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2018年 日録 掲示板 過去ログ


看々臘月尽。

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年12月26日(水)22時32分29秒
    さて、書道家の韓天雍先生には、このたび素晴らしい蔵書印を造っていただきました。
 前に「中嶋蔵書」印をプレゼントしていただいたのですが、このたびは旧くからの古本仲間にはおなじみのハンドルネーム「cogito」に漢字を当てた一顆(大江健三郎の小説とは関係ありません)をリクエスト。早速、和本の復刻本に捺印してみました♪ ありがたうございます!

 また、石井頼子様より今年も棟方志功の素晴らしいカレンダーをお送りいただきました。
 去年は般若心経の一節、今年は宮沢賢治と、毎年気に入った絵柄を額に入れ、仏壇に飾ってをります。
 合せて棟方志功の福光時代展「信仰と美の出会い」のご案内もいただきました。
 お知らせかたがたここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 みなさま良いお年をお迎へくださいますやう。本年二月、内艱に丁たり喪中のため、年始の御挨拶を控へます。
 

今年の収穫から

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年12月26日(水)22時28分6秒
  〇 舟山逸子『春の落葉』昭和53年。
丁度40年前1978年に刊行された第一詩集。今に変らぬ淒楚な抒情は、清潔ではあるけれどせつなさにふたがる気持にさせられる、といった方が合ってゐるかもしれません。
すこしばかり控えめに過ぎる自身の成長エピソードが20代でこんな具合に書けてしまふさびしさ。詩が生涯の心の支へになってしまふ所以であります。
著者とは手紙からやりとりさせて頂いて30年になりますが、我が詩的出発時に温かく同人誌に迎へ入れて下さった先輩詩人の真骨頂を、この年にして初見するとは、遅すぎました。

 不在

死んだ父の枕元で
白いかたまりになって うずくまっていた
ロニィは 小さな箱に入れられ
はるばる大阪まで運ばれてきた
二、三日はおびえたように 何も食べず
水ばかり飲んだ それから
どうしても なにかおかしいというように
私たちの顔をゆっくり見まわすのだ
そして 前足に黒い鼻先をつけて
くうくうと泣く
大阪に来てしまった私たちに抗議するように
くうくうと泣く
そうして泣いていると
父を呼んでいるとしか思えなくなって
せつなく 妹は
その頭をなぜてやりながら
うっすらと涙を浮かべるのだ
突然に父だけがいなくなった家族に囲まれて
ロニィは
父を追いかけて いってしまった
目を閉じたまま 私たちの呼ぶ声に
ゆっくりしっぽを振ってみせながら

ロニィよ
おまえは今も 九州の家の座敷で
父の大きな手に その前足をかけて
ちゃんとお手をしているか
ハムなどもらっているか
ロニィよ 今日も
父を見送った玄関先で
ワンと吠えているか
私たちが ときどき
胸の奥で思い出しては
ひそかに涙をこらえている かつての生活を
遠い空のどこかで
そうして 父と 続けているか 



〇冨岡一成『ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫』
これまた30年来の友人の新著。斯界の生き字引である河原先生への「聞き書き」をもとに、小説・ドキュメンタリー・エッセイのかたちを借りたそれぞれの「章」と、そして季節ごとの「星空解説」によって構成された、全体がプラネタリウムの如く投影するファンタジーです。

河原郁夫先生はことし米寿を迎える。「八十八=米」のお祝いだけれど、天文ファンには八十八なら星座の数だ。ひそかにこれを星寿のお祝いとおよろこびし、このお目出度いさなかに先生の本を世に送りだせることに、おおきな幸せを感じている。「あとがき」より


〇亀井俊介『若い日に読んだ詩と詩人』平成30年。この本については、別に解説と内容をupしてあります。こちらよりご覧ください


〇風間克美『地方私鉄 1960年代の回想』平成30年。
〇今井誉次郎(たかじろう)『おさるのキーコ』昭和37年。
ともに道路が舗装してなく、水たまりだらけだった懐かしい昭和30年代の日本の記録。
『おさるのキーコ』は、小学校3年の時、担任の先生から、教室に据えてあった本箱の中から買ふやうすすめられ、選んだ最初の一冊でした。
岐阜県出身の、いかにも綴り方教育畑らしい先生が書いた、日本の田舎くさい子供たちの姿を描いた童話です。


ほかにも
〇吉村比呂詩『白い人形』昭和8年『雪線に描く』昭和10年。飛騨清見村のモダニズム詩人。
〇伊福部隆彦『無為隆彦詩集』昭和36年。書道界に薀蓄一家言ある詩人の自筆詩集200部非売折帖版。
〇深田精一『黙々餘聲』弘化2年刊行、幕末名古屋の漢詩人。茶書にて有名。
〇梁川星巌の処女詩集『西征詩』文政12年正 月版。
〇村瀬藤城「天王山(美濃市大矢田)観紅葉之詩」掛軸。

などの古書類を購入しました。年額は20~10年前の全盛期から較べると1/4以下になりました。

宮田佳子様のこと

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年12月 5日(水)16時41分38秒
編集済
 
宮田佳子(みやたよしこ)氏が今夏7月21日、御自宅にて老衰で亡くなられてゐた由(87歳)、喪中はがきにて知り、本日御仏前へ焼香に上りました。

昨年は、翻刻成った戸田葆逸の日記抜刷をお送りしたところ、御実家の菩提寺である大垣全昌寺に働きかけて下さり、御住職より戸田葆逸の墓碑につき御教示をいただいたのでありましたが(野村藤陰の娘婿である戸田鋭之助の次男の嬢が佳子氏)、御子息の話により、御病気で長患ひをされたのではなかった由を伺ひ、吾が母とひきくらべせめても心なでおろして帰って来た次第です。
 
思へば漢詩に関心を持ち始めた2003年の末、職場の図書館に、江戸後期の地元漢詩人である宮田嘯臺の詩集『看雲栖詩稿』の復 刻本が寄贈されてあったことから、発行元の御自宅にお便り差し上げのが最初にして、快く在庫を賜ったばかりでなく、以後、嫁ぎ先である宮田家(旧造り酒屋で加納宿脇本陣)に、江戸時代から保管されてゐる「維禎さま(嘯臺翁)」の遺墨類を、たびたび拝見させて頂き、また撮影もさせて頂き、写真を拙サイト上にて公開させて頂いてきたのでありました。

