(2023.03.05up 2023.06.16update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集


「保田與重郎君」 近代風土14号 昭和57年3月 『近代風土(近畿大学出版部)』6-11p

(※誤植等、著者所蔵雑誌の書込訂正と(※中嶋注)を施した。)

 一世を風靡したといえるのが昭和五年から十九年までの保田與重郎だった。わたしは昭和四年からの歌日記をもっていて、それを保田は読んで評点をつけてくれた(※『夜光雲』欄外記述のこと)。財津愛象先生の漢 文、佐々木恒清(青葉村)、ロベルト・シンチンガー先生など恩師の中で忘れがたい人もあるけれど、わたしは直接話したことが皆無である。授業料を使いこんで「三日以内に払わねば退学」との通知が父のところへ来て、父は滞納をすますと同時に藤井寺の叔父の家にわたしを預けた。今だに生きている叔父叔母の中の只一人の昌三叔父は、子もなくて大津の十合ゴルフ場長として生きている。この叔父はわたしに歌をうたうことを教え、わたしは今も「帰れソレントへ」や「ソルヴェージの歌」を原語で歌える。

 保田は音痴であると同時に体操が出来なかった。軍事教練で「前へ進め」の時、左足と左手を同時に出して倒れた彼を私たちは笑えないで、この天才にしてと思った。音痴であることも私はよく知っている。しかしそれ以外は彼は実に早熟で博学であった。芥川を全部読ましたのは彼であり、晶子や木下利玄以外知らない私に茂吉や千樫を読ませたのも彼である。大和国原の南のはしの桜井に明治四十三年生まれ、畝傍中学では国語の教師たちをこわがらせた。紀州の小竹祝(しののはふり)を祖先とする小竹先生は「あれは生意気で困り者でした」と弟の故小竹稔投手を大学の夏休みに訪ねて行った時、簡単にふれられた。畝傍から大高へ入るのは彼がはじめでなかったとしても稀有のことだった。

 官僚的な新任の隈本校長が文科の入試から数学をはずしたおかげで、岩手からは中野重見、東京からは竹内好、愛媛の大三島(まおみしま)からは川崎のおっさんが入学した。中でも保田はわたしの先生で、湯原冬美の筆名で歌を作り、当時の権威だった谷川徹三氏の選する論文に応募して「好去好来の歌に於ける言霊についての考察──上代国家成立についてのアウトライン」と題する一篇を『思想』(この雑誌は今は権威を失墜した)にのせたのは昭和五年のことである。

 私は歌以外に芥川をよんでいないと叱られ、詩や歌は日記(『夜光雲』と題した)に記して彼に校閲を乞うた。昭和四年の夏休みには彼につれられて女人高野の室生寺まで桜井から歩き、最後ははげまされてやっと桜井につき一晩中ねむりつづけ、帰ってから歌を四八首つくった。疲れのとれたあと彼は私を金屋の石仏につれて行ってくれた。金屋は昔の海石榴市(つばいち)の跡で、長谷詣での途での途である。

 親切で物しりで、情の篤かった彼の死をきいた時、私は膵臓炎にかかっており、お通夜にも葬儀にもゆかず、香奠を坪井明に託し、弔電を打った。この弔電は披露された三通の最後だった由で、私はうろたえて御冥福を祈るとしかいえなかった。

 昭和二十年三月十日から始まった米空軍の無差別爆撃は私たちを戦慄せしめた。江戸の町を焼き、旧郊のみが残ったのである(「本郷もかねやすまでは江戸の内」の句の通り、かねやすも焼け、お茶の水駅から大学までは丸焼けで、防火壁を造っていた田中文求堂だけが焼け残り、本所深川はもとより浅草まで見晴らせた。)。そのあと私は警防団の副部長の任を辞し東大文学部研究室へ借りた本を返しに行った。只一人出勤の今井登志喜博士は私の召集を聞くと「軍隊では米の飯が食えるよ」と何とも情ない餞別の辞を賜わった。大阪がやられ、名古屋がやられ、私は早めに京都の父の家に泊った。 (父は大阪の田辺の家がやられると思い、故郷を捨てて京都へ疎開していたのである)。京都の町中も南へ北へ手押し車で財産を運ぶ人の中を私は親友羽田明に別れを告げにゆき、帰ると神戸の大空襲であった。

 翌日早めに京をたち大阪駅へつくと、歩兵三十七連隊まで残っているのは大阪市役所と大手前高校だけだった。高校の教頭をしている坪井先生(いま金蘭女子短大副学長、『コギト』の同人で松田明が旧姓)を訪れると応召中と。私は大阪城の見える堀ばたのベンチで昼飯をくい、早めに中部二三部隊に入った。昭和九年の大阪・奈良の老兵たちが千名、召集を帰されたのは十人、あとは性病も鳥目も白痴も皆入隊ということになった。夜は旧天王寺師範の校舎であかし、翌朝飯盆を洗いにゆくと、隣りで洗っているのが医者から絶対安静を命じられていた保田であった。

