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梁川星巌 『西征詩 星巌乙集』
(せいせいし せいがんおつしゅう)
上下2冊 1828 文政11年刊行版, 1829 文政12年刊行版(1月刷,4月刷,5月刷)
【上】
文政12年5月刷版上冊見返し 日野資愛序1
文政12年5月刷版上冊日野資愛序2
文政12年5月刷版上冊日野資愛序3
文政12年5月刷版上冊日野資愛序4
文政12年5月刷版上冊頼山陽序1 文政12年1月刷版上冊見返し 頼山陽序1 文政11年刊行版上冊見返し 頼山陽序1
文政12年5月刷版上冊頼山陽序2 文政12年1月刷版上冊頼山陽序2 文政11年刊行版上冊頼山陽序2
文政12年5月刷版上冊頼山陽序3 文政12年1月刷版上冊頼山陽序3 文政11年刊行版上冊頼山陽序3
文政12年5月刷版上冊頼山陽序4 文政12年1月刷版上冊頼山陽序4 文政11年刊行版上冊頼山陽序4
序
鎮西の山、遠くして之を望めば数点、天外に在るが如し。而るに往きて就けば則ち隔絶の者馬関(下関)の一衣帯水のみ。鳴呼、是れ即ち以て公図の詩に喩ふべし。公図の詩、神遠く韻高く、
迥(はるか)に凡境と別つ。而して人々の意ふ所を謂って、必ずしも人と遠きには非ず。争ふ所は尺寸の間に在り、人自ら学ぶ能はざる耳。然れども功を用ふること専らに、
力を得ること深きに非ざれば、焉(ここ)に造り(いたり)て之を久しうする能はざる耳。吾、海内に「詩」を以て家に名づくる者を観ること多し矣。
或は儇佻(けんちょう:すばやい)自ら喜んで面目鄙近、(それを)否とするならば則ち粗険にして硬率、人の心脾に入るに足らず。能く此の二病を除く者、独り公図のみ。公図は清羸、
詩を嗜むこと命の如し。其の婦も亦、吟を解し、夫妻相携へて書を嚢(ふくろ)にし、筆を橐(ふくろ)にし、偏ねく西南の山水に遊ぶ。意に適すれば輙ち留滞し、古人の一集、
意に可在る者を獲れば枕籍して之を読む。婦の餐を報じ衣を添ふるも顧みず。其の自ら為(つく)るに及べば、則ち古の歩趨を諳んじ、而して会するに己の神理を以てし、
吚[口憂](いゆう:苦吟して)終夕、輙く(たやすく)筆を下さず。険題難題と雖も、出すに平穏を以てし、愈々錬って愈々平、雋永(せんえい:滋味)を期す。淺噪、
名を噉ふ(くらふ)者の能く弁ずる所に非ず。能く時調に異なる所以なり。公図少く(わかく)して関左(江戸)の名彦と周旋し、又、西州の諸耆宿に歴抵し、
終に清客と相唱和するに至る。其の心、試に服閲する者幾人ぞや。顧るに余を以て相ひ質証すべき者と為す也。近ごろ西遊作る所を収拾し、評して之に序せんことを請ふ。余、篝燈夜読、
会心に逢ふ毎に、筆を戛して(たたいて)「妙」と称す。妻児、睡る者皆起く、葢し余の言はんと欲する所にして未だ言はざりし者、公図之を尽くせり。余、亦曽て西筑豊に遊び、
二肥薩隅を渉り、諸を(これを)奇秀の境に観る。公図に比すれば較(やや)闊くして且多し。然れども親を念ひ家を思ひ、牽掣せらる所多く、悉くは其の勝を領する能はず。
之を公図の家を挈げて(ひっさげて行き、徜徉(しょうよう:さまよふ)留止する者に視れば、間有り矣。猶ほ余の詩を攻むる、公図の専らにして且つ深く久しきには如かざる也。
特に夫(か)の足、未だ赤馬を踰えざる者には愈(まさ)れる耳。公図請ひて余も拒まざる所以なり。(原漢文)
山陽外史頼襄撰
文政12年5月刷版上冊長崎図 文政12年1月刷版上冊長崎図 文政11年刊行版上冊長崎図なし
文政12年5月刷版上冊菅茶山序 文政12年1月刷版上冊菅茶山序 文政11年刊行版上冊長崎図なし