毎度伺ふごとに昔の詩人の紹介に執心する私のことを「若いのに物好きな」と微笑みながら、長話に興じて下さった佳子様でしたが、御自身もまた地元に伝はる狂俳を解読する文芸サークルに所属し、奇特な我がライフワークに対しては応援の声を惜しまれませんでした。

穏やかな物腰の中に旧家の余香を凜と漂はせられた居住まひが忘れられません。

このたび御遺族には、画像公開許可とともに、岐阜県図書館、岐阜市歴史博物館に寄贈・寄託された資料を閲覧したい際には、紹介のお口添えについても引き続いて頂けるとのことにて、寔にありがたく存じます。

現在進めてゐる大垣漢詩人の資料公開事業が了り次第、これら未整理のものを含む資料群についても、 精査・考察ができればと考へてをります。

あらためてこの場にても佳子様のご冥福をお祈り申し上げます。




 



さて佳子様の曽祖父、野村藤陰については、珍しくオークションに詩稿が現れたので、合はせ紹介いたします。

「正」を乞うてゐるのは(小原鉄心と共に師と仰いだ)齋藤拙堂なのでしょうが、朱筆が入ってをらず、遺稿詩集に収められたものとも殆ど変りがないので、或ひは藤陰本人の許から流出した草稿であるかもしれません。



四月三日、湘夢書屋(江馬細香宅)雨集。長州の山縣世衡(宍戸?:たまき)、高木致遠、阿州加茂、 永郷越前、大郷百穀及び我が加納の青木叔恭と邂逅す。世衡、時に蝦夷より帰る。故に句、之に及ぶ。

霪霖幾日掩柴關。霪霖、幾日柴關を掩ふ。
忽熹高堂陪衆賢。忽ち熹(よろこ)ぶ。高堂、衆賢に陪するを。
今雨相逢如旧雨。今雨(新知)相逢ふ、旧雨(旧友)の如し。
吟筵只恨即離筵。吟筵ただ恨む。即ち離筵するを。
筆鋒揮去紙還響。筆鋒、揮ひ去って紙また響き。
蠻態談來語亦羶。蠻態、談來って語また羶(なまぐさ)し。
此會僻郷知?数。此の會、僻郷にしてしばしばするは難きを知る。
不妨詩酒共流連。妨げず、詩酒ともに流連するを。

 正(批正を乞ふの謂)   藤陰 生 未定(稿)



『感泣亭秋報』13号

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年11月13日(火)20時47分14秒
編集済
  小 山正見様より『感泣亭秋報』13号をお送りいただきました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
山崎剛太郎先生の紀寿のお慶びを申し上げます。
このたびはその祝賀の意を込めての「特集Ⅰ」。感泣亭例会での談話録がとにかく愉しい。

(前略)おやじがね、「おい、おまえ小山くんとはあまり附き合わん方がいいぞ」(笑)と、注意を受けたくらいでね。注意を受けたけれど、ただ友情は深まるばかりで、ずうっと。向うは弘前の高校、僕は早稲田、それでも帰って来れば、必ず会って。(中略)
その頃、僕はある女性に失恋しまして(笑)本当にがっくりして、もう死んじゃおうかと思って、俺、もう死にたいくらいだよ、と。そしたら小山くんが何と言ったか。「死ね、死ね」って(笑)。そう言われると、こんちきしょう思って(笑)、おかげさまで今日まで生きて来ました(爆笑)。で、小山くんとはそういうふうにしていたけれど、彼の話は実に何と言うか変化に富んでいてそれでよく人の話を聞いてくれるので、僕にとって非常に楽しかったですね。(後略) 


「特集Ⅱ」は詩集『山居乱信』について、常連寄稿者である高橋博夫、小笠原眞、近藤晴彦3氏の評論を集めたもの。
そして毎年一冊ずつ連載を続けて来られた渡邊啓史氏による最後の第8詩集『十二月感泣集』の解説が34ページと充実してゐます。
これまでの相馬明文氏による弘前高校時代の文章の発掘、蓜島亘氏による出版界を渡り歩いた詩人に関係する書誌探訪と並び、小山正孝研究を掲げる雑誌の趣旨を一番に体現した文章としてこのたびも印象に残りました。

 さて「私の好きな小山正孝」で、藤田晴央氏が初期詩篇から詩人のキーワードに「悔い」を挙げられたこと。それまで戦前四季派の詩情として公認されてゐたのは、「鬱屈」を押し殺し「含羞」「諦念」への道を辿るものが多かったのに、「鬱屈」から一転、行動を経て「悔い」にたどり着き、これを抱き続けたことが「四季派第2世代」としての小山正孝の新機軸であったかと思ひ当たりました。
 そのあとで「いつも傍に置く詩」として、石井眞美氏が挙げられた「願い」といふ詩には、

塀を支えてゐるものが 外からも内からも

私自身なのだと気がついて

私は自分の哀れをにくみはじめ

いまの私は 塀にぶつかって

こはしてしまひたいと思ってゐる  (第2詩集『逃げ水』所載、抄出)

 と書かれてゐるのですが、或ひは実生活において壊してしまったことは(それが想像の上に止まるものであっても)「後悔」として詩に取り込まれていったかもしれませんが、詩人は一方で、詩の創作法としての「塀」については、これを壊すつもりはなかったのではないか、と思ってゐます。

 それが渡邊啓史氏が『十二月感泣集』を説明する際に着目した、詩の内容・構成において試みられた「対照」にも現れてゐるのではないでしょうか。渡邊氏は“「枠構造」を好む詩人”とも書いてをられますが、盆景からヒントを得たと謂はれるそのもとには、やはり四季派が着目し大切にしてきた「構造の上で詩が持つべき規制(プレッシャー)」を、どのように設けていったらよいのか、詩人独自の工夫が最後の詩集にも表れてゐるのだな。さう思ったことでした。

 詩人小山正孝は生涯に八冊の詩集を遺した。 第一第二詩集の孤独と鬱屈も、第三詩集の不安と恐怖の中の愛も、第四詩集の奇想、第五詩集の寓話的世界と第六詩集の沈鬱も、また第七詩集の平穏な日常も、それぞれの季節に於ける詩人内面の風景を映すものである。
 第八詩集には、これらの詩集に現われた主題を小さな模型として、随所に見出すことが出来る。その意味で、第八詩集は詩人内面の、さまざまな季節に於ける総ての風景を一望のもとに展望する庭園だろう。

