エッセイ:覚悟する詩人

麥書房版『田中克己詩集』と『田中克己遺稿集』のこと 【改稿】

麥書房版 田中克己遺稿集

左:『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』麥書房1982      右:『田中克己遺稿集』1934

 ひと昔前に「四季派」関係の出版物で有名だった麥書房の宣伝目録の隅に、『自選自筆覆刻版田中克己詩集1931-1934』といふ本がしばらく載ってゐたことがありました。
 硬質典雅な抒情詩を書き、戦前『四季』の編集同人でもあったこの詩人の作品は、まとまって見ることのできないものだっただけに、立原道造の覆刻版詩集等に折り込まれて入ってゐたこのチラシを見て、たかだか百部余りの限定版が既に何年も経った後にも売れ残り、入手できたことを嬉しくも不思議に思ったことでした。後年その本の扉に面白い詩を書いて頂きましたが、詩人の謦咳に接する前の話です。

 田中克己といふ名前を知ったのはいつ頃だったか。

 大学生の時分に詩に興味をもち、あれこれと詩集を読み始めた頃、立原道造や伊東静雄の文庫版の巻末に付されてゐる解説を読んでゐると、しばしば『コギト』といふ誌名と共に、名前だけを必ず現す幾人かの人々があることを不思議に思ったものでした。
 いずれの解説者の書きぶりにも、何やら彼等については「知る必要がない」「知ってはいけない」といった感じが伴ひ、ある種突き放した「禁忌の気配」が行間に漂ってゐたからだと思ひます。

 その理由を知りたがった私は、野次馬根性もあり、愛読する詩人の周辺にあって存在を伏せられてゐる人々について好寄心を抱きます。そして彼等の作品を読むことのできる本はないだらうかと、本屋を回って探したのでした。

 なかでも『コギト』といふ「良くない同人雑誌」の中心にゐて、立原道造や伊東静雄と較べてつまらない詩を書いてゐたやうなニュアンスで名前の挙がってゐた田中克己といふ詩人の作品を、中央公論社の選詩集『日本の詩歌』第24巻の中に見つけ、まとまって読んだ時の衝撃、目の鱗が落ちた気持を今でもはっきりと思ひ出します。

 昭和戦前期にとりわけ美しい抒情詩が書かれた理由について語られたものを読むたび、いつも何かしら満たされずに蟠ってゐたモヤモヤが、田中克己といふ、かの解説者達が触れたがらなかった詩人の作品を実際に読んだ途端、霧散したおどろき。常に正しいことが書かれてゐるとばかり思ってゐた文学史が、その時ほど信用できないと思ったことはありませんでした。


杳かに道を来てふりかへると
雲際をさまざまの旗たてて行列が逝った
わしは山や谷に分けいり
懸崖に菊の花を見たが
菊は眼前に瞳き 懸崖は
掌の指のやうに裂けて見せた
わしは声を出してほうと喚び
一声のあとは幾声も出た

     (「詩集西康省」より「寒鳥」)



 かつて私は田中克己の詩について、「今日においてもその新鮮は破られてはゐない。詩が正当な憤りにおいて、読まれるべき読者を時代を超えて選び続けてゐる」と書いたことがあります。それは詩を愛する読者を突き放した態度ではなく、時がきて必ず読んでくれる読者を、詩がいつまでも質の新鮮を変へずに待ち続けてゐるといふ意味でしたが、初めて読んだそれらの詩は、どれも純粋な調べを以て、言葉少なく、戦後の詩人たちとは関りのないやり方で私を突き刺してきたのです。

 私はもっと彼と、そして『コギト』に拠った人達のことが知りたくなりました。
 街の新刊本屋に通ふのをやめ、今では手に入れ難くなってしまった彼等の著書を求め、上京した私は神田神保町などの古書店に足を向けるやうになりました。
 そして『日本の詩歌』のアンソロジーに感銘を受けた私が、次にこの詩人の作品と出合ったのが、この麥書房版の自筆詩集でした。ゾッキ本として流れる余部もなかったらしく、古書店でも見つからなかった本が注文して届いた時、まるで覚え書きのやうな筆蹟にはさすがに驚きました。