文政12年5月刷版上冊内題 文政12年1月刷版上冊内題 文政11年刊行版上冊内題6
文政12年5月刷版上冊テキスト12 以下同じ 以下は該当サイトにて
文政12年5月刷版上冊テキスト13
文政12年5月刷版上冊テキスト14
文政12年5月刷版上冊テキスト15
文政12年5月刷版上冊テキスト16
文政12年5月刷版上冊テキスト17
文政12年5月刷版上冊テキスト18
文政12年5月刷版上冊テキスト19
文政12年5月刷版上冊テキスト20
文政12年5月刷版上冊テキスト21
文政12年5月刷版上冊テキスト22
文政12年5月刷版上冊テキスト23
文政12年5月刷版上冊テキスト24
文政12年5月刷版上冊テキスト25
文政12年5月刷版上冊テキスト26
文政12年5月刷版上冊テキスト27
文政12年5月刷版上冊テキスト28
文政12年5月刷版上冊テキスト29
文政12年5月刷版上冊テキスト30
文政12年5月刷版上冊テキスト31
文政12年5月刷版上冊テキスト32
文政12年5月刷版上冊テキスト33
文政12年5月刷版上冊テキスト34
文政12年5月刷版上冊テキスト35
文政12年5月刷版上冊テキスト36
文政12年5月刷版上冊テキスト37
文政12年5月刷版上冊テキスト38
文政12年5月刷版上冊テキスト39
文政12年5月刷版上冊テキスト40
文政12年5月刷版上冊テキスト41
文政12年5月刷版上冊 朱翊平跋(朱柳橋 序 浙江當湖の人) 文政12年1月刷版上冊朱翊平跋
古今来、詩を以て自ら其の家に名づける者衆(おほ)し。而して究(つひ)に李[白]杜[甫]二公を以て之が首称[一番]と為す。けだし青蓮[李白]は天才超特、少陵[杜甫]は宏通淹貫、
しかのみならず跋渉千里、並びに江山の助けを得る者多し。故に篇什よく古今に冠絶するなり。
茲に梁君公図、日の出る処に生まれ天資霊敏またよく被襆[服を包み]遠遊、風に航し雲に梯す。むべなりその吐属[措辞]清雋[俊]にして調べの古人に近きや、
西征詩冊を以て余に示す。余、久しく筆硯を抛り何ぞよく高深を窺見せん。第(た)だ葑菲の棄てられざること[※]を承(たす)けて、ここに客邸において展き誦してしばしば過ごす。遂に俚諺[拙言]を[巻]尾に綴らんか。
梁君、才高く学深し、況や春秋富む。即ち必ず詩境、年と倶に進み得る所あに是に止まらんや。
道光四年[文政7年1824]秋八月 浙江 朱翊平 君氏に属(しょく:付)して謹みて跋す。
※「葑菲」は、詩経國風に「葑を采り菲を采る。下體を以てすること無かれ」とあり、かぶらの味が時期により不味いからといって、
付いてゐる菜葉まで棄てるな。自分の不才ゆゑに星巌の詩まで疑ってくれるな。の謂。
文政12年5月刷版上冊最終頁 文政12年1月刷版上冊最終頁 文政11年版上冊最終頁
文政12年5月刷版上冊裏表紙
文政12年1月刷版上冊裏表紙 文政11年版上冊裏表紙
【下】
文政12年5月刷版下冊表紙
文政12年5月刷版下冊テキスト下1
文政12年5月刷版下冊テキスト下2
文政12年5月刷版下冊テキスト下3
文政12年5月刷版下冊テキスト下4
文政12年5月刷版下冊テキスト下5
文政12年5月刷版下冊テキスト下6
文政12年5月刷版下冊テキスト下7
文政12年5月刷版下冊テキスト下8
文政12年5月刷版下冊テキスト下9
文政12年5月刷版下冊テキスト下10
文政12年5月刷版下冊テキスト下11
文政12年5月刷版下冊テキスト下12
文政12年5月刷版下冊テキスト下13
文政12年5月刷版下冊テキスト下14
文政12年5月刷版下冊テキスト下15
