せ、(※省略)吉川幸次郎の文庫与へ、(※省略)semi4生と古本屋へゆかんといひ、財布忘れしに気づく。紙入れに金あれば、ゆけば古本屋休み。餡蜜食はんと桜子に向かはんとし、中国料理屋見つけヤム茶のまんといへば二階の畳の間に通さる。3生食前とて喜んで団子食ひ2,000払ひ、香買ふ(200)。
2生6月中学へ教育実習と。鳥海塩沢とは新宿でsemiせんといふ。「7月の横浜も大喜びでゆく」と。
14:20までに研究室に置きし本もちゆかせ、聴講cardもちて教授会。
名誉教授の件、改正され池辺はダメとわかる。新城博士風邪にて来ず、西山博士より『歌舞伎』もらひsignさす。
「三国一」の日本人発明をいひ、聴講cardをエンマ帳に写してのち大学院教授会。何といふこともなくして了り、渋谷の店知るといふ森岡博士まちて西山、野口2博士とゆく。なるほど遠き路なり(青学通りでなし)。
鎌田、田中宣一、榊原副手と坐り、隣には慶応大学より出講の伊藤清司教授、「竹田竜児君は今東海大」と。佐藤、堀口、折口など慶応の話し、西脇順三郎のこともいふ。
内田るり子講師「吉祥寺に住む」と。島根の唄の収集家牛尾三千夫氏を識り、宮崎智恵氏をも識りをり。
左手は桐朋学園教授小木新造博士、開会の辞、平山博士のべしあと、われ音頭とりて乾盃。「大学院のためよろしく」といへば「学部も」と注意さる。
小川氏など欠席4人にて21:00ごろ了り、鎌田女史、肉の骨包ませてもちゆく。
森岡、田中2氏をさそひ、榊原副手の案内にて喫茶店へゆけば満員。笑ひつつ待ち坐りてice-creamめきしもの飲む。(※省略)
新宿のtoiletにて千代の富士のこと問へば酔漢からみ、笑ふ中年あり。
南阿佐谷に22:00着いてまた紅茶たのみ家に電話すればユ、風呂わかし呉る。
神経性の血圧とて眠り多しと。哀れなり。我は入浴0:00まで日記かく。
(榎博士より「ハレー彗星にてわが喜びしを見し」と。抜刷の礼に1980年Firenzeにての講演「Confusion Women in Theory and in Reality」送らる。意外にもわが知己なり。あす本送らん)。
けふ渡されし俸給(※省略)。

5月22日
よべ0:00まで眠れず追加のみ8:30さむ。榎一雄、伊藤清司2氏に『中国の自然と民俗』郵送と包む。
小木新造、内田るり子諸講師に包み成城へもちゆくこととす。
9:30出て戸田家訪へば画伯出て「今出し」と。駈足にて南阿佐谷で追つき「辛酉考」7×400書くこととなる。
成城へ着き(※省略)控室へゆけば築島博士より電話「会ひたし」と。「15:00小田急出口にて」と約束、宮崎博士に「この間は失礼」とわび、 「古稀記念論文集進呈する」といひ、榊原副手と食堂にゆきチャーシュー麺たのみ、もって来さす。殆ど食へず。別れて駅に出れば高田瑞穂に会ひ、さそひて「桜子」へつれゆき、われは「茶」かれはなにか食ひ、我払へば恐縮す。
東豊書店にゆき『鴉片戦争文献彙編2』とり、払ひせんとすれば1,200足りず、またといひ、中国音楽やるといふ東大修士に「家へ来よ」と名刺わたし、12:30出てecho買ひ、小田急出口へゆけば築島博士まちをり色々話し「楽しかった。鎌田女史には気をつけよ」と云はる。出てelevatorに乗り「ルネッサンス展」見ると11回で下りれば会場わからず、書籍売場にて『翻訳の世界(540)』、『アルトハイデルベルク(180)』、『朝鮮民話集(400)』にて残金300.(※省略)
急ぎ帰りて角力見る。高見山勝つ。(※省略)
角川春樹氏より『句集カエサルの地』贈られ、早速源義氏との交渉まじへ礼状かく(けふ小田急にて角川文庫3冊あるを見し)。
(けふelevatorにて亀井孝に遭ひ「飲まんか」と誘はれ「宿酔」と逃げる)
(※省略) 22:00「辛酉考」5×400かき了る。(※省略)

5月23日
よべ業績card作り1:00眠り5:00小便にて起きる。ユやかましく叱る。
戸田謙介氏に「辛酉考」届けにゆく(※『民間伝承』原稿)。受取らる。
花井タヅ子氏来り、坊や(※省略)一度よこせといひ、(※省略)
佐伯にて『家族社会学(100)』、『小説帝国大学(200)』、『京都(100)』買ひ『三遂平妖伝(11,700)』受取る。(※省略)
14:00津幡かおる生来り、全然できず(※省略)、プティ・パレへつれゆき(※省略)
帰りて角力見しあと高円寺へゆき瀬見氏に大宅壮一の本探させしもなく、『討議近代詩史(700)』買ひて(※省略)、神学大学生つれ帰りハイネ見せしもわからず『使徒の友』見せればわかりしと(富山の人にて大学は出ず竹森先生に習ふと也)。21:00すぎ帰りゆく。靴ボロボロなりしとユの話なり。(※省略)

5月24日(日)
5:30さめ7:00起床、夫婦とも礼拝休む。午食し川久保に電話して「行く」といひ『日本案内記』もちて出しところへ大林博士お越し、『長屋大学』賜はる。
うれしく只一つある「詩経の草木2」の抜刷わたし茶菓供すれば飲み食ひしたまふ。うれしかりし。
(※省略) 送り出して川久保家にゆき東坡を宋人、廬山を蘆山としある刷物を訂正す。
「書原」にて『本朝二十不孝(350)』、『閉ざされた原語・日本語の世界(830)』買ひし。ふと気づき荻窪まで地下鉄、岩森書店にゆけば未亡人をり。『日本案内記』そろひしと喜び4,000くれしゆゑ、『サムエル書(1,000)』、『シルクロード謎の民(1,600)』、『娘巡礼記(700)』、『明治大正風俗語典(1,000)』買ひて金なくなりしをわが著『李白』にsignし「このみちを」書けば1,000呉れ、今夜息子と来るとなり。電話教へ「区役所前で」といへば夕食前19:00電話かかり、(※省略)我家に訪なひ伊東静雄関係一切売れば息子8万円と(いろいろ見せ『コギト』のそろひに驚きし)。
夕食せずプティ・パレにつれゆきしは『中国の自然と民俗』1冊やれば5冊6がけにて買ひくれし故、誤植表copyにゆきしなり。(※省略)
息子、中央大経済出とわかる。ユ雨傘もち来りしを理由に出て途教へ、21:00夕食し『果樹園』のハンパcardすませ、山口基のくれし『R火』の歌その他をもcardとる。23:00入浴後、(※省略★)。

5月25日
cardかきに熱中し3:00までねられず。2:40眠剤1服追加。7:30起床、9:00すぎ山住dr.にゆき正己先生の『教壇上の文学者』いただき『中央アジア事典』呈す。
佐伯へ寄り『インドネシアの民俗』、『信長公記』買ひ、日鮮関係の本3冊600で売る。(※省略)10:00岩森書店につけば母子ともに起きず女主人出しに礼いへば娘まづきcoffee出す。1万円もちゐし故、大気にて大法螺吹き芸術院会員河盛好蔵氏に電話すれば「風邪にて面会できず」と。11:30になり地下鉄にのり小田急南新宿にて下車。新本屋通り抜け東豊にゆき借金2千円払ひ『中国近代史 上下(1,480)』、『中国近代革命史(840)』、『満文清実録研究(3,800)』、『辛亥革命先著記(680)』、戚維翰『李白研究(300)』、岑伸勉『唐史餘瀋(560)』、『百草験方(1,800)』、『呂后其人(230)』、『中國的古代社會(380)』、『沙皇俄国侵略拡張史(270)』、『英使謁見乾隆記實(訳)(640)』、『中華民族拓殖南洋史(860)』、『偽満洲国史(1,280)』、『清朝初期的八旗圏地(900)』、『林則除伝(840)』、『中国民間戯法(250)』、『老年工生(240)』、『小説三談(350)』、曾迺敦『鄭成功(140)』、『革命先烈伝(430)』、『西湖佳話(700)』、『鮮卑史(1,600)』と買ひまくり15,000の借金払ふ。
『アミ語彙』、『中共婚姻法』とりよせよといひ、ラーメン(250)食ひて出、新本屋にて、梅棹『東南アジア紀行 下(360)』、『シナ思想と日本(竹中にてなり)』、『本朝二十不孝(350)』、『閉ざされた原語・日本語の世界(830)』買ひて(※2冊は5月24日記事と混同?)傘忘れice-cream食ひて引返せばあり、南新宿より南阿佐谷につきあわてて下車。傘また忘れしに気づき引返して改札にいへば荻窪終点に電話して「あり18:00までにとりに来よ」と。思案してうつぎ書房に寄り一休みし『世界分図8ソビエト連邦(100)』、『豊臣家の人々』、『日本地名語源事典』、『沖縄語辞典』にて9,600と。
ユに電話して1万円もち来させ払ひすまし400もちて荻窪また岩森にゆき「休み月曜」とて(6,450)の本包ませ近々とりに来るといひ、帰れば「山本氏より度々電話ありし」と。われよりかければ「帰宅」と。あとにて自宅よりかけ来り「風邪ひいた。100枚よんだ云々」と。
蔵原惟光氏より『野鳥の賊』送られ、喜んで礼状かく。(※省略)
(誠心堂宅に電話すれば夫人出て「申込み承る」と丁寧なり。)

5月26日
よべ眠りつき悪く『果樹園』の見なほしやり、2粒のみて2:00眠り7:00さめ9:00出て地下鉄のsilver seatにて若き女立たし「坐って下さい」といへといふ弁護士と名刺交換す。金沢良雄(※大高旧友)知りをり。
成城堂にて本買ひ10:20教室をまちがへて笑はる。学科もまちがへ教科書なしにてすます。(※省略)
和田久徳氏来り、図書館の案内してよきや関戸事務長にきけばお茶大図書館長なればよしと。すみて民俗研究所事務室につれゆき柳田文庫・堀文庫の書目ただでとり、(※省略)
駅まで重き本運んでもらひ南口へゆけば高田瑞穂とび出して来る。
向ひに坐りしは岩本章にてwhisky水割りでのむうち高田・岩本出てゆく。
向ふに山田、大山、戸張の3教授ゐる方へ移り、山田部長と鎌田と上原の3人が反対にて不名誉教授の宣言し、
佐久間、五十嵐らの方へ移り、佐久間より良きタバコもらひ「この次はわれおごる」といひ、
下りの3君と別れて各停に乗り(※ここまで飲み会と混同?)、
梅ヶ丘にてふと気がかはり麥書房へ暗き中をたづねたづねしてゆき、戸を叩けば夫人「お上がり」と。
上りて水もらひ、わが詩集(※手書き『嶺丘耿太郎詩集』)copyにて8月31日(※誕生日)跋文にして出してくれよ、「四季とコギト」は書き直すといふうち、
21:00すぎ2度ユに電話し阿佐谷にて蜜豆と瓜と買ひて帰着。23:00入浴後、丸に電話すればタバコのみ酒やめ早ね午起きと。
「木曜16:00whiskyもちゆく」といひてすむ。0:00すぎ薬のむ。(※省略)

5月27日
8:00起こせよといひしに6:00さめ7:00美紀子に電話し「金曜留守番に雅子淳一よこせ」といへば「宜し」と。
8:00岩森書店に電話し若主人に「すぐ来い」といへば14:00来る。
保田與重郎、複製『四季』(4万円と)、クラウス、その他にて16万円置き喜びて去る。
1万円もちて10:30出、成城に11:00着き、中西博士に「雄略天皇のこと」copyす。
まづまづの出来なり。昼食半分し、山中教授に「名誉教授の可たのむ」といひ、「かえ歌」与へれば喜ぶ。
(※省略)早めにすまし(「茶のみにつきあふもの手あげよ」といへば女生2人手をあぐ)待てど来ず「まただまされた」と帰らんとすれば「研究室の前にて立ちゐし」と。喜んでこの間の中国料理屋にゆき、あすの予約たのめば「先約あり」と。(※省略)
向ひの古本屋にゆけば主人82才と。娘しきりをり。(※学生に)何か買へといへど買はざるゆゑ100円の本1人1冊与へ、大急ぎで成城大へ帰らし、ゆっくり見て『春信(1,000)』など買ひ16:20文化史研究室にゆき、榊原副手さそへば在室の4年生男女つき来る。よくゆきし2階にゆきてice-cream食ひ、眺望よくなくなりしを知る。払ひすまし(1,600?)、
(けふ成城堂にて子供向きの本3冊、『江戸語の辞典』『日英韓旅行会話』など買ひ6月10日のbonusののち払はんといへば女主人「よろし」と。2万円近く借りあらん)
鈍行に榊原副手と乗り豪徳寺下車。別れて古本屋に入り『憤死』買ひ、(※省略)線路沿ひに10分矢野家に着きbell押せば庭掃除しゐし夫人出て「すぐ帰る、仏前に」といへば「孫帰りゆきしばかりにて汚し」といひしも案内してくれ(※大高旧友の故矢野昌彦に)線香あげて一礼。
茶一杯をといひ、(※近所の)西垣脩夫人に電話すればゴチャゴチャいふ故、一度切り、も一度かければ来る。
矢野夫人立会の上にて(※西垣脩の)死亡の時も知らずといへば「新聞すべてにのせし」「わたしは動転して(※先生に連絡する等)気がつかなかった云々」、「(※遺稿文集に)西垣脩の『果樹園』同人たりしことのせよ」といへば「鈴木、鎌屋(※糸屋鎌吉のことか?)、小山に任せあり」と。3悪人そろひしといへど「主人は(※先生の)悪口申しませんでした」ときかず。
これにてすみ、矢野の霊前にて大高寮歌歌ひ「京王ならば新宿まで90円」ときき「戸締りに気をつけよ」といひのこし、新本屋にて『世界の愛唱歌』見つけ、向ひの古本屋にて旗田巍『朝鮮史』買ひして、ユに「上高井戸にあり」と電話し、準急にのり明大前にて急行に乗りかへ洋弓もつ男子に矢野明子のこといひ、下車すれば新宿三丁目。改札にて「120円追加」といはれ「うっかりのりこした」といへば「引き返せ」と親切にいふ。喜びて引返し、新宿まで京王より賑やかな地下道におどろき21:00帰着。
夕食するうち「金曜美紀子暁子をつれて泊まりに来る」とのことに電話2度し、「来るに及ばず」となる。
ユ大分おとなしくなり「喜んで箱根にゆく」となり。
(※本日誤解が解けて)判明せしは鈴木亨、吉祥寺(※の自宅)に来しも(※自分が)病気とて(※夫人が)追ひ返し、西垣(※逝去)の時は小山(※正孝)電話かけ来しもまた病中なりしと。(※この日の記事「躁」の影響多し。)