『全詩集』の解題をものされた渡辺氏ならではの至言と感じ入りました。



併せて比留間一成氏の逝去(2018.3.4)に御冥福を祈り、立原道造の同人誌時代を個人誌「風の音」にて追跡して来られた若杉美智子さんの御恢復を祈念申し上げます。

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「感泣亭秋報」13号 目次 (2018 年11月発行)

特集Ⅰ 山崎剛太郎さんの100歳を寿ぐ
 山崎剛太郎(再録) 小山正孝4p
 花咲ける字幕の陰に 山崎剛太郎7p
 フランス文化の先達─山崎剛太郎さんの100歳を祝って 菅野昭正10p

  小説家、詩人そして翻訳家としての山崎剛太郎先生 神田明14p
 詩誌「午前」創刊と山崎剛太郎さんのこと 布川鴇17p
 憧れ続ける、ということ─山崎剛太郎さんの「詩的恋愛」について 青木由弥子21p
 隣村の剛太郎さん 木村妙子28p

談話:山崎剛太郎、語る─感泣亭での談話から 山崎剛太郎32p
作品:CATLEYA─ブルウスト幻想(再録) 山崎剛太郎44p
山崎剛太郎の出発 渡邊啓史47p

特集Ⅱ 詩集『山居乱信』を読み直す
 小山正孝詩篇「秒針」を読んで 高橋博夫52p
 詩集「山居乱信」にみる愛のかたち 小笠原眞54p
 『山居乱信 』再考 近藤晴彦60p

模型の詩集─詩集『十二月感泣集』のために 渡邊啓史69p
情熱の詩誌─第二次「山の樹」をめぐって 永島靖子103p
中学生と弘前高校生の小山正孝を想像する─太宰治にも触れて 相馬明文109p

感泣亭通信
 死線をこえて─近況 若杉美智子113p
 「かなぁ、というふうに」の危うさ 渡邊俊夫114p
 「東京四季」と小山正孝 瀧本寛子、116p
 復刊「四季」と「季」 舟山逸子118p
 軽井沢高原文庫 大藤敏行119p
 軽井沢の文学世界 塩川治子120p
 「小久保文庫」と「自在舎」 櫻井節123p
 田中克己の日記 中嶋康博124p

詩:突然ですが 山崎剛太郎126p
  海よ 大坂宏子128p
  冬の散歩 中原むいは131p
  雪を 里中智沙132p
  再訪 森永かず子134p

私の好きな小山正孝
 <悔い>を抱いた詩人への共感 藤田晴央136p
 いつも傍に置く詩 石井眞美138p

彼との関係─比留間一成集『博物界だよリ』(再録) 小山正孝139p

常子抄 絲りつ141p
坂口昌明の足跡を辿りて3 坂口杜実142p
鑑賞旅行覚え書3 恥の掻き寄席 武田ミモザ156p

小山正孝の周辺7─穏田時代の小山正孝 蓜島亘158p
感泣亭アーカイブズ便り 小山正見173p (雑誌についての連絡先moyammasamia@gmail.com)

【くづし字の解読と訓読】

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年11月 8日(木)13時52分43秒
編集済
  現 在、江戸後期の大垣漢詩人の草稿紹介に関り取り組んでをります『地下十二友詩』の序文ですが、これ以上の解読進展せず、音を上げてをりました。
くずし字と訓読につき、ひろく訂正の御指摘・御教示を仰ぐことといたしましたが、このたび斯界の碩学より有難いご教示を賜りましたので、まづは御報告の上さきの依頼を撤回させていただきます。

※以下にこのコピーを取得するにあたって、原資料を所蔵する関西大学図書館へ提出した複写のための理由説明書を掲げます。


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小原鉄心が江馬細香たちと起こした詩社「咬菜社」。その同人および大垣藩内で、鉄心が詩の交りを訂した人々の姿を詩業から回顧しようとした『地下十二友詩』という未完の著書について、中村規一氏が『小原鉄心伝』(明治43年)のなかで記した条りは次の通りである。

「すなはち「起こすべからざるの友と一室中に会して、以て旧憾を慰む」との意より、野村藤陰、菱田海鴎とも謀って、江馬細香・菱田毅齋、戸田睡翁、鳥居研山、宇野南村等の詩稿を輯録して一々これが小伝を付し、市川東巌(藩の輯録方)をしてその肖像を画かしめ、一書をなし『地下十二友詩』を編せんとす。材料の蒐集、体裁上の統一、詩稿の校正、一に鉄心の主宰せる所なり。これに費やしたる苦心と努力とは、その関係書類のみを集めたる一書庫に見るをうべし。然るに故ありて出版を果たさず。材料も大半散佚したるは惜しむべし。」(『小原鉄心伝』33p)

このとき散逸したのは「材料」だけであったが、『地下十二友詩』の稿本自体は、その後『濃飛文教史』を執筆する際の参考文献として、著者伊藤信氏の有に帰し、「藤信」「竹東(伊藤氏の号)」の印を捺されたものが関西大学図書館に所蔵されている由である。

その12人の友のうち、蚤くに亡くなった大垣藩臣の河合東皋および木村寛齋の詩稿を、平成28年オークションに現れた際に落札した。さきに紀要『岐阜女子大学地域文化研究』34号にて紹介した戸田葆堂の日記『芸窓日録』と同じ出品者であった。

河合東皋の稿本は第二集、第三集といふ具合に本人手づからまとめあげられたもので誰の手も入って居ない未完詩集と呼んでよいものである。また木村寛齋の詩稿は幾編にも分かれており、それぞれに後藤松陰による批正と感想が記された添削指導版というべきものであった。尚且つ44才で亡くなった彼のために、十八(とし)歳が離れた若き鉄心が選詩し、謹飭な楷書で清書した『寛齋遺稿』一冊があり、 嘉永元年三月七日付で小野湖山の朱批が施されている。

鉄心が『地下十二友詩』のための資料収集を心掛けたのは、もちろん執筆を期して以後のことであったと思われるが、これらがそのための「材料」であった可能性は高い。『寛齋遺稿』が若き日の彼によって編集されていることは、藩内一の詩人であり有路の人でもあった小原鉄心のもとに、早くから好事家の遺文が集まり、また彼もそれを大切に保管してきたことを窺はせる。

ここに関西大学図書館に依頼して禁帯出資料『地下十二友詩(配置場所:総合図書館(特別文庫)請求記号:L23**900*612 資料ID:206577869)』について複写を取り寄せ、河合東皋、木村寛齋の項目に記載された小伝と収録詩を、他の「十二友」中の位置づけとともに調査確認することとした。