 これは奇遇だと思ったが、それこそ軍ににらまれた保田をとるための昭和九年兵の召集で、私は本籍を大阪に置いていたのである(田中家は私の母方で、私は母のあとを継ぎ「田甚」とあだ名をもつ淡路の賀集の人間なのである)。

 二人は「お前もか」といったきりで別れ、この日大阪駅まで歩き、呉に木を植えて擬装した軍艦を見た。これが連合艦隊の最後であった。福岡に泊った兵隊は翌日関釜連絡船に乗り釜山へ着くと夜、硫黄島全滅の夕刊を韓国の坊やが売りに来て、秋風嶺を夜越え、午には鴨緑江を渡り、また一夜へて北京南郊の豊台駅で停車すると「田中というのおるか」と古兵が呼びに来た。田中カツミだというのでついてゆくと保田は貨車の中でねていて物もいえなかった。同時召集の末弟(保田の小坊(コボン))も物いわず、これが内地から華北へ来た最後の兵隊であった。私の健兵だったことは戦後保田の主催した「老兵の記録」に記した。保田は病院にねた切りで終戦のころからやっと起き出したことは自分で書いている。隠岐へ流された後鳥羽院、セントヘレナで死んだナポレオンなど保田の好きなのは悲劇的な人物ばかりである。死にぎわに次男悠紀雄のつれて来た孫を見て喜んだ由、この間見た男孫は保田に似、女孫は典子夫人そっくりである(※ 日記参照)。親不幸にも先だった直日には一首だけ追悼の歌を作った保田を私はしらじらしいと怒っていたが、云わぬは云うにまさるか、 保田は最後までこの孫たちの見舞を喜んだと、嫁の旧姓玉井節さんは泣きながら話してくれた。

 私はあさって悪性の糖尿病の診断を受けにゆく。一病息災で死んだ友を書かねばなるまい。いま『R火』の保田(ペンネーム湯原冬美)を書き了え、 『コギト』・『日本浪曼派』・『四季』の保田をかく。愛情の深い、人を見ぬくが頼まれれば何でもほめた保田の歌を題した、棟方志功の版画はあれば家宝としたまえ。

 大高の名物は野田・五十嵐・桑原の三教授とノーベル賞福井謙一教授のほか、保田與重郎のことは忘れないで貰いたい。竹内好の葬儀には私は友人総代として弔辞をよんだ。保田の葬儀には私の弔電が友人総代として読まれた由。瑞穂も悠紀雄もモヨラもマホもみな元気だ。エジプトのカイロに骨を埋めたナオヒのところへおいついたか。七十一歳の爺さんであった。

 山のきり町におりくるゆうくれはまるめろの皮むきにけるかも
 ながさきは聖(さんた)まりあのはらいそ(※天国)に天昇りけむをみるかなしも
 『R火』創刊号の歌二首を録する。あとの歌は私(嶺丘耿太郎)への献辞がある。

 「女太閤記」は面白いと見、ジョン・ウェインを好いた私に、保田はまた「お前長生きせいよ」といっているであろう。

 沢井孝子郎教授も国文の大家で昔は詩歌が好きであったが大高時代の保田のことを私に書かす。私は糖尿が相当ひどいので頭も筆も動かない。「殺生やな」、「表現の自由」はどこへ行ったか。本当の浪曼人だった彼は現実を無視し、一発で人を惹きつける名人であった。現人神の先輩(大高二回)中山正善天理教真柱は、彼が私の要請で(私は当時天理図書館に働いていていて、いうことを聞かねば馘になる)いやいや白足袋を穿き羽織を着て逢いに丹波市(今の天理市)に行った。往きも帰りも彼は切符なしで桜井駅丹波市駅を通りぬけるのを私は呆然としてみていたが、真柱(当時管長)は一発で参り「田中、保田の本集めよ」と図書館司書としての任務を命じた。戦前戦中のもの廿六冊、私はみなそろってもらっていたが、疎開先で焼いた彼に不二歌道会の連中を通じて返納し、戦後は貰ったり貰わなかったり、『日本浪曼派の時代』だけは大事にしている。

 しかし私はドイツロマン派で、誤訳だらけではあるがノヴァーリスの「ハインリヒ・フォンオフターディンゲン」を創めて訳し、太宰治、古谷兄弟らは『青い花』という雑誌を創刊し、これが『日本浪曼派』に入る。太宰は保田を女名前にして登場さす。女みたいな肌をした大丈夫であった。十月四日に死んで今日は十一月五日、「透谷賞」はもらったが芥川賞や直木その他はもらわず、世に拗ねたかと思えば誰しも忘れられぬと見えて、朝日、毎日、 読売、東京新聞みな長い悼辞を書いた。わたしは保田の葬儀の行われた来迎寺に(※終戦後)半年いて追い出され、空になった避病院に数ヶ月住んだあと、鳥見山大教会の詰所に一室を貸与された。保田のところには大本教の出口直日と山川京子という女人が二人見えていて、静座して保田の口の開くのを待っていた。直日は和仁三郎(※王仁三郎)の後を継いだ生き神さまである。保田の偉いことを私は再認識し、保田が『昭和を造った百人』からはずされ、杉浦明平というバカから悪罵され軍部の協力者などと、いわれない悪名を着せられているのをもう問題にしない。