5月28日
4:30放尿にさめ日記かく。そのまま寝ず7:00に美紀子に電話し「あす泊りに来ずとよし」といへば喜ぶ。
われは雅子、淳一に泊りに来さすつもりを、美紀子暁子をつれて来るつもりなりし也。
『果樹園』のcard作り、わが作多きを知り、二郎の愚なること兄とは格段なることを知る。
9:30すまし髭そり髪ととのへ曲り角の喫茶店にゆき紅茶のみてmasterと話してのち成城へゆき、榊原副手ほめ、紅茶出されしあと(※省略)
森岡博士に遭へば「12:00より民俗学研究所にて学科会。後任きめる」と。舌打ちして(※省略)
5分おくれて学科会に出ればすでにはじまり、新城氏不在。(※省略)
ついで後任の件となれば「新城氏不在にては不可」と西山博士。
われ「東大とちがひ本学は20年来後任を退職者が決めるが例。田中宣一は大藤氏の指名、森岡博士は堀博士の遺言、西洋史の松君は4人の候補あげられし3人目にてありし。鎌田先生さうでせう」といへば「ハイ」と。今日はおとなし。
ついで「新城先生図書館にても見つからず」と榊原副手。忘れて帰宅せしならん。これにて後任問題は後まはしとなり、2人の(※退職)記念号いかにすべきかにてまたもめる故、来週11:30より再開と。
12:30散会。(山田部長、平山博士に後任については旧来の陋習破れといひ、平山黙って学科会にもち帰りしを西山博士痛罵す!)
(※省略)4生と桜子にゆき津端ところてん、青木と我と氷小豆、鳥海は他を食ひ2,000にて釣り来る。
駅前から電話すれば応答なし、新宿へゆき(ユ、われ出しあと(※佐伯書店にて)『酉陽雑俎3』買ひ『織田家の人々』は「うつぎに返せ」と、ユそのまま置いて区役所にゆきし尚子と数男に遭ひ、別れて佐伯にゆきしと也)※意味不詳。
(桜子より電話すればユ出て、ついで丸木電話に出て「丸より14:30に帰るといへば「ダメ」といひし」)東阿佐谷(※?)より丸家探しあぐみ、紅茶のみ「電話局の通りの云々」と丸夫人(桑原武夫博士に保田との絶交せしこと速達す。成城郵便局より也)に次の次の通りなりし。丸にドナリつけ高蔵寺温泉思ひ出さず煦美子帰宅。自動車にて送ってくれプティ・パレにゆきユに「傘もて来い」といひ『中国の』2,250にて売り21:00帰宅。0:00臥床(2粒のむ)。
(※この日の記事も「躁」の影響あり意味不明多し。)

5月29日
また4:30さめて起床、朝食して居眠りさめれば14:00。
昼食し川久保に電話して来いといふ。(※省略)1日まちがへて川久保来しと色々話し「荻窪古書展にて手に入れし教授要項、半分は津田左右吉先生ならずや。滝川先生(※瀧川政次郎)に問はん」となり。
ユに滝川夫人に電話せしむれば「けふはダメ、あす13:00電話せよ」と。
(※省略)プティ・パレにつれゆき喫茶後、高円寺へ駈足にてゆき球陽に「見積りに来い、も一軒見積もらし高い方にせん」といへば「おことわり」と。「然らば絶交」といひ(※都丸書店の)瀬見氏訪へば不在。書置きして帰宅。
夕方瀬見氏に電話(※省略)、20:00瀬見氏来り『民間伝承』その他にて2万円。書庫見せれば欲しがりて28,500置きゆく(ユ知らず)。時に1時半民俗学は初号その他不足にて価つかず預りとなる。

5月30日
よべよくね、さめて9:00。散髪、前にて切らんと注文す。すみて10:00帰宅。
(※省略)滝川博士に電話すれば夫人「どうしませう、飯前なのに」と聞こえしも博士出て「14:00来よ」と。その旨川久保に云ひ、着物袴にて川久保家へと13:00出、汁粉屋からかひ川久保に30分前に着けば電話中。長きに腹立て「いい加減にしろ」といへば夫人おろおろす。15分前necktieし来り、われに怒る。はじめてのことにて驚き「それならゆくな」といひ、先立てばついて来り、うろうろ途まちがへ14:00かっきりに着き、呼鈴鳴らせば博士迎へられ、わがもちし『律令の研究』に署名賜ひ、川久保に名刺出ささる。われは博士の名刺の裏に署名せし也。
30分して別れ乞へば夫人門まで送らる。大石まで歩き1万円近く本買ひ、夫人に都丸の自転車にて送ってもらひ、小便してゆけば『民俗学』ありし。 34?足らずと。喜びて20:30送りたまへといひ、プティ・パレにゆきwhiskyのむ(280!)。
ユに電話せしあと山住閣下に滝川博士の言伝へ帰りて堀夫人(※堀多恵子)に電話すれば「俊彦と二人にてゆきしと」云々。ユ帰りて山住正己氏にあやまり川久保夫人にあやまりしあと、potageの用意してのみかけしところへ瀬見氏来り、ユを叱れば出てゆく。「あすの着物だめよ」とのすてぜりふなり。
(植村先生(※植村清二)に11:00桜台駅にて待合せ約す)。(※省略)
(午、誠心堂より21,200本送り来る。ローウィ『原始社会(5,500)』、『通過儀礼(2,200)』、『華僑の本質(3,500)』、 『太平洋民族志(3,000)』、『印度古聖歌(7,500)』なり。)
伊東の妹また狂気して写真送り来り、まきらのこと云はず去年の姉の愚著(※江川ミキ著『おりおりに願う心』)2版となりしを送り来る。不快なり。
すぐ返事かき「尓ゆゑ伊東詩碑見られず」といふ。加藤姉弟も同様なり。ただ神学生三羽、主のみめぐみを祈り来りありがたし。

5月31日(日)
7:30に夫婦さめ10:00家を出てcopyし、本屋にて買ひ、10:00南阿佐谷より四谷まで地下鉄、海運clubへtaxi(400)。会 場に着けば八木幹事と夫人。
まもなく近藤東来り、大木実(わが詩の摸倣すと)、野田宇太郎、最後に小山正孝見つけ「一度来よ」とどなれば福田清人の乾杯にてわれちょっと飲み、ついで神保マイクよりはなれて故人(※阪本越郎)の詩よむ。
我「次の会あり」といへば次にあてられ故人の遺徳いひ落涙す。
用ありと退席、Hotel New Otaniのtower40階に昇りelevatorと同じだったClarence Barbara Page夫妻をlunchに招待、大いに喜ばれアメリカへゆけば来れと。
記念撮影、別れてtaxi拾ひ池袋。歩行者天国、西武百貨店のtoiletに入り、桜台下車。
植村先生に電話し、まつ間に台湾産のマンゴー(200×3)買ひてまてば先生taxiでお越し、taxiまたお拾ひになりお宅へゆけば床あげて書斎にてお話し、例の書物は箭内亙先生にてはなし「榎にきけ」と。榎に電話すれば「あす9:00文庫出勤」と。「10:00ゆく」といひ先生と代る。
(※辞去して)天丼屋に1ケ注文して松本家。夫人出て「さあさあお上がり」と。
善海の霊前に手観音経あげ、讃美歌「み国へゆくと思ひつつも」歌ふ。
(植村先生『楠木正成』、『神武天皇』、『日本案内記 上』賜ふ。)
依田君帰り来り夕食となりわれpeppermintのみつつ名歌集歌へば「のど自慢で優勝確実」と。4人合唱しゐるうち巨人広島戦見つつ依田君に「巨人負けよ」といひ、televi切れ、依田夫婦と環七通り近道教へ、本多家にて下車。
依田夫人に「家教へる」といひ扉あければユ、礼云ひcake1箱与ふ。
われ松本夫人に安着電話す。(※省略)

6月1日
4時に起き、5時半にユと口論「また入院か」と也。9:10山住dr.にゆき薬かへて貰ひ、
帰宅して三つ揃ひの背広に『蒙文聖書』、『中国の自然と人間』5冊もち阿佐谷南よりtaxi拾ひ東洋文庫に11:00着き、
挨拶に「金1千万円や5千万円位ならいつでも集めて見せる」といへば榎主事喜びて総務部長呼びて聞けば「10億必要」と。
これにてすみ、午食に天丼わり勘にてとり(650)突然「研究員にしてやる。もしわしに叛いたら即刻解雇」となり。
われAtlas Sinensis(※中国地図帳)101頁以下(※copy代)計算せしめ8万円ほどとなる。天理の5千円に比べて高きにおどろく。
出てtaxi拾ひ神田へつき雑本買ひ重がりて山本書店。若主人客と話す間、台湾人と筆談、面白くすごす。(※省略)
その辺りの本とりあつむ。すみて計算して貰へば7〜8万円らしく浪費癖つきしを知る。
軽き包みもち、あとは郵便と也。(※省略)
帰りて考へれば榎、鎌田重雄と仲好く共著の教科書出せし也(我は森克己を脅せし話す)。
林富士馬氏より「元気にて佐藤夫人の主治医」とハガキ。堀氏より抜刷3冊もらふ。(※省略)
面白き一日なりし。堀君にと1冊包む。硲君思ひ出し哀れとなる。植村先生に報告すれば面白がらる。
(※省略)(けふ山本より松本夫人に電話すれば(※松本善海蔵書)三田(※慶応大学)その他に大部分売り研究所に残りしは雑本。わが西康省などのみ2階にあること判明す。)
けふ買ひし地図の整理すませば0:00近くなる。

6月2日
8:20さむ(ユ起こせしもダメなりし)と。9:10家を出、南阿佐谷にてユのつかまへしtaxiにのり成城着(2,000)。1時間目歌うたふ。
(※省略)大学院3人そろひ、ここにても歌謡を講じ、14:20の「東洋文化史」も大方歌と質問にて進まず。16:30榊原副手さそって中国料理屋見れば休みをり。(※省略)
榊原生が梅ヶ丘下車といふに麥書房へゆけば「あす18:00来る」と。山本とぶつかるもよし。(※省略)

6月3日
9:00さめ成城大学へ休講を届け、近藤東への手紙出し、電気屋よりラジオ付きカセット買ふ(17,000位)。
午食すまし13:00山住閣下宅にゆき老衰の候著しく「もう来ず」といへば奥様「またお越し」と。
(プティ・パレに榎への手紙のcopy2通とる)。(※省略)
17:30夕食して18:00来し麥と喧嘩し、中公事業から詩集出すこととなる。
ユ(※麥書房主人を)送りかたがた佐伯へ寄れば歯科医へゆき留守と。ユ、本もち帰る。『東洋画題総覧(欠1)』その他なり。
20:40瀬見氏来り『民俗学』6万円にて買ひ、欠1冊われもちゆくこととなる。
宮崎智恵女史にユをして電話して『日本歌人』の送付断れば「ダメ」と。

6月4日
けさ6:00さむ。昨日の日記かく。財布なく(※省略)山住dr.に(※省略)
欠勤命じられしもきかず地下鉄、小田急にて10:50着。
佐伯、都丸支店の電話かからずsemiを津端を除く3生飲茶園にて14:00まで(歌唱ふ)。
学校へ帰り教授会中途にて××周年記念号60pの漫画入れるとの原案に不賛成となへ「賛否!」といへば部長「少数と認む(挙手)」と。何が少数なるかはっきりせず次の会にて問題とせん。但し我のには諸同僚のご参加たのみ快く受け入れられし。新城博士いよいよ耳遠く、舟越君に挙手せざりしを責めれば「何に挙手するか不明なりし」と也。
東豊書店に寄り1,000円買ひ、泉康順の息子つれ帰り奇縁に驚く。
夕食して話さんとする最中、今井、井上2女より(※電話)、泉令息と青梅街道にてtaxiひろひ千鳥淵のFairmont Hotel着。21:00二人迎へて喜び喫茶。
(※省略)Der Kongresstanzt歌へば2女「しづかに」と。boy頭「会議は踊るでせう、どうぞかまはず」と。
wineのみ2女より古稀祝1,000づつもらひtaxi拾ひて帰宅。
2女、わがざれ歌、例のキノウヘミドリ式横側の即製なり。帰りて夜食入浴眠る。

6月5日
4:30さめdr.にのどぬってもらひ、佐伯へ本代返しにゆきcard屋の女主人を家につれて来る。
午后高円寺へ駈足でゆき山本實氏16:20来るをまつ。(※『蘇東坡』原稿につき)「赤壁賦を読み下しにせよ、あとは宜し」と也。
プティ・パレにつれゆきwineとbeerと650おごられ19:00すぎ帰宅。
雑本(※エロ本)買ひの癖やまず。
けふ榎より「(※川久保悌郎が古書展で入手した講義録)わからず。松井等博士の国学院の講義ならずやまにてみよ」と。バカらし。

6月6日
7:30起床、9:00山住dr.血圧125-85。薬もらひ足ぬり着物袴にて東洋文庫へゆき(taxi)3,000払へば喜び、
榎主事に会へば「只今国学院関係中」と。田中克己君は先生の仰せに従ひしと。
呆れて物云はず、天ぷらそば(500×2)おごり愛想尽して図書室のぞけば(榎は白国(※ベルギー)を知らざりし)竹田竜児みつけ(74才)誘ひ出してtaxiにて東大前で喫茶。
本郷三丁目より地下鉄にのり阿佐谷中までカバンもち、小田急展にゆくと帰る。
プティ・パレにゆき福地さんに羽織袴見せ、電話かけ往診してもらひ、帰れば158-85大したことなしと。
竹田家へ電話し鮎子さんに会ひたしといふ。入浴23:30就寝。

6月7日(日)
ペンテコステ、先生の指導にて夫婦とも休む。6時より散歩、高円寺へゆき瀬見氏に「10:00来い」といへば「来る」と。
瀬見氏は9:30来り『十通』もちゆき、(※省略)鳥海さんつれてプティ・パレにゆきtoast食べ茶のみ、帰りて「七夕」やらせ18:30夕食、21:00までガンバらす。
母上に夏の宿世話たのむ。(※省略)

6月8日
6:00ユと朝食すまし8:00ともに出て我は成城、(※省略)
田中正俊10:10来る筈なるも来ざる故「ゐばるな」との手紙はさみて出、
成城駅につけば鳥海生をり。ユと2人会社にゆかせ我は東豊。最後の購入、古本屋やれとすすめ近所にて喫茶。ユ来るを待てば来り1万円呉る。一部東豊に払ひ、国鉄にて水道橋、専修大学前へゆくまで麦茶(90)買ひお茶出してもらひ火傷す。
そのまま山本書店にゆけば店主「例の原稿あす朝もて来る」といふ。色々の本借金して新宿をへて帰来。
疲れてしるこやにて氷しるこ(800)食ひて帰宅。
昼食して16:00より21:00までね、(※計画中の)詩集0(竹森)1(田中)2(中公)3(西川)4(山本治雄)5(河村)6(高橋重臣)7(藤野)8(守田)9(岩崎)10(福地)(田村春雄)と予約とるとす。あとはゆるゆる。寒気しあす2時限休講届けす。

6月9日
8:00さめ(夜半に目ざめしと)朝食し、学校へ休講の通知し、郵便局へ中公の校正、ユ出しにゆき(山住dr.8:30往診、注射したまふ(熱39℃)。夜半に遺尿せしと也)。
午ねして11:30copyとりにゆきしに河野夫人来り12:30-13:30までひるねさし、この頃講義ふまじめといふ。15:30帰りゆく。
ソノちゃん5冊送る(750)と。(※省略)東城書店に本注文す。
わがままなる一日なりし。瀬見氏23:00帰りゆく。保田・伊東のハガキもちゆく。

6月10日
1:30放尿にさめ『小学館世界原色百科事典』より、あす鳥海生と夕方来る小泉凡のこと。(※祖父八雲について)写す。(※省略)

9:00山住dr.。先生30分電話、待合室満員なり。
帰れば弓子来りユを庇ふ。ユ10:30帰り来り『小泉八雲集(新潮文庫)』新聞店にて見つけしと。
瀬見氏来り、プティ・パレにつれゆきcopyさす。帰りゆきしあと18:00近くなり、
角までゆけば小泉凡と鳥海生と来るに遭ひ、つれかへり春夫、森亮のこといへばみなありと。
(※讃美歌)284合掌して帰りゆく。22:00鳥海生入浴する。

6月11日
3:00さめそのまま眠らず6:00起し朝食後2時間鳥海生教へ、佐伯へゆき本買ひやり撫子(350)蕪(650)買って帰宅。
11:00昼食くはし瀬見氏(※都丸書店)まで歩き2,400本買ってやり、吾が本も買ふ。
(※請求)3万5千円渡され精算あとでと、家まで本送り届け、プティ・パレでcopyすます。(※ここで鳥海生辞去?)
(15:00より17:30までひるね)福地さん18:00来る。京大の蘇東坡研究史を吉井氏呉る(※吉井和夫『蘇軾研究文献目録』)。
滞貨の修理すます。
筒井護郎に電話すれば「中風なほり歩けるやうになった。夫婦して来よ」と。「7月夫婦にてゆく」といふ。
けふ三井銀行に入りしbonus(※省略)本多さんよりもらひし花、ナナカマドと。