『詩人一戸謙三の軌跡』第8集
   投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年11月 8日(木)00時58分40秒 編集済
  津軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』の第8集の寄贈に与りました。

第八集 平成30年11月3日発行
第16篇 戦後(昭和30年前後)と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃Ⅱ (1952-1961) 1-120p
  1.続弘前での単身生活(昭和27年) (1)富田大野 (2)松上町への転居
  2.孫と母(昭和29年)(1)孫の誕生 (2)母の死
  3.退職(昭和31年) (1)弘前市立第一中学校(2)「一中生徒の歌」(3)一戸先生の想い出(4)昭和三十年度弘前市立第一中学校二年四組(5)「當用日記1955(昭和三十年の日記)」
  4.福士幸次郎詩碑除幕式(昭和32年) 特別稿「福士幸次郎の遺墨を巡って」(1)詩碑(2)詩碑除幕式(3)除幕式の人々(今官一・齋藤吉郎・平川カ)
  5.「連」(昭和13年から16年、34年) (1)「連」と一戸謙三(2)「連詩集椿の宮」(3)書評(4)一戸謙三詩集「椿の宮」出版を喜ぶ会
  6.青森県文化賞受賞(昭和35年)(1)授賞者の決定(2)授賞式
  7.弘前詩会(昭和34~36年)(1)弘前詩会と一戸謙三(2)詩会リーフレット(3)詩「習作」
おわりに 121-124p

著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11



今回は昭和27年から36年まで。
写真の数々にみとれてをります。詩人のお母さんはやはり美人だったこと。また当時の同僚・生徒たちが遺した印象記にも、詩人の人となりが、詩友からのものとは異なる教育者として髣髴してゐます。

(前略)勤めて数か月たったころ、初代校長先生が一戸謙三先生という詩人をつれて来た。我々の父親ぐらいの年配で、痩せて背が高く、いつも黒いマントを着て歩く飄々とした人物である。校長の話では、一中には勿体ない学識のある有名人だそうだ。年寄りだと思っていたら、卓球の試合でこっ酷く打ち負かされたことがあった。この先生が一中生徒の歌の作詞者であり、これに猪股徳一先生が作曲して、皆でいろんな場合に歌った。そしてやがて数年後、一中校歌となった。(後略)」 (『記念誌』「創立当時の思い出」九代校長 境辰五郎) 

教へ子を集めて「りら・そさえて」といふ文芸研究会で『偽画』といふ雑誌を出してゐたとのことですが、『偽画』は(詩人が知ってゐたかどうか分かりませんが)、立原道造たちが一高時代に興した同人誌と同名ですし、インスパイアされたことを記してゐる「ぐろりあ・そさえて」は、戦時中に日本浪曼派関係の本を棟方志功の装釘でたくさん刊行してゐた出版社です。
斯様なネーミングを敢へて行ってゐるのは、言ってみれば戦時中は翼賛運動にコミットしなかった彼が(『聯』との絶縁理由もそこにあったのを今回知りましたが)、戦争が終はったら左翼になって威張るのではなく、むしろ今度は無念の死を遂げた先師福士幸次郎をフォローし(遺墨展・詩碑の周旋は主に彼の功による)、戦前抒情詩との縁を大切にするといふ、彼らしい確固たる中庸の態度を、図らずも示してゐるもののやうな気がしたことです。もちろん八戸の村次郎の「あのなっす・そさえて」といふネーミングも念頭にあったでしょう。

連詩へ傾倒を深めてゐた当時、現代詩なるものとの対決すべく、

「その昔みたいに大いに論争(昭和10年、津軽方言論争)をやりたくなる。」

と意気込みを書き記している条りも面白く、と同時に、

「彼らの作品を、わたしの仕事とならべてみると、わたしはもはや古色蒼然たるものがある。」

と白状してゐるところは、その昔のライバルたる「プロレタリア詩」が脆弱な思想性をよりどころにしてゐて負ける気がしなかったのと違ひ、この度のライバル「現代詩」には戦後民主主義がバックについてをり、さすがに老いや、気おくれを感じさせます。
思ふに晩年の彼が連詩と並走して書きはじめたシュールレアリズム詩ですが、自覚的に時代精神と対峙してきた彼が、若き日に「索迷」で示したところの疾風怒涛的発揚によって書かれた詩作とは異なり、「若い者にはまだまだ負けんぞ」といふ、アプレゲールに伍せんとする気概が多分に感じられる作物だったのかもしれません。

一方では、自ら先鞭をつけた筈の方言詩の分野で、詩友高木恭造がマスコミジャーナリズムにとりあげられ、その分野の一人者になってゆく。
日記でも彼についての記述が増へてゆくらしいですが、もちろん喜ばしいことであるにせよ、複雑な心境も思ひやられました。

後半には福士幸次郎の遺墨展(併せて彼が応援した菊池仁康の選挙運動)のことや、詩碑の話題が収められています。
一戸謙三とおなじく福士幸次郎の弟子を自称した今官一ですが、何度も破門されたといふ先師について回想する彼と、その彼を評した謙三の言葉。
片や上京して人気作家となり、師と距離を置いた後輩。片や故郷に戻るも、ひき続き師礼を執り続けた先輩。
今官一が一戸謙三について書いた文章があったら読みたいところですが、二者の関係につき、高木恭造の場合同様、いろいろ忖度するところがありました。

そして最後に「連詩」のこと。
『一戸謙三詩集』には収録されていないので、書影とともに今回抄出された詩集『椿の宮』詩篇を興味深く拝読しました。

 秋風の碑

秋風の碑門とざす白菊の花
求めなく夕をひらけ

散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり

なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ 


戦時中の疎隔は措き、その刊行を祝って賛辞を寄せてくれた佐藤一英の一文も、東海地区の私にはうれしく、また出版記念会の写真に岐阜女子大学の国文学科教授であった相馬正一先生(退職後2013年没)や、田中克己先生の初期モダニズム時代の詩友である川村欽吾氏が映っていたことにも驚いたことです。


ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございました。



『詩人一戸謙三の軌跡』第七集

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 9月20日(木)19時54分56秒
  津 軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』第七集をお送りいただきました。
今回、「『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって」と題して、本サイト上に揚げた文章を裁ち直し加筆・編集したものを掲載して頂きました。
御遺族が編集される文集の一部として拙文が収められるに至ったことは、名誉にして嬉しく、追ってこちらにても公開する予定です。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『詩人一戸謙三の軌跡』 の、これまでの 軌跡。