文政12年5月刷版下冊テキスト下16
文政12年5月刷版下冊テキスト下17
文政12年5月刷版下冊テキスト下18
文政12年5月刷版下冊テキスト下19
文政12年5月刷版下冊テキスト下20
文政12年5月刷版下冊テキスト下21
文政12年5月刷版下冊テキスト下22
文政12年5月刷版下冊テキスト下23
文政12年5月刷版下冊テキスト下24
文政12年5月刷版下冊テキスト下25
文政12年5月刷版下冊テキスト下26
文政12年5月刷版下冊テキスト下27
文政12年5月刷版下冊テキスト下28
文政12年5月刷版下冊テキスト下29
文政12年5月刷版下冊テキスト下30
文政12年5月刷版下冊テキスト下31
文政12年5月刷版下冊テキスト下32
文政12年5月刷版下冊テキスト下33
文政12年5月刷版下冊テキスト下34
文政12年5月刷版下冊テキスト下35
文政12年5月刷版下冊テキスト下36
跋 吉村秋陽(1797〜1866)三原藩儒
文政12年5月刷版下冊吉村秋陽跋1 文政12年1月刷版下冊吉村秋陽跋1
文政12年5月刷版下冊吉村秋陽跋2 奥付 文政12年1月刷版下冊吉村秋陽跋2 奥付
文政12年5月刷版下冊裏表紙 文政12年1月刷版下冊裏表紙
梁川星巌の処女詩集
詩に一徹、詩集の他に著書を遺さなかった梁川星巌ですが、詩人としての出発は、初めて江戸へ修行に赴いた際に、吉原で放蕩して大いにしくじってをります。有名な話ですが、天才少年として山本北山門下の高足(市河寛斎、柏木如亭、大窪詩仏、菊池五山ら)に可愛がられたその頃の作品は、時流の宋詩(清新性霊派)の影響下にあり、浮薄なものであったと反省し、生活を清算したのと同様に全て処分され、「詩禪」といふ神妙な号を称へて故里に帰郷して、再起を図ったのでした。
さうして結婚し、号も「星巌」と改め、面目を一新した詩を以て再び詩嚢を肥やした彼は、妻紅蘭を伴ひ文政5年から9年にかけて九州にまで及んだ長期旅行によって世間的にも名が通り、文政期の終りには満を持して詩集を出版すべき「ブレイク寸前」の位置にあったのでした。
しかし詩集を企画編集した広島の玉香園主人、加藤淵(加藤香園)が中で記してゐるやうに、詩稿はすでに「甲・乙…」と、時期ごとにまとめられてゐたものの、印刷に付されたのは最初に作られた「甲集」ではなく、長期旅行の成果である「乙集」であり、これが『西征詩』と名づけられて彼の処女詩集となったのであります。
詩壇を意識した戦略的配慮といふべきか、先づこの一冊が出て、日本最初の新婚旅行とも言はれる西国“駱駝”漫遊の全貌が明らかとなったのであり、全国の詩人たちの目に触れることで「官に仕へぬ自由詩人」の印象は決定づけられたのでした。
先生、曩日に著す所『東衆遊学詩』二巻、『畊雲詩』一巻有り。門人服生萬、嘗て之を合編し『星巌甲集』と曰ふ。
淵、今『西征詩』を緝めて乃ち題して『星巌乙集』と曰ふ。而して先生の腹笥、呈する所、典實 ※典雅平實紙に満つ。
余が寡陋の如き、毎に剌目を苦しめ、校閲の際を回して、事は険易と無く随いて箋解を加へ、以て[流]覧(※瀏覧)の便にす。
遂に請うて刻に上すも『甲集』の如きの校刻は未だ暇有らず、他日を待つと云ふ。
文政十一季 戊子嘉平月(※12月) 安芸藤淵謹識
「未だ暇有らず」とありますが、第二詩集も「甲集」ではなく「丙集・丁集」が『星巌絶句刪』といふタイトルで天保6年に刊行され、一番初期の作品群である「甲集」が日の目を見たのは後年、天保12年に集成された『星巌集』(甲集・乙集・丙集・丁集・閏集・『紅蘭小集』]6冊本)においてでありました。その際に『西征詩』も『星巌絶句刪』も、手を入れた決定稿が「乙集」「丙集」「丁集」として再び収められたといふ訳であります。