6月12日
20:00にねて4:00さむ。7:30より10:30までひるね。大雨の中山住dr.にゆき105-78血圧。ゆっくりねよといひ足のむくみに薬つけたまふ。
夜まで細き漢字よみ疲れしところへ奥井正子夫人16:00来り18:00夫待つとなりユと出てゆきユ19:30帰り20:00夕食す。
大憤慨すれど答へず柏井に電話かしらず、田中栄太郎に祝をユいひ、中山正子、高橋重臣に詩集の予約とる。

6月13日
6:00さめ8:00まへ長尾忍(※故長尾良)夫人に桜桃忌に出んと誘へば「宜し」と。
山住dr.に外出禁止を命じられ家居。プティ・パレにゆけば福地夫人ゐず。
15:30福地夫人、帰途寄る。上がれといへどきかず。

(※再度同日の記事)
雨。7:30さめ8時間ねつづけしと。9:00山住dr.、10:00瀬見氏来り『果樹園』やり、欠番プティ・パレへとりにゆく。福地夫人ゐざる故休業。
カレーライス(600×2)食ひプティ・パレへ電話しユとゆき紅茶のむ。
福地夫人に『日本の詩歌』貸す。東城書店より3万6千円(3冊だけ来る)。
15:30より19:00まで午寝。夕食し種子呉れのハガキユにかかし、東城書店へまた注文。
瀬見夫人、南3-48に住む由、うそならん。

6月14日(日)
礼拝休む。11:00鳥海生来る。うた教ふ。12:30津留来り、16:00重久来り、鳥海生のsemi出来ず。4人にて狐うどん・そば食ひしあと鳥海生とプティ・パレにcopyにゆく(1,890)。
疲れてsemiやらずカセットにて軍歌と讃美歌きく(21:30)。

6月15日
よべ2:30さめ、1時間してね、9:30さめ(ユとカヨ子と8:00pão食ひしと)。
朝食し、津留に速達し鳥海生に七夕教へ11:30昼食し、(※省略)
15:30瀬見さん来り『果樹園』(10×230)もちゆかる。
山本實来て(※『蘇東坡』原稿)20枚もち去る。(例の教養printもちゆく)。
夕食後、電話して瀬見さんにゆきほぼ1万円買ふ。帰りプティ・パレまで自動車、21:00瀬見さん来られ精算すむ。
長尾夫人より「桜桃忌は19日12:00ごろ迎へに来る」と。
中公文庫『日本の詩歌24』を「680×2,000出す」と。

6月16日
6:00さめ7:00着物を着、袴つけ8:00大通りでtaxiつかまへ成城へゆく。
途中、入歯忘れしに気づきユに電話すれども出ず。美紀子にたのむ。
(美紀子、母と弓子に電話せしと。ユ9:00現はれ入歯わたす)
2時限むちゃくちゃにやり、学長に会ひにゆき鎌田の姓のこといへば新民法では「どちらの姓を名乗りてもよし」と。
大山俊一氏より賀状来りしを云ひ、誘ひしも来ざるゆゑ1人にて中華料理食ひにゆき、成城堂の払ひきけば1.3万円と。金なくなり大学院へゆき3人によませ河野夫人より1,000借りる。
ついで4時限、これもむちゃくちゃにて歌うたひすます。
吉越生(小泉凡、わが詩集にsignさし、祖父八雲とかきしも曾祖父なりし)taxi拾ひくれ、2,100(※帰宅)。
小泉凡より礼状来りをり。中山正子より詩集買ふと。
17:30夕食して眠剤のまずねる。(山住dr.へゆき、薬ぬりたまふ)。
西山博士より『大江戸の文化』賜はる。

6月17日
4:00さむ(よべより8時間眠りし也)。眠剤のむことも忘れし也。(※省略)
9:00山住dr.へゆき足の治療受け靴屋(佐藤)と喧嘩して2階の喫茶室でice-coffeeのみ(300)警察にゆき新課長に報告し、機嫌直して登校。
昼休み高木京子夫人来り、(※省略)桜子へつれゆき汁粉おごらる。
われ本、好悪まぜて贈り再見を約す。も一度帰校。(※省略)
書原にて色々本買ひ足の治療に山住dr.へゆけば水曜午后休み、折しも鳥海生来り、きげんよく話す。賑やかにて宜し。
けふ垣内先生より便あり立原の未発表書翰は堀内(※麥書房)にゆきしと。
電話せしに不明と。「あす17:00ゆく」といひてすむ。就床22:30、鳥海カヨの入浴すみてなり。

6月18日
9:00さめ山住dr.、ついでカヨ子と出て朝茶のみ11:50よりの学科会。
すみて舞古堂(※)へゆけばかよと塩沢生とのみ。すみて払ひ(2,000)すれば津端生来る。
14:00すまし豪徳寺の古本屋にて千円買ひ、麥書房にゆき堀内さそひて家に来させれば(※所蔵の立原道造書翰)2通未発表とわかる。
プティ・パレでcopyし、帰りゆく。19:00かよ子帰り夕食すみて『果樹園』の整理す。21:30すむ。

6月19日
8:30起され散髪にゆきcopyし11:00来りし長尾良夫人と話し、カヨ子と3人にて桜桃忌にゆく。
わがもちし山岸外史の出版記念会写真かりゆきしものあり複写しさる。
弘前高校2人のあと、われ太宰の小便の話(※)し、すみて長尾夫人、木山捷平夫人の話にて逃げ出す。時に16:00なり。夕食入浴後、カヨ子宋代の七夕に入る。バカでもなし。
(※伊藤佐喜雄と太宰訪問の折、家から出しなに自宅の生垣に放尿した話。)

6月20日
9:00さむ。11:00プティ・パレへカヨつれゆき、ついでcopyにゆき(2回)山住dr.へ(※copy)投げこむ。
高円寺へゆきしも瀬見氏をらず『大唐の春(500)』売れ残りをり。帰りまたプティ・パレ、ついでユをプティ・パレにゆかせしに福地・村上両夫人話中にてダメと帰り来る。
われ3度目にゆき「一度来ることを」福地夫人約束す。
高田瑞穂へ来いといへば「ダメ」、川久保にいへば「20:00すぎ」と。ことわる。

6月21日(日)
礼拝休む。仮本1万円近くありカヨ子借りてもち帰る。『川柳雑俳集』うれし。
15:00高木京子来り、男児3人と18:00までをり。夕食くひ21:30就寝。

6月22日
寒し。よべ2:00尿に起き8:00さむ。カヨ子9:00すぎ起きる。プティ・パレにゆき午ねし、17:00さめ夜来りし創価大出の木村方彦といふ福山出身の男と話す。22:30喜んで帰りゆく。

6月23日
8:00さめ9:00カヨ子起き朝食あとにしユ、山本へ払ひにゆく。11:30高田瑞穂来る。雨止む。(山住dr.にゆく)将棋さし2度まける。

6月24日
2:00さめ6:00さめ登校10:30。3時限早くすませてヱンマ帳おきゆく(都丸へゆき製本たのみし)。
15:00帰宅。プティ・パレへゆき帰宅。(※省略)
カヨ女17:00帰宅。夕食し七夕やりをり。電気屋来り直しくる。父母とわれら呼びゆく梅さんの幸のみ祈る父となりぬ。

6月25日
2時さめ7:00起き9:00カヨと共に登校。11:30より「記念論文集2冊出来る」と。
以下は座を立たされ、喫茶し12:30舞古堂にゆき500円の飯くひ、塩沢より100借りて香買ひ氷しるこ食って帰る。
カヨ子17:00すぎ帰宅「あすゆく」と家へ電話す。

6月26日
よくね、9:30さめ朝食。散髪(1,500)にゆき羽田、浅野晃に表紙かき(120
×2)山住dr.。先生「(※息子の)正己先生よみし」と。
11:00(※鳥海生の実家に)出発、千葉行にのる。切符なくし木更津に下車。十合へゆき本買ひ、小食、切符なく420円買ひ足し亀山に着けば母上迎へに来たまふ。
22:30まで歓待、茄子旨し。父上善雄昭和7年生れ(※省略)
歌うたひ、ユ祖父上と話し、われ父上と「戦友」うたふ。カヨ笑ふのみ。21:00姉さん帰宅。あす6:00出勤と。

6月27日
7:30さむ。よべ安眠す。善雄、みつ子、孝、まつ江、みさえさん一家に歓待さる。
写真とり午食出され、孝氏帰宅を待って(※省略)盆栽見てまはる。(※省略)
出発15:30木更津発川崎行のフェリーに乗る。霧にて眺望よからず16:40着。
busにて川崎駅、南武線登戸(230×3)までのり17:30帰宅。(※省略)よく眠る。

6月28日(日)
8:30起さる。夫婦にて久しぶりに礼拝にゆき会費と献金。午ねし15:00さめ、柏井へゆき夫婦に会ひ、息子にも遭ふ。
帰り千円もちて『幻の草薙剣と楊貴妃伝説』、『シンガポール脱出』と買ひ、残金220。
一番街の古本屋にて2,100約束して帰宅。(※省略)
けふ留守に大林太良博士より『熊の頭蓋の儀礼的掲揚』置きあり。牛尾、上村肇2氏に『柳樽』(※抜刷「柳樽に見える中国」)。

6月29日
8:30さむ。プティ・パレにゆき福地夫人にあふ。(※鳥海生を)Meine liebe Tochter(※我が愛する娘)と教ふ。
鳥海孝氏一同に礼状出す。山住dr.にゆき『果樹園』を呈す。ありがた迷惑の如し。
母をり神経痛と。ちょっと寄り逃げ帰る。午后苑子来る。
われ『夢声戦争日記』ほか2,100もち帰る。暑く30℃に近し。18:00かよ女帰宅。

6月30日
8:00さめ9:00出て登校。(※省略)4時限目は出欠とりしのみにてJe suis fatigue!(※私は疲れている)と書く。小泉これを訳してすみ、高田瑞穂に電話してゆき酒菓のもてなし受く。
雨中帰り浅野晃氏よりの受取り見る。(※省略)

7月1日
8:30さむ。かよ女さめ飯にpão食ひ了へ(※登校、)
1年の東洋史、康熙帝までゆく。試験せずといへば喜ぶ。(※省略)
すみて汁粉(氷)くって帰宅。(※省略)
浅野晃氏より「大菩薩峠」の大傑作なることをいひ来る。川柳選するといふ林富士馬氏に『川柳』(※抜刷「柳樽に見える中国」)送る。

7月2日
雨。舞古堂へゆく前Album写真とり、皆に「家へ来い」といひ、別れて教授会。
研究室より図書館改築すると。榊原女史と各駅停車にてホテルセンチュリー地下2階にゆく(taxi380女の子払ふ)。
ガブのみ。高田、臼井、大藤、栗山名誉教授の紹介。
(※鴎外孫の)山田爵教授になれなれしく話し類さん(※鴎外子息)のことまでいふ。
早く出て榊原副手に千日草(500)送りbusにて帰宅の前電話し『岐路に立つ台湾人(200)』探し20:30帰宅。
成城堂夫妻にて『中国農村慣行調査』もち来る。ユ迎へにゆき払ふ。

7月3日
雨。荻村生「14:00来る」と電話。下痢し山住dr.にゆく。雨とて外出せず。
14:00荻村栄氏来り10月6日松本での婿入りの仲人たのまる。
「前日に出て浅間温泉に泊れ」となり。喜んでひきうける。
かよ女に川柳の「七夕」よませ猥談す。躁なり。
『宋元通鑑(3,500)』、『北京案内記(5,500!)』来り送料とも9,800と。

7月4日
終日無為(ユ、本代払ひ呉る)。田中順二郎氏よりお中元。

7月5日(日)
礼拝休む。鳥海かよ子おきて午寐のふりし、juiceぬかせしところへユ帰り来る。
長島氏の長老就任式ありし由。中元ユあて2つ来る。
かよ子水曜来ると下宿へ出てゆく。気楽となる(やはり気にせし也)(※さきの猥談?もしくはjuice勝手に飲んだこと?)。

7月6日
無為。青木生来る。

7月7日
よべ眠薬2倍のみ眠くてたまらず。地下鉄にても疲れ、小田急でころび、シルバーシート立ちくれず。
やっと3時限すまし津端生と同車。南洋の華僑とせよとすすむ。
7月27日の横浜のHotel代立替へしと也。

7月8日
11:00登校。栃尾君と語り一年の講義きくものなし。いやになりすぐ止め(※省略)
かよ生より消息なし。けふ母風邪にてたほれしと。ユ、依子に電話す。10月6日のこといひたり。(※松本での披露宴出席後名古屋行)

7月9日
8:00さめ下痢。9:00山住dr.。足のきず瘉らず不快なり。14:00過ぎ登校。大学院会議はじまりをり空回りし15:00すぎ了る。(※ 省略)
帰れば、かよ生来てをり安心す。けふ大学院の会ありしこと失念、榊原副手よりの電話にあやまる。

7月10日
下痢直らず。午食の雑炊殆ど食はず。午までかよ生の史料よみ疲る。牛尾三千夫氏より古き調査記録来る。

7月11日
散髪にゆく。11:00かよ女出てゆく。13:00塩沢生来り孫文伝よりその前かきたしと本貸し、書けといふ。19:00かよ女料理より帰り来 る。

7月12日(日)
礼拝夫婦とも休む。下痢して食へず体重減る。咲耶来り歌の先生の詩集もち来る。かよ女にかまはず。高橋重臣氏よりAtlas Chineseのcopy来る。

7月13日
かよ女、国へ帰ると11:00出てゆく。ユ母のところへゆく。心配なき様子なり。山住dr.足瘉らず下痢といふもかまはれず。
ユへ京「来てくれ」とのこと也。(※省略)午、冷房して一眠りする。仕事できず。(※省略)

7月14日
ユ、京のところへゆく。山住dr.「も少し」と也。瀬見氏和歌山の土産もち来る。森明美生より「魯迅と木版画展」やりゐると。

7月15日
ユ、母のところへゆく。心配いらざるが如し。山住dr.足も少しと。鬱やや軽く本よむ。
20:30津端生、東洋文庫(※入館)につき印もらひに来ると。高橋君に「幾何なりや」と問ふ。

7月16日
6:30さめる。山住dr.も少しと。津端生来りし故、東洋文庫の印押し立替2万円わたす。

7月17日
暑し。山住dr.「も少し」と。冷房に入り本よむ。(※省略)夜、高橋重臣氏より「copy代2万円」「暑くて呼べず」と答ふ。

7月18日
暑し。冷房す。ユ画習ひにゆく。15:00プティ・パレへ久しぶりにゆく。冷房涼し。ユの画、禎子をかかんとす。

7月19日(日)
夫婦して久しぶりに礼拝に出席、長島長老がわが前に坐る。暑く34℃と。何もできず。

7月20日
山住dr.。午まへ宇井、白水2夫人来りてユと話す。我に口はさまさず。堀敏一氏より『川柳』の受取。「丸山薫詩碑を建てる会」に5,000送る。

7月21日
山住dr.2度診て下さる。伊藤とくよりこれんの戸籍写し返せ云々。けふも30℃を越す暑さなり。

7月22日
山住dr.へゆけば17:00再来せよと。
昼食後プティ・パレに田中家戸籍写しにゆき帰れば川久保来てをり、明後日成田発、北京、長春、吉林へゆくと元気なり。(※省略)

7月23日
よべ2服めのみ9:00さむ。ユ怒り出てゆく。
山住dr.にゆき帰りて(※大学へ)下痢申し立て「榊原副手に今夕の野口君の会欠席を伝へよ」といふ。事実下痢す。
(※省略)藤野一雄氏より川崎教授『湖畔の花と実』送らる。東方学会会費4,000に価上りと。

7月24日
山住dr.にゆく。やや宜しきらし。午后瀬見氏に雑本売りにゆけば2,500に買ひ呉る。プティ・パレで喫茶。けふは涼し。
(※省略)夕方また山住dr.。むりして藤野一雄氏に「礼と詩集やめた」。伊藤徳子に「copyした。甚城墓へは参った」。
夜、鳥海カヨ子より「就職にて来れず。27日桜木町にゆく」云々。