第一集 平成28年11月3日発行
詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し (少年時代1917-1918)」  5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い 1923-1926)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い 1929-1931)」 77-104p

第二集 (1926-1943) 平成 29年4月25日発行
方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p

第三集 (1930-1934) 平成 29年8月18日発行
第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p

第四集 平成29年9月30日発行
第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 (1920-1922) 1-122p
  プロローグ
  1.出生地(石黒町上町)
  2.美濃半(長谷川菓子店)
  3.流転の頃
  4.闇五郎
  5.Sさん(佐藤タケ)
  6.黒石文壇と文芸の集い
  7.黒石高等小学校代用教員
  8.一葉の便り
  エピローグ

第五集 平成30年2月10日発行
第13篇 「東京」と詩人一戸謙三Ⅰ 慶応義塾大学医学部予科生の頃 (1918-1920) 1-106p
  1.東京と弘中生 一戸謙三
  2.慶応義塾大学医学部予科生 一戸謙三
  3.石坂洋次郎の浪人時代

第六集 平成30年6月23日発行
第14篇 「東京」と詩人一戸謙三Ⅱ 農商務省商務局商事課雇員の頃 (1922-1923) 1-106p
  1.農商務省商務局商事課雇員
  2.雇員の頃、詩作
  3.雇員の頃、周辺の人物
  4.再度の都落ち

第七集 平成30年9月15日発行
第15篇 敗戦前後と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃Ⅰ (1943-1945) 1-78p
  1.敗戦間際の詩篇と建物疎開
  2.敗戦後の詩篇と列車往来
  3.詩人の復興
  4.弘前での単身生活
『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって(中嶋康博) 79-92p
『自撰一戸謙三詩集』寄贈本の顛末(一戸 晃) 93-107p
おわりに 108-109p


重陽
   投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 9月 9日(日)16時51分50秒
  現 在翻刻着手中の、大垣藩臣河井東皐(1758 宝暦8年~1843 天保14年)の写本詩集から。


 重陽上養老山

雲裡登高古佛龕
境移盧岳藹烟嵐
飛流直逐青蓮跡
泛酒兼開黄菊潭
養老況逢佳節會
交歓何厭醴泉甘
休嘲狂態頻傾帽
風是龍山自澗南
         養老山南有龍峰※4

重陽、養老山に上る。

雲裡に登高すれば 古佛の龕
境は盧岳に移る 藹烟の嵐
飛流は直ちに逐ふ 青蓮の跡※1
酒に泛べるに兼て(前もって)開く 黄菊の潭※2
養老 況や佳節の會に逢はんとは
交歓 何ぞ厭はん醴泉の甘きを
嘲けるを休めよ 狂態 頻りに帽を傾けるを※3
風は是れ龍山 澗の南よりす

安永十年(1781)九月九日の作と思はれ、23歳の作です。

※1青蓮居士(李白)の詩「望廬山瀑布」の「飛流直下三千尺」を踏まへる。
※2酒に菊花弁をうかべた陶淵明を踏まへる。
※3龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事を踏まへる。
※4養老山南に地元僧龍峰が住んでゐた事に掛ける。



もひとり大垣藩臣の野村藤陰(1827 文政10年~1899 明治32年)の詩集から。
河井東皐からは随分後輩にあたる人ですが、こちらの宴は鉄心先輩が居ないもののメンバー豪華すぎ。
嘉永三年(1850)の作でしょうか。とすれば東皐と同じく23歳の作です。

重陽日
凉庭新宮翁、拙堂先生の為に都下名流を南禅寺順正書院に招く。先生携ふるに諸子を従行して往く。煥(藤陰)亦た陪す。
是日会する者。中嶋棕隠、梁川星巌、牧?齋(百峰)、紅蘭女史、池内陶所、牧野天嶺、佐渡精齋諸子也。 七律一章を賦して之を紀す。

不用登高望古関
且陪笑語共懽然
同時難遇文星聚
令節况逢晴景妍
烏帽白衣人雜坐
黄花緑酒客留連
龍山千古傳佳話
孰與風流今日筵

登高を用ゐず 古関を望むに
且く陪笑す 共に語りて懽然たり
同時に難ひ遇し 文星聚まる
令節 況んや晴景の妍(うつく)しきに逢はんとは
烏帽※白衣※ 人は雜坐し
黄花 緑酒 客は留連す
龍山 千古 佳話を伝へ
孰れか風流今日の筵を與にせん

※前述龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事と
※陶淵明が白衣の人より酒を送られた故事を踏まへる。


9月9日は重陽の節句ですが、新暦だとやはり七夕と同様霖雨にたたられますね。
本日美濃地方は曇天。旧暦の9月9日、今年は新暦10月17日とのことです。(写真は台風が来る前の長良川)
 
 

田中克己日記 1965

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 8月28日(火)03時24分33秒
編集済
  【田中克己文学館】に「田中克己日記 1965年」の 翻刻をupしました。

 最近ニュースで東京医科大の「差別入試」問題が炎上しましたが、運営が鷹揚だった昔の私立大学の内部事情など、当時の関係者の日記を覗けばいくらでも見てとれるやうに思ひます。
 田中先生の日記を翻刻しながら嬉しく思ったのは、そんな当時でも、お金には潔癖な様子が窺はれるところでした。
 しかしながらこの日記も昭和40年代に突入。関係者の多くが存命人物となるこれより先、個人情報を大幅に割愛してゆかうと考へてをります。御了解ください。

http://

 

大垣漢詩人展墓

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 8月27日(月)09時52分5秒
編集済
  現 在調査中資料に関り、大垣の先賢に御挨拶。午後は関西からみえた先生に就いて調査資料を陪観することが叶ひ眼福の至り。吾が古本狂時代の先輩コレクターとの面晤もはたして傾蓋故の如く誠に楽しい有意義な一日をすごしました。華渓寺の御住職ならびにむすびの地記念館の学芸員様にも深謝です。ありがたうございました。
 
 

『若い日に読んだ詩と詩人』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 8月10日(金)23時55分17秒
    amazon、そして拙サイトにもupした『日本近代詩の成立(2016南雲堂刊)』の書評ですが、著者の亀井俊介先生のお目に留まり、そのおかげだと思ひますが、このたび『若い日に読んだ詩と詩人』と いふ一冊のエッセイの御寄贈に与りました。おそらくこのやうな新刊があったことなど、どなたも御存じないでしょうし、今後も手に取ることはおろか目にすることもない本となるでしょう。なぜって奥付には信じられない発行部数が「限定21部」と印刷されてゐましたから。