 軍部の協力者だった者は中島健蔵を最後としてあとはみな恍惚の人となった。文学史を書く人よ、保田の再評価をしてみろ。むつかしいぞ。英雄であり、詩人だったのだから。

「奇才保田與重郎」 浪曼派 保田與重郎追悼号 昭和57年4月 『浪曼派(出雲書店)』    111-113p


 昭和三年大阪高校文科乙類入学にわたしは四番、保田は八番かで入学したと思う。わたしは入学率の高い、従って予備校的な今宮中学(大阪府立)の四年から入り、保田は畝傍中学(奈良県立)から唯一人の入学者であった。この差はたちまちあらわれて、彼はマルクスの『資本論』をよみ了え、わたしは彼に教えられ『龍之介全集』をよみ了えた。二人で出した雑誌は『R火(かぎろひ)』といい、同級の天王寺商業から来た松下武雄が命名した。

 保田はドイツ語ができず、わたしが忠告すると「いる時が来たらやる」とガンバって、尻(けつ)から四番で卒業し、わたしは三十三人中の二十二番で卒業した。わたしの方が成績がよかったのに修身でわたしはボート部の山本(いま弁護士)、肺病の野球部の丸と三人だけ可で、保田は良であった。 ただこの秀才(天才といわぬわけはあとまわし)の不得意は体育で、そのころあった教錬の執銃訓練で「前へ進め」の号令に、一歩ふみ出した途端、彼は倒れた。左手と左足とを同時にふみ出したのである。

 徴兵検査では二人とも丙種合格、わたしは身長体重ともに彼より少なかったから、昭和二〇年までのうのうと、『李太白』(日本評論社刊)を書いただけですましていたら、彼は二十六冊の著書を出し、中でも『日本の橋』は愛読された。尾張熱田の裁断橋のことを書いたのだが、これは既に浜田青陵博士が馬琴の随筆から発見したのを、保田が写したのであるが、『後鳥羽院』や『日本武尊』など悲劇の主人公を愛した彼の著作は、他に比のないものである。

 一時もてはやされたヒトラーやムソリーニは、彼はその全盛時代には愛しなかった。それはドイツ浪曼派の好きなわたし(ノヴァーリスの『青い花〈ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン〉』を誤訳だらけで出し、いまも後期浪曼派でマルクスの親友ユダヤ人ハインリヒ・ハイネの文庫本が五〇版となった<角川文庫〉)、と彼のちがいである。

 似た者同士つかず放れずしている内、戦争末期、彼は結核で倒れ臥し、わたしは安産(わたしの妻は七度妊娠、五度分娩したが、産は軽く乳の出は良好であった)の配給のミルクを彼の病床に持参した。その彼が軍部からにらまれて応召し、わたしも同年同地方(わたしは淡路の産なのに籍を大阪市に移していたのである)の召集を受けたのを知ったのは、新服と竹筒(水筒の代用)、竹籠(飯盒の代用)をもち、背の高い同班の三人の一人として天王寺から梅田の大阪駅まで歩いた。(彼がもたされた銃は何だったろう、彼はわたしより長身で正しくは三八銃をわたしと同じくもたされた筈である)。

 とまれ二人が遇ったのは出発の日の飯盒洗いの水道端で、互いに見交わす顔には生還の色はなかった(昭和二十年三月十七日神戸大空襲の翌日が入隊の日である)。
 北京の郊外で汽車が止まった時、古兵どのが「田中克己はおるか」と呼びに来た。ついてゆくと後の方の車輛で彼は臥していた。

 その後の戦闘記はわたしが彼の主催した『祖国』という雑誌に『老兵の記録』と題して書いたが、彼は終戦で病院から追い出され掠奪に来る中国の飢民を防いだ話を書いたのみである。たぶんわたしの様な戦闘経験を彼はもたなかったと思う(わたしの戦闘経験は六回、わたしは一発もうたず、戦闘を見物している強い兵隊だったのである)。

 戦闘は彼の帰国後にはじまる。彼は故郷で自作自農を志し、僅かに残った荒地を開墾したが、稲や米がとれたかどうか明らかでない。やがて彼は『祖国』を創刊し、進駐軍の検閲下、勇敢な愛国心を発揮した。

 家には三男一女がいて、家計は賢翁が賄なった。わたしはこの翁に「共産党」になるなよと悟されつつ天理図書館司書として、翁が檀家総代の来迎寺の一室を貸し与えられた。

 保田の著作はわたしの『青い花』(※昭和11年1月)よりおくれて、同じくノヴァーリスの服部正己との共訳『ヒアシアンと花薔薇』(※同年10月)とほぼ同時に出した(※『日本の橋』(※同年11月)。表にすると、

(※表 略)

 以上が戦前の『コギト』同人としての作である。子は五人、孫は六人というから、ゲーテの如く天才でなく(わたしなど子は六人、孫は十一人というから、もとより天才でない)、奇才と題した所以である。


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