7月25日
涼し。山住dr.夜の分はユに托さる。プティ・パレにゆきしのみ。

7月26日(日)
下痢なほりしか。礼拝欠席。散髪にゆき待たさる。野口武徳氏に(※欠席の)わび状かく。

7月27日
静江母、山住dr.の帰り寄りゆく。風邪なりと。13:30出て国鉄渋谷。東急桜木町へ15:00まへつけば青木生をり。
津端、鳥海、塩沢の4生そろひ、鳥海、塩沢とtaxiにてサテライトホテルといふへつく。冷房きつく2生のbusにて来しと会ひ、関帝廟へゆき喫茶。
17:00すぎ横浜大飯店といふにゆき夕食。4人前にて4,000近くづつ払ふ(中華民国国歌合奏のtape買ふ。3,500)。
Hotelへ帰り20:00個室へ帰り隣室4人にてbeerのむをきき0:00までねられず。

7月28日
6:00さめ8:00朝食。津端のみ700の朝食くふ。2万円足らず予約金を返してもらひ、呼びしtaxiにて桜木町(660)。
340にて阿佐谷帰着。疲れてものも云へず。弓子3孫つれて来り将棋さし克次朗にも負ける。夜21:00すぎ眠る。(※省略)

7月29日
8:00さめ下痢。山住dr.にゆく。膏薬夜のみ貼れと也。プティ・パレにゆきしのみ。イギリス皇太子結婚とて終日televi。

7月30日
よく眠れど鬱。プティ・パレにゆき瀬見氏まてど来ず。福地邦樹君より詩作しをりと。

7月31日
かよ女来り、泊る。

8月1日
史、2孫つれて来る。プティ・パレへにげてゆく。暁子可愛くなりをり。
帰れば母のところへゆきしと。史はわが一番の苦手なり。かよ女素麺もちて帰りゆく。瀬見氏に電話すれば「礼金いらず」と。

8月2日(日)
よくね、山住dr.。何もする気なくて困る。木下より暑中見舞。瀬見氏にゆき3冊製本してくれしを受取り『鳥居龍蔵全集索引』を礼とし、帰りプティ・パレ。俊子姉来り、スミ子入院、3児は宗教団体に預けしと。。

8月3日
弓子3孫つれて来り、克次朗わるし。帰りしあと(母のところへゆきしらし)川久保より電話。来て土産呉る。
夕立あり。(山住dr.にてほぼ宜しといはれ体重42.5kiloと計らる。)
中央公論社より文庫代1.9万入金せしと。(※省略)

8月4日
無為。暑中見舞の返事3枚かく。

8月5日
西垣脩文集(※『風狂の先達』)来る。夜、依子より衣類その他送り来しにユ電話すれば泰ら来ると。

8月6日
阿佐谷七夕祭。プティ・パレにゆく。暑中見舞の返事もかかず。

8月7日
暑中見舞の返事5枚かきプティ・パレにゆき無為。京のところへ弓子の3子泊りしと。

8月8日
外出せず。午后、京5孫と来る。禎子バカでもなきやうなり。小林夫婦来り、健太郎泊めるとつれてゆく。

8月9日(日)
9:30さむ(稲田6:00来り眠りゐると)。京、禎子を置きて三鷹吉祥寺へゆき午后おそく帰り来る。健太郎もの云はず。平仮名よめると也。
15:00稲田さめ飯食ひ17:00母のところへ寄ると出てゆく。

8月10日
プティ・パレにゆく。槙眞澄氏(太宰桜桃忌主催)より礼状。島野彩子より暑中見舞。平山博士より『民俗学の窓』贈らる。

8月11日
入浴2回。外へゆかず。愛場君「かくを止めし。あなたはドイツ浪曼派と瀬見氏よりききし」と。
鬱のかず。夜、ユ電話すれば「泰、望明日来る」となり。(※省略)

8月12日
平山敏次郎博士へ受取かき13:00来し泰、望を見る。外出せず高校野球を見る。泰あす帰り望はしばらくゐると也。
青木生より「14日14:00ごろ来る」と。
(愛場君きのふ「瀬見氏よりドイツ浪曼派とききし。もはやアジビラかかず」といひし)。堀口嘉子夫人より「学者の妻つらし」と。

8月13日
泰、望吉祥寺へゆき、弓子に世話となる。京2孫つれて来しも遅刻して会へずと。哀れなり。
小泉凡より「詩集できたか」と。高円寺へゆき瀬見氏に会ひ『サンスクリット辞典』2冊売る(1.3万)。
17:00宏一郎つれて2孫かへり、ユ18:00宏一郎つれて出20:00帰来。(※省略)

8月14日
望ぐずり夕食くはず眠る。6:00さめ(※暑中見舞 省略) 11:00泰出てゆく。14:00宏一郎迎へに来て望と出てゆく。
青木生来り、阿片戦争の史料よます。17:00までをり「先生必ず卒業さすといひし。高野山にて讃美歌4人で合唱せし。仙台の七夕には4人ともゆきし云々」。
けふ殆ど書信のとどこほりすみし。プティ・パレにゆく。母よりユに電話「克己元気な声なりし云々」。
丹波(※丹波鴻一郎)より「8月30日阿佐谷にてわが古稀祝す」と。鬱といひて拒む。

8月15日
9:00さむ。終戦記念日として3組に分かれて参拝のほか女の反戦運動あり。
望、三鷹にゆきて泊り久しぶりに夫婦のみとなる。

8月16日(日)
三鷹より京のところへゆきし望迎へに出てゆく。われプティ・パレにて紅茶注文すれば少くなりをり。
望帰り来りグズり飯食はず。依子に電話し話させばおとなしくなる(買ひ来し本の怪奇画本なるにおどろく)。
われこの間躁の時、重久、津留呼びしとなり。近ごろのこと皆忘る。不名誉教授覚悟し、築島博士の本よむ。典型的なる日本人なりしを知る。

8月17日
8:30さめ、ユ望をつれて山住dr.に診察してもらひ、朝食せず東京駅へ直行す。依子に電話すれば11:40に乗りし云々。
われ下痢2回。(『民間伝承321』に「辛酉の年」のす)。咲耶より歌集送り来り、歌になりをり。(※省略)
17:00山住dr.にゆけば血圧100越し大腸カタルと薬賜ふ。「孝道と法律」かくこととす。

8月18日
下痢。山住dr.へゆき薬もらふ。(※省略)  「孝道と法律」かかんと思ひ果さず。下痢止まず、よべより昔の雑文よみバカらし。

8月19日
下痢止まず、家居。

8月20日
やや暑し。下痢。(※省略) 松枝茂夫氏より『陶庵夢憶』もらふ。張岱なる明末清初の詩人の文集の祖なり。「植物は志村嗣生氏による」とあり。
プティ・パレにゆき西荻よりの中老の女と話す。

8月21日
下痢とまり痒み止めの薬もらひに山住dr.にゆく。午后プティ・パレにゆく。老女の番なり。
山本實氏へ「3月まで『蘇東坡』待て」とハガキ。津端生より「勉強してとりかへす」とハガキ。

8月22日
また少々下痢。ユ画にゆく。台風接近。われ『ビルマ戦記』2冊よみ牟田口中将に遭ひしこと思ひ出す。老人診察票来る。

8月23日(日)
軟便。台風北海道までゆく。14:00散髪にゆく(途中、大林博士に遭ふ)。台風被害方々にあり、東海道線、新幹線ともにとなり。

8月24日
下痢。外出せず。松枝茂夫氏へ受取ハガキ。

8月25日
時々雨。下痢やまず。弓子3孫つれ土産もち来る。

8月26日
本よむ。軟便。(※省略)televiにて「南方熊楠」見る。青木生に電話して「アヘン戦争かけ」といふ。鳥海カヨ子はつかまらず。
(集英社より『白楽天』10版500部2,700×500×0.09=121,500支払と来る)。

8月27日
『郵政』編集部より速達にて「白楽天」一首の解釈400×4かけと。(※省略)
タバコ買ひにゆき佐伯に寄りしのみ。

8月28日
28℃、軟便とれず。外出せず。「死刑と孝道」とをかかんとす。鳥海生電話に出しも「来い」といへばはかばかしき返事せず。

8月29日
9:00さむ。軟便。ユ画にゆきしあと腹痛下痢。磯岡哲也生より「修士論文かきゐる」と。護・神田・岡田・松村4氏『北アジア史』。

8月30日(日)
下痢とて外出せず。鬱しをれば15:00ごろ瀬見氏来り、ゆっくり話してくれ収まる。
むりに本売り(7,000)、もち来し北海道の菓子わる口いひてくひしとユに注意さる。

8月31日
よべ1服半のみ軟便。(※省略) 中国の孝道かかんとしてかかず。プティ・パレにゆけば「お久しぶり」と。
けふ暑く冷房入れる。中山正子、誕生祝の電報くれし故20:00電話すれば全家不在らし。(健太郎より「おぢいちゃんおめでたう」の電話ありし)

9月1日
軟便のなかを中山正子に礼状。松村潤氏に礼状かく。けふ34℃也。(※省略)
20:30速達にて『郵政』の原稿400×4を10日までによこせと。

9月2日
苦心して『郵政』の係に電話して返信料つきの封筒送ってくれといふ。題も「林間に酒をあたたむ」といへば「宜し」と。
軟便承知して(土曜検査との由)プティ・パレにゆき福地夫人に腹立てさす。
瀬見氏をり『平家物語(500)』買ひ、茶のみ「ひとり娘北海道にあり」ときく。(※省略)。

9月3日
朝軟便。午后下痢。『インパール作戦』よみふける。山住dr.にゆき下痢止めの薬もらふ。台風の余波吹く。愛場君、速達の封筒配達し来る。

9月4日
軟便。昼食し16:00瀬見氏に会ひにゆき茶のまず帰り来る。『郵政』あすかくこととし、
アメリカ留学20年後の女学生のtelevi見つつ20:00すぎ荻村雅子に電話すれば「祝いらず」と。(※省略)

9月5日
8:00すぎおこされ8:30山住dr.に夫婦にてゆく。「尿に蛋白あり心臓は大丈夫」と。ユは「心臓少し弱し」と。(※省略)
午食となり卵食ひ、ユの画にゆきしあとプティ・パレにゆきcoffee(280)飲む。福地夫人機嫌直しをり。
(※省略) 夜、西山博士に野口氏への祝のこといへば「もうすんだ」と。

9月6日(日)
9:00まへ起され(よべ2服のみし)礼拝また欠。仁井田博士よみ三公八母にひっかかり『台湾外記』にあるを見る。
寒く、炬燵つけたり消したり。24日よりの登校気にしをり。(※省略)

9月7日
便よし。聡子来り、午食もち来る。外科の帰りと。11:30河野夫人来り『燕京歳時記』同英訳もち来り「七夕」のcopyさせしと。500円のcastillaもち来る。
散歩と称してプティ・パレ。けふは母子でやりをり。瀬見氏不在。『中国の自然と人間(2,200)』買ひもどす。
きのふ佐伯にて買ひもどせしとにて2冊できる。(※省略)三父八母考にて困る。(※省略)
貝塚茂樹の『中国の歴史』上中流しよみし、いよいよ困る。荻野父より10月6日の案内状。(※省略)

9月8日
河野夫人より『三国志演義』愛読、諸葛亮に関し誤2ありと電話。終日臥床。寒し。湯川博士逝去と。貝塚博士の弟なり74才と。
夜、雨。『郵政』編集長より「原稿受取りし云々」。

9月9日
寒し。山住先生へゆけば鬱とれる薬賜ふ。午后プティ・パレへ寄り瀬見氏に会ひロシア語出来る青年に遭ふ。
台湾独立を唱ふる本(300)買ひ来り半分よみしのみ。(※省略)

9月10日
よべ12:30、2服めのみ9:00さめる。大林博士、本たまふ。花井タヅ子より「長沖先生の遺稿、中央公論10月号にのりをり」と。(※省略)

9月11日
涼し。昼食。宮崎智慧さんより「来てよきや」と。青木生来り「阿片戦争」につきまづまづ書けをり。1時間半程して帰りゆきしあと宮崎さんと「同病相憐れむ」といふ。
村山高氏より「大高野球部の会へぜひ出よ」と。「ノイローゼにてゆけず」とかく。(※省略)

9月12日
22:00就寝せしもダメ、2:30また1服のみダメ。山住dr.にゆき帰りて11:00より12:00まで眠り昼食。
(荻村雅子より2人の生年月日、家族かき新宿10:00発と松本名古屋間の特急券送り来る)。

9月13日(日)
ユ、画にゆきしも戸田夫人病気と。夜、荻村家へ受取りの電話ユがかける。
われこのごろかはりしと偶然会ひしプティ・パレの福地夫人いひしと。(※省略)(石川喜代子より10月24日の結婚式に出てくれぬかと)。

9月14日
よべ2服のみしもねられず4:00ごろより眠り9:00さむ。けふは晴れたれば(※省略)昼食後、高円寺郵便局へ大高名簿代3,000振替にゆく。
神田先生(※神田喜一郎)より『芸林談叢』賜はる。恐縮至極なり。(京あす父の日とて来ると)。

9月15日
よべよく眠り10:00さむ。11:00弓子3孫つれて来り、13:00京2孫と来る。禎子ヂイチャンバアチャンとやっとわかる様なりしらし。
(※省略) 石川喜代子は「24日12:40白金プリンスホテルへ来よ」と。(※省略)

9月16日
よべ2服のみ9:00さめ11:00すぎ(※山住dr.にゆき)尿、血液も採らる。(※省略)
肝臓病の疑ひあり。紀要の原稿かくこと思ひ止まる。「三父八母」のみわかり他はわからざればなり。

9月17日
眠れず、4:00ごろねつき10:00さめる。午后待てば14:00ごろ吉越笑子生来り、京大和へ旅行せし土産として奈良漬と甘味呉る。
16:00すぎ帰りゆき、日の暮れの早くなりしに気づく。
ユ山住dr.にゆけば(※自分への診断)胆嚢炎とて安静命じられ薬賜ふ。(※省略)

9月18日
青木生13:00来り、糸へんの書き方「小学校以来故かへられず」と。(※省略)
川久保より電話「羽田18:00来る。20:00つれてゆく」と。20:00電話して「胆嚢炎。来ずとよし」といふつものを「あとでゆく」とのこととなる。
20:30来りwhisky供し川久保より恨みきき、22:00池内博士夫人お見舞に来しと四谷に去る。
その際問はれ「墨汁」は漢語なることすぐわかる。

9月19日
10:00さめ朝食、ユに山住dr.に尿もちゆかせ羽田に「墨汁『中文大辞典』にみゆ」との速達出さしむ。
畑山博氏(※北区在住時代の知人)9.9逝去と。
「鑑」にカン・ガン2音あり『京大日本史辞典』は「鑑眞」に「ガンジン」とふりがなす。
14:30戸田画伯に電話かけ悠紀子呼びて昼食、外は小雨らし。17:30夕食。困り果てる。(フランスにて死刑廃止と)

9月20日(日)
8:00起され朝食、ユ礼拝にゆき我何らなすことなし。21:00羽田より電話「ハガキみた。東川徳治氏のcopy送る」と。

9月21日
山住dr.へ10:00ゆけば「大分よくなりしも入浴不可」と。鬱しをり、(※省略)今中十九期生会へ欠席通知。
村松正俊氏、老衰にて逝去と86才なり(東洋大学にて話合ひし)。(※省略)石川喜久子より電話「あす午后来る」と。

9月22日
山住dr.より電話なし。(※省略)美紀子より電話あり「史、糖尿の気あり」と。
14:00石川喜久子来り、10月24日までに体直れば出席、発言許せ、送迎のhyreいらずといふ。美しくなり物慣れしをり。
(※省略) 榊原副手より電話「25日より始業」と。山住dr.より「大分よくなりし」と電話。

9月23日
野口君へわび状と祝1万円速達せしむ。『睡虎地秦墓竹簡』一覧す。役に立たず。年号につき所功氏『日本の年号(年号法昭和54年成立)』により書くこととす。

9月24日
所功氏のおかげで困る(中国の年号の起来の調べつかず。武帝の建元、元光は怪しきなり)。
ユ「ことわれば」と平気なり。羽田より三父八母の東川徳治説、送り来る。