『西征詩』については過去に『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノートの【11】に少し書いてをりますが、計画はもう2年も前から、すなはち旅の終了から間もなく企画は持ち上がってをり、当初は太田錦城の序文が予定されてゐたとか。
実はこの元版である原本を2008年に入手してより、2015年に下冊の端本を、そしてこのたび2018年に再び上下2冊本を入手しました。
刊行年月ほか、今回それらの書誌について判明したところを記してみたいと思ひます。
全ての本に共通して、見返しに刷られてゐる発兌元の広島「奎曄閣」といふのは、奥付にみえる米屋兵助のことで、同じく奥付に列記された京都の積書堂(吉田屋治兵衛)と謀って『文政十七家絶句』といふ、
この手のアンソロジーものの嚆矢となる絶句集を、このとき一緒に出版してゐます。『文政十七家絶句』の末尾に挿入された広告「廣島書林奎曄閣蔵版書目」には、「王香主人稿注。巻主,王百谷画宗,崎嶴(※長崎)図」として『梁星嵒先生西征詩』の宣伝が掲げられてゐるのをみることができます。
詩集を輯注したのはさきに記した加藤淵(加藤香園)ですが、校字(校正)を行った「美濃 服参生萬」は服部笙岳名は参、字は生萬、養老町高田の人)で文政四年の『美濃風雅』にも名がみえます。星巌の門人といふことですが、「白鷗社集会図」にても、星巌の背ろに控へた風貌は「長面にして晢、簡静にして競ふ無きが者」と紹介されてをります。
さて手元にある三種類の冊子のそれぞれの奥付刊記には、文政己丑(12年)の「夏五月発行」「夏五月発行」「春正月発行」と記されてゐます。今回入手した「春正月発行」のものが一番早い刷ですが、「夏五月」の二種も、外装が異なり、
詳しく較べたところ、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、微妙に版の異ってゐる部分があることも分かりました。罫線のかすれ具合から端本の方が古いものであるらしい。
『西征詩』については他にも、上冊見返しに「夏四月刊成」とある端本一冊が、福岡大学図書館の蔵書として、写真がweb公開されてをり、
岐阜県図書館には、上冊見返しに「夏四月刊成」、下冊奥付には「夏五月発行」とある(入れ本とは思はれない)上下セット本が所蔵されてゐることも確認できました。
「夏五月発行」と「春正月発行」との、内容的な違ひはハッキリしてをり、巻頭に日野資愛の序文が有るか無いか、そして山陽の序文が本人の筆であるかどうかです。
更に最近のことですが、web上に、「春正月発行」と外装を同じくするものの、お茶の水女子大図書館の蔵書として、
内題も本文内容も文字型(font)までも異なり、見返し刊記には前年である「文政戊子(11年)新雕」と印された槧本の全画像(一冊[一巻・二巻] 奥付無し)が公開されてゐることを発見しました。
金森匏庵宛書簡(※下記参照)により12月に刊行されたものと思はれますが、他の版本と較べて多くの異同が認められるこの本が、おそらく『西征詩』の一番最初の版ではなかったかと思はれるのです。
思ふに梁川星巌の処女詩集『西征集』は、頼山陽の自筆序文を掲げた『星巌道人西征詩』が先づ文政11年12月に現れ(題籤には「上冊」とあるが一冊だった可能性もあり)、翌12年1月に、江雲閣ら清人の評言を省いて大幅に改めた内容を、小田海僊の描く長崎図を付して二冊ものとして再刻、