 しかしながら、カバーこそ即席デザインですが(愛書家としてこれだけは残念でした)、A5版139pのコンテンツをしっかり印刷・製本されたこの本が、たった21冊しか造られなかったとはやっぱり信じられない。不審に思ひつつ早速「あとがき」に目を通すと、中身の文章7本のエッセイのいずれもが、亀井先生がアメリカに留学される前、東京大学大学院時代に友人と興した文芸同人誌『状況』『浪曼群盗』等に発表した、1958年当時の執筆にかかる“若書きエッセイ”をまとめたものであるということ。そして昨年まとめられた『亀井俊介オーラルヒストリー(2017 研究社刊)』の、謂はば余勢をかった副産物として、岐阜女子大学大学院で教鞭を執られた亀井先生をかこむ英米文学愛好サロンの人々により、その強力な要望に応へるかたちで作成されたプライベートプレス本であるらしいといふこと。
 本書のかうした成立事情、つまり超稀覯本ができた理由と、タイトルとなった「若い日に読んだ詩と詩人」の背景、当時の同人誌をめぐる興味深い懐旧譚とが「あとがき」に綴られてゐました。僅かに十数冊が届けられたと思しきそのうちに、ゼミ生でも教へ子でもなかった私を選んで頂いた幸せをかみしめた次第です。

 さて、であるならばです。さきの書き下ろしの大著『日本近代詩の成立』の冒頭で、亀井先生が日夏耿之介の『明治大正詩史』を引き合ひに出して述べられた若き日の詩観のこと、芸術派だけでなく難解な現代詩に対しても飽き足らぬ思いを詩作者として抱いておられたといふ当時の先生が、その時点のその立場で、 いったいどんな文章を実際に書いてをられたのか、これは興味深いことです。読みはじめて、前半の日本の抒情詩について論じられた部分、「立原道造」、「津村信夫」、そして四季派の末裔変種として戦後、発芽しただけで熄んでしまった「マチネ・ポエティク」を論じた3本に早速瞠目しました。

 例へば立原道造の項では、「僕はこのごろレトリックなしになりたい」との告白を「彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎない」と喝破。そして津村信夫については、西欧に夢見た物語から妻の在所を通じて日本の(信州の)物語に回帰してゆく過程で、語り部として「触媒のような存在になって」しまった詩人に対して食ひ足りなさを表明し、「たとえば堀辰雄が隠しもっているような果敢さはほとんどないといってよい」と言及。また彼が「自然、自然」と言ひながらも「自然美ということには大して関心を示さなかった」と、立原道造との差異を指摘された条り、などなど。

 「露骨な反感の表現は反省する」と回顧された「マチネ・ポエティク」論のなかで「生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだ」との詩観を開陳されてゐる亀井先生ですが、60年前の当時、新進気鋭だった同時代人、大岡信や田中清光といった人々が、これらのエッセイを読んだかどうかわかりません。ですが、私が詩を書き始めたころ、彼らの評論を通じて再確認することのできた、四季派と呼ばれる詩人たちの生理について、詩作者として悩み、進路を模索してをられた若き日の亀井先生が、同じく彼らの詩に魅力を認め、その問題点とともに探ってをられたといふこと。「自身の詩的態度の検証のために書いた」と仰言るエッセイに、それが、短くも的確に分かりやすく説明されてあることに吃驚しました。そして、これまで多くの関係論文を読んできた私ですが、半世紀以上前の創見に瞠目の思いを新たにし、この3エッセイを“若書き”だからという理由だけで、たった20人に供するだけでは、あまりにももったいないのではないかと思ったのでした。

 「四季・コギト・詩集ホームぺージ」という名前のサイトを開設し、四季派や日本浪曼派に括られそうな詩人たちの詩と詩集の紹介にいそしんできた私ですが、これまで立原道造・津村信夫(そして伊東静雄)といった中心人物については、あまりにも多くの論者によって分析的研究がなされてきたこともあって、生中なコメントを書くことが躊躇はれ、これまで正面からコメントすることを避けてきました。亀井先生のこれらの文章を、許諾を得て全文を紹介させて頂くことが出来たのは、まことに名誉なことで、これまで「四季」の名を冠しながら彼らに言及してこなかった拙サイトの正に両眼に点晴を得たやうな思ひもしてゐるところです。

 各原稿の転載を快く許諾くださった亀井俊介先生、そしてこの本を企画して作ってくださった犬飼誠先生、日比野実紀子さんに深甚の謝意を表します。ありがたうございました。
   
 

『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 3月28日(水)12時34分32秒
編集済
  こ の数日、この本の面白さにかかりきりでした。図書館で借りてきた『忘れられた詩人の伝記 -父・大木惇夫の軌跡』といふ本。

幼いころの優しかった父の思ひ出をなつかしむと同時に、母を貧乏と浮気で苦しめた“生きた詩人の現実” を、時に冷たく突き放して記録してをり、個々に下される作品評も、編集者らしい批評精神を以て、情や思想に左右されることのない客観性に貫かれてゐるのが印象的。わたくし的には大木惇夫は決して“忘れられた”感じはしませんが(さうならば、拙サイトで紹介してゐる詩人は全員“忘れられた詩人”ですね。 笑)、この詩人の略歴や、詩さへ全く知らないひとにも楽しく読める、とても面白い伝記です。すでにネット上には田村志津枝氏による、的確で申し分のない書評があがってゐました。

火山麓記2016-11-16 『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう
  http://jan3-12.hatenablog.com/entry/2016/11/16/105443

ここに私から付け加へるとするならば、大木惇夫は北原白秋の推輓で華々しくデビューした明治28年生れの抒情詩人ですが、「戦友別盃の歌」を始めとする多くの戦争詩を書いて戦後文壇から「戦争協力者」として指弾された、先師田中克己とは立場において通ふところのある詩人です。2男・3女(うち1男は夭折) という家族構成も同じながら、両親から「一度も叱られたことがなかった」といふのは、田中家とは随分ちがってゐるやうですが(汗)。本文中に先師の名は一度しか出てきませんが、同じく文士徴用に出された際に知り合った浅野晃とは親しく、『大木惇夫詩全集』の解題は保田與重郎が書いてゐます。

本書は、詩人の下世話な現実を叙したワクワクする部分を除けば(笑)、前半生では、激賞された北原白秋との出会ひを叙したシーン、そして中盤の戦争詩を書いた詩人に対する姿勢が素晴らしく、『詩全集』の解題を書いた保田與重郎に礼を執る是々非々のまなざしが清々しい。以下に抜いてみます。