9月25日
8:00朝食「中国年号考」あきらめ「中国の母」かきそむ。東川徳治『中国法制大辞典』改版ありしことわかる。(※省略)
健太郎「転宅す。日本の内」と。

9月26日
10:00ユ尿もちゆきしあと山住dr.へゆき採血さる。体重41.5kilo「多分通学可」との仰せなりし。鳥海生より「書けず」と。
早川恭子生より「関野陽一氏と11.23(月)16:20明治記念館で披露」と。

9月27日(日)
早川家へ夫婦にて出席すと返事す。日中雨ふりしも暖し。終日「中国の母」かきつづけ本文36枚となる。

9月28日
よべ2服足してのみ8:00さむ。「中国の母」混雑しながら唐・金すます(51×200)。14:00青木信子生来り史料の写しみせる。汚し。あす図書館にて本借りたしと。
「14:00講師室へ来い」といふ。23:00前、予習ほぼすむ。

9月29日
8:00さめ9:00出て(※省略)定期買ひ登校。(※省略)昼食時間まで栃尾氏と話し、比類なき愛書家と感心す。
午食すまし大学院へゆけば河野夫人と磯岡生のみ。外池生ゐず。(※省略)
高田瑞穂君来り、(※省略)別れて帰宅すればユ不在。(※省略)

9月30日
登校。栃尾氏のbibliomaniaなるに感心す。11:30lunch食ひ了り、(※省略) 桜子へゆき餡蜜食ふ(380)。
ユ鍵忘れしをとりにゆく間ねころび、帰りしあと葡萄食ひ「中国の法と母」は元をとばし明に入り62枚。あと清代にて100枚に近くならん。
野口博士一向に姿見せず。仕方なし。昨日より講師室に旧姓森(マスコミの副手)来り、よくきがつく。
夜、鳥海生「あす就職にて欠席」。けふ学校へもちゆきし万年筆なくなりし。

10月1日
10:00出て11:00前登校。pão11:30食ひ了り11:50学科会。最終講義を1月9日やる。記念号の締切は10月15日など、いやなことばかりきまる。
12:30まで待ちしに誰も来ず、野口博士共著の本呉る。
12:40までに図書館へゆき野口君にともち来し『中国の自然と人間』寄付す。(※省略)
疲れて教授会、新学長に(※省略)安藤良雄教授を理事長推薦せんと。来って挨拶す。(※省略)
すみて一散に帰宅。横臥しをり。台風にて今夜よりあす朝まで雨。(※省略)
ユ、万年筆落ちゐしを見つけしと。これのみうれし。

10月2日
7:00さめ朝食し、9:00山住dr.、尿異常なく血圧も異常なしと。伊藤清司講師に『「花咲爺」の源流』の礼状かく。
ユの出てゆきしあと高円寺の都丸支店にゆき瀬見氏よりB.V.Boldyrev 『Kategoriâ kosvennoj prinadležnosti v tunguso-manʹčžurskih âzykah (1,000)』を買ひ、ついでに見まはして『歴史の中の日本と朝鮮』、『北京の史蹟』と『古代の朝鮮』とを買へば最後はdoubleなりし。
プティ・パレあかずユの置きしsandwich食ひ、佐伯へ注文にゆけば恰も『酉陽雑俎4』来をり。(※省略)
『巨大古墳の世紀』、『華僑(改訂版)』とを買ひ、プティ・パレあにゆけば御隠居さんをり(※省略)
帰宅の途、船越苑子に遭って留守中の郵便受のことたのむ。
『北京の史蹟』よみ了り、面白かりし。夕食まで「中国の母─法と慣習」かき直し本文200×32までゆく。あすつづきかかん。
けふ久しぶりに佐伯にゆけば東洋文庫『酉陽雑俎4』来てをり(※再出)「5もたのむ。」といひて来る。
夜、美紀子に電話し、この間のわびいひ、鳥海かよ子に電話し、来週木曜来よといふ。あまりよき返事せず。

10月3日
7:00さめ朝食、ユ銀行、山住dr.にゆく。われ懸命に「中国の法」かき唐令を了へ、ユに先だって出てプティ・パレ。
瀬見氏より『東洋学の創始者たち(800)』買へば釣銭100円なりし。帰宅。(※省略)
21:00疲れて「金の法律」あと一条を残してやめる。

昭和56年10月 4日〜昭和56年12月31日
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


10月4日(日)
6:00さめ、ユの9:00礼拝にゆくを送り出し「中国の母─法と慣習」一心に書き、
ユの12:30帰り来しを見て、一休みに散髪にゆき、背広着て矢代写真館にて9日18:00出来の半身像とってもらふ(4,800)。
それよりプティ・パレ。帰来また論文かき夕食せしところ、某氏より
「保田與重郎氏けさ11:30肺癌で死去。密葬は6日大津の義仲寺で」とのことに「行けぬ」といへば、某所よりまた電話。
「保田とは」とのことに「大天才。Hölderlinで論文かき、竹内好の魯迅好みとはちがふ。我は双方の中間」といひ、
保田宅へ電話したく林富士馬に電話すれば「通夜に行った」と。
西川(※西川英夫)、丸(※丸三郎)、倭(※倭周蔵)に電話すれば「大高名簿は手元になし」と。倭、兼清のトキコの電話教へくれし故、宿直に兼清の電話きき電話すればはじめて嵯峨の電話わかる。
電話すれば男の声にて「通夜密葬にゆけぬこと承知、本葬は18日桜井で」とのことに、
ふと思ひつき16日嵯峨の霊前に参り、その日筒井(※筒井護郎)に泊めてもらふこととし
「浪中の田中」と電話すれば筒井「何だ、先生だったのか、16日午後阪急南千里にて下車。電話せよ」と。
荻村雅子よりユに「草履もて来い」との電話ありし。
ユ、6月朔わが書きし「三島由紀夫の斎主せしにつき説明せねば絶交」との手紙見せ来る。書きし覚えなし。
長尾夫人(※長尾良未亡人)は「明日ゆく」と。宮崎女史(※宮崎智恵)は「ゆかず」と。様々なり。
「元典章」「明代律例彙編」「慶元條法事類」のあと「大清律例彙輯便覧」にて終へる予定なり。

10月5日
6:00さめ朝食少し食ひ、ユの山住dr.にゆくに先だち新宿駅へ8:50着。9:00の松本行の出発を見る。ユ9:35来り9号車の指定席にのりこみ10:00発。
八王子にて売り来しsandwichにて昼食すます。ユは甲府売りの高原野菜(200)食ふ。13:00すぎ松本着。
新郎新婦迎へに来をり、下浅間のうづらの湯に案内され媒妁の辞、即座にかき一見せしむ。
2人のhyreにて出しと同時にbusにて駅近くへゆき、ユはdept.。
われは『浮世絵牌画展(1,800)』買ひ、古本屋細田書店にゆき新本(わり引き)古本にて6冊買ひ1万円以上払ひ、
bus間違へて終点まで着き親切なる老女の口ききにて中浅間まで引返し4-5軒先の下(汐)浅間うづら亭に着けばユ、帰りをり。
夕食とり荻村栄氏来らぬ故、われ入浴、ユ入浴中20:00荻村氏来り、ユはあす8:30着換にゆき、
われは尾崎ひろ子(欧州文化元副手、挨拶に来る。新宮より来しと)、有田ジュン子の2女生と9:30までに教会へhyreにてゆくこととなる。わが挨拶文、荻村氏見もせず帰りゆく。



10月6日
6:00さめ7:20にユを迎へに自動車来り、ユ高砂殿へゆく。われ、尾崎有田2生と9:30ごろ松本カソリック教会着。
10:00夫婦そろってかと思へばわれ新郎のあとにつき新婦には栄父上つき、新郎新婦のあとに坐り、
讃美歌のあとで説教、誓ひの言葉よみしあと指輪交換。新郎にはわれ新婦の指輪わたす。
ユ新郎の指輪わたし結婚成立書に2人署名捺印し、あとわれとユと同。
高砂殿なる料理屋へゆき両家それぞれ待合室にゆき13:30挙式の前に盃事あり(神主はをらず)。
記念写真とりて、われ、新郎、新婦、兼親(本家長男)夫婦、ユの順に入場。
先づ我ら夫婦起立、mykeの前にてわれ仲人挨拶し祝辞あり、従弟の文化女子大学教授荻村昭典理事「昨日3人会し、
嶌野学生会長よりわがことききをりし」旨(あとにて挨拶に来らる)。
着換と余興と壮んにて16:00すぎ終り、ユ着換へして来れば、本家の長男夫人の指図にてhyre。
2人荷物もちつき松本駅着。ホームまで荷物6ケはこび呉る。
これ只一つ嬉しき事なりし。17:13発の特急に乗れば堀川父母同車なりし。19:00すぎ名古屋着。
明日の上り切符はもはやなしとのことに、本包みユ預けにゆき、我依子、望と地下鉄、星ヶ丘まで迎へに来よとの電話せしあと星ヶ丘、
泰も来てをり2人にて自転車で荷物はこび呉れ10分ほど依子に案内され新居に着く。
澄、吐き下しとてをり。2孫に5千円の小使やり23:30眠り、ユおくれて眠る。

10月7日
6:30さめ、泰すでに登校。望、犬の散歩させしあと登校。9:15来しhyreにて名古屋駅10:00着。
土産買ひ10:33発のひかりにて、われはsandwichを昼食し13:20阿佐谷着。
ユ先に帰らし佐伯に荷物預け、よろづ屋にて原稿用紙2冊、card買ひプティ・パレにゆき福地夫人と話して帰宅。
河野弘子に「かつがれ」につき教へ、
17:00すぎ西川に電話「坪井、相野、山本(※坪井明、相野忠雄、山本治雄)ら通夜にゆきし。汝ゆかざりしは如何に」と。
「松本の仲人にゆきし。16日の本葬にもゆけず」といひてすむ。
坪井に電話すれば「香奠は各自に」と。長尾夫人は「盛大なりし云々」「嬢つれて来い」といへば「近々」と。
留守来し〒は河野夫人より「かつがれる」につき云々。大野新氏よりわが8月31日のハガキ再録の『詩人学校』。
 あなたのし わがめわがため開の字の訓をとくより知りしといふも(※不詳)

10月8日
6:00さめ8:30山住dr.へゆけば(※省略)また血採らる。帰宅して身づくろひし9:30出て10:20成城大。(※省略)
昼食にpão食ひ、柳田文庫。播磨より鎌田女史を訪ねて来し柳田国男記念会会長、女史欠勤とわかり帰りゆく。
学科会に西山・新城2博士出ず、(※省略) 研究室にて待てば津端を除く3生集り塩沢生と鳥海生の下書を直し、
雨中「桜子」へつれゆきわれはしるこ。(※省略) 帰宅。(※省略)

10月9日
6:00さめ風呂に入り坪井明に「(※保田與重郎へ)御花料3万円そなへてくれ」とかき、10:00現金封筒速達す。
佐伯しめをり、よろづやにてcard買ひ(※省略)帰宅して「中国の母─法と慣習」昼食前後に200×95として疲れとりにプティ・パレ。
(※省略) 高円寺〒へ藤野一雄氏へのハガキ投函に寄り古本屋3軒にて2,900ほどの有り金100となる。
山水書房にて『よろこび』、『今日の中国』、『新しい中国の顔』買ひ、南の本屋にて駄本2冊、大石書店にて『中国人の街づくり』、『辛亥革命の思想』買ひしなり。
瀬見氏やはり不在にて「もち来てくれ」と8,000余買ひ、本店にて瀬見夫人にも5-6冊「旦那にもち来させ」と買ひ、
残りし100円にて『部落差別と八鹿高校』買ひ全くの無一文となる。(※省略)
吉本青司氏より『ローマン派の詩人たち』贈らる。わが「この道」引きをり。(※省略)
20:10高知の吉本氏に詩論見たと電話せしあと瀬見氏より電話ありし故「月曜以後お出で乞ふ」となる。

10月10日
7:00覚む。晴。9:00より「元典章」やらず専ら「業績目録」にかかり、
午食後John Wayneを久しぶりに見てのちプティ・パレ。山口翁と話合ふ。16:00帰宅。
元代にかかることとす。「業績目録」にて時間とられ「通制条格」を瞥見せしのみ。(※省略)
坪井より電話「相野香奠返されし。君もさうだったら」「預っておいてくれ」にて話すむ。

10月11日(日)
夫婦ともに礼拝休む。「中国の母─法と慣習」まだ元代に入らず。プティ・パレに茶のみに出しのみ。

10月12日
6:30起き7:00朝食。「中国の母─法と慣習」102枚とし、11:00塩沢生来るまへ瀬見氏来り『東西文明の交流』4冊をはじめ雑書数十冊にて2万円と。
塩沢生17:30来り夕食旨がって食ひ、参考書10冊もち(※省略)ともに出て瀬見氏にゆく。途中プティ・パレ。(※省略)
『東西文明の交流』6冊、『下学集』、『節用集』、『朝鮮のシャーマニズム』、『史学・松本信広先生古稀記念』、『徳川幕府と中国法』1万円と。 外側の、『(重し)』美術書2冊とにてへばり、
ユに「迎へに来よ」の電話して10分待ち、(※省略)帰りて入浴。(※省略)
(※けふ保田典子夫人へ「ヤスダサンノゴセイキヨヲイタム、ワタシハ病気ニテユケマセン」と電話電報打つ。
坪井より「金着いた。相野香奠断られた。どうする」と電話あり。「きみ預れ」といふ。)

10月13日
6:00起き予習し9:30出て登校。塩沢生に会はず。最後の本棚を山中正剛教授に与へ栃尾氏より紅茶のましてもらひpão食ふ内12:15河野夫人来る。
(※省略)大学院、外池生来をり『天皇を見たか』他1冊喜びて受取る。「臘八粥」すまし12月すめば「死刑」と定む。
2時間目(※省略)私語多きを叱ればしづかとなる。大山学園長夫妻の還暦記念論文集『英米の文学と言語』賜ふ。
疲れしも荷物軽くして17:00帰宅。(※省略)21:20秀吉の朝鮮征伐の理由を考へてわからずに入浴。
荻村栄氏より電話「あす便あり物贈る。娘たちは20日成田へ帰着」と。下調べも中途にて元律一枚もかけず。



10月14日
7:00さめノート「慶長元和の役」を作る。(※省略)9:30出て登校。学園長室へ『中国の自然と民俗』を歌そへて返礼にゆけば不在。
園長秘書に渡し2時間近くを講師室ですごす。(※省略)栃尾氏を「桜子」へさそふ。(※省略)駅まで送られ重荷もちて
(※省略)地下鉄荻窪までわざとのりこす。『東城書店目録』よむためなり。南阿佐谷へ戻り角のrestrantにてice tea2杯のみて終る。
ユと入れかはりとなり夕食せんとせし処へ「午后との約束にて」瀬見氏来りHulbert『The passing of Korea(2万円)』売付けらる。
(※省略) 東城書店にNo.17の注文(※省略)成城大学へ個人払ひにてといふこととす。(※省略)
20:00けふ来し漆器の机の礼を荻村家へすれば母上出、父上出て新郎新婦は20日成田着と。
われ高橋重臣君に電話すれば18日夕来て泊ると。(※省略)保田の喪主は長男瑞穂と。自殺せしは何といひしや3男らし。
(我20:00まへ出て佐伯へ暦買ひにゆけば閉めをり新本屋にて『昭和20年8月20日』など色々買ひcard3箱買ひありがね3,000円余りとなる。)

10月15日
6:00尿にてさめ讃美歌285うたふ。7:00朝食とり。
8:30山住dr.。胆嚢炎ほぼ全快と。元の隠居の応接室を使ひ、正己先生電話にて下りて来らる。血圧108-65血液採られてすむ。
登校。(大山学園長ほら吹きゐしと山田部長の説)。sandwich半分食べしところへ諸氏現はる。
栃尾氏より来年使ふと「唐詩選七言」の写しもらふ。きのふの「桜子」の返礼らし。(※省略)教授会。すみて大学院教授会。
(※省略)すみて学科会。(※省略)16:30すみてまた桜子へゆきユに電話すれば早く帰れと。
(※省略)重きカバンをもちて帰宅。杉山博文より岐阜の名産着きをり。
大高クラブより11月に『コギト』につき4枚かけと。『R火』につき書く、野田先生(※野田又夫)にも書かせよと返事す。
(※省略)けさ西山松之助博士に『江戸』3冊にsignさし(※省略)「常民文化紀要の原稿さう忙がず」ときき、ほっと安心す。(※省略)