その後、首尾よく公卿日野資愛(ひのすけなる)の序文を得ることに成功した4月には、山陽の自筆序文を新たに萩原秋巌(古梁漁人原翬)に清書させ、発売先に津も加へたものを「決定版」として刊行した。また外装を改め、星巌「乙」集であることを前面に示したものも刷ることになったのではないか。そのやうに思はれるのであります。
星巌が地元の村瀬藤城へあてた手紙の消息にも、さうした経緯を窺ふことが出来ます。すでに刊行されてゐる本について「彼是延引」と書いたのは、初めての詩集を故郷の詩友にお披露目するのに、皆が師と仰ぐ頼山陽の序文に加へ、貴顕の序文を戴いた箔の付いた「決定版」を配りたかったからに違ひありません。
『西征詩』は当正月に彫刻落成仕り候へども、日野公序文を賜り候に付き、かれこれ延引に及び申し侯。製本近々に出来、鴎社諸兄弟へ分配仕るべく侯。右出来次第に小生、直に老兄方へ拝趨し、その節は先達ての書画幅および諸算清を還し仕つるべく侯。(梁川星巌の村瀬藤城宛書翰 文政12年閏6月13日)
ここでもう一度、何種類もある『征西詩』の異動についてまとめてみます。
[表紙色]と「題籤」 |
上冊見返し |
上冊 |
上冊内題 |
下冊 |
下冊奥付 |
所蔵 |
[黄土色] 「西征詩 上冊」 |
文政戊子(11年)新雕 星巌梁先生著 西征詩 奎曄閣発兌 |
頼山陽 序(本人筆) |
星巌道人西征詩巻之一 安芸 葛淵璇淵 摘注 美濃 服參生萬 篹輯 |
欠 |
欠 |
お茶の水女子大図書館所蔵 |
[黄土色] 「西征詩 上冊」 [黄土色] 「西征詩 下冊」 |
星巌乙集 西征詩 文政己丑(12年)春正月刊成 奎曄閣発兌 |
頼山陽 序(本人筆) 王海仙 画 長碕圖 菅茶山 序(古梁漁史原翬 筆) |
星巌乙集巻之一 星巌道人梁緯公圖撰 安芸 藤淵珠文 輯注 美濃 服参生萬 校字 |
六郷史氏安芸吉晉 跋 |
文政十二己丑年春正月発行 江戸 須原屋茂兵衛 大坂 河内屋茂兵衛 名古屋 永楽屋東四郎 廣島 米屋兵助 京都 吉田屋治兵衛 |
家蔵本 |
[不明] |
星巌乙集 西征詩 文政己丑(12年)夏四月刊成 奎曄閣発兌 |
不明 |
星巌乙集巻之一 星巌道人梁緯公圖撰 安芸 藤淵珠文 輯注 美濃 服参生萬 校字 |
欠 |
欠 |
福岡大学図書館所蔵 |
[黄土色] 「西征詩 下冊」 |
欠 |
欠 |
欠 |
六郷史氏安芸吉晉 跋 |
文政十二己丑年夏五月発行 江戸 須原屋茂兵衛 大坂 河内屋茂兵衛 名古屋 永楽屋東四郎 廣島 米屋兵助 津 美濃屋宗兵衛 京都 吉田屋治兵衛 |
家蔵本 |
[黄土色] 「西征詩 上冊」 [黄土色] 「西征詩 下冊」 |
星巌乙集 西征詩 文政己丑(12年)夏四月刊成 奎曄閣発兌 |
日野資愛 序(巻菱湖 筆) 頼山陽 序(古梁漁人原翬 筆) 王海仙 画 長碕圖 菅茶山 序(古梁漁史原翬 筆) |
星巌乙集巻之一 星巌道人梁緯公圖撰 安芸 藤淵珠文 輯注 美濃 服参生萬 校字 |
六郷史氏安芸吉晉 跋 |
文政十二己丑年夏五月発行 江戸 須原屋茂兵衛 大坂 河内屋茂兵衛 名古屋 永楽屋東四郎 廣島 米屋兵助 津 美濃屋宗兵衛 京都 吉田屋治兵衛 |
岐阜県図書館所蔵 |
[青色] 「西征詩 上冊」 [青色] 「西征詩 下冊」 |
星巌乙集 |
日野資愛 序(巻菱湖 筆) 頼山陽 序(古梁漁人原翬 筆) 王海仙 画 長碕圖 菅茶山 序(古梁漁史原翬 筆) |
星巌乙集巻之一 星巌道人梁緯公圖撰 安芸 藤淵珠文 輯注 美濃 服参生萬 校字 |
六郷史氏安芸吉晉 跋 |