嫌いではない雨が、この日は行く手を阻む敵意にも思えて、しぶきを蹴飛ばす感じで歩きに歩いた。(72ページ)

「読まない先から失望することが多くてね。頼まれた人の作品を見るのは苦痛なんだ。これ、と言うものには滅多に出会わないのでね。」(中略)
「いいねえ、君、素晴らしくいい。」(73ページ)

批判は痛く堪えたものの、かえってその厳しい苦言が激賞の真実味をも父に感じさせた。(74ページ)

曩日は知らず、目下の君はもはや砂中の金ではない。(中略)
一詩集の序文が(刊行に先立ち新聞紙上で) 4回連載で紹介されるなどと言う例はあるのだろうか。(84ページ)


国の存亡の時に遭遇し、熱く心に点火されるのも詩人であるし、石の沈黙を守るのも詩人なのだろう。 厭戦詩はあり得ても、反戦詩を書く土壌は父の内部にはなかった。(201ページ)

戦地で父は、われは詩人であるという、一代の矜持をもって、高揚にまかせて戦争を歌ったのだった。 自分を捨て、半ば生と死を往来しつつ、澄んだ詩境にあって歌ったのが「海原にありで歌へる」であった。その詩人の中に大いなる幼児がいたのであって、無垢な一介の幼児が詩人だったのではなかった。 (中略)
敗戦時の詩を読む限り、私には、苦しみを徹底して苦しまなかったところに、もっと言えば、苦しみを自分の内部において極限まで受容できなかったところに、父の詩の停滞があるように思わずにはいられないのである。(234ページ)

「懲らしめの後」の「懲らしめ」とは何なのだろうか。もしも、原爆の惨事を「懲らしめ」であると言うならば、その認識の欠如に私の心は蒼ざめるしかないのだ。(中略)
このような饒舌な言葉が虚しい「ヒロシマの歌」を書くのならば、詩人は暗い心を抱きつつ、沈黙の中で堪えるべきだっただろう。(270ページ)

父をどんなに意見をしていようと、外からの攻撃に対して、私は毛を逆立てて反撃する猛々しい猫のように変身する自分を知った。(322ページ)

保田氏は最後まで父の理解者として一途に詩人大木惇夫を守ってくださった希有な人であった。父が後に『大木惇夫詩全集』(全三巻)の全解題を保田與重郎氏に委ねるのは当然の選択であったろう。それについてはこれからの章で触れていかなければならないが、手紙に
「作中主人公を包む人生の好意にも大いに打たれました、どちらかと申すと茫洋としたこの世の人情に感動しました、罪の意識や苦の意識よりその方を感じをりました」
と書き送る保田氏の中に浪漫的精神の純粋性をあらためて知らされる。父と保田氏の深い関わりを考えるならば、父の人生や仕事にまつわる不遇や不運もいくらか埋められそうな気がする。(333ページ)

その日印象的だったのは、奈良から来られ、スピーチをされた保田與重郎氏の渋い和服姿、麻の羽織袴姿の格好よさであった。父に紹介され、私は氏の立ち姿の端麗さに見とれてしまった。(392ページ)

それでは、「詩全集」全巻を通して「解題」を描いた保田與重郎氏の大木惇夫論をたどってみよう。 (423ページ)

この人は評論によって陶酔を与える稀な才を持っている。少なくとも、第一巻に関してはそう言える。
父の詩集「海原にありで歌へる」は、「大東亜戦争の真実」を知らせるためのものではない。自らが投げ込まれた「戦場での真実」を歌ってはいるが、大東亜共栄圏を理想とする「大東亜戦争の真実」を歌ったものではなかった。
「海原にありで歌へる」は半分死を体験した生身の人間が歌う戦場の悲劇である。それゆえに、いつも傍に死を実感する兵士たちは心を動かされたのだろう。(中略)
どうやら、保田氏のペンがある自縛に包まれてしまうのは、「大東亜戦争」に対した時のようだ。激烈な文章のようでいて、結論を探してはずむ躍動感が見られない。第一巻の詩論との差異は歴然としている。(424ページ)

したがって、父が受けた保田與重郎氏の共感は、大きな恩寵には違いないが、その恩寵の影にかすかな不幸が潜んでいたようにも思える。保田氏の純粋一徹な気質や張り詰めた美意識、さらには、美を描いてさえ滲み出るあの殺気もまた「悲劇」を想像させる。(427ページ) 



著者の宮田毬栄氏は大木惇夫の実の娘で元中央公論社編集者です。この本は時代と恋愛とに翻弄された多情多感な一詩人の伝記であるとともに、中盤以降、著者自身の自伝として、その時々の父親の姿と絡みながら並走してゆくさまも面白い読み物となってをり、かなり分厚く高価な本ですが、叙述の妙にグイグイ引き込まれてしまひました(おかげで喪中のひとときを有意義にすごすことができました)。読売文学賞を受賞した本なので、どこの図書館にもあると思います。機会がありましたらお手に取られることをおすすめします。
 

http://

 

評伝『保田與重郎』

  投稿者:中嶋康博   投稿日:2018年 1月 3日(水)16時23分59秒
編集済
  あ けましておめでたうございます。今年も宜しくお願ひを申し上げます。

旧臘、相模女子大学谷崎昭男先生より御先師の書き下ろし評伝『保田與重郎』(ミネルヴァ日本評伝選 2017年)の御恵投に与りました。ここにても新刊のお慶びを申し上げます。

冒頭に記された、「つとめて文学の言葉で保田與重郎についてしるしたい」との執筆趣意、文明批評家としてではなく文人として師の俤を伝へたいとの志は、かたちの上では、一息の長い独特の文体のなかに端的に、象徴的に顕れてゐます。
仮名遣ひも歴史的仮名遣ひに改められてをり、前著『花のなごり』(新学社刊1997年)にもまして與重郎大人の気息を体現する文章には、本書を手にされた皆さん一様に瞠目したところでありましょう。

そしてそれが形の上に留まるものでないことも、(評伝を書くには「直接そのひとを識ってゐるのとさうでないのでは随分と相違すると思はれる」とありますが)、まさしく対象に直接師事した著者だからこそ描き得た血の通った事情が、見聞の無い期間についても確からしさを伴ひ、伝はってくる一冊でした。