10月16日
7:00さむ。原稿のつづき書く。(昨日山本實氏(※山本書店)より「土曜在店、来れ」と電話ありしと也)。
9:30かきかけて森良雄の名思ひ出せず西川に電話してきき安心して10:00高円寺へゆき白川静『中国古代の民俗(580)』買ひ、家出しといふ瀬見氏まち『棟方志功』とあと1冊にて3,000円受取り2万円。
『The passing of Korea』の受取りかかし、『朝鮮の悲劇』、『川口慧海チベット日記』、『鎌田重雄中国仏教史』、『小林英夫諸国語の系統』、Bernard『En Mandchourie et en Corée(※満州と朝鮮)』、梅棹忠夫『人類学周辺』買ひしあと、雑本4冊もちて帰宅。プティ・パレ休みをり。
原稿「死んだ奴ら」(200×12)大高クラブへ送りに駅前〒へゆく。佐伯へに寄りまた本買ひ残金110円となりし故帰宅せしに豆腐屋通るを呼び止めて1籠(90)買ひて昼食す。
『日本歌人』来をり。杉山博文より岐阜の栗きんとんの送り状来をり。宮崎さんに『日本歌人40年』をほめ、
杉山のハガキ消印にて在籍と知りAdressきかんと外池昇に電話すれば母出て帰らずと。5分すればかかりて杉山博文のところしらべると。
その間、神田博士(※神田喜一郎)に『秋澗(※王ツ)全集』よむとハガキかく。

10月17日
5:00さむ。6:30朝食。7:00山口基(※山口書店主)に電話すれば睡眠中と。夫人に「11:00ゆく」と伝言たのみ、
8:20原稿117×200として出発。10:10山本書店にゆけば慶太郎店主をり、わがもちゆきし本なしと。double本1,000にて買ひくれ、實氏に蘇東坡来年3月31日までに完成を約束し、長沢博士『図書学辞典』なるもの買ふ(1,500)。
山口基まで歩きて奥さんの通訳にて話す。保田の写真と色紙著書を店頭にかざりをり。
水道橋まで歩き代々木下車。東豊へ久しぶりにゆけば「心配してゐた」と。
『広陽雑記(1,000)』、『故宮四十年(540)』、『済公全伝(1,560)』、『關於唐寅的研究(840)』、『三國演義(1,650)』、『西遊記(720)』、『東華録(1,120)』と安本買ひ高橋君のため『中国地名人名辞典(9,000)』、『近代現代世界名人辞典(16,800)』と買ひ、
代々木より阿佐谷まで運び開々亭前より電話すればユ、咲耶と来り、咲耶は2人の女人迎へに駅へゆき、我は帰りてユのこさへし飯くひてのち咲耶2女人と来りしに挨拶、プティ・パレへゆけば福地夫人をり。16:00まへ帰宅。論文にかかることとす。
夕食ユ先食ひ、待てば20:00近く高橋重臣氏来訪。「6日電話せしも応答なかりし」と。
「松本へゆきゐし。保田の明日の本葬にはゆかず。(※明日は)10:00立原の書翰reprintし「gelbe Sorte買ひにゆく」と、23:00すぎまで話し、別室にて就寝。

10月18日(日)
6:00前覚め、茶飲みpotに湯満し「中国の母──法と慣習」123pでcopyのため中止。
(※省略)copy屋見つけ道造の手紙とハガキcopyすみgelbe Sorte高橋君4ケ買ひ、池袋へと地下鉄に乗る。
帰りて昼食後「元典章」なきに気づき(※省略) copy屋にゆけばあり必要箇所copyすまし
『川柳・解釈と鑑賞(1,000)』、『法における常識』金子にて買ひ帰宅。(※省略)130pまで書き、目見えなくなる。

10月19日
7:00さめ1服しつつ放尿、朝食後「元典章 上」了へ「下」に入る(134×200)。午食し散歩しあすの予習といふ予定なり。
荻村雅子の字にてHawaiiより新婚旅行の挨拶の航空便来る。食後一休みして『中国笑話』駅前新本屋にて見つける。
一旦帰りて300こさへプティ・パレ。(※省略)14:00帰宅。(※省略)風邪気味とて入浴せず。天皇も平熱35℃が36℃となりしとて休む。

10月20日
1:00さめ放尿。野口博士よりもらひし『文化人類学事典』なるもの一覧。学問の体を成さざるに落胆。3:00ごろうつらうつら夢見6:00起床。
土曜糖尿の検査すと山住dr.仰せとなり。体重45kgは病的といふが理由と。8:30立ち乍ら登校。(※省略)
4時間目私語するを叱り、copiをコーヒーと答へし男生のゐるに喜び鐘鳴るまでやり、
小泉凡さそひて桜子へゆけば、われは御膳しるこ、彼は田舎しるこ食ひ、曾祖父Hearn先生(※小泉八雲)の種子の天竺・震旦なることやらぬかといへば、それも考へゐると。
駅前にて別れれば「Dutch account(※割り勘)でなかったでしたね」と。
これにて新宿まで半分立ち半分坐りして帰宅。
長尾夫人より電話あり「(※保田與重郎の葬儀に)コギトの人見えざりし」といふに、坪井に電話すれば
「手紙出した。見てくれ。一般席にて遺族と話など出来なかった云々」。
長尾夫人に電話すれば薬師寺?東大寺?2寺の和上の次にわが弔電よまれ他は数百通と披露ありしと也。
これにて気づき栢木喜一氏あて弔歌選んでのせてくれと20首即吟、あす速達せん。
(けふ西山博士に遭へば原稿仕事、平山氏へと也。)
「元典章」かき出して135×200+note、もう2-30枚はかき、明清は『成城文芸』に「死刑論」としてのすことときむ。時に正0:00。

10月21日
4:20目をさます。小便のためなり。6:00起床。睡眠感なきも朝食後、文禄・慶長の役しらべ弁当もちゆく。旨し。
食ひ了れば10分経過しをり太閤名護屋へ出陣にて了る。ユに電話してすぐ帰るといひ、
途中125円でcopiのます喫茶店にゆき卵sand食ふ。旨きも夕食のため1片のこし425払ひて帰宅。
坪井より「山本治雄来ず。肥下夫人見つからず。弔辞は元京大総長平沢興氏、友人代表中谷孝雄、桜井市長、弔電462通の中わが分も披露されしと。 長男瑞穂は府立布施高校につとめてゐる云々、11月7日の同窓会に貴兄来られず残念」と。
松枝茂夫氏より岩波文庫『浮生六記』の訳賜はる。2氏に礼状かき「元典章」つづけることとす。(※省略)
(けさ栢木喜一氏に歌のせてくれと20首速達す。『白珠』にとなり。)
(けふ美紀子来り「東京にをれさう」と松茸くれしと也。) ユ、歯痛にて困りをり。

10月22日
23:00就寝6:00さむ。雨降りをり。ユ歯痛忘れて眠りをり。8:00起し(ユよべ眠剤3ケのみしと)、「中国の母」のNo.しるして登校。
(※省略)弁当「松茸飯」くひ了り10分おくれてsemiにゆけば3人をり。(坪井、松枝2氏にハガキ投函。)
つれ出して桜子にゆきしるこその他食ひ、カヨつれて帰宅。ユは銀座の展覧会より帰りをり。カヨちゃん機嫌よく22:00すぎてもねず。

10月23日
入浴就寝23:00。1:30覚めて放尿5:00前さめて「中国の母」改稿。ユ7:00前出て来て(※省略)。
山住dr.へ尿2回もちゆき「ほぼ宜しきらし。来週土曜検査す」と。うれしく昼食すませて晴れし空をプティ・パレにゆき2老夫人にからかはれて喫茶後、高円寺の都丸支店にゆけば瀬見氏不在。家に電話すれば津端生来をりと。(※省略)
早足にて帰宅。英語よめざるに寒心し、中国語よんで筆記さす。夕食して「今後は卒論に専心す」と帰りゆく。
われ夕食旨く19:30より「中国の法と女」金代に来って22:00となる。あすユ、クラス会にて9:00出るとなり。
われは13:00の石川の披露宴に出ることとす。

10月24日
よべよく寝、6:30起床。ユ9:00出てゆくとて我11:00目黒行に出発と定む。(※省略)目黒着。古本屋にて文庫2冊(100)買ひ途きけばすぐそこにて白金プリンス迎賓館4階にて(※石川喜代子氏披露宴 省略)。
taxi用意してくれ阿佐谷駅まで乗り佐伯へ寄り本買って金なくなる。
ユ18:00豆腐くって帰り来り、万年筆探すところへ金沢良雄来り、
「西川とし会ふ。あす白浜にての19期生会にゆくに付き、心配なれば来し」と。この間ユ、夫人に遭ひわが胆嚢炎さはぎをいひし也。
大山俊一氏よりわが本の受取。東洋史談話会より11月8日17:30、田中正俊が話す。会費5,000と。出席せん。
荻村文彦雅子夫妻上京、また来ると。夫婦の留守に「電話何度もせし」と也。佐伯より買ひしは『四書五経(600)』なりし。
乗杉さんに東城書店より小包にて『日華大辞典』3冊28,000と『近代中国関係文献目録(23,000)』計51,000来をり。
後者は竹内実(1923-)の項は竹内好の著のりをり、返却せん。市古宙三の責任なり。

10月25日(日)
22:00入浴23:00臥床、6:00さめて「中国の母」金代つづきをかく。保田典子夫人に御都合10月30日-11月3日問合せの速達かき、 田村春雄に電話すれば1日息子の婚礼にて会へずと。筒井に電話すれば出ず。
保田夫人に都合きく手紙かき郵便局へ速達出し、ユをまちて礼拝。歌作る。
 わが罪をすべてゆるして迎へます日の来るをば待ちつつあらむ。
 仏となり鬼ともならむ他の教われは信ぜずみ国に生きむ。
 とことはに命を支へたまふ主の父なる神にまさる神なし。
 肺癌となりて死にたる與重郎この聖日にみゆるしを乞ふ。
 割礼を受けし博士の野口をばあはれと思ふ死かコーランか。(※野口武徳)
 勲章を見せし瑪腰(マヨール※華僑官位)張翁は烏魯木斉(※ウルムチ)雑志喜びて受く。
 旧暦の端午の節句ちまきをば呉れし華僑をわれは好みぬ。
 阿美といふ愛くしき子はわがために恋人として見合せしめぬ。
 鹿あまた放し飼ひせし邸に住む長官はのち死刑となりぬ(カノーネン・ストラート)(※不詳)。
 われは歌なれは政治と道たがへ死にし健蔵今はあはれむ。(中島健蔵)
 エジプトに骨を埋めし狂ひ子をもたぬわれらは主に感謝する。(※保田與重郎)
佐伯に『中央公論』10月号とりのけたのみ帰宅してJohn Wayne見る。洗濯機、電気炬燵を電気屋もち来る。「払ひは明日」とユ。
今ごろ金沢を迎へて白浜へ古稀翁ども集まりゐるなり。われは「金」すみ「宋」に入らむ。
22:00ユ床につき我No.つけ了る。本文註ともに計200×187なり。

10月26日
6:00かっきり目さまし相良の小杉茂樹氏に『東京四季22』の受取かく。
『成城文芸』にと9:00より「明清時代の死刑─民俗と法律─」かきはじめる。
11:00すぎ大高クラブより3×400コギトのこと書き足してくれと。承知す。
午食後、散歩に出、プティ・パレをへて高円寺。
ふと丸家へ電話すれば「今起きし」と。「echo」5ケ買ひ、つけば(※丸三郎)自力で歩き、顔の死に顔なるにおどろく。
17:00出て瀬見氏に会ひ、出て16:30帰宅すれば5分おくれてユ帰り来る。(※省略)
22:20あすの1時間分了る。23:30予習了りとす。

10月27日
8:30起され9:30出て成城着。(※省略)昼食旨く食ひ、大学院にゆけば磯岡1人のみ。(※省略)
帰宅。『コギト』のことかき23:00となり疲る。肥下の自殺は昭和37年なり。
けふ高橋重臣氏より『天地』の欠号と『金瓶梅』の挿絵ともらふ。夜、電話せしも出ず。
成城堂にて『神々の明治維新』、『歪められた古代史』、『抱朴子ほか』、『邪馬台国と秦王国』、『聖書の植物』、森克己『遣唐使』借りる。(※省略)

10月28日
6:00覚む。ユ7:00起床。ユ9:00郵便局、柏井をへて京のところへと出てゆく。われ『成城文芸』にと「明清時代の死刑」よべよりの分かきつぐ。
ユの出しあと10:30成城大学、民研に『紀要』の原稿平山博士に渡し、学園長に会はんとするれば「けふは休み」と。
(※省略) 1年生出欠とる。(※省略)話しをる1女生つかまへ前に来さし、文禄の役のはじまるところで切り、ともに「桜子」へゆきしること餡蜜。
(※省略)16:30帰れば多鶴さんより『中央公論』10月号来をり。栢木氏より「歌受取った」と。
プティ・パレにゆき茶のみ帰宅。20:00、Page夫妻に英語の手紙かく。たのし。
20:00高橋重臣氏より電話「けさほどは」なりし。夕刊に「芥川比呂志61才肺結核で死」と。よく生きたり。
 痩せほそり肺なくなりて死ににける若かりし日の君をわれは知りをり(慶応の学生として西垣脩とともに天沼の家に来し也)。

10月29日
6:00さめ朝飯くって11:00成城着。飯半分食って民研にゆけば平山博士行方不明、結局学科会なしとわかりSkey女史と話し12:40研究室に来し4生の下書き直す内14:00となり昼食半分急いで平ぐ。
我妻健治氏より『神皇正統記』もらひをり礼にゆけば不在。教授会早くすみ(※省略)大学院教授会。(※省略)
(けさ保田夫人に電話すれば30日在宅、午后来て宜しとハガキかきしと。わが出し10分あとに速達で着きし也)。
京都の地図買へば900円。なるほど典子夫人の速達にて会ひたき様子。
(山本書店に電話、土曜13:30ごろゆくといへば實君「まちゐる」と)。
あすの「光」は9:14発にて2人2万円にては足らざりしと。(※省略)
 はろばろとゆくにはあらず上洛のむづかしき世となりにけらしも。
(※省略)夜、我妻、大山俊一2氏へ礼状かく。眠けれど「明清時代の死刑」200×13までかく。22:00入浴、22:30就寝。

10月30日
尿意のため3:30覚む。そのまま6:30ユ起し朝食。「明清時代の死刑」ちょっと書き、つづき車中にてかくつもりで鞄一杯もちて出、
9:13の「光」に乗り1枚かきしのみにて昼食米原あたりにて食ひ京都駅着。
17:29の帰りの指定席買ひ市busにのれば乗換へさされ1時間1本といふに帰りのbusまでときめ保田邸着。
典子夫人まちをられ身余円融普周僉然大居士といふ位牌写真の前にて般若心経よみやる。
奈良の新薬師寺前に住むてふ老女25才の娘つれて来てをり。
典子夫人とゆっくり話したきに、明石の和上、弟子つれて来り衛生の話す。
来迎寺の和上も京都駅着といふ電話ありし故、典子夫人より『くちなし(※歌集)』もらひ受け、菓子もらひて退散。
瑞穂は布施高校へ京都より通勤、悠紀雄は鷺宮にあり建設省づとめ、直日は何とか禅士と。まほは小手指に住み、もゆらは宇治となり。
京都駅にて1時間ある故、喫茶店にてice teaあつらへ、
羽田宅へ電話すれば嬢出て「父母とも留守、私は2児の母」と。「羽田君、東洋史談話会に出よ」との伝言たのみ、
我はヱハガキ、ユはすぐき2ケ赤福とを買ひ、platformへ出て夕食に鰻飯買ってもらひ22:00阿佐谷へ帰着。
悠紀雄に電話すれば「家賃4万円の公団住宅に住み建設省へ通勤、三日病院へ2児つれゆけば與重郎喜び4日もまだ意識たしかにてまた孫喜びし」と。 「一度お越し」といひて23:00入浴後就寝。