文政十二己丑年夏五月発行 江戸 須原屋茂兵衛 大坂 河内屋茂兵衛 名古屋 永楽屋東四郎 廣島 米屋兵助 津 美濃屋宗兵衛 京都 吉田屋治兵衛 |
家蔵本 |
しかし梁川星巌の処女詩集が、広島から出されることになった経緯とは、どういふものだったのでしょう。さきの『文政十七家絶句』にも、星巌は山陽の後に並んで詩を紹介されてゐますが、頼山陽が序文を書いたのもこれが初めのことかもしれず、書肆との斡旋に彼が関ってゐたことは想像に難くありません。
山陽の厳父春水は既に文化13年に亡くなってゐましたが、甥の活躍を故郷で見守ってゐた杏坪叔父のもと三次の任地まで、頼山陽は京都からはるばる文政12年2月に訪ねてをります。
話題として与ったのは、一昨年に亡くなった菅茶山先生のことと共に、必ずや地元広島で刊行されたばかりの、これら山陽の名を刻した二冊の詩集『文政十七家絶句』『西征詩』のことであったと思はれるのであります。
【資料】 異版 文政十一戊子年十二月発行(お茶の水女子大図書館所蔵)
【資料】 異版 文政十二己丑年春正月発行(2018.8.25update)
【資料】 異版 文政十二己丑年夏四月刊成(福岡大学図書館所蔵)
【資料】 異版 文政十二己丑年夏四月刊成(見返し) 夏五月発行(奥付)(2018.9.1update)
見返しは4月なのに奥付は5月。
【資料】 異版 文政十二己丑年夏五月発行(2015.5.20update)
→
下冊のみの端本である。所蔵本と較べたところ、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、最初の4丁だけ微妙に版が異なる。
下冊異版 表紙
下冊異版テキスト1
下冊異版テキスト2
下冊異版テキスト3
下冊異版テキスト4
下冊異版 奥付
【資料】 処女詩集刊行をめぐって
【頼山陽 書翰】(文政10年閏6月24日)
西征詩序、太(はなはだ)逼迫せられ候へども、発靱期迫り、早く埒明き候て、上申す可くと、今朝以来、閣百事を束ね書き畢り候。文は「只君与吾」と云ふ様な処を、
少し泛然とする様に(ぼやかす様に)致し候。其外は、カクヨリ(斯くより)外致し方無き候。必竟(畢竟)田錦城(太田錦城)が序、アマリ筋骨を暴き候て、人の怒を招き入れ候より、
ビク付出し候事也。錦序ナカリセバ、拙序は、何も耳ざわりはなき也。よし、耳にさわり候ても、よき事也。八方の機嫌を取り候て、何処に名を成し身を樹てん乎。
たとへどの様に機嫌取り候ても、兄と名を争ふ者は、集のうれるはいやに存ず可きに候。八面に敵を受け候様に相成り候ても、拙は御身方に相成可く候。ほめ過にあらず、公論・定論、
を以て申し候也。浩然、御出し成さる可く候。今日雨晴れ候て、月峰へ参る可く、明日発靱とても、今日は閑暇なるべし。余は其の節に期す。草々
古詩は、只今拝見仕居候。明朝迄には、看畢り候也。(候文書き下し)
(文政十年)閏六(月)廿四日 星嵒様
【頼山陽 書翰】(文政10年閏8月)
未だ晴朗ならず、遊山之挙決し難き候。
私、詩之序、梓出来候ハバ、一閲仕り度く候。ウメ木(埋め木したい)の処もあり。今夕酔ザマシに参る可くとも存じ候。瓢明き(ひさご空き)候ハバ、此者に御附け下さる可く候。
いつかの杖頭(酒代)百銭も、ヨク覚テヲル奴、其儘に御返しなし。十五夕は必ず待ち奉り候。今夕も無月と相見へ候。(候文書き下し)
十三夕 山陽 星嵒様
【梁川星巌 書翰 金森匏庵宛】(文政11年12月12日)
