宮田佳子(みやたよしこ)氏が今夏7月21日、御自宅にて老衰で亡くなられてゐた由(87歳)、喪中はがきにて知り、本日御仏前へ焼香に上りました。
昨年は、翻刻成った戸田葆逸の日記抜刷をお送りしたところ、御実家の菩提寺である大垣全昌寺に働きかけて下さり、御住職より戸田葆逸の墓碑につき御教示をいただいたのでありましたが(野村藤陰の娘婿である戸田鋭之助の次男の嬢が佳子氏)、御子息の話により、御病気で長患ひをされたのではなかった由を伺ひ、吾が母とひきくらべせめても心なでおろして帰って来た次第です。
思へば漢詩に関心を持ち始めた2003年の末、職場の図書館に、江戸後期の地元漢詩人である宮田嘯臺の詩集
『看雲栖詩稿』の復
刻本が寄贈されてあったことから、発行元の御自宅にお便り差し上げのが最初にして、快く在庫を賜ったばかりでなく、以後、嫁ぎ先である宮田家(旧造り酒屋で加納宿脇本陣)に、江戸時代から保管されてゐる「維禎さま(嘯臺翁)」の遺墨類を、たびたび拝見させて頂き、また撮影もさせて頂き、写真を拙サイト上にて公開させて頂いてきたのでありました。
毎度伺ふごとに昔の詩人の紹介に執心する私のことを「若いのに物好きな」と微笑みながら、長話に興じて下さった佳子様でしたが、御自身もまた地元に伝はる狂俳を解読する文芸サークルに所属し、奇特な我がライフワークに対しては応援の声を惜しまれませんでした。
穏やかな物腰の中に旧家の余香を凜と漂はせられた居住まひが忘れられません。
このたび御遺族には、画像公開許可とともに、岐阜県図書館、岐阜市歴史博物館に寄贈・寄託された資料を閲覧したい際には、紹介のお口添えについても引き続いて頂けるとのことにて、寔にありがたく存じます。
現在進めてゐる大垣漢詩人の資料公開事業が了り次第、これら未整理のものを含む資料群についても、
精査・考察ができればと考へてをります。
あらためてこの場にても佳子様のご冥福をお祈り申し上げます。
さて佳子様の曽祖父、野村藤陰については、珍しくオークションに詩稿が現れたので、合はせ紹介いたします。
「正」を乞うてゐるのは(小原鉄心と共に師と仰いだ)齋藤拙堂なのでしょうが、朱筆が入ってをらず、遺稿詩集に収められたものとも殆ど変りがないので、或ひは藤陰本人の許から流出した草稿であるかもしれません。
四月三日、湘夢書屋(江馬細香宅)雨集。長州の山縣世衡(宍戸?:たまき)、高木致遠、阿州加茂、
永郷越前、大郷百穀及び我が加納の青木叔恭と邂逅す。世衡、時に蝦夷より帰る。故に句、之に及ぶ。
霪霖幾日掩柴關。霪霖、幾日柴關を掩ふ。
忽熹高堂陪衆賢。忽ち熹(よろこ)ぶ。高堂、衆賢に陪するを。
今雨相逢如旧雨。今雨(新知)相逢ふ、旧雨(旧友)の如し。
吟筵只恨即離筵。吟筵ただ恨む。即ち離筵するを。
筆鋒揮去紙還響。筆鋒、揮ひ去って紙また響き。
蠻態談來語亦羶。蠻態、談來って語また羶(なまぐさ)し。
此會僻郷知?数。此の會、僻郷にしてしばしばするは難きを知る。
不妨詩酒共流連。妨げず、詩酒ともに流連するを。
正(批正を乞ふの謂) 藤陰 生 未定(稿)