10月31日
6:00さめ快適。留守中にいただきし神田先生の「元典章を湖南博士によまされし。全快祈る」とのおハガキに返事。
高橋重臣君にも「また来宅を」とかく。保田典子夫人には挨拶状(「悠紀雄に逢ひに来て寄れ」)。
ユ9:00すぎ柏井歯科へゆく。われ11:00ごろまで「明清時代の死刑」かき200×18とし、
ユの12:10帰りしに午食pão、すみてプティ・パレに洋服にてゆき「ご立派」とほめられ日本茶(280)呑んで、大通りへ出、
うつぎにて『岩波のむかし話し3冊(450)』、『百万人の文学(500)』買ひて出、
地下鉄のりかへて13:45山本へゆけば主人をり、實君呼んで呉る。
11万円以上にて買ひし『秦法』に雑本合せて1万円(※で売り?)(我妻教授に(※自著を)1冊贈りくれしと)。
『藍海花(500)』、『半坡遺址綜述(2,000)』、『華僑開國革命史料』、『辛亥革命』、『唐大和上東征傳』、『古代清官断案記』買ひ、
古本市にて賑はふ神田うれしく、山口書店にゆき筆談すれば『新修保田與重郎選集 巻ノ一』呉る。
『マテオ聖福音書註解』、『中国神話伝説集』など買ひ、出て地下鉄(※省略)、
新宿まで遠ければ高野のFruits Parlourにゆき満席とてまちゐれば「明いた」と。
隣の女の子さそひてjuice(600)二人とものみ払はんとすれば1,100しかもたず。
彼女に100円払はす(名刺をわたし信用させ、女の友だちの来るをまちし也)。
南阿佐谷着。川久保家へ向へば夫人と遭ひ「主人は娘と」と也。日曜の出席別々と伝言たのみ帰宅。
20:00ごろ川久保より午后の「史学会に出る」と。(※省略)
けふは疲れて風邪気味。(※省略) 『孝経参釈』買ひて銭なくなりし也。

11月1日(日)
6:00さめユを6:30起し9:00出て佐伯のあきをるを見て乗車。(※省略)(※礼拝中に)歌作る。
 五十年の友のためにと異経(※般若心経)をば捧げし罪をゆるしたまへよ。(※保田與重郎邸にて)
 高慢をわれは悔いをりこの友に父なる神を知らしめざりき。
 ガリラヤの海の青さはわがゆめに夜毎見れども生きて見ざらん。
 父みこを信ずるものら切支丹26人クルスにかけぬ。
 聖徒らの群には入らぬわが信の弱きを人は嗤ふなとのる。
 わたくしはにせの信者と教へ子と再婚をせし上原あはれ。
 み栄えをわれが祈れば聖霊のたえず居ますと幸せもてり。
 歌一万つくりて地獄に堕つるをば選ぶといひし父を思ふも。
 主に対し不審の者はさらばあれ神の尼にはまことほかなし。
 ロザリヨも受洗の名をもいらずてふルウターの派にわれ入れたまふ。
 主にありてあだ殺さむと火の雨を降らせし民の罪をゆるせよ。
 主にありてともに食らひしランチョンに喜びの文よこせし老女。
 道造は弥勒菩薩の像のもと痰つまらせて死にしけらしも。
 比呂志はも片肺のみの十年を生きぬ何をも信じぬままに。
 るり子てふいとことの間(あひ)二人の子もちしとききぬたしかならねど。(※芥川比呂志)
 弔電に何と打つべき聖日の喜びをこそかげらすなやみ。
 割礼を受けて日に五度アラーをば祈る教に入りにし野口。
ユのろければ古本屋かけ足にて文庫本3冊買ひ(450)、佐伯にて『中国の文学と礼俗(9,200)』、『辛亥革命(3,500)』、森岡『家族社会(1,300)』借りて帰り、ユより(※省略)前借して児島襄『天皇T・U』、新村『語源をさぐる』買ひに出て、
『天皇T』をよみ、なぜ現人神となりしやを保田とともに考へて「コギトと四季」書き出す。(芥川瑠璃子に弔電打つ)。

11月2日
雨。保田のため『天皇T』をよみ、現人神でなきことを彼自ら知りをりしを知る。面白し。
(京大の『日本史』『東洋史』の2辞典、雨中売りにゆけば5,000と。
『Nemetsko-russkii slovar(2,500) V.A.Avrorin(※ナナイ-ロシア辞書)』、黒板勝美『国史の研究各説(500)』、『Nederlands woordenboekje(※オランダ語常用6000語)』、『サイキス・タスク(※岩波文庫)』買ひ、新本屋で『天皇3(420)』買ひ、一旦帰宅。
山川京子より『桃』来る。保田を歌へども下手なり。電話すれば無人。
「コギトと四季」のため16:30までに17枚かく。「R火」をかきしが故長くかかりし也。
近江詩人会のため「ロメオ」かき直して送ることとす。(※省略) 夜、televiの地名改悪説をきく。徹底せず、法でをるらし。
(けふ山住dr.にゆき尿検査の結果は「糖出ず、血液検査の結果は月曜判明」と。)

11月3日
6:00さめ(よべ1:30放尿にさむ)
7:00近く山川女史に『愛恋譜』下手といへば「あれは保田先生(※のことを歌ったもの)ぢゃありません」と也。ネボケ声なるもあはれ。
10:00まへ保田悠紀雄に電話し「今から行く」といへば鷺宮駅まで出てまた電話することとなる。
その通りすれば自転車にて来り、2丁目の営団住宅といふのに案内して呉れる。
奧さん(旧姓玉井)節、子はあかね11才5年、興9才3年と。あかねは典子夫人似、興はいくらか保田に似をり。
祖父(※槌三郎翁)は死んで10年、布施のわが家に来しは林叔母の娘のためなりしと。
節、わがうたをほめpiano弾いてLong long agoを歌はし11:30となり出んとすれば夫婦にて送り、
(※学生時代に下宿した)仙蔵院探しに苦労す。まはりみなapartになりをり。本殿建てかへをり。住持死にて娘の代となりしならん。
また西武の駅に出て午飯さそはれ、われは玉子そば、節も同じく、悠紀雄はわけのわからぬもの食ひdutch accountにせんといへばきかず。
白鷺通り教へてくれて別る。(あさって上洛とのことに母(※典子氏)へ「困れば我にいへ」といふ。祖父は養子、母は柏原姓にて西島家の遠縁なり。 與重郎の最後を思ひて嫁節一時落涙す。青学出身、桜井の大古墳は市に寄付し大和考古学の末永博士ら発掘せし由、みな節の話なり。)
われ今から帰ると電話して歩き『ミッドウェー戦記』買ひ、タバコ買ひして家につけば宏一郎、克次朗、孝行の3孫来をり。
宏一郎は自転車にて30分かかりて来しと。(※省略)川久保に電話すれば「散髪にゆきし」と夫人。
津端カオルより電話「あす18:00来宅」と。(※省略)
夕食後はじめて新聞見れば定期叙勲に勲二等に野間光辰、仁田勇、
勲三等に関口八太郎、相野忠雄、川久保悌郎、山田鷹男、平岡武夫が旭日中綬章、
瑞宝章に田村春雄の名出てをり、川久保そのための散髪なり。
関口に電話して祝へば「大高同窓会にゆく」と。「仁公さんによろしく」と伝言たのむ。
『果樹園』のcardとり了る。22:00なり。あすは第3次『四季』のこととす。

11月4日
6:30さむ。7:30朝食。第3次『四季』のcard作り了へ9:00山住dr.、尿に糖なしと。
『コギト』創刊号、保田の小説の題「やぽん・まるち」は何語か、可怪。11:00登校すれば文化祭のあと片づけにて休みと。
民研の(※省略) 大槻夫人と話せしあと(※省略)成城堂にてまた『日本と朝鮮(1,200)』、『中国史そのしたたかな軌跡(1,800)』買ひ、高田瑞穂誘ひ出し水割りのめばまたおごりくれ(※省略)、われ「コギトと四季」かきゐると報告に梅ヶ丘下車。麥書房へゆけばしまりをり。向ひの世田谷区立図書館にて副館長に「『白楽天』と『ハイネ恋愛詩集』とをそなへよ」といひ、また無人の麥書房に「執筆中」との名刺はふりこみ、東豊書店にゆく途、9月開業の小書店にて『古川柳おちぼひろい』買ってやり階段上って文春文庫『天皇3』買ひ、東豊に文句つけ借金いくらかといへば「わからず」と。
また『詩経動植物図鑑叢書上下(5,000)』、『水経注上下(1,440)』、『東坡楽府箋(1,120)』、『清眞詞選箋釋(450)』、 『唐説斎研究(1,000)』、『岑嘉州詩校注(1,260)』『中国文人笑談(700)』、『歴代笑話選(630)』、『新笑林広記(480)』、計12,080を借り「年内に払ふゆゑ前のと合せよけ、栃尾助教授もつれ来る」といひ、両手にもちて南新宿へかへり、(※省略)南阿佐谷下車。
川久保を訪ねれば在宅、勲三等は13日文相より授与と。『ツングース語』もやる気になりをり。よく笑ふに安心し(丹波に電話して「わが家にて祝賀会せん」といへば「賛成、日は都合あり15日にせん。酒もちゆく」と也。)
18:00津端かおる生来り肉みな食ふ。Singaporeへ3月ゆかんといへば「和幸」もそれを喜ぶと也。
22:00近く本みなもちて去る。ユやかましく入浴しろといふ。
小杉茂樹氏(東京四季の会より詩をくれと。「生と死」かきて封す。)(※省略)

11月5日
よべ0:00眠り、2:00放尿に起き1時間ほどして眠り6:30覚む。朝食ののち「蘇東坡」を書く。10:00すぎ登校。
『神皇正統記』の吾妻教授に挨拶受く。「始皇帝の末裔」よまれし由。semi3人あつまり(※省略)、
鳥海カヨ誘ひて新宿にて三省堂で地図買ひしあと砂糖なしの茶のみ『シンガポール(300)』買はせ、3生と3月終りに3泊4日の旅行することとなる。
20万円でよきらし。たのしく帰ればユ佐伯に14,000払ひしと。(※省略)
「保田與重郎」の高校時代を近大の雑誌(※『近代風土』)に200×20かく。(※省略)

11月6日
雨。5:30覚む。8:30田村春雄に電話すれば「山の上ホテルに泊る。会食来れず。僕も糖尿、丸は?」となりし。(※省略)
塩沢生来り、(※省略) プティ・パレへつれゆき(※省略)別れて高円寺へゆき『王士禎(550)』と『ロシア語のすすめ』と買へば20円足らず番頭君まけてくる。
咲耶より前登志夫に会ひ「保田の葬式にはゆかざりしも令兄の弔電朗読されし」とききし由ハガキ。
(※省略)「蘇東坡」1年すみ56才となる。田村に電話し「15日17:00我家にて川久保の受勲祝す」といへば「来るつもり」と也。(※省略)

11月7日
11:00就寝。2:00小便に起きあと眠れず。高橋和巳の不十分なる『王士禎』を書き改めと思ふ。6:00さめ6:30ユ起きしに離床。
7:30二人にて出、女子医大へ9:30に着き大森女医の御診察は9:30(※省略)、
busに乗り新宿西口着11:30、われはカツカレー、ユは焼きそばくふ。(※省略)別れて12階の三省堂にゆき『シンガポール(400)』と5万分の1『小田原』買ひ、
家で一休みせしあとプティ・パレに(※省略)、呆然とteleviなどみて夜、「清代の斬首」を半分書きしのみ。
(『天皇5』買ひて5冊そろふ。現人神ではなく軍部独裁に怒るが哀れなり。)(※省略)

11月8日(日)
6:00さむ。ユ礼拝にゆく。「コギトと四季」かき保田悠紀雄に電話すれば「父は外出、母は京都」と嬢?(※省略)
麥書房に電話すれば(※省略)「あす13:00来る」と也。(※省略) 「王漁洋」の伝記かく気あり。史に電話し「同病、酒ひかへよ」といふ。子らはsportsにて外出なり。
秋の終りといふ感じ。16:00出て本郷学士会館。市古博士に「悪き本に名を貸して」といへば「覚えなし」と。
和田久徳君入院とのことに神田君にきけば「前立腺手術」と。山本博士来りしも物いはず。榎、田川、青山など文庫派来らず。
中島敏、青木富太郎ら老いて気の毒なり。20:00すぎslideの撮影すみ、われ「李鴻章伝」をよみをりしもあとつづかず。
川久保と植村先生と3人地下鉄に出、先生池袋にてお別れす。(※省略) ユ戸田先生にゆき戸田氏の管まくをききしと。

11月9日
8:00起床。よべ疲れてよくねたり。中川武男氏来り、豊後岡城主中川清兵衛の系図写しGelbe Sorte10箱呉る。(※省略)
午后麥書房来り18:00まで喜んで話ききゆく。角川に新発見の道造の手紙の報告をかけとすすむ。
20:00、保田悠紀雄に電話すれば(旧姓玉井)節出て桜井の実家へもゆきし云々、悠紀雄出て「来い」といへば「来てくれ」、四十九日にゆく云々にてまた電話すと也。

11月10日
6:00さめ、ユの6:30起きるをまち朝食し9:30すぎ出て、休む間なく(※省略)、学生課の連中をり(※省略)桜子へゆき汁粉吸ひ割り勘にして帰宅。
図書館にて前川佐美雄のところしらべ出し、投函して帰宅。(※省略) 帰りて田村春雄「あす叙勲」と。「丸に電話しろ」といふ。
風邪ひきをり20:00近く賀代女に電話すれば「(※入社試験)失敗した」と。「あす研究室にてまて」といひてすむ。風邪気らしく入浴せず。
(小杉茂樹氏より「原稿もらった薄謝送る」と。茶ならよきにと思ふ(※静岡ゆゑ?))。

11月11日
4:30放尿に起き眠りしか7:30起床。9:30出て10:30登校。(※省略) 14:00すませて榊原副手より富山の薬もらひ、(※省略)
鳥海かよ生来りし故、ともに出て小田急dept.14階にてblack teaのみ彼女はpudding。boy頭「築島先生は」と問ふ。
帰りて高見山見て、一寸『芸文類聚』の詩よんでやり、三役の勝負見れば北の湖、千代の富士ともに負ける。夕食煮魚旨がってかよ子食ひ、
volley-ballの女子見てのち、梁の帝の穿針の詩にてすむ。新嘉坡へゆくと也。

11月12日
7:00さめて起床。8:45より「明清の死刑」かく。9:30かよ子起き朝食す。10:00すぎ共に出て成城大学。Skey女史とChristmas-card交換を約し、semi4人そろふ。(※省略)
成城堂に1万円余払ひ、本500ほど買ひ教授会。(※省略)東豊に電話し払ひすまし、台湾関係1万円ほど買ひ、国電にて阿佐谷。
佐伯に2,000払ひ500ほど本買ひて帰宅。(※省略) 夕食9:00食ひ旨し。糖尿にても仕方なからん。

11月13日
6:00さめ7:30朝食。「中国の死刑」かき、昼食後小遣ひもらひ、大野由美子に投函。佐伯へゆけば「まだ来ず」と。
『冷泉家の歴史』、『高松塚古墳と渡来文化』と買ひ一旦帰宅。高円寺へゆく途中プティ・パレに寄ればmatchもなくなりをり、
高円寺にて(※省略)大石にて『地名伝説のなぞ』、『チャタレイ夫人の恋人』にて800払ひ、
都丸支店にて『Russko-mongol'skii slovar'(1,000)』、『A Short Russian Reference Grammar(600)』にて残金260円となり、
『沙翁傑作集(50)』、『日本語の表情(200)』買ひ、佐伯へゆけば『琉球語の秘密(2,340)』来てをり2冊注文して帰宅。
小杉茂樹氏より静岡の茶2包み来る。関口八太郎より受章祝の礼状来り「大高60周年に1,000人以上集まり7文乙は11名出席」と。
保田節子(※省略)「あす夕食後、都立家政駅へ迎へに来る」こととなる。
宮崎さん(※宮崎智慧)に電話せしもダメ、高鳥(※高鳥賢司)の名思出し電話番号きけば「なし」と京都局。