 あとがきのどこかに成立事情が書かれてゐれば良かったのですが、実はこの自筆詩集、刊行本とほぼ同じ姿の「原本」が存在いたします。
 すなはち製本屋から放出される束見本(白い本)に書かれてゐる原本ですが、一見して気紛れとも思しい筆跡は老詩人の手遊びではありません。昭和十一年、当時24歳の詩人の手に成る手書き詩集であり、原本の扉には題名も黒々と「田中克己遺稿集」と墨書されてゐるのです。
 復刻版には印刷されなかった「遺稿集」!とは、いったい何を意味するものでしょう。

 もちろん当時の詩人が実際に自殺を企ててゐたといふ訳ではありません。
 しかし東京帝国大学卒業の前後、早くも詩的テンションの絶頂期を迎へてゐた早熟な詩人が、同時に青春の煩悶の末に実存的な死の予感にも包まれ襖悩してゐたことを、私は本人から直接聞いてゐます。
 「昔のことは忘れた」と口を濁し詳らかに話されなかった先師ですが、「30過ぎて詩を書く奴はバカだと思ってゐた」といふ当時の詩人が自らの詩業を整理し、かかる題名をつけた矜持や覚悟について、些かの思ひを巡らせ感慨を味はったのでした。

 この「遺稿集」の存在に触れたものは、私の知るかぎりでは小高根二郎の文章しかありません。実はそれがこの本の原本と気付くまで気にも留めてゐなかった記事でしたが、昭和13年11月の『コギト』から転載してみます。


 「このほど田中克己遺稿集が上梓せられた。と云ってもわからぬひともあることだらうが、詩集西康 省が前身の謂である。
 この春まだ寒い霰する午下がりのことであったか田中氏を南海の高師の濱に訪れた。その時、無言で氏が私に示されたのがそれであった。
 部厚な絵帳と見えるものに丹念にペンで百にもあまる詩が手冩されてあり黄色の表紙には墨痕あざやかに田中克己遺稿集とあった。
 さう書かしたものが何であったにせよ、はからすも遺稿集は生前にして見事な一巻となった。
 こんなに目出度いことは再たあったものではない…と言ひは言っても、その一編、一編の底では、あの何處にももってゆきどのないやうな、堪へるだけ寂寥に堪へたと云った横顔を見せて、やっぱし遺稿集なのですよと、淡々と氏が裏切るやうな気がしてならない。」



 誰しも詩人とは処女詩集を出す前に、自ら手書きの詩集など作って編んではみるものではないだらうか。(かくなる私もさう。)
 例へば、立原道造の手書き詩集『ゆうすげびとの歌』と彼の第一詩集『萱草に寄す』における関係のやうなものが、この『遺稿集』と『詩集西康省』との間にも認められると思ひます。
 そして外観ひとつとっても『ゆうすげびとの歌』がいかにもディレッタントだった立原らしい瀟洒な姿をしてゐるのに対し、題名から装ひからぶっきらぼうな、この『コギト』的な相貌──小高根氏が書いてもゐるやうに、正義心や絶望感を「癇性」で封じ込め、ひいては「寂寥に堪へた」末の無力感さへを横顔で装ふやうな、ある種苛烈な意志の痕跡と呼んでもよい相貌──は、そのやうなものとして装釘を眺めてみれば中々興味深いものがあるやうに感じます。
 表紙に書かれてゐるのは、寒山の詩とカールブッセの有名な「山のあなた」の一節で、「一九三二年三月以降の愚詩百篇、他大愚詩百篇は之を載せず」とあります。

身に空花の衣を著け、足に龜毛の履を履き、
手に兔角の弓を把り、擬して無明の鬼を射る。

Uber den Bergen weit zu wandern,Sagen die Leute,wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,kam mit verweinten Augen ・・・     Carl Busse


 思ふに田中克己と立原道造とは年齢にして3つしか違ひません。
 『コギト』と『四季』と生へ抜き詩人達からそれぞれ一人づつひきあひに出して考へる時、最も鮮やかな青春のあり様を同世代の対比で示してくれるのは、この二人ではないだらうかと常々私は思ってゐます。
 しかしながら、田中克己の再評価に立原道造の加護は必要ないでしょう。当時の歴史に即して抒情の現場が再検討されれば、詩人の特異性は自然に浮かび上がってくると思ってゐました。これまで詩人の詩業に対する評価は、それほど不当であるとしか私には思はれないのでした。