峭寒御勝常奉賀侯。小生無事に勤業仕侯、御放念可被下候。扨て石之義、(郷里の)舎弟より、追々かけ合申侯処、先方にて申候は、大垣魚屋嘉兵衛(金森匏庵)より至て懇望にテ、 金三両より下にては、売り不申侯旨にて、初よりは、金壱両斗り価をあげ申侯故、舎弟も大に困り、小生方へ右之趣き申越侯。無拠右之価にて買取申侯。小生も買かけ申侯物故に、 三分や壱両之事は思はれず、右之段御推察季希上侯。来春は、先便に申上侯通り、伊賀に遊歴、帰途は必御地に向、曾根へかへり申侯。僅の石にて、交際に隙を生じ侯てはあし(悪)く、 石は来春迄、小生あづかり申置、何か様(いかさま)共可仕侯間、左右に御承知可被下侯。
○明史(『欽定明史(1739)』4帙40巻?)之義、急に御謀り之程奉希上侯、今年中に、小生方に参り申候様奉願上侯。
○珊瑚之義、急に御はからい奉願上侯、何卒急便に御返書奉願上侯。
○餘清斎法帖(王献之の摸刻)、御望も無御座侯ば、見せ本は御返し可被下侯。
○此間名硯出で申侯、価は金拾五両と申し候得共、此節之事、十両位には可仕侯。厚さ貳寸五分斗りにて、紫端溪、うらに眼三つ御座候。何分御返書急々奉願上侯。
○西征詩不殘出来申候。委曲は後便に付し申候。草々不喧
十二月十二日
緯上
煙漁老兄
【梁川星巌 書翰 村瀬藤城宛】(文政12年閏6月13日)
尊翰捧読、起居御勝常奉賀侯。小生無事ニ而、四月上旬に帰郷、早速に趨謁仕り、萬緒可申上存侯処、柳兄(神田柳渓)申候は、其にては却テ悪敷、先ツ我方より委曲を伝へ可申侯間、
上有知行は、延引可然トノ事に付、手帖も呈上不仕、今日に至り申侯也。如尊命萬事柳兄に預け可申侯間、左右に御承知可被下侯。小生は固より、不願寒盟候得共、先頃貴翰見読ニ付、
無拠疎遠に及申侯也。老兄に隔意無之儀ニ候は、小生は勿論に御座侯。依旧友誼は如龍如雲奉希侯。尊大人久病、定テ薬餌坐臥萬般老兄之一身ニ蒙り可申、御労心奉推察候。其労心ニ付、
老兄之病ヲ引出サヌ様ニ、御用心専一ニ奉祈侯。
○(石原)東隄より之刻詩料弐円金慥ニ落手仕侯、東隄之主意も、委細承知仕侯。
○林良画一巻、石摺数張、明詩抄本一冊、三品共ニ、慥ニ落手仕り侯。
○西征詩ハ、当正月ニ彫刻落成仕候得共、日野(資愛)公序文ヲ賜リ候ニ付、彼是延引ニ及申侯。製本近々ニ出来、鴎社諸兄弟へ分配可仕侯。右出来次第ニ、小生直ニ老兄方へ拝趨、其節先達テノ書画幅及諸算清還可仕侯。
小生此度ノ帰郷ハ、逗留僅ニ五七日之積リニ御座侯処、本家身上向之事ニ付、相談ニ加ハリ、発程大ニ延引仕侯。小生も頼翁及諸子之勧により、
聖護院之地面ニ一廛ヲ構へ可申ト、追々工夫を着け、当二月既ニ一決仕リ、幸ニ古家有之侯ニ付、地面共ニ買取可申様、引合相済申侯。此事老兄ニも相談可仕存侯得共、当春之御手帖に付、
見合申居候。此度ノ遊歴も、右之卜居一件ニ付、発程仕り侯。小生事東西走波已ニ年四十ニ余リ、昔之詩禅ニは無之、唯事業ニ耳心情ヲ寄セ申侯。
上京以来詩数百五六十首も可有之、近々抄写入電矚可申侯。書余は、帰一子ニ御聞可被下侯。草々頓首
(文政十二年)六月十三日
卯改名 緯 拝上
藤城吟兄盟 台下
御家内様方へよろしく、拙荊無事、是又宜敷申上候。
一 柳兄より承り申侯。元遺山集謄写出来、校合も相済み申侯之由、何卒拝借仕度奉希上侯。
一 丈太郎(長慶)義、江戸表朝川善庵江入塾仕り侯之由、此節申参り侯。当春以来、弘斎(菱湖)宅ニ逗留、今度ノ出火ニ類焼、丈太郎衣服等も、過半焼キ申侯トノ事ニ御座侯。
一 頼(山陽)翁も、当春奉北堂伊勢参宮ニ御座侯。兎角門人中之受あしく、困入申侯。
一 貫名(海屋)も東行、九月ハ帰京トノ事。○善助も依然トシテ、鼓琵琶居申候、詩文ハ大分上り申侯。
一 中島(棕陰)客冬大垣加納遊歴、大分評判御座侯。
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