11月14日
『コギト』第1号のことかき、疲れてプティ・パレへもゆかず、郵便出しにゆき佐伯で本買ひ原稿用紙買ひして帰宅。ユの画にゆくと前後してプティ・パレ、(※省略)
保田(※悠紀雄)に2度電話すれば「母、歯科医」と。(※省略)
ユの買ひし1,000のせんべいもち、Eroticaその他土産、静岡の茶もち、保田の写真帖と若き日の作品ともち鷺宮駅で下り、都立家政まで歩き、
迎へまてば興と悠紀雄と迎へに来る。Eroticaその他よまず、土曜の夜の交はりすすめしに節whiskyの水割りのみ、笑ひ乍らきく。
20日上洛と。遺産はいらず記念館建てるつもり。
坊が市教育委員にて末っ子が無職にて1階にをり小坊は2階住ひと。22:00まで話し鷺宮駅まで送らす。
あかね本好き、興はteleviに夢中なり。2人に鷺宮まで送らせ最後のbusにのり帰宅。一度来る。柏井歯科へ紹介たのむと。可愛き夫婦なり。
(※省略) 保田のこと大体知りをり直日と山川京子、山崎雪子のことなど皆承知。「典子さんによろしく」といひて別る。
24:00就寝。あすは「中国の死刑」かかん。留守中、川久保、田村、丹波みな電話くれ「本当か」となりし。
わが思ひ毎にたのしくこの日和いつまでつづくわれは知らずも。
ユ24:00入浴。けふ丸山薫詩碑建設の記念の詩碑のcurtain賜ふ。みな5,000円。八木憲爾多額に出し参会者100人以上と。
(冠婚葬祭1,000がけにて安くといふが来りしに、上げて茶わかさし話せばユ、焼餅やく)。(※省略)
(節、我と合唱せしにいい声なり。わが子より可愛く「一度来い」といふ。)

11月15日(日)
よべ0:00ね、8:00さめユも教会にゆかず。我「コギト1号」すませ、午后、午ねしをれば京より「泊りがけにて来る。けふは来ず」と池袋より。
17:00まへ田村来り、すぐ丹波whiskyもち来り、川久保正倉院見にゆきしと最後に来る(奥さん蜜柑とwhiskyもち来ゐし)。(※叙勲の祝)20:30散会。
(田村の嫁は斎藤かよとて目立ちし子なり。我、研究室に呼び説教せしことあり)。
川久保1年の滞満期間、経済は江上波夫博士がせし由、けふはじめて云ふ。

11月16日
『コギト』のことかきつづけ午となり、高円寺へ歩き古本屋2軒見て瀬見にはゆかず。(プティ・パレ、二夫人来ず女主人一人にてやりをり茶のむ)(※省略)
入浴前、保田悠紀雄に電話すれば夫人出て「本よんだか」に夫よぶ。「母上によろしく」といふ・

11月17日
5:30さめ6:00より停電止む。9:00出て10:00着校。(※省略) 午まへ坂内秋子来り「シンガポールの華僑」の卒論もち来り、マフ ラー呉る。
職員食堂へつれゆきlunch食はし、(※省略) 大学院、河野夫人のみにて外へつれゆき我は昆布茶のみ割勘。(※省略)
16:30勤務すみし榊原副手をつれて桜子へゆきわれは汁粉、彼女は餡蜜食ひ、同車。雨少し降りをり。野口、鎌田2教授病気と。この子にも好かれたり。
帰れば(※省略)疲れて夕食後30分眠る。

11月18日
7:30さむ。(※省略)文禄の役を了へ、栃尾君さそって東豊へつれゆく。彼は借金し、われは人人文庫『東坡楽府箋』、『蘇東坡生平及其作品述評』買ひ、
南新宿へつれ戻し別れて帰宅。(※省略)
夜、蘇東坡のつづき書く。(※省略) William Holdenの「慕情」を見る。反戦映画なり。

11月19日
8:00さめ眠し。京「明日くる」と。「蘇東坡」かく。11:00登校。semi3人の書きしもの直し、学生食堂、ついでかよ女の下宿へゆく・
誘ひて新宿へ出、14階へつれゆく。夕日美し。18:00帰宅。空腹なり。前川佐美雄より「保田の葬儀にゆきし。生きぬけ」と。
夕食後なにもせずtelevi見ながら『天皇3』よみ了る。天皇親政ならざること今と同じなりし也。

11月20日
7:30さめ、朝食ぬきにて8:00出発、ユと8:50女子医大に到着。諸検査受け12:30となりユを先に帰らせ、
(※省略) 新宿西口までbus。小田急10階の中華食堂にて海老ソバ食ひ、ユの「青木生をり」との電話に14:30帰宅し阿片戦争の史料よんでやる。
疲れをり、18:00青木生「優とる」との宣言に首かしげて見送り、京2孫つれて来をると夕食。ヨシ子、大分物わかるやうになりし(※省略)。
夜、川久保より電話「糖尿でなかりし」といへば「渡辺教授と新宿で会ひし」と。『天皇』よみつづく。

11月21日
9:00さむ。2孫ともさめ朝食。「蘇東坡」かく。午食後、プティ・パレに寄り高円寺。
『台湾島抗日秘史(600)』買ひ、瀬見氏に『[蘇]蒙辞典(6,500)』1週間売らぬやうたのんで帰宅。京帰りゆき、ユは画に出をり。
佐伯にて『歴史手帖’82(300)』来りしを受取り、50円のバカ本買ふ。

11月22日(日)
ユ、礼拝にゆく。我は『天皇4』よみ了る。(※省略) 午后プティ・パレにゆき14:20来し塩沢生、(※省略) 15:30高見山の負けるを見しあと「紀伊國屋へゆく。体重48キロ」と出てゆく。

11月23日
6:00さむ。(よべ23:00就床)。昼ねできず。16:00出て早川恭子・関野陽一(※省略)のおめでたに明治記念館へゆく。(※省略)
hyre案内受け130人の1人の老嫗と同車。(※省略)阿佐谷にて降り、21:00帰宅。眠し。
保田瑞穂より「香典返し送った」と。悠紀雄に電話し「一度来よ」といへば「来る」と。栢木喜一氏より「歌15首のせる」と。
咲耶より「糖尿いかに」と。伊藤徳子より「これんのあとつぎ甚城のあと我」と証明する戸籍の写し送り来る。73才と。
これん明治19年3月4日生れ、明治44年7月24日戸主となり8月29日大阪府東成区天王寺村大字天王寺507番地へ転居との戸籍簿の写し送り来る。
「昌三叔父庶子なること知らず云々」。平凡社より『唐代詩集 上』10版2,500×1,000を1月中に出すと。

11月24日
6:00さめ9:00出て10:00登校。(※省略)待てば津端生あらはれ華僑の参考書貸出に名貸し、桜子へゆき汁粉われ食ひ、(※省略) 保田瑞穂より香奠返し来る。

11月25日
10:00出て保田瑞穂へ受取かき投函。1年の日鮮関係、文禄慶長の役すませ、
まっすぐ帰りプティ・パレで茶注文すれば(瀬見氏『[蒙露]辞典(6,000)』負けてくれ茶のまんかと)紅茶もち来る。
「中国の明清時代の死刑」明代のみ了り、前半見えずあわてる。

11月26日
10:00出て11:00弁当食ひ、12:00よりの学科会にて(※省略)、28才の北海道大の博士コースの青年(※小森陽一)を高田の後任として呼ぶこと賛成(全員)、
ソ連に中学生の時ゐて二葉亭四迷の小説にロシア文学の影響つよきを論じゐる由。(※省略)

11月27日
雨、6:00さむ。佐伯へゆき本、届きをり(600)、「明代の死刑」として了り、午后まてば奥井(岡林)夫人来り、次いで津端生来り、(※省略)すぐ帰りゆく。
岡林夫人悪阻といひ乍らややにもの食ひ、狸うどん3ケとりしを食ひて20:30雨の中を関町まで帰りゆく。(※省略)

11月28日
8:00さめ、ユにいふこといはせて腹立て12:00成城大学。弁当忘れ原稿忘れしに気づく。食堂にゆき田中宣一の向ひに坐り茶入れてもらひ殆ど食はず(定食まづかりし)。
タバコも忘れし故、成城堂へ買ひにゆき民研の予算案(平山博士「服部こはかりし」と)。(※省略)

11月29日(日)
8:00さめ、ユに髭そらしめて教会にゆく。途中阿佐谷北口の夫人と同行、よくしゃべりユ、着物にてついて来れずと也。「それをいへ」といひ、帰り佐伯へ寄り150円の雑誌買へば落丁とわかる。(※省略)
14:00すぎ大と地下鉄にて申合せおくれてゆく。母のこと楽観的なれど「咲耶来をり、あす入院せしむ云々」。
林の叔父叔母の3回忌に俊男宅へtaxiにてゆけば経すみしところと。(※省略)
寿一「保田の葬儀にゆき弔電に汝が名、呼ばれし」といふ。(※省略) 鬱となりしをユ、周期といふ。

11月30日
9:30出て成城。『成城文芸』の編輯、(※省略)退職記念の原稿のこと榊原副手に問へば「知らず。西山先生でせう」とのことなりし。
これにて用すみ13:00帰宅。疲れをり。16:00大来て「母、清川病院に入院」と。山住dr.のおかげ也。
『近代風土』より「玉稿お寄せいただき採否委員会にて決定」と。「送りし覚えなし、返せ」とハガキかく。失礼なり。(※保田與重郎追悼文)

12月1日
曇。8:00起され飯くひ弁当もちて登校。2時限は鄭成功の話する。大学院河野夫人と外池生。(※省略) けふ〒なく、疲れに疲れをり。
『燕京歳時記』の漢文と東洋文庫とともになく、「ゆっくり探せ」とユの仰せなり。

12月2日
10:00登校。弁当あたため食ふ。西山博士わが原稿もちゐざる様子(履歴書と写真はあり)。民研紀要に論文はのるらし。変なことなり。(※省略)
まっすぐ帰宅。
『近代風土』より原稿ありと。「返せ」といはす。(世耕正隆氏よりの依頼なる由、おぼえなし)。

12月3日
寒し。登校。semi4生のおそきを怒る。『燕京歳時記』つひに見つからず。14:00より民研にて学科会。後任のlist出せしは我のみなるも野口君、われに当る高校教師ありと。新城博士の後任は短大の『神皇正統記』にて異論なかりし。(※省略)
次の会議の決定は新城と我とをぬきてやると。新しき例を聞きし也。第一項教授会で×つけん。

12月4日
よべ2服追加にのみ10:00さめ朝食15:00pão。何もする気なし。(※省略)

12月5日
曇。午后プティ・パレへ寄り佐伯へゆきて諸侯表なかりしこといへば奧さん150まけてくれ『地名の由来』といふを買ひ来る。デタラメの本なり。
沢井孝子郎より「『近代風土』に執筆たのみしは館の手を経し。かんべんしろ」と也。(※省略) 「山住克己閣下老衰」とユの話。

12月6日(日)
よべ眠剤4服のみてやっと眠り4:20さめる。何もする気なし。(※省略) ユ礼拝より12:30帰り飯出さず催促す。大高名簿と山本よりの「蘇東坡の目次」来る。(※省略)

12月7日
無為。

12月8日
登校。疲る。中西博士より『万葉長歌』2冊貰ふ。青木生、卒論下書置いて去る。(※省略) 京、禎子をつれ来る。

12月9日
禎子に別れいはれ10:30出て登校。(※省略)鳥海かよ子生の来るといふに早く帰宅。
かよ生16:30来り、出来上りし下書見す。午食せしめSingapore行やめといひ、入浴せしめて泊める。
(最終講義、新城博士とともにやるとし、われは「23年間」との題なりし)。

12月10日
鳥海生と出て登校。成城学園前駅にて彼女は帰り、我弁当温めんとすれば暖房とめてありし。semi青木生はむかひ津端生泣き、孫文のみ無事すみしも面白くなし。
教授会永々とやり次期学部長に宮崎博士なり。(※省略) 学科会、辞める教師には発言権なしとのことにて帰り来る。ユ心臓悪しと愁訴す。(※省略)

12月11日
津端生まちて15:00近く来しに1枚もかきをらず「ここにてかけ」といへば「明日もち来る」と逃げ帰る。(※省略)
津端生18:30来り20枚ほど在米華僑のことかきをり。「日曜19:00来る」と。

12月12日
津端生まちて18:00来りし20枚を直し「つづき月曜19:00もち来る」と。

12月13日(日)
礼拝休み、ユ11:00出てゆく(あとにて岡山伯母33回忌と也)。18:00まへ帰るまでいらいらして何も出来ず。(14:00午食みな下痢す)。

12月14日
Clarence B. Page夫妻よりX’mas-cardと「来よ」と。病気にてゆけずといふ。けふ来る筈の津端生「あす学校で」と電話。

12月15日
風邪下痢となる。(山住dr.血圧120-85と)。薬もらひ登校。「元気なし」といはる。(※省略) 高田来り、井上に会ひにゆきなどす。
3時間みな短くすまし最終講義とし1月早や試験すといふ。まっすぐ帰宅。津端生の原稿よむ。わけわからず。(※省略)

12月16日
登校。東洋史15分やり津端生14:15までまちしも来ず。帰り来る。(※省略)

12月17日
4生に印捺しすみ、鳥海生に就職、西川にたのまんと思ふ。(※省略)

12月18日
8:30さめ賀状100枚ほどにてすます。下痢2回。
平凡社より大沢部長と久米東洋文庫係来て『酉陽雑俎』たまひ、中国詩選に『李白』をと。最終回にしたまへといひて帰らす。
(大沢部長白髪にて45才となり)。

12月19日
下痢す。乗杉翁直腸癌とてその子も騒ぎわが家にも余波及ぶ(山住dr.診断也)。

12月20日(日)
下痢とてX’masの礼拝にゆかず。16:00すぎ出て学士会館分館へゆく途、関口と共になる。池田徹、関口と会ふは25年ぶりと喜びて座をとりもつ。
19:30すませれば20,000余、われ払はんとすれば西川、池田7千円づつ出し、池田従弟の造りし湯呑茶碗呉る。

12月21日
風邪と下痢やまず。13:00鍋焼きうどんとる(700)。15:00卒論わけ10冊あてられ、taxi遠回りして2,200とらる。(4生とも卒論出しをり)。
津端生、本の一部を返却に来しと。(松浦母上、美紀子と年末挨拶に来る)。

12月22日
下痢やまず。塩沢生「15:00来る」と電話かけ、来ざるに電話すれば父出て「15:00前出て就職きまりし」と。
菊池ほなみ1月15日挙式、笠井姓となり神戸に住むと。祝電にてカンベンしてくれといふ。

12月23日
15:00出て小田急特急に乗り小田原より東海道線にて湯河原、busに乗り旅館の部屋にゆけば寒く、ユを促して晩食代その他(※キャンセル代?)払ひ、
また小田原へ出、特急にて20:30新宿着。阿佐谷にたラーメンちょっと食ひ帰宅してユにブツブツ云はせて眠る。

12月24日
夕方、青木生来り、Morseよみしと。「貸せし本、半ばは来年返す」と。ふてぶてし。

12月25日
無為。

12月26日
富山鈴子CanadaよりX’mas-card呉る。

12月27日(日)
ユも礼拝にゆかず。(※省略) 江口三五より『大高』の記事見た云々。
(孝行来り返事せざれば帰途ユに会ふ。「なぜヂイちゃんといはざりしや」と叱る)。

12月28日
津端かおる生、貸本返却に来る。戸外暖く、郵便局混む。

12月29日
塩沢生返本に来り、名古屋のきしめん食ふ。ユ外出中、川久保、苹果もち来り、この間滝川博士に挨拶にゆき、わがこといはれしと。

12月30日
大来り、「(※しず江母)正月3日間退院さす」と。青木生残りの本みな返しに来り、ユと話す。

12月31日
夕方、小林正月の料理もち来る。夜、澄より電話。『民間伝承』来り、「“Pet de nonne”(尼さんのおなら)は菓子の名」と中平解先生。

付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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