 理由は「戦争詩を書いた」といふ一事にありました。
 しかし戦後の現代詩詩人・評家達が、ジャーナリズムを恃んでなしてきた裁決めいた評論活動は、安全な場所からの投石の様な、政治活動にしか私には思はれず、そのくせ、老境に入り遅まきながら抒情詩の大切さに気づき看板の化粧直しをし始めた団塊リベラル世代の詩人に対しては、私もまた同じやうに後続世代の高みから、何かとても生意気で残酷な「否」を頭ごなしに落としつけてやりたい気持ちになったこともありました。
 彼等が青年時代から自負してきた正義感が、私にはついに反省とは別物であるやうに思はれたのは、戦争に青春を根こそぎにされた文学者はあの様な人間にはならないと思ったからです。
 彼等が戦争に対して思春期の反抗をまともにぶつけることができなかったのは、若すぎた年齢のおかげで自ら筆を汚すことなく終戦を迎へた幸運に与っただけであり、私は彼らのルサンチマンに同情できなかっただけでなく、彼らの掲げる戦後ヒューマニズムそのものさへ鼻持ちならないものに映った事もありました。
 ならば現代の抒情は、かつてと同じくそのやうな正義らしいものに対する懐疑や失望や喪失感から出発するのが本当ではないか。もはや何物も弁護せず、弁護もされない自分の赤裸々な心情を守る為に、弁護ではない「殻」を造ることを私もまた希ったのでした。

 「かつてと同じく」──当時、正義とは時の権力を向かふにまはした共産主義と同義でありました。当局がそれを頭ごなしに否定した際に、『コギト』の人達は古典を「殻」に纏って転がる投企の方法を、マルクス主義の弁証法ではなくドイツロマン派のイロニーに学びました。
 評論では保田與重郎が、詩では伊東静雄とともに田中克己が、まさにその琴線が切れるか切れないかのところで響かせる抒情──すなはち赤裸の純情をいかに守るかといふ一事に全神経が集中した詩人の極限の表情は、もはや韜晦をもって図り難く思はれるほどです。


 私が先師の門を敲いたのは既に晩年も良い頃でした。
 噂に聞こえた絹介や孤高は影をひそめ、時には自らの気質と孤独とを抱へこんだ悩み多き一人の老人のやうにも思はれたこともあります。
 私はあの、微笑んでも見据ゑても人に倍伝はる詩人の黒目を、そしてまた突き放す時も温かく迎へて下さる時にも使はれた「さよか」といふ口癖を思ひ出します。
 それは前述したところの韜晦であり、身振りで示された含羞の礼儀でした。
 心の中に土足で立ち入ることをためらふ詩人の傷付き易い精神には確かに「穀」があり、日常の処世にも現れるそれを大阪人らしい嫌なところだと自嘲されるのに対して、私が「先生、それイロニーですか」とふれば、たちまち「イロニーやね」と受けて下さるユーモアなど、今は悠紀子夫人の心づくしの手料理とともに全てがなつかしい思ひ出です。

 時に辛疎な評言も飛び交ふ詩人の、ついに全幅の信頼を以て慕った文学者といへば、晩年古典に親近していった堀辰雄と、戦後では詩人の井上多喜三郎だったでしょうか。ふたりは誰からも好かれる人格者でしたが、共に『コギト』を支へた仲間内で田中克己を温かく見守った親友としては、理性を奉じた中島栄次郎と、親戚でもあった肥下恒夫がありました。
 彼らの早世は田中克己にとって、『四季』や『コギト』の戦後評価に留まるものでなく、自身を弁護する有力な身内を失ったといふ点で、大きな痛手 に違ひなかったと、私には思はれるのです。
 『自選自筆覆刻版田中克己詩集 1931-1934』の原本、『田中克己遺稿集』を拙サイトで公開します(20mb)。この機に閲覧ください。

(2023.06.19 改稿)


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