戦後、高村光太郎に宛てた原稿依頼の手紙や、生田耕作の回想中に記された“戦犯保田與重郎”に対する桑原武雄の見苦しい振舞ひなど、全集未収録の新発見資料がさりげなく紹介され、仄聞するエピソードへの目配りも忘れない。贔屓の引き倒しにならぬやう、裏付けるべき事実をもって忖度の限り(先師の言動に異を唱へる際の著者の心映え)が尽された筆致の表情こそ、本書の一番の魅力ではないかと思はれたことでした。

ことにも前半生の(絶望的な)正義感と、後半生の(受忍といふべき)節操。ことごとしくいふなら左翼・右翼との関係の機微に属する真相について、保田與重郎から特別に寵愛せられたと任ずる著者がどのやうに「政治の言葉」でなく「文学の言葉」で書き留められたか。これは特段に関心を抱いて読んだ部分でしたが、抜き書きしたくなるやうな言辞が鏤められてゐて、一度ならず快哉を叫んだことでした。

「政治か文学か」、それが一大事とされた日である。しかし、政治へ行くか、文学をとるか、そのどちらかを択ぶのではなく、政治か文学かを問ふ、さういふ心情そのものの上に文学を位置させようとすることにしか、自身の良心を護る途はない。83p

現実に対して、追随する安易さも、そこから逃避する卑怯も保田のものでなく、向き合った現実と格闘しつつも、それとの共生を図らうとしたことに、時代への保田の良心といはれるべきものを見る私は、その点で、戦争を保田ほど十全に生きた文学者はゐなかったと思ふのである。163p 


全体を通じ“一評伝”を超えて訴へてくるものが感じられるのは、文学者がどのやうに戦争と向き合ってきたか、そして戦争責任をとるとはどういふことであるのか、といふ、戦後日本文壇が抱へ続けてきた大問題についてでしょう。本人からは言ふことを得なかった念ひを、著者がはっきりと代弁、回答してゐて、祖述者のまことの在り方を教へられた気がします。

そのうち「戦時中に書いた文章の一字一句を保田與重郎は決して改めなかった」といふのは戦争責任にまつはる具体的な一事。責任の取り方(受け止め方)の一斑が示されてゐるのですが、もちろん開き直りで改めなかったといふことではありません。

保田與重郎にとって「戦争責任をとる」とは、自分の文章を心の支へにして戦場に向かった若者たちに、最後まで向き合ひ寄りそふことでありました。勝者から押し付けられた「お前たちが一方的に起こした間違った戦争」といふ思想理念を、生き残った人間が無批判に押し戴いたり、無謀な大本営、野蛮な軍隊、卑怯な上官への怒りをぶつける為にそれを利用することでは決してあり得なかったといふことです。

思ふに正義感の発現とは、傲慢に抗してなされるか、ずるさを軽蔑してなされるか、或ひは欲念からの達観へとむかふのか、それにより左翼にも右翼にも宗教者にも転じ得ると私は思ってゐます。それはまた時代相や、出自・トラウマによって、決定されるところでありましょう。一方で、気質において愛憎の激しい人間は身を誤りやすい。

本書でも論はれてゐますが、戦後“日本浪曼派一党”に対して放たれた批判、ことにも杉浦明平による感情をむき出しにした悪罵は、真偽のみならず表現としても正義の鉄椎と呼ぶに当たらず、彼自身これを若気の至りと訂正することもありませんでしたが、文学者の戦争責任が、報道者(ジャーナリスト)の戦争責任、つまり政治的裁定とは自ら異なるものでなければならなかったことを著者は訴へ、そして保田與重郎ほどそれを日常坐臥の上に示して生きた文学者は居なかったと、本書のなかで繰り返し語ってゐるのです。

「そんなことは言はんでも分かるやらう」と保田與重郎が収めてしまふところを、杉浦明平は「それは敢へて言ひ続けていかなきゃいかんことだらう」と怒り続けた。
無念に死んだ人のために生き残った者がしなくてはならなかったこととは何だったのか。それが死者に寄り添ふことであらうと、死者に代って復讐することであらうと、これから生きてゆく人たちに対して、身を正さしめるために、生き残った者自らが生活を律して生きてゆくことを見せることには違ひありません。

保田與重郎は、さうして杉浦明平も自分(の身)を勘定に入れずに自分(の志)を大切にして、それぞれの節を全うした人生を送ったやうに、私には観ぜられます。しかしながら彼等とその世代が退場した今日、日本人はどのやうに変貌してしまったか。

保守を任じながら環境よりも経済優先の国家経営に余念がない政府のもとで、まもなく日本が戴くべき御代は革められようとしてゐます。隠遁者、もっとはっきり謂ふなら遺民として生きた保田與重郎が願ったのは、国柄を基にした独自の宗教的自然観を、一人でも多くの日本人が守り続けていってくれることだったのではないでしょうか。

本書には、ひとりの文士が大戦争の時代を生き永らへ、やがて最後の文人として崇められるに至ったいきさつの全てが、弟子にして知己である一番の理解者によって書き綴られてゐます。さきの吉見良三氏による評伝『空ニモ書カン』(淡交社刊1998年)とあはせて一読をお勧めします。


追而:
年末に石井頼子様より、棟方志功のカレンダー、および「棟方志功と柳宗悦」展の御案内をお贈り頂きました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

本書にも棟方志功、および彼ら民芸運動の主導者たちとの交流を描いた興味深い記事がみられますが、保田與重郎の昭和18年「年頭謹記」を彫った棟方志功の板画が“不敬”の理由で国画会展から撤去された一件については、「要するに、その筋において保田が危険な人物と目された、その累が棟方志功に及んだ」と説明されてゐます。
何の反政府的なことを書かなくとも「今ある生命の現在に対する絶大な自信と確信」を表はした戦争末期の彼の心の拠り所、つまり「人事を尽して天命を待つ」ではなく「天命に安んじて人事を尽せばよい」との悠々たる態度から、当局(その筋)は“危険な人物”の非協力的態度を嗅ぎとらうとする。同じ態度が進駐軍の審問者には古い大和の貴族に映ったさうですから、思へばこれもまた、日本人にとっての文学者の戦争責任といふものについて、思ひめぐらさされる場面でもありました。

追而その2:
本書ですが、大阪高校時代のストライキの一件では、先師田中克己の日記『夜光雲』にも言及して頂き、そのため私ごとき末輩にも貴重な一冊が恵与されたことと思しいのですが、礼状を書きかけのままお送りしたことが判り赤面してをります。ここにても、あらためての御礼かたがた御詫びを申し上げます